風の軌跡:カルテ5(1/4)
風の軌跡ー風間俊介診療録ー:カルテ5(1/4)
「牡丹灯篭(ぼたんどうろう)」
「亡くなった妻がお盆の夜に幽霊となって迎えに来る」 俊介と健太郎は怪談まがいの奇妙な患者の病態を解明できるのか?そして8月15日の夜・・・。
*困った患者*
―ちょっと寒いかな・・・―
俊介は自室の冷房スイッチを消した。8月でも午後8時を過ぎると冷房完備の病院の中は涼しいくらいだ。
―動き回っている職員はちょうどいいかもしれないが、じっと寝ている患者さんたちには少し寒いんじゃないか・・・?―
そんなことを考えながら俊介はたまっている書類と格闘していた。俊介の机の上には、介護保険の書類や、訪問看護の書類、身体障害者の申請のための書類などが毎日山のように届けられる。開業医ならばこれらの書類は1枚いくらで収入源となるため励みにもなるのだろうが、勤務医である俊介にとっては何枚書類を書こうが1円の金にもならない。書いた分だけ病院の収入となるが、俊介には疲労だけがたまるというわけだ。
「まあ・・・この積み重ねで俺達の給料も払われるんだからな・・・」
そうつぶやきながらもくもくとペンを走らせる俊介であった。
管理職である俊介には原則として時間外勤務手当はつかない。その代り定額の管理職手当が毎月支給される。このような管理職の給与体系はどこの施設でも同じであるが、S市市民病院の一般医師の給与体系はかなり特色を持ったものになっている。
一般医師には基本給に加えて時間外手当、当直手当などが支給されるが、それに加えて歩合給が支給される。これは個人の働きにより評価されるものであるが、S市市民病院で評価の対象となるのは患者数でも検査数でも手術成績でもない。「患者の満足度」である。
その医師の診療を受けた患者がどれだけ満足感を得られたかをアンケート調査をして点数化し、その合計点数が歩合給として加算される。だからたくさん患者を診てもそれぞれの患者の満足度が低ければ給与は上がらない。
医師は患者の満足度を上げるためにきちんとした医療を行うことはもちろん丁寧に説明をし、トラブルにもきちんと対応する必要に迫られる。だから最終的に患者を救命できなかったとしても医師がしっかりと対応し、家族が行われた医療に対して満足していればその医師の評価は高くなるということだ。
俊介のすべての書類が完成したのは夜9時を回った頃だった。凝った肩を回しながら帰りじたくをしているといつものように高岡健太郎がやってきた。
―こいつはいつも俺が帰ろうと思うとやってくる・・・。俺の部屋に監視カメラでも置いてあるんじゃないか?―
そんなことを考えながら俊介は健太郎をソファに座らせた。
「それで・・・今度は何だ?」
「そんな言い方をしないでくださいよ、風間先生・・・。今日はナースとのトラブルじゃなくって患者さんのことなんです」
ちょっと不機嫌そうな顔で健太郎が答えた。
「新田三郎さんのことなんですけど・・・」
「新田三郎さん?ああ・・・確か40代後半のアルコール性肝硬変の・・・」
俊介の返事にうなずいた健太郎が困り果てた顔で話し始めた。
「新田さんは3週間前に黄疸(おうだん)と腹水(ふくすい)がひどくて入院になったんですけど、検査の結果ウイルス性肝炎の可能性はなくて、結局アルコール性肝硬変という診断になったんです」
「ああ・・・そうだったな。何でも奥さんが亡くなってから自暴自棄になってアル中になったって自分で言ってたっけ・・・」
俊介の言葉に健太郎はうなずいた。
「そう・・・そうなんです。入院してから肝機能は回復して腹水や黄疸も改善していたんです。それが、2-3日前からまた悪くなって・・・。おかしいなと思ってたんですよ。そしたら昨日ナースがベッドの下から酒のビンを見つけたんです」
「誰が持ってきたんだ?」
「自分で買ってきたんですよ。調子がよくなったので散歩くらいは許可していたんです。そしたら新田さん、自分で病院の前のコンビニへ行って日本酒の小さいビンを何本か買ってきたらしいんです」
「それはちょっと問題だな・・・」
「そうでしょ?ですから昨日俺、注意したんですよ。『こんなもん飲んだら何のために入院しているかわからないじゃないか』って・・・。そのときは、はいはい・・・ってわかったようなことを言ってたんですが、昨日の夜もまた酒を買ってきて飲んでたんですよ!さすがに今日は俺も堪忍袋の尾が切れてちょっと大声を出して叱ったんです」
「そしたら?」
「もう新田さん完全に開き直っちゃって・・・。『俺の金で買った酒を俺が飲んでどこが悪い!あんたに指図される筋合いなんかないだろ!』って捨てぜりふを吐いてふらふらしながら部屋から出て行っちゃいました。同室の患者さんの手前、それ以上何も言わなかったんですが・・・」
「まあ・・・アル中の患者っていうのはなかなか酒はやめられないもんだが・・・。しかし病室で飲み始める患者はそれほど多くないがな・・・。たいていはもう酒は金輪際(こんりんざい)やめましたって言いながら退院して、しばらくしてからまた酒の匂いをぷんぷんさせて入院してくるもんだ」
健太郎は「その通り」というようにゆっくりうなずいて話を続けた。
「ちょっとひどいでしょ?まあ・・・確かに新田さんの気持ちもわからないではないんです。奥さんを4月に亡くして、子供さんもなくて他に身よりもないんです。多分寂しくなってつい酒に手を出してしまうんでしょうが・・・」
自分の気持ちを俊介が理解してくれて、健太郎にも少し患者に同情の気持ちが出てきたようだ。
「でも俺がやめろって言っても、とても言うことを聞くようには思えません。先生、わがままな患者さんに言うことを聞かせる方法、何かご存じないですか?」
俊介はちょっと困った顔をして考え込んだ。
「そんな便利な方法があればこっちが知りたいくらいだよ。でも、もう少し・・・うまいやり方があるような気がするがな」
「どんなやり方ですか?」
俊介はソファに深く腰をかけなおして健太郎に聞いた。
「君は新田さんに腹を立てているわけだな?」
「そうですよ。病室で酒を飲んで開き直られたんじゃ腹も立ちますよ」
「まずそこが問題なんだよ」
「どうしてですか?医者も人間ですよ。腹だって立ちますよ」
健太郎は俊介に食って掛かった。
「医者っていうのはな、患者を叱ってもいいが腹を立ててはいけないんだよ」
「そんな事言ったって・・・」
健太郎は不満そうに下を向いた。
「俺が学生時代に聞いた話をしてやろう」
俊介は凝った首と肩を少し回しながら話を始めた。
「昔、ある医局で外国の偉い教授に講演を依頼したんだ。講演が終わったあと、その外人教授が専門にしている疾患の患者を5-6人回診してもらったそうだ。医局の若い先生たちの緊張は大変なもんだった」
「そりゃあ大変ですよね・・・。外人さんの教授回診なんて初めてでしょうから・・・。いつもとは全然違う緊張感だろうな」
「最後の一人はなかなか病気がよくならず長いこと入院していた中年の男性だった。その男性はな、こともあろうかその外人の教授に食ってかかったんだ。あんたが診たって俺の病気なんか治るわけないんだってね」
「え?そんなことを・・・。それは・・・かなりヘビーな場面ですね」
「もちろん彼は日本語は理解できなかったが患者さんの態度から何を言いたいのかはよくわかった。その医局の教授もそうだが、若い医局員のあわてようといったらなかったそうだ。特にその患者の主治医はな・・・」
「同情するなー。その主治医の先生に・・・」
「その若い主治医はあわてて患者を制してなだめた。医局の教授は外人教授にひたすら頭を下げてあわてて病室の外へ連れ出そうとした。しかしな・・・その外人さんはその教授を手で制して立ち止まり、こう言ったんだ。『No problem! He is sick, we are not sick!』」「He is sick, we are not sick・・・・?」
「意味がわかるか?高岡先生・・・」
健太郎は俊介が言った言葉の意味をゆっくりと考えた。
「・・・えっと・・・。彼は病気だが、私たちは健康だ・・・。患者さんが私に腹を立てるのは病気のせいだから・・・私は気にしていないってことですか?」
「そういうことだ・・・。俺達は医者だ。患者を治す立場にあるんだ。その俺達が患者と同じ土俵でやりあってどうする?」
俊介はゆっくりとソファに座りなおして続けた。
「そのあと、その外人さんは悪態をついた患者のほうに歩みよって、両手で手を握って微笑みかけてから病室を後にしたそうだ」
「・・・・・・」
「言うことを聞かない患者に言うことを聞かせる方法・・・『患者に腹を立てるな』それがまずひとつだ」
「・・・はい・・・」
「あとは・・・自分で考えることだな。どうしたら新田さんが君の言うことを聞いて酒をやめてくれるか」
「そんな・・・もったいつけずに教えてくださいよ。風間先生・・・」
健太郎はちょっと情けない声を出した。俊介は黙って健太郎のほうを見ながら微笑んだ。
「しかし、病室で酒を飲むのは他の患者さんのこともあるからちょっと困るな・・・。俺からもちょっと言ってみるよ」
「お願いしますよ・・・。先生・・・」
*枕パス*
翌日、健太郎は病棟で回診の準備をしていた。
「どうだい?川村師長さん、新田さんの様子は・・・」
「昨晩はお酒のビンはなかったようだけど・・・。夜勤の看護婦に聞いたらやっぱり少しお酒のにおいがしたって言っていたわね。どこかに隠し持っているんじゃないかしら・・・」
健太郎は椅子の背にもたれかかって天井を見上げた。
「もう完全に開き直ってるな。あんな患者が言うことを聞くものか・・・。どうせ自分の身体が悪くなるだけだ。自業自得だよ」
「そんな冷たいこと言っちゃだめよ。新田さんは先生の患者さんなのよ。先生が手を離したら誰が診てあげるの?それこそ自暴自棄になって今度こそ取り返しのつかないことになってしまうわ」
川村師長は自分の子供を諭すような口調で健太郎に言った。
「それはそうなんだけど・・・。どうしたら・・・」
「高岡先生はすぐかっとなってけんか腰になってしまうから余計患者さんも反発するのよ。ドクターなんだからもっと我慢しなきゃ・・・。風間先生なんか患者さんから何を言われてもいつも平然として『はい、すみません』って頭を下げているわよ」
「・・・昨日その風間先生に言われたよ。患者さんを叱ってもいいが腹を立てるなってね。じゃあ・・・今日はちょっと自分を押さえて話をしてみようかな・・・」
「それがいいわ。それから先生、前からお願いしていた看護実習の件なんですけど・・・」
「看護実習?ああ・・・看護学生さんに新田さんを受け持ってもらうっていうことですか?ああ・・・そうでした。でも・・・大丈夫かな。今の新田さんに学生さんの実習なんかお願いして・・・」
「ええ。私も迷ったんだけど、ああいう人とコミュニケーションをとるということもすごく勉強になることだと思うんです。さっき新田さんにはもう一度お願いしたんだけど、機嫌がよかったのか『好きにしてくれよ』って言ってたわ。それに、話をする人がいたほうが新田さんも落ち着くんじゃないかって思うんだけど・・・」
「そうか・・・そうかもしれないな。で、今日からその看護学生さんくるの?」
「はい。午後から実習に来ますので先生もよろしく教えてやってくださいな」
「わかりました。じゃあ・・・ちょっと新田さんのところへいってきますから・・・」
「冷静にね、高岡先生」
「わかってますって」
健太郎は少し重い足取りで新田三郎の病室に向った。
―冷静に、冷静に、俺は医者なんだ―
彼はそうつぶやきながら部屋の壁をノックした。
「おはようございます。新田さん」
「・・・あんたかい・・・・」
新田三郎は健太郎の顔をちらっと見てつっけんどんに答えた。健太郎は少しむっとしたが、ここで腹を立てては医者として失格だと自分に言い聞かせた。頭の中で昨日聞いた『He is sick, we are not sick.』を思い出しながら、ちょっと引きつった笑顔で、できるだけゆっくりとした口調で話し始めた。
「今日は(ご気分は)いかがですか?」
「良くも悪くもねーよ」
新田三郎は健太郎の顔を見ずにテレビを見ながら面倒くさそうに答えた。確かに少しアルコールのにおいがする。やはり飲んでいたのだ。しかしそれをあからさまに言えば怒り出すに決まっている。健太郎はできるだけ遠まわしに聞いた。
「新田さん、お酒やめてもらえましたか?」
「酒?飲んでねーよ。こんなとこで酒飲んだってまずいだけだが・・・」
相変わらず健太郎の顔を見ずにしらばくれる新田三郎に健太郎もだんだん腹が立ってきたが、ぐっとこらえて話を続けた。
「昨日も言いましたけど、新田さんの病気はすべてお酒が悪さをしているんです。お酒をやめていたときは黄疸も腹水も肝臓の数字もよくなっていたじゃありませんか。お酒を飲むとせっかくよくなった肝臓がまた元に戻ってしまうんですよ」
「うるせーな!飲んでねーって言ってるだろうが!」
新田三郎は健太郎の顔を見て目を吊り上げて怒鳴った。
「でも、今もかすかに酒のにおいがするじゃないですか。夜勤のナースも酒のにおいがしたって言っているんです。隠したって血液検査をすればわかることでしょう?」
「わかるんなら聞かなきゃいいだろ!患者の言うことを信用しねーで何が医者だ!」
そう言いながら新田三郎は手元の枕を健太郎に投げつけた。健太郎は無意識にその枕を受け取った。まるでラグビーのパスを受け取るように・・・。
健太郎はしばらくそのままじっと新田三郎を見つめていたが、あきらめたように枕をベッドの上に放り投げて病室を後にした。
―だめだ・・・あの患者は・・・。もう知るもんか・・・。俺はやるだけのことはやったんだ。あとは患者の人生だ、俺の知ったことじゃない。酒でも何でも飲んで肝不全にでも肝癌にでもなればいいじゃないか。そのときになって泣きついてきてももう知らないからな!―
健太郎は無言でナースセンターに入ってカルテを取り出し、「禁酒を強く指示するが、患者は聞く耳持たず。枕を主治医に投げつける」などと殴り書きで記載した。
カルテ5(2/4)に続く
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