風の軌跡:カルテ4(1/3)
風の軌跡ー風間俊介診療録ー:カルテ4(1/3)
「高名(こうみょう)の木登り」
緊急内視鏡検査により吐血(とけつ)患者の治療に成功した消化器内科医、長谷川聡。しかしそこには思わぬ落とし穴が潜んでいた。
*吐血*
長谷川聡が医局のソファーに横になってテレビのニュース番組を見ていると突然PHSが鳴った。
“急患入ります。80歳女性の吐血です”
「はーい、すぐ行きます」
―吐血か・・・・―
長谷川聡は今年34歳になる消化器内科医である。今日の当直はほとんど外来患者がなく暇をもてあましていたが、夜11時になってやっと腕を発揮する患者が来たようだ。
消化器を専攻する彼にとって内視鏡は最も得意とする手技で、特に吐血や下血(げけつ)などに対する緊急内視鏡検査は彼が実力を発揮できる場面である。しかも今日の当直看護師は内視鏡室勤務の緒方由香里である。彼は少々太り気味の身体を揺さぶりながら意気揚々と救急室に向かった。
「かなり吐いたのか?」
救急室で受け入れ準備をする緒方由香里に聞きながら長谷川はゴム手袋を着用した。
「救急隊はそれほど多くないと言ってました。最初は食べたものを吐いていたらしいんですが、つい先ほどコップ1杯くらいの赤黒い血のようなものを吐いて救急隊に連絡したようです。意識は清明(せいめい)で、血圧も120くらいあるそうです」
点滴の準備をしながら答える緒方由香里もどことなく余裕があるように見える。やはり自分が得意とする内視鏡検査が必要になるかもしれない患者が来るからだろう。
「血圧が安定しているなら、そのまま緊急内視鏡ができそうだな」
「そうですね」
微笑みながら緒方由香里が答えた。
1分もしないうちに救急車が到着した。
「患者さんは川端いとさん、80歳女性です。夜9時ころ、突然吐き気がして2-3回食物残渣(しょくもつざんさ)を吐かれたようですが、10時半頃どす黒い血液をコップ1杯くらい吐いて救急隊に連絡されました。救急車内でもコップ1杯くらいの血液を嘔吐されています。意識は清明、血圧は最終で124の60です。もともと不整脈で近くのお医者さんから投薬されています。これが投薬内容を書いた用紙です」
「ごくろうさまです」
今内服している薬剤がわかることはこれからの診療を進めていく上で極めて有用なことである。今日の救急隊はなかなか優秀な隊員のようだ。
「ジゴシンにニトロール・・・それから・・・アスピリンか。じゃあ、胃潰瘍の可能性があるな」
アスピリンは「血小板」という血液を凝固させる物質の働きを抑える薬剤である。心筋梗塞や脳梗塞などの予防目的によく使用されるが、まれに胃潰瘍の原因となることがある。吐血の原因は胃癌や食道静脈瘤破裂などいろいろあるが、アスピリンを内服中の患者が吐血したということはまず出血性胃潰瘍の可能性が高い。
患者はすでに救急室のストレッチャーに移され、若い当直看護師が点滴のための注射針を左手に刺そうとしていた。
「あー点滴は右手ね。内視鏡する時は左を下にして横向きになるから点滴が落ちないわよ」
緒方由香里の指示に若い看護師はあわてて反対側へ移り、点滴の針を刺した。
「点滴が入ったらレントゲンと心電図をとってから内視鏡室へ運ぼう。血液検査は入院時一式検査に加えて血液型も調べてくれ。緒方さん、内視鏡の準備よろしく」
「わかりました」
内視鏡室主任の緒方由香里は37歳になる。結婚して5年になるがまだ子供はいない。ちょっと小太りで一見動きが鈍そうにも見えるが、仕事はてきぱきとスムーズにこなす。特に内視鏡の扱いに関しては院内で右に出るものはいない。緊急内視鏡の準備も彼女なら5分とかからないはずだ。
「川端さん、わかりますか?今からレントゲンを撮って、そのあとで胃カメラをしますからね。出血しているところを見つけて血を止めてきますから安心してください」
長谷川がこう話しかけるや否や患者は苦しそうな表情をした。
「膿盆をくれ!」
長谷川が叫んだ。看護師が金属の皿を患者の横に置くとほとんど同時に患者は黒いものを嘔吐した。
「点滴の中にアドナとトランサミンを入れてくれ!」
長谷川は窒息を防ぐために患者の頭を横に向け、止血剤の指示を出した。そしてそのままストレッチャーを押して患者をレントゲン室に運んだ。
*緊急内視鏡*
レントゲンを撮っている間に長谷川から家族に内視鏡検査の説明がなされた。50代と思われる長男は高齢の患者に内視鏡検査が無事にできるのかどうか心配していたが、消化器内科医である長谷川の説明に納得し、少し安心したようだ。
カルテを記載していた長谷川はシャーカステンにかけられたレントゲンフィルムをじっと見つめた。
「少し心臓が大きいな。腹部レントゲンは・・・異常なさそうだな。貧血はあるか?」
「ヘモグロビン11.2です。」
女性のヘモグロビン値は12-14g/dl程度だ。11.2という数字はやや少なめだが高齢者ならこんなものだろう。血圧も低くない。それほど大量の出血はしていないということだ。
「貧血はたいしたことないな。でも高齢だから輸血の準備もしておこう。血液型がわかったらMAP(マップ)4単位交差しておくように検査室に連絡しておいてくれ」
MAPとは輸血用赤血球濃縮製剤の略称である。献血200mlから作成される量が1単位なので4単位ということは800mlの献血血液から作成される量だ。輸血を行うときは血液型が同じ血液を使用することは当然であるが、さらに交差試験と言って実際に患者の血液と輸血用の血液を混合して異常な反応が起こらないかどうかを確認する。これを交差試験またはクロスマッチと言う。
「わかりました」
「さあ、心電図が終わったら内視鏡だ」
出来上がった心電図を見ながら長谷川はじっと考え込んだ。
「不整脈があるな・・・心房細動(しんぼうさいどう)だな。多分以前からこの不整脈の治療を受けていたんだろう・・・」
心電計の自動解析で「心房細動」という診断が出ている。消化器が専門の長谷川は心電図に関してはあまり得意ではない。しかし心房細動ならばとりあえずは緊急を要する所見ではなさそうだ。
「さあ、内視鏡室に運ぼう。緒方さんがしびれを切らして待っているぞ」
胃カメラなどの上部消化管内視鏡を行うときは咽頭麻酔をしてから行う。麻酔をしないでファイバーを挿入すると「おえっ!」という嘔吐反射が起こり、非常に苦しい。ゼリー状の麻酔薬をのどに5分くらい含ませて嘔吐反射を抑制してから行う。しかし緊急の場合は患者の状態が悪く、それを行う余裕がない。その代わり麻酔薬が静脈内に注射され、患者は眠った状態で検査が行われることが多い。
「川端さん、今から麻酔を注射しますからね。少し眠くなりますよ」
緒方由香里が手馴れた手つきで点滴のラインから麻酔薬を混入した。長谷川は患者の呼吸状態を確認しながら内視鏡を手に取り、ゆっくりと患者の口に挿入した。患者は一瞬嘔吐するようなしぐさを見せたが内視鏡はスムーズに挿入された。
「赤いな・・・」
食道を観察しながら長谷川はつぶやいた。モニター画面には赤い色の血液が噴き出すようにあふれている。長谷川は血液を吸引しながら内視鏡を胃の中まで進めた。胃の中には黒い血液が充満している。
血液は出血した直後は赤い色をしているが、胃液と混合すると黒い色となる。出血源が胃の中にある場合、吐血すると黒っぽいものを吐くことが多いのはこのためである。
長谷川は内視鏡の先端から水を注入し、胃の中の血液を洗いながら細かく観察していった。
「胃の中は出血源なしだ。やはり食道だな」
胃の中で内視鏡をぐるりと180度反転させて胃の入り口を観察しながら長谷川聡はつぶやいた。赤い血液が食道から胃の中にぽたりぽたりと落ちている。長谷川は内視鏡を食道まで引き抜いて水を注入して血液を洗いながら丁寧に観察していった。
「ここだ!」
長谷川が叫んだ。
「ほら。ここから血液が噴出しているだろう?」
「本当、ECジャンクションですね?」
「そのとおりだ。マロリーワイスだな」
マロリーワイスとは胃と食道の接合部(ECジャンクション)が裂けて出血する疾患である。嘔吐などの機械的刺激によって粘膜が裂けて出血するのだ。
「止血クリップを準備して」
「もう準備してあります」
緒方由香里は得意顔で長谷川に止血クリップが装着されたカテーテルを手渡した。内視鏡で出血を止める時には止血クリップという道具がよく使用される。金属でできた大きさ7-8mmの小さなクリップで出血している血管をつまんで止血するのだ。止血クリップは長いカテーテルに装着され、内視鏡の鉗子孔(かんしこう)から挿入できるようになっている。緒方由香里は止血クリップが使われることを最初から予想して準備していたのだ。
「さすが、早いな・・・」
長谷川は出血の部位を見失わないように慎重に観察しながら止血クリップを内視鏡の鉗子孔から挿入し出血部に近づけた。
「よし。クリップを開いてくれ」
「はい」
緒方由香里が手元のカテーテルを操作すると、胃の中で止血クリップが足を開くように広がった。長谷川は開かれた止血クリップを出血部に押し付けた。
「閉じて!」
「はい!」
バチッという音と共に小さな止血クリップが食道の粘膜をつかんだ。
「どうだ・・・とまったな?」
「はい、とまりましたね・・・」
先ほどまで真っ赤に染まっていた食道の内部は詳細に観察できるようになり、正面には止血クリップが粘膜をつかんでゆれていた。これで止血は完了だ。
止血クリップで出血を止めるときは出血している血管に正確にクリップをあてがう必要がある。血液がほとばしっているときは内視鏡画面の観察もしにくく、一回でうまく止血できることはそれほど多くない。たいていは2-3回、時には5-6回以上も同じ操作を繰り返す必要がある。出血部位の周辺にハリネズミのように止血クリップが立ち並ぶこともまれではないのだ。
今日の長谷川の内視鏡操作はまるで狩をするヒョウのように一発で獲物をしとめたというわけだ。
「よし。終了!」
長谷川は他に出血部位がないかゆっくり観察しながら内視鏡を引き抜いた。
「川端さん!終わりましたよ!出血止まりました。もう大丈夫ですよ」
そう言いながら長谷川は患者の顔を覗き込んだ。川端いとは麻酔のため意識はもうろうとしているが、声は聞こえるらしく、むせながらも軽くうなずいている。
内視鏡室を出た長谷川は家族に、食道と胃の間から出血していたこと、内視鏡により止血処置が成功し、現在は止血されていること、明日まで軽い麻酔がかかった状態で経過観察することなどを説明した。患者が消化器内科医により適切に処置されたことを家族が喜んだのは言うまでもない。
「でも先生。うちのばあちゃん、どうしてあんなに吐いたんでしょうか?」
「え?それは・・・多分なにか食べたものが悪かったんじゃないでしょうか・・・」
長谷川は患者が退室した後の内視鏡室で所見をコンピューターに入力していた。その横では緒方由香里が内視鏡の後片付けをしていた。
「長谷川先生、今日の患者さんは運がよかったですよね」
「ああ・・・そうだよな。俺と緒方さんの当直の日に吐血したんだからな。こんな確率はめったにないぞ」
二人は笑いながらそれぞれの仕事を進めていった。すべての仕事が終了したのは午前1時をまわっていたが長谷川は疲れを感じなかった。むしろ自分が一人の患者を救えたことに心地よい満足感を感じていた。しばらく当直室のベッドで横になり午前2時ころまではなかなか眠れず今日のことを思い出したりしていたが、知らないうちに深い眠りに落ちていた。
*徐脈*
長谷川は当直室の電話の呼び出し音で目を覚ました。
「・・・はい・・・・」
“すみません、先生。川端さんなんですが・・・。あれから吐血はないんですけど、吐き気がおさまらないんです。動くと気持ち悪いとおっしゃって・・・。それからずっと頭痛があるんですが・・・”
病棟の看護師からだ。長谷川が時計を見ると午前5時をちょっとまわっている。
「吐き気がするのは多分何か悪いものを食べたからだろう。頭が痛いのはまだ静脈麻酔の影響が残っているからだろうな。じゃあ・・・プリンペランを今の点滴の中に追加しておいてよ。それから頭痛はしばらく様子みてくれ。だんだんおさまってくると思うから・・・」
“わかりました。プリンペランを追加ですね。それから・・・脈が不整で、ちょっと徐脈なんです。40から50くらいなんです”
「ああ・・・不整脈はもとからあったから心配ないよ。脈が遅いのは多分、前の病院でジギタリスを投与されていたからじゃないかな?そのまま様子見ていいよ」
“わかりました。ありがとうございます”
ジギタリスは心房細動のときによく使用される薬剤で脈を遅くする作用がある。受話器を置いた長谷川はちょっと気になったが、新たな吐血がないことに安心して再び眠りについた。今日はあまり外来患者が来ないことに感謝しながら・・・。
「・・・朝になったら一度循環器の河野先生に心電図を診てもらおう・・・」
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