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2008年8月30日 (土)

風の軌跡:カルテ7(1/3)

風の軌跡ー風間俊介診療録ー:カルテ7(1/3)

   「隠された黄金」

 副腎腫瘍の手術を控えた黒崎啓司。患者の希望により手術予定を切り上げようとする健太郎だが、そこには落とし穴が・・・

    *黄金探し*

 午後6時過ぎ、医局では仕事が一段落した医師たちがソファに座りながらテレビを見ていた。午後の外来診察を終えた俊介もよっこいしょと声を出しながらあいている場所に腰を下ろした。

「なんだ?宝探しか?」

 俊介が画面を見て隣に座っている消化器内科医の長谷川聡に聞いた。

「はあ・・・。何でも相続した財産全部をつぎ込んで10年間沈没船を探しているそうですよ」

 長谷川聡がテレビ画面を見ながら答えた。

「10年間?仕事もしないでずっと宝探しをしているのか?」

「それがこいつらの仕事なんですよ。黄金が見つかれば何十億の価値があるらしいですよ」

「何十億?でも見つからなかったらただ働きだろ?」

「ええ。つぎ込んだ財産も全部ぱーってことですね」

 俊介はじっとテレビ画面を見つめた。潜水服を着た男が海から船にあがり、首を横に振りながら水中眼鏡をはずしている。今日も宝は見つからなかったようだ。たしかに見つかれば何十億にもなるのだろうが見つからなければ一文にもならないのだ。苦労していることが全く報われないことになる。

 俊介には彼らの気持ちはとうてい理解できない。確かに自分たちがやっている仕事もきついが働いた分の給料は毎月きちんと自分の口座に振り込まれる。それにたとえ給料がもらえなくても自分が苦労したことで患者がよくなれば報われる気持ちにもなる。

 しかし彼らがやっていることは黄金が見つからなければ全く収入にもならず、世間からも評価されない。遊びとしてのギャンブルならまだしも宝探しが人生をかけて行うようなことなのだろうか?

「まあパチンコみたいなもんですよ。一回大あたりを出して大もうけするとまじめに働こうって気持ちにはなれないんでしょうね。こいつも7年前にちょっとした宝を見つけて数千万儲けたらしいですよ。もっともその儲けも全部この沈没船探しにつぎ込んじまったらしいですがね」

 長谷川聡もちょっとあきれ顔で画面を見つめていた。彼もギャンブルは好きなようで、よく競馬で一発当てたとか言う自慢話を聞くことがある。しかしさすがに医者を辞めてギャンブルで生計を立てていこうとまでは思っていないようだ。

「俺がもし宝くじで3億円当たったら、医者なんか辞めてゆったりと暮らしますけどね」

「何言ってるんだ。君はまだ若いじゃないか。3億円くらいあったって家と土地を買って贅沢してたら10年も持たないぞ。楽して儲けた金っていうのは残らないもんだ。そんなことは考えずに堅実に働くことだな。まあ・・・もうすぐ50になる俺が3億円当たれば間違いなく医者を辞めるだろうけどな」

 俊介が笑いながら答えると長谷川聡はちょっと皮肉を込めていった。

「そうですよね。毎日堅実に働いていれば3億円くらいたった30年で稼げますからね。まあ・・・病院に寝泊りして病院食堂の質素な食事でがまんして朝から晩まで働けば、ですけどね・・・」

「まあ、そう言うな。不景気でリストラばやりの世の中で俺達はきちんと職について給料を貰ってるわけだから幸せなほうだろう?俺の歳になってリストラされて再就職先もなくて子供を進学させてやれない人だっているんだからな」

 俊介は笑いながら長谷川聡の肩をぽんとたたいた。その時俊介のPHSが鳴った。画面を見ると「高岡Dr」と出ている。

―あいつはこの時間になるときまってかけてくるな・・・―

 俊介はちょっと苦笑しながら答えた。

「はい。風間です」

“風間先生。すみません。ちょっと相談したい患者さんがいるんですが・・・もうお帰りでしょうか?”

―こんな時間に帰れるんだったら苦労しないよ―

「いや、医局で宝探しの番組を見ているところだ。なんだ?」

”はあ?宝探し・・・ですか?いえ、急用じゃないんですが・・・。あの、黒崎さんのことなんですが”

「黒崎さん?ああ・・・Conn(コーン)症候群の・・・」

“はい。手術予定がちょっと・・・“

「わかった。今病棟か?すぐ行くから」  

 俊介は医局を出て病棟へ向った。

 Conn症候群とは別名原発性アルドステロン症と呼ばれる内分泌疾患だ。腎臓の上にある副腎という組織に腫瘍ができ、アルドステロンという塩分を貯留するホルモンが大量に分泌される。その結果血圧が上昇し、高血圧症となる。

 腫瘍は多くの場合良性だが腫瘍が存在する限りアルドステロンは持続的に過剰分泌され、血圧は上昇し続ける。降圧剤の効果も不十分なことが多く近い将来、脳出血や心筋梗塞などの合併症を引き起こすことになる。手術で副腎の腫瘍を摘出すれば高血圧は治癒するので降圧剤の服用も不要となる。

 黒崎啓司は41歳で、地方のテレビ局のディレクターをしている。2-3年前から高血圧の治療を受けているが効果が不十分で、今回偶然に副腎腫瘍を発見されてConn症候群を疑われ、その治療目的に昨日入院したのだ。今から術前の検査を行って最終診断を行い、診断が確定すれば10日後に手術の予定だったはずだ。

「すみません。風間先生」

「それで?問題っていうのは?」

 高岡健太郎はカルテをひろげて説明を始めた。

「はい。黒崎啓司さんは血圧のコントロールが不良で開業医さんから紹介されたんですが、血液中のアルドステロンが高値でレニンが低値(レニンはアルドステロンの分泌を刺激するホルモンで原発性アルドステロン症では低値となる)で左の副腎に1cmの腫瘍が発見されてConn症候群が疑われました。昨日、入院されて今日ラシックスレニンテストを行いました。明日から副腎スキャンを行い、来週副腎静脈のサンプリングをして確定診断をしてから泌尿器科で腫瘍摘出手術をしてもらう予定だったんです」

「そうだな。副腎スキャンで左副腎へ集積を確認して、副腎静脈サンプリングで左副腎からのアルドステロン過剰分泌を証明できれば確定診断できるからな。左副腎を腫瘍ごと摘出すれば高血圧は治癒するはずだ」

 俊介の言葉を聞いた健太郎はうんうんとうなずいて話を進めた。

「それが・・・さっき急に黒崎さんから手術予定を早めてもらえないかっていう申し出があったんです」

「早める?」

「はい。なんでも勤務先にトラブルがあったらしくって2週間後にどうしても香港に出張しなくてはならないそうです」

「2週間後?それじゃあ、10日後に手術をしたらまず無理だな」

「はい。ですから俺、泌尿器科の先生に問い合わせたんです。そしたら・・・3日後なら手術予定があいているっていうんです」

「3日後?それじゃあ・・・副腎スキャンもサンプリングもできないじゃないか」

「そうなんです。でも風間先生・・・その二つの検査って本当に必要なんでしょうか?左副腎に明らかな腫瘍があってアルドステロンが高値でレニンが低値でしょう?あと今日のラシックスレニンテストでレニンの抑制が確認できれば・・・まずConn症候群に間違いないと思うんですよ。それならば余計な検査をせずに3日後に手術してもらえば、入院期間も短くて済むし出張もできると思うんですよ」

「確かにな・・・腫瘍がはっきりしなかったり、ホルモン検査に問題があるときは必須の検査だと思うが・・・。黒崎さんの場合は、必要ないかも・・・しれないな」

 俊介はちょっと困惑顔で答えた。

「先生もそう思いますか?確かに学問的にはしっかりと検査をして確認するべきなんでしょうけど、患者さんのメリットをいつも第一に考えるようにって風間先生が言っておられるでしょう?黒崎さんに関してはこれらの検査を省略して手術してもらうのが一番のメリットだと思うんです」

 『患者にとって一番いい医療を行え』これは俊介がいつも若い医師に繰り返し訴え続けていることだ。健太郎は自分の指示したことをきちんと守って教科書から離れた治療をしようとしている。結果が正しいかどうかは別として自分の部下が教えたことに従って行動してくれることは俊介にとってもうれしいことだ。しかし・・・

「確かに君の言うとおりだ。黒崎さんは99%左副腎腫瘍によるConn症候群だろう。しかし、今までConn症候群の患者では必ず副腎スキャンと副腎静脈サンプリングを行ってきたんだ。いくら患者のためとはいえ、それを省略するのは・・・」

 俊介が腕を組みながらちょっと困惑して答えた。

「患者さんもインターネットや色々な本を読んで勉強しているんです。これ以上追加検査の必要はないんじゃないかって・・・。できれば3日後に手術してほしいって言うんですが・・・」

「うーん・・・患者さんの希望なのか・・・」

 俊介は腕組みを続けて考え込んだ。確かに、患者のメリットを考えれば3日後に手術をすれば香港への出張も可能になり、患者も家族も会社も喜ぶだろう。しかし・・・

「明日の午後になれば今日のラシックスレニンテストの結果が出ると思うんです。それでレニンの上昇がなければ・・・Conn症候群、確定診断としてもいいんじゃないでしょうか?」

 俊介はじっと考え込んでいた。そしてゆっくりと顔を上げて健太郎を見つめた。

「そうだな。確かに黒崎さんにはこれ以上の検査は必要ないかもしれない。彼にとっては3日後に左副腎を摘出してもらうことが一番いい選択だろう。高岡先生、明日ラシックスレニンテストの結果を確認して泌尿器科の先生と話を進めてくれ」

 それを聞いて健太郎はうれしそうに答えた。

「わかりました!早速黒崎さんに話してきます!」

 健太郎はカルテを片つけるとそそくさと病室へ向っていった。

    *確定診断*

 次の日の夕方、俊介は自分の部屋で来客を迎えていた。

「竹森先生、お久しぶりです」

 俊介は恩師である竹森要一に会釈しながらソファを勧めた。

「やあ、風間君。元気そうじゃないか。相変わらず忙しそうだな」

 竹森要一はカルテと書類だらけの部屋を見回しながらソファに座った。

「びっくりしました。急にどうされたんですか?」

「いや、今日はS市の医師会から患者さん向けの講演を依頼されてね、その帰りにちょっと優秀な教え子の顔でも見たいなって思ってふらっと寄ってしまったよ。迷惑じゃなかったかい?」

「そうだったんですか。ご連絡いただければお迎えに上がりましたのに・・・。迷惑だなんてとんでもない。久しぶりにお会いできてうれしいです」

 竹森要一は俊介が卒業して大学病院で研修しているときに指導してくれた上司である。何もわからない俊介に医療技術や知識を一から指導してくれた医師であり、また患者との接し方や人生に関しても相談に乗ってくれた。いわば俊介の医師としての基礎を作ってくれた人物である。

「ずいぶん活躍しているようじゃないか。いま医師会の先生方とも話したんだが、ずいぶん評判がよかったぞ」

「とんでもない!まだまだいたらないことばかりです。でも先生から教えていただいたことを少しでも実践しようと思って一生懸命がんばっています」

 俊介はちょっとテレながら答えた。

「いやいや、君に教えたことなんかひとつもないよ。君は自分で勉強して技術や知識を身につけていったんだ」

「とんでもないです。竹森先生・・・」

 その時、ドアをノックする音が聞こえた。

「どうぞ」

 俊介の声に続いてドアが開き、健太郎がちょこっと顔を出した。

「あ・・・失礼しました!ご来客中ですか。また出直します」

 あわててドアを閉めようとする健太郎に向って竹森要一が言った。

「いや、かまいませんよ。私はもう失礼しますからお入りください」

「いや、先生。もう少しゆっくりなさってください。高岡先生、まあここへ座ってくれ。紹介します。うちの内科で後期研修をしている高岡健太郎先生です。高岡先生、こちらは俺の恩師の竹森先生だ」

「竹森先生・・・あ・・・風間先生がよくおっしゃっている人生の師の先生ですか!」

「やめてくださいよ。そんなたいそうなもんじゃありません。ただの年寄りですから・・・」

 竹森要一が人懐こい笑顔で健太郎に右手を差し出すと、健太郎は恐縮してその手をにぎって大きな身体を小さくして俊介の横にすわった。

「それで、なんだ?」

 俊介がちょっと微笑んで健太郎を見つめた。

「え?あの・・・黒崎さんの件なんですが・・・」

 健太郎は持っていたカルテをチラッと俊介に見せた。

「ああ、どうなった?手術予定は?」

「はい。ラシックスレニンテストでレニンの抑制を確認しました。今、あさっての手術をお願いしてきたところです」

 健太郎が元気な声で答えた。

「ラシックスレニン?Conn(コーン)の患者さんかな?」

 それを聞いた竹森要一が興味深そうに身を乗り出して聞いた。

「そうだ、高岡先生!ちょうどよかった!竹森先生にこの患者さんのデータを見てもらおう!君も知っていると思うが竹森先生は副腎疾患に関しては日本の重鎮(じゅうちん)だ」

「やめてくれないか、風間君。私はもう引退した身だから今の医学にはもうついていけんよ」

 竹森要一は苦笑しながら答えた。

「はい!是非お願いします!」

 そんな竹森の言葉にはかまわず健太郎は緊張た手でカルテを開き、手際よく経過を説明していった。腕組みをしてじっと健太郎の症例提示を聞いていた竹森はちょっと沈黙した後、健太郎にゆっくりと聞いた。

「なるほど・・・確かにConn症候群のようですね。でも高岡先生、あさって手術とのことですけれども、機能的な局在診断がまだのようですが・・・」

「え?は・・・はい!あの・・・本当は副腎スキャンと副腎静脈サンプリングをしてから手術の予定だったんですが、急に患者さんの仕事の都合がつかなくなってしまって・・・。風間先生とも相談したのですが、この患者さんは今までのデータから、まず左副腎腫瘍によるConn症候群に間違いないだろうから患者さんの希望を優先しようと思ったのです」

 健太郎はちらっと俊介のほうを見てちょっとしどろもどろに答えた。

「なるほど。教科書にはとらわれずに目の前の患者さんにとって一番いい医療を行う。これが風間先生の診療方針だったかな?」

 竹森は微笑みながら俊介を見つめた。

「私の治療方針というよりは・・・それは先生から教わったことです。常に患者さんのメリットを考えて診療に当たれと」

 俊介が真剣なまなざしで竹森を見つめた。

「そんなことも言ったかな?それにしても・・・教え子が自分の教えたことを忠実に守ってくれるということは・・・本当にうれしいことですね。医者冥利に尽きますよ」

 竹森はニコニコと微笑みながら健太郎を見つめた。健太郎は照れくさそうにはにかみながら下を向いた。

「しかし高岡先生。この患者さんには二つの病態がまだ除外されていない。なんだかわかりますか?」

 竹森の唐突な質問に健太郎は思わず顔を上げて竹森の顔をびっくりした目で見つめた。

「二つの病態・・・??えっと・・・Conn症候群じゃ・・・ないってことでしょうか?」

 健太郎は戸惑いながらカルテをめくりめくり必死で考えた。

「君はわかっているはずだね?」

 竹森は俊介の顔を見つめた。

「はい・・・。左の副腎腫瘍がアルドステロンを分泌しない非機能性腫瘍の可能性があるので・・・。一つは特発性(とくはつせい)アルドステロン症が合併した場合。それともう一つは右の副腎に画像診断で指摘されていないアルドステロン産生腫瘍が合併している場合です」

 俊介はゆっくりと答えた。Conn症候群は副腎にアルドステロンを産生する腫瘍ができて血圧が上昇する疾患である。同じようにアルドステロンが増加して高血圧を発症する疾患に特発性アルドステロン症がある。これは副腎に腫瘍はないが左右の副腎が過形成(かけいせい)となり機能が亢進して左右の副腎からアルドステロンが分泌されるきわめてまれな疾患である。片方の副腎を手術で摘出しても病態は改善しない。左の副腎に腫瘍があるからといってその腫瘍からアルドステロンが分泌されているとは限らないのだ。

 つまり左副腎の腫瘍はアルドステロンを分泌しない非機能性腫瘍で実際は両側の副腎からアルドステロンが過剰分泌されている可能性も0ではないということだ。また、アルドステロン産生腫瘍は非常に小さいこともありCTやエコーで腫瘍が検出されていない右側にアルドステロンを産生する腫瘍が隠れている可能性も否定できない。

「しかし竹森先生。そのような病態の可能性はごくわずかだと思います。この患者さんはどうしてもやらなければならない仕事を2週間後に控えているのです」

 俊介は真剣なまなざしで竹森を見つめて言った。

「ごくわずかか・・・何パーセントくらいかな?」

「この患者さんが左の副腎腫瘍によるConn症候群である確率は99%だと思います」

「ああ・・・そんなもんだろう。じゃあ、副腎スキャンか副腎静脈サンプリングを行った場合の正診率は?」

「ほぼ100%つまり99.99%だとおもいます。でも竹森先生、たった1%弱しか変わりません」

 俊介は静かに答えた。

「その通りだ。もうひとつ聞くが、この患者さんの手術は緊急を要するのか?」

「いえ。普通の待機手術です」

「最後にひとつ。2週間後の仕事と言うのはこの患者さんにとって一生を左右するような仕事なのか?」

「・・・いえ・・・確かに今回のプロジェクトで重要なポストにいる方ですが患者さんの一生を左右するかと言われると・・・それほどのことではないと思います」

 俊介はちょっと口ごもって答えた。

「じゃあ・・・手術を延期して副腎スキャンと副腎静脈サンプリングを行えば誤診率が1%から0.01%に・・・つまり100分の1にへるわけだな?すなわちこの患者さんが間違った手術を受ける可能性が100分の1に減るということだ」

 部屋の中には沈黙が流れた。俊介も健太郎もじっと竹森の顔を見つめていた。たった1%弱の正診率の違い、そう思って俊介はあえて機能的局在検査を省略して患者の都合を優先させた。しかし今、目の前で恩師は俊介が100倍の危険率を持った治療を選択したと指摘したのだ。

「風間先生。君が言うとおり、まず間違いなくこの患者さんは左副腎腫瘍によるConn症候群だろう。あさって手術で左副腎を摘出すればこの患者さんは高血圧が治って2週間後の仕事にも行ける。君たちはきっと患者さんから感謝されるはずだ。しかしな・・・ごくわずかの確率でさっき君が言った病態が存在するんだ。その場合はこの患者さんは余計な手術を受けることになる。手術を受けたが高血圧は治らない。さらにとらなくてもよかった左の副腎を摘出されてしまう。その状況を君は考えてみたのか?多分大丈夫だろうと自分をごまかして考えないようにしていたのじゃないか?」

「・・・」

 俊介も健太郎も何も言えなかった。

「緊急手術が必要な状態ならともかく、入院してからは血圧も安静と降圧剤の内服で安定しているじゃないか。この患者さんの2週間後の仕事が一生をかけるようなものでないのならばじっくり鑑別診断をしてから手術しても遅くはないんじゃないのかな?」

 俊介と健太郎はじっと机の上のカルテを見つめていた。再び部屋の中に沈黙が流れた。

「いや・・・老婆心というやつだ。余計なことを言ってしまったかな?『患者を診ていないものが治療方針を決めるな』だったな?君に何度も教えたことを私が破ってしまったよ」

 竹森は笑いながら言った。

「いえ、竹森先生。先生のおっしゃるとおりです!私はいいことばかり見ていて診断が外れたときの事を見ないようにしていました。確かに左副腎にある腫瘍からアルドステロンが過剰産生されていなかったら・・・この患者さんは全く無駄な手術を受けることになります。そしてその危険はほんの10日間手術を延期すれば100分の1に減らせるのです。高岡先生!今から予定変更だ。泌尿器科の先生にあさっての手術を延期してもらうんだ。それから放射線科に連絡して大至急副腎スキャンと副腎静脈サンプリングの予定を入れてくれ!泌尿器科の横田先生にはあとで俺から謝っておく。それが終わったら・・・患者さんには二人で謝罪して予定の変更をお願いしよう。今からの変更は大変だろうけどやってくれるか?」

「わかりました!何とかやってみます」

 健太郎は大きな声で返事をしてカルテをさっと手に取った。竹森はそれを見て微笑みながら俊介に言った。

「君も私と同じようにいい部下に恵まれているな。すなおで情熱的な青年だ。きっといい医者になるだろう」

 健太郎は顔をくしゃくしゃにして思いっきりの笑顔で竹森に会釈した。

「それに君も立派になった。高岡先生と違って昔の風間先生はなかなか自分の悪いところを認めなかったからな」

 竹森は皮肉を込めた目で俊介の顔を見た。

「え?風間先生がですか?」

 健太郎はびっくりして竹森を見つめた。

「ああ。自分が間違っていると思っても、なんだかんだ理由をつけて食って掛かってきたもんだよ。またその言い訳がなかなか理論的でな。いつもその言い訳を打破(だは)するのに一苦労したがね」

「竹森先生。そんな昔のことは・・・こんなところで・・・。お願いしますよ」

 俊介は拝むような顔で頭を下げて竹森に頼み込んだ。

「風間先生の昔のことは何でも知ってるぞ。ほら、なんて言ったっけ・・・君にいつも付きまとっていたあの若い看護婦さん、ちょっと色っぽい細身の彼女・・・」

「竹森先生、何をおっしゃるんです!そんな昔の話!彼女とは本当に何もなかったんです!高岡先生、何ニヤニヤ笑ってるんだ!そんな場合じゃないだろう!早く言われた仕事をしろ!」

 カルテ7(2/3)に続く

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