風の軌跡:カルテ2(1/3)
風の軌跡ー風間俊介診療録ー:カルテ2「敵」(1/3)
家族性高コレステロール血症(けつしょう)、急性心筋梗塞、心室細動(さいどう)・・・。全く同じ疾患を発症した二人の若い患者。一人は社会復帰し、一人は脳死状態に・・・。二人の運命を分けたものは・・・。
*AM 5:32*
「DCもう一回だ!早く!」
「先生!チャージは?」
「200だ!」
高岡健太郎は心マッサージをしながら大声で叫んだ。 除細動器(じょさいどうき)の表示が200J(ジュール)まで上がり、ランプが点滅する。チャージ完了のアラーム音が鳴る。
「200!チャージできました!」
「よし!パドルをくれ!・・・いくぞ!離れて!」
除細動は患者が心室細動(VF:ventricular fibrillation)という状態になった時に行われる。
普段は規則的に拍動している心臓の筋肉(心筋)が細かく震えて血液を送り出すことができないのが心室細動だ。この状態が続けば脳をはじめとした全身の臓器に血液を供給できないので数分後には間違いなく死亡もしくは脳死状態になってしまう。
除細動を行うためには除細動器、通称DCと呼ばれる機械が必要である。除細動器のスイッチを入れ、放出する電力量を決定して充電した後、パドルと呼ばれる持ち手のついた金属の板を患者の胸にあてる。心臓を挟むように右上胸部と左側胸部にパドルをひとつずつあてて同時にスイッチを押すと放電される。
最近は自動体外式除細動装置(AED:automated external defibrillator)という簡易型の除細動器が一般向けに普及し、簡単な講習を受ければ一般市民も除細動ができるようになっている。
ドン!
鈍い音とともに患者がわずかに浮き上がった。肉の焦げたような匂いが救急室に漂っている。
「どうだ!もどったか?」
健太郎は除細動器のパドルを握ったままモニターを見つめた。
「だめです!まだVF(心室細動)です!」
「くそ!」
健太郎はパドルを除細動器の上に放り投げ、心マッサージを再開した。患者の胸部にはパドルの跡が火傷となってくっきりと丸く赤くなっている。
「河野先生は!河野先生はまだ手があかないのか!」
「電話してみます!」
外来看護師の真田由紀子は河野医師が処置中の血管造影室に連絡した。
「・・・・はい・・・わかりました。高岡先生!あともう少しで終わるそうです」
「早く来てくれ・・・。今日はなんて日だ・・・」
この日の当直は確かに多忙であった。話は今から1時間前にさかのぼる・・・。
*AM 4:27*
「高岡先生。君の診断は?」
「聴診で心臓に拡張期雑音があって、肺野のラ音(らおん)も著明です。心電図では心房細動がありますが、心筋梗塞の所見はないと思います。多分、弁膜症の心不全じゃないでしょうか?」
健太郎の診断を聞いていた河野医師は満足げにうなずきながら言った。
「そのとおりだ。多分、僧帽弁(そうぼうべん)狭窄症(きょうさくしょう)によるうっ血性心不全だろう。さあ、レントゲンで確認しよう。きっと肺は、うっ血で真っ白だろう」
うっ血性心不全とは心臓のポンプの働きが障害されたために血液を身体のすみずみに充分に循環できなくなる病気である。脳や腎臓などの血液循環も悪くなるが、最も問題になるのは肺である。
全身から心臓(右心室)に帰ってきた酸素の少ない静脈血はまず肺に送られる。静脈血は肺で酸素をもらって動脈血となってまた心臓(左心室)に戻され、大動脈から全身に送り込まれる。
心臓(左心室)の機能が障害されると肺から戻ってきた動脈血を全身に循環させることができなくなる。その結果、肺に血液がたまり、肺はみずびたしになる。これがうっ血性心不全である。レントゲンでは肺は真っ白にうつり、血液の酸素濃度は著明に低下する。この患者はまさにその状態になっているのだ。
卒業して2年目までの前期研修医は一人で当直をすることはない。3年目の後期研修医になれば一人当直が可能となるがS市市民病院では後期研修医も半年間は一人当直をさせていない。必ず4年目以上の内科医が一緒に当直してすぐに相談ができる体制になっている。
この日の健太郎はたまたま循環器内科医の河野孝明と当直勤務についていた。二人とも夜中の2時頃まで、喘息や熱発などひっきりなしに来院する外来患者の応対に追われていた。午前4時過ぎ、ようやく落ち着いたと思った矢先、70歳の呼吸困難の男性が救急車で転送されてきたのである。
河野孝明は39歳になる循環器専門医である。心不全や心筋梗塞など循環器救急疾患の診療は得意中の得意だ。がっしりした体格で大学時代はラグビー部に所属し、健太郎の先輩にあたる。
面倒見のいい性格で、健太郎が前期研修医として内科をローテートしていた時にも丁寧に指導してくれた。最近ちょっと薄くなった髪を気にしている。
「ほら。思ったとおり肺は真っ白だ。真田君、ラシックスを1アンプル静注(じょうちゅう)(静脈内に注射すること)してくれ」
胸部レントゲン写真を見た河野はそばにいた看護師の真田由紀子に利尿剤の投与を指示した。利尿剤を投与して尿量を増加させて肺のうっ血を少しでも改善させようとする治療法で、うっ血性心不全の治療にはもっともポピュラーに行われる方法だ。
「高岡先生、ガンツをいれたことはあるか?」
ガンツとはスワン・ガンツカテーテルの略称である。心不全など心臓の機能が悪い時にこのカテーテルを挿入すると、心臓の圧力や動きを数字で把握できる。重症の心不全治療には欠かせない道具である。
「入っているガンツを管理したことはありますが、まだ自分で挿入したことはないんです」
「そうか。じゃあ、今日は俺が指導してやるから君が入れてみろ」
「ほんとうですか!お願いします!」
ほとんど眠れない当直であるが、健太郎のような若い医師にとって新しい技術を習得することはたとえ眠れなくても、むしろ望むところである。また、河野にしても自分の得意な手技を若い後輩に教えることは決しておっくうなことではなく、二人はこの日の忙しい当直の疲れも感じさせないような元気さで、血管造影室に患者を運んだ。
*AM 5:10*
「消毒は終わったな。じゃあまず内頚(ないけい)静脈を穿刺(せんし)してシースを入れてくれ」
「はい」
シースとはカテーテルを挿入するためにあらかじめ血管に入れる『さや』である。ほとんどのカテーテルはシースを通して血管内に挿入されるので、カテーテルの操作を行うためにはまずシースを血管に挿入する。
内頚静脈の穿刺は健太郎も何回か経験しているが、今から新しい手技を行うのだという緊張感がわずかに手を振るわせる。患者はマスクで酸素を投与され、また、利尿剤の効果で尿も流出し始め、最初よりはずっと楽そうに呼吸している。
―うまく入ってくれ・・・―
健太郎は患者の頭を左に向け、祈るように右の側頚部から斜め下方に向って針を進めた。奥まで穿刺した後、針をゆっくり引いてくると血液の逆流がある。うまく針が血管に入った兆候だ。
―よかった・・・―
ベテランの医師でも血管をうまく穿刺できた瞬間は安堵感を感じるものだ。ましてや医師になって3年目の健太郎がこのような重症患者にうまく手技を行えたのだからほっとするのは当然だろう。
「よし、入ったな。次はガイドワイヤーだ。ゆっくり入れて」
河野は健太郎の手技を注意深く観察しながら針の中に細い針金を挿入するように指示した。血管内にガイドワイヤーが挿入できればそのワイヤーを通してシースを挿入することができる。
その時、電話がけたたましく鳴った。電話をとったレントゲン技師が叫んだ。
「先生!救急入ります!CPAです!すぐ救急室にお願いします!」
CPAとはcardio pulmonary arrest、すなわち心肺停止状態のことだ。心臓の拍動と呼吸が停止しているが、人工呼吸や心マッサージが施行されて、まだ死亡とは判定されていない状態である。
「なんだって?CPAか!・・・今日はなんて日だ・・・。しかたがない。高岡先生、ガンツはまたの機会にしよう。ここは俺がやっておくから、君は先に救急室へ行ってくれ」
「・・・わかりました」
健太郎はしぶしぶ手袋と清潔ガウンを脱いで足早に救急室に向かった。
*AM 5:20*
救急室にはたった今患者が到着したところだった。救急隊員が心臓マッサージと人工呼吸を行い、真田由紀子が心電図を装着する準備をしていた。
―若い!―
患者を一見して健太郎は一瞬しり込みした。CPAと聞いて70-80歳くらいの老人を想像して救急室に向かっていた。しかし目の前に横たわっているのは30代か、せいぜい40代の患者だ。こんな若い患者が今、死に直面している。それに対応するのは今、自分しかいないのだ!救急隊員が大声で叫ぶ。
「36歳男性!自宅で倒れ、5時5分救急連絡!自宅到着は5時10分。心配停止状態を確認、直ちに人工呼吸、心マッサージを開始しました。車内に収容してすぐに心電図モニターを装着し、VF(心室細動)の波形を確認しました!」
「VFを確認したんですか?除細動は!」
「除細動を試みましたがだめでした。引き続き人工呼吸と心マッサージを続けながら転送しました。自宅出発が5時13分、病院到着が5時17分です!」
―VFか!―
VFが確認されれば心マッサージに引き続いて、一刻も早く電気的除細動いわゆる電気ショックを行う必要がある。
「モニターつけました!」
真田由紀子が叫ぶ。
「すみません。マッサージとめてください!」
健太郎が救急隊員に言った。心臓マッサージをしている状態ではモニター波形はきちんと読み取ることができない。心臓マッサージをしていた救急隊員は一旦手を止めた。しかし心マッサージをとめるということは脳に血液が供給されないということだ。医師は瞬時に心電図モニターを見て判断する必要がある。
―くそ!まだVFだ!―
「除細動!DCを!マッサージ続けてください!」
健太郎が叫ぶと救急隊員が心マッサージを再開し、真田由紀子が除細動器を患者の隣に運んだ。
「高岡先生!チャージは?」
「まず150だ!」
チャージ完了のアラームがなるや否や救急隊員は場所を空け、健太郎が掴み取ったパドルを患者の胸にあてた。ドン!一瞬患者の体が浮き上がった。
「どうだ!」
健太郎はモニター画面を見つめた。波形は変わらずVFのままだ。
「だめだ!マッサージ続けてください!」
―とにかく気道を確保しないと・・・―
「挿管(そうかん)!サイズは9.0!」
健太郎は気管内挿管を行なって、人工呼吸器を装着しようとした。健太郎が行った除細動は失敗に終わった。次にすることは強心剤などの薬を投与しながら除細動を繰り返すことだ。
しかし心肺停止状態のときに心マッサージと同じくらい大切なことは気道確保である。気道確保を行った後、人工呼吸を確実に行い、それから循環状態の改善を目指す。救急の教科書にはABC(Airway, Breathing, Circulation)の順番で記載されている。今この患者の呼吸は救急隊員がアンビューバックという呼吸補助用具で補助しているが非常に不安定な状態である。きちんと気管の中にチューブを挿入して人工呼吸器を装着できれば呼吸状態は安定することになる(最近のガイドラインでは心肺停止直後には気道確保よりも心マッサージが優先されている。それは心肺停止直後にはまだ血液中の酸素濃度が維持されているからである。しかし心肺停止後、ある程度時間がたってからは気道確保と人工呼吸が不可欠である)。
実は健太郎は気管内挿管もまだ数例しか経験がなく、このような心肺停止患者の挿管はあまり自信がなかった。しかし今はそんなことを考えている場合ではない。河野医師がここへやってくるまでは自分しかこの患者を救える可能性のあるものはいないのだ。
健太郎は仰向けに寝かされた患者の頭の上へ移動し、そこにしゃがみこんだ。そして喉頭鏡(こうとうきょう)という特殊な器具を使って患者の口を開いてのどの奥を観察した。
―見えた!声帯だ!―
声帯の奥には気管があるはずだ。その中に挿管チューブを入れればいいのだ。
―頼む・・・入ってくれ・・・―
気管チューブを持つ健太郎の右手が震える。健太郎はゆっくりとチューブを進めた。
―よし!入った!―
「レスピレーター(人工呼吸器)つないでくれ!酸素100%、呼吸回数20回だ!マッサージ一度止めてください!」
健太郎は真田由紀子に指示し、救急隊員が行っていた心臓マッサージをいったん中止させて患者の胸に聴診器をあて、肺に空気が送り込まれていることを確認した。
―間違いなく気管に入っている―
不安だった気管内挿管が成功したことで健太郎の心に少し余裕が生まれた。
「あとはこちらでやります。御苦労様でした!」
救急隊員にそう言いながら健太郎は救急隊員に代わってすばやく心臓マッサージを始めた。
「すみません!次の救急要請がありましたので失礼します。あと、お願いします!」
そういい残して救急隊員は救急室を後にした。健太郎が心マッサージを開始してまだ十数秒だがその額にはすでに汗がにじんでいた。
そして5分が経過した。
「モニターはどうだ!」
そう言いながら健太郎は一時心マッサージの手を止めてモニターを見つめた。
―まだVFだ!―
少なくとも心室細動が続いている間は心臓マッサージをやめることはできない。やめるとすればそれは死亡判定をするときだ。健太郎は再び心臓マッサージを開始した。時計は午前5時30分を回っていた。
「DC(除細動器)もう一回だ!早く!」
「先生!チャージは?」
「200だ!」
高岡健太郎は心マッサージをしながら大声で叫んだ。 除細動器の表示が200J(ジュール)まで上がり、ランプが点滅する。チャージ完了のアラーム音が鳴る。
「200!チャージできました!」
「よし!パドルをくれ!・・・いくぞ!離れて!」
ドン!鈍い音とともに患者がわずかに浮き上がった。肉の焦げたような匂いが救急室に漂っている・・・・・・・・・・・・・。
*AM 5:45*
「DC!もう一度だ!」
健太郎は額に汗をにじませて心マッサージをしながら叫んだ。
「はい!」
「今度は250、いや300にチャージしてくれ!」
「はい!」
充電が完了するやいなや健太郎は除細動器のパドルをつかみとり、患者の胸に押し付けた。
「いくぞ!」
ドン!患者が再び軽く中に浮いた。
「どうだ!」
健太郎がモニター画面に目をやると患者の波形はまっすぐになった。さっきまでの心室細動のでたらめな波がうそのように消えている。しかし患者の心臓の動きを示す正常の波形もまったく出てこない。
「VFが止まったぞ!でもアレスト(心停止)だ!心臓マッサージを続けなくては!」
除細動も心停止も心臓が拍動していないことには変わりはない。むしろ心停止はそれまでかすかに震えるように存在していた心臓の動きも全くなくなったということで、より死亡に近づいたともいえる。しかし心室細動が止まったということは今から正常な心臓の拍動が回復するかもしれないということだ。
健太郎はかすかな望みを持って心マッサージを続けた。テレビドラマでは除細動が成功するといきなり心電図が正常となり、患者も呼吸を始める。しかし心停止から時間がたっている場合はそんなケースはほとんどなく、時にはそのまま心臓が動き出さないことすらある。幸い回復するにしても時間がたってからポツリポツリと心電図の波形が出現してくるものだ。
―このまま心臓が動き出さなかったら・・・俺がとどめを刺したことになるのか・・・―
そんな思いが健太郎の脳裏をよぎった。
「ドパミン全開!ボスミンを1アンプル静注(静脈注射)してくれ!」
強心剤投与の指示を出しながら健太郎は心臓マッサージの合間に額の汗を腕でぬぐった。
「どうだ?もどったか?」
しばらくマッサージを続けた後、健太郎は手を止めてモニター波形を見つめた。
・・・・ピ・・・・・・・ピ・・・・・ピ・・・・
かすかではあるが患者の波形が出現している。
「でたぞ!いける!」
健太郎は必死でマッサージを続けた。
―いけるかもしれない―
そんな思いが健太郎の身体にエネルギーを与える。
ピッ・・・ピッ・・・ピッ・・・ピッ・・・
モニターの波形は徐々に速くなり安定してきている。
「頚静脈は?触れるか?」
そう言いながら健太郎はマッサージをしている手を止め、自分で患者の首の右側を指で押さえてみた。
「だめだ。マッサージだ!」
健太郎は心マッサージを再開した。心電図の波形が出現しても安心はできない。電気的には心臓が活動していてもその心臓が十分な力で血液を送り出しているかどうかは別問題だからだ。
頚静脈の拍動が触れないということは、患者の心臓の力が十分でなく、脳に血流が供給されていないことを意味する。この状態では心臓マッサージをやめるわけにはいかないのだ。健太郎は引き続き心マッサージを続けた。患者が運び込まれてからすでに40分が経過していた。
*AM 6:04*
「どうだ!」
健太郎は祈るようにモニターを見つめた。
ピッ・ピッ・ピッ・ピッ・・・
波形はさっきよりも大きくなり、規則的になっている。
「先生!脈が触れます!」
真田由紀子が患者の腕を触りながら叫んだ。
「本当か!血圧を測ってくれ!」
「はい。・・・・70・・・・下は30くらいです。」
「よし、マッサージはもういらないな。ドパミンの速度をゆっくりにしよう。1時間15mlで設定してください」
健太郎は心臓マッサージの手を止め、額の汗をぬぐいながら強心剤の投与量を指示した。そこへ河野孝明が息を切らして救急室へ入ってきた。
「遅くなってすまん!ちょっとてこずっちまった・・・」
「河野先生。今(拍動が)もどりました。血圧も低いですが測れます」
健太郎は、はやる気持ちをおさえ、わざと落ち着いた調子で答えた。
「そうか!よくやった!・・・発症から蘇生処置開始までの時間は何分だ?」
「えっと・・・救急連絡が5時5分、救急隊到着が5時10分ですから7-8分だと思います。」
「7-8分か・・・ぎりぎりだな。」
心肺停止になれば全身の臓器への血液供給がなくなる。特に重要なのは脳への血流の途絶である。脳神経細胞はいったん壊死に陥ると二度と戻らない。一般には後遺症なく回復するのは心停止から3分以内に心マッサージなどの蘇生処置を開始した時とされている。この患者では少なくとも7-8分が経過しているのだ。
「完全には回復できないかもしれないな。それにしても36歳のVFか・・・原因は何だ?」
「肥大型心筋症でしょうか?」
「そうかもしれん。よし、心電図だ」
河野と高岡は二人で心電図の電極を患者に取り付け、記録スイッチを押した。
「・・・多分AMI(急性心筋梗塞)だな・・・」
記録された心電図の波形を見て河野がつぶやいた。
「エコーで確認しよう。真田君!エコーを持ってきてくれ」
慣れた手つきで患者の胸にあてた超音波装置のプローブを動かしながら河野は健太郎に尋ねた。
「どうだ?わかるか?」
「はい。心室中隔の動きが特に悪いようですが・・・」
「そのとおり。心筋梗塞に間違いない。心臓を栄養する冠動脈が閉塞して心臓の筋肉が壊死を起こし、心室細動の発作を起こしたんだろう」「じゃあ、カテーテルをしますか?」
「そうだな・・・。どこまで脳の機能が戻るかどうかわからないが・・・。今は心臓に対してやるだけのことはやってみよう。真田君、もう一度、血管造影室の準備をしてくれ!高岡先生、家族にまず今までの状況を説明してくれ。その後でカテーテル検査の話は俺がするから・・・」
「わかりました」急性心筋梗塞は心臓の周りを取り巻く冠動脈という血管の閉塞によって発症する。今からカテーテルを患者の血管に挿入し、閉塞した血管を開く処置をすることになる。それにより冠動脈の血流が回復すれば壊死を起こしかかっている心臓の筋肉の一部は回復し、少しでも心臓の機能がよくなるかもしれない。ただし、処置ができるのはあくまでも心臓の血管のみで、脳の機能が回復しなければ何にもならないのであるが・・・。真田由紀子は救急室の外でじっと待っていた女性を呼んだ。
「片山さん。どうぞこちらへ」
・・・片山幸雄・・・まだ何も記載されていないカルテを見た健太郎はここで始めて患者の名前を知った。これから、この1時間にあったことをすべてカルテに記載しなくてはならない。さらに今からの家族との会話もすべて・・・。健太郎は少し気が重くなったが、何より自分の力だけで若い患者を蘇生できたことが気持ちを上向きにさせていた。
救急室の隣の準備室に入ってきたのはやせ型でやや小柄な女性だ。
―多分この患者さんの奥さんだろうから30代前半だろうか―
健太郎はそう考えたが、片山夫人は髪もぼさぼさで化粧もできずに飛び出してきたためか、40歳くらいに見えた。
「あの・・・主人は・・・やっぱり・・・」
病院到着からすでに1時間近くが経過している。その間ずっと祈るように待ち続けたに違いない。最初から夫の死をすでに覚悟しているようであった。
「いえ、奥さん、ご主人はお亡くなりになったわけではないんです」
「え?じゃあ!助かったんですか!主人は生きているんですか?」
「救急車で運び込まれたときは心臓も呼吸も停止した状態でした。しかし幸い心臓マッサージや電気ショックなどの治療が功を奏し、先ほど心臓が動き出しました」
無意識のうちに健太郎の口調は少し誇らしげな言い方になっていた。
「じゃあ、主人は生きているんですね!」
「危険な状態には変わりありませんが心臓の拍動は戻っており、血圧も安定してきています」
夫人は感謝の言葉を言おうとしたが言葉にならず、少し下を向いて涙をぬぐった。
「御主人がこうなった原因は心筋梗塞です。心臓の筋肉を栄養する血管が詰まったため、心室細動という危険な不整脈を起こしたのです。今から心臓カテーテル検査を行って詰まっている血管を確認し、可能ならば血管を開く治療を行いたいと思います」
「心臓カテーテル検査・・・それをすれば主人は助かるんでしょうか?」
夫人の質問に健太郎はちょっと言葉に詰まった。
「うまくいけば、今よりは状態は安定するはずです。しかし・・・問題がもうひとつあるんです」
「え?問題って?」
「ご主人の心肺停止の時間が少し長すぎたんです。脳のダメージが予想され、現時点ではどこまで意識が回復するかわからないのです」
「じゃあ・・・命が助かっても植物状態になる可能性もあるんですか・・・」
「残念ながら・・・」
「私が悪いんです・・・。もう少し・・・早く救急車に連絡していれば・・・」
健太郎は夫人の言葉に一瞬耳を疑った。
「え?もう少し早く?」
「寝室で寝ていたら、がたんと音がしたので飛び起きて下の居間に行ったんです。そしたら主人が床に倒れていて、いくら呼んでも答えないので・・・。私、気持ちが動転してしまって・・・。とにかく病院に連絡しなくちゃと思って、電話帳で一生懸命病院の電話番号を探してしまって・・・。でも何がなんだかわからなくて実家に連絡したんです。それで救急車を呼べって言われてやっと119番することに気がついたんです」
「それが5時5分・・・。じゃあ・・・最初にがたんと音がしたのは・・・何時頃だったんですか?」
「飛び起きて時計を見たときには・・・4時50分ころでした。」
「・・・それで・・・最初にご主人を見た時はどんな状態でした?」
「顔が土色になっていて・・・息をしてませんでした・・・」
健太郎は言葉を失った。てっきり発症してすぐに夫人が救急車を呼んだものと思っていた。しかし実際には救急隊に連絡があったのは15分も経過してからということになる。しかも夫人が4時50分に患者を見たときにはすでに呼吸は止まっていたようだ。ということは心肺停止状態になってから蘇生処置が始められるまでに20分以上かかっていることになるではないか!20分も脳に酸素が供給されなければこの患者の意識が回復する可能性は皆無に近い。
「片山さん、ちょっと・・・ちょっと待ってて下さい・・・」
そういい残して健太郎はあわてて患者の寝かされている救急室に戻った。患者の心拍は一応安定しているようだ。血圧も70-80程度を維持している。しかしぴくりとも動かず、自発呼吸もなく、人工呼吸器によって呼吸が維持されている状態である。
―何てことだ・・・―
そうつぶやきながら健太郎は血管造影室で準備をしている河野に電話で連絡を取った。
“何だって?心肺停止から蘇生処置まで20分以上かかっているのか!”
「すみません・・・。奥さんのお話からするとそういうことになるようです・・・」
健太郎は力なく答えた。
“高岡先生・・・それは無理だ・・・。意識が戻る可能性はまずないだろう・・・。残念だがカテーテル検査は中止しよう。患者さんをICUに運んでくれ”
「わかりました・・・」
やっとの思いで自分が蘇生させた患者は社会復帰する望みがなくなった。このまま脳死状態か、よくても寝たきりの植物状態だろう。健太郎は全身から力が抜けていくのを感じた。夫人のところへ戻った健太郎は先ほどとは比べようもないくらい小さな声で説明した。
「残念ですが片山さん・・・今のお話からするとご主人は心肺停止状態になってから蘇生処置がされるまで20分以上かかっていることになります。一般には脳は血流が途絶えてから3分経過すると神経細胞が変性してしまって完全には元に戻らなくなります。7-8分までなら障害は残るかもしれませんが一部意識が回復する可能性はあります。しかし20分以上となりますと・・・ご主人の意識が回復する見込みは、ほとんどありません。今はまだ最終的な判断はできませんがご主人は脳死に近い状態です。カテーテル検査の適応はありません・・・」
「それは・・・その検査をして処置をしていただいてもだめなんでしょうか?」
夫人はすがるような目で健太郎を見つめた。
「心臓カテーテル検査をして処置ができるのはあくまでも閉塞した心臓の血管だけです。それをうまく開いても脳の機能が戻るわけではないのです。・・・それに・・・脳死に近い状態で身体に負担を与える検査を行うことは検査中に急変する可能性も高くなります。そのリスクを犯すだけのメリットはありません。このまま集中治療室へ移って治療を続けたいと思います」
カルテ2(2/3)に続く
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