風の軌跡:カルテ6(2/4)
風の軌跡:カルテ6(2/4)
*火曜日14時*
風間俊介は集中治療室の医師記録室にいた。隣には高岡健太郎と腎臓内科の浅山茂樹が座ってじっとカルテを見つめていた。
「AST 6789 ALT 7380・・・。昨日の朝と比べて4倍以上に跳ね上がっている。予想どおり、かなりの肝機能障害だな・・・」
俊介が口を開いた。
山本彦太郎の意識は昨日夜頃より少しずつ回復しており、今日は夫人と会話ができるようになっている。手足の麻痺もなく呼吸状態や血圧なども正常で、一見窮地(きゅうち)を脱したかのように見える。夫人も昨日の俊介の説明がなかったら、このままよくなるものと確信することだろう。
「現在、服薬後約40時間ですか・・・。まだ進行しそうですね」
浅山茂樹がつぶやいた。浅山茂樹は今年30歳になったばかりだ。腎臓内科が専門でまだ卒業5年目だがS市市民病院の透析室を一手に引き受けている。身長は163cmとやや小柄であるが、大学時代は卓球部のエースとして活躍しただけあって筋肉質の引き締まった身体をしている。
性格はいたってまじめで俊介は冗談が通じないのが玉に傷と思っている。しかし透析をはじめとした血液浄化(じょうか)療法に関しては彼の右に出るものはいない。
「血漿交換を始める時期はどうだ?」
俊介は浅山の顔を見ながら聞いた。
「今朝の採血で著明な肝酵素の上昇を認めますし、プロトロンビン時間が25%と凝固因子の著明な低下が見られます。これは肝臓の蛋白合成がかなり障害されていることを示しています。肝性昏睡はじきに出現してくるでしょう。僕は今日から血漿交換を始めるべきと考えます」
浅山は自信を持って答えた。
「そうか・・・俺も同じ意見だ。じゃあ浅山先生、血漿交換の準備を始めてくれるか?」
「わかりました。早速、新鮮凍結血漿を40単位準備してもらいます。夕方4時頃には開始できると思います」
新鮮凍結血漿はFFPと略される血液成分である。献血で得られた血液から赤血球や白血球などの血球成分を除去して液体の成分だけを取り出したものである。その中には健康な献血者から得られた蛋白質や凝固因子などが大量に含まれている。肝不全で毒素がたまった患者の血漿を除去して、代わりにこの新鮮凍結血漿を補充するわけだ。
40単位ということは、ほぼ40人分ということになるが、当然その中の一人が肝炎やエイズなどのウイルス疾患に感染していればその血漿をもらった患者にも感染する。血液を採取した時点で感染していることがわかった血液は使用しないことになっているが、それでも検査をすり抜けてくることがあるのだ。血液供給者の数が多い分、通常の輸血に比べれば感染の確率ははるかに大きいわけである。
『凍結』というのは凍らせてあるということで、長期間保存しやすくなっているわけだ。普通の赤血球の輸血は約2週間しか有効期限がないが、新鮮凍結血漿の場合は1年近く保存することができる。もちろん実際に輸血するときはゆっくりと解凍してから使用することになる。
「それから風間先生。そのあとで透析をしたいと思うのですか・・・」
浅山が言った。
「透析?」
「はい。血漿交換だけでは肝性昏睡の原因となる有害物質を完全に取り除くことはできません。血液透析や血液ろ過を併用すれば効果をあげることができると思うのですが・・・」
「しかし同時に体外循環を続けて行っても循環動態は大丈夫なのか?血圧が低下したり脳浮腫が進行して呼吸状態が悪化したりする心配はないのか?」
浅山は自信を持った口調で答えた。
「それは大丈夫です。急激な状態の変化を起こさないように持続透析を行います」
「持続透析・・・」
血液透析など体外循環による治療を行うときは急激に循環動態が変化して血圧低下やショックなど重篤な合併症を起こすことがある。持続透析はそれを防ぐために通常3-4時間で行う血液透析を24時間かけてゆっくりと持続的に行う方法である。
「風間先生。俺も少し勉強しましたが、血漿交換に加えて血液透析や血液ろ過を行うことは重症肝障害の治療にとても有用なようです。その効果を示す文献がいくつもありました」
しばらく黙っていた高岡健太郎が声を出した。
「そうか。これからしばらく24時間の体外循環を続けるのは君も大変だと思うが、頼むよ。浅山先生」
*水曜日*
山本彦太郎は一時意識が回復したものの、再び昏睡(こんすい)状態に陥っていた。肝細胞障害を示すAST, ALTは1万以上に跳ね上がり、凝固機能を表すプロトロンビン時間も13%にまで落ち込んでいた。さらに黄疸も出現し、明らかに肝機能障害は進行していた。
昨日から開始された血漿交換や持続透析により何とか血圧や循環動態は維持されているが、非常に重篤な状態になっていると言える。夫人も俊介の説明により当初から状態が悪化することを覚悟していたが、夫が一度よくなったように見えて再び意識がなくなり、見るからに重症になっていることに対して戸惑いを隠せない。
救急医療の現場ではこのように患者が一度よくなったように見えて再び悪化することはよくあることである。そのような時、最初によく説明をしておかないと家族は病院に対して不信感を抱き、医療訴訟(そしょう)の原因にもなる。これから起こりうることを予測してしっかりとした説明ができることは医者の力量のひとつでもある。
ベッドサイドへやってきた俊介を見てICUの帽子とマスクをした夫人は立ち上がって頭を下げた。
「今日は私が呼んでも返事をしてくれないんです。昨日は少しうなずいたり片言でしゃべったりしてくれたんですが・・・」
夫人は肩を落として悲しそうな目で夫を見つめる。
「肝機能がかなり低下しています・・・肝性昏睡の状態です」
俊介がゆっくりと答えた。
「助かるでしょうか?この人・・・」
「今はなんとも言えませんが、全力を尽くしています」
俊介の言葉に夫人はもう一度お辞儀をしてバックから1枚の便箋を取り出した。
「先生・・・この人が最後に書いてくれた手紙です」
俊介は夫人が差し出した便箋を丁寧に受け取り、ゆっくり読み始めた。そして俊介は胸が締め付けられる思いでその手紙を読み終えた。
・・・・・・
山本君枝様 何を書いていいのかわかりません。
今までありがとう。
ごめんなさい、つかれました。
たくさん仕事をしました。
たくさん謝りました。
もう何をしていいのかわかりません。
忙しくなってからあなたに優しくできませんでした。
つっけんどんな言葉で些細なことに腹を立てました。
でもあなたは精一杯、一生懸命、けなげに私に尽くしてくれました。
ごめんなさい。ごめんなさい・・・。
あなたに腹を立てている自分がいけないんです。
そんな自分は嫌いです。
忙しくなると自分のことがどんどん嫌いになっていくので悲しいです。
毎日眠れません。
今からぐっすり眠ろうと思います。
このまま目が覚めなければうれしいです。
ありがとう。さようなら。そして・・・ごめんなさい。
山本彦太郎
・・・・・・・・・
俊介は丁寧に便箋を折りたたんで山本夫人へ返した。
「山本さん。我々も全力を尽くしますから・・・」
俊介はそう言いながら深々と頭を下げてその場を離れ、ICUの医師記録室へ向った。
「どうだ?浅山先生」
俊介は山本彦太郎のカルテを記載している浅山茂樹に声をかけた。
「血漿交換はうまくいっています。持続透析にも特にトラブルはありません。ただ・・・肝機能が予想以上に悪化しているので・・・」
「そうか・・・。なかなか厳しそうだな・・・」
「このまま血漿交換と持続透析を毎日続けていけば何とか維持はできると思うのですが・・・。問題は肝機能がいつごろ回復してくるかですね」
浅山は検査データを見ながら言った。
「今週いっぱいで回復の兆しがなかったら・・・ちょっと無理でしょうね」
「ああ・・・多分そんなところだろう」
俊介も同じ意見だった。確かに血漿交換などの治療を続けていればその間は延命できるかもしれない。しかし、血漿交換には大量の健康な人の血液が必要となる。一回の血漿交換で献血者40人分の血液が使用されることになる。そればかりか血漿交換や血液透析を続けていればそれだけで毎日の医療費が50万から60万円以上かかる。山本彦太郎を1週間生存させるために少なくとも300万から400万円以上の医療費がかかるのだ。
一般に自殺による診療に関しては保険が適応されない。家族はこの高額な医療費を自費で払いつづけなければならないことになるが、自殺の原因がうつ病の時はその限りではない。山本彦太郎は妻の話では明らかにうつ病の症状があり、睡眠薬投与など治療も受けているので、かかった医療費は多分保険で請求できるだろう。
しかし保険で認められる血漿交換の回数には制限があり、ほぼ7回までと決められている。すなわち今週いっぱいで回復の兆しがなければ今の治療は続けられないことになる。
自殺未遂で肝機能障害を引き起した患者には高額な集中治療をする必要はないと考える医療スタッフもいる。確かに俊介も助けても助けても自殺未遂を繰り返し、ついには助からなかった患者も経験している。しかし、この患者はうつ病を発症したために自らの命を絶とうとした。そのような患者は救命した後、適切なケアがされればまた元気に社会復帰していくものだ。
俊介の頭の中には「ありがとう。さようなら。そして・・・ごめんなさい」という山本彦太郎の最後の言葉が再び浮かんできた。
「浅山先生、よろしく頼む・・・」
俊介はそう言いながらポンと浅山の肩をたたいてICUをあとにした。
*土曜日*
「風間先生!見てください」
俊介が集中治療室へ入るやいなや、浅山茂樹が少し興奮した声を出しながら俊介に検査データを見せた。いつも冷静な彼にしてはめずらしいことだ。
「良くなっているじゃないか。AST,ALTの値もずいぶん改善したし、ビリルビンや凝固機能も改善してきているな」
「はい。確かに血漿交換を続けていることもデータの改善に関与していますが、患者さんの肝機能も明らかに良くなっています。先生!いけるかもしれません」
確かに昨日夕方から山本彦太郎には回復の兆しが見られている。昨日の夜は手足をほんの少し動かすくらいだったが今朝からは問いかけにわずかにうなずくようになっている。間違いなく彼の肝機能は回復してきており、意識レベルもアップしている。
―これは助かる―
俊介は直感的にそう感じた。
「血漿交換も1-2日間、中断してもよさそうです。持続透析も今日で終了します」
「よくやった・・・君のおかげだよ。今日奥さんが面会に見えたら君から話をしてくれ。きっと喜ぶだろう」
俊介に誉められて浅山医師はちょっとはにかんで、うれしそうに会釈した。
―ああ・・・早起きしたかいがあったな―
俊介は5日前の夜中のことを思い出していた。重症の患者が回復するためには大勢の医療従事者の献身的な努力が必要だ。そして俊介が眠い目をこすりながら夜中に病院へ出てきてがんばったことも間違いなく山本彦太郎の回復に貢献しているのだ。すべての医療従事者は今、俊介が感じているこの気持ちがあるからこそ、つらいことがあってもがんばることができるのだろう。
その日の午後、浅山に説明を受けた山本夫人はあわてて帽子とマスクをつけて集中治療室へ入り、夫のベッドサイドに駆け寄った。
「あなた!わかる?」
山本彦太郎はその声にゆっくりと目を開いて夫人をじっと見つめ、「・・・ああ・・・」とだけ言った。
「あなた!わかるのね!私よ!」
夫人は夫の右手を握り締め、その薄く開いた瞳をじっと見つめた。山本彦太郎は夫人の顔をじっと見て、小さく、そしてはっきりとうなずいた。
「あなた・・・。おかえり・・・なさい・・・」
夫人は夫の身体に抱きついて泣き崩れた。
*さらに6日後、翌週の金曜日*
山本彦太郎はすでに集中治療室を退室し、一般病棟へ移っていた。肝機能はまだ異常値であり、食欲もまだ十分でなく点滴は受けていたが、意識は完全に回復して後遺症らしきものもなかった。俊介が病室に入ると夫人が深々とお辞儀をした。
「先生・・・本当にありがとうございます。こんなに元気になるなんて・・・」
涙声で俊介に礼を言う夫人の肩に手を置いて俊介も笑顔で答えた。
「よかったですね。これだけよくなられると我々も治療をしたかいがありますよ」
生きるか死ぬかの瀬戸際(せとぎわ)をさまよった患者が今こうして微笑みながら座っている。このような患者を回診することは医師にとって一番うれしい仕事であろう。
「ありがとうございました・・・先生。今にして思えばなぜあんなことをしたのか・・・。あの日は自分でもちょっとおかしかったんです。会社でトラブルがあって・・・どうしていいかわからず、とにかくこの状況から抜け出したいって思ってあんなことをしてしまいました。全く恥ずかしい限りです」
俊介は初めて山本彦太郎の声をまともに聞いた。まだ入浴はできず髪は乱れたままだがヒゲはきちんと剃り、ベッドの周りも小ぎれいに整頓されている。やはりまじめできちんとした性格のようだ。このような性格の人間は仕事もきちんとこなすが完全主義のことが多く、ちょっとでも間違ったことがあると我慢できずに満足いくまでやり通す。それが精神に無理をかけてうつ病を発症することになる。周りから見るともう少し気楽に考えればいいのに・・・と思うのだが、本人にすればそれは到底できないことなのだ。
―この人はきっと仕事ができて、まわりから期待されてどんどん仕事が増えていったんだろうな・・・―
俊介はそんなことを考えながら山本彦太郎を診察した。
「大分よくなりましたね。これならすぐ元気になりますよ」
聴診器をはずしながら話しかける俊介を見つめて山本彦太郎は頭を下げた。
「ありがとうございます。ところで先生・・・いつごろ仕事に復帰できますか?さきほど、元気になったと会社に報告したんですが、いつから仕事ができるか聞いておいてくれと言われたんです」
そんな夫を制するように夫人が言葉をさえぎった。
「あなた・・・何を言ってるの?こんな状態で仕事なんかできるわけないじゃないの!もう1ヶ月くらいはゆっくり休まないと・・・」
「そんなことは言ってられないんだ。俺がいなくなったら会社のコンピューターシステムや営業管理は誰がするんだ!俺は馬鹿なことをして会社に迷惑をかけてしまった。今は1日でも早く職場に復帰して遅れを取り戻すしかないんだ。もう事務的な仕事ならここでも大丈夫だ。会社の資料を持ってきてもらうよう頼んだところだよ」
「あなた・・・だめよ、病院でそんなこと!ちゃんとゆっくり静養してちょうだい!ね、先生?」
夫人はすがるような目で俊介を見つめる。俊介はちょっと考えてゆっくり口を開いた。
「山本さん・・・奥さんの言うとおりですよ。多分あと2週間もすれば退院はできると思いますが、そのあと2ヶ月くらい自宅療養をする必要があります」
「2ヶ月ですって?そんなに休めるはずありませんよ!こんなことになったのも自分が悪いんです!自分が弱いからこんなことをしてしまって・・・。これ以上会社に迷惑はかけられません。退院したらすぐ仕事を始めなくては・・・」
山本彦太郎は興奮してまくし立てた。俊介は聴診器をポケットにしまい、そこにおいてあった椅子にゆっくりと腰をかけて話を続けた。
「山本さん、よく聞いてください。今回のことは決して山本さんが悪いわけではないのです。山本さんはうつ病という病気にかかっているんです。あんなに大量に薬を飲んだのも病気のせいなのです。そしてうつ病を引き起こしたのは他ならぬ、山本さんが復帰したいと言っている会社と仕事そのものなのです」
「うつ病?私が・・・ですか?そんなはずはありませんよ。私はこんなことをする前までは普通に仕事をしていたんです。会社を休んだこともなかったし、得意先の管理や会社のコンピューターシステムも私が一手に引き受けて全く問題がなかったんです。ただ今回コンピューターウイルスに感染してしまって・・・。顧客リストが一部消失して得意先に迷惑をかけてしまいましたが・・・。それでどうしたらいいかわからなくなって、こんなことをしてしまいました。でも私がうつ病だなんて・・・そんなことありえませんよ」
山本彦太郎は真剣なまなざしで俊介を問い詰めた。俊介はちょっと間をおいてからゆっくりと話し始めた。
「山本さん。じゃあお聞きしますが、最近眠れなかったんじゃないですか?眠ってもすぐ目が覚めてしまうようなことはなかったですか?」
「それは・・・確かにありますが・・・。仕事のことで頭が一杯になって・・・目が覚めると仕事のことばかり浮かんできましたが・・・。でもそれは誰にでもあることでしょう?」
「それから、最近仕事に行くのがおっくうではありませんでしたか?そして今まで興味があったことも、したくなくなったようなことは?たとえば趣味の本を読んだり、新聞を読んだり・・・」
「それは・・・仕事が忙しかったので、そんな暇はなかったですが・・・」
そこで夫人が口を開いた。
「そうよ。あなた・・・最近好きだった星の本も読まなくなったじゃない。今までは夕食を食べたあと時間があればいつも天文の雑誌を読んでいたのに、最近は封もあけずに本棚の中に置いたままでしょ?新聞だって・・・ほとんど読まなくなったわ。仕事に行く時もいつもうつむいて暗い顔をしていたのよ」
「・・・」
俊介はうつむせになって黙っている山本彦太郎をじっと見つめた。
「山本さん。ご自分では気がつかないかもしれませんが、それがうつ病の症状なのです。早朝覚醒(かくせい)、意欲低下、朝の気分不快がうつ病の3大兆候なのです。うつ病は山本さんのように責任感の強い完全主義の人に起こりやすい病気です。山本さんは少々のことがあっても自分が頑張れば何とかなると思って自分の精神にムチを打っていたのです。それが積もり積もって知らないうちに破綻(はたん)してしまい、自分の精神をコントロールできなくなって今回のことを起こしてしまったんです。今仕事に復帰すれば必ずうつ病が再発します。そして同じことを繰り返すでしょう」
「そんなことは・・・・」
「うつ病は心が風邪(かぜ)を引いた状態です。しっかりとした治療をすれば心の風邪は治り、またもとのように仕事ができるようになります。しかしそれには時間が必要です。さっき申し上げた2ヶ月というのはうつ病の治療期間です」
「あなた・・・風間先生のおっしゃる通りじゃない。あなたは病気だったのよ。こんなことになったのもあなたが悪いんじゃないわ。病気のせいなのよ・・・。病気を治せばまたもとのように仕事ができるっておっしゃってるわ。ゆっくりと治療しましょうよ。ね?社長さんだってきっとわかってくださるわ」
涙声で語りかける夫人の言葉に山本彦太郎はゆっくりとうなずいた。
*勘違い*
その日の夕方、俊介は忙しかった午後の外来診察を終えて医局のソファにぐったりと仰向けになって座っていた。すると高岡健太郎が渋い顔をして医局に入ってきた。
「どうしたんだ?高岡先生。機嫌が悪そうだな・・・」
「え?いえ、そんなことはないです」
「君は機嫌が悪いときはいつも眉をしかめているからすぐわかるんだ。彼女とけんかでもしたのか?」
健太郎はばつが悪そうにチラッと鏡を見て答えた。
「そんなこと・・・ないですよ・・・。でも・・・当たりですけど・・・」
―また南川沙紀とけんかしたのか・・・―
そう思いながら俊介は心の中で苦笑していた。
「まあ、今回は俺が悪いんですけどね・・・。昨日コンサートに行く予定だったんですよ。待ち合わせの場所に行ったらあいつチケットを持っていないって言うんです。確かに1週間前に渡したはずなんですけど・・・。そこで言い合いになって・・・結局別れて帰っちゃったんですけど・・・。アパートへ帰ったら俺の机の中からチケットが出てきたんです・・・」
「それは・・・心から同情するよ・・・」
俊介は思わず笑い出したくなるのをこらえながら答えた。
「すぐ電話して謝ったんですけど・・・」
「まあ、許してはもらえないだろうな」
「確かに渡したと思ったんですよ。それを絶対もらってないなんていうから、思わず大きな声を出してしまって・・・」
「君はこの前も勘違いをしてナースとけんかしていたじゃないか。あの採血がしてないとかどうとかで・・・」
「ああ、あれですか・・・。あの時も・・・間違いなく指示を出したと思っていたんですよ。それを指示がなかったって言い張るもんだから、ついけんかになっちゃって・・・」
「でも結局は君が指示を出し忘れていたんだろ?」
「それはそうなんですが・・・。でも、間違いに気づいたあとはちゃんと謝ったんですよ。勘違いって誰にでもあるじゃないですか。あんなに根に持たなくっても・・・」
健太郎はコーヒーカップにお湯を注いでから俊介の前に座った。俊介は手に持っていたコーヒーを少し飲んで諭すように話しかけた。
「高岡先生、ひとついいことを教えてやろう。他人のミスを責めるときはな、先ず自分のミスを完全に除外してからにすることだ」
「自分のミスを除外・・・ですか?」
「そうだ。なぜ患者の採血がされていないのか?ひょっとしたら自分が指示を出していなかったんじゃないか?指示を出す日付が間違っていたんじゃないか?ひょっとしたら患者を間違えて指示を出したんじゃないのか?それをまず確認することだ」
「そんなことしていたら時間がかかってしょうがないじゃないですか」
「そのとおり。自分のミスでないことを確認するには時間がかかる。でも、もしそれで自分のミスが見つかった時はどうだ?」
俊介は意地悪く微笑みながら健太郎を見つめた。
「それは・・・そのまま黙って、翌日の指示を出しなおしますよ・・・」
「そうだろうな・・・。それで余計なトラブルは避けることができるわけだろう?」
「でも、もし自分のミスがなかったらどうするんですか?その時はもうその相手もそこにはいないかもしれないじゃないですか?」
「その時は充分時間がたっているから自分の怒りも治まっているんだよ。あとでその相手にこんなミスがあったからこれから気をつけてくれって冷静に言えるもんだ」
「はあ・・・そんなもんですかね・・・」
「そんなもんだよ」
俊介は笑いながら答えた。
「今日は君が当直だな・・・。最近はよく患者がついているじゃないか。頑張れよ」
「はあ・・・。でも今日はなんとなく気が重いですよ」
うなだれている健太郎を医局に残して俊介は自分の部屋へ戻った。
カルテ6(3/4)に続く
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