風の軌跡:カルテ3(1/3)
風の軌跡ー風間俊介診療録ー:カルテ3(1/3)
「呵責(かしゃく)」
・・・脳死状態になった若い患者には死亡宣告がなされた。しかし夫人にはある秘密が・・・
*脳死状態*
片山幸雄が心肺(しんぱい)停止状態で運び込まれてから5日が過ぎた。いまだに意識は戻らず、集中治療室で管理されている。自発呼吸はなく、相変わらず人工呼吸器につながれた状態である。手足の動きは全くなく、あるのは原始的な反射だけである。この時点で彼が脳死状態であることはほとんど間違いなく、意識の回復は見込めないと判断されていた。夫人は毎日来院し、じっと夫に付き添っているが、さすがに疲れの色が見える。
今日は頭部CT検査と脳波検査が予定されている。片山幸雄が入院して以来、始めてICUを離れることになる。人工呼吸器は移動中には装着することができない。自発呼吸がないので人工呼吸器をはずすと呼吸停止状態となる。高岡健太郎がアンビューバッグという呼吸を補助する器具を使用してCT室までの往復に付き添うことになる。風船のようなアンビューバッグを患者の口から気管に挿入されているチューブにつなぎ、手で風船を握ることを繰り返して肺に空気を送り込むのだ。
検査終了後、風間俊介は健太郎に呼ばれてICUへと向かった。
「どうだ?」
俊介がまず口を開いた。
「・・・脳死に非常に近い状態です。脳波は・・・ほとんど波形がありません。CTでも大脳皮質(ひしつ)が全体的に障害されています」
「発症して5日目だな・・・。それじゃあ回復の見込みはなさそうだな」
「はい。検査結果は脳外科の佐伯先生にも見ていただきました」
俊介はため息をつきなら、口を開いた。
「じゃあ・・・家族にムンテラ(説明)しようか」
ICUの医師記録室に片山夫人と片山行雄の父親が入ってきた。父親は多分60代と思われるが、年齢の割に背筋がしっかり伸びて背が高く、意志の強そうな大きな目をしている。俊介は帽子とマスクをはずした片山夫人を見るのはこれが始めてであった。今日は薄く化粧をしている。
―美しい人だ―
俊介はそう思いながらふと、夫人の左あごと、右手にうすく青いあざがあるのに気がついたが、あまり気にも留めずに話を切り出した。
「奥さん。御主人は心肺停止状態から回復し、今日で5日目になります」
「・・・はい・・・」
夫人が下を向いたまま小さな声で答えた。
「今のところ心臓の機能は落ち着いています。しかし自発呼吸はなく意識の回復もありません。本日は脳波とCT検査をしました」
夫人と父親はじっとコンピューターのモニター画面を見つめていた。俊介はモニターに映し出されるCTの画像を指で示しながら説明を始めた。
「これが片山幸雄さんの脳を断層撮影した写真です。ここが大脳で、物事を考えたり、判断したり、感情をつかさどるなど人間の活動に最も重要な働きをする部分です。この大脳の全体がやや黒っぽく見えます。これは脳が障害されている所見です。片山さんの場合、心臓が一旦停止し、脳へ酸素の供給が途絶えました。そのため脳全体がダメージを受け、意識が戻ってこないのです。呼吸をさせる脳幹という部分も障害されているので自発呼吸もありません。しかし心臓の機能にはやや回復が見られ脈拍や血圧は安定しています」
「意識が回復する可能性はあるんでしょうか?」
夫人はストレートに聞いた。
「脳波もほとんど波形がありませんので・・・残念ながら、意識が回復する可能性はゼロに等しいと思います。今後も人工呼吸器を装着し、点滴などで栄養を補給しなければなりません」
「すると、ずっとこのままということですか?」
夫人の向こう側に座っていた父親が少し大きな声で聞いた。
「残念ながら・・・」
しばらく沈黙が続いた。夫人の目には涙があふれていた。父親はじっとモニター画面を見つめている。
「これからどうしたらいいんでしょうか?」
夫人のこの言葉が今後の生活のことを意味するのか、夫の介護のことを意味するのか、俊介には判断できなかったが、最初から用意していた言葉で答えた。
「血圧や脈拍は安定してきているので明日、一般病棟へ転室したいと思います。しかし人工呼吸器はそのまま装着しておく必要があります。したがって口から挿入したチューブも外すことはできません」
二人は黙ってモニター画面を見つめていた。
「それから・・・ここから先は家族の方の同意が必要なのですが・・・・」
俊介は夫人と父親の顔をチラッと見ながら話を続けた。
「口から気管に挿入されたチューブは閉塞や感染を起こしてくるため1週間から10日くらいで交換しなくてはなりません。長期間気管チューブが必要な場合は気管切開という処置を行います。のどに穴を開けて短いチューブを挿入して人工呼吸器を装着します」
「その気管切開というのをしなければ?」
今度は父親が俊介を見ながら聞いた。
「気管切開をしない場合は・・・10日ごとに口から入っている気管チューブを入れ替える必要がありますが、自発呼吸がない状態なので、入れ替えのときに状態が急変する可能性があります。気管切開にも出血や感染などの合併症の可能性が少々ありますが、気管チューブを何回も入れ替えるよりは危険は少ないと思います」
父親は少し考えて口を開いた。
「気管切開をせずに気管チューブを抜くことはできんのですか?」
「気管チューブを抜くということは・・・人工呼吸器をはずすということです」
俊介がちょっと躊躇(ちゅうちょ)して答えた。
「人工呼吸器を外せば・・・呼吸が止まるのですね・・・」
片山夫人が聞いた。
「そうです・・・・。呼吸器を外すということは、そこで片山さんの命を終わらせるということになるのです」
しばらく沈黙が流れた。長い沈黙を破ったの父親だった。
「もし呼吸器をつけていれば、このまま何年も脳死状態で生き続ける可能性もあると言うことですか?」
「どこまで頑張れるかはわかりませんが、脳死状態では何年も生き続けることは無理でしょう。ほとんどの場合は1ヶ月以内に血圧が不安定になったり肺炎などの合併症を引き起こしてお亡くなりになられることが多いようです。でも・・・片山さんはまだお若いですから・・・それはなんとも言えません」
父親は下を向いてじっと黙って考え込んでいた。そしておもむろに顔を上げて俊介に言った。
「先生、もう一度お尋ねしますが・・・気管チューブを抜いて、呼吸器をはずすことはできんのでしょうか?」
「それは・・・難しい選択ですね・・・」
脳死状態の患者の人工呼吸器を外す、それはすなわちその患者の命を人為的に終わらせることだ。今の日本で法律上それが許可されているのは移植を前提とした脳死の判定を行った時だけだ。脳死となった患者がドナーカードに移植の意思を記載した時に限って医師は厳格な脳死判定を複数の医師で行い、人工呼吸器をはずして人為的に患者を死亡させることが法律的に許可されている。
「幸雄さんは移植の希望は?ドナーカードは持っておられますか?」
「希望は・・・ありません」
夫人が首を横に振りながら答えた。
「実は・・・私、去年主人にドナーカードを渡したんです。友人からもらったので・・・。その時はあまり気にも留めなかったんですが、こんなことになってしまって・・・。昨日、主人の机の中を探したんです。そしたら見つかったんですが、何も書いてありませんでした」
その言葉に俊介は夫人の以外に冷静な面を見た気がした。
「しかし先生、息子は延命治療を拒否していたんです」
父親が言った。
「え?」
「以前テレビで植物状態の患者を見て、私があんなことになったらいっさい延命治療はしてくれるなと息子に言ったんです。息子は、何もできず他人の世話になっている私の姿を見るのがとてもつらいから、延命治療はしないと言いました。あの時はまさか息子がそんな状態になるなんて思ってもみなかったですが・・・。私は息子が他人の世話になって生きていく姿を見るのがつらいのです。幸雄は私が言うのもなんですが、勉強もスポーツもよくできました。ちょっと短気なところはありましたがいつも人の上に立って指導する立場を続けてきたんです。そんなあいつがこれから、嫁や孫に負担をかけていく姿を見るのはとてもつらいことです。先生にはここまでしていただいて本当に感謝しています。でもあとは、息子の尊厳を守ってやりたいのです」
「幸雄さんが自分の延命治療を拒否していたわけではないのですね?」
「それはそうですが・・・息子の気持ちは私が一番よくわかっています」
俊介は父親から目をそらし、黙ってじっと考え込んだ。患者が脳死状態になった時に家族が延命治療を拒否することは今までにも何度かあった。そして、そんな時に呼吸器をはずして死亡宣告をすることは昔の医療現場ではよく行われていたことなのだ。患者の意思を示す文書がなくても家族の言葉から本人が延命治療を希望していなかったことが類推できれば医師は呼吸器をはずすことは社会通念上、問題のない行為と考えていたからだ。
しかし近年事情が変わった。医師の判断で呼吸器をはずして死期を早めたことが殺人罪の疑いがあるとして警察が関与してくるようになったからだ。医師は、すでに脳死状態になった患者の死亡時間を早めることが社会的に問題になるとは考えない。
しかし日本では心臓停止が死亡の基準であり、心臓が動いている間はその患者は法律的には生きているわけで、呼吸器をはずして死期を早めれば警察は殺人罪の疑いありと判断するわけだ。
脳死移植以外の患者に対する呼吸器取り外しに関する明確な基準が今の日本にはないことが問題なのだ。今の日本で医師が自分の判断でそのような行為を行うことは殺人罪で逮捕される危険を犯すということだ。
―息子を思うこの人の気持ちはよくわかるが・・・―
親しい人の尊厳を守りたいという家族の気持ちはよくわかる。
「片山さん、これは私一人で決められる問題ではありません。院長や法律の専門家とも相談したいと思いますので少し時間をください。その間に気管切開のことも含めてご家族でもう一度相談なさってください」
「わかりました」
父親はうなずいた。片山夫人は何も言わず、じっと下を向いていた。
「風間先生、呼吸器はずしてもいいんでしょうか?」
二人が出て行ってから健太郎が聞いた。
「まあ、院長にも相談してみるが、最近の社会情勢じゃ無理だろうな」
「蘇生処置をした自分が言うのもなんですが、俺は延命処置はやめてあげたいです・・・。呼吸器をはずしてあげられたらいいんですが・・・」
「そうか・・・」
「だって・・・このまま脳死状態でずっと生き続けるなんて、自分だったら絶対にいやですよ。仮に少し回復するにせよ、せいぜい息をしているだけの植物状態でしょ?自分の妻が同じ状態になったとしても無理に延命させるようなことはしたくないです。別に介護するのがいやっていうわけじゃないんですよ」
「そうだな・・・俺もそう思う」
俊介もうなずいた。
「・・・ところで高岡先生、奥さんの顔のあざに気がついたか?」
「あざ?あー・・・はい。最初救急室で見たときから、あごがちょっと腫れて青くなっていました。ご主人を見に行くときに階段から落ちたって言ってました。多分すごくあわてていたんでしょう」
「階段から・・・落ちた・・・」
「はい。それが何か?」
「いや、それからご主人が倒れているのを発見して、そのあと気が動転して救急隊に連絡が遅れたと言ってたな?」
「はい。何がなんだかわからずに10分くらい電話帳をしらべたり実家に連絡したりして遅れたらしいです。何かおかしいですか?」
「いや・・・いいんだ・・・」
片山夫人への説明が終わったあと、俊介は自室のソファに腰掛けて考えていた。
―あの冷静そうな奥さんが・・・気が動転して救急隊への連絡を思いつかないなんてことがあるだろうか?それにあのあざは・・・。階段から落ちた?―
階段から落ちた・・・。それは怪我の理由を知られたくないときに患者がよく使う言葉だ。
―確かに夜中にあわてて階段を下りようとすればすべり落ちるかもしれない・・・。しかしなぜ左あごを・・・―
*ほったらかしに・・・*
翌日14時30分過ぎ、俊介は食堂に遅い昼食をとりに出かけた。一人でカレーを食べる俊介の後ろから女性が声をかける。
「あら、風間先生。お久しぶりです」
レイヤーボブの大きな明るい瞳のナースがカレーをテーブルに置いて俊介の隣に座った。南川沙紀だ。
「やあ、南川君か・・・久しぶり」
「お昼遅いんですね」
「ああ、今日はいろいろ忙しくてね。君も遅いじゃないか」
「あら先生、ナースは遅番(おそばん)になればこれくらい当たり前よ。今日はまだ早いほうで、ひどいときには3時4時までお昼食べれないことなんてざらにありますよ」
「それは大変だな。ところで・・・外科病棟はどうだ?もうなれたか?」
沙紀は首を小さく横に振りながら答えた。
「全然だめ。外科のドクターって病棟に来る時間が一定していなくって待っているのも大変。内科のドクターはナースがいなければみんな自分で回診していくでしょ?でも外科はガーゼ交換や処置が多いので必ずナースがついていかなくちゃいけないんです。まだ仕事のペースがつかめないわ」
カレーを口に運びながら以前と変わらない調子で話す沙紀を俊介はなんとなく懐かしく感じていた。
「外科の先生方とは仲良くなったか?」
「それがなかなか・・・。部長の立花先生、言うことが細かくって・・・」
沙紀はそう言いかけてちょっと周りを見渡し、言葉を続けた。
「私が慣れないのもあるんだけど・・・」
「まあ、外科の場合、傷がちょっとしたことで感染したり縫合不全を起こしたりするから特に慎重になるんだろう。それは細かいじゃなくて慎重って言うんだ」
笑いながら話す俊介の言葉に沙紀は肩をちょっと上げて首を引っ込めた。俊介はカレーを口に入れた後、水を一口飲んでポソリと聞いた。
「ところで内科部長の方の評判はどうだ?君の耳には何か入ってきているか?」
―なかなかうまく切り出せたな―
健太郎と飲みに行ってから自分のことをひそかに想っているナースというのがどうも気になる。別に自分から声をかけようと思うわけではないが、周りのナースを見回すと無意識にそういう目で見てしまう。しかしそれらしいそぶりを見せる者もいない。健太郎に直接聞けばいいのだろうが、何か腹の中を見透かされるようで面白くない。そこで情報の発信源であろう南川沙紀にカマをかけたというわけだ。
「あら、先生は評判上々よ。だって仕事はできるし患者さんにもナースにもやさしいでしょ?」
「それはうれしいな。じゃあ・・・どのあたりで評判上々なんだ?」
俊介はちょっと苦しいかな、と思いながらも言葉をつないだ。
「外科病棟でも内科病棟でも外来にだって受けがいいわよ」
―これ以上深入りすると怪しまれそうだな・・・―
俊介はあきらめて話題を変えた。
「いま内科病棟に36歳の脳死状態の患者さんがいるんだ」
「あー・・・心筋梗塞でVFになった人」
沙紀はうっかり即座に答えてしまった。
「よく知ってるじゃないか」
「え?・・・だって・・・ICUにいた人でしょ?この前ICUに患者さんを迎えに行った時ちらっと見たんですよ。若い人がいるなって・・・」
―なかなかうまいじゃないか―
俊介はこみ上げてくる笑いをこらえながら続けた。
「高岡先生が頑張って蘇生させたんだけど、意識は戻らないんだ」
「まだ若いのに・・・。奥さんも大変ね・・・」
「心肺停止になっているところを奥さんが見つけたんだが動揺してしまって、救急隊への連絡が遅れてしまったらしい」
「医療従事者じゃなかったら、どうしていいかわからないでしょうね」
「君は大丈夫か?将来結婚して御主人が心肺停止になったら、蘇生処置できるか?」
沙紀はカレーをほおばりながら自信満々答えた。
「大丈夫ですよ。何人も心マッサージとかしてきたからちゃんとできるわ。それに私、来年は救急救命士の資格を取ろうと思っているんですから。でも・・・けんかしてたら、ほったらかしにしちゃうかも・・・」
「え?」
俊介は一瞬スプーンをもった手を止めて聞き返した。
「冗談ですよ。今にも死にかけてるっていうのにそんなこと言ってられないでしょ?それに、まだご主人になる人だって決まってないんだから、まずそっちのほうが先よ」
沙紀は笑いながら残りのカレーを一気にたいらげると俊介に軽く会釈して、そそくさと勤務に戻っていった。
―けんかしてたら・・・ほったらかしに・・・―
沙紀の言葉を繰り返す俊介の心の中では、ひとつのことが引っかかっていた。
風の軌跡:カルテ3(2/3)に続く
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