猫森町すずかけ通り3丁目こぎつねよろず診療所:その2(おさかな)
***「猫森町すずかけ通り3丁目こぎつねよろず診療所」 その2***
ある日、飛び入りで患者さんが入ってきました。今度は若い男の人です。飛び入りっていっても、こぎつね診療所の患者さんて、ほとんどみんな飛び入りなんですけど・・・。
「えっと・・・宇尾野(うおの)・・・さんですね。じゃあ待合室で・・・お待ちください」
のっそりと山中さんが案内します。宇尾野さんは古いソファに座って落ち着かない表情できょろきょろと周りを見回していました。そして張り紙をほんの少しの間じっと見つめていましたが書いてあることには気にも留めず、またそわそわと周りを見回していました。
宇尾野さんは目がちょっとギョロっとしていて、ほんの少しおちょぼ口。細いあご。またまたすみません、たとえなくってもいいと思うんですがそれでもあえて動物にたとえると、魚かな?って私思うんですけど・・・。
「宇尾野さん、どうぞ・・・」
小木先生が呼ぶと宇尾野さんはさっと立ち上がり、そそくさと診察室に入っていきました。
「今日はどうしましたか?」
小木先生が笑顔で聞きます。でも宇尾野さんは落ち着かない表情で下を向いてそわそわしていてなかなか口を開きません。
「ちょっと言いにくいことのようですね?」
小木先生は優しい笑顔で宇尾野さんを見つめました。すると宇尾野さんは意を決したように顔を上げて・・・
「こぎつね先生!僕・・・HIVなんです!」
こぎつねじゃなくって、小木・・・そんなことはどうでもいいんです!それは・・・宇尾野さん・・・私、なんて言ったらいいか・・・。
「HIV。エイズなんです!」
そんな宇尾野さんの言葉を小木先生は黙ってうなずきながら聞いていました。
「僕は血友病なんです。小さいときから凝固因子が不足して輸血を受けていました。その中にHIVのウイルスがいて・・・。数年前にHIVと診断されてからはウイルスの増殖を抑える薬を飲んでいたんですが・・・最近T4(てぃふぉー)リンパ球が減少して・・・ついにエイズを発症してしまったんです」
私は心の底から宇尾野さんに同情します。
「そうですか・・・それは大変ですね。宇尾野さんのお気持ちよくわかります」
小木先生は宇尾野さんの大きな目をじっと見つめながらうなずきました。
「エイズを発症してしまったらもう先はあまり長くないのでしょう?でも・・・僕は死ぬのが怖いわけじゃないんです」
「あの・・・なおらなくたっていいから、HIVのウイルスを消してもらえませんか?せめて他人に感染しないようにしてもらえませんか?」
「僕はHIV陽性と診断されてからすごくまわりに気を使って生きてきました。他人に感染させちゃいけない。周りの人はきっと自分のことをうとんじているんだ。口では優しいことを言っても本当は僕と付き合いたくないんだ。そんな気持ちでずっと生きてきたんです。もう疲れました・・・。これからの短い人生は・・・周りの人に気を使わないで生きたいんです」
しみじみと語る宇尾野さん。きっと思いやりのある優しい人なんです。何も悪いことはしてないのに・・・世の中って不条理・・・。皆さんもそう思いませんか?
「先生!僕のからだの中のHIV、他人に感染しないようにできませんか?」
宇尾野さんは真剣な表情で小木先生をじっと見つめました。
「HIVですか・・・多分、治ると思いますよ」
小木先生はあっけらかんとした顔で答えました。
「????」
宇尾野さんは一瞬小木先生が何を言っているかわからないような感じでぽかんと小木先生を見つめていました。
「宇尾野さんの病気、治せると思いますよ」
小木先生はもう一度優しい声で言いました。
「治せるって・・・エイズが・・・治せるん・・・ですか?」
宇尾野さんは途切れ途切れに聞きました。
「はい。多分ね。治るんじゃないかなー?」
小木先生の言葉に宇尾野さんは大声を上げました。
「いい加減なことを言わないでください!僕は真剣なんです!」
小木先生はちょっとびっくりしてほんの少し腰を引きましたが落ち着いて話を続けました。
「あの・・・治ると思うんですけど・・・エイズ・・・。でも宇尾野さん、あなたは病気を治すためにいくらなら払いますか?」
小木先生は真剣な表情で宇尾野さんを見つめました。
「え?エイズが・・・治ったらですか?そんな奇跡がおこったら一千万でも二千万でも払いますよ」
「二千万。じゃあ・・・1週間後に二千万円用意できますか?」
小木先生がまじめな表情で宇尾野さんに聞きました。
「二千万・・・一週間後に・・・ですか?」
小木先生はニコニコ笑いながら宇尾野さんを見つめています。
「本当に・・・二千万用意すれば僕のエイズが治るんですか?」
「多分・・・治ると思うんですけど・・・。はい、治療費は二千万円にしましょう。でも宇尾野さんが治療効果に満足できなければ治療費はそっくりお返ししますから・・・」
小木先生の真剣な表情をみて宇尾野さんも本気になったようです。
「用意します!二千万!どんなことがあっても・・・」
宇尾野さんはその大きな目を輝かせて小木先生を見つめました。そして小木先生は宇尾野さんから20ccの血液を手際よく採血しました。
さて皆さん、ここで小木先生の診察室のとなりにある大きな機械のことをちょっとお話ししておきましょう。
小木先生の説明によるとこの大きな機械は患者さんの白血球を分離してその中に色々な遺伝子を組み込む機械だそうです。そう言われても素人の私にはよくわからないんですが、とにかくそういう機械だそうです。
病気を治す遺伝子をウイルスに組み込んで(このウイルスをベクターというそうです)それを白血球に感染させてその白血球を患者さんの体の中に戻すんです。すると体の中でそのウイルスがどんどん増殖して次々と患者さんの白血球に感染して新しい遺伝子を全身に運んでいくわけです。
たとえば根小山さんのクローン病っていうのは自分の腸を自分の白血球が攻撃して炎症を起す病気なので、からだの中のすべての白血球に自分の腸を攻撃しないような遺伝子を組み込めば病気は治るというわけです。
でも、小木先生によるともうひとつ大切なことがあるらしいんです。それは患者さん自身の病気を治そうという気持ちです。この気持ちがあれば患者さんの免疫力が安定して治療がうまくいくのですが、それがないとどんな治療をしても病気は治らないそうです。
小木先生が患者さんに多額の治療費を請求するのは患者さんがどうしても病気を治したいっていう気持ちを最大限に引き出すためだそうです。このことを知ってから私、治療費を請求するときの小木先生をちょっとだけ嫌いでなくなりました。皆さんもそうだと私、本当にうれしいのですが・・・。
大きな機械の前で小木先生は一生懸命にコンピュータのキーボードをたたいていました。あーでもない、こーでもないと首をかしげながら小一時間も格闘してようやくほっと息をついて手を下ろしました。そして満足げに隣の部屋へ消えていきました。
一週間後、宇尾野さんがやってきました。
「治療費は準備できましたか?」
小木先生は優しく聞きました。
「・・・はい・・・何とか・・・」
一週間ぶりに見た宇尾野さんはちょっとやつれて見えました。手に持っていたかばんをあけると中には一万円札の束がごっそり・・・。
「両親と相談していなかの家と土地を売ることにしました。代々伝わった家屋だったんですが両親は僕の病気が治るのならと二つ返事で了承してくれました。家のそばに古いアパートがあってみんなでそこに住むことにしました。それでも少し足りなくて・・・両親と一緒に親戚や友人のところをあちこちまわってやっと昨日・・・目標の金額になりました。確かめてください。ちゃんと二千万あると思います」
「その必要はないでしょう」
小木先生はかばんのふたを閉めるとそのまま金庫の中に無造作にしまいました。
「治療費確かに受け取りました」
そう言いながら小木先生は黄色い透明な液体の入った注射器を取り出し、またまたささっと宇尾野さんに注射しました。
「はい。これで終わりです」
「え?」
「宇尾野さんの治療、これで終わりました」
宇尾野さんは注射のあとを抑えながらきょとんとして小木先生を見つめていました。
「二週間ほどしたら主治医の先生に検査してもらってください」
「二週間?二週間したら私のエイズが治ってるって言うんですか?」
宇尾野さんは不安げな様子でそしてちょっと怒ったような声で聞きました。
「あの・・・多分・・・。でも治療結果に満足できなければ治療費は全額お返ししますから・・・その時はまたおいでください」
宇尾野さんはキツネにつままれたような顔で・・・失礼しました・・・あっけに取られたような、でもちょっと不安そうな顔でしばらく小木先生を見ていましたが、黙ってぺこんと頭を下げて診察室から出て行きました。
それから3週間がたちました。例によってこぎつね診療所のドアがバタンと大きな音をだして開き、宇尾野さんが血相を変えて入ってきました。宇尾野さんは受付の山中さんには目もくれず、そして例によって山中さんの最初の言葉がまだ口の中にある間に診察室に入っていきました。
「先生!こぎつね先生!見て下さい!」
宇尾野さんは握り締めた紙をひろげてこぎつね先生、いや、小木先生の目の前に置きました。
「ほら!T4リンパ球の数字が上がっています!HIVウイルスも検出されなくなっているんです!どういうことでしょう?」
宇尾野さんは興奮して小木先生に詰め寄りました。
「どういうことって・・・治ったんじゃないんですかね?宇尾野さんの病気・・・・」
小木先生はニコニコ笑いながら検査データと宇尾野さんの顔を交互に見つめて言いました。
「本当に・・・本当に・・・治ったんですか?僕の病気・・・」
宇尾野さんは信じられないという顔で検査データの用紙をもう一度手に取りじっと見つめました。すると宇尾野さんの大きな目からはそれと同じくらいの大きな涙がぽろぽろと流れ出しました。
「よかったですね」
小木先生はそう言うと右手を宇尾野さんの前に差し出しました。宇尾野さんはその手を両手でしっかりと握りしめ、深々と頭を下げました。宇尾野さんは何か言おうとしていましたが言葉にはなりませんでした。
HIVウイルスは人間のからだに侵入するとリンパ球に感染します。リンパ球は白血球の一種で、身体の中に細菌やウイルスが進入するとそれを感知してやっつけるいわば免疫機能を受け持っているのです。
HIVウイルスはリンパ球の中で増殖し次々と全身のリンパ球に感染していきます。すると免疫を担っているT4リンパ球が減少し、患者さんの免疫力を低下させていくのです。その結果、細菌の感染や癌などを発病し、命を落とすことになります。これがエイズという病気です。
小木先生は宇尾野さんのリンパ球にHIVウイルスを壊してしまう遺伝子を組み込んだウイルスを感染させたのです。その結果新しいウイルスは全身のリンパ球の中で増殖し、HIVウイルスをやっつけてしまったというわけです。もちろん新しいウイルスは小木先生の手により人体に無害なように処理してあることは言うまでもありません。
宇尾野さんは涙をふきながら深々とお辞儀をして診察室から出ようとしていました。その時小木先生が後から声をかけました。
「あ・・・言い忘れましたが宇尾野さん。血友病も治しておきましたから・・・」
宇尾野さんはびっくりして振り向き、小木先生をぽかんとした顔で見つめました。
なんと小木先生は血友病の患者さんに不足している凝固因子を作り出す遺伝子もベクターのウイルスに組み込んでおいたのです。
「おまけですよ。おまけ・・・」
小木先生は優しい目で微笑みました。
私の話をここまで聞いていただいた皆さんはちょっと疑問に思われるかもしれません。だって、こんなすごい治療をしている小木先生がこんな田舎町のはずれでのんびりと診療しているなんて誰が考えてもおかしいじゃないですか。
実は・・・小木先生は昔、大きな大学病院で診療していたのです。そこで今やっている遺伝子治療の研究をしていました。色々な重い病気の患者さんを治す研究をしていたのです。でも研究段階の治療というものはいつもうまくいくわけではありません。小木先生はその治療中にある一人の患者さんを死なせてしまったのです。
17歳の女の子でした。その少女はある不治の病にかかって余命いくばくもなかったのですが小木先生は思い切ってウイルスを使った遺伝子治療をやってみることにしました。もちろんその少女も納得の上です。
でもその時使われたウイルスはちょっとだけ彼女には強すぎて・・・結局その少女は死んでしまいました。小木先生は大変な批判を受けました。大学の教授からも倫理委員会からもマスコミからも、研究段階の治療を行って一人の少女を死に至らしめたひどい医者として批判され、ついには大学病院を追放されてしまったのです。
でも小木先生は自分で研究を続け、自分が行ってきた遺伝子治療を少しでも安全性が高いものへと改良していったのです。もちろん保険診療はできませんし、おおっぴらに看板を掲げるわけにもいかないのでこんな田舎町のはずれでひっそりと診療所を開いているというわけです。
そんなわけでこぎつね診療所にやってくる患者さんというのは、口コミでうわさを聞いた、治らないといわれて絶望した患者さんたちだけなのです。
<その3に続く>
次回はいよいよ「こぎつね診療所」が完結します。多くの方からご評価をいただいた意外なラストをお楽しみに・・・。
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