風の軌跡:カルテ2(3/3)
風の軌跡:カルテ2(3/3)
夜8時過ぎ、俊介が帰りじたくをしているとドアをノックする音が聞こえた。
「風間先生、高岡です。ちょっとよろしいですか?」
―また来たな。こんどはなんだ?―
いつも帰り際にやってくる部下にちょっと閉口しながら俊介は答えた。
「どうぞ、開いてるよ」
「失礼します・・・。先生、ちょっと聞いてください!」
―そらきた・・・。今度はなんだ?―
「病棟のナース、全然だめですね。全くやる気がないんです。今、田中さんの明日の採血の指示を出してきたんです。そしたらもう6時を回ってるからだめだって言われるんですよ」
「規則では緊急以外の指示は夕方6時までに出すことになっているからな。君の指示は緊急なのか?」
「まあ、患者の命にかかわることかと言われるとそんなことはないんですが、今日の午前中までICUにいた患者さんですよ。病態に応じて指示が出るのは当たり前じゃないですか。ICUでは何時でも指示を受けてもらえたのに一般病棟に変わったとたん6時までなんてちょっと杓子定規すぎますよ。あんまり腹が立ったんでカルテをテーブルに放り投げて出てきちゃいました」
高岡健太郎は一気にまくし立てるように話し続けた。
―これはちょっとやそっとじゃ収まりそうもないな・・・―
俊介はなだめるように話しかけた。
「そうか・・・。ところで君はもう今日の仕事は終わったのか?」
「え?はい。今から心筋梗塞の急性期治療についてちょっと勉強しようかと思っていたところですが・・・」
「ちょっと腹も減ったから続きは食事でもしながら聞こうじゃないか」
「本当ですか?食事ですか・・・へへへ・・・。じゃあ、着替えてきます」
食事と聞いてちょっと機嫌の直った健太郎は足早にロッカーのある医局へ向かった。
*天真爛漫(てんしんらんまん)*
「天真爛漫」は病院から歩いて5分の居酒屋風の飲み屋だ。それほど大きくはないが病院関係者もよく利用している。俊介も夕食や夜食をここで済ませることも多い。
「まずは乾杯といこう」
二人は笑顔でジョッキを交わした。
「・・・あーうまい!仕事のあとの最初の一杯って最高ですね!」
「本当だな。さあ、こみ入った話はあとにしてまずは腹ごしらえしようじゃないか」
二人は他愛もない話をしながら出されてくる料理に箸を進めた。健太郎もアルコールが入って上機嫌となり、さっきのナースの話はすっかり忘れてしまっている。健太郎はアルコールが入るとすぐに顔が赤くなるので酔っているのが一目でわかる。また、機嫌がすこぶるよくなるので周りにいる者も一緒に飲んでいて楽しい。
俊介はどちらかというと飲んでも顔に出ないタイプで、酒の席ではしゃぐようなこともほとんどない。しかし決して酔っていないわけではなく、少しアルコールが入ると楽しい気分になる。
「でも先生。あの二人の運命ってどこで別れたんでしょうか?」
突然の話題の転換だが俊介には何の話かすぐ理解できた。
「そうだな・・・」
「同じような年齢で全く同じ病気ですよ。家族性高コレステロール血症で急性心筋梗塞を発症し、心室細動を起こしたのも一緒です。発症時間だって数時間しか違わない。でも一人は元気に回復し、一人は植物状態になってしまった。先生の隣で心室細動になったか奥さんの隣で心室細動になったかの違いですよね。たとえ除細動器はなくても先生の隣で心室細動になったなら蘇生処置してもらえるから脳死状態にはならずに済みますよね」
「現状では一般人には蘇生処置はムリだろう。病院で心室細動になるということがかなり運のいいことなんだろうな」
「もし奥さんに蘇生処置ができたら状況は変わっていたでしょうか?」
「多分な。でも片山さんの奥さんは責められない。普通の人間なら動揺してしまって奥さんと同じ行動をとるだろう。そうなると・・・結婚するのはナースにしないといけないってことかな?」
俊介はちょっと意地悪く微笑みながら聞いた。
「別に・・・ナースじゃなくてもいいと思いますけど・・・。奥さんに蘇生処置を覚えてもらえばいいんじゃないですか?」
むきになる健太郎に俊介は笑いながら答えた。
「そんなに大声を出さなくてもいいじゃないか」
「別に大声なんて・・・。すみません、地声が大きいもんで・・・」
―正直なやつだ・・・―
俊介は枝豆をつまみながら苦笑した。
「それより風間先生。先生こそ再婚されないんですか?」
健太郎が唐突に聞いた。
「なんだ急に・・・俺はもう50近いんだ。いまさら恋愛なんて考えてないよ」
「何を言ってるんですか!まだまだこれからですよ。ひそかに先生のことを想っているナースだっているんですよ!」
「ふーん。それは誰から聞いた情報なんだ?」
俊介はまた意地悪く聞いた。
「誰からって・・・誰からってことはないんですけど・・・。うわさですよ、うわさ・・・」
「そうか。じゃあ、仕事が暇になって毎日早く家に帰れるようになったら再婚も考えるよ」
残っているビールを飲み干しながら俊介は軽く受け流した。
その時、隣の団体が帰り支度を始めた。そのうち一人はかなり酩酊しているようでほとんどまともに歩けないようだ。彼が俊介たちのテーブルの横を通る時に健太郎のジョッキに身体が触れ、ジョッキが倒れて健太郎の服にビールが少々かかってしまった。
「お・・・悪いな。あんちゃん・・・」
酩酊した男はちょっと手を上げて健太郎に謝った。健太郎はむっとして立ち上がり、大声で叫んだ。
「なんだ!その言い方は!もっとちゃんと謝ったらどうなんだ!」
「なにー?・・・ちゃんと・・・謝っただろうが!」
ろれつの回らない口調で男が健太郎につかみかかる。男もまあまあ大柄だが健太郎のほうが大きい。男は怖い顔で健太郎を見上げている。
「なんだと!」
「やめるんだ!」
今にも男につかみかかろうとする健太郎を俊介が間に入って制した。向こうの団体も2-3人の仲間が男を必死で抑えている。
「すみません。彼はちょっと気が短いもんですから・・・」
俊介は相手の団体に頭を下げて謝った。
「先生!悪いのはあっちですよ!どうして先生が謝るんですか!」
「君は黙ってろ!」
俊介の強い口調に健太郎はたじろんで椅子に座り込んだ。
「いえ、こちらこそすみません!さあ、いくぞ!こいつはかかえて連れて行こう」
つれの男性2-3人にかかええられながら男は千鳥足で店の外に出された。
*作らなくてもすむ敵を作るな*
「すみません、つい興奮してしまって・・・。でも先生!あいつのほうが悪いですよ!他人のビールをこぼしておいてあの言い草はないでしょう?」
「まあまあ。腹もふくれたからちょっと場所を変えよう」
二人は近くのスナックのカウンターに腰を掛けた。ようやく気持ちの落ち着いた健太郎に俊介が諭すように話しかけた。
「なあ高岡先生」
「はい?」
「今日は君にひとつだけアドバイスをしてやろう」
「なんでしょうか?」
健太郎は酔いが回ってぼんやりした目で俊介を見つめた。
「作らなくてもすむ敵を作るな」
「作らなくても・・・敵を・・・?」
「作らなくてもすむ敵を作るな」
「作らなくても・・・すむ・・・敵を・・・作るな・・・ですか?」
健太郎はゆっくりと俊介の言葉を繰り返した。
「そうだ」
俊介は水割りを一口飲んで続けた。
「さっきの男がビールをこぼしたとき、君は怒ってつかみかかっただろう?」
「はい。あんまり腹が立ったので・・・」
「あのままほっておいたらどうなったと思う?けんかになったかもしれないな?」
「ええ。先生が止めてくれなかったら多分・・・」
「そしたら君は怪我をしたかもしれない。骨でも折ったらしばらく仕事はお休みだ。逆に相手に怪我をさせていたかもしれない。君の力で取っ組み合いになったら運が悪ければ相手も大怪我するかもしれない。そしたら君は傷害罪に問われることになる」
「まあ・・それはないとはいえませんが・・・」
「頭をぶつけて急性硬膜外血腫を引き起こしたら、場合によっては命にかかわるかもしれない。そしたら君は傷害致死罪だ。もう医者は続けられなくなるかもしれないな」
俊介は真剣な顔で健太郎を見つめながら言った。
「そんな、極端なことを言わないでくださいよ。ちゃんと加減はしますよ」
健太郎は俊介から顔を背けた。
「それだけじゃないぞ。相手が刃物でも持っていたらどうする?酔っ払ってかっときた勢いで君を刺すかもしれないぞ。そしたら君の命にかかわることになる。まあ、蘇生処置はしてやるがね」
俊介は自分の胸を両手で2-3回押して心マッサージをする真似をして見せた。
「おどかさないでくださいよ」
「いや、まるっきり可能性がないとは言い切れないだろう?でも、もし君がビールをこぼされたとき時、『大丈夫。気にしないで』と言えば、今のことは全く可能性がなくなるわけだ」
「それは、そうかもしれませんが・・・」
俊介は水割りを少し飲んで一息つき、話を続けた。
「君は今日、病棟ナースの態度を非難していたが、18時を過ぎて指示を出す時『すみません』と言ったか?」
「いえ・・・。でも『明日、田中さんの採血よろしく』と言ってカルテを渡しました」
「それでナースがもう18時過ぎていますからだめですと言ったわけだな?」
「そうです」
「それで腹を立ててカルテを放り出して俺の部屋に来た」
「はい」
「カルテを渡すときに『時間外ですみませんが、明日田中さんの採血お願いします』と言ったら、やっぱりだめと言われたか?」
「それは・・・わかりません」
「少なくともまだ、会話の余地はあっただろう?」
健太郎は何も言わず、じっと前を見つめている。
「俺が悪かったんでしょうか?」
―素直な男だ―
健太郎は熱くなるのも早いが自分が悪いとわかるとすぐに反省する。それに対して俊介はいつも冷静に振舞い、あまり感情を表に出さない。表立って相手に腹を立てることもないが、その代わり自分に間違いがあってもなかなかそれを認められない。それを自分でもよくわかっているのでこのような健太郎の性格をみるとうらやましいとも思う。
「いや、落ち度はどちらにもあるんだ。ヨッパライの男も悪いし、病棟のナースも君や患者に対する配慮が足りない。しかしお互いに相手の悪いところを責めていたら人間関係は成り立たないだろう?自分がちょっと我慢すれば丸く収まることじゃないか。確かにどうしてもうまくいかず、他人と対立しなくてはならないこともある。でも自分が我慢してすむことなら我慢したほうが結局自分も得をするんだ。作らなくてもすむ敵をつくるな、とはそういう意味だよ」
「先生の言われること、わかるような気がしますが・・・。でも俺にはなかなか難しいかもしれません・・・。でも、なるべく・・・努力してみます」
そう言いながら健太郎は水割りグラスの横にあった水を一気に飲み干し、背もたれに寄りかかって目を閉じた。
彼自身も今日はだいぶ飲みすぎたことを自覚しているようだ。すでに時計は11時を回っていた。健太郎はしばらくしてから目をあけて薄暗い天井の明かりを見つめながらつぶやいた。
「あの二人も・・・」
「え?」
「いえ。片山さんと田中さんのことをふと思い出したんです。奥さんの話では片山さんは人間関係から会社務めがうまくいかず独立したって言ってましたよね」
「そうだったな」
「多分まわり中、敵だらけだったんじゃないかって思うんです。それで独立してそのあとも得意先ともめて無理を重ねてこんなことになってしまった・・・。確かに高コレステロール血症は心筋梗塞の大きな原因だと思いますが、引き金を引いたのは無理をしすぎたことのような気がするんです」
「多分そのとおりだろう」
「田中さんは得意先の社長も言ってましたが、自分から敵を作るような人ではないと思います。ICUにいる時も動けなくてもじっと我慢してナースに冗談も言ってました」
「彼の人柄が野辺山さんの足を病院まで運ばせたってことか」
「野辺山さんが田中さんのことを気にかけずにそのまま自分の会社で休ませてほったらかしにしておいたら・・・」
「そこで心室細動になって心肺停止で病院に担ぎ込まれた・・・」
「今頃は脳死状態になっていたかもしれない」
―なるほど、そのとおりかもしれない―
俊介は黙ってうなずいた。
*呼べないお迎え*
店を出て家路に向かう健太郎はほとんど千鳥足であった。
「大丈夫か?一人で帰れるか?」
「もちろんですよ。ちょっと飲みすぎましたが、アパートはこの近くですから・・・」
そう言いながらも健太郎の足は斜め方向に進んでいる。
「彼女に迎えに来てもらったらどうだ?電話してやろうか?」
「だめですよ!そんなこと・・・だめにきまってます!」
「どうして?一緒に旅行にも言ったんだろ?」
「どうしてでもだめなんです!大丈夫、一人で帰れますって・・・。おやすみなさい・・・」
そう言いながら健太郎はふらふらとよろめきながら帰っていた。
「まあ、いいか。死ぬようなことはないだろう」
俊介もだいぶ酔ってはいたが自宅までは何とか歩いて帰れそうだ。
「明日の外来はつらいな・・・」
俊介はそう思いながら家路を急いだ。
「ところで・・・」
そしてふと足を止めてさっきの会話を思い出した。
「俺のことをひそかに想っているナースって誰なんだ・・・?」
立ち止まる俊介の横を若いカップルが追い越していった。
カルテ2 「敵」 終わりカルテ3(1/3)に続く
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