風の軌跡:カルテ6(1/4)
風の軌跡ー風間俊介診療録ー:カルテ6(1/4)
「妖怪やまびこ」
俊介たちの懸命な治療により致死的な肝不全から生還した自殺未遂患者、山本彦太郎。彼は俊介に自分のことを「妖怪やまびこ」だと言った。
*月曜日 深夜*
プルルルー・・・プルルルー・・・
「・・・はい・・・風間です・・・」
俊介は寝ぼけまなこで自宅の電話をとった。
“夜分すみません。当直の高岡です”
「ああ・・・高岡先生か。どうしだんだ?」
俊介がチラッと時計を見やると午前3時を回ったところだ。
“すみません。患者さんのことでちょっと御相談したくて・・・”
高岡健太郎は3年目の後期研修医であるがS市市民病院では3年目でも9月まで一人では当直を行わない。内科医の誰かが院内にいるはずであり、健太郎に何かトラブルがあればまずその医師に相談することになる。今日の当直は健太郎と呼吸器内科の津川信行のはずだ。
“実は先ほど自殺未遂の薬物中毒の患者さんが転送されてきたんです”
「薬物中毒?津川先生も診てくれているのか?」
“はい。でも病棟の喘息の患者さんが重責(じゅうせき)発作(重症の喘息発作)を起こして、その処置にかかりきりなんです。この患者さんもちょっと診ていただいたんですが、津川先生もあまり自信なさそうなので・・・”
「詳しく話してくれ」
熟睡中に起こされた俊介も健太郎の話を聞いているうちに少しずつ頭がはっきりしてきた。
“患者さんは52歳の男性です。午前2時頃、自宅の書斎で倒れているのを奥さんが発見して救急車で転送されてきたんです。机の上に遺書があって、ゴミ箱には大量の薬の空き箱が捨てられていました。意識レベルは300で痛覚(つうかく)刺激にも反応がありません”
意識障害の程度判定には1、2、3、10、20、30、100、200、300の9段階があり、1,2,3の一桁の数字は覚醒(かくせい)している状態、10,20,30の二桁の数字は呼びかけで覚醒する状態、三桁の100,200,300は呼びかけても覚醒しない状態で、中でも300は痛み刺激にも全く反応しない重度の意識障害である。健太郎は説明を続けた。
“マーゲンチューブ(鼻から胃まで挿入される管)を挿入して胃洗浄(いせんじょう)をしたんですが、薬剤はあまり吸引できませんでした。多分夜10時頃に服用されたようです。このまま点滴を続けて様子をみていいでしょうか?”
「飲んだ薬剤の種類と量はわかっているのか?」
“はい。奥さんが薬の入れ物を持参されています。市販の風薬と睡眠薬です”
「呼吸と血圧は大丈夫だな?」
“はい。意識はありませんが自発呼吸はしっかりしています。ただ胃洗浄のときに誤嚥する危険があると思ったので気管内挿管をしています。血圧は110と70です。”
「よし。じゃあ、さしあたってあわてなくていい。まず内服した薬剤の成分をみてアセトアミノフェンの総服用量を計算するんだ」
“アセトアミノフェンですか?”
健太郎がけげんそうな声で聞いた。
「そうだ。アセトアミノフェンの服用量だけすぐ計算してもう一度連絡してくれ」
そう伝えて俊介はパジャマを脱ぎ、出かける準備を始めた。
夜中の3時に起こされて病院へ行くのは若くはない俊介には少々きつい。しかし今救急室にいる患者は自分が行かなくては助からない患者かもしれない。そう考えるとつらいなどとは言っていられない。
俊介が上着をはおったとき、二度目の電話が鳴った。
“先生、高岡です。アセトアミノフェンの総服用量は20gから25gくらいです”
「25g・・・かなり多いな」
“はい。風邪薬や解熱鎮痛剤(げねつちんつうざい)を200錠以上、飲んだようです”
アセトアミノフェンは小児にもよく使用される比較的安全な解熱剤である。成人の場合、普通一回0.5g程度が使用される。多量に服用してもその量が5g以下ならばまず大きな問題はない。しかし10g以上になると重篤(じゅうとく)な肝障害を発症する危険が高い。電話の向こうの患者は25g近く服用しており、ほとんど致死量に近い。
「よし。マーゲンチューブはまだ入っているな?」
“はい”
「まずそこからムコフィリンを40ml注入するんだ。ムコフィリンはアセトアミノフェンの拮抗薬だ。それからマグコロール250mlと活性炭(かっせいたん)を30gゆっくり注入してくれ。薬物の吸着作用がある」
“ムコフィリンを40mlと、マグコロールと・・・活性炭30g・・・ですね”
受話器を左手で持ちながら健太郎は走り書きでメモをとった。
「そうだ。それから体外循環が・・・血液吸着が必要だ」
「血液吸着ですか?」
血液吸着は体外循環により血液中の薬物を抜き取る処置である。
「そうだ。君は体外循環用のカテーテルは入れたことがあるか?」
“透析用のダブルルーメンカテーテルですか?2-3回入れたことがあります”
「そうか。じゃあさっき伝えた処置が終わったら入れてくれ。その間に行けると思うから・・・」
“わかりました。お願いします、風間先生”
*アセトアミノフェン中毒*
俊介が救急外来の扉を開けると当直の酒井美穂がちょっと微笑んで会釈した。
「風間先生、こんな夜中に申し訳ありません」
「今日は君が夜勤なのか。ご苦労様」
俊介は月に1回しか当直業務を行っていないが、かといってそれ以外の日は自宅で休んでいられるわけではない。俊介は他の内科医に何かトラブルがあれば時間外でも必ず連絡するように伝えてある。電話で済むような用事もあるがこうして眠い目をこすって病院に出てこなくてはならないことも多い。
俊介は昨日も他の医師から呼び出され、夜中の2時まで病棟患者の診療を行っていた。50の声が近くなった身体には確かにきついが、それが内科部長としての責任だと俊介は思っている。
自分の身体に鞭打って病院にやってきた俊介だが、お気に入りの酒井美穂の顔を見るとほんの少し気持ちが上向きになる。高岡健太郎はちょうど透析用のカテーテルを患者に挿入し終わったところだった。
「終わったか?うまく入ったか?」
「はい、大丈夫だと思います。今ナート(縫合:ほうごう)しているところです」
健太郎はカテーテルを皮膚に縫合しながらちらと俊介を見て答えた。
『山本彦太郎 52歳』
机の上においてあるカルテの表紙にはそう記されていた。
「病室の準備は?」
「ICUがあいていたのでお願いしました」
「よし。じゃあ処置が済んだらICUに運んでくれ。俺は血液吸着の準備をするから・・・」
そう言いながら俊介は透析室に足を運んだ。
血液吸着は一種の体外循環治療で、患者の身体から血液を抜き取り、吸着用の円筒形のカラムの中を通して薬物を吸着して除去した後、再び患者に血液を返す。大量に服用した薬物が臓器障害をきたす前に体外に除去するわけだ。腎不全の患者に行われる血液透析とよく似ているが、方法は血液透析に比べて比較的簡単で腎臓が専門でない俊介も血液吸着は何例か施行したことがある。
俊介は透析室からICUに機械を運び込んで血液吸着の準備を始めた。しばらくするとICUのドアが開いた。
「お願いします!ちょっと早かったでしょうか?」
健太郎と酒井美穂がストレッチャーを押しながら入ってきた。
「いや。準備はもう終わるところだ」
そう答える俊介を横目に見て、健太郎と美穂がストレッチャーをICUベッドに横付けした。ベッドに移された患者にモニターや酸素投与のためのマスクが装着されると酒井美穂とICU看護師の栗原香苗の間で申し送りが行われる。
栗原香苗は32歳になるICUの主任看護師である。すらりとした長身でほりの深い顔と長い手足が印象的だ。酒井美穂はテーブルの上でカルテを開いた。
「患者さんは山本彦太郎さん、52歳男性です。午前2時頃に意識がない状態で発見され、救急転送されました。10時頃に大量の薬物を服用したようです・・・・・」
酒井美穂と栗原香苗は同期生で学生時代からの仲のよい友人であるが、申し送りは普段の会話口調ではなく、きちんとした丁寧語で行われる。その間に俊介と健太郎は血液吸着の機械を患者のベッドサイドに運んで体外循環をする準備を始めた。
申し送りが終わると栗原香苗がそれに加わった。彼女は手馴れた手つきで患者に挿入されたカテーテルと回路をつないだ。俊介が血液ポンプを始動させると血液がゆっくり回路を流れ、機械に装着された円筒状のカラムに吸い込まれるように移動していく。俊介は機械の設定を行い、血液が循環する様子を確認しながら健太郎に聞いた。
「家族は来ているのか?」
「はい。発見者の奥さんが救急車で一緒にこられました。胃洗浄をしたあとで、薬物を除去するために血液吸着を行うことは説明しました」
「予後(よご)については何か話をしたか?」
「いいえ。でも現在意識がないことと、これからどこまで状態が戻るかはわからないということは話しました」
「そうか・・・。じゃあ、俺からも話をしよう」
集中治療室の横の医師記録室に夫人が呼ばれた。患者は52歳と俊介より年上であるが、夫人は俊介よりずっと若く見えた。40そこそこであろう。
「山本さんですね。こちらにお掛けください。内科部長の風間と申します」
「こんな夜中に・・・申し訳ありません。山本の・・・家内でございます・・・」
夫人は憔悴(しょうすい)して疲れきった様子であるが上品な口調で静かに答えた。
「まずご主人の現在の状態から説明します。ご主人は今意識がありません。痛覚刺激を加えても手足も動かさず目を開けることもありません。しかし呼吸や心臓の動きはしっかりしています。血圧も安定しています。さし当たって命には問題ないように思います」
命は大丈夫と聞いて夫人の顔には少し安堵(あんど)の様子が伺えた。
「そうですか・・・。でも・・・やはり意識はないのですか。それで・・・元に戻るんでしょうか?」
「意識がないのは多分大量に服用された睡眠薬の影響だと思います。救急車で運ばれてからすぐに鼻から胃にチューブを挿入して胃洗浄を行い、今、血液吸着という方法で薬物を除去しています。薬物が身体から除去されれば1-2日で意識が回復する可能性が高いと思います」
「本当ですか!じゃあ、またしゃべれるようになるんですね!」
夫人は大きな声を出し、そして真剣なまなざしで俊介の顔を見つめた。
「その可能性は十分あると思います。しかしひとつだけ問題があります」
俊介は患者が服用した薬の空き箱を取り出して夫人に見せた。
「風邪薬の成分にアセトアミノフェンという薬剤が含まれています。この薬は通常の量を服用していれば非常に安全な解熱鎮痛剤です。しかしご主人のように大量に服用されますと重篤な肝障害を引き起こします。10g以上内服すると肝障害が必発とされていますが、ご主人は高岡先生の計算によると25g程度服用されたようです」
「25g・・・。じゃあ・・・主人の肝臓は・・・」
「現在の治療でどこまで肝障害を軽減できるかわかりませんが、今から1-2日後にかなり重篤な肝障害を発症することが予想されます」
俊介は夫人の目を見ながらゆっくりと説明を続けた。
「肝臓が悪くなると黄疸が出たりおなかに水がたまったりするのでしょう?実家の父親が肝硬変で亡くなったんです」
夫人が不安そうな声で聞いた。
「そのとおりです。それに肝性昏睡と言って、意識状態が悪くなります。ご主人は一度少し意識が回復する可能性がありますが、肝障害が重篤になれば再び意識障害をおこすでしょう」
二人の間にしばらく沈黙が流れた。
「どうしたらいいんでしょう・・・。主人はやっぱり助からないんでしょうか?主人は根がまじめな性格で、会社でも期待されていたんですが、あまりに仕事が多すぎて休みも全く取れない状態だったんです。特に最近はおかしかったんです。あの・・・うつ・・・って言うんでしょうか・・・。なかなか眠れないと言って、睡眠薬を使うようになって・・・。好きだった本や新聞もほとんど読まなくなって、そのあげくにあんなことを・・・。このまま逝ってしまったら・・・。先生、何とか・・・何とか助けてやってください」
夫人は涙声で俊介に懇願した。
「奥さん、まだ助からないと決まったわけではありません。これから我々はご主人を救命して社会復帰させるために全力を尽くします」
俊介は机の上の用紙に図を書きながら話を続けた。
「今、血液中の薬剤を少しでも除去する治療を行っています。しかしそれでも服薬した量が多いので1-2日するとかなり重症の肝機能障害を発症するでしょう」
俊介は縦軸と横軸の線を紙に書いて横軸に1,2,3と日付を記載していった。
「多分、夜が明けてから血液検査をするとAST、ALTという肝臓の酵素が上昇してくるはずです」
俊介は右上がりの線を描いていった。
「そして明日になるとその数字はかなり高くなってくるはずです。これは肝臓の細胞が広範囲に壊れていることを示します。しかし肝臓という臓器は再生が盛んな臓器です。一度壊れてもまた再生してくるのです」
右上がりの線は3日のところで横に平行になり、7日くらいのところで右下がりに描かれた。
「問題はこの肝臓の機能が高度に障害された期間をどう乗り切るかです。肝臓には2つの働きがあります。ひとつは体内の毒物を代謝(たいしゃ)して無毒にすること。もうひとつは身体に必要なたんぱく質を合成することです。肝臓が障害されている間は体内の毒物を排出し、また、必要なたんぱく質を補う必要があります。そのために血漿(けっしょう)交換という治療が必要になると思います」
「血漿交換?」
「はい。ご主人の血液の一部を健康な人の血液と入れ替えるのです」
「そんなことができるのですか?」
「はい。今、血液吸着という方法で薬物を除去していますが、同じような方法で血液を入れ替えることができるのです。肝臓の機能が回復するまでこの血漿交換を行う必要があります」
「その血漿交換をすれば主人は助かるのですか?」
夫人はすがるような目で俊介を見つめた。
「もちろん肝臓の機能が完全に廃絶(はいぜつ)してしまえば、いくら血漿交換をしても追いつきません。しかしある程度のところで肝臓の障害を食い止めることができれば、ご主人の肝臓は徐々に回復してくる可能性が高いのです。ただし血漿交換は他人の血液を大量に輸血する必要があります。ごくわずかですがB型、C型肝炎や、エイズウイルス感染の可能性もあります」
「でも血漿交換をしなかったら・・・まず助からないのですね?」
「多分必要になると思います。明日くらいには結論が出せるでしょう」
すでに午前6時を回っていた。健太郎は患者の横で動いている血液吸着の機械を見つめながら俊介の顔を見て言った。
「風間先生、今日はありがとうございました。夜中に来ていただいて・・・」
「いや、たまには早起きもいいもんだよ」
昨日も夜中まで診療していて俊介の体にはかなり疲れが残っているが、そんなことで部下に気を使わせたくはない。
「もしあのまま自分ひとりでこの患者さんを診ていたらとんでもないことになっていました・・・。今からどれだけ肝障害が進行するかわかりませんが、こうやってできるだけの処置をしていれば、もしだめになっても自分も家族も納得できると思うんです。でも、何もせずに重篤な肝障害を発症して亡くなってしまったら・・・」
俊介は静かに言った。
「君はまだ医者になったばかりだ。知識が少ないのは仕方がないことだ。でも患者さんはそうは思わない。目の前にいるのが研修医でもベテランの医者でも専門外の医者でもベストの医療を期待している。そしてそれは当然のことだろう。自分がベストの医療を行う自信がなかったら躊躇(ちゅうちょ)せず他人の助けを借りることだ。決して知ったかぶりはするな。君が今日、俺に電話してきたのは全く正解だ。君はそれでベストの医療をしたことになるんだよ」
俊介は健太郎の背中を軽くたたいて機械の設定を少し変更した。
「いずれにせよこの患者さんは多分、血漿交換や血液透析が必要になるだろう。午前中に浅山先生にも診てもらうことにしよう」
カルテ6(2/4)に続く
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