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2008年8月

2008年8月31日 (日)

風の軌跡:カルテ7(2/3)

風の軌跡:カルテ7(2/3)

   *謝罪*

「なんですって?手術が延期?あさって手術予定があいたって言われたのでもう会社にも出張OKの連絡を入れちゃったんですよ!いまさら延期だなんてどういうことですか?」

 黒崎が個室のベッドに座ったまま憤慨(ふんがい)してまくし立てた。

「申し訳ありません。あさって手術を受けていただくことは可能なのですが・・・黒崎さんの病気はまだ確定診断がついているわけではないのです。しっかりと検査をしないで手術をすることはごくわずかですが無駄な手術になる可能性があるのです」

 俊介が深々と頭を下げて申し訳なさそうに言った。

「確定診断って・・・私の病気はConn(コーン)症候群でしょう?左の副腎に腫瘍があってそこからアルドステロンが過剰に分泌される。その結果ナトリウムと水分が貯留して血圧が上昇する。だから副腎の腫瘍を摘出すれば病気は治るはずじゃないですか。そこの高岡先生がおっしゃったじゃないですか」

 黒崎は今度は健太郎をにらんだ。

「すみません。私もそう思っていたのですが・・・ある先生から誤診の可能性を指摘されたのです」

 健太郎も申し訳なさそうに大きなからだを丸めて黒崎を見ながら答えた。

「誤診?」

 黒崎は今度は俊介を疑惑の目でにらんだ。俊介は黒崎の目をじっと見つめながらゆっくりと答えた。

「はい。実は・・・今日私の恩師である竹森要一という先生が偶然私を尋ねてこられたのです。日本の副腎疾患の草分けを作った先生なのです。彼は黒崎さんのデータを見て99%Conn症候群に間違いないと診断されました。しかし黒崎さんの左の副腎にある腫瘍からアルドステロンを分泌している証拠がないことを指摘されたのです」

「証拠?」

 黒崎はけげんそうな顔で俊介をにらんだ。

「はい。血液中のアルドステロンが高値で左副腎に腫瘍があってもそこからアルドステロンが分泌されているということは確定できないのです。ひょっとしたら両方の副腎からアルドステロンが過剰分泌されている可能性もあります。それに反対側の副腎に小さなアルドステロン産生腫瘍が隠れている可能性も否定できません」

「そんな、あるかないかわからないことを言われても納得できませんよ!その確率はどのくらいあるんですか?」

「1%・・・です」

「1%?そんなの、ないに等しいじゃないですか!その1%のために手術を延期するんですか?私には納得できません」

 静かな部屋の中で大声で怒鳴っていた黒崎の粗い息づかいが聞こえていた。沈黙を破ったのは俊介だった。

「黒崎さん。お気持ちはわかります。あさって手術を受けられれば多分黒崎さんの高血圧は治癒する確率が非常に高いと思います。でも・・・もしも、のこりの1%が起こった場合のことを考えてみていただけませんか?あなたは無駄な手術を受け、血圧は下がりません。もう一度反対側の副腎を摘出する必要があるのです。しかも両側の副腎を摘出してしまうわけですからこれから一生副腎皮質ホルモンを内服する必要があります。しかし当初予定していた副腎スキャンと副腎静脈サンプリングを受けていただければその危険はほぼ回避できます」

 黒崎はじっと黙って下を向いて考えていた。そして顔を上げ健太郎をじっと見つめた。

「高岡先生も・・・同じ意見なのですね」

 健太郎も黒崎の目をじっと見つめていった。

「申し訳ありません。私の知識が未熟なために黒崎さんには大変なご迷惑をお掛けしてしまいました。今日竹森先生の診断を聞いて私もその通りだと思いました。黒崎さんには是非しっかりとした検査を受けてから手術を受けていただきたいと思っています」

 黒崎は再び黙って下を向いた。

 しばらくの沈黙のあと黒崎は健太郎のほうを見て言った。

「わかりました。手術は延期してください」

「黒崎さん・・・・・・ありがとうございます・・・・・・」

 頭を下げる健太郎を見ながら黒崎は静かに話し始めた。

「私は5年間この高血圧に悩まされてきました。色々な医院や病院で治療しましたが血圧はほとんど下がりませんでした。頭痛や肩こりにも悩まされて仕事にも手がつきませんでした。そんな私の高血圧の原因を見つけてくれたのは高岡先生です。手術を受ければ血圧は正常になると言われた時は本当にうれしかった。あともう少し我慢すればこの悩みから永遠に開放される。そんな気持ちで今回の入院を決心したんです。今までの苦労を考えたら少しくらいの我慢なんてたいしたことないですよ」

 笑顔で答える黒崎の言葉に健太郎は思わず目頭が熱くなったがそれを悟られないように無言で頭を下げた。俊介は黒崎の前に右手をさしだした。

「ありがとうございます、黒崎さん。手術までの予定はあとで高岡先生から詳しく説明してもらいます。当たり前のことですが、手術までの黒崎さんの診療に関しては私たちが全力を尽くします」

    *誠意*

「風間先生、ほっとしました。黒崎さんが納得してくれて・・・」

 ナースセンターに戻って椅子に腰掛けた健太郎が俊介に言った。

「ああ、本当だな。あの患者さんはなかなか冷静で思慮深い人だな」

 俊介も椅子の背にもたれながら答えた。

「俺もそう思います」

「でも高岡先生、黒崎さんがあんなにすんなりと予定変更を受け入れてくれたのは君のおかげだ」

「え?」

「気づかなかったか?彼は俺の顔はほとんど見ていなかっただろう?高岡先生が自分の病気のことをどう思っているのか、そればかりを気にしていたんだ」

「俺が・・・どう思っているかですか?」

「そうだ。君は黒崎さんの高血圧の原因を見つけて、そして治療方針を立ててきた。黒崎さんの都合を考え黒崎さんに一番メリットがあるように考えて診療を行ってきたはずだな?」

「はあ・・・そのとおりですが・・・」

「彼は君が自分のことを大切に思ってくれていると感じているんだ。だから君が手術を延期したほうがいいと言ったから素直にそれに従ったんだ。彼にとっては君が研修医だろうが知識が少なかろうが関係ないことなんだ。君が誠意を持って自分を診てくれていると思っている。彼を納得させたのは俺じゃなくって高岡先生、君だよ」

 健太郎は俊介の言葉を聞いて本当に顔をくしゃくしゃにして喜んだ。

「そんな・・・先生・・・。風間先生を差し置いて俺なんかが・・・」

 俊介はそんな健太郎を微笑みながら見つめていた。

「でも風間先生、竹森先生に指摘された病態を先生も前からわかっていたことをなぜ黒崎さんに言わなかったんですか?そのほうが風間先生も患者さんから信頼されて説得しやすかったでしょう?」

「そうだな・・・君が患者さんから信頼されていなかったらそうしたかもな」

 俊介は笑いながら健太郎の肩をぽんとたたいた。

    *反対側に?*

「風間先生、おかしいんです。ちょっと見てください」

 数日後、健太郎がナースセンターに来た俊介を捕まえてコンピュータを操作した。

「黒崎さんの副腎スキャンなんですが・・・おかしいんです」

 俊介はじっと画面を見つめた。

「副腎に淡い集積があるじゃないか・・・。やっぱりConnでいいんじゃないのか?」

「それが先生、アドステロールの集積があるのは左じゃなくて右の副腎なんです!」

 健太郎が大きな声を上げてマウスのポインターで差して言った。

「なんだって?腫瘍は左だったな・・・。確かに・・・アドステロールが集積しているのは右の副腎だな。技師さんがフィルムをが逆に取り込んだってことはないのか?」

 俊介は信じられないという顔でじっと画面を見つめていた。

「俺もまずそれを考えたんですが・・・放射線技師さんにしかられました・・・」

 健太郎が力ない声で答えた。

「そうか・・・。それじゃあ・・・アルドステロン産生腫瘍は右にあるっていうことか?もう一度CTを見直そう」

 俊介はマウスでコンピュータの画面を操作し始めた。二人は食い入るように画面を見つめた。

「うーん・・・やはり・・・腫瘍は左にしかなさそうだな・・・。右の副腎はどう見ても正常だ」

「どういうことでしょう?風間先生」

「これだけじゃなんとも言えんが、とにかく・・・副腎静脈サンプリングの結果を待つんだ。場合によっては右の副腎摘出に変更してもらわないといけないかもしれないな」

 二人はじっとコンピュータの画面を見つめていた。

    *やはり右だ*

 俊介は自室でいらいらしながら健太郎の報告を待っていた。今日は明日の手術を控えた黒崎啓司のすべての結果が出揃うはずだ。この結果によってどちら側の副腎を摘出すべきかが決定されるのだ。もう5時になるがまだ健太郎からの報告が来ない。俊介は時計を見ながら自分の部屋の中をうろうろしながら立ったり座ったりを繰り返していた。

「風間先生!結果が出ました」

 ドアをノックもせずに健太郎がカルテを抱えて飛び込んできた。

「出たか!どうだ!」

 俊介は健太郎をソファに座らせ自分も腰掛けると身を乗り出して健太郎の持ってきた結果表に見入った。

「はい・・・これです」

「右副腎静脈アルドステロン564ng/dl コルチゾール378μg/dl、左副腎静脈アルドステロン23ng/dlコルチゾール689μg/dlか・・・。アルドステロンコルチゾールの比で見ると・・・明らかに右の副腎のアルドステロン過剰分泌だな・・・」

  副腎からはアルドステロンとコルチゾールというホルモンが分泌されている。副腎静脈からは当然、大量のアルドステロンとコルチゾールが検出されるはずであるがアルドステロン産生腫瘍が存在する場合にはコルチゾールに比してアルドステロン分泌の割合は高い値となる。黒崎のデータは腫瘍がない右の副腎からアルドステロンが過剰分泌されていることを示しているのだ。

「風間先生、どういうことでしょう?副腎スキャンも副腎静脈サンプリングも右副腎からアルドステロンが過剰分泌されている結果ですよ」

 俊介はソファにもたれかかり腕組みをして言った。

「そうだ。このふたつの検査結果が示すことは黒崎さんのアルドステロン産生腫瘍は右側に存在するということだ」

「じゃあ・・・明日摘出してもらうのは・・・」

 健太郎が俊介の目をじっと見つめた。

「そうだ。腫瘍のない右の副腎だ!今から泌尿器科の横田先生に電話しよう」

 カルテ7(3/3)に続く

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2008年8月30日 (土)

風の軌跡:カルテ7(1/3)

風の軌跡ー風間俊介診療録ー:カルテ7(1/3)

   「隠された黄金」

 副腎腫瘍の手術を控えた黒崎啓司。患者の希望により手術予定を切り上げようとする健太郎だが、そこには落とし穴が・・・

    *黄金探し*

 午後6時過ぎ、医局では仕事が一段落した医師たちがソファに座りながらテレビを見ていた。午後の外来診察を終えた俊介もよっこいしょと声を出しながらあいている場所に腰を下ろした。

「なんだ?宝探しか?」

 俊介が画面を見て隣に座っている消化器内科医の長谷川聡に聞いた。

「はあ・・・。何でも相続した財産全部をつぎ込んで10年間沈没船を探しているそうですよ」

 長谷川聡がテレビ画面を見ながら答えた。

「10年間?仕事もしないでずっと宝探しをしているのか?」

「それがこいつらの仕事なんですよ。黄金が見つかれば何十億の価値があるらしいですよ」

「何十億?でも見つからなかったらただ働きだろ?」

「ええ。つぎ込んだ財産も全部ぱーってことですね」

 俊介はじっとテレビ画面を見つめた。潜水服を着た男が海から船にあがり、首を横に振りながら水中眼鏡をはずしている。今日も宝は見つからなかったようだ。たしかに見つかれば何十億にもなるのだろうが見つからなければ一文にもならないのだ。苦労していることが全く報われないことになる。

 俊介には彼らの気持ちはとうてい理解できない。確かに自分たちがやっている仕事もきついが働いた分の給料は毎月きちんと自分の口座に振り込まれる。それにたとえ給料がもらえなくても自分が苦労したことで患者がよくなれば報われる気持ちにもなる。

 しかし彼らがやっていることは黄金が見つからなければ全く収入にもならず、世間からも評価されない。遊びとしてのギャンブルならまだしも宝探しが人生をかけて行うようなことなのだろうか?

「まあパチンコみたいなもんですよ。一回大あたりを出して大もうけするとまじめに働こうって気持ちにはなれないんでしょうね。こいつも7年前にちょっとした宝を見つけて数千万儲けたらしいですよ。もっともその儲けも全部この沈没船探しにつぎ込んじまったらしいですがね」

 長谷川聡もちょっとあきれ顔で画面を見つめていた。彼もギャンブルは好きなようで、よく競馬で一発当てたとか言う自慢話を聞くことがある。しかしさすがに医者を辞めてギャンブルで生計を立てていこうとまでは思っていないようだ。

「俺がもし宝くじで3億円当たったら、医者なんか辞めてゆったりと暮らしますけどね」

「何言ってるんだ。君はまだ若いじゃないか。3億円くらいあったって家と土地を買って贅沢してたら10年も持たないぞ。楽して儲けた金っていうのは残らないもんだ。そんなことは考えずに堅実に働くことだな。まあ・・・もうすぐ50になる俺が3億円当たれば間違いなく医者を辞めるだろうけどな」

 俊介が笑いながら答えると長谷川聡はちょっと皮肉を込めていった。

「そうですよね。毎日堅実に働いていれば3億円くらいたった30年で稼げますからね。まあ・・・病院に寝泊りして病院食堂の質素な食事でがまんして朝から晩まで働けば、ですけどね・・・」

「まあ、そう言うな。不景気でリストラばやりの世の中で俺達はきちんと職について給料を貰ってるわけだから幸せなほうだろう?俺の歳になってリストラされて再就職先もなくて子供を進学させてやれない人だっているんだからな」

 俊介は笑いながら長谷川聡の肩をぽんとたたいた。その時俊介のPHSが鳴った。画面を見ると「高岡Dr」と出ている。

―あいつはこの時間になるときまってかけてくるな・・・―

 俊介はちょっと苦笑しながら答えた。

「はい。風間です」

“風間先生。すみません。ちょっと相談したい患者さんがいるんですが・・・もうお帰りでしょうか?”

―こんな時間に帰れるんだったら苦労しないよ―

「いや、医局で宝探しの番組を見ているところだ。なんだ?」

”はあ?宝探し・・・ですか?いえ、急用じゃないんですが・・・。あの、黒崎さんのことなんですが”

「黒崎さん?ああ・・・Conn(コーン)症候群の・・・」

“はい。手術予定がちょっと・・・“

「わかった。今病棟か?すぐ行くから」  

 俊介は医局を出て病棟へ向った。

 Conn症候群とは別名原発性アルドステロン症と呼ばれる内分泌疾患だ。腎臓の上にある副腎という組織に腫瘍ができ、アルドステロンという塩分を貯留するホルモンが大量に分泌される。その結果血圧が上昇し、高血圧症となる。

 腫瘍は多くの場合良性だが腫瘍が存在する限りアルドステロンは持続的に過剰分泌され、血圧は上昇し続ける。降圧剤の効果も不十分なことが多く近い将来、脳出血や心筋梗塞などの合併症を引き起こすことになる。手術で副腎の腫瘍を摘出すれば高血圧は治癒するので降圧剤の服用も不要となる。

 黒崎啓司は41歳で、地方のテレビ局のディレクターをしている。2-3年前から高血圧の治療を受けているが効果が不十分で、今回偶然に副腎腫瘍を発見されてConn症候群を疑われ、その治療目的に昨日入院したのだ。今から術前の検査を行って最終診断を行い、診断が確定すれば10日後に手術の予定だったはずだ。

「すみません。風間先生」

「それで?問題っていうのは?」

 高岡健太郎はカルテをひろげて説明を始めた。

「はい。黒崎啓司さんは血圧のコントロールが不良で開業医さんから紹介されたんですが、血液中のアルドステロンが高値でレニンが低値(レニンはアルドステロンの分泌を刺激するホルモンで原発性アルドステロン症では低値となる)で左の副腎に1cmの腫瘍が発見されてConn症候群が疑われました。昨日、入院されて今日ラシックスレニンテストを行いました。明日から副腎スキャンを行い、来週副腎静脈のサンプリングをして確定診断をしてから泌尿器科で腫瘍摘出手術をしてもらう予定だったんです」

「そうだな。副腎スキャンで左副腎へ集積を確認して、副腎静脈サンプリングで左副腎からのアルドステロン過剰分泌を証明できれば確定診断できるからな。左副腎を腫瘍ごと摘出すれば高血圧は治癒するはずだ」

 俊介の言葉を聞いた健太郎はうんうんとうなずいて話を進めた。

「それが・・・さっき急に黒崎さんから手術予定を早めてもらえないかっていう申し出があったんです」

「早める?」

「はい。なんでも勤務先にトラブルがあったらしくって2週間後にどうしても香港に出張しなくてはならないそうです」

「2週間後?それじゃあ、10日後に手術をしたらまず無理だな」

「はい。ですから俺、泌尿器科の先生に問い合わせたんです。そしたら・・・3日後なら手術予定があいているっていうんです」

「3日後?それじゃあ・・・副腎スキャンもサンプリングもできないじゃないか」

「そうなんです。でも風間先生・・・その二つの検査って本当に必要なんでしょうか?左副腎に明らかな腫瘍があってアルドステロンが高値でレニンが低値でしょう?あと今日のラシックスレニンテストでレニンの抑制が確認できれば・・・まずConn症候群に間違いないと思うんですよ。それならば余計な検査をせずに3日後に手術してもらえば、入院期間も短くて済むし出張もできると思うんですよ」

「確かにな・・・腫瘍がはっきりしなかったり、ホルモン検査に問題があるときは必須の検査だと思うが・・・。黒崎さんの場合は、必要ないかも・・・しれないな」

 俊介はちょっと困惑顔で答えた。

「先生もそう思いますか?確かに学問的にはしっかりと検査をして確認するべきなんでしょうけど、患者さんのメリットをいつも第一に考えるようにって風間先生が言っておられるでしょう?黒崎さんに関してはこれらの検査を省略して手術してもらうのが一番のメリットだと思うんです」

 『患者にとって一番いい医療を行え』これは俊介がいつも若い医師に繰り返し訴え続けていることだ。健太郎は自分の指示したことをきちんと守って教科書から離れた治療をしようとしている。結果が正しいかどうかは別として自分の部下が教えたことに従って行動してくれることは俊介にとってもうれしいことだ。しかし・・・

「確かに君の言うとおりだ。黒崎さんは99%左副腎腫瘍によるConn症候群だろう。しかし、今までConn症候群の患者では必ず副腎スキャンと副腎静脈サンプリングを行ってきたんだ。いくら患者のためとはいえ、それを省略するのは・・・」

 俊介が腕を組みながらちょっと困惑して答えた。

「患者さんもインターネットや色々な本を読んで勉強しているんです。これ以上追加検査の必要はないんじゃないかって・・・。できれば3日後に手術してほしいって言うんですが・・・」

「うーん・・・患者さんの希望なのか・・・」

 俊介は腕組みを続けて考え込んだ。確かに、患者のメリットを考えれば3日後に手術をすれば香港への出張も可能になり、患者も家族も会社も喜ぶだろう。しかし・・・

「明日の午後になれば今日のラシックスレニンテストの結果が出ると思うんです。それでレニンの上昇がなければ・・・Conn症候群、確定診断としてもいいんじゃないでしょうか?」

 俊介はじっと考え込んでいた。そしてゆっくりと顔を上げて健太郎を見つめた。

「そうだな。確かに黒崎さんにはこれ以上の検査は必要ないかもしれない。彼にとっては3日後に左副腎を摘出してもらうことが一番いい選択だろう。高岡先生、明日ラシックスレニンテストの結果を確認して泌尿器科の先生と話を進めてくれ」

 それを聞いて健太郎はうれしそうに答えた。

「わかりました!早速黒崎さんに話してきます!」

 健太郎はカルテを片つけるとそそくさと病室へ向っていった。

    *確定診断*

 次の日の夕方、俊介は自分の部屋で来客を迎えていた。

「竹森先生、お久しぶりです」

 俊介は恩師である竹森要一に会釈しながらソファを勧めた。

「やあ、風間君。元気そうじゃないか。相変わらず忙しそうだな」

 竹森要一はカルテと書類だらけの部屋を見回しながらソファに座った。

「びっくりしました。急にどうされたんですか?」

「いや、今日はS市の医師会から患者さん向けの講演を依頼されてね、その帰りにちょっと優秀な教え子の顔でも見たいなって思ってふらっと寄ってしまったよ。迷惑じゃなかったかい?」

「そうだったんですか。ご連絡いただければお迎えに上がりましたのに・・・。迷惑だなんてとんでもない。久しぶりにお会いできてうれしいです」

 竹森要一は俊介が卒業して大学病院で研修しているときに指導してくれた上司である。何もわからない俊介に医療技術や知識を一から指導してくれた医師であり、また患者との接し方や人生に関しても相談に乗ってくれた。いわば俊介の医師としての基礎を作ってくれた人物である。

「ずいぶん活躍しているようじゃないか。いま医師会の先生方とも話したんだが、ずいぶん評判がよかったぞ」

「とんでもない!まだまだいたらないことばかりです。でも先生から教えていただいたことを少しでも実践しようと思って一生懸命がんばっています」

 俊介はちょっとテレながら答えた。

「いやいや、君に教えたことなんかひとつもないよ。君は自分で勉強して技術や知識を身につけていったんだ」

「とんでもないです。竹森先生・・・」

 その時、ドアをノックする音が聞こえた。

「どうぞ」

 俊介の声に続いてドアが開き、健太郎がちょこっと顔を出した。

「あ・・・失礼しました!ご来客中ですか。また出直します」

 あわててドアを閉めようとする健太郎に向って竹森要一が言った。

「いや、かまいませんよ。私はもう失礼しますからお入りください」

「いや、先生。もう少しゆっくりなさってください。高岡先生、まあここへ座ってくれ。紹介します。うちの内科で後期研修をしている高岡健太郎先生です。高岡先生、こちらは俺の恩師の竹森先生だ」

「竹森先生・・・あ・・・風間先生がよくおっしゃっている人生の師の先生ですか!」

「やめてくださいよ。そんなたいそうなもんじゃありません。ただの年寄りですから・・・」

 竹森要一が人懐こい笑顔で健太郎に右手を差し出すと、健太郎は恐縮してその手をにぎって大きな身体を小さくして俊介の横にすわった。

「それで、なんだ?」

 俊介がちょっと微笑んで健太郎を見つめた。

「え?あの・・・黒崎さんの件なんですが・・・」

 健太郎は持っていたカルテをチラッと俊介に見せた。

「ああ、どうなった?手術予定は?」

「はい。ラシックスレニンテストでレニンの抑制を確認しました。今、あさっての手術をお願いしてきたところです」

 健太郎が元気な声で答えた。

「ラシックスレニン?Conn(コーン)の患者さんかな?」

 それを聞いた竹森要一が興味深そうに身を乗り出して聞いた。

「そうだ、高岡先生!ちょうどよかった!竹森先生にこの患者さんのデータを見てもらおう!君も知っていると思うが竹森先生は副腎疾患に関しては日本の重鎮(じゅうちん)だ」

「やめてくれないか、風間君。私はもう引退した身だから今の医学にはもうついていけんよ」

 竹森要一は苦笑しながら答えた。

「はい!是非お願いします!」

 そんな竹森の言葉にはかまわず健太郎は緊張た手でカルテを開き、手際よく経過を説明していった。腕組みをしてじっと健太郎の症例提示を聞いていた竹森はちょっと沈黙した後、健太郎にゆっくりと聞いた。

「なるほど・・・確かにConn症候群のようですね。でも高岡先生、あさって手術とのことですけれども、機能的な局在診断がまだのようですが・・・」

「え?は・・・はい!あの・・・本当は副腎スキャンと副腎静脈サンプリングをしてから手術の予定だったんですが、急に患者さんの仕事の都合がつかなくなってしまって・・・。風間先生とも相談したのですが、この患者さんは今までのデータから、まず左副腎腫瘍によるConn症候群に間違いないだろうから患者さんの希望を優先しようと思ったのです」

 健太郎はちらっと俊介のほうを見てちょっとしどろもどろに答えた。

「なるほど。教科書にはとらわれずに目の前の患者さんにとって一番いい医療を行う。これが風間先生の診療方針だったかな?」

 竹森は微笑みながら俊介を見つめた。

「私の治療方針というよりは・・・それは先生から教わったことです。常に患者さんのメリットを考えて診療に当たれと」

 俊介が真剣なまなざしで竹森を見つめた。

「そんなことも言ったかな?それにしても・・・教え子が自分の教えたことを忠実に守ってくれるということは・・・本当にうれしいことですね。医者冥利に尽きますよ」

 竹森はニコニコと微笑みながら健太郎を見つめた。健太郎は照れくさそうにはにかみながら下を向いた。

「しかし高岡先生。この患者さんには二つの病態がまだ除外されていない。なんだかわかりますか?」

 竹森の唐突な質問に健太郎は思わず顔を上げて竹森の顔をびっくりした目で見つめた。

「二つの病態・・・??えっと・・・Conn症候群じゃ・・・ないってことでしょうか?」

 健太郎は戸惑いながらカルテをめくりめくり必死で考えた。

「君はわかっているはずだね?」

 竹森は俊介の顔を見つめた。

「はい・・・。左の副腎腫瘍がアルドステロンを分泌しない非機能性腫瘍の可能性があるので・・・。一つは特発性(とくはつせい)アルドステロン症が合併した場合。それともう一つは右の副腎に画像診断で指摘されていないアルドステロン産生腫瘍が合併している場合です」

 俊介はゆっくりと答えた。Conn症候群は副腎にアルドステロンを産生する腫瘍ができて血圧が上昇する疾患である。同じようにアルドステロンが増加して高血圧を発症する疾患に特発性アルドステロン症がある。これは副腎に腫瘍はないが左右の副腎が過形成(かけいせい)となり機能が亢進して左右の副腎からアルドステロンが分泌されるきわめてまれな疾患である。片方の副腎を手術で摘出しても病態は改善しない。左の副腎に腫瘍があるからといってその腫瘍からアルドステロンが分泌されているとは限らないのだ。

 つまり左副腎の腫瘍はアルドステロンを分泌しない非機能性腫瘍で実際は両側の副腎からアルドステロンが過剰分泌されている可能性も0ではないということだ。また、アルドステロン産生腫瘍は非常に小さいこともありCTやエコーで腫瘍が検出されていない右側にアルドステロンを産生する腫瘍が隠れている可能性も否定できない。

「しかし竹森先生。そのような病態の可能性はごくわずかだと思います。この患者さんはどうしてもやらなければならない仕事を2週間後に控えているのです」

 俊介は真剣なまなざしで竹森を見つめて言った。

「ごくわずかか・・・何パーセントくらいかな?」

「この患者さんが左の副腎腫瘍によるConn症候群である確率は99%だと思います」

「ああ・・・そんなもんだろう。じゃあ、副腎スキャンか副腎静脈サンプリングを行った場合の正診率は?」

「ほぼ100%つまり99.99%だとおもいます。でも竹森先生、たった1%弱しか変わりません」

 俊介は静かに答えた。

「その通りだ。もうひとつ聞くが、この患者さんの手術は緊急を要するのか?」

「いえ。普通の待機手術です」

「最後にひとつ。2週間後の仕事と言うのはこの患者さんにとって一生を左右するような仕事なのか?」

「・・・いえ・・・確かに今回のプロジェクトで重要なポストにいる方ですが患者さんの一生を左右するかと言われると・・・それほどのことではないと思います」

 俊介はちょっと口ごもって答えた。

「じゃあ・・・手術を延期して副腎スキャンと副腎静脈サンプリングを行えば誤診率が1%から0.01%に・・・つまり100分の1にへるわけだな?すなわちこの患者さんが間違った手術を受ける可能性が100分の1に減るということだ」

 部屋の中には沈黙が流れた。俊介も健太郎もじっと竹森の顔を見つめていた。たった1%弱の正診率の違い、そう思って俊介はあえて機能的局在検査を省略して患者の都合を優先させた。しかし今、目の前で恩師は俊介が100倍の危険率を持った治療を選択したと指摘したのだ。

「風間先生。君が言うとおり、まず間違いなくこの患者さんは左副腎腫瘍によるConn症候群だろう。あさって手術で左副腎を摘出すればこの患者さんは高血圧が治って2週間後の仕事にも行ける。君たちはきっと患者さんから感謝されるはずだ。しかしな・・・ごくわずかの確率でさっき君が言った病態が存在するんだ。その場合はこの患者さんは余計な手術を受けることになる。手術を受けたが高血圧は治らない。さらにとらなくてもよかった左の副腎を摘出されてしまう。その状況を君は考えてみたのか?多分大丈夫だろうと自分をごまかして考えないようにしていたのじゃないか?」

「・・・」

 俊介も健太郎も何も言えなかった。

「緊急手術が必要な状態ならともかく、入院してからは血圧も安静と降圧剤の内服で安定しているじゃないか。この患者さんの2週間後の仕事が一生をかけるようなものでないのならばじっくり鑑別診断をしてから手術しても遅くはないんじゃないのかな?」

 俊介と健太郎はじっと机の上のカルテを見つめていた。再び部屋の中に沈黙が流れた。

「いや・・・老婆心というやつだ。余計なことを言ってしまったかな?『患者を診ていないものが治療方針を決めるな』だったな?君に何度も教えたことを私が破ってしまったよ」

 竹森は笑いながら言った。

「いえ、竹森先生。先生のおっしゃるとおりです!私はいいことばかり見ていて診断が外れたときの事を見ないようにしていました。確かに左副腎にある腫瘍からアルドステロンが過剰産生されていなかったら・・・この患者さんは全く無駄な手術を受けることになります。そしてその危険はほんの10日間手術を延期すれば100分の1に減らせるのです。高岡先生!今から予定変更だ。泌尿器科の先生にあさっての手術を延期してもらうんだ。それから放射線科に連絡して大至急副腎スキャンと副腎静脈サンプリングの予定を入れてくれ!泌尿器科の横田先生にはあとで俺から謝っておく。それが終わったら・・・患者さんには二人で謝罪して予定の変更をお願いしよう。今からの変更は大変だろうけどやってくれるか?」

「わかりました!何とかやってみます」

 健太郎は大きな声で返事をしてカルテをさっと手に取った。竹森はそれを見て微笑みながら俊介に言った。

「君も私と同じようにいい部下に恵まれているな。すなおで情熱的な青年だ。きっといい医者になるだろう」

 健太郎は顔をくしゃくしゃにして思いっきりの笑顔で竹森に会釈した。

「それに君も立派になった。高岡先生と違って昔の風間先生はなかなか自分の悪いところを認めなかったからな」

 竹森は皮肉を込めた目で俊介の顔を見た。

「え?風間先生がですか?」

 健太郎はびっくりして竹森を見つめた。

「ああ。自分が間違っていると思っても、なんだかんだ理由をつけて食って掛かってきたもんだよ。またその言い訳がなかなか理論的でな。いつもその言い訳を打破(だは)するのに一苦労したがね」

「竹森先生。そんな昔のことは・・・こんなところで・・・。お願いしますよ」

 俊介は拝むような顔で頭を下げて竹森に頼み込んだ。

「風間先生の昔のことは何でも知ってるぞ。ほら、なんて言ったっけ・・・君にいつも付きまとっていたあの若い看護婦さん、ちょっと色っぽい細身の彼女・・・」

「竹森先生、何をおっしゃるんです!そんな昔の話!彼女とは本当に何もなかったんです!高岡先生、何ニヤニヤ笑ってるんだ!そんな場合じゃないだろう!早く言われた仕事をしろ!」

 カルテ7(2/3)に続く

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2008年8月28日 (木)

風の軌跡:カルテ6(4/4)

風の軌跡:カルテ6(4/4)

   *妖怪やまびこ*

 その日、午前中の外来診察が終わるや否や俊介は病棟から呼ばれた。山本彦太郎の上司という人物が話を聞きたいというのだ。

―多分、山本さんが早く働けるようにしてくれと言うんだろう。でもそんな頼みは聞くわけには行かないぞ。彼には最低2ヶ月間の休養が必要なんだ・・・―

 そんなことを考えながら俊介は病棟へ向った。

 ナースセンターにはすでに50代後半くらいのきちっとした身なりの男性が座って俊介を待っていた。

「先生、お忙しいところお呼び立ていたしまして申し訳ありません。佐々木コーポレーションの取締役をしております小宮山と申します」

 小宮山と名乗った男性はすっと立ち上がり、両手で丁寧に名刺を渡した。俊介はちょっと戸惑いながら両手で名刺を受け取った。彼はもっと話のわからない上司を想像していたのだが、目の前にいるのは礼儀正しい、いかにもまじめそうな取締役である。

「お待たせしました、内科部長の風間です。どうぞお掛けください」

 俊介は小宮山と名乗った男性を座らせた。

「山本さんの病状に関してですね?」

「そうです。山本彦太郎君の現在の病状と今後の見通しをお伺いしたいと思いましてご足労願ったしだいです」

「わかりました。しかしちょっとお待ちいただけますか?我々は患者さんの病状に関しては守秘(しゅひ)義務というものがあります。患者さんご本人がどこまで家族以外の人に病状を説明することを望まれるかを確認する必要があります。まず山本さんご本人に確認していいでしょうか?」

「はい、もちろんです。今さっき山本君と話をして先生からお話を伺うことには了解していただきましたが、先生からも、もう一度ご確認ください」

「はい。申し訳ありませんがもう少々お待ちください」

―話のわかりそうな人だ・・・。これなら2ヶ月の休養も認めてもらえるかもしれないな・・・―

 俊介はそんなことを考えながら山本彦太郎の個室に向った。

「いかがですか?山本さん」

 山本彦太郎は病室のソファに座っていたが、俊介を見ると立ち上がって会釈した。

「風間先生、今日はずいぶんと気分がいいんです。食事も8割くらい食べれるようになりました」

「それはよかった。ああ・・・そのままお掛けください」

「はい・・・。失礼します」

「今しがた小宮山さんという人がみえましたが、山本さんの上司の方ですね?」

「はい、私の直属の上司です。今度のことでは小宮山さんにはずいぶんと迷惑をかけてしまいました。私がいなくなってからの処理もきちんとやっていただいたようです」

 ちょっと床に目を落としながら山本彦太郎は答えた。

「小宮山さんが山本さんの病状について聞きたいとおっしゃるんですが・・・。どこまでお話してよろしいでしょうか?」

「先生、何も隠さなくて結構です。すでに私が自殺未遂をして入院したことは話してあります。うつ病のことも伝えました。小宮山さんにはありのままを伝えてください」

「わかりました。じゃあ・・・同席されますか?」

「いえ・・・私がいるとかえって話しにくいこともあるでしょう。私はここで養生(ようじょう)させてください」

 俊介は山本彦太郎に軽く会釈すると、再び小宮山の待つナースセンターに戻った。

「お待たせしました。山本さんが同意されましたので今の病状と今後の見通しをお話しいたします」 

 俊介は今までの経過や今後2ヶ月程度の休養が必要なことなどをわかりやすく話した。小宮山はメモを取り、時々質問をはさみながら聞いていた。

「すると先生・・・。山本君はやはり2ヶ月程度は仕事に復帰できないということでしょうか?」

「その通りです。確かに肝臓の機能は急速によくなり、2週間程度で退院は可能でしょう。しかし問題は山本さんの心の病気です。長期間にわたる多忙と心労が重なって山本さんの精神はぼろぼろの状態です。それを回復させるのに2ヶ月間は必要と考えます。しかしその後も今までのような勤務は望ましくありません。今の勤務そのものが山本さんには無理なのです。これからは十分な休養をとりながら仕事を減らして勤務することが望ましいのです」

「そうですか・・・よくわかりました。よくわかりましたが・・・先生、あえてお願いいたします。もう少し休養期間を短縮することはできないでしょうか?」

「え?」

「せめて退院してから1週間くらいで仕事に復帰できないでしょうか?」

「それは無理です!そんなことをすればまたもとのように山本さんの精神は疲れ果ててしまいますよ!」

 俊介は首を横に振りながらちょっと大きな声で言った。

「先生・・・おっしゃる通りかもしれません。私も今回のことでうつ病に関して勉強しました。どの本を読んでも無理をしないこと、十分休養をとること、完全な仕事を望まないことなど書いてありました。今の先生のお話の通りです」

 小宮山は真剣なまなざしで俊介を見つめながら言った。

「それがおわかりならなぜ・・・」

「私の企業は社員が250名程度の中小企業です。お聞きになったかもしれませんが今回社内のコンピューターがウイルスに感染して得意先に多大な被害を与えてしまったのです。その補償交渉を行っているところですが、それは何とかなるかもしれませんが・・・今後の受注もかなり厳しくなっているのです。山本君は社内のコンピューターシステムを一手に引き受けてくれていたのです。さらに得意先との打ち合わせや顧客情報などにも精通してわが社では誰よりも重要な仕事をしている人物なのです。正直彼がいないとわが社は倒産の危機さえあるのです・・・」

「倒産ですか?山本さんが一人いないだけで?」

「はい。それほど彼がわが社に及ぼす影響は大きいのです。確かに彼には無理を強いてきました。今回のこともそれが原因で、私の責任だと考えています。私も彼にはゆっくり休んでもらいたいのです。しかし、250人の従業員やその家族のことを考えると、どうしても彼の力を借りなくてはやっていけないのです。先生、最近はうつ病にもいいお薬が出たと聞いています。何とか先生のお力で山本君を早期に職場復帰させてもらえないでしょうか?」

 俊介は言葉を失っていた。もとよりこういう話になることは覚悟していた。そして上司がなんと言おうと山本彦太郎を2ヶ月間休養させるつもりで説明を始めたのだ。しかし目の前にいるのは話のわからない横柄な上司ではなさそうだ。それどころか山本彦太郎や、他の従業員のことを心から心配する立派な上司のようだ。

 自分が山本彦太郎を2ヶ月間休養させればこの会社はつぶれるかもしれない。そうしたら250人の従業員は失業することになる。自分にそれだけの決断を下す資格があるのか?本当に山本彦太郎は2ヶ月間の休養が必要なのか?薬の使い方次第でもっと早く職場復帰できるのではないのか?そんな考えが俊介の頭の中に次々と浮かんできた。

「わかりました、小宮山さん」

「それじゃあ・・・先生・・・」

「いえ。結論はちょっと待ってください。これは私一人で決められる問題ではないようです。精神科の専門の先生の意見も必要です。何より山本さん御本人や家族の方の意見も聞かなくてはなりません。お返事は2-3日待っていただけませんか?」

「わかりました。先生、今日はお忙しいところありがとうございました」

 この人はきっと会社でも部下からは頼りにされ、慕われているのだろう。俊介はそう思いながらも今後の対応を考えるとちょっと暗い気持ちになった。

 小宮山との話の後、俊介は山本彦太郎の病室に向った。

「山本さん。今、小宮山さんとお話しました」

「そうですか」

「小宮山さんは山本さんの身体のことをよく理解してくれているようです」

「はい。あの人は昔から本当に私のことをよくわかってくれているのです。私が残業しているといつも少し休んだほうがいいとアドバイスしてくれました。私の給与の点でも小宮山さんにはずいぶん高い評価をしていただいて満足のいく額をいただいているんです」

「山本さんが2ヶ月の休養が必要だとお話しましたが・・・それでもできるだけ早く職場復帰をとお願いされました」

 俊介はちょっと困惑顔で山本彦太郎を見つめて話をした。

「多分そうだと思います。私の会社は、今私が抜けたらやっていけないかもしれません・・・」

「誰か山本さんの代わりになる人はいないのですか?」

「もともと私の会社にはコンピュータの専門家はいないのです。私は学生時代から機械いじりが好きで趣味でコンピュータを扱っていたものですから、管理責任者になってしまったんです」

「じゃあ誰か専門の職員を雇ったらどうでしょうか?」

「コンピュータだけに関してはそれも不可能ではないかもしれませんが、今の顧客管理や会社内のシステムに精通した人間でなければだめなのです」

 俊介はしばらく下を向いてじっと考え込んだ。

「山本さんのお気持ちはどうなんでしょうか?」

 山本彦太郎はしばらく沈黙して、そしてゆっくりと話し始めた。

「実は私は前々から今の会社をやめたいと思っていたのです」

 俊介はじっと山本彦太郎の顔を見ながら聞いていた。

「家内も話したかもしれませんが、私はもともと星や宇宙のことに興味があったんです。以前は家で天体観測をしたり、雑誌を読んだり、仕事が休みのときは高い山に登って星を見に行ったりしたこともありました。でも2-3年前からコンピュータの管理責任者になって仕事が忙しくなってそんな余裕はなくなってしまいました。もちろん給与は十分上乗せしていただきました。でも休日や夜も残業も増えて自分の時間は持てなくなってしまったのです。自分の好きなことができなくなり、仕事だけの毎日に嫌気がさしていたのです。こんなことならいっそ今の仕事をやめて何か趣味を生かせるようなことができないかとも考えていました」

「でも、退職には踏み切れなかったのですね?」

「はい・・・。私が抜ければ会社はとんでもないことになります。小宮山さんや一緒に働いている同僚、部下に負担はかけたくないのです」

「でも自分がつぶれてしまっては何にもならないじゃありませんか?」

 山本彦太郎はしばらくじっと黙って天井を見ていたが、ふいに俊介のほうに向き直って話を始めた。

「・・・先生は・・・『妖怪やまびこ』というのをご存知ですか?」

「『妖怪やまびこ』?いえ、はじめて聞きましたが・・・」

「山に登ってヤッホーって声を出すとヤッホーという声が返ってくるでしょ?」

「ええ・・・やまびこですね。それが妖怪ですか?」

「はい。あれは妖怪やまびこが返事をしているのですよ・・・」

 山本彦太郎は笑いながら俊介のほうを見て答えた。

「おもしろそうだ。聞かせてください、妖怪やまびこの話を・・・」

 俊介は椅子に腰を下ろした。そして山本彦太郎の話に耳を傾けた。

「妖怪やまびこは誰も来ないような山奥の森の中に住んでいるのです。そして彼は足が地面にくっついていて自分では動けません。それでヤッホーという旅人の声がすると同じ言葉を繰り返して興味を惹(ひ)くのです。旅人がその声に惹かれて妖怪やまびこの住んでいる森の中に入ってくると彼はさらに大きな声で旅人を呼んで自分の近くに引き寄せます。そして妖怪やまびこの前に旅人が現れると今度は自分からヤッホーと声を出すのです。その声につられて旅人が返事をするとその瞬間、妖怪やまびこと旅人の立場が入れ替わってしまうのです」

「入れ替わる・・・?すると・・・今度はその旅人が妖怪やまびこになるのですか?」

「そのとおりです。立場が入れ替わると最初の妖怪やまびこは初めて自由になってどこへでもいけるようになるのです。そして新しく妖怪やまびこになった旅人はヤッホーという声が聞こえると前のやまびこと同じように、自分もヤッホーと答えてほかの旅人の気を惹くのです。そして誰かが目の前に現れるまで彼はずっとその場所から動くことはできないのです」

 俊介は無言でうなずいた。

「なるほど・・・おっしゃることがよくわかりました。山本さんがその『妖怪やまびこ』だというのですね?」

「ええ・・・その通りです。私は誰か今の私の仕事をしてくれる人材が見つかるまでは今の仕事をやめるわけにはいかないのですよ」

「それは・・・つらいことです」

「はい。でも、こんな話ができるようになったのは先生に治療していただいて、休養できたからです。入院するまではそんな余裕もありませんでした。多分私のうつ病も少しはよくなってきているのでしょう」

「じゃあ、山本さんは小宮山さんの御希望通り、なるべく早く職場に復帰するおつもりですか?」

「はい。家内や先生は反対されるかもしれませんが、私は自分や家族と同じくらい小宮山さんや同僚のことが大切なのです。もう少し元気になったらなるべく早く仕事に戻りたいと思っています」

 山本彦太郎はしっかりとした口調で俊介に語りかけた。ほんの10日ほど前に自殺未遂をした人間とは思えない。この人は精神的にも強い人なのだ。こんな人が自殺を考えるのだからよっぽど追い込まれていたのだろう。俊介はそんなことを考えながら次の言葉を捜した。

「山本さん。医者としては強制的に患者さんを自宅療養させることはできません。山本さんが仕事をすると言われれば我々はできるだけの援助をさせていただくことになると思います。でも、山本さん・・・ひとつだけアドバイスさせてください」

「はい。何でしょう?」

「山本さんは自分と同じくらい小宮山さんや同僚のことが大切とおっしゃいました」

「はい」

「薬を飲む前にはそんなことを考えられましたか?」

 山本彦太郎はしばらくじっと考えてゆっくり答えた。

「・・・いえ、そんなことは・・・考えもしませんでした。ただ・・・楽になりたいと、そればかり考えていました」

「それが今は周りのことを考えられるようになった・・・」

「そうですね」

「それはなぜだかわかりますか?」

「やはり・・・うつ病がよくなったのでしょうか?」

「そうです。そして山本さんが自殺未遂をする前に比べて『幸せ』になったからですよ」

「幸せ?」

「はい。我々医療従事者は患者さんを幸せにする職業です。医者も看護師も技師もみんな患者さんが幸せになるように毎日頑張って働いているのです。でも、他人を幸せにできるのは自分が幸せだからです。自分が不幸な人間が他人を幸せにできるはずがありません」

「なるほど・・・そうかもしれません」

「山本さんが同僚の方のことを考えておられるのはすばらしいことですが、先ず山本さんご本人が幸せでいてください。山本さんが幸せでなければ同僚の方や家族のために働くことはできません。つらいと思ったら無理をせず休むことです。無理をしなくてはできないことは、はじめから山本さんにはできないことなのです。それくらい割り切って仕事をしませんか?」

「他人を幸せにできるのは自分が幸せだから・・・ですか。なるほど・・・よくわかりました。先生、ありがとうございます」

   *有紀*

 自分の部屋に戻った俊介は椅子に座ってじっと考え込んでいた。会社から必要とされなくなり悲観して自殺未遂をした患者がいる。そうかと思えば逆に会社に必要とされすぎて精神を病んで自殺未遂をした患者もいる。一生懸命に仕事をして社会にも貢献したのに結局それが自分を不幸にしてしまうのだ。

 俊介は自分の10年前を思い起こしていた。

 当時36歳の俊介は医者になってから10年あまりの歳月が過ぎ、まさに脂が乗り切った頃であった。一通りの内科診療ができるようになり、毎日の仕事が充実していた。学生時代から付き合っていた二つ年下の翔子は俊介が25歳の時、同じ大学の法学部を卒業した。

 二人が卒業してしばらくの間、俊介は研修医としての仕事で、翔子は司法試験の勉強でお互いに目が回るほど多忙で顔をあわせる暇もなかった。その3年後、翔子の司法試験の合格を契機に二人は結婚した。俊介28歳、翔子26歳の時であった。

 その後、翔子はしばらく弁護士事務所で働いたが、3年後に長女の有紀が生まれ、しばらく仕事を休業して育児に励んでいた。しかし有紀が3歳になると翔子も有紀を実家の母親に預け、再び元の法律事務所で仕事を始めるようになった。

 その頃から俊介と翔子はどことなくすれ違いが起こるようになっていた。お互いに多忙で帰りが遅くなる日や、俊介の地方病院への長期出張などもあり、顔をあわせない日が増えていった。たまに顔をあわせても、有紀の教育のことやお互いの仕事のことなどで意見の食い違いが多くなり、はっきりと態度には出さないまでも相手への不満がつのっていった。そして俊介が36歳になったある日の当直勤務の翌日、事件は起こった。

 その日曜日は翔子も大切な仕事を抱え、翔子の母親夫妻は旅行中であり、有紀の世話を当直明けの俊介にゆだねる予定であった。朝8時に近くなり、俊介がそろそろ日勤の医師に申し送りをしようかと思っていた矢先、当直室の電話が鳴った。

“先生!救急入ります!薬物中毒です!”

  救急室に跳んでいった俊介がドアを開けると目の前で若い細身の女性が苦しそうに横になっていた。

「栗原香苗さん、21歳女性です。30分前に自宅でパラコートを一口飲んだようですが、吐き気が強くて自分で救急連絡して転送されてきました」

「なんだって!パラコートを飲んだのか!」

「はい。患者さんは看護学校の学生さんです」

「馬鹿なことを・・・。飲んだのは一口だな!よし、まず胃洗浄だ!」

 パラコートの怖さを知っていた当時の俊介は懸命に治療した。胃洗浄や薬物投与、血液吸着を開始し、一段落ついた頃はすでに11時を回っていた。俊介が翔子との約束を思い出したのは翔子からの電話を受けてからであった。

「あ・・・そうだった・・・。すまない・・・急患が入って・・・」

 返事もなく電話は切れた。

 そのことが引き金になって俊介は独身に戻ることになった。もちろんそれだけが原因ではなかったが、この日のことが二人が一緒にやっていけないことをお互いに決定的に自覚させることになった。

 翔子も俊介の気持ちや仕事のことはそれなりに理解していたので離婚に際して特にトラブルはなかった。有紀は両親のいない俊介には育てられるはずもなく、翔子とその両親の元に引き取られた。

 慰謝料の請求はなかったが俊介は自分から有紀の養育費としてそれ相当の金額を翔子に渡してきた。そして有紀とは月に一回会うことになっている。その有紀も今年16歳になった。

「一生懸命仕事をすればするほど不幸になっていく・・・か・・・」

 『自分が幸せでなかったら他人を幸せにはできない』俊介はさっき自分で言った言葉を思い出してつぶやいた。

―俺は今・・・幸せなのか?―

 俊介はじっと考え込んだ。しかしいくら考えても「yes」という言葉は俊介の頭の中には浮かんでこない。

―少なくとも・・・今の仕事をやめたいとは思わないから・・・幸せなんだろうな・・・―

 そして彼はそのまま目を閉じた。

「俺はまだ・・・妖怪やまびこにはなってないんだろう・・・」

 そうつぶやきながら俊介は机の片隅に置かれた幼いころの娘の写真に目を移した。

   風の軌跡:カルテ6「妖怪やまびこ」終わりカルテ7(1/3)に続く

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2008年8月27日 (水)

風の軌跡:カルテ6(3/4)

風の軌跡:カルテ6(3/4)

   *翌日土曜日の朝*

 翌日朝、俊介はいつものように昨日の新入院患者の回診のために病棟にいた。カルテを見ていると当直明けの高岡健太郎がやってきた。

「おはようございます、風間先生」

「やあ、お疲れ様。どうだ?何かあったか?」

「はい。実は昨日もまた自殺未遂の薬物中毒の患者が運ばれてきたんです」

「え?またか?」

「はい。今度はパラコート中毒でした」

「なに?パラコートか・・・」

 俊介はちょっと困惑した表情で答えた。

「はい。夜11時頃でした」

「それで、どんな状態なんだ?」

「今は落ち着いています。意識もしっかりしていて特に大きな問題はないようです。今、集中治療室に入っています。今回のことで一通りパラコートに関する勉強はしていたので自分としては結構うまく治療できたと思っているんですが・・・」

 健太郎はちょっと得意顔で答えた。

「じゃあ歩きながら経過を聞かせてくれ」

 俊介は立ち上がって健太郎と集中治療室へ向った。

「患者さんは58歳男性です。リストラされて仕事がなくなったことを悲観して自宅においてあったパラコートを飲んだようです」

「家においてあったのか・・・。じゃあ、農家ということか・・・」

「いえ。農業をしているわけではないんですが、趣味で園芸をされているのでおいてあったようです。自室で緑色の液体を吐いて苦しがっているところを奥さんが見つけて救急車を呼んだんです」

「どのくらい飲んだんだ?」

「はっきりは分かりませんが、100ccくらいを一気に飲んだようです。しかし嘔吐(おうと)していますので正確な量は不明です」

「一気に飲んだか・・・」

 俊介は歩きながら顔を曇らせた。

「それで、どんな治療をしたんだ?」

「はい。最初から飲んだ薬物がわかっていたので教科書通りに治療しました。胃洗浄して、マグコロールと活性炭(かっせいたん)をいれています。それから、浅山先生に来ていただいて血液吸着を始めてもらいました」

「そうか・・・血液吸着もしているのか」

「はい。どうしようか迷ったんですが、この前、先生から自信がないことは他の先生の助けを借りろと言われたので・・・。まずかったでしょうか?」

「いや・・・それでいいんだ。パラコートなら血液吸着の効果が期待できる」

 俊介は微笑みながら答えた。

「尿中のパラコート反応が陰性になるまで続けるように指示されましたのでまだ継続しています」

 そう話しているうちに二人は集中治療室に到着した。俊介が中を見回すと一番奥のベッドに血液吸着の機械が置かれ、血液が循環している。

 ベッドサイドには50-60歳くらいの女性が座って患者の手を握っている。まだ集中治療室の面会時間ではないが、夜中から治療を続けてようやく落ち着いたので家族の面会を許可したのだろう。

「この方です」

 健太郎がカルテを取り、俊介に渡した。

『日下部(くさかべ)雄二58歳』

 表紙にそう書かれたカルテを俊介はめくっていった。経過記録には健太郎の几帳面な字で、胃洗浄に使用された生理食塩水の量や投薬された薬剤が細かく記載されている。健太郎は身体は大柄だが、字はきちんとしていて読みやすい。

―性格も少し繊細なところがあるのかな―

 そんなことを考えながら俊介はカルテを閉じた。

「さすが勉強しただけのことはあるな。完璧だよ、高岡先生」

 俊介は笑顔でカルテを健太郎に返した。

「ありがとうございます」

 健太郎はうれしそうにカルテを棚に片つけると俊介を患者のベッドへ案内した。

 日下部雄二は足の付け根にカテーテルを挿入されているので起き上がることはできないが目は開いている。彼は俊介を見て軽く会釈した。

「内科部長の風間です。いかがですか?日下部さん。つらくないですか?」

 いつものように俊介は患者にやさしく聞いた。

「はい。最初は吐き気が強かったんですが・・・今は大丈夫です。ちょっとこの管が・・・つらいですが・・・」

 日下部雄二はそう言いながら鼻に挿入されたままのチューブを指差した。

「そうですか。でもそれは薬を注入するために必要ですから・・・もうしばらく頑張ってください」

 そう言いながら俊介は横にいる夫人に軽く会釈してベッドサイドを離れた。

 自殺未遂をして助かったばかりの患者にあれこれと自殺した理由や今の心境を聞くことはタブーである。自殺未遂の動機が何であれ、また、助けられたことをどう思っているにせよ、今すぐもう一度死のうとは思わないものだ。たいていの患者はしばらくの間、おとなしく治療を受けている。もう一度自殺未遂を起こすのはもう少し元気になってからのことが多い。自殺の理由や今後のことを話すのはもう少ししてからのほうがいい。俊介は自殺未遂の患者を何人も診療してそう考えていた。

 俊介は集中治療室の隣の医師記録室の椅子に腰掛けて健太郎のほうを見た。

「高岡先生、あの患者さんは・・・残念ながら助からない」

「え?どうしてです?確かにパラコート中毒が死亡率が高いことは知っています。でも治療はすべてやりました。血液吸着だってごく短時間のインターバルで始められました。今こんなに元気になったじゃありませんか」

「いや、君がやった治療は完璧だ。どこにも落ち度はない。しかし・・・飲んだ薬が悪かったんだ」

「パラコートですか?」

「そうだ・・・」

「どうして・・・どうして助からないんですか?先生!」

 俊介はじっとカルテを見ながら話し始めた。

「パラコートは飲むと強い嘔吐が起こる。それはパラコートの容器の中に嘔吐を促す薬剤が混入されているからだ。そしてパラコートがついた口や胃の粘膜にびらんが起こる。血液中にパラコートが吸収されると肺や腎臓や肝臓が障害される」

「はい。それは俺も勉強しました。でも今のところ腎臓の機能も呼吸機能も安定しています」

「確かに君の治療が奏功して血液中に吸収されたパラコートは最小限の量に抑えられただろう。でも0ではない。実際、朝6時の尿からもパラコートが検出されている。パラコートによって障害された腎臓や肝臓はやがて元に戻る。でも肺だけは別なんだ。パラコートによる肺の障害はゆっくりと確実に進行していくんだ」

「じゃあ・・・日下部さんは肺の障害で命を落とすと・・・」

「そうだ。今の動脈血酸素分圧はどれくらいある?」

「6時にガス分析をしたところでは62mmHgです。正常から比べると20ほど低い値ですが・・・。パラコート中毒の患者は酸素を極力投与しないことと書いてあったので酸素は投与していません」

「そのとおりだ。パラコート中毒では酸素は肺の障害を進行させるので動脈血酸素分圧が55を切るまでは投与してはいけない。62mmHgか・・・。すると現時点でも、ある程度肺障害を起こしているということだな。この肺障害はこれからゆっくり進行していくだろう。そして近い将来あの患者さんは呼吸不全で死亡するだろう」

「そんな・・・あんなに元気なのに助からないんですか?」

 俊介はちょっと間をおいて答えた。

「薬剤による自殺未遂のほとんどは急性期を乗り越えれば徐々に回復に向う。自殺しようと思った患者も自分がしたことを後悔し、身体がよくなるにつれて生きる意欲がわいてくるものだ。あの山本さんのようにな。でも・・・パラコートは別なんだ。いったんよくなったように見えても肺の障害は徐々に進んでいく。そして患者さんが生きる意欲が出てきて頑張ろうと思っていた頃に呼吸困難が強くなり、最後は人工呼吸器につながれて死んで行くんだ。パラコートを飲んだことを心から後悔しながらな・・・」

「そんな・・・それじゃまるで真綿(まわた)で首を絞めるようなものじゃないですか」

「そうだな・・・」

「それじゃあ・・・俺がやった治療は全く無駄だったってことですか?」

 健太郎は俊介の顔を見ずに下を向いたままつぶやいた。

「いや、そうじゃない。もし君が適切な治療をしなかったら今頃は肝臓や腎臓の障害が進行して意識がなくなり、2-3日で死亡してしまったかもしれない。でも今は一見元気そうで家族との会話もできる。それが2週間か3週間か1ヶ月か2ヶ月かはわからないが、少なくともそれだけの時間を君が作ってあげたということだ」

「・・・・」

 健太郎は何も言わずに下を向いていた。俊介はそんな健太郎を見ながら話を続けた。

「俺は今まで20人以上のパラコート中毒の患者を見てきた。でもその中で助かったのは一人だけだ」

「20人のうち一人ですか?」

「そうだ。もう10年以上前のことだが、二十歳(はたち)過ぎの女性だったな・・・。恋人に振られたショックから自殺しようと思ったらしい。パラコートを飲めば確実に死ねると思ってまず一口飲んで見たそうだ。ところがそのとたんひどい吐き気がしてほとんど吐いてしまった。あんまり吐き気がひどいので自分で救急車を呼んだんだ。そのころ俺は大学にいたんだが、たまたま俺が当直の時に運び込まれた。すぐ胃洗浄をして活性炭や下剤を大量に投与した。しばらくして尿検査をしたところ、ごくわずかにパラコートの反応が見られた。そこで血液吸着を始めたんだ」

「一口飲んで吐いただけなのに血液吸着までしたんですか?」

「そうだ。パラコートの怖さはその頃の俺も十分知っていた。急性期の症状はすぐ回復したのに2-3ヶ月先に呼吸不全になって死んだ患者もいた。その患者があんまり若かったのでどんなことがあっても助けようと思ったんだ。半日後には尿のパラコート反応は完全に陰性になっていた。でも俺はその後も24時間血液吸着を続けたんだ。そして下剤も通常の3倍の量を入れた」

「え?パラコートを一口飲んだだけで2日間の血液吸着に3倍の下剤ですか?それは・・・かなりヘビーな治療ですね・・・」

「その患者さんは血液吸着をしながら動けない状態で1時間ごとの下痢だ。若い女性にはかなりつらい2日間だったようだがな。でもどのくらいの治療をすれば助かるかがわからなかったから思いっきりの治療をしたって訳だ」

「助かったからよかったんでしょうが・・・ちょっとその女性に同情しますね・・・」

「2日目には泣きながら『もう絶対自殺なんかしませんから勘弁してください・・・』って言ってたよ」

 俊介はちょっと苦笑しながら答えた。

「その女性は今でもお元気なんですか?」

 健太郎が俊介に聞いた。

「元気で仕事してるわよ」

 健太郎の後ろから集中治療室の主任看護師の栗原香苗が検査データをもって入ってきた。

「こうやって夜勤ができるくらいにね」

「ええ!?じゃあ・・・主任さんが・・・パラコートを?」

 健太郎がびっくりして椅子を回して振り返り、長身の栗原香苗を見上げた。

「ほかの人には内緒よ・・・。私も若かったのね。自分をふった相手に思い知らせてやろうって思っていたの・・・自分でも馬鹿なことをしたなって思ってるわ。あの時は本当につらかったけど今にして思えばいい経験ね。・・・でも風間先生・・・日下部さんはやっぱり助からないんですか?このまま血液吸着を続けていけば・・・」

「彼は君の時とは飲んだ量が全然違うんだ。急性期は乗り切れても遅れてやってくる呼吸不全は避けられないだろう」

 健太郎は下を向いてじっと考え込んでいた。俊介はしばらく間をおいて言った。

「奥さんには話しておかなくてはならないな。俺から話をしようか?」

「・・・いえ・・・それは・・・俺から話をします」

 健太郎はすっと顔を上げて俊介の顔をまっすぐに見つめた。

「そうか・・・。じゃあ、君に任せよう」

 集中治療室を出て外来診察に向う俊介の気分は重かった。

 窓から中庭をのぞくと小児科の入院患者だろう、5歳くらいの女の子がパジャマ姿で母親らしい若い女性と芝生の上で遊んでいる。

 俊介はしばらく足を止めて窓の外を見つめていた。頭の上には雲ひとつない真っ青な空が広がっている。夏も終わりに近づいたがまだまだ暑い日が続きそうだ。

「あいつも・・・ずいぶん成長したな・・・」

 そんなことを考えながら俊介はゆっくりと外来診察室へと向っていった。

 カルテ6(4/4)に続く

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2008年8月26日 (火)

風の軌跡:カルテ6(2/4)

風の軌跡:カルテ6(2/4)

   *火曜日14時*

 風間俊介は集中治療室の医師記録室にいた。隣には高岡健太郎と腎臓内科の浅山茂樹が座ってじっとカルテを見つめていた。

「AST 6789 ALT 7380・・・。昨日の朝と比べて4倍以上に跳ね上がっている。予想どおり、かなりの肝機能障害だな・・・」

 俊介が口を開いた。

 山本彦太郎の意識は昨日夜頃より少しずつ回復しており、今日は夫人と会話ができるようになっている。手足の麻痺もなく呼吸状態や血圧なども正常で、一見窮地(きゅうち)を脱したかのように見える。夫人も昨日の俊介の説明がなかったら、このままよくなるものと確信することだろう。

「現在、服薬後約40時間ですか・・・。まだ進行しそうですね」

 浅山茂樹がつぶやいた。浅山茂樹は今年30歳になったばかりだ。腎臓内科が専門でまだ卒業5年目だがS市市民病院の透析室を一手に引き受けている。身長は163cmとやや小柄であるが、大学時代は卓球部のエースとして活躍しただけあって筋肉質の引き締まった身体をしている。

 性格はいたってまじめで俊介は冗談が通じないのが玉に傷と思っている。しかし透析をはじめとした血液浄化(じょうか)療法に関しては彼の右に出るものはいない。

「血漿交換を始める時期はどうだ?」

 俊介は浅山の顔を見ながら聞いた。

「今朝の採血で著明な肝酵素の上昇を認めますし、プロトロンビン時間が25%と凝固因子の著明な低下が見られます。これは肝臓の蛋白合成がかなり障害されていることを示しています。肝性昏睡はじきに出現してくるでしょう。僕は今日から血漿交換を始めるべきと考えます」

 浅山は自信を持って答えた。

「そうか・・・俺も同じ意見だ。じゃあ浅山先生、血漿交換の準備を始めてくれるか?」

「わかりました。早速、新鮮凍結血漿を40単位準備してもらいます。夕方4時頃には開始できると思います」

 新鮮凍結血漿はFFPと略される血液成分である。献血で得られた血液から赤血球や白血球などの血球成分を除去して液体の成分だけを取り出したものである。その中には健康な献血者から得られた蛋白質や凝固因子などが大量に含まれている。肝不全で毒素がたまった患者の血漿を除去して、代わりにこの新鮮凍結血漿を補充するわけだ。

 40単位ということは、ほぼ40人分ということになるが、当然その中の一人が肝炎やエイズなどのウイルス疾患に感染していればその血漿をもらった患者にも感染する。血液を採取した時点で感染していることがわかった血液は使用しないことになっているが、それでも検査をすり抜けてくることがあるのだ。血液供給者の数が多い分、通常の輸血に比べれば感染の確率ははるかに大きいわけである。

 『凍結』というのは凍らせてあるということで、長期間保存しやすくなっているわけだ。普通の赤血球の輸血は約2週間しか有効期限がないが、新鮮凍結血漿の場合は1年近く保存することができる。もちろん実際に輸血するときはゆっくりと解凍してから使用することになる。

「それから風間先生。そのあとで透析をしたいと思うのですか・・・」

 浅山が言った。

「透析?」

「はい。血漿交換だけでは肝性昏睡の原因となる有害物質を完全に取り除くことはできません。血液透析や血液ろ過を併用すれば効果をあげることができると思うのですが・・・」

「しかし同時に体外循環を続けて行っても循環動態は大丈夫なのか?血圧が低下したり脳浮腫が進行して呼吸状態が悪化したりする心配はないのか?」

 浅山は自信を持った口調で答えた。

「それは大丈夫です。急激な状態の変化を起こさないように持続透析を行います」

「持続透析・・・」

 血液透析など体外循環による治療を行うときは急激に循環動態が変化して血圧低下やショックなど重篤な合併症を起こすことがある。持続透析はそれを防ぐために通常3-4時間で行う血液透析を24時間かけてゆっくりと持続的に行う方法である。

「風間先生。俺も少し勉強しましたが、血漿交換に加えて血液透析や血液ろ過を行うことは重症肝障害の治療にとても有用なようです。その効果を示す文献がいくつもありました」

 しばらく黙っていた高岡健太郎が声を出した。

「そうか。これからしばらく24時間の体外循環を続けるのは君も大変だと思うが、頼むよ。浅山先生」

    *水曜日*

 山本彦太郎は一時意識が回復したものの、再び昏睡(こんすい)状態に陥っていた。肝細胞障害を示すAST, ALTは1万以上に跳ね上がり、凝固機能を表すプロトロンビン時間も13%にまで落ち込んでいた。さらに黄疸も出現し、明らかに肝機能障害は進行していた。

 昨日から開始された血漿交換や持続透析により何とか血圧や循環動態は維持されているが、非常に重篤な状態になっていると言える。夫人も俊介の説明により当初から状態が悪化することを覚悟していたが、夫が一度よくなったように見えて再び意識がなくなり、見るからに重症になっていることに対して戸惑いを隠せない。

 救急医療の現場ではこのように患者が一度よくなったように見えて再び悪化することはよくあることである。そのような時、最初によく説明をしておかないと家族は病院に対して不信感を抱き、医療訴訟(そしょう)の原因にもなる。これから起こりうることを予測してしっかりとした説明ができることは医者の力量のひとつでもある。

 ベッドサイドへやってきた俊介を見てICUの帽子とマスクをした夫人は立ち上がって頭を下げた。

「今日は私が呼んでも返事をしてくれないんです。昨日は少しうなずいたり片言でしゃべったりしてくれたんですが・・・」

 夫人は肩を落として悲しそうな目で夫を見つめる。

「肝機能がかなり低下しています・・・肝性昏睡の状態です」

 俊介がゆっくりと答えた。

「助かるでしょうか?この人・・・」

「今はなんとも言えませんが、全力を尽くしています」

 俊介の言葉に夫人はもう一度お辞儀をしてバックから1枚の便箋を取り出した。

「先生・・・この人が最後に書いてくれた手紙です」

 俊介は夫人が差し出した便箋を丁寧に受け取り、ゆっくり読み始めた。そして俊介は胸が締め付けられる思いでその手紙を読み終えた。

・・・・・・

 山本君枝様 何を書いていいのかわかりません。

 今までありがとう。

 ごめんなさい、つかれました。

  たくさん仕事をしました。

 たくさん謝りました。

 もう何をしていいのかわかりません。

 忙しくなってからあなたに優しくできませんでした。

 つっけんどんな言葉で些細なことに腹を立てました。

 でもあなたは精一杯、一生懸命、けなげに私に尽くしてくれました。

  ごめんなさい。ごめんなさい・・・。

 あなたに腹を立てている自分がいけないんです。

 そんな自分は嫌いです。

 忙しくなると自分のことがどんどん嫌いになっていくので悲しいです。 

 毎日眠れません。

 今からぐっすり眠ろうと思います。

 このまま目が覚めなければうれしいです。

 ありがとう。さようなら。そして・・・ごめんなさい。

    山本彦太郎

・・・・・・・・・

 俊介は丁寧に便箋を折りたたんで山本夫人へ返した。

「山本さん。我々も全力を尽くしますから・・・」

 俊介はそう言いながら深々と頭を下げてその場を離れ、ICUの医師記録室へ向った。

「どうだ?浅山先生」

 俊介は山本彦太郎のカルテを記載している浅山茂樹に声をかけた。

「血漿交換はうまくいっています。持続透析にも特にトラブルはありません。ただ・・・肝機能が予想以上に悪化しているので・・・」

「そうか・・・。なかなか厳しそうだな・・・」

「このまま血漿交換と持続透析を毎日続けていけば何とか維持はできると思うのですが・・・。問題は肝機能がいつごろ回復してくるかですね」

 浅山は検査データを見ながら言った。

「今週いっぱいで回復の兆しがなかったら・・・ちょっと無理でしょうね」

「ああ・・・多分そんなところだろう」

 俊介も同じ意見だった。確かに血漿交換などの治療を続けていればその間は延命できるかもしれない。しかし、血漿交換には大量の健康な人の血液が必要となる。一回の血漿交換で献血者40人分の血液が使用されることになる。そればかりか血漿交換や血液透析を続けていればそれだけで毎日の医療費が50万から60万円以上かかる。山本彦太郎を1週間生存させるために少なくとも300万から400万円以上の医療費がかかるのだ。

 一般に自殺による診療に関しては保険が適応されない。家族はこの高額な医療費を自費で払いつづけなければならないことになるが、自殺の原因がうつ病の時はその限りではない。山本彦太郎は妻の話では明らかにうつ病の症状があり、睡眠薬投与など治療も受けているので、かかった医療費は多分保険で請求できるだろう。

 しかし保険で認められる血漿交換の回数には制限があり、ほぼ7回までと決められている。すなわち今週いっぱいで回復の兆しがなければ今の治療は続けられないことになる。

 自殺未遂で肝機能障害を引き起した患者には高額な集中治療をする必要はないと考える医療スタッフもいる。確かに俊介も助けても助けても自殺未遂を繰り返し、ついには助からなかった患者も経験している。しかし、この患者はうつ病を発症したために自らの命を絶とうとした。そのような患者は救命した後、適切なケアがされればまた元気に社会復帰していくものだ。

 俊介の頭の中には「ありがとう。さようなら。そして・・・ごめんなさい」という山本彦太郎の最後の言葉が再び浮かんできた。

「浅山先生、よろしく頼む・・・」

 俊介はそう言いながらポンと浅山の肩をたたいてICUをあとにした。

    *土曜日*

「風間先生!見てください」

 俊介が集中治療室へ入るやいなや、浅山茂樹が少し興奮した声を出しながら俊介に検査データを見せた。いつも冷静な彼にしてはめずらしいことだ。

「良くなっているじゃないか。AST,ALTの値もずいぶん改善したし、ビリルビンや凝固機能も改善してきているな」

「はい。確かに血漿交換を続けていることもデータの改善に関与していますが、患者さんの肝機能も明らかに良くなっています。先生!いけるかもしれません」

 確かに昨日夕方から山本彦太郎には回復の兆しが見られている。昨日の夜は手足をほんの少し動かすくらいだったが今朝からは問いかけにわずかにうなずくようになっている。間違いなく彼の肝機能は回復してきており、意識レベルもアップしている。

―これは助かる―

 俊介は直感的にそう感じた。

「血漿交換も1-2日間、中断してもよさそうです。持続透析も今日で終了します」

「よくやった・・・君のおかげだよ。今日奥さんが面会に見えたら君から話をしてくれ。きっと喜ぶだろう」

 俊介に誉められて浅山医師はちょっとはにかんで、うれしそうに会釈した。

―ああ・・・早起きしたかいがあったな―

 俊介は5日前の夜中のことを思い出していた。重症の患者が回復するためには大勢の医療従事者の献身的な努力が必要だ。そして俊介が眠い目をこすりながら夜中に病院へ出てきてがんばったことも間違いなく山本彦太郎の回復に貢献しているのだ。すべての医療従事者は今、俊介が感じているこの気持ちがあるからこそ、つらいことがあってもがんばることができるのだろう。

 その日の午後、浅山に説明を受けた山本夫人はあわてて帽子とマスクをつけて集中治療室へ入り、夫のベッドサイドに駆け寄った。

「あなた!わかる?」

 山本彦太郎はその声にゆっくりと目を開いて夫人をじっと見つめ、「・・・ああ・・・」とだけ言った。

「あなた!わかるのね!私よ!」

 夫人は夫の右手を握り締め、その薄く開いた瞳をじっと見つめた。山本彦太郎は夫人の顔をじっと見て、小さく、そしてはっきりとうなずいた。

「あなた・・・。おかえり・・・なさい・・・」

 夫人は夫の身体に抱きついて泣き崩れた。

    *さらに6日後、翌週の金曜日*

  山本彦太郎はすでに集中治療室を退室し、一般病棟へ移っていた。肝機能はまだ異常値であり、食欲もまだ十分でなく点滴は受けていたが、意識は完全に回復して後遺症らしきものもなかった。俊介が病室に入ると夫人が深々とお辞儀をした。

「先生・・・本当にありがとうございます。こんなに元気になるなんて・・・」

 涙声で俊介に礼を言う夫人の肩に手を置いて俊介も笑顔で答えた。

「よかったですね。これだけよくなられると我々も治療をしたかいがありますよ」

 生きるか死ぬかの瀬戸際(せとぎわ)をさまよった患者が今こうして微笑みながら座っている。このような患者を回診することは医師にとって一番うれしい仕事であろう。

「ありがとうございました・・・先生。今にして思えばなぜあんなことをしたのか・・・。あの日は自分でもちょっとおかしかったんです。会社でトラブルがあって・・・どうしていいかわからず、とにかくこの状況から抜け出したいって思ってあんなことをしてしまいました。全く恥ずかしい限りです」

 俊介は初めて山本彦太郎の声をまともに聞いた。まだ入浴はできず髪は乱れたままだがヒゲはきちんと剃り、ベッドの周りも小ぎれいに整頓されている。やはりまじめできちんとした性格のようだ。このような性格の人間は仕事もきちんとこなすが完全主義のことが多く、ちょっとでも間違ったことがあると我慢できずに満足いくまでやり通す。それが精神に無理をかけてうつ病を発症することになる。周りから見るともう少し気楽に考えればいいのに・・・と思うのだが、本人にすればそれは到底できないことなのだ。

―この人はきっと仕事ができて、まわりから期待されてどんどん仕事が増えていったんだろうな・・・―

 俊介はそんなことを考えながら山本彦太郎を診察した。

「大分よくなりましたね。これならすぐ元気になりますよ」

 聴診器をはずしながら話しかける俊介を見つめて山本彦太郎は頭を下げた。

「ありがとうございます。ところで先生・・・いつごろ仕事に復帰できますか?さきほど、元気になったと会社に報告したんですが、いつから仕事ができるか聞いておいてくれと言われたんです」

 そんな夫を制するように夫人が言葉をさえぎった。

「あなた・・・何を言ってるの?こんな状態で仕事なんかできるわけないじゃないの!もう1ヶ月くらいはゆっくり休まないと・・・」

「そんなことは言ってられないんだ。俺がいなくなったら会社のコンピューターシステムや営業管理は誰がするんだ!俺は馬鹿なことをして会社に迷惑をかけてしまった。今は1日でも早く職場に復帰して遅れを取り戻すしかないんだ。もう事務的な仕事ならここでも大丈夫だ。会社の資料を持ってきてもらうよう頼んだところだよ」

「あなた・・・だめよ、病院でそんなこと!ちゃんとゆっくり静養してちょうだい!ね、先生?」

 夫人はすがるような目で俊介を見つめる。俊介はちょっと考えてゆっくり口を開いた。

「山本さん・・・奥さんの言うとおりですよ。多分あと2週間もすれば退院はできると思いますが、そのあと2ヶ月くらい自宅療養をする必要があります」

「2ヶ月ですって?そんなに休めるはずありませんよ!こんなことになったのも自分が悪いんです!自分が弱いからこんなことをしてしまって・・・。これ以上会社に迷惑はかけられません。退院したらすぐ仕事を始めなくては・・・」

 山本彦太郎は興奮してまくし立てた。俊介は聴診器をポケットにしまい、そこにおいてあった椅子にゆっくりと腰をかけて話を続けた。

「山本さん、よく聞いてください。今回のことは決して山本さんが悪いわけではないのです。山本さんはうつ病という病気にかかっているんです。あんなに大量に薬を飲んだのも病気のせいなのです。そしてうつ病を引き起こしたのは他ならぬ、山本さんが復帰したいと言っている会社と仕事そのものなのです」

「うつ病?私が・・・ですか?そんなはずはありませんよ。私はこんなことをする前までは普通に仕事をしていたんです。会社を休んだこともなかったし、得意先の管理や会社のコンピューターシステムも私が一手に引き受けて全く問題がなかったんです。ただ今回コンピューターウイルスに感染してしまって・・・。顧客リストが一部消失して得意先に迷惑をかけてしまいましたが・・・。それでどうしたらいいかわからなくなって、こんなことをしてしまいました。でも私がうつ病だなんて・・・そんなことありえませんよ」

 山本彦太郎は真剣なまなざしで俊介を問い詰めた。俊介はちょっと間をおいてからゆっくりと話し始めた。

「山本さん。じゃあお聞きしますが、最近眠れなかったんじゃないですか?眠ってもすぐ目が覚めてしまうようなことはなかったですか?」

「それは・・・確かにありますが・・・。仕事のことで頭が一杯になって・・・目が覚めると仕事のことばかり浮かんできましたが・・・。でもそれは誰にでもあることでしょう?」

「それから、最近仕事に行くのがおっくうではありませんでしたか?そして今まで興味があったことも、したくなくなったようなことは?たとえば趣味の本を読んだり、新聞を読んだり・・・」

「それは・・・仕事が忙しかったので、そんな暇はなかったですが・・・」

 そこで夫人が口を開いた。

「そうよ。あなた・・・最近好きだった星の本も読まなくなったじゃない。今までは夕食を食べたあと時間があればいつも天文の雑誌を読んでいたのに、最近は封もあけずに本棚の中に置いたままでしょ?新聞だって・・・ほとんど読まなくなったわ。仕事に行く時もいつもうつむいて暗い顔をしていたのよ」

「・・・」

 俊介はうつむせになって黙っている山本彦太郎をじっと見つめた。

「山本さん。ご自分では気がつかないかもしれませんが、それがうつ病の症状なのです。早朝覚醒(かくせい)、意欲低下、朝の気分不快がうつ病の3大兆候なのです。うつ病は山本さんのように責任感の強い完全主義の人に起こりやすい病気です。山本さんは少々のことがあっても自分が頑張れば何とかなると思って自分の精神にムチを打っていたのです。それが積もり積もって知らないうちに破綻(はたん)してしまい、自分の精神をコントロールできなくなって今回のことを起こしてしまったんです。今仕事に復帰すれば必ずうつ病が再発します。そして同じことを繰り返すでしょう」

「そんなことは・・・・」

「うつ病は心が風邪(かぜ)を引いた状態です。しっかりとした治療をすれば心の風邪は治り、またもとのように仕事ができるようになります。しかしそれには時間が必要です。さっき申し上げた2ヶ月というのはうつ病の治療期間です」

「あなた・・・風間先生のおっしゃる通りじゃない。あなたは病気だったのよ。こんなことになったのもあなたが悪いんじゃないわ。病気のせいなのよ・・・。病気を治せばまたもとのように仕事ができるっておっしゃってるわ。ゆっくりと治療しましょうよ。ね?社長さんだってきっとわかってくださるわ」

 涙声で語りかける夫人の言葉に山本彦太郎はゆっくりとうなずいた。

    *勘違い*

 その日の夕方、俊介は忙しかった午後の外来診察を終えて医局のソファにぐったりと仰向けになって座っていた。すると高岡健太郎が渋い顔をして医局に入ってきた。

「どうしたんだ?高岡先生。機嫌が悪そうだな・・・」

「え?いえ、そんなことはないです」

「君は機嫌が悪いときはいつも眉をしかめているからすぐわかるんだ。彼女とけんかでもしたのか?」

 健太郎はばつが悪そうにチラッと鏡を見て答えた。

「そんなこと・・・ないですよ・・・。でも・・・当たりですけど・・・」

―また南川沙紀とけんかしたのか・・・―

 そう思いながら俊介は心の中で苦笑していた。

「まあ、今回は俺が悪いんですけどね・・・。昨日コンサートに行く予定だったんですよ。待ち合わせの場所に行ったらあいつチケットを持っていないって言うんです。確かに1週間前に渡したはずなんですけど・・・。そこで言い合いになって・・・結局別れて帰っちゃったんですけど・・・。アパートへ帰ったら俺の机の中からチケットが出てきたんです・・・」

「それは・・・心から同情するよ・・・」

 俊介は思わず笑い出したくなるのをこらえながら答えた。

「すぐ電話して謝ったんですけど・・・」

「まあ、許してはもらえないだろうな」

「確かに渡したと思ったんですよ。それを絶対もらってないなんていうから、思わず大きな声を出してしまって・・・」

「君はこの前も勘違いをしてナースとけんかしていたじゃないか。あの採血がしてないとかどうとかで・・・」

「ああ、あれですか・・・。あの時も・・・間違いなく指示を出したと思っていたんですよ。それを指示がなかったって言い張るもんだから、ついけんかになっちゃって・・・」

「でも結局は君が指示を出し忘れていたんだろ?」

「それはそうなんですが・・・。でも、間違いに気づいたあとはちゃんと謝ったんですよ。勘違いって誰にでもあるじゃないですか。あんなに根に持たなくっても・・・」

 健太郎はコーヒーカップにお湯を注いでから俊介の前に座った。俊介は手に持っていたコーヒーを少し飲んで諭すように話しかけた。

「高岡先生、ひとついいことを教えてやろう。他人のミスを責めるときはな、先ず自分のミスを完全に除外してからにすることだ」

「自分のミスを除外・・・ですか?」

「そうだ。なぜ患者の採血がされていないのか?ひょっとしたら自分が指示を出していなかったんじゃないか?指示を出す日付が間違っていたんじゃないか?ひょっとしたら患者を間違えて指示を出したんじゃないのか?それをまず確認することだ」

「そんなことしていたら時間がかかってしょうがないじゃないですか」

「そのとおり。自分のミスでないことを確認するには時間がかかる。でも、もしそれで自分のミスが見つかった時はどうだ?」

 俊介は意地悪く微笑みながら健太郎を見つめた。

「それは・・・そのまま黙って、翌日の指示を出しなおしますよ・・・」

「そうだろうな・・・。それで余計なトラブルは避けることができるわけだろう?」

「でも、もし自分のミスがなかったらどうするんですか?その時はもうその相手もそこにはいないかもしれないじゃないですか?」

「その時は充分時間がたっているから自分の怒りも治まっているんだよ。あとでその相手にこんなミスがあったからこれから気をつけてくれって冷静に言えるもんだ」

「はあ・・・そんなもんですかね・・・」

「そんなもんだよ」

俊介は笑いながら答えた。

「今日は君が当直だな・・・。最近はよく患者がついているじゃないか。頑張れよ」

「はあ・・・。でも今日はなんとなく気が重いですよ」

 うなだれている健太郎を医局に残して俊介は自分の部屋へ戻った。

 カルテ6(3/4)に続く

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2008年8月25日 (月)

風の軌跡:カルテ6(1/4)

風の軌跡ー風間俊介診療録ー:カルテ6(1/4)

「妖怪やまびこ」

 俊介たちの懸命な治療により致死的な肝不全から生還した自殺未遂患者、山本彦太郎。彼は俊介に自分のことを「妖怪やまびこ」だと言った。

    *月曜日 深夜*

 プルルルー・・・プルルルー・・・

「・・・はい・・・風間です・・・」

 俊介は寝ぼけまなこで自宅の電話をとった。

“夜分すみません。当直の高岡です”

「ああ・・・高岡先生か。どうしだんだ?」

 俊介がチラッと時計を見やると午前3時を回ったところだ。

“すみません。患者さんのことでちょっと御相談したくて・・・”

  高岡健太郎は3年目の後期研修医であるがS市市民病院では3年目でも9月まで一人では当直を行わない。内科医の誰かが院内にいるはずであり、健太郎に何かトラブルがあればまずその医師に相談することになる。今日の当直は健太郎と呼吸器内科の津川信行のはずだ。

“実は先ほど自殺未遂の薬物中毒の患者さんが転送されてきたんです”

「薬物中毒?津川先生も診てくれているのか?」

“はい。でも病棟の喘息の患者さんが重責(じゅうせき)発作(重症の喘息発作)を起こして、その処置にかかりきりなんです。この患者さんもちょっと診ていただいたんですが、津川先生もあまり自信なさそうなので・・・”

「詳しく話してくれ」

 熟睡中に起こされた俊介も健太郎の話を聞いているうちに少しずつ頭がはっきりしてきた。

“患者さんは52歳の男性です。午前2時頃、自宅の書斎で倒れているのを奥さんが発見して救急車で転送されてきたんです。机の上に遺書があって、ゴミ箱には大量の薬の空き箱が捨てられていました。意識レベルは300で痛覚(つうかく)刺激にも反応がありません”

 意識障害の程度判定には1、2、3、10、20、30、100、200、300の9段階があり、1,2,3の一桁の数字は覚醒(かくせい)している状態、10,20,30の二桁の数字は呼びかけで覚醒する状態、三桁の100,200,300は呼びかけても覚醒しない状態で、中でも300は痛み刺激にも全く反応しない重度の意識障害である。健太郎は説明を続けた。

“マーゲンチューブ(鼻から胃まで挿入される管)を挿入して胃洗浄(いせんじょう)をしたんですが、薬剤はあまり吸引できませんでした。多分夜10時頃に服用されたようです。このまま点滴を続けて様子をみていいでしょうか?”

「飲んだ薬剤の種類と量はわかっているのか?」

“はい。奥さんが薬の入れ物を持参されています。市販の風薬と睡眠薬です”

「呼吸と血圧は大丈夫だな?」

“はい。意識はありませんが自発呼吸はしっかりしています。ただ胃洗浄のときに誤嚥する危険があると思ったので気管内挿管をしています。血圧は110と70です。”

「よし。じゃあ、さしあたってあわてなくていい。まず内服した薬剤の成分をみてアセトアミノフェンの総服用量を計算するんだ」

“アセトアミノフェンですか?”

 健太郎がけげんそうな声で聞いた。

「そうだ。アセトアミノフェンの服用量だけすぐ計算してもう一度連絡してくれ」

 そう伝えて俊介はパジャマを脱ぎ、出かける準備を始めた。

 夜中の3時に起こされて病院へ行くのは若くはない俊介には少々きつい。しかし今救急室にいる患者は自分が行かなくては助からない患者かもしれない。そう考えるとつらいなどとは言っていられない。

 俊介が上着をはおったとき、二度目の電話が鳴った。

“先生、高岡です。アセトアミノフェンの総服用量は20gから25gくらいです”

「25g・・・かなり多いな」

“はい。風邪薬や解熱鎮痛剤(げねつちんつうざい)を200錠以上、飲んだようです”

 アセトアミノフェンは小児にもよく使用される比較的安全な解熱剤である。成人の場合、普通一回0.5g程度が使用される。多量に服用してもその量が5g以下ならばまず大きな問題はない。しかし10g以上になると重篤(じゅうとく)な肝障害を発症する危険が高い。電話の向こうの患者は25g近く服用しており、ほとんど致死量に近い。

「よし。マーゲンチューブはまだ入っているな?」

“はい”

「まずそこからムコフィリンを40ml注入するんだ。ムコフィリンはアセトアミノフェンの拮抗薬だ。それからマグコロール250mlと活性炭(かっせいたん)を30gゆっくり注入してくれ。薬物の吸着作用がある」

“ムコフィリンを40mlと、マグコロールと・・・活性炭30g・・・ですね”

 受話器を左手で持ちながら健太郎は走り書きでメモをとった。

「そうだ。それから体外循環が・・・血液吸着が必要だ」

「血液吸着ですか?」

 血液吸着は体外循環により血液中の薬物を抜き取る処置である。

「そうだ。君は体外循環用のカテーテルは入れたことがあるか?」

“透析用のダブルルーメンカテーテルですか?2-3回入れたことがあります”

「そうか。じゃあさっき伝えた処置が終わったら入れてくれ。その間に行けると思うから・・・」

“わかりました。お願いします、風間先生”

   *アセトアミノフェン中毒*

 俊介が救急外来の扉を開けると当直の酒井美穂がちょっと微笑んで会釈した。

「風間先生、こんな夜中に申し訳ありません」

「今日は君が夜勤なのか。ご苦労様」

 俊介は月に1回しか当直業務を行っていないが、かといってそれ以外の日は自宅で休んでいられるわけではない。俊介は他の内科医に何かトラブルがあれば時間外でも必ず連絡するように伝えてある。電話で済むような用事もあるがこうして眠い目をこすって病院に出てこなくてはならないことも多い。

 俊介は昨日も他の医師から呼び出され、夜中の2時まで病棟患者の診療を行っていた。50の声が近くなった身体には確かにきついが、それが内科部長としての責任だと俊介は思っている。

 自分の身体に鞭打って病院にやってきた俊介だが、お気に入りの酒井美穂の顔を見るとほんの少し気持ちが上向きになる。高岡健太郎はちょうど透析用のカテーテルを患者に挿入し終わったところだった。

「終わったか?うまく入ったか?」

「はい、大丈夫だと思います。今ナート(縫合:ほうごう)しているところです」

 健太郎はカテーテルを皮膚に縫合しながらちらと俊介を見て答えた。

『山本彦太郎 52歳』

 机の上においてあるカルテの表紙にはそう記されていた。

「病室の準備は?」

「ICUがあいていたのでお願いしました」

「よし。じゃあ処置が済んだらICUに運んでくれ。俺は血液吸着の準備をするから・・・」

 そう言いながら俊介は透析室に足を運んだ。

 血液吸着は一種の体外循環治療で、患者の身体から血液を抜き取り、吸着用の円筒形のカラムの中を通して薬物を吸着して除去した後、再び患者に血液を返す。大量に服用した薬物が臓器障害をきたす前に体外に除去するわけだ。腎不全の患者に行われる血液透析とよく似ているが、方法は血液透析に比べて比較的簡単で腎臓が専門でない俊介も血液吸着は何例か施行したことがある。

 俊介は透析室からICUに機械を運び込んで血液吸着の準備を始めた。しばらくするとICUのドアが開いた。

「お願いします!ちょっと早かったでしょうか?」

 健太郎と酒井美穂がストレッチャーを押しながら入ってきた。

「いや。準備はもう終わるところだ」

 そう答える俊介を横目に見て、健太郎と美穂がストレッチャーをICUベッドに横付けした。ベッドに移された患者にモニターや酸素投与のためのマスクが装着されると酒井美穂とICU看護師の栗原香苗の間で申し送りが行われる。

 栗原香苗は32歳になるICUの主任看護師である。すらりとした長身でほりの深い顔と長い手足が印象的だ。酒井美穂はテーブルの上でカルテを開いた。

「患者さんは山本彦太郎さん、52歳男性です。午前2時頃に意識がない状態で発見され、救急転送されました。10時頃に大量の薬物を服用したようです・・・・・」

 酒井美穂と栗原香苗は同期生で学生時代からの仲のよい友人であるが、申し送りは普段の会話口調ではなく、きちんとした丁寧語で行われる。その間に俊介と健太郎は血液吸着の機械を患者のベッドサイドに運んで体外循環をする準備を始めた。

 申し送りが終わると栗原香苗がそれに加わった。彼女は手馴れた手つきで患者に挿入されたカテーテルと回路をつないだ。俊介が血液ポンプを始動させると血液がゆっくり回路を流れ、機械に装着された円筒状のカラムに吸い込まれるように移動していく。俊介は機械の設定を行い、血液が循環する様子を確認しながら健太郎に聞いた。

「家族は来ているのか?」

「はい。発見者の奥さんが救急車で一緒にこられました。胃洗浄をしたあとで、薬物を除去するために血液吸着を行うことは説明しました」

「予後(よご)については何か話をしたか?」

「いいえ。でも現在意識がないことと、これからどこまで状態が戻るかはわからないということは話しました」

「そうか・・・。じゃあ、俺からも話をしよう」

 集中治療室の横の医師記録室に夫人が呼ばれた。患者は52歳と俊介より年上であるが、夫人は俊介よりずっと若く見えた。40そこそこであろう。

「山本さんですね。こちらにお掛けください。内科部長の風間と申します」

「こんな夜中に・・・申し訳ありません。山本の・・・家内でございます・・・」

 夫人は憔悴(しょうすい)して疲れきった様子であるが上品な口調で静かに答えた。

「まずご主人の現在の状態から説明します。ご主人は今意識がありません。痛覚刺激を加えても手足も動かさず目を開けることもありません。しかし呼吸や心臓の動きはしっかりしています。血圧も安定しています。さし当たって命には問題ないように思います」

 命は大丈夫と聞いて夫人の顔には少し安堵(あんど)の様子が伺えた。

「そうですか・・・。でも・・・やはり意識はないのですか。それで・・・元に戻るんでしょうか?」

「意識がないのは多分大量に服用された睡眠薬の影響だと思います。救急車で運ばれてからすぐに鼻から胃にチューブを挿入して胃洗浄を行い、今、血液吸着という方法で薬物を除去しています。薬物が身体から除去されれば1-2日で意識が回復する可能性が高いと思います」

「本当ですか!じゃあ、またしゃべれるようになるんですね!」

 夫人は大きな声を出し、そして真剣なまなざしで俊介の顔を見つめた。

「その可能性は十分あると思います。しかしひとつだけ問題があります」

 俊介は患者が服用した薬の空き箱を取り出して夫人に見せた。

「風邪薬の成分にアセトアミノフェンという薬剤が含まれています。この薬は通常の量を服用していれば非常に安全な解熱鎮痛剤です。しかしご主人のように大量に服用されますと重篤な肝障害を引き起こします。10g以上内服すると肝障害が必発とされていますが、ご主人は高岡先生の計算によると25g程度服用されたようです」

「25g・・・。じゃあ・・・主人の肝臓は・・・」

「現在の治療でどこまで肝障害を軽減できるかわかりませんが、今から1-2日後にかなり重篤な肝障害を発症することが予想されます」

 俊介は夫人の目を見ながらゆっくりと説明を続けた。

「肝臓が悪くなると黄疸が出たりおなかに水がたまったりするのでしょう?実家の父親が肝硬変で亡くなったんです」

 夫人が不安そうな声で聞いた。

「そのとおりです。それに肝性昏睡と言って、意識状態が悪くなります。ご主人は一度少し意識が回復する可能性がありますが、肝障害が重篤になれば再び意識障害をおこすでしょう」

 二人の間にしばらく沈黙が流れた。

「どうしたらいいんでしょう・・・。主人はやっぱり助からないんでしょうか?主人は根がまじめな性格で、会社でも期待されていたんですが、あまりに仕事が多すぎて休みも全く取れない状態だったんです。特に最近はおかしかったんです。あの・・・うつ・・・って言うんでしょうか・・・。なかなか眠れないと言って、睡眠薬を使うようになって・・・。好きだった本や新聞もほとんど読まなくなって、そのあげくにあんなことを・・・。このまま逝ってしまったら・・・。先生、何とか・・・何とか助けてやってください」

 夫人は涙声で俊介に懇願した。

「奥さん、まだ助からないと決まったわけではありません。これから我々はご主人を救命して社会復帰させるために全力を尽くします」

 俊介は机の上の用紙に図を書きながら話を続けた。

「今、血液中の薬剤を少しでも除去する治療を行っています。しかしそれでも服薬した量が多いので1-2日するとかなり重症の肝機能障害を発症するでしょう」

 俊介は縦軸と横軸の線を紙に書いて横軸に1,2,3と日付を記載していった。

「多分、夜が明けてから血液検査をするとAST、ALTという肝臓の酵素が上昇してくるはずです」

 俊介は右上がりの線を描いていった。

「そして明日になるとその数字はかなり高くなってくるはずです。これは肝臓の細胞が広範囲に壊れていることを示します。しかし肝臓という臓器は再生が盛んな臓器です。一度壊れてもまた再生してくるのです」

 右上がりの線は3日のところで横に平行になり、7日くらいのところで右下がりに描かれた。

「問題はこの肝臓の機能が高度に障害された期間をどう乗り切るかです。肝臓には2つの働きがあります。ひとつは体内の毒物を代謝(たいしゃ)して無毒にすること。もうひとつは身体に必要なたんぱく質を合成することです。肝臓が障害されている間は体内の毒物を排出し、また、必要なたんぱく質を補う必要があります。そのために血漿(けっしょう)交換という治療が必要になると思います」

「血漿交換?」

「はい。ご主人の血液の一部を健康な人の血液と入れ替えるのです」

「そんなことができるのですか?」

「はい。今、血液吸着という方法で薬物を除去していますが、同じような方法で血液を入れ替えることができるのです。肝臓の機能が回復するまでこの血漿交換を行う必要があります」

「その血漿交換をすれば主人は助かるのですか?」

 夫人はすがるような目で俊介を見つめた。

「もちろん肝臓の機能が完全に廃絶(はいぜつ)してしまえば、いくら血漿交換をしても追いつきません。しかしある程度のところで肝臓の障害を食い止めることができれば、ご主人の肝臓は徐々に回復してくる可能性が高いのです。ただし血漿交換は他人の血液を大量に輸血する必要があります。ごくわずかですがB型、C型肝炎や、エイズウイルス感染の可能性もあります」

「でも血漿交換をしなかったら・・・まず助からないのですね?」

「多分必要になると思います。明日くらいには結論が出せるでしょう」

 すでに午前6時を回っていた。健太郎は患者の横で動いている血液吸着の機械を見つめながら俊介の顔を見て言った。

「風間先生、今日はありがとうございました。夜中に来ていただいて・・・」

「いや、たまには早起きもいいもんだよ」 

 昨日も夜中まで診療していて俊介の体にはかなり疲れが残っているが、そんなことで部下に気を使わせたくはない。

「もしあのまま自分ひとりでこの患者さんを診ていたらとんでもないことになっていました・・・。今からどれだけ肝障害が進行するかわかりませんが、こうやってできるだけの処置をしていれば、もしだめになっても自分も家族も納得できると思うんです。でも、何もせずに重篤な肝障害を発症して亡くなってしまったら・・・」

 俊介は静かに言った。

「君はまだ医者になったばかりだ。知識が少ないのは仕方がないことだ。でも患者さんはそうは思わない。目の前にいるのが研修医でもベテランの医者でも専門外の医者でもベストの医療を期待している。そしてそれは当然のことだろう。自分がベストの医療を行う自信がなかったら躊躇(ちゅうちょ)せず他人の助けを借りることだ。決して知ったかぶりはするな。君が今日、俺に電話してきたのは全く正解だ。君はそれでベストの医療をしたことになるんだよ」

 俊介は健太郎の背中を軽くたたいて機械の設定を少し変更した。

「いずれにせよこの患者さんは多分、血漿交換や血液透析が必要になるだろう。午前中に浅山先生にも診てもらうことにしよう」

 カルテ6(2/4)に続く

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2008年8月22日 (金)

風の軌跡:カルテ5(4/4)

風の軌跡:カルテ5(4/4)

   *牡丹灯篭*

・・・・・・・・

 江戸時代、長屋暮らしの若い浪人がいた。彼が夏の夜道をひとり歩いていると侍女を連れた若い娘がしゃがみこんでいるところに出くわした。

「お嬢さん、どうされたかな?」

「下駄の鼻緒が・・・」

「おや、それはお困りでしょう。ちょっと貸してごらんなさい」

 浪人は娘の下駄を直してやった。

「ありがとうございます。本当に助かりました」

 娘はたいそう美しく、そして肌は透き通るように白く、その妖艶な魅力に彼はすぐに心を奪われてしまった。

「あの・・・御浪人様のお名前を伺っても・・・よろしゅうございますか?」

「し・・・新三郎と申す」

「新三郎様・・・。私は露と申します」

「お露どの・・・」

 二人はすぐに恋に落ちた。それから新三郎は毎夜毎夜、お露との逢瀬(おうせ)を楽しんだ。

 それから10日後・・・

「新三郎殿・・・大丈夫でございますか?」

「やあ・・・御住職」

 新三郎を見かけた寺の住職が心配して声をかけた。

「しばらく見ぬまに、えらくやつれておられる。お身体の具合がよろしくないのでは?」

「いや・・・ちょっと疲れているだけだ。御免・・・」

 住職は心配そうに新三郎を見送った。

 その夜も新三郎はお露との待ち合わせの場所へ向った。心配した住職はこっそりとその後をつけた。

「お露どの・・・」

「新三郎様・・・」

 二人はきつく抱きあった。ところがそれを物影から見ていた住職は・・・

「ひ・・・ひ・・・人魂じゃ・・・」

 新三郎は墓場に一人で座り込み、その上に二つの人魂が取り付くように回っていた。住職は腰を抜かしてはいずりながらやっとのことで寺へ戻った。そして翌日、彼は新三郎の長屋を訪れた。

「し・・・新三郎殿!あなた様は昨日、どこへ行かれたかご存知か?」

「昨日・・・?俺は昨日も・・・お露と・・・」

 新三郎はぐったりとして布団に仰向けになったまま、やっとのことで答えた。その表情はまるで幽霊のようにうつろだった。

「おお・・・新三郎殿。なんというやつれかたじゃ・・・。たった一晩でここまで変わるとは・・・。これはもう一刻の猶予もならん!新三郎殿!私の話を聞いてくだされ!」

 住職は昨日見たことを真剣な表情で新三郎に話した。

「お露が・・・あの世から迷い込んだ幽霊・・・とな?」

「今日は8月15日。霊はあの世へ帰りまする。今晩あなた様がお露殿と逢うたならば、必ずやあの世に連れて行かれましょう。今晩だけはどんなことがあってもお露殿に逢ってはなりませぬぞ」

「御住職・・・そうもいかんのだ・・・。俺も数日前より具合が悪いことは承知している。しかし今晩はお露に逢わずにおこうと思っても、夜になれば俺の足が自然とお露のほうへ向ってしまうのだ。それに、俺が行かなくてもお露が侍女を伴って俺に逢いに来るだろう。俺はもうお露から逃げることはできんのだ」

「私の寺へこもりなされ。お堂の周りにお札(ふだ)を貼り巡らせばあの世の者は中へ入れますまい。あなた様はお堂で一晩中お経を唱えなされ。朝の光が差し込むまで辛抱なさればお露殿はあきらめて帰っていくでしょう。それであなた様は助かるのです」

 その日は夜になると風が吹き荒れ、怪しい空模様となった。新三郎は寺のお堂の中に一人こもって南無阿弥陀仏を一生懸命となえていた。お堂の周りには隙間という隙間に住職がお札を貼り巡らせていた。そして夜もすっかりふけた頃、お露が灯篭をもつ侍女を伴ってやってきた。

「新三郎様・・・どうして・・・どうして来てくださらなかったのです?露は・・・露はあなた様に逢いたい」

 お堂の外からお露が新三郎に話しかける。

「すまぬ、お露どの・・・。私はもうあなたに逢うわけにはいかん」

 新三郎はお堂の中で座ったまま答えた。

「新三郎殿!何を、何を言われます!なぜそのような殺生(せっしょう)な言葉をかけられるのですか?」

「すまぬ!あきらめてくれ!南無阿弥陀仏・・・南無阿弥陀仏」

「なんということを・・・。あなた様をあきらめることなど・・・露にはできるはずがございませぬ。新三郎様・・・この中においでなのですね・・・」

 お露はお堂の中に入ろうとした。

「はっ・・・こんなものが!」

 お札のためにお堂の中に入れないお露は侍女を連れて寺の周りを回って必死に入れる場所を探した。

「おお・・・ここにも・・・ここにもお札が・・・。なんということを・・・」

 あきらめきれないお露は何回も何回も寺の周りを回ってお札が貼られていない場所を探し回った。

「新三郎様・・・お願いでございます。露を・・・露を中に入れてくださいませ・・・。一目だけ、一目だけでもあなた様にお逢いしとうございます」

「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・」

 新三郎は一心不乱にお経を唱え続けた。

「あなた様もお気づきのように私はこの世のものではありませぬ。明日の朝にはもう帰らなくてはならぬ身です。その前に、一目、一目だけでもあなた様に逢いとうございます。どうか、後生でございます。このお札を剥がしてくださいませ」

 新三郎はお露の言葉に心が動いたが住職の言葉を思い出し、何も答えず無我夢中に南無阿弥陀仏を唱え続けた。お露も必死に新三郎に語り続けるが新三郎は答えない。

「おのれ・・・新三郎殿!一度はあれほど愛しあった者にこのような仕打ち!なんと・・・なんと情けない・・・。そしてなんとうらめしい・・・。このままではすませませんぞ!」

 お露は狂ったように寺の周りを回り続けた。新三郎は耳をふさいで必死に南無弥陀仏を唱え続け、ただただ朝が来るのを待った。

―朝の光が・・・朝の光が差し込めば・・・俺ば助かるんだ!―

 そして長い夜は過ぎていった。夜明けが近づいたころ、強い風にあおられてお札が一枚だけ雨戸からはがれ落ちた。

「おお・・・ここに・・・」

 お露はお札が剥がれた場所から入ることはできなかったが、ほんの少しだけ隙間を開けることができた。そしてそこに侍女をそっと呼び寄せた。

 新三郎はやつれた身体でふらふらになりながら一心不乱に南無阿弥陀仏を唱え続けていた。ふと目を開けると雨戸の隙間からスーッとひとすじの光が差し込んでくるのが見えた。

「朝だ・・・朝だ!朝の光だ!夜が明けたのだ!やった!俺は、俺は助かったんだ!」

 新三郎は一目散に走っていって雨戸を一気に開けた。

「しんざぶろうどの・・・」

 そこには真っ暗な中で骸骨(がいこつ)の姿になって笑うお露と雨戸に灯篭をかざしている侍女の姿があった。

・・・・・・・・・

  健太郎はちょっと身震いをした。

「・・・怖いですよ・・・風間先生。今日は8月15日、お盆ですよ。まさしく新田さんの状況と同じじゃないですか。冗談抜きに今晩奥さんが新田さんをつれに来たら本当にあの世に連れて行かれちゃうかもしれませんよ!」

「確かにな・・・」

「今日は一晩中見張ってますよ。今晩を乗り切れば大丈夫でしょう?」

「いや・・・それはあくまでも牡丹灯篭の話だ。新田さんの場合は今晩回避できたとしても、明日もあさっても奥さんの夢を見る可能性がある。そうじゃないですか?須藤先生・・・」

「その通りです。さっきも言いましたが、新田さんは今、自分で暗示にかかった状態を作っているのです。奥さんが迎えに来る。そして自分はついていくんだってね。その暗示を取り払わなかったら本当の解決にはなりません」

  3人はまた黙り込んだ。ふと俊介が顔を上げた。

「暗示にかかっているんならそれを利用したらどうだ?」

「え?」

「新田さんは今晩も奥さんが迎えに来ると信じているんだ。そして迎えに来てもらおうじゃないか。でも新田さんを連れて行くことはできない状況を作り上げるんだ。そしてそのままあきらめてあの世に帰っていってもらう。そうすれば新田さんは、奥さんは自分を連れて行くことをあきらめたのだと思い込むんじゃないか?」

 須藤医師がうなずいた。

「それができれば新田さんはもう奥さんが迎えに来る夢は見ないかもしれません。そのうちにレム睡眠行動障害も改善していくでしょう。問題はどうやって新田さんの心の中をコントロールするかですが・・・」

  3人はまた黙り込んだ。今度は健太郎が声を上げた。

「先生!お札(ふだ)ですよ!お札!」

「お札?」

「はい、お札を部屋中に貼るんです。そして新田さんにこのお札があるから奥さんの幽霊は新田さんに近づけないって暗示をかけるんです。そしたら夢の中に奥さんが現れても部屋には入ってこれないような展開になるんじゃないでしょうか?どうですか?須藤先生」

「うーん。面白いかもしれないな・・・。やってみる価値はあるかもしれません」

「お札か・・・ちょっと非科学的だが、案外うまくいくかもしれないな・・・。よし、高岡先生、それで行こう!今晩は新田さんを観察室に移そう。そこのビデオモニターで俺達がかわりばんこに起きて一晩中監視するんだ。そしてお札を作って部屋中に貼る。申し訳ないが須藤先生も付き合っていただけますか?」

「もちろんです。僕もこの症例には非常に興味があります。ただしいくつか押さえておかなくてはならないポイントがあります」

「ポイント?」

「はい。まず奥さんに決してついていかないという決心を新田さんにさせること。8月15日の今晩、奥さんに連れて行かれなかったら2度と奥さんは現れないと思い込ませること。それから・・・レム睡眠中は歩いていても目をつむっているか、薄目を開けているかではっきりものが見えないことが多いのです。お札を貼っても見えなければ効果は半減してしまいます。なにかお札を照らすようなものがあれば・・・」

 すると健太郎が答えた。

「ありますよ須藤先生。ペンライトなんかどうでしょう?お札一つ一つにペンライトを貼り付けましょう」

「それはいい考えだ」

 俊介も手を打って同意した。

  ナースセンターの横の観察室にはプリンターで印刷された「南無阿弥陀仏」と書かれた細長いお札がいくつも貼られた。その一つ一つにペンライトが貼り付けられている。

「高岡先生。頑張ったじゃないか。全部君が作ったのか?」

 健太郎は得意顔で答えた。

「はい。医局中のペンライトを集めてきました。医局で南無阿弥陀仏の印刷をしていたものですから津川先生が、どこかで宗教の集まりでもあるのかって言ってましたよ」

 入り口はもとより壁や天井にまで「南無阿弥陀仏」と書いた細長い紙が貼り巡らされている。

「ところで高岡先生、窓はどうだ?」

「抜かりはありませんよ。ほら・・・」

 健太郎はカーテンを開けた。そこにもペンライトがついた「南無阿弥陀仏」が貼り付けられている。科学の最先端をになう病院の風景とはとても思えないがこれも患者の診療に必要なことだ。と、少なくとも俊介や健太郎、須藤は思っている。しかし部屋の前を通るナースたちはけげんそうな顔をしてのぞいていく。

「あとは新田さんに暗示を与えるだけだな・・・」

「はい」

 健太郎が元気に答えた。

    *生きる意欲* 

「するってーと、俺が見た露子は俺の夢だってことか?」

「そうです。でも本当に露子さんの霊が新田さんの夢の中にあわられたのかもしれませんが・・・」

 俊介が答えた。

「それで・・・俺が今晩露子について行けば俺は死ぬんだな?」

「死ぬとは限りませんがその危険は大きいと思います」

 新田三郎はちょっと考え込んで静かに、そして吐き捨てるように行った。

「俺は別にかまわねーよ」

 その瞬間、健太郎が大声を出した。

「何言ってるんですか!新田さん!もう一度大工の仕事をしてみんなに俺の腕を見せてやるんだって言ってたじゃありませんか!親方の鼻を明かしてやるんだって!もう少し頑張ればまた元のように仕事ができるんですよ!」

「ああ・・・それはそうだが・・・。露子がさみしがってるから・・・」

「奥さんだって新田さんが立ち直ってくれれば、うれしいに決まってるじゃないですか!それに・・・看護学生さんに家を建ててやるって約束したでしょう?」

「看護学生?ああ・・・あのダサいねーちゃんか。そうだ、あいつの家を建てる約束をしたっけな・・・」

「そうですよ、新田さん!彼女はそれを楽しみにしているんですよ!新田さんがそう言ってくれたって本当にうれしそうにしていましたよ」

「ああ・・・そうだな・・・。約束は守らなくっちゃいけねーな」

 新田三郎は腕を組んでじっと考え込んだ。

「わかったよ・・・先生。俺は露子とはいかねー。この世に残るよ」

「本当ですか?新田さん!約束ですよ!」

「高岡先生、俺はこんな男だがうそはつかねー。今晩露子がやってきたら俺はまだこの世でやることがあるから一緒にはいけないって言うよ」

    *運命の夜*

「どうだ・・・新田さんは寝たか?」

 ナースセンターにやってきた俊介が健太郎に聞いた。すでに午前1時をまわっている。

「いえ。落ち着かないんでしょうか、まだ寝付けないようです。右を向いたり左を向いたりしています」

「そうか・・・じゃあしばらく俺が代わるから、君は隣で須藤先生と一緒に休んでてくれ。4時になったら交代してくれ」

「わかりました。何かあったらすぐ起こしてくださいよ」

 俊介はナースセンターで文献(ぶんけん)を読みながらモニター画面を見つめていた。午前2時を回る頃にはようやく新田三郎も寝付いたようだ。

 睡眠には周期がある。まず睡眠が徐々に深くなってからその後に徐々に浅くなり、レム睡眠に移行する。通常は一晩のうちにこれを何回か繰り返すのだ。

「今から1時間は大丈夫だろうな・・・。レム睡眠に入るのは3時半か4時頃かな・・・」

 そう思いながら俊介はしばらくモニター画面から目を離して文献を読みふけっていた。病棟の夜勤ナースは病棟を見回ったりカルテの記録をしたりで忙しそうだが、時々俊介に気を使って話し相手になってくれる。

 時計は4時をまわった。

「そろそろかな・・・」

 俊介はモニター画面を注意深く見つめていた。

・・・・・・・・・・

 新田三郎がふと目を覚ますと何か物音がする。

「・・・あんた・・・来て・・・・」

「露子だ・・・。来たか・・・」

 そう思いながら新田三郎はベッドの上に座り込んだ。

「きたな・・・」

 俊介はモニター画面に釘付けになった。

「動き出しましたね」

 いつの間に起きていたのか、健太郎と須藤が後ろから覗き込んでいた。

「どうですか?須藤先生」

 須藤はじっとモニター画面を見つめていた。

「多分、レム睡眠行動障害の症状だと思います。きっと彼には奥さんの声が聞こえているのでしょう」

「あんた・・・一緒に来て・・・」

「露子・・・露子か?」

 新田三郎はベッドの上に座りながらあたりを見回した。周りにはペンライトの灯りだけがうっすらと見える。

「あんた・・・入れないよ・・・。開けてよ・・・」

「露子・・・すまん。俺はいけねえ・・・お前とはいけねえんだ」

「なんでよー・・・一緒に来てよ・・・。あんた・・・入れないよ・・・。ここ開けておくれ・・・」

 新田三郎は起き上がって入り口へ向った。そこにはペンライトに照らされた南無阿弥陀仏のお札が貼られていた。

「病院の先生がよ・・・お前が入れないようにお札を貼ったんだよ。そいで・・・おまえは入れんのじゃ」

「なんで・・・なんでよ・・・。あんた・・・会いたいよ・・・。お札を剥がしておくれよー・・・」

「すまん・・・露子。すまん・・・ゆるしてくれー。俺はまだこの世ですることがあるんじゃ」

「風間先生・・・新田さん起きあがりましたよ。入り口をじっと見ています」

 健太郎がモニター画面を見つめながらつぶやいた。

「多分奥さんと話しているんだ。ここが勝負だな・・・。高岡先生、新田さんがおかしなそぶりを見せたらすぐに飛んでいくんだ」

「わかりました」

「勘弁してくれ・・・露子。俺はお前とは行けん・・・」

 新田三郎はベッドに戻り頭から布団をかぶった。

「あんたー・・・中に入れてよー・・・。お札を剥がしてよー・・・」

「許してくれ・・・露子。許してくれ・・・」

「新田さん、布団をかぶってますね」

「きっと奥さんの声と闘ってるんだろう」

 モニター画面はペンライトの光でこうこうと照らされた病室を映し出していた。その時、窓に貼られたお札のペンライトが急に点滅しだした。

「風間先生、窓のペンライトが・・・変です」

「電池が・・・あまりないんだ」

 新田三郎はかぶっていた布団から頭を出して周りを見回した。そして窓のほうを見つめた。その瞬間窓に貼られたペンライトは光を失い、お札は彼の目から見えなくなった。

「あんた・・・ここから入れるよ・・・ほら・・・」

「露子・・・おまえ、入れたんか・・・」

「ほら・・・一緒に行こう・・・。うちの手を握って・・・」

 新田三郎は差し出された手を恐る恐る握った。

 『暖かいな・・・』そう思った瞬間、彼はその手に引き寄せられた。そして彼はベッドから降りて窓のほうへ歩き始めた。窓にはお札が貼られていたが薄暗くて彼には見えなかった。

「あんた・・・さあ・・・一緒に行こう・・・。ここを開けて・・・・」

 新田三郎は窓のかぎを手探りで探してゆっくりとはずし、そして窓を開けた。

「いかん!高岡先生!急げ!」

 俊介が叫ぶと同時に健太郎は部屋を飛び出した。俊介と須藤もそれに続いた。

 新田三郎が窓から身を乗り出し、今まさに飛び下りようとした瞬間、健太郎がななめ後ろから飛びつき、勢いあまって二人は床に抱き合ったまま倒れこんだ。

「新田さん!新田さん!大丈夫ですか?」

「ああ・・・先生・・・か・・・?露子は・・・?」

 目が覚めた新田三郎はうつろな目で窓の外を眺めた。向こうからはうっすらと朝の光が差し込んできた。夜が明けたのだ。

「新田さん、朝ですよ!夜が明けました!助かったんですよ!奥さんはもう行ってしまいました!」

 必死で新田三郎をゆさぶりながら健太郎が話しかけた。 

「ああ・・・朝か。露子は・・・行ってしもたんか・・・」

健太郎は何も言わずに彼を抱きしめた。

    *心を診る*

「風間先生・・・。不思議な事件でしたね・・・」

 ナースセンターに戻った健太郎が椅子に座って放心状態でつぶやいた。

「ああ・・・確かに・・・。事件だったな・・・」

 俊介も椅子の背もたれにもたれかかりながら力なく答えた。

「これで新田さん、奥さんの夢を見ないですむでしょうか?」

「わからんが・・・少なくとも酒はやめて前向きに生きてくれるだろう」

 二人は目をつむってじっと上を向いていた。

「人間の心って不思議ですよね・・・」

「ああ・・・」

「俺は今までレントゲンや検査データばかり見てきました。それが内科の仕事だと思ってたんです。でも、今回のことで内科医は人間の心を診る仕事だってわかったような気がします」

「そうだな・・・。目の前にいる人が今何を考えているか・・・それを常に考えていることが大切なことだ。仕事でも・・・私生活でもな・・・」

 俊介は目をつむりながらちょっと皮肉っぽく答えた。

「私生活?」

「ああ・・・。君も彼女の心の中をいつも考えていたら喧嘩(けんか)なんかせずにうまくやっていけると思うよ・・・」

「今日は勘弁してくださいよ・・・。それに・・・最近はうまくいってるんですから・・・」

 二人は椅子に座ったまま眠りに落ちていった。

  風の軌跡:カルテ5 「牡丹灯篭」終わりカルテ6(1/4)に続く

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2008年8月21日 (木)

風の軌跡:カルテ5(3/4)

風の軌跡:カルテ5(3/4)

   *8月14日 午後*

 それから3日後、風間俊介は病棟で回診の準備をしていた。そこへ健太郎がやってきた。

「新田さんはどうだ?最近病室では飲まなくなったそうじゃないか」

「ええ・・・。アルコールはやめているんですが・・・」

 健太郎はちょっと困った顔で答えた。

「何か他に問題があるのか?」

「実は風間先生。新田さん、昨日夜中に廊下で倒れていたんです」

「倒れていた?」

「はい。トイレの前で倒れているのを夜勤のナースが見つけて抱え起こしたんです。そしたら目を覚まして・・・奥さんが迎えに来たって言ってたらしいんですよ」

「奥さん?四月に亡くなった奥さんか?」

「はい。その奥さんの夢を見たらしくって『露子が迎えに来たから行かんとだめや・・・』って言ってたそうです」

「ふーん。まあ・・・ちょっと寝ぼけただけじゃないのか?」

「それならいいんですが・・・夢にしてはあまりにもリアルなんですよ。病室で寝ていたら奥さんが白い着物を着て新田さんを呼んだそうです。それで跳び起きて奥さんに手を引かれてトイレの前まで来たときに奥さんが歩くのが急に早くなって、そのままついていったら転んでしまったって言うんです」

「じゃあ、転んだ場所も自覚しているわけだな」

「はい」

「ふーん。確かにちょっとリアルだな」

「本当に奥さんの幽霊が出たんでしょうか?」

「そんな寒くなるようなことを言うなよ」

 俊介は笑いながら答えた。

    *翌日(8月15日)*

 朝、俊介が部屋で白衣に着替えていると健太郎がやってきた。

「風間先生。新田さん昨日も大変だったんですよ」

「どうしたんだ?」

「今度は階段から落ちたんです」

「階段から?それでけがは?」

「頭とひざと胸を打っていますが、幸い骨には異常なくて、頭のCTも撮りましたが出血はありません」

「そうか・・・。じゃあ今は落ち着いているんだな」

 俊介はちょっと安心して話を続けた。

「それで・・・また奥さんの幽霊が出たのか?」

「はい・・・そうなんです」

 健太郎も一息ついて話を続けた。

「昨日も奥さんが白い着物を着て新田さんのことを呼んだそうです。ベッドから飛び起きてそのまま奥さんに手を引かれていったんですけど、しばらく行くと川があって、奥さんは先に渡ってから新田さんを呼んだそうです。この川を飛び越えて私についてきてくださいって・・・」

「それで新田さんは飛んだのか?」

「はい。とても飛び越えられそうにない広い川だったけど奥さんが呼ぶから飛んでみたらしいです」

「そこが階段か・・・」

「はい・・・」

 二人はちょっと黙って考え込んだ。

「こんなことを繰り返していたんじゃあ・・・いまに新田さん、きっと大けがをしますよ」

「確かにな・・・。ちょっと話を聞いてみようか」

 二人は新田三郎の病室に向った。

 新田三郎は頭にばんそうこうを貼られ、静かに横になっていた。

「新田さん、大丈夫ですか?」

 俊介が優しく聞いた。

「やあ、部長先生。迷惑かけたな・・・。ちょっと頭がいてーがこんな傷は大工やってればしょっちゅうだ。たいしたことねーや」

 新田三郎は手で頭をさわりながら答えた。

「幸いけがが軽くてよかったですね。それで・・・その時のことをもう一度聞かせてほしいのですが・・・」

「ああ・・・来たんだよ、露子が・・・。あんたらは信じねーと思うけどな。高岡先生は夢を見たんだって言ってるけど、あれは間違いなく露子だ。いや、露子は死んじまったから幽霊ってことだな」

「その・・・奥さんの幽霊が新田さんをつれに来たんですか?」

「ああ・・・俺がふと目を覚ますと入り口のところに白い着物を着た露子が立っていたんだ。俺が『露子か?』って聞いたらうなずいて『あんた・・・』って呼んで手を伸ばすんだ。思わず飛び起きて俺が手を出すと露子は手を握ってきた。暖かかったよ・・・。『一緒に行こう・・・』って言うから俺は露子に手を引かれて後をついていったんだ。周りは真っ暗で露子の白い着物だけが見えた。しばらく歩くと目の前に大きな川があったんだ。ふと向うを見るといつの間に渡ったのか、露子が向こう岸で手をふっているんだ。『あんたー、おいでよー、一緒に行こう』って言いながら俺を呼ぶんだ。『こんな広い川、渡れるのか?』って思ったけど、露子が呼ぶもんだから俺は思い切って飛んでみたんだよ。そしたら・・・このざまだ。気がついたら病棟の階段の下に倒れていて、頭ががんがん痛かったよ」

 俊介と健太郎は黙って新田三郎の顔を見つめていた。

「信じられないだろう?でも俺は露子が俺のことを呼びに来たと思っているんだ。あいつはきっと寂しいんだ。俺が来るのを待っているんだ」

 俊介はじっと黙って考え込んでいたが、ゆっくりと顔を上げて新田三郎を見て言った。

「新田さん、新田さんのお話はわかりました。私には信じられないことですが、新田さんがうそを言っているようには思えません。そういうことも・・・あるのかもしれません。でも新田さん・・・もし今晩また奥さんが現れて、新田さんを誘ったら、またついていきますか?」

「今晩も?行くよ・・・。今度こそ露子についていってあいつを抱きしめてやるよ」

「でも、今度は今くらいのけがではすまないかもしれませんよ。骨を折ったり、場合によっては命を落とすことも・・・あるかも知れません」

 新田三郎は少し考えて、天井を見ながら答えた。

「ああ・・・いいよ。俺はそれでもかまわんよ」

 俊介と健太郎はナースセンターの椅子に無言で座っていた。

「風間先生、どう思います?」

 俊介はじっと考え込んだ。

「幽霊かどうかわからんが、今の新田さんは確かに危険だな・・・」

「はい。もし今晩も同じことが起これば階段じゃすまないかも・・・。ここは5階ですよ。もし、窓から飛び降りでもしたら・・・即死ですよ!」

「充分ありえるな・・・」

「眠っていて歩き回るなんて、夢遊病(むゆうびょう)でしょうか?」

「夢遊病か・・・。子供ならまだしも、40代の男性にはちょっと考えにくいだろう」

 二人はまた黙って考え込んだ。

「よし、精神科の須藤先生に相談しよう。須藤先生ならもう少し科学的に説明してくれるかも知れん」

    *レム睡眠行動障害*

「須藤先生、お忙しいところすいません。我々ではお手上げなんです」

 その日の午後、内科病棟には精神科の須藤隆康医師が出向いてきた。須藤隆康は39歳、やせ型で見るからにインテリっぽい風貌(ふうぼう)だ。黒ぶちのメガネをかけていて、白衣を着ていなければ一見『おたく』っぽい雰囲気もある。10歳年下の奥さんがあり、3児の父親である。性格はいたってまじめで、ちょっと理屈っぽいところがある。俊介はまだしも、健太郎にはどうも苦手なタイプのようだ。

「いえ、風間先生。お話を聞くとちょっと興味のある症例ですよ。内科から精神科に相談されるのはたいてい認知症か、アルコール依存症、よくてうつ病ですからね。夢遊病なんて小児科からは時々紹介がありますけど、内科からは初めてですね・・・。それに幽霊の正体にも興味があります」

 須藤は黒ぶちのメガネを神経質そうに触りながら言った。

「すみません、須藤先生。私も本当に幽霊がいるとは思ってないんですけど、話があまりにもリアルなんです」

 俊介は、須藤の歯にものを着せぬ言い方にちょっと苦笑しながら答えた。

「わかりました。どこまでお力になれるかわかりませんが・・・まず面接させてもらいます」

 精神科の診察は「面接」と呼ばれる。声の漏れない診察室で患者の話をゆっくりと聞いて問題点を見つけだすのだ。新田三郎は須藤医師と看護師と共に精神科の外来へ向った。

 約1時間後、須藤は再び内科病棟へやってきた。俊介と健太郎はナースセンターの隣の処置室で須藤と向かい合って座った。

「おつかれ様でした。それで・・・いかがですか?」

 俊介が尋ねた。

「風間先生、まだ1回目の面接なので確定的なことは言えませんが、新田さんは多分・・・夢遊病ではありません。もちろんアルコール性の精神障害でもありません」

「ほう・・・すると?」

 ちょっと間をおいて須藤が答えた。

「新田さんは多分『レム睡眠行動障害』です」

「レム睡眠・・・行動・・・障害?」

 健太郎はきょとんとした表情で須藤の言葉を繰り返した。それは俊介にもあまり聞き覚えのない病名だった。須藤はゆっくりと説明を始めた。

「ご存知のように睡眠にはレム睡眠とノンレム睡眠があります。レム睡眠中には夢を見ていますが、その夢の内容に反応して異常行動を起こすことをレム睡眠行動障害と呼んでいるのです。たとえば誰かとけんかして殴る夢を見ているときは実際に起きてそばにいる人を殴ったりします」

「夢の内容がそのまま行動に現れるということですか?」

 俊介が聞いた。

「そうです。通常我々は夢を見ているときは大脳からの運動の命令は筋肉に届かないように抑制されています。ですからどんな夢を見ていても実際に夢にあわせた行動をすることはありません。しかし脳幹に障害があるとこの抑制がうまく働かず、夢の内容に一致した行動をとるのです。原因は加齢による動脈硬化やストレスやアルコールによるものが多いようです」

「アルコール?じゃあ・・・新田さんはアルコールによる脳幹の障害のためにあんな行動を?」

 健太郎が聞いた。

「多分。アルコール常用者がアルコールをやめたときにおこる禁断症状のひとつにもあげられています」

「じゃあ・・・新田さんは今アルコールをやめたところなのでこんな症状が出てきたということか・・・」

 健太郎はカルテをめくりながらつぶやいた。横で聞いていた俊介が口を開いた。

「俗に言う夢遊病とは違うんですか?」

「夢遊病というのは正式病名は『睡眠時遊行症(ゆうこうしょう)』といってノンレム睡眠中におこる行動異常です。レム睡眠行動障害と違ってノンレム睡眠中は患者さんは夢を見ているわけではないので夢遊病の行動のことは全く記憶にないのが普通です。子供にはたまに見られますがたいてい思春期になると治ってしまいます」

「なるほど・・・。ところで須藤先生、治療法はあるのですか?」

「はい。クロナゼパムという薬物が有効とされていますが、効果は使ってみないとわかりません。でも新田さんの場合、多分アルコールが原因と思いますので、このまま禁酒を続けていけば徐々に改善していくと思いますが・・・ひとつ問題があります」

 須藤は俊介の顔を見て話していたが、ちょっと目を下に落とした。

「問題?というと?」

「はい。今新田さんは奥さんのことで暗示にかかっているようなんです。奥さんがあの世で自分が来るのを待っているのだと。そして、奥さんが迎えに来たらついていかなくてはならないと思い込んでいるのです。ですから・・・多分今晩もまた同じ夢を見るでしょう」

「今晩も奥さんが新田さんをつれに来て、新田さんは奥さんに手を引かれて歩き出すということですか?」

「風間先生!そんなことしたら今度は本当に階段じゃすまないかもしれないですよ。窓から飛び下りでもしたら・・・即死です!」

 健太郎は大声を出した。俊介はじっと黙って考え込んでつぶやいた。

「お盆の夜に、女が迎えに来てあの世に連れて行くか・・・。牡丹灯篭(ぼたんどうろう)だな」

「ぼたんどうろう?」

 健太郎がけげんそうな顔をして聞いた。

「高岡先生は怪談牡丹灯篭の話を聞いたことないのか?」

「昔、聞いたような気もしますが・・・」

 俊介は椅子の背もたれに身体を預け、ゆっくりと話しはじめた。

  カルテ5(4/4)に続く

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2008年8月20日 (水)

風の軌跡:カルテ5(2/4)

風の軌跡:カルテ5(2/4)

   *治療方針*

 ナースセンターで検査データの整理をしている健太郎に、後ろから若い女性が声をかけた。

「あのー・・・高岡先生。ちょっと・・・いいでしょうか?」

 健太郎が振り返ると、学生用の青い看護服を着た若い女性が立っていた。

―ああ・・・新田三郎の担当の学生だな―

 そう思いながら健太郎は椅子を回して彼女のほうに向き直った。その看護学生はドクターに話しかけることにも慣れていない様子で、おどおどして口ごもっている。小柄なちょっと太り気味の体格で、あか抜けしていない顔立ちだ。

―『田舎娘』って感じかな?―

「なんだい?新田さんのことかな?」

「はい。看護学生の榊原さやかといいます。新田さんの、治療方針に関して、教えていただきたいのですが・・・」

 学生は一言一言区切りながらまるでメモを見ているような言い方で健太郎に話しかけた。

―榊原さやか・・・。そんなイメージじゃ・・・なんだけどな―

 健太郎はちょっと苦笑しながら答えた。

「いいよ。じゃあここに座って・・・」

「はい。失礼します」

 榊原さやかはポケットからメモ用紙とボールペンを取り出した。

「新田三郎さんはね・・・アルコール性肝硬変だ。お酒を飲みすぎて肝臓が悪くなって入院しているんだよ」

「はい・・・。アルコール性・・・かんこうへん・・・と」

―肝硬変はどうやらひらがなで書いているようだな・・・。こんな子が新田三郎を担当して大丈夫なのか?―

 ちょっと不安を感じながら健太郎は話を続けた。

「アルコール性肝硬変だからお酒さえやめればまた元気になれるはずなんだ。でも彼の場合その性格に問題があってね・・・。君は患者さんと話をしたのかい?」

「はい。さっき病室でお話を伺ってきました」

「そうか・・・じゃあわかるだろう?新田さんはちょっと短気な性格で、精神的にも弱いところがあって自制心がないんだ。だから酒が身体に悪いとわかっていてもなかなかやめられない」

「はい・・・。短気で・・・じせいしんが・・・ない・・・」

―そんなことまでいちいち書かなくたっていいんだよ。それにまたひらがなで書いてるな?本当にぱっとしない子だな―

 そんなことを考えながら健太郎はふと南川沙紀のことを思い出していた。

―沙紀はこの子から比べると確かに優秀なナースかもしれないな。彼女の学生時代のことはよく知らないが、多分てきぱきと勉強も実習もこなしてきたんだろう。ちょっと性格がきついのが玉に傷だがな・・・―

「あの・・・それで・・・治療方針は?」

「治療方針?だから言っただろう?酒をやめさせることだって。お酒さえやめれば新田さんはまた元気に仕事ができるようになるんだよ」

「はい・・・。でも・・・アルコール中毒の患者さんってみんな短気で、精神的に弱い人じゃないですか・・・。そんな患者さんをどうやってお酒をやめさせるように治療していったらいいのか・・・よくわからないんです」

 健太郎はこの質問に意表をつかれた。しばらく言葉が出なかった。確かにアルコール性肝硬変だからアルコールをやめればよくなる。そんなことは子供だってわかる理屈だ。それをやめられないから病気なのだ。そのやめさせる方法を考えることが治療方針じゃないのですか?このさえない看護学生の質問はまさしくまとを得ている。

 健太郎は内科の医者は薬や点滴で患者を治すものだと思ってきた。そして実際、新田三郎が腹水や黄疸がひどくて食欲がないときには適切な点滴や利尿剤(りにょうざい)を使って状態を改善させ、これが内科の医者の仕事だと思ってきた。しかしこの看護学生の言う『治療方針』とはそれとはまったく次元の異なる意味を持っているのだ。

「まあ・・・それはちょっと難しいかな・・・?俺もいろんな話をして新田さんのお酒をやめさせようとしているんだが・・・まだ今のところはうまくいってない状況だよ」

「じゃあ・・治療方針はまだ立っていないっていうことですか?」

 健太郎は再び何も言えなくなった。

―そうだよ、その通りだ。酒をやめさせる方法が治療方針というならばそんなものは何もないよ。君の言うとおりだ―

 健太郎の心の中は訳のわからない悔しさで一杯だった。自分は医者だ。それも看護学生の質問なんか、てきぱきとかっこよく答えて尊敬されるべき優秀な医者なんだ。それが、こんなさえない看護学生に『治療方針はまだ立ってないんですか?』などと馬鹿にしたような言い方で問い詰められている。今、健太郎が感じているのは、まさしく屈辱感と敗北感だった。

「内科医は薬で治すのが仕事だから、そういう患者さんの気持ちの問題に関してはあまり深入りしないんだ。どちらかというと精神科の分野かな?」

「じゃあ・・・新田さんは内科では治せないっていうことでしょうか?」

―いちいちカンにさわる言い方をするやつだ。多分こいつは俺が傷ついていることなど全然わからないんだろう。内科では治せない?そんなことあるもんか!治してやるとも!俺が新田三郎を治してやるさ!―

「いや・・・内科とか精神科とかじゃなくて・・・。とにかく新田さんにはもう少し時間が必要なんだ。奥さんを亡くして自暴自棄になっているからね。今からゆっくり、どうしたら新田さんがお酒をやめられるかを検討していく予定なんだ」

「じゃあ・・・新田さんの治療は今から始まるんですね。私も・・・考えてみます。新田さんがお酒をやめられる方法」

―何言ってるんだ?それがわかれば苦労しないよ。本当にとぼけた学生だな―

「ああ、そうしてくれよ。何かいい方法があったら教えてくれ」

「はい。ところで新田さんは食事の制限はあるんですか?」

「食事?まあ、アルコール以外ならいいんだけど・・・。まだ腹水と黄疸がちょっとあるから、塩分とたんぱく質はあまり取りすぎないほうがいいかな。でもそんなことよりやはりお酒だよ」

「じゃあ・・・薄味のものなら少しくらいとってもいいんですね?」

「ああ。そうだよ」

「わかりました!ありがとうございました!わたし頑張ります」

 そう明るく言い残して榊原さやかはナースセンターを意気揚々と出て行った。

    *特製ジュース*

 それから3日間、健太郎は新田三郎の病室へ行かなかった。内科は毎日回診するのが原則で、その他の患者は健太郎も全員回診していた。しかし新田三郎の部屋に向かうとなんとなく足が重くなり、忙しいからと自分に理由をつけたり、また彼がトイレに立ったときにチラッと部屋を見に行って「不在」とカルテに記載したりして自分をごまかしていた。しかし自分が主治医である以上、いつまでも診に行かないわけには行かない。

―今日は新田三郎と話をしなくてはならない―

 そう考えると健太郎は気分が落ち込んだ。

「師長さん、どうだい?新田さんは・・・」

 夕方、ナースセンターの椅子に座った健太郎は川村師長に恐る恐る尋ねた。

「新田さん、最近調子いいみたいよ。あれからお酒のにおいもしないし、外にもあまり出歩かなくなっていつも病院の中を学生さんと散歩してますよ」

「え?じゃあ・・・酒をやめてるのか?」

「多分・・・」

 健太郎はあわてて今日の血液検査の数字を確認した。確かにガンマGTPやビリルビンの数字が少し改善している。やはり飲んでいないのだ。でもどうして・・・

「どうして酒をやめられたんだろう?」

「さあ・・・直接患者さんに聞いてみたら?」

 川村師長は笑いながら答えた。健太郎は無言でうなずいて新田三郎の病室に向った。

「新田さん・・・いかがですか?」

 健太郎は恐る恐る新田三郎に聞いた。

「ああ・・・先生かい、久しぶりじゃないか。もうこないのかと思ったよ」

 新田三郎は皮肉交じりに言った。

「すみません・・・。ここ2-3日ちょっと忙しくて・・・」

 健太郎はばつが悪そうにちょこんと頭を下げて答えた。

「酒なら飲んでねーよ。先生は信用しないだろうけどな・・・」

「いえ・・・信用します。今日の検査データを見たら肝機能が改善していました」

「やっぱり検査の数字かい。それがないと俺なんか信用されないわな・・・」

「いや・・・そんなわけじゃ・・・。でも・・・どうして・・・」

「どうしてやめたのかって?まあ俺も身体が大事だってことよ。自分の身体だからな、悪くなっても取り替えるわけにはいかねーよ。それに・・・あの学生のねーちゃんがやめろってうるせーんだ」

「学生?ああ・・・この前から来てる・・・」

「何とか・・・さやかって、あのダサいかっこしたねーちゃんだよ。こんなもん作ってきやがって・・・」

 新田三郎があごで示した先には緑色の液体の入ったペットボトルがおかれていた。

「まずいんだよ。これが・・・」

 そう言いながらペットボトルを人差し指でちょっとこづいた。

「酒が飲みたくなったらこれを一口飲めって持ってきたんだけどよ、あんまりまずいんで酒飲む気もしなくなるってもんだ。なんでもほうれん草やらにんじんやら混ぜて作ってきたらしいぜ。あのねーちゃんのおやじも酒飲みで、お袋さんからこれを飲まされたそうだ」

「少しだけ・・・飲んでみていいですか?」

 健太郎は興味深々にペットボトルを手に取った。

「ああ・・・全部飲んじまってくれ。でもなくなったらあいつ、また作ってくるだろうがな・・・」

 新田三郎は笑いながら紙コップを健太郎に渡した。健太郎は彼の笑い声を始めて聞いた気がした。そしてほんの少しペットボトルから緑色の液体を注いで匂いをかいでみた。確かに野菜のにおいがする。一口飲むと口の中に土臭い匂いが広がった。それに甘い!甘すぎる。しかし確かに美味くはないがそれほどまずいとも思わない。何の変哲もない野菜ジュースだ。

―こんなもので彼が酒をやめられたのか?いったい何が入ってるんだ?― 

 あわててナースセンターに戻った健太郎は川村師長を問いただした。

「川村師長さん!あの学生、えっと・・・榊原・・・さやかとかいう学生さんは今日も来ているんですか?」

「ええ。今カンファレンス中だけどもうすぐ終わるわよ」

 川村師長は微笑みながら答えた。

「じゃあ・・・カンファレンスが終わったらちょっと呼んでください。聞きたいことがあるんです」

  10分後、榊原さやかが笑顔の川村師長に促されておどおどした表情で入ってきた。相変わらずぱっとしない風体(ふうてい)だ。

「あの・・・すみません。高岡先生、やっぱりあのジュース・・・いけなかったでしょうか?たんぱく質は入っていないと思うんです。塩分もできるだけ少なくしようと思って食品交換表や教科書を見て勉強したんですが・・・。でもちょっとお砂糖は多すぎたかも・・・。カロリーはだめっておっしゃらなかったので・・・」

「いや・・いや・・・いいんだ。責めているんじゃないんだ。そうじゃなくてあの新田さんがこんなに簡単にお酒をやめたのが信じられないんだ。君はどうやってやめさせたんだ?あのジュースに何か特別な成分でも入っているのか?お願いだ。聞かせてくれ」

 榊原さやかはちょっとびっくりしたが、叱られるのではないとわかって安心して話し始めた。

「あのジュースは家の母が父によく作ってたんです。でもそんな特別の成分じゃなくって、ただの野菜ジュースなんです。お酒を飲みたいなって思ったときに何か代わりに口に入れば少しはいいんじゃないかって思ったんです」

「じゃあ・・・どうやって新田さんを説得したんだ?」

「説得だなんて・・・。私、できの悪い学生で何もできないんです。動作ものろくって・・・。そんな私が新田さんの担当になって、きっと患者さんも怒ってるだろうなって思うんです。でも今から3週間は新田さんの病室に行かなくてはならないし・・・。それなら何か私が新田さんのためにできる事がないかって考えたんです。でも何したらいいかよくわからなくて・・・。だから・・・まず新田さんのことをいろいろ聞こうと思ったんです。そしたら何をしてあげられるか少しはわかるような気がして・・・」

「それで・・・新田さんはどんな話をしたんだい?」

「最初はめんどくさそうにああ、とか おう、とかしか返事してもらえなかったんですけど、奥さんの話や仕事の話をしたらだんだん話してくれるようになって・・・」

 榊原さやかはゆっくりと話を続けた。

「新田さん奥さんに一目ぼれで・・・あの露子さんって言うんですけど・・・会って1週間でプロポーズしたそうです。最初は相手にしてもらえなかったけど1ヶ月毎日頼み込んでやっと結婚してもらったそうです。結婚式のこと、本当にうれしそうに話してました。仕事は大工さんで、自分の腕は天下一品だって自慢してました。10年くらい前に大宮神社の改装の仕事があって、自分が一番大事なところを受け持って、親方からずいぶん頼りにされていたそうです。でも昔からお酒が好きで、奥さんには苦労をかけっぱなしで・・・。その奥さんを4月に事故で亡くされてから仕事をする気力もなくなってしまったそうです」

「お酒の量が増えると手も震えて、道具もうまく使えなくなって、失敗ばかりするようになって怒られて、ますますお酒におぼれるようになったんです。でも、また元気になったら前よりもしっかりした仕事をしたいって言ってました。私が家を立てるときは俺を呼んでくれって言ってくれたときは本当にうれしかったです。新田さん、また治って元気に仕事できるかって、そればかり気にしてました。先生がお酒さえやめれば治るっておっしゃったでしょ?その事話したら、じゃあ、やめてみるかって・・・」

「・・・・」

 健太郎はじっと榊原さやかの話を聞いていた。自分は新田三郎のことは何も知らなかったようだ。奥さんを亡くしたことは聞いていたが露子という名前は今、はじめて聞いた。大工をしていたことは知っているが大宮神社の話なんて聞いたこともない。人間は誰でも心の中に温かい思い出を持っているものだ。そんな思い出に触れられて新田三郎は彼女に心を開いたのだろう。

「新田さんは・・・奥さんに苦労をかけっぱなしで亡くしてしまわれたのが辛いらしいです。こんなことならもっとやさしくしてやればよかったって・・・その話になると涙を流されるんです。今度の入院もしたくなかったけど、お盆に奥さんのお墓参りに行くときにこんな身体じゃ、あわせる顔がないからって仕方なく入院したそうです」

「そういえば・・・最初からお盆には退院できるかってしつこく聞いていたな・・・。入院中に飲まなかったら退院できたんだが・・・。また腹水が増えてきたから・・・お盆には帰れないな」

「やっぱり・・・だめですか・・・。でも新田さんもそれがわかっているみたいで、入院中にお酒を飲んだことをちょっと後悔していました。『ふくすい、ぼんにかえらず』だなって言ってました」

 健太郎は思わず噴き出してしまった。『覆水(ふくすい)盆に返らず』古いことわざだ。ひっくり返った水は二度とお盆には戻せない。だから後悔しないように生きろという教えだ。新田三郎が言ったのは『腹水、盆に帰らず』だろう。―酒を飲んだから腹水がたまってお盆に退院できなくなってしまったってことか・・・。見事じゃないか・・・。

「そんな冗談を新田さんが・・・」

「私、そのことわざ・・・知らなくって、きょとんとしていたんです。そしたら『ねーちゃんはもうちょっと勉強せんと看護婦になれねーな』って言われました。その通りだと思って家へ帰って辞書を引いたらやっと意味がわかって、そこで大笑いしたんです。それで・・・私がもっと勉強していたら新田さんの前で笑ってあげられたのにな・・・と思いました。それから・・・新田さん先生のことも言ってました」

「俺のこと?なんて?」

「あの・・・」

「かまわないから言ってくれ」

 榊原さやかは大きく息を吸ってから話し始めた。

「高岡先生は俺と同じで短気でいけねー・・・。でも熱心で腕もよさそうだからそれさえ治せばいい医者になるのに・・・って」

 健太郎は苦笑しながら下を向いた。榊原さやかも『やっぱりまずかったかな』、と思って黙って下を向いてしまった。

「いや、いいんだ。その通りだよ。榊原君・・・だったね。どうもありがとう。今日は勉強になったよ。君も頑張ってくれ。君はきっといいナースになれると思うよ」

「そんな・・・。ありがとう・・・ございます」

 榊原さやかは本当にうれしそうに微笑みながら深々とお辞儀をしてナースセンターから出て行った。後に残った健太郎はしばらくカルテを記載していたが、ふと手を止めて今の会話を思い出していた。

―俺がやろうとしてどうしてもできなかったことを、あのさえない看護学生が簡単にやってのけた。考え方が最初から違っていたのだ。俺は『どうやったら患者に自分の言うことを聞かせられるか』、そればかり考えていた。でも彼女は『患者のために自分は何ができるか』をまず考えたんだ。風間先生が言いたかったこともきっとそういうことだ―

 健太郎は少しうきうきした気分になって残りの仕事を大急ぎで片つけた。健太郎の気分がうきうきしているのは新田三郎の件だけではなかった。今日は久しぶりに南川沙紀と食事に行く約束だ。

「今日はあいつ、休みだから先に着いてるだろうな。遅れたらまた何を言われるかわからないぞ」

 あわてて医局に戻った健太郎はそうつぶやきながら急いで帰りじたくを始めた。

   *短気を治せば・・*

「どうしたの健太郎?今日はなんだかうれしそうじゃないの?」

 南川沙紀が笑いながら聞いた。

「そうか?ちょっとややこしい患者の治療方針が出来上がったんだよ」

 健太郎は得意顔で答えた。そして今日あったことを南川沙紀に話して聞かせた。

「ふーん。じゃあその看護学生さんのおかげでその患者さんはお酒をやめられそうだってことね?よかったじゃない。学生さんに受け持ってもらって・・・」沙紀はちょっと皮肉交じりに答えた。

「まあ・・・そういうことだな。それにしても・・・俺は性格的には医者に向いてないのかもしれないな」

「どうして?」

「あの学生の話を聞いて思ったんだ。俺は患者を診る前に病気しか診ていなかったってな。その患者の性格や職業、家族構成や趣味・・・そんなことはどうでもいいことで検査の数字やレントゲンやCTの所見だけを見ていた。でも結局、新田三郎は治すことができなかった。これからは俺も少しは患者の内面を見るようにしようとは思っているんだけど、根本的には変えられそうもないよ。やっぱり検査データやCTを先に見てしまうような気がするんだ」

 健太郎はそう言いながらワインを一口飲んだ。

「まあ・・・それはしょうがないんじゃない?ドクターって多かれ少なかれみんなそんなところがあるものよ。風間先生だってね」

「風間先生もか?」

「そうよ。でも風間先生は健太郎よりはずっとましだけどね・・・。でも検査データを見て、まず科学的に考えてから患者の内面を考えることがドクターの仕事だと思うわよ。ナースと一緒になる必要はないわよ」

「そうか・・・。今日の沙紀はいやに好意的じゃないか」

 健太郎は笑いながら答えた。

「それは・・・今日の健太郎が素直だからよ。自分の悪いところをすぐに反省できることが健太郎のいいところよ。あとは短気を治せばね・・・」

 二人は笑いながらワインを持って乾杯した。

 カルテ5(3/4)に続く

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2008年8月19日 (火)

風の軌跡:カルテ5(1/4)

風の軌跡ー風間俊介診療録ー:カルテ5(1/4)  

「牡丹灯篭(ぼたんどうろう)」

「亡くなった妻がお盆の夜に幽霊となって迎えに来る」 俊介と健太郎は怪談まがいの奇妙な患者の病態を解明できるのか?そして8月15日の夜・・・。

    *困った患者*

―ちょっと寒いかな・・・―

  俊介は自室の冷房スイッチを消した。8月でも午後8時を過ぎると冷房完備の病院の中は涼しいくらいだ。

―動き回っている職員はちょうどいいかもしれないが、じっと寝ている患者さんたちには少し寒いんじゃないか・・・?―

 そんなことを考えながら俊介はたまっている書類と格闘していた。俊介の机の上には、介護保険の書類や、訪問看護の書類、身体障害者の申請のための書類などが毎日山のように届けられる。開業医ならばこれらの書類は1枚いくらで収入源となるため励みにもなるのだろうが、勤務医である俊介にとっては何枚書類を書こうが1円の金にもならない。書いた分だけ病院の収入となるが、俊介には疲労だけがたまるというわけだ。

「まあ・・・この積み重ねで俺達の給料も払われるんだからな・・・」

 そうつぶやきながらもくもくとペンを走らせる俊介であった。

 管理職である俊介には原則として時間外勤務手当はつかない。その代り定額の管理職手当が毎月支給される。このような管理職の給与体系はどこの施設でも同じであるが、S市市民病院の一般医師の給与体系はかなり特色を持ったものになっている。

 一般医師には基本給に加えて時間外手当、当直手当などが支給されるが、それに加えて歩合給が支給される。これは個人の働きにより評価されるものであるが、S市市民病院で評価の対象となるのは患者数でも検査数でも手術成績でもない。「患者の満足度」である。

 その医師の診療を受けた患者がどれだけ満足感を得られたかをアンケート調査をして点数化し、その合計点数が歩合給として加算される。だからたくさん患者を診てもそれぞれの患者の満足度が低ければ給与は上がらない。

 医師は患者の満足度を上げるためにきちんとした医療を行うことはもちろん丁寧に説明をし、トラブルにもきちんと対応する必要に迫られる。だから最終的に患者を救命できなかったとしても医師がしっかりと対応し、家族が行われた医療に対して満足していればその医師の評価は高くなるということだ。

 俊介のすべての書類が完成したのは夜9時を回った頃だった。凝った肩を回しながら帰りじたくをしているといつものように高岡健太郎がやってきた。

―こいつはいつも俺が帰ろうと思うとやってくる・・・。俺の部屋に監視カメラでも置いてあるんじゃないか?―

 そんなことを考えながら俊介は健太郎をソファに座らせた。

「それで・・・今度は何だ?」

「そんな言い方をしないでくださいよ、風間先生・・・。今日はナースとのトラブルじゃなくって患者さんのことなんです」

 ちょっと不機嫌そうな顔で健太郎が答えた。

「新田三郎さんのことなんですけど・・・」

「新田三郎さん?ああ・・・確か40代後半のアルコール性肝硬変の・・・」

 俊介の返事にうなずいた健太郎が困り果てた顔で話し始めた。

「新田さんは3週間前に黄疸(おうだん)と腹水(ふくすい)がひどくて入院になったんですけど、検査の結果ウイルス性肝炎の可能性はなくて、結局アルコール性肝硬変という診断になったんです」

「ああ・・・そうだったな。何でも奥さんが亡くなってから自暴自棄になってアル中になったって自分で言ってたっけ・・・」

 俊介の言葉に健太郎はうなずいた。

「そう・・・そうなんです。入院してから肝機能は回復して腹水や黄疸も改善していたんです。それが、2-3日前からまた悪くなって・・・。おかしいなと思ってたんですよ。そしたら昨日ナースがベッドの下から酒のビンを見つけたんです」

「誰が持ってきたんだ?」

「自分で買ってきたんですよ。調子がよくなったので散歩くらいは許可していたんです。そしたら新田さん、自分で病院の前のコンビニへ行って日本酒の小さいビンを何本か買ってきたらしいんです」

「それはちょっと問題だな・・・」

「そうでしょ?ですから昨日俺、注意したんですよ。『こんなもん飲んだら何のために入院しているかわからないじゃないか』って・・・。そのときは、はいはい・・・ってわかったようなことを言ってたんですが、昨日の夜もまた酒を買ってきて飲んでたんですよ!さすがに今日は俺も堪忍袋の尾が切れてちょっと大声を出して叱ったんです」

「そしたら?」

「もう新田さん完全に開き直っちゃって・・・。『俺の金で買った酒を俺が飲んでどこが悪い!あんたに指図される筋合いなんかないだろ!』って捨てぜりふを吐いてふらふらしながら部屋から出て行っちゃいました。同室の患者さんの手前、それ以上何も言わなかったんですが・・・」

「まあ・・・アル中の患者っていうのはなかなか酒はやめられないもんだが・・・。しかし病室で飲み始める患者はそれほど多くないがな・・・。たいていはもう酒は金輪際(こんりんざい)やめましたって言いながら退院して、しばらくしてからまた酒の匂いをぷんぷんさせて入院してくるもんだ」

 健太郎は「その通り」というようにゆっくりうなずいて話を続けた。

「ちょっとひどいでしょ?まあ・・・確かに新田さんの気持ちもわからないではないんです。奥さんを4月に亡くして、子供さんもなくて他に身よりもないんです。多分寂しくなってつい酒に手を出してしまうんでしょうが・・・」

 自分の気持ちを俊介が理解してくれて、健太郎にも少し患者に同情の気持ちが出てきたようだ。

「でも俺がやめろって言っても、とても言うことを聞くようには思えません。先生、わがままな患者さんに言うことを聞かせる方法、何かご存じないですか?」

 俊介はちょっと困った顔をして考え込んだ。

「そんな便利な方法があればこっちが知りたいくらいだよ。でも、もう少し・・・うまいやり方があるような気がするがな」

「どんなやり方ですか?」

 俊介はソファに深く腰をかけなおして健太郎に聞いた。

「君は新田さんに腹を立てているわけだな?」

「そうですよ。病室で酒を飲んで開き直られたんじゃ腹も立ちますよ」

「まずそこが問題なんだよ」

「どうしてですか?医者も人間ですよ。腹だって立ちますよ」

 健太郎は俊介に食って掛かった。

「医者っていうのはな、患者を叱ってもいいが腹を立ててはいけないんだよ」

「そんな事言ったって・・・」

 健太郎は不満そうに下を向いた。

「俺が学生時代に聞いた話をしてやろう」

 俊介は凝った首と肩を少し回しながら話を始めた。

「昔、ある医局で外国の偉い教授に講演を依頼したんだ。講演が終わったあと、その外人教授が専門にしている疾患の患者を5-6人回診してもらったそうだ。医局の若い先生たちの緊張は大変なもんだった」

「そりゃあ大変ですよね・・・。外人さんの教授回診なんて初めてでしょうから・・・。いつもとは全然違う緊張感だろうな」

「最後の一人はなかなか病気がよくならず長いこと入院していた中年の男性だった。その男性はな、こともあろうかその外人の教授に食ってかかったんだ。あんたが診たって俺の病気なんか治るわけないんだってね」

「え?そんなことを・・・。それは・・・かなりヘビーな場面ですね」

「もちろん彼は日本語は理解できなかったが患者さんの態度から何を言いたいのかはよくわかった。その医局の教授もそうだが、若い医局員のあわてようといったらなかったそうだ。特にその患者の主治医はな・・・」

「同情するなー。その主治医の先生に・・・」

「その若い主治医はあわてて患者を制してなだめた。医局の教授は外人教授にひたすら頭を下げてあわてて病室の外へ連れ出そうとした。しかしな・・・その外人さんはその教授を手で制して立ち止まり、こう言ったんだ。『No problem! He is sick, we are not sick!』」「He is sick, we are not sick・・・・?」

「意味がわかるか?高岡先生・・・」

 健太郎は俊介が言った言葉の意味をゆっくりと考えた。

「・・・えっと・・・。彼は病気だが、私たちは健康だ・・・。患者さんが私に腹を立てるのは病気のせいだから・・・私は気にしていないってことですか?」

「そういうことだ・・・。俺達は医者だ。患者を治す立場にあるんだ。その俺達が患者と同じ土俵でやりあってどうする?」

 俊介はゆっくりとソファに座りなおして続けた。

「そのあと、その外人さんは悪態をついた患者のほうに歩みよって、両手で手を握って微笑みかけてから病室を後にしたそうだ」

「・・・・・・」

「言うことを聞かない患者に言うことを聞かせる方法・・・『患者に腹を立てるな』それがまずひとつだ」

「・・・はい・・・」

「あとは・・・自分で考えることだな。どうしたら新田さんが君の言うことを聞いて酒をやめてくれるか」

「そんな・・・もったいつけずに教えてくださいよ。風間先生・・・」

 健太郎はちょっと情けない声を出した。俊介は黙って健太郎のほうを見ながら微笑んだ。

「しかし、病室で酒を飲むのは他の患者さんのこともあるからちょっと困るな・・・。俺からもちょっと言ってみるよ」

「お願いしますよ・・・。先生・・・」

    *枕パス*

 翌日、健太郎は病棟で回診の準備をしていた。

「どうだい?川村師長さん、新田さんの様子は・・・」

「昨晩はお酒のビンはなかったようだけど・・・。夜勤の看護婦に聞いたらやっぱり少しお酒のにおいがしたって言っていたわね。どこかに隠し持っているんじゃないかしら・・・」

 健太郎は椅子の背にもたれかかって天井を見上げた。

「もう完全に開き直ってるな。あんな患者が言うことを聞くものか・・・。どうせ自分の身体が悪くなるだけだ。自業自得だよ」

「そんな冷たいこと言っちゃだめよ。新田さんは先生の患者さんなのよ。先生が手を離したら誰が診てあげるの?それこそ自暴自棄になって今度こそ取り返しのつかないことになってしまうわ」

 川村師長は自分の子供を諭すような口調で健太郎に言った。

「それはそうなんだけど・・・。どうしたら・・・」

「高岡先生はすぐかっとなってけんか腰になってしまうから余計患者さんも反発するのよ。ドクターなんだからもっと我慢しなきゃ・・・。風間先生なんか患者さんから何を言われてもいつも平然として『はい、すみません』って頭を下げているわよ」

「・・・昨日その風間先生に言われたよ。患者さんを叱ってもいいが腹を立てるなってね。じゃあ・・・今日はちょっと自分を押さえて話をしてみようかな・・・」

「それがいいわ。それから先生、前からお願いしていた看護実習の件なんですけど・・・」

「看護実習?ああ・・・看護学生さんに新田さんを受け持ってもらうっていうことですか?ああ・・・そうでした。でも・・・大丈夫かな。今の新田さんに学生さんの実習なんかお願いして・・・」

「ええ。私も迷ったんだけど、ああいう人とコミュニケーションをとるということもすごく勉強になることだと思うんです。さっき新田さんにはもう一度お願いしたんだけど、機嫌がよかったのか『好きにしてくれよ』って言ってたわ。それに、話をする人がいたほうが新田さんも落ち着くんじゃないかって思うんだけど・・・」

「そうか・・・そうかもしれないな。で、今日からその看護学生さんくるの?」

「はい。午後から実習に来ますので先生もよろしく教えてやってくださいな」

「わかりました。じゃあ・・・ちょっと新田さんのところへいってきますから・・・」

「冷静にね、高岡先生」

「わかってますって」

 健太郎は少し重い足取りで新田三郎の病室に向った。

―冷静に、冷静に、俺は医者なんだ―

 彼はそうつぶやきながら部屋の壁をノックした。

「おはようございます。新田さん」

「・・・あんたかい・・・・」

 新田三郎は健太郎の顔をちらっと見てつっけんどんに答えた。健太郎は少しむっとしたが、ここで腹を立てては医者として失格だと自分に言い聞かせた。頭の中で昨日聞いた『He is sick, we are not sick.』を思い出しながら、ちょっと引きつった笑顔で、できるだけゆっくりとした口調で話し始めた。

「今日は(ご気分は)いかがですか?」

「良くも悪くもねーよ」

 新田三郎は健太郎の顔を見ずにテレビを見ながら面倒くさそうに答えた。確かに少しアルコールのにおいがする。やはり飲んでいたのだ。しかしそれをあからさまに言えば怒り出すに決まっている。健太郎はできるだけ遠まわしに聞いた。

「新田さん、お酒やめてもらえましたか?」

「酒?飲んでねーよ。こんなとこで酒飲んだってまずいだけだが・・・」

 相変わらず健太郎の顔を見ずにしらばくれる新田三郎に健太郎もだんだん腹が立ってきたが、ぐっとこらえて話を続けた。

「昨日も言いましたけど、新田さんの病気はすべてお酒が悪さをしているんです。お酒をやめていたときは黄疸も腹水も肝臓の数字もよくなっていたじゃありませんか。お酒を飲むとせっかくよくなった肝臓がまた元に戻ってしまうんですよ」

「うるせーな!飲んでねーって言ってるだろうが!」

 新田三郎は健太郎の顔を見て目を吊り上げて怒鳴った。

「でも、今もかすかに酒のにおいがするじゃないですか。夜勤のナースも酒のにおいがしたって言っているんです。隠したって血液検査をすればわかることでしょう?」

「わかるんなら聞かなきゃいいだろ!患者の言うことを信用しねーで何が医者だ!」

 そう言いながら新田三郎は手元の枕を健太郎に投げつけた。健太郎は無意識にその枕を受け取った。まるでラグビーのパスを受け取るように・・・。

 健太郎はしばらくそのままじっと新田三郎を見つめていたが、あきらめたように枕をベッドの上に放り投げて病室を後にした。

―だめだ・・・あの患者は・・・。もう知るもんか・・・。俺はやるだけのことはやったんだ。あとは患者の人生だ、俺の知ったことじゃない。酒でも何でも飲んで肝不全にでも肝癌にでもなればいいじゃないか。そのときになって泣きついてきてももう知らないからな!―

 健太郎は無言でナースセンターに入ってカルテを取り出し、「禁酒を強く指示するが、患者は聞く耳持たず。枕を主治医に投げつける」などと殴り書きで記載した。

    カルテ5(2/4)に続く

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2008年8月18日 (月)

風の軌跡:カルテ4(3/3)

風の軌跡:カルテ4(3/3)

   *20年前、それはおこった・・・・*

「大丈夫ですよ。食事があまり食べられないので点滴のチューブをちょっと太い血管に入れるだけです。20分もあれば終わりますから・・・」

 一通りの手技の説明や、まれに起こりうる合併症などの説明を終えた俊介に、寝たきりの夫に付き添っている老夫人が心配そうに聞いた。

「本当に大丈夫でしょうか?首の血管に針なんか刺して・・・」

「大丈夫ですよ。風間先生は上手ですから、すぐ終わりますよ」

 そばにいた看護師が夫人をなだめるように言った。

「そうですか・・・。じゃあ・・・先生・・・よろしくお願いします」

「はい。すぐ終わりますからちょっと外で待っていてくださいね」

 卒業して4年になる風間俊介はいろいろなことができるようになり臨床(りんしょう)が面白くて仕方ないころであった。CVライン挿入もすでに200人以上に施行してほとんど失敗したことがなかった。ほかの医師がうまくいかない症例でも俊介は次々と成功させ、CVライン挿入にはかなり自信を持っていた。

「さあ、さっと終わらせようか・・・」

「はい、風間先生」

 そばについている看護師も俊介の処置を絶対的に信頼しており鼻歌交じりに準備を始めていた。

 俊介は丁寧に首の周りを消毒し、いつも通りの手順で内頚静脈穿刺をはじめた。しかしどうもうまくいかない。

「おかしいな・・・内径静脈に(針が)当たらないな。仕方ない・・・鎖骨下静脈穿刺に切り替えよう。谷山くん、念のためトロッカーも用意しておいてくれ。12フレンチくらいの細いのでいいよ」

 俊介は合併症を起こしたときのための準備を看護師に指示した。そして彼は鎖骨の下から慎重に針を刺した。俊介が注射器で吸引しながら針を進めていくと血液が吸引される代わりに空気が吸引された。

―しまった・・・肺を刺したか?―

 俊介はその瞬間そう思ってあわてて針を抜いた。

「山田さん!胸つらくないですか?」

「ああ・・・まだおわらんのか・・・」

 患者は力なく答えたが、今までと特に変わった様子もない。しばらく様子を見ていた俊介は状態が変わらないことを確認して引き続き慎重に穿刺を続けた。しばらくすると看護師が俊介に話しかけた。

「先生・・・山田さん・・・おかしいです。息をしてない・・・」

「何だって?」

 俊介はあわてて患者を覆っていた布を取り払い、患者の状態を観察した。

「山田さん!山田さん!」

 返事がない!確かに呼吸もしていない!俊介はすぐに聴診器で心音を確認した。

「心音は聞こえる。しかし呼吸停止だ!何が起こったんだ!挿管だ!」

 俊介は気管チューブを速やかに挿入し、そばにいた看護師にアンビューバックで呼吸を補助させた。

「右の呼吸音が聞こえない!気胸だ!トロッカーを入れるぞ!」

 処置は速やかだった。気管チューブ、人工呼吸器、トロッカーカテーテル、昇圧剤(しょうあつざい)、強心剤投与などが次々と施行されたが患者は2時間後には帰らぬ人となった。

「そのまま亡くなったんですか?」

「そうだ。ほとんど肺の予備能がなかったんだろう。気胸を起こしてあっという間に呼吸不全になってしまったよ。それ以来俺はCOPDの患者には鎖骨下静脈は一切穿刺しないことにしたんだ」

「・・・・」

「確かに俺は事前に合併症の説明をして家族の同意を取った。カテーテルを挿入するときも合併症を起こさないように慎重に針を進めた。万が一合併症を起こしたときのための準備も万全だった。そして合併症が起こった後も速やかに的確に処置をしたつもりだ。しかし患者は亡くなってしまった。どうやって対処したとしても避けられない事故で、医療過誤というべきものではないかもしれない。警察にも届けたが幸い俺は書類送検されなかった。しかし俺はその患者さんのことを忘れたことはない。CVラインを入れるときは必ず思い出して絶対に合併症は起こすまいと心に念じて処置を始めるんだ」

「なかなか・・・ヘビーな話しですね。じゃあ俺が今日、竹川さんの内頚静脈穿刺がうまくいかなかったときはどうしたらよかったんでしょうか?」

「ソケイ静脈(足の付け根の静脈。他の部位に比べて不潔になりやすいので通常はCVラインにあまり使用されないが、重篤(じゅうとく)な合併症の頻度は少ない)を穿刺するか、日を改めて反対側の内頚静脈を穿刺するべきだろうな。もしくは誰か他の医師に相談することだ」

「俺がCVライン穿刺が少しくらいうまくいっているからといって有頂天にならず、そういうときこそ慎重に判断しろとってことですよね。さっきの高名の木登りの話みたいに・・・」

「そのとおりだ。自信のあることほど失敗もおこりやすいんだ。そして合併症は起こしたら対処すればいいと考えるのではなく、『合併症は絶対起こしてはいけない』と考えるべきだ。ちょっと消極的すぎるかもしれないが、合併症を起こすくらいなら処置をしないほうがましだ。そしてほかの医師に応援してもらうことを躊躇(ちゅうちょ)してはいけない。それは決して恥ずかしいことではない。君はまだ若いんだから、他の先生の迷惑なんて考えるな」

「わかりました。肝(きも)に銘(めい)じておきます」

 健太郎はそう答えてコーヒーを一口すすった。

「それにしても風間先生、不幸にして合併症を起こして亡くなってしまった場合って警察に届けなくてはいけないんでしょうか?だって先生は合併症の説明をちゃんとされているし、その後の対処も完全だし・・・。そりゃあ患者さんはかわいそうだと思いますが、俺たちにはどうしようもないことってあるじゃないですか」

「医療の透明性を確保するためには医療行為が関与した死亡はできるだけ警察に届けたほうがいい。俺たちに過失があろうがなかろうがな。しかしな・・今の日本の制度には問題もたくさんあるんだ」

「問題?」

「届出をすることは俺もいいことだと思う。しかしな、届出先が警察だっていうことが問題なんだ。明らかな犯罪や重大な過失ならまだしも、警察が『行われた医療行為が正しかったかどうか』とか、『その死亡が純粋な病死なのか医療関連死なのか』なんて判断できると思うか?」

「それは無理でしょう?でもちゃんと解剖したり専門医に鑑定を依頼したりするんでしょう?」

「ああ。しかし最終的に判断するのは医療に関しては素人の検察や裁判官だろう?たとえば・・・白血病の治療をして亡くなるとこんなことがおこりうるんだ・・・」

 白血病の治療にはさまざまな抗がん剤が組み合わせて使用される。骨髄の中の白血病細胞を全滅させるために強力な治療をするわけだ。しかし白血病細胞が全滅すれば正常の細胞も全滅する。患者の白血球や血小板はほとんど0になり、輸血や抗生物質や骨髄移植などを行って正常細胞の回復を待つわけだ。

 しかし状態が悪い患者は正常細胞が回復する前に感染症や出血などで死亡する場合も多い。このような時、医師は「病気の勢いが強いために治療に耐えられなかった」すなわち「病気が治療を上回った」と判断し「白血病」を死因として死亡診断書を記載する。つまり「病死」と考えて届出をしないことになる。

 しかし司法はこれも抗がん剤による副作用死、すなわち医療関連死であると考えて届出を要求する可能性がある。つまり医師と警察の間の「病死」か「医療関連死」かの認識の違いにより医師は後から届出義務違反に問われる可能性があるということだ。

 ではこのケースを警察が捜査するとどうなるか?

 この患者は白血病の病勢が強くて全身状態が悪く、抗癌剤治療に耐えられなかったことが死亡原因である。司法解剖が行われた結果、直接の死亡原因は抗癌剤による骨髄抑制と診断される。

 そして警察は専門医に鑑定を依頼する。その鑑定医は「患者が骨髄抑制によって死亡した」という結果を知っている。そして純粋な気持ちで医学的見地からこう診断する。

「使用された薬剤の量は教科書通りで使用法にも問題はない。ただ、この患者にとってこの量が強すぎたことは事実で、私ならばもう1割程度減量して使用したかもしれない」。

 この報告を受けた警察は「主治医が使用した薬剤の量が多すぎたために患者が死亡した」と判断する。他の医師ならばもう1割薬剤を減量して使用し、骨髄抑制は起こらなかったはずで主治医の医療ミスの可能性がある。そう考えた警察は主治医を「業務上過失致死の疑い」で起訴することになる。

 そうなると検察は主治医を有罪にすることに全力を注ぐ。それが彼の仕事である。主治医が経験不足であったとか、薬剤の量を決定する時に他の専門家に相談をしなかったとか、予想された血小板減少の治療のための血小板輸血の準備が少なすぎたとか、あらゆるマイナス面を前面に出してくることになる。

 本来このような医療の専門的な判断を要するケースが刑事事件として扱われること自体がおかしいが、近年これによく似たことが実際におこっている。この主治医が裁判で業務上過失致死罪となるかどうかは別として、患者のために昼も夜も一生懸命に診療し、自分が正しいと信じた教科書通りの治療を行い、不幸にして患者が亡くなったからといって刑事訴訟で犯罪者として自分が裁かれるということは医師としては全く納得できないことだろう。

「そんなことになったら医者なんてやってられないじゃないですか!内科もそうだけど外科系の先生なんて手術やめちゃいますよね。産婦人科だって分娩やめちゃいますよ」

「きちんと最初に届出をしていれば警察もそれほど無茶なことはしないかもしれないが・・・。でも俺達が『明らかに病死だ』と思って届出をしなくても、あとから警察が『点滴1本しただけでもそれが死亡に関与している可能性もあるじゃないか』って言われたらどうしようもない」

「まさか病院で亡くなった患者さんを全員警察に届け出るわけにもいかないですよね。それに警察に届出をしたって自分がやった医療行為を正しく判断してもらえなかったらやってられないですよ」

「その通りだな。警察だって犯罪の捜査ならまだしも、医療行為の調査を押し付けられるのはたまったもんじゃないだろう。だから俺は警察の代わりに中立の医療関連死調査機関が死亡原因を調査できるようになればいいと思うんだがな。その中立の機関が解剖を行ったりカルテやレントゲンから医療情報を調査したりして、犯罪の疑いのあるケースはそこから警察に届けたらいい。そうすれば医療行為も適切に判断されるし警察の負担だって軽くなる」

「医療知識を持った専門機関が調査してくれるんならどんどん届出しますよね」

「ああ・・・。でもそれには莫大な費用と人手がかかるからな。そんな調査機関が機能するまでには5年や10年じゃ無理だろう。しかしそんなシステムを作らないと医療側と司法側は意見の食い違いからどんどん対立していくようになるかもしれない。そうなると救急とか外科とか産婦人科とか医療関連死が多いところへ行く医者はいなくなって日本の医療は崩壊していくだろう」

注)2008年度から中立の医療関連死調査機関設立を制度化する動きがある。しかし国民の信頼が得られる調査機関が設立できるかどうかが成否のカギである。病院で死亡する患者は年間80万人以上であり、そのうち医療関連死は1万人以上とみられ、その疑い例も含めれば年間10万人の調査が必要になる。これだけの調査を行うためには膨大な数の医療知識や法律知識をもった専門職員が必要で、さらにひとりの死因調査に必要な費用は少なく見積もっても100万円以上となるので人件費も含めると年間1兆円以上の費用が必要となる。日本の国民がこの機関の必要性を理解しない限り実現は困難であろう。

    *検診フィルム*

 その日の夜、風間俊介は医局で検診のレントゲンフィルムの読映(どくえい)を行っていた。

 S市市民病院では企業検診を行っているが、検診車で胸部レントゲンを撮影したフィルムは100人ぐらいの単位でロールペーパーのような形にまとめられて医師のもとに渡される。通常は二人の医師が順番に読映して異常所見者をピックアップしていく。二人で読映を行うのは見落としを防ぐためでこれをダブルチェックと呼んでいる。

 S市市民病院では胸部レントゲンの読映は俊介と呼吸器内科の津川信行が順番に行っている。今日は俊介が第一読映者として約600人の胸部レントゲンフィルムと格闘していた。夜10時をまわり、さすがに俊介も疲れを感じていたが、「あと5-6人だ」とおのれに活を入れてフィルムをにらんでいた。

「ん?・・・これは・・・おかしいな」

 俊介はふとフィルムを巻き取る手を止めた。一見異常がないように見える胸部レントゲン写真であるが、俊介は心臓の後ろが少し気になっていた。

 検診の胸部レントゲンは肺癌を見つけるために行われるのだが、正面から撮影されるので、どうしても心臓の後ろ側の部分は見えにくい欠点がある。この患者の胸部レントゲンは心臓の後ろにうっすらと見えるはずの大動脈や横隔膜の境界線が見えていない。これはその周囲に何か異常があることを示唆する所見で、シルエットサインと呼ばれている。明らかな腫瘤が映っているわけではないので見逃されやすい所見である。俊介の目はこの異常を見逃さずに捕らえた。

 「これは・・・多分LK(肺がん)だろうな」

 所見用紙に記載しながら俊介はちょっと得意顔になっていた。

「我ながらよく見つけたな。気合を入れて見なければ見逃していたかもしれない。あとから見る津川先生も褒めてくれるかな・・・。高岡先生にもこのフィルムを見せてみようか・・・」

 そんなことを考えながら俊介は残りの数枚をさっと読映し、ほとんど人通りのなくなった夜道を家路へ急いだ。

    *木から落ちた木登り*

 2日後、俊介が夕方、医局でコーヒーを飲みながら一休みしていると津川信行が声をかけた。

「風間先生。笠島通販の検診フィルムなんですが・・・・」

「ああ、600人近くあったやつね。津川先生も読映終わったのか?」

「はい。さっき終わったところですが・・・。先生、心陰影(しんいんえい)の後ろのシルエットサイン、よく見つけられましたね」

 俊介は『そらきた』と思いながら何事もないように平然と答えた。

「シルエットサイン?ああ・・・最後のほうの60歳くらいの男性のことかな?まあ・・・あれは見逃してはいかんだろう。ちょっと注意して見れば誰でも見つけられるよ」

「いいえ、そんなことないですよ。さっと見ていると見逃してしまう所見ですよ。さすが風間先生ですね」

「そんなにおだてないでくれ」

 俊介はちょっと苦笑しながら答えた。

「でも先生・・・」

 津川医師はちょっと意地悪くにやけながら続けた。

「あの3例後のLK(肺癌)を先生、見逃してますよ」

「え?」

 俊介はびっくりして本当にコーヒーカップを落としかけた。

「ほら・・・見て下さい・・・」

 津川医師は検診フィルムが置いてある机のほうへ向い、検診のフィルムロールをちょっと回して、手を止めた。そこには最後から2人目のフィルムが映し出されていた。やはり一見普通に見える。俊介はじっとフィルムをくまなく見つめていった。

「あ・・・これか・・・」

「はい。多分LKだと思うんですが・・・」

 左鎖骨の後ろに腫瘤が見える。鎖骨の後ろにあるのでちょっと見ただけではわかりにくいが、よく見ると確かに肺癌を疑わせる陰影である。本当に肺癌かどうかはわからないが、少なくとも検診では見逃してはならない所見だ。

「うーん。そのとおりだ・・・。津川先生・・・LKだろう」

「鎖骨の後ろでちょっと自信なかったんですが・・・」

「いや、津川先生。これは見逃してはいけない。どうもありがとう」

 誰でも自分の間違いを指摘されるとあまり面白くない。俊介も同様であるが、今回は正直、胸をなでおろした。もしこのまま見逃されて来年まで検診を受けなければ腫瘤はかなり大きくなっていたかもしれない。手術不可能な状態になっていたことも十分考えられる。呼吸器内科医の津川だからこそ見つけられたのだろう。

 それにしてもなぜ・・・なぜ自分はこれを見逃してしまったのだろう・・・。改めて見れば決して見つけられない所見ではない。

「高名の木登りだ・・・」

 俊介はつぶやいた。

「え?」

 津川が聞き返した。

「いや・・・なんでもないよ。本当に助かった、津川先生」

 フィルムを終わりから読映していたらこの所見は俊介もチェックしていただろう。しかし不幸なことに最後から2番目であった。さらにその2-3枚先に俊介は見逃してもおかしくない肺癌を見つけ、得意になっていた。その油断がこの所見を見逃させたのだ。

「あやまちは、やすきところに成りて必ず仕(つかまつ)る事に候・・・」

 俊介はそうつぶやきながら医局から自分の部屋に向かっていた。

       カルテ4 「高名の木登り」終わりカルテ5(1/4)に続く

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2008年8月17日 (日)

風の軌跡:カルテ4(2/3)

風の軌跡:カルテ4(2/3)

   *急変*

 午後2時。風間俊介は外来診察を終えてあわてて食事をとった後、病棟回診の準備をしていた。

「川村師長さん、まず新患のカルテを見せてください」

 俊介は朝の外来診察が始まる前に内科の新入院患者の回診を行っている。しかしこの日は俊介の外来患者の一人が早朝から熱発し、その対応に追われて朝の病棟回診をする暇がなかった。

 川村師長がカルテを準備している間に俊介がふとシャーカステンに目をやると、1枚の胸部レントゲンが目に付いた。

「これは・・・竹川さんか・・・。CVライン(中心静脈カテーテル)を入れたのか?」

「ええ。先ほど、高岡先生が・・・・」

「そうか・・・トラブルはなかったか?」

「いいえ。一回でさっと入れられましたよ。高岡先生もずいぶん上手になりましたね」

「そうか・・・それならいいんだ」

 俊介の頭をある昔の出来事がふとよぎった。

「昨晩の入院はこの患者さんだけです」

 内科病棟師長の川村文子は川端いとのカルテを俊介の前に置いた。

「川端いとさんは夜中12時頃入院になった吐血の患者さんなんですけど・・・」

「吐血?昨日の当直は長谷川先生か・・・。ちょうどよかったじゃないか。緊急内視鏡をしたんだろう?」

「はい、マロリーワイスでした。クリップで止血されてから入室されました」

「そうか。入室してからは出血はないんだな?」

俊介はカルテをめくりながら聞いた。

「出血はないんですが・・・・」

 川村師長はちょっと困惑した顔で血圧や体温がグラフになっているバイタル板(ばん)に目を移した。

「頭痛と吐き気がまだ続いているんです」

「頭痛と吐き気?」

「はい。それと・・・脈が遅いんです。40くらい・・・」

 俊介はカルテの病歴を記載してある最初のページと、身体所見を記載してある次のページを見ながらつぶやいた。

「ちょっと・・・気になるな・・・。長谷川先生には報告したのか?」

「はい。でも、出血がおさまっているなら少し経過を見るように指示されましたので、そのまま様子を見ているんですが・・・。なんとなくおかしいんです」

「川村師長得意の勘というやつか?」

 俊介は微笑みながら聞いた。

 川村文子は今年50歳になるベテランの師長だ。現在は内科病棟の師長をしているが、外科や手術室などいろいろな部署を経験し、院内でも最も経験の豊かな師長の一人である。その川村文子がおかしいと感じることはやはり尋常ではないのだろう。俊介も話を聞きながらそう感じていた。

「勘というわけじゃないんですが・・・。なんとなく、出血がおさまっているから安心というような病態ではないような気がして・・・」

「確かにそのとおりだな。長谷川先生は?今日は当直明けでもう帰ったかな?」

「いいえ。今日は夕方まで院内にいるとおっしゃってました。川端さんになにかあったら呼んでくれとのことでした」

「そうか。じゃあ、ここへ呼んでくれ。患者さんを診る前にちょっと確かめたいことがある」

   *思わぬ誤診*

 まもなく長谷川聡が大きな体を揺さぶりながらやってきた。

「長谷川先生、わざわざすまない。当直ご苦労様」

「風間先生。なんでしょう?何か問題が?」

「いや、昨日君が緊急内視鏡で処置した川端さんなんだが・・・・」

「はい、マロリーワイスでした。出血はクリップでうまく止めてこれたと思うのですが・・・。まだ吐き気があってちょっと気になっていたんです」

「その吐き気だが、最初から血を吐いたのか?」

 俊介がカルテを見ながら聞いた。

「いえ・・・最初は食べ物を吐いていたらしいんですが、途中から血液を吐くようになって、救急車で転送されたんです」

「そうか。頭痛は最初からあったのか?」

「いいえ。最初はそんな訴えはなかったです。というか・・・内視鏡をする前は少しあわてていて・・・あまり詳しい問診はしていないんです。病棟へ上がってから朝方に頭痛の報告を聞いたんですが、多分内視鏡のときに使った麻酔薬の影響じゃないかと思うんですが・・・」

「それにしては少し持続時間が長すぎるな・・・。今でも頭痛は続いているらしい」

「そうですね。もう半日以上になりますから・・・ちょっと長いですね」

 長谷川は力なく答えた。

「それと・・・徐脈があるようだが・・・」

「はい。前医からジギタリスが投与されていたようです。朝、循環器の河野先生にも心電図を見ていただいたんですが、多分その副作用で徐脈になっているんじゃないかとのことでした。もし進行するようなら一時的に体外ペースメーカーを挿入しなくてはいけないかもしれない、と言われたんですが、大体40くらいで落ち着いているようなので様子を見ているんです」

 徐脈が高度になると心臓が血液を送る力が不十分になって意識消失やめまいなどのいわゆる脳虚血発作を起こすことがある。ペースメーカーとはそれを予防するために心臓に細いカテーテルを入れて電気刺激する装置だ。直接胸を開くわけではなく、血管を通してカテーテルを挿入するので、ちょっとした循環器の経験がある医師ならば困難な手技ではない。

「そうか・・・。ところで・・・瞳孔は診たか?」

「え?」

 長谷川はちょっとびっくりして俊介の顔を見た。

 その時、病棟を巡回していた看護師の高橋さやかが飛び込んできた。

「先生!川端さんが!」

「どうした!」

 長谷川が立ち上がって聞いた。

「呼んでも答えないんです!血圧90です!呼吸も不安定で時々止まっています!」

「何だって?マーゲンチューブ(鼻から胃に挿入されたチューブ)からの出血は?」

 長谷川があわてて聞いた。

「出血はありません!」

「風間先生!徐脈による意識障害でしょうか?すぐ河野先生を呼んでペースメーカーを・・・」

 あわてて電話をかけようとする長谷川を制するように俊介が立ち上がり、高橋さやかに指示した。

「救急処置カートをすぐに病室に運んで!それから気管内挿管の準備だ!」

 俊介と長谷川が病室に到着すると川端いとはぐったりと仰向けになっていた。ベッドサイドでは患者さんの娘さんかお嫁さんであろう中年の女性が不安そうに見つめている。俊介はまずその女性に落ち着いた声で話しかけた。

「患者さんは突然血圧が下がり、呼吸も不安定になっています。原因はまだわかりませんが、今から緊急の処置をして検査を行います。すみませんがしばらくお部屋の外でお待ちください。それから検査が終わったら説明しますので、他の家族の方も呼んでいただけますか?」

 女性はおどおどした様子で、小さく「はい」と返事をすると部屋から出てあわてて携帯電話をとりだした。

 俊介は手際よく気管内挿管を行い患者の気管にチューブを挿入した。そして何がおこったかよくわからず、おろおろしている長谷川にアンビューバックをわたして呼吸を補助させた。俊介は患者の瞳孔や胸部の診察などを行いながら、そばにいた高橋さやかに指示した。

「高橋君。まずアトロピンを1アンプル静注(じょうちゅう:静脈内に注射すること)。そのあとグリセオールを全開で点滴してくれ。それから頭のCTだ。師長さん・・・高岡先生にも来てもらってくれ」

    *おもわぬ病気*

 患者は長谷川が呼吸補助をしながらCT室に運ばれた。

「高岡先生。CTをとっている間、長谷川先生のかわりにアンビューを頼む」

「わかりました」

 まだ状況がよく飲み込めていない高岡健太郎は風間俊介の指示されるままにエックス線被爆防止のプロテクターをつけた。プロテクターは鉛でできたエプロンのようなもので放射線を使用する検査を行うときはこれを装着するきまりになっている。健太郎は長谷川からアンビューバックを受け取り、患者の呼吸補助を始めた。

「長谷川先生はこっちへ来て一緒にモニターを見よう」

 操作室では検査技師がCTの操作を行い、すぐCTスキャンが開始された。

「・・・・風間先生・・・これは・・・・」

「やはりな・・・小脳梗塞だ。この患者さんが最初に嘔吐したのは小脳梗塞を発症したからだ。マロリーワイスは嘔吐したことによって食道の壁が避けたためにおこったものだ。頭痛や吐き気が持続していたのは小脳梗塞のためだよ」

 小脳は運動のバランスをとる働きをしている。小脳が障害されるとめまいやふらつきがおこり、それに伴って嘔吐が起こることがある。

「じゃあ、脈が遅くなったり、呼吸がおかしくなったのは・・・脳圧が亢進して・・・」

「そのとおりだ。瞳孔の大きさに左右差がある。おそらく脳ヘルニアを起こしかけているのだろう」

 脳梗塞を発症すると脳の組織がだんだんはれてくる。これを脳浮腫というが、ひどくなると脳の組織が頭蓋骨の中に納まりきらず、頭蓋骨の穴からはみ出してしまうことがある。これを脳ヘルニアというが、脈が遅くなったり、呼吸が停止したりする危険な状態である。川端いとは今まさにこの状態になっているのだ。

「脳外科の佐伯先生を大至急呼んでくれ」

 俊介はそばにいた川村師長に指示した。

    *難しい診断*

「風間先生、おっしゃるとおり小脳梗塞で間違いありませんね。多分心臓から血栓がとんで脳の血管につまった脳塞栓症(のうそくせんしょう)でしょう」

 佐伯雄一郎はCT室で川端いとを診察しながら答えた。脳梗塞には脳血栓症と脳塞栓症がある。脳を栄養する血管そのものに血栓ができて血管を閉塞するのが脳血栓症で、心臓や他の血管にできた血栓が飛んできて脳の血管を閉塞するのが脳塞栓症である。

「予後(よご)はどうですか?」

「今はグリセオールで脳圧が少し改善してきているのか状態は安定しているようです。このままなんとかいけると思いますが・・・。塞栓症の再発予防に今後ヘパリンなどを少々使わなくてはならないかもしれませんが、消化管の出血は大丈夫でしょうか?」

 佐伯医師はチラッと長谷川を見て聞いた。

 ヘパリンは血栓という血の塊ができることを予防する薬剤である。脳梗塞の急性期に使用されることがあるが、血栓を予防する薬を使うということは出血の副作用があるということだ。消化管出血をおこす可能性があれば使用することはできない。

「出血は・・・大丈夫です。裂けたところにはクリップをしっかりとかけてきました。嘔吐がひどくなければ再出血はないと思います」

 長谷川は、先ほどまでひどく落ち込み、声も出せない状態であったが、自分が少しでもよいことをしたのだと自分を納得させ、少々落ち着きを取り戻した。

「そうですか。じゃあ、風間先生、患者さんは脳外科の病棟に転棟させてよろしいですか?」

「すみません。お手数かけますが、よろしくお願いします。長谷川先生、家族の人にはまず君から話をするんだ。病気を見逃していたことを謝らなくてはならないな」

「・・・わかりました・・・」

 長谷川はうなだれて答えた。自分のミスを患者に話すことほど気が重く、勇気のいることはないだろう。しかし自分がミスをした以上、それは避けることはできない。

「そのあとで佐伯先生、フォローよろしくお願いします」

「まかせてください。長谷川先生、小脳梗塞の診断は我々でも難しいんだ。そんなに気に病むことはないさ。それに君はしっかりと患者さんの出血を治療しているじゃないか。もし君が内視鏡で止血できなかったら今頃はもっと悪い状態になっているんだから」

 佐伯に励まされた長谷川は家族の待つ病棟に重い足どりで向かった。

    *高名(こうみょう)の木登り*

 その日の夕方、俊介が午後の外来を終えて医局でぐったりしていると高岡健太郎が入ってきた。

「風間先生、恐ろしいですね、小脳梗塞って・・・。麻痺がなくってただ吐いているだけなら誰だって胃腸の病気と思ってしまいますよね。ましてや吐血していたら・・・」

「ああ・・・。確かに小脳梗塞は見逃されやすい病気の一つだな。でも長谷川先生だって小脳梗塞を診たことがない訳じゃない。心房細動があれば脳梗塞を起こしやすいことも知っているし、小脳梗塞で頭痛があったり脳圧亢進が起これば徐脈になったりすることもよく知っている」

「じゃあなぜ診断が遅れてしまったんでしょう?」

「それはな・・・彼が消化器の専門医で患者が吐血して来院したからだ」

「消化器専門医だから見逃したんですか?それなら循環器専門医だって、腎臓専門医だってみんな同じ条件じゃないですか?」

「吐血や下血(げけつ)は長谷川先生が最も得意とする疾患だろう?その患者がやってきて緊急内視鏡で治療が成功した。それでほかの病気が見えなくなってしまったんだ。入院してから頭痛や吐き気の持続や徐脈などがあって、彼も少々おかしいとは思っていたんだろうが、自分の得意な処置がうまくいったことで深く考えなくなってしまったんだ」

「なるほど・・・あんまりうまくいったので有頂天になってしまったということですか」

「そうだ。高岡先生は高名の木登りという話を知っているか?」

「・・・・こうみょうのきのぼり・・・ですか?」

 健太郎はけげんそうな顔で聞き返した。

「俺が学生時代の古典の教科書に出てきた話だ。吉田兼好の徒然草(つれづれぐさ)の一節なんだが・・・」

「聞いたような気もしますが・・・」

 健太郎は首をかしげた。

「高名の木登りというのは木登りの名人という意味でな、その木登りの名人が弟子に木登りを教えている時のことだ。頂上まで上った弟子が降りてきてもうすぐ地上だという時になって、名人は『気をつけて降りなさい』と言ったんだ。弟子は不思議に思って、『ここからなら飛び降りてでも降りられます。どうして今になって気をつけろとおっしゃるんですか?』と聞いたんだ」

「確かに落ちる危険がなくなってから・・・気をつけろっていうのはおかしいですよね」

「すると彼はこう言ったんだ。『あやまちは、やすきところに成りて必ず仕(つかまつ)る事に候(そうろう)』ってな」

「な・・・なんですか?」

 健太郎はまた、けげんそうな顔で聞き返した。

「あやまちは簡単なところでこそ起こるものだ。もう大丈夫と思ったときこそ気を引き締めることが大切だってことだ」

「なるほど・・・。うまくいって気を緩めるときに間違いが起こりやすいということですね。長谷川先生も吐血処置がうまくいって気が緩んで小脳梗塞を見逃してしまったということですか・・・」

「そのとおりだ。そして同じことは誰にでもおこりうる。君にも、もちろん俺にだっておこる。だからうまくいっているときほど気をつけないと、とんでもないしっぺがえしを食らうことになる」

「調子がよくてもあまり有頂天になっちゃいけないってことですよね」

 健太郎はちょっと神妙な顔になって答えた。

「ところで高岡先生・・・」

 俊介はソファの背もたれから身体を少し起こしてゆっくりと言った。

「はい?」

 健太郎はコーヒーを手に持ったまま俊介のほうを向いた。

「竹川さんにCVライン(中心静脈カテーテル)を入れたそうじゃないか」

「え?はい。それがなにか・・・」

 俊介もコーヒーをカップに注ぎながら話を続けた。

「竹川さんはCOPD(慢性閉塞性肺疾患)だったな。カテーテルは鎖骨下(さこつか)静脈から入っていたようだが・・・」

「あー。そのことですか・・・。COPDの患者さんの鎖骨下静脈を穿刺したときに気胸(ききょう)の合併症が起こりやすいのは俺も知っています。そう思って最初は内頚静脈から挿入しようと思ったんですがうまく入らなくて・・・。仕方なく鎖骨下静脈を穿刺(せんし)したんです。でも一回で成功しました。最近俺、CVは調子いいんです」

 気胸とは肺に穴が開いて空気がもれる病気である。鎖骨下静脈からCVカテーテルを挿入するときは肺を穿刺して気胸を起こす可能性がある。特に慢性閉塞性肺疾患の患者では肺が膨張しており、気胸が合併しやすいのだ。

「もし気胸を起こしたら・・・とは考えなかったのか?」

「それは少しは考えましたけど・・・。万が一気胸を起こしたらトロッカーを挿入すればいいじゃありませんか?俺は最近、津川先生に教えてもらってトロッカーも入れられるようになったんですよ」

 健太郎はちょっと得意げに答えた。

 トロッカーとは気胸が起こったときに肺の外側にたまった空気を抜くためのカテーテルである。気胸の合併症に対しては一時的にはほとんどトロッカーカテーテルにより対処できる。

「気胸が起こったらトロッカーを入れればいいか・・・。高岡先生・・・俺は以前、CVライン穿刺の気胸で一人患者を死なせているんだ」

「え?風間先生がですか?」

健太郎はびっくりしてコーヒーカップを落としそうになった。

「もう今から20年近く前のことだ・・・」

俊介は天井を見つめながらゆっくり話を始めた。

  カルテ4(3/3)に続く

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2008年8月16日 (土)

風の軌跡:カルテ4(1/3)

風の軌跡ー風間俊介診療録ー:カルテ4(1/3)

 「高名(こうみょう)の木登り」

 緊急内視鏡検査により吐血(とけつ)患者の治療に成功した消化器内科医、長谷川聡。しかしそこには思わぬ落とし穴が潜んでいた。

    *吐血*

 長谷川聡が医局のソファーに横になってテレビのニュース番組を見ていると突然PHSが鳴った。

“急患入ります。80歳女性の吐血です”

「はーい、すぐ行きます」

―吐血か・・・・―

 長谷川聡は今年34歳になる消化器内科医である。今日の当直はほとんど外来患者がなく暇をもてあましていたが、夜11時になってやっと腕を発揮する患者が来たようだ。

 消化器を専攻する彼にとって内視鏡は最も得意とする手技で、特に吐血や下血(げけつ)などに対する緊急内視鏡検査は彼が実力を発揮できる場面である。しかも今日の当直看護師は内視鏡室勤務の緒方由香里である。彼は少々太り気味の身体を揺さぶりながら意気揚々と救急室に向かった。

「かなり吐いたのか?」

 救急室で受け入れ準備をする緒方由香里に聞きながら長谷川はゴム手袋を着用した。

「救急隊はそれほど多くないと言ってました。最初は食べたものを吐いていたらしいんですが、つい先ほどコップ1杯くらいの赤黒い血のようなものを吐いて救急隊に連絡したようです。意識は清明(せいめい)で、血圧も120くらいあるそうです」

 点滴の準備をしながら答える緒方由香里もどことなく余裕があるように見える。やはり自分が得意とする内視鏡検査が必要になるかもしれない患者が来るからだろう。

「血圧が安定しているなら、そのまま緊急内視鏡ができそうだな」

「そうですね」

 微笑みながら緒方由香里が答えた。

 1分もしないうちに救急車が到着した。

「患者さんは川端いとさん、80歳女性です。夜9時ころ、突然吐き気がして2-3回食物残渣(しょくもつざんさ)を吐かれたようですが、10時半頃どす黒い血液をコップ1杯くらい吐いて救急隊に連絡されました。救急車内でもコップ1杯くらいの血液を嘔吐されています。意識は清明、血圧は最終で124の60です。もともと不整脈で近くのお医者さんから投薬されています。これが投薬内容を書いた用紙です」

「ごくろうさまです」

 今内服している薬剤がわかることはこれからの診療を進めていく上で極めて有用なことである。今日の救急隊はなかなか優秀な隊員のようだ。

「ジゴシンにニトロール・・・それから・・・アスピリンか。じゃあ、胃潰瘍の可能性があるな」

 アスピリンは「血小板」という血液を凝固させる物質の働きを抑える薬剤である。心筋梗塞や脳梗塞などの予防目的によく使用されるが、まれに胃潰瘍の原因となることがある。吐血の原因は胃癌や食道静脈瘤破裂などいろいろあるが、アスピリンを内服中の患者が吐血したということはまず出血性胃潰瘍の可能性が高い。

 患者はすでに救急室のストレッチャーに移され、若い当直看護師が点滴のための注射針を左手に刺そうとしていた。

「あー点滴は右手ね。内視鏡する時は左を下にして横向きになるから点滴が落ちないわよ」

 緒方由香里の指示に若い看護師はあわてて反対側へ移り、点滴の針を刺した。

「点滴が入ったらレントゲンと心電図をとってから内視鏡室へ運ぼう。血液検査は入院時一式検査に加えて血液型も調べてくれ。緒方さん、内視鏡の準備よろしく」

「わかりました」

 内視鏡室主任の緒方由香里は37歳になる。結婚して5年になるがまだ子供はいない。ちょっと小太りで一見動きが鈍そうにも見えるが、仕事はてきぱきとスムーズにこなす。特に内視鏡の扱いに関しては院内で右に出るものはいない。緊急内視鏡の準備も彼女なら5分とかからないはずだ。

「川端さん、わかりますか?今からレントゲンを撮って、そのあとで胃カメラをしますからね。出血しているところを見つけて血を止めてきますから安心してください」

 長谷川がこう話しかけるや否や患者は苦しそうな表情をした。

「膿盆をくれ!」

 長谷川が叫んだ。看護師が金属の皿を患者の横に置くとほとんど同時に患者は黒いものを嘔吐した。

「点滴の中にアドナとトランサミンを入れてくれ!」

 長谷川は窒息を防ぐために患者の頭を横に向け、止血剤の指示を出した。そしてそのままストレッチャーを押して患者をレントゲン室に運んだ。

    *緊急内視鏡*

 レントゲンを撮っている間に長谷川から家族に内視鏡検査の説明がなされた。50代と思われる長男は高齢の患者に内視鏡検査が無事にできるのかどうか心配していたが、消化器内科医である長谷川の説明に納得し、少し安心したようだ。

 カルテを記載していた長谷川はシャーカステンにかけられたレントゲンフィルムをじっと見つめた。

「少し心臓が大きいな。腹部レントゲンは・・・異常なさそうだな。貧血はあるか?」

「ヘモグロビン11.2です。」

 女性のヘモグロビン値は12-14g/dl程度だ。11.2という数字はやや少なめだが高齢者ならこんなものだろう。血圧も低くない。それほど大量の出血はしていないということだ。

「貧血はたいしたことないな。でも高齢だから輸血の準備もしておこう。血液型がわかったらMAP(マップ)4単位交差しておくように検査室に連絡しておいてくれ」

  MAPとは輸血用赤血球濃縮製剤の略称である。献血200mlから作成される量が1単位なので4単位ということは800mlの献血血液から作成される量だ。輸血を行うときは血液型が同じ血液を使用することは当然であるが、さらに交差試験と言って実際に患者の血液と輸血用の血液を混合して異常な反応が起こらないかどうかを確認する。これを交差試験またはクロスマッチと言う。

「わかりました」

「さあ、心電図が終わったら内視鏡だ」

 出来上がった心電図を見ながら長谷川はじっと考え込んだ。

「不整脈があるな・・・心房細動(しんぼうさいどう)だな。多分以前からこの不整脈の治療を受けていたんだろう・・・」

 心電計の自動解析で「心房細動」という診断が出ている。消化器が専門の長谷川は心電図に関してはあまり得意ではない。しかし心房細動ならばとりあえずは緊急を要する所見ではなさそうだ。

「さあ、内視鏡室に運ぼう。緒方さんがしびれを切らして待っているぞ」

 胃カメラなどの上部消化管内視鏡を行うときは咽頭麻酔をしてから行う。麻酔をしないでファイバーを挿入すると「おえっ!」という嘔吐反射が起こり、非常に苦しい。ゼリー状の麻酔薬をのどに5分くらい含ませて嘔吐反射を抑制してから行う。しかし緊急の場合は患者の状態が悪く、それを行う余裕がない。その代わり麻酔薬が静脈内に注射され、患者は眠った状態で検査が行われることが多い。

「川端さん、今から麻酔を注射しますからね。少し眠くなりますよ」

 緒方由香里が手馴れた手つきで点滴のラインから麻酔薬を混入した。長谷川は患者の呼吸状態を確認しながら内視鏡を手に取り、ゆっくりと患者の口に挿入した。患者は一瞬嘔吐するようなしぐさを見せたが内視鏡はスムーズに挿入された。

「赤いな・・・」

 食道を観察しながら長谷川はつぶやいた。モニター画面には赤い色の血液が噴き出すようにあふれている。長谷川は血液を吸引しながら内視鏡を胃の中まで進めた。胃の中には黒い血液が充満している。

 血液は出血した直後は赤い色をしているが、胃液と混合すると黒い色となる。出血源が胃の中にある場合、吐血すると黒っぽいものを吐くことが多いのはこのためである。

 長谷川は内視鏡の先端から水を注入し、胃の中の血液を洗いながら細かく観察していった。

「胃の中は出血源なしだ。やはり食道だな」

 胃の中で内視鏡をぐるりと180度反転させて胃の入り口を観察しながら長谷川聡はつぶやいた。赤い血液が食道から胃の中にぽたりぽたりと落ちている。長谷川は内視鏡を食道まで引き抜いて水を注入して血液を洗いながら丁寧に観察していった。

「ここだ!」

 長谷川が叫んだ。

「ほら。ここから血液が噴出しているだろう?」

「本当、ECジャンクションですね?」

「そのとおりだ。マロリーワイスだな」

 マロリーワイスとは胃と食道の接合部(ECジャンクション)が裂けて出血する疾患である。嘔吐などの機械的刺激によって粘膜が裂けて出血するのだ。

「止血クリップを準備して」

「もう準備してあります」

 緒方由香里は得意顔で長谷川に止血クリップが装着されたカテーテルを手渡した。内視鏡で出血を止める時には止血クリップという道具がよく使用される。金属でできた大きさ7-8mmの小さなクリップで出血している血管をつまんで止血するのだ。止血クリップは長いカテーテルに装着され、内視鏡の鉗子孔(かんしこう)から挿入できるようになっている。緒方由香里は止血クリップが使われることを最初から予想して準備していたのだ。

「さすが、早いな・・・」

 長谷川は出血の部位を見失わないように慎重に観察しながら止血クリップを内視鏡の鉗子孔から挿入し出血部に近づけた。

「よし。クリップを開いてくれ」

「はい」

 緒方由香里が手元のカテーテルを操作すると、胃の中で止血クリップが足を開くように広がった。長谷川は開かれた止血クリップを出血部に押し付けた。

「閉じて!」

「はい!」

 バチッという音と共に小さな止血クリップが食道の粘膜をつかんだ。

「どうだ・・・とまったな?」

「はい、とまりましたね・・・」

 先ほどまで真っ赤に染まっていた食道の内部は詳細に観察できるようになり、正面には止血クリップが粘膜をつかんでゆれていた。これで止血は完了だ。

 止血クリップで出血を止めるときは出血している血管に正確にクリップをあてがう必要がある。血液がほとばしっているときは内視鏡画面の観察もしにくく、一回でうまく止血できることはそれほど多くない。たいていは2-3回、時には5-6回以上も同じ操作を繰り返す必要がある。出血部位の周辺にハリネズミのように止血クリップが立ち並ぶこともまれではないのだ。

 今日の長谷川の内視鏡操作はまるで狩をするヒョウのように一発で獲物をしとめたというわけだ。

「よし。終了!」

 長谷川は他に出血部位がないかゆっくり観察しながら内視鏡を引き抜いた。

「川端さん!終わりましたよ!出血止まりました。もう大丈夫ですよ」

 そう言いながら長谷川は患者の顔を覗き込んだ。川端いとは麻酔のため意識はもうろうとしているが、声は聞こえるらしく、むせながらも軽くうなずいている。

 内視鏡室を出た長谷川は家族に、食道と胃の間から出血していたこと、内視鏡により止血処置が成功し、現在は止血されていること、明日まで軽い麻酔がかかった状態で経過観察することなどを説明した。患者が消化器内科医により適切に処置されたことを家族が喜んだのは言うまでもない。

「でも先生。うちのばあちゃん、どうしてあんなに吐いたんでしょうか?」

「え?それは・・・多分なにか食べたものが悪かったんじゃないでしょうか・・・」

 長谷川は患者が退室した後の内視鏡室で所見をコンピューターに入力していた。その横では緒方由香里が内視鏡の後片付けをしていた。

「長谷川先生、今日の患者さんは運がよかったですよね」

「ああ・・・そうだよな。俺と緒方さんの当直の日に吐血したんだからな。こんな確率はめったにないぞ」

 二人は笑いながらそれぞれの仕事を進めていった。すべての仕事が終了したのは午前1時をまわっていたが長谷川は疲れを感じなかった。むしろ自分が一人の患者を救えたことに心地よい満足感を感じていた。しばらく当直室のベッドで横になり午前2時ころまではなかなか眠れず今日のことを思い出したりしていたが、知らないうちに深い眠りに落ちていた。

   *徐脈*

 長谷川は当直室の電話の呼び出し音で目を覚ました。

「・・・はい・・・・」

“すみません、先生。川端さんなんですが・・・。あれから吐血はないんですけど、吐き気がおさまらないんです。動くと気持ち悪いとおっしゃって・・・。それからずっと頭痛があるんですが・・・”

 病棟の看護師からだ。長谷川が時計を見ると午前5時をちょっとまわっている。

「吐き気がするのは多分何か悪いものを食べたからだろう。頭が痛いのはまだ静脈麻酔の影響が残っているからだろうな。じゃあ・・・プリンペランを今の点滴の中に追加しておいてよ。それから頭痛はしばらく様子みてくれ。だんだんおさまってくると思うから・・・」

“わかりました。プリンペランを追加ですね。それから・・・脈が不整で、ちょっと徐脈なんです。40から50くらいなんです”

「ああ・・・不整脈はもとからあったから心配ないよ。脈が遅いのは多分、前の病院でジギタリスを投与されていたからじゃないかな?そのまま様子見ていいよ」

“わかりました。ありがとうございます”

  ジギタリスは心房細動のときによく使用される薬剤で脈を遅くする作用がある。受話器を置いた長谷川はちょっと気になったが、新たな吐血がないことに安心して再び眠りについた。今日はあまり外来患者が来ないことに感謝しながら・・・。

「・・・朝になったら一度循環器の河野先生に心電図を診てもらおう・・・」

    カルテ4(2/3)続く

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2008年8月15日 (金)

風の軌跡:カルテ3(3/3)

風の軌跡:カルテ3(3/3)

   *乳児心肺停止*

 救急室のドアを開け、一歩足を踏み入れた俊介は一瞬しり込みした。救急ベッドの上には小さな乳児がオムツだけの状態で寝かされ、若いナースが小さなアンビューバックで必死に人工呼吸を行い、真田由紀子が心電図モニターをつけようとしていた。

 入り口のそばには多分父親と母親であろう、30代前半くらいの男女が手を握り合いながら祈るような目で見つめている。俊介はすぐにベッドに駆け寄り、すでにあらわになっていた乳児の胸に触った。

―冷たい―

 明らかに体温は35度を下回っている。俊介が手を離すと同時に心電図モニターの装着が完了した。波形は何も出てこない。完全に心停止だ。俊介は直ちに心マッサージを始めた。

 大人の場合と違い、乳児の心マッサージは指で行う。俊介は右手の中指と人差し指で乳児の胸を1秒に2回くらいの速さで押し続けながら真田由紀子に聞いた。

「状況は?」

「川崎勇太くん6ヶ月です!布団で寝ていたんですが、お父さんが見つけたときには息をしていなかったらしいです」

 真田由紀子は点滴の準備をしながら早口で答えた。俊介は心マッサージをしながら顔だけを父親と思われる男性に向けて聞きなおした。

「お父さん。見つかったときの状況を詳しく教えてください」

「はい!あの・・・8時ころに家内が寝かせたんです。そのあと・・・うちは喫茶店をやってるもんで、二人で店にいたんです。でも泣けばすぐに聞こえるくらいのところなんです。10時ころに一段落ついたんで見に行ったら・・・顔を布団にうずめて、動かないんです。あわてて抱き上げたら顔が真っ青で、息をしていなくて・・・。そのままあわてて抱きかかえてきたんです!」

「すると8時から10時の間は誰もこの子を見ていないわけですね?」

「はい・・・」

「寝かしたときはうつむせでしたか?」

「はい・・・。この子はいつもうつむせにしないと寝ないんです。でもちゃんと顔は横にしておいたんです・・・」

 母親は動揺が激しく、ほとんど立っていられない状態だ。それを父親がささえている。

「残念ながら、今この子は心臓も呼吸も止まっています!しかし小さい子は大人より生命力が強いはずです。今から蘇生処置をやってみます!またお呼びしますから、しばらく表の待合室でお待ちください!」

 俊介は真田由紀子に両親を誘導させた。

―まず気道と血管を確保しなくては・・・―

「挿管(そうかん)準備してくれ!太さは3.0だ!真田君、マッサージ頼む!」

―こんな小さい子に入るだろうか?―

 俊介は不安な気持ちで喉頭鏡(こうとうきょう)を手にとって乳児の頭のほうに回った。そして喉頭鏡を口の中に挿入し、のどの奥を見つめた。

―見えた!ここだ!―

 俊介はすばやく細い乳児用の気管チューブを声帯の奥に挿入し、そばに置いてあった小さなアンビューバックをつないだ。

「アンビューたのむ!」

 俊介は隣にいた看護師にそう言いながらアンビューを渡した。そしてレスピレーターの設定を行い、気管チューブに接続した。

「次は血管確保だ!20ゲージのサフロー針(しん)をくれ!」

―手足の血管は無理だな・・・―

  血管確保とは針を静脈に刺して点滴をつなぐことだ。そこからあらゆる薬剤が投与されることになる。俊介は大人の血管確保にはかなり自信があった。しかしこのような乳児の心肺停止状態での血管確保はほとんど初めての経験だ。

 手足の細い血管に針を刺すことはとてもこの状態ではできそうにない。俊介は一番太い足の付け根にあるソケイ静脈を穿刺(せんし)することにした。俊介は乳児の右足の付け根に針を刺し血液が逆流するのを祈った。

―来た!―

 血液が逆流した。俊介はゆっくりと針を血管内にすすめた。

「よし!点滴つないでくれ!」

 ぽたぽたと落ちる点滴を見て俊介はほっとした。

―よし。はいったか・・・奇跡的だな・・・―

  俊介ほっとして真田由紀子に代わって心マッサージを再開した。

―これで少しは時間が稼げる・・・―

「小児科の三崎先生を呼んでくれ!」

「だめです!三崎先生、今日の夕方から40度の熱を出されて、御自宅で休んでおられます」

 真田由紀子がすぐに答えた。

「なんだって?じゃあ岡部先生は?」

「学会途中で予定を切り上げて急遽こちらに向っておられますが、お帰りになるのは今日の夜中です!」

―なんてことだ・・・―

 隣のF市には小児科医がいるだろうが、ここから救急車でも30分はかかる。この状態で転送することなどできるはずがない。

―これは俺が診るしかないな―

 俊介は覚悟を決めた。医者になって20年以上になるが、乳児の心肺停止を自分ひとりで診るのは初めてだ。研修医時代には救急部の研修で2-3人の小児の心肺停止を経験したことはあるが、その時はそばに指導医がいてくれた。ふと俊介は高岡健太郎のことを思い出した。

―1週間前はあいつもこんな気持ちだったんだろうな―

  しかし発症から発見までどのくらいの時間がたっているのだろう?すでに体温が低下していることから考えると30分以上は経過しているに違いない。

―大人ならばすでに死亡判定だな―

 そう思いながら俊介は懸命に心マッサージを続けた。

「真田君、ボスミン4分の1アンプル静注(じょうちゅう:静脈内に注射すること)してくれ!」

 乳児の薬物投与容量を体重から計算している暇などない。俊介は大まかな量で指示を出した。心臓はすでに停止している。少しくらい投与量が増えても副作用など心配する必要はないだろう。

「それが終わったらメイロンを5mlゆっくり静注(じょうちゅう)してくれ」

 俊介は大人の心肺停止のときと同様の薬剤の投与を指示していった。

    *強い子*

 蘇生処置を始めてすでに30分が過ぎた。薬剤は数回繰り返して投与されているが心電図モニターの波形は全く変化がない。心室細動ならば電気的除細動を試みる価値があるが、この子は完全な心停止だ。除細動をしても改善する見込みは全くない。

―これはだめだな・・・―

  この子は助からない。すでにそう確信した俊介であったが、どこで死亡判定をするかが問題だ。まず今の状況を家族に説明し、その反応を見て蘇生処置の継続を考慮する必要がある。突然にして奈落の底に落とされた親に対して、子供がもう助からないからといって「ご臨終です」の一言では済まされない。

「ちょっと代わってくれ」

 そばにいた若い看護師に心マッサージを続けるよう指示し、俊介はドアを開けて家族の前に立った。首をうなだれていた父親は俊介を見て立ち上がった。母親は座ったまま祈るような目で俊介を見つめている。

「川崎さん。勇太君は来院した時はすでに心肺停止状態でした。30分間心マッサージ、人工呼吸、強心剤投与などを行いましたが、現在のところ全く反応がありません。心臓がぴくりとも動かないのです」

「先生!だめなんですか?勇太は助からないんですか?」

 小柄な父親は俊介にしがみつき、祈るような目で見上げている。

「かなり厳しい状況です。でも、このような小さいお子さんは信じられないような生命力を見せることがあります。もうしばらく頑張ってみます。でも・・・最悪の場合の覚悟は・・・しておいてください」

「お願いします!お願いします!家内は今までに2回も死産しているんです。あいつは・・・勇太は・・・結婚して10年してやっと生まれた子供なんです。生まれたときは8ヶ月の早産だったんです。でも、でも今まで頑張ってきました!お願いします!」

 その直後であった。隣にいた母親がゆっくりした口調で話し始めた。

「先生。勇太は・・・勇太は・・・本当に強い子なんです。こんなことで・・・死ぬはずなんてありません。きっと、助かりますよ。大丈夫です・・・」

 母親は座って俊介を見上げながら、少し笑顔を浮かべて静かに俊介に語りかけるように話していた。

―この母親はすでに精神に異常をきたしかけている―

 俊介は直感的にそう感じた。あまりにもつらい現実を見つめることができず、母親の精神は現実から逃避しかけているのだ。この穏やか過ぎる話し方は決して尋常な状態ではない。

―とにかく蘇生処置を続けよう―

 そう決心して再び救急室に戻った俊介は看護師に代わって心マッサージを再開した。  

   *死亡宣告*

 さらに30分が経過し、時計はすでに11時をまわっていた。さらに数回の強心剤投与などが行われていたが反応は全くない。すでに乳児は冷たくなっていた。

―これ以上は無理だな―

 そう感じた俊介は再び心マッサージを看護師に任せてドアを出た。

「川崎さん。蘇生処置を1時間行いましたが全く反応がありません。これ以上は・・・無理だと思います」

「先生!お願いします!お願いします!勇太を!勇太を助けてやってください!あの子は、自分の宝物なんです!あいつがいなくなったら・・・お願いします!先生!先生!」

 父親は泣きながら俊介の白衣にすがりつく。

「お父さん。大丈夫よ。勇太が死ぬわけないじゃない。だって先生がこんなに一生懸命治療してくれているんだもの」

 ゆっくりと母親が夫に話しかける。すでに通常の精神状態から逸している。俊介にも別れた妻との間に女の子が一人いる。子を持つ親の気持ちは痛いほどよくわかる。俊介は少し考えてゆっくり答えた。

「わかりました。もうしばらく頑張ってみます」

 救急室にもどった俊介は心マッサージを再開した。しかし彼はすでに乳児の救命はあきらめていた。いや、すでに乳児は死亡している。あとはどうやって終わりを迎えるか、両親にどういう形で死亡宣言をするかだ。

 さらに30分が経過した。心マッサージは続けられていたが、乳児はすでに冷たくなり、硬直が始まっている。俊介は決心し、真田由紀子に父親だけを呼びにいかせた。心マッサージの手を止め、救急室に入ってきた父親の目を見つめて告げた。

「川崎さん。来院されてから1時間半、蘇生処置を行いましたが、心臓の拍動はもどりませんでした。すでに勇太君は冷たくなり、死後硬直が始まっています。身体には死斑が出てきているのです。息子さんを助けることができず、申し訳ありません・・・。午後11時52分・・・御臨終です」

 目に一杯涙をためながら息子の身体に触れた父親は、その冷たい身体を肌で感じて嗚咽しながら頭をうなだれ、膝をついた。

「あ・・・あ・・・ありがとう・・・ござい・・・・」

 あとは声にならなかった。俊介は精一杯やさしく父親の肩に手をかけた。

「川崎さん・・・。奥さんのことが・・・心配です。奥さんはすでに正常な精神状態ではありません。御主人に支えてあげていただきたいのです」

 父親はしばらく泣きながら息子の身体をさすっていたが、踏ん切りをつけるようにすっくと立ち上がり、妻のもとへ向かった。救急室の外では母親の声が聞こえたが内容は俊介には聞き取れなかった。駆けつけていた祖父母に付き添われてに自宅に連れて行かれたようだ。

 救急室では真田由紀子が目に涙を浮かべながら乳児の身体を拭き、身体につけられていた点滴や気管チューブを取り除いていた。

―つらい宣告だった・・・―

 俊介はカルテに今までのことを記載しながら思った。彼にとって今迄で一番つらい死亡宣告だっただろう。

―しかし、まだ・・・もうひとつ・・・いやなことを伝えなくては・・・―

  これは俊介が乳児を最初に見たときから避けられないと感じていたことであった。

―今度は、自分の胸にとどめておくわけにはいかないだろうな・・・―

「真田君。隣におとうさんを呼んでくれないか?」

  父親は無言で隣の準備室に入室し、俊介の前の椅子に腰掛けた。

「川崎さん。このたびは本当になんて言っていいか・・・。お力になれず申し訳ありません」

 父親は無言でうなずき、下を向いている。

「勇太君はここへ運ばれた時はすでに心臓も呼吸も停止した状態でした。体温が少し低下していたことから考えると、お父さんが見つけられる30分か1時間くらい前に窒息した可能性が高いと思います」

「窒息・・・」

「6ヶ月のお子さんの場合、頭の位置がちょっと変わっただけで口と鼻がふさがり呼吸できなくなることがあるのです。勇太君は偶然そのような体位になってしまったと思うのです」

「うつむせに寝かしたのが悪かったんでしょうか?」

「それは一概には言えません。仰向けに寝ていてもそういうことはありえます」

 今、うつむせ寝が悪かったと説明しても何も得るところはない。むしろこの夫婦の後悔の念を増すだけである。

「それで川崎さん。ひとつ大切なことがあるのです」

「はい?」

「勇太君は多分窒息による呼吸不全で亡くなられたと思うのです。これは一般的な病死ではありません。専門的に言うと『外因死』ということになるのです」

「外因死?」

「交通事故などの外傷や、転落などで死亡された場合は普通の病死と違い外因死と呼ぶのです。そして外因死の場合は異状死として警察に届けなくてはならないのです」

「警察に届ける・・・」

「はい。警察に届け、警察が検視を行います。また、川崎さんの御自宅にも検証が入ると思います」

「警察で勇太を解剖するんですか!」

「いえ。死因に疑問があったり、犯罪の可能性があるときは司法解剖が行われることもありますが、勇太君の場合は多分事故と断定できると思いますので、警察による検視だけで終わると思います。また、ご自宅も簡単な捜査と事情聴取だけですむと思います」

「この上、まだそんなことまでせんといかんのですか?」

父親は泣きながら答えた。

「すみません。法律で決まっているのです」

 警察は10分もせずに到着した。大きな都市では監察医制度というものがあり、監察医が死体を検案する。しかしS市では監察医制度がなく、今回のような犯罪に関係のなさそうなケースの場合、警察の立会いの下に主治医が死体検案を行う。死亡した乳児の外傷や虐待などの異常な所見がないことを確認し、検案は30分程度で終わった。自宅検証や事情聴取でも特に問題となるような点はみられなかったようだ。

 俊介は死体検案書を記載した。

  死亡時間 平成xx年7月25日 午後9時ころ(推定)

(ア) 直接死因:窒息:発症から死亡までの時間:ごく短時間

 医師は自分が診ている患者がその疾患で死亡した場合は死亡診断書を記載する。しかしそうでない場合は死亡を確認したあとに死体検案を行い、死体検案書を作成することになっている。書類の様式は同じであるが、一番上のところの「死亡診断書(死体検案書)」の部分のどちらかを線を引いて消すことになる。

 この12時間の間に二人の若い命が失われ、俊介がその幕引きをしたことになる。本当ならまだ何十年も人生を送ることができたかもしれない二つの命が2枚の紙切れで幕を閉じた。この2枚の診断書は俊介が今まで書いてきたどの診断書よりも重い。俊介にとって今日は医者になったことのつらさをしみじみと感じさせられる1日になった。

 事務処理をすべて終え、俊介が部屋に戻ったときにはすでに午前3時をまわっていた。幸いその日はそれ以上の外来患者もなく、俊介は短い時間ではあったが心と身体を休めることができた。

     *ラベンダーの香りの手紙*

 数日後の夜、俊介は自室から外線をかけていた。

「ああ・・・俺だ・・・突然すまない。ちょっと相談したいことがあるんだが・・・」

 俊介は電話の相手としばらく話を続けた。

「そうか・・・なるほどな・・・ありがとう。参考になったよ」

「ところで・・・有紀は元気か?・・・・・・・・・・そうか・・・じゃあ今度何かうまいものを食わしてやると伝えてくれ・・・それじゃあ・・・」

 電話を切って帰り支度をする俊介のところに高岡健太郎がやってきた。

「風間先生。片山さんの奥さんから・・・こんな手紙がきたんです。宛名が俺と先生と連名になっていたので先に開けてしまったんですが・・・」

「片山さんから?どれどれ・・・」

 ほんのりとラベンダーの香りのする便箋には几帳面な楷書体で書かれた文字が並んでいた。

・・・・・・・・・

 前略。先日は主人がお世話になりまして本当にありがとうございました。本日葬儀をとどこおりなく終えることができました。まだ気持ちの整理はつきませんがこれからの身の降りかたを前向きに考えていかなくてはと思っております。

 そのことにも関連いたしますが、私、先生方にどうしてもお話しておかなくてはならないことがあり、筆をとった次第でございます。

 風間先生はもうお気づきしれませんが、私は夫を見つけた時のことでうそをついておりました。

 4時50分に倒れているところを見つけて、気が動転して救急隊への連絡が遅れてしまったと申し上げましたが、実は夫が倒れているのを発見したのはもう少しあとなのです。

 あの日、夜中まで夫婦で見積もりのやり直しなど行っておりましたが、お互いいらいらしていたこともあり、言い争いになってしまいました。最後には夫に暴力を振るわれ、私はそのまま寝室へ上がって先に休んでいたのです。

 夫は短気なたちで今までにもかっとなると時々私に暴力を振るいました。本気で離婚を考えたこともあるのですが、春菜のことを考えるととてもそんな勇気は出ませんでした。それに機嫌のいいときはやさしい父親でした。仕事さえ軌道に乗ってくれればと思いながら毎日を耐え忍んでいたのです。

 でもあの日は私も疲れていたこともあり、もうどうなってもいいと思いながら夜中の2時過ぎに2階の寝室に入り、しばらくは泣きながら春菜の寝顔を見ていたのですが、知らないうちに眠ってしまいました。

 がたんと音がして目が覚めたのは4時50分でした。私は夫の身に何か起こったのではないかと思いましたが、あまりに疲れて身体が動かないのと、あの人のことなどどうでもいいという気持ちが働き、そのまま、また眠ってしまったのです。

 その後にピピという時計の5時の時報が鳴りました。小さい音でしたが私ははっと目が覚めたのです。下の気配を伺ったのですが、何も音がせず、胸騒ぎがして降りてみたのです。すると主人が倒れており、あわてて抱き起こしましたが、すでに顔は土色になっており、息をしていませんでした。

 そのときはどうしていいかわからず、まず実家に電話してしまったのですが、それからすぐ消防署に連絡しました。その後、夫に必死で呼びかけましたがぴくりともしません。心臓マッサージをやってみようかと思っていたところへ救急隊の人がやってきてくれました。

 あの時私が最初に目が覚めたときに夫の様子を見に行っていれば、もしかしたら助かったのかもしれません。あの日からそのことがずっと私の頭にこびりついて離れなかったのです。

 風間先生からお話があると言われた時、私は覚悟を決めました。でも先生は何もおっしゃらず、私もそのことはもう忘れようと一度は思いました。でもこのようなわだかまりがあっては、これから春菜と二人で前向きに生きていくことはできません。

 私は今から警察へ行きます。そこでどのような非難や裁きを受けるのかわかりませんが、すべてをお話したいと思っています。

 春菜のことは事情を説明した祖父母にお願いしました。祖父も最初は驚きと怒りを隠せないようでしたが、泣きながら謝り続ける私を見て最後は許してくれました。 先生方にもご迷惑をおかけするかもしれません。なにとぞご容赦ください。   かしこ。

・・・・・・・

 3枚の便箋にびっしりと書かれた文字はそこで終わっていた。健太郎が口を開いた。

「先生。奥さん、罪になるんでしょうか?」

「未必の故意(みひつのこい)があったかどうかが問題だろうな」

「密室の恋?」

「何をとぼけたことを言っているんだ。未必の故意だよ」

「みひつのこい?」

「人が死ぬかもしれないと意識しながら、それでもかまわないと思って何もしなかった場合、殺人罪が適応されることがあるんだ」

「なにもしないのに殺人罪ですか?」

 健太郎は驚いて聞いた。

「でも俺は法律はよくわからないから実はさっき知り合いに聞いてみたんだ」

「弁護士さんですか?あ・・・先生の前の奥さん確か・・・。いえ・・・失礼しました。」

「いいんだ、その通りだよ。でも多分このケースの場合は適応されないだろう。確かに奥さんが物音に気がついたときにすばやく対応していれば事態は違っていたかもしれない。でも物音がしたときには奥さんには何が起こっているかわからないわけだ。夫が転んで倒れただけかもしれないし何かを落としたのかもしれない。その時点で心肺停止状態にあることなど予測できるはずがない」

ちょっと間をおいて俊介は続けた。

「ましてやその日、夫に暴力を振るわれて気持ちがすさんでいるときに、夫がどうなってもいいと考えて、眠ってしまったのはそれほど非難される行為ではないだろう。まあ、最初から奥さんが夫の状態を予測できていたとしたら話は違ってくるが、片山さんに持病があったわけでもないし、手紙の文面からもそんなことはないだろう」

「なるほど・・・。ちょっと安心しました。それにしても風間先生、先生は奥さんが隠し事をしていることを最初からわかっていたんですか?」

「いや、そんなわけじゃないが・・・。顔のあざや、あの聡明そうな夫人が10分以上も救急隊への連絡ができなかったのがちょっと気になってな・・・」

「それなのにあえて問いたださなかったのはどうしてなんですか?」

「あの女の子のことを考えると言い出せなかった。ひょっとしたら奥さんは故意に連絡を遅らせたのではないかと疑っていたんだ。夫から暴力を振るわれて、死んでしまえばいいと思っていたのではないかってね」

「なるほど。それが未必の故意っていうやつですね。それならば夫人には殺人罪が適応されて春菜ちゃんは独りぼっちになってしまう。さすが、先生は考えが深いですね」

「何を言っているんだ。俺はひとつ間違えれば犯罪を見逃してしまったかもしれないんだぞ。もし夫人がわざと連絡を遅らせたとしたら片山さんは死んでも死に切れないだろう。俺がしたことは偏った思いやりから出た自己満足に過ぎないんだ」

「厳しいですね・・・」

 健太郎はしばらくじっと下を向いて考えていた。そしてつぶやいた。

「でも・・・もし片山さんが奥さんに暴力を振るっていなかったら・・・」

 ちょっと考えて俊介は答えた。

「奥さんはすぐに飛び起きたかもしれないな・・・」

「やっぱり・・・・作らなくてもすむ敵を作るなっていうことですね。」

「まあ、そういうことだ」

 一息おいて俊介はちょっと笑いながら聞いた。

「それはそうと、君はうまくいっているのか?」

「え?なんですか、急に・・・」

「彼女とけんかばかりしているんじゃないのか?」

「そんなことないですよ。普通です」

健太郎は俊介から目をそむけてちょっと気まずそうに答えた。

「君の言う普通ってどんなんだ?けんかしてると心肺停止になったらほったらかしにされてしまうぞ」

 俊介は笑いながら片山夫人からの手紙を大事そうに引き出しの奥にしまいこんだ。部屋には便箋のほのかなラベンダーの香りが残っていた。

  風の軌跡:カルテ3 「呵責」終わりカルテ4(1/3)に続く

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2008年8月14日 (木)

風の軌跡:カルテ3(2/3)

風の軌跡:カルテ3(2/3)

   *延命希望せず*

 2日後、片山幸雄の血圧がやや不安定になった。時々脈が遅くなったり、血圧が60程度に落ちたりする。

 その日の昼頃、家族から呼吸器をはずしてもらえないかとの申し出があった。

「先生、あれから家族で相談しました。やはり無理な延命はさせたくないのです。何とか呼吸器をはずしてもらえんでしょうか?」

「・・・」

俊介は黙って考え込んだ。

「先生、息子を生き返らせてくださって本当にありがとうございます。もしあのまま逝ってしまったら、気持ちの整理もつかず、もっと悩んだに違いありません。嫁は気管切開をして少しでも長く生きていてほしいと言いました。私も少しでも長く生きていてほしいと思う気持ちは一緒です」

 父親はちょっと間を置いて話を続けた。

「でも私はうまくは言えませんが・・・無理に延命を続けるようなことはしたくないのです。身体は温かく、脈もありますが、脳死ということは片山幸雄の精神はもう死んだのだということでしょう?あとは、息子の尊厳を守ってやりたいのです」

 片山幸雄の父親はその鋭い目に涙を浮かべて俊介に言った。

「奥さんも同じ意見なのですね?」

 俊介が夫人に聞いた。夫人は黙って下を向いてうなずいた。俊介はまた無言で考え込み、意を決したように二人のほうを向いて言った。

「片山さん、申し訳ありませんが呼吸器ははずせません」

「・・・」

 二人は黙って俊介の顔を見つめた。

「今の日本では本人の移植の希望がない場合に呼吸器をはずすことは殺人罪に問われる可能性があるのです。片山さんの呼吸器をはずした場合、私が殺人罪に問われる可能性はもちろん、御家族が殺人幇助(ほうじょ)罪に問われる可能性もあるのです」

「殺人罪・・・。もう脳死なのに・・・ですか?」

 父親が不満そうな顔で俊介を見つめた。

「すみません。今の法律ではその可能性もあるということです」

 その時、病棟の看護師が俊介に声をかけた。

「風間先生、片山さんの血圧がまた下がっています。60台です」

「わかった。今行くから・・・」

 俊介は立ち上がり、病室へ急いだ。片山夫人と父親もあとに続いた。

 俊介は片山幸雄の胸を聴診した。

―徐脈だな―

 自動血圧計の数字は62と30と表示されている。脈拍は46だ。

「片山さん。今朝から片山さんの血圧が不安定になっています。たぶん脳の障害のために血圧を維持することが困難になってきているのでしょう。呼吸器をはずすまでもなく・・・今日明日ぐらい、危ないかもしれません」

 俊介は二人に向って静かに言った。

「そうですか・・・」

 父親はそう一言だけ答え、呼吸器につながれた息子をじっと見つめていた。片山夫人はベッドの横にひざまずき涙を流しながら夫の手を握った。

 血圧が下がれば昇圧剤(しょうあつざい)を投与すれば一時的には血圧は上昇することが多い。しかし俊介は昇圧剤投与の指示は出さなかった。一時的な延命にどんな意味があろうか?昇圧剤を使わないことも呼吸器を使わないことも心停止時間を早めることに関しては同じだ。しかし今のところ昇圧剤を使用せずに死期を早めても医師は罪に問われることはない。

―将来はこれも、殺人罪になるのだろうか?―

  俊介は暗い気持ちで片山幸雄をじっと見つめていた。

 それから24時間、片山幸雄の血圧は不安定ながら何とか維持されていた。しかし翌日午後から血圧は30台に下がり、脈も30台になり、時々停止するようになった。誰の目にも死期が近づいていることが明らかだった。

 俊介が病室へ入るとベッドの周りの数名の人たちが場所を空けた。俊介は丁寧に片山幸雄の診察をし、聴診器をポケットに片つけて父親の顔を見て言った。

「かなり脈も弱くなっています。多分もう余り時間はないと思います」

 父親は黙ってうなずいた。

 俊介が病室を出ると片山夫人が下を向いてソファに座っていた。俊介はそっと近づきその隣に座った。

―眠っているのか・・・―

 俊介は夜中に何回か訪室したが、夫人はそのたびに夫の手を握ったまま立ち上がって俊介に会釈していた。多分昨日から一睡もしていないのだろう。俊介が横に座っても気がつかないようだ。俊介はそっと立ち上がり、ナースセンターへ向おうとした。その時、夫人が気づいて立ち上がった。

「先生・・・」

 夫人の言葉に俊介が向き直って言った。

「奥さん・・・大分脈も弱くなっています。そろそろ近いと思います」

 俊介が静かに告げると、夫人は深々と頭を下げ、病室へ向おうとした。

「あの・・・奥さん・・・。こんな時に申し訳ないのですが・・・」

「はい?」

「落ち着きましたらちょっとお伺いしたいことが・・・」

「え?」

「ご主人を発見されたときの様子をもう少し詳しく聞かせていただきたいのですが・・・」

「主人を・・・」

 夫人はちょっと困惑した顔で俊介から目をそらした。

「ちょっとカルテの記載に不備があったものですから・・・」

 俊介は申し訳なさそうに言った。

「わかりました・・・」

 夫人はちょっと間をおいて答えた。

 それから1時間後、片山幸雄の心拍数は10台に落ちた。夫人は泣きながら夫の手をじっと握っている。静かな病室にはピ・・・・ピ・・・・・という心電図モニターの音と小さな嗚咽(おえつ)と鼻をすする音が聞こえている。

 モニターの波形は徐々にゆっくりとなり、間延びしたように時々出現するほどになった。そして脈拍数が0を示し、全く波形が現れない状態が2分近く続いた。しかし人工呼吸器は変わらず規則的に片山幸雄に空気と酸素を送り続けていた。まるで「これが自分の仕事です」と言っているように。

 それまでじっとモニターと患者を交互に見ていた俊介はゆっくりと前へ進んだ。俊介は聴診器をポケットから取り出し患者の胸にあて、心音がないことを確認した。そしてペンライトで両方の目を順番に照らし、対光反射がないことを確認した。

「午後2時35分・・・・ご臨終です・・・」

 その瞬間、病室には一気に嗚咽が響きわたった。

「あなた・・・ごめんなさい・・・」

 夫人が夫の手を握りながら涙声でつぶやいた。俊介は深々と頭を下げ、病室をあとにした。

 廊下のソファには60歳くらいの婦人と3歳くらいの女の子が座っていた。婦人は俊介の顔を見ると立ち上がり、涙を拭きながら深々と頭を下げた。

―片山さんの・・・お母さんと、お嬢さんか・・・―

  俊介は立ち止まり、婦人のほうを向いて同じように深々と頭を下げた。

「ねえおばあちゃん?」

「なあに?春菜ちゃん」

 婦人は涙をぬぐいながらソファに座ると女の子のほうを向いて笑顔で答えた。

「パパ、いつめがさめるかな?はるちゃんね、ようちえんのおゆうぎできるようになったの。ちゃんとおどれるの、はるちゃんだけなんだ」

 女の子があどけない笑顔で祖母に聞いた。

「春菜ちゃん・・・。パパはね・・・パパはね・・・お星様になったのよ・・・」

 婦人は涙声で女の子に言った。

「おほしさまに?」

 女の子はけげんそうな顔で聞き返した。

「そう・・・。パパはお星様になって春菜ちゃんのことをずっと見守っているのよ」

「じゃあ・・・よるになったら、ぱぱ、はるちゃんのおゆうぎみてくれるかな?」

「うん・・・うん・・・きっと見てくれるわよ」

 婦人は泣きながら女の子を抱きしめた。

 俊介は女の子にちょっと微笑んでナースセンターへと向った。俊介の心の中では一人の若い患者の命がたった今消えたことよりも夫人にある事を聞きださなくてはならないことのつらさが重くのしかかっていた。

―あの子はこれから母親が一人で育てていかなくてはならない。その母親はひょっとしたら・・・―

 ナースセンターに戻った俊介は無言で死亡診断書を記載していた。

死亡時間:平成xx年7月25日午後2時35分

(ア) 直接死因:高度脳機能障害: 発症から死亡までの期間:約9日間

(イ) (ア)の原因:心室細動: 発症から死亡までの期間:約9日間

(ウ) (イ)の原因:急性心筋梗塞: 発症から死亡までの期間:約9日間

  俊介が死亡診断書の記載を終えて顔を上げるとナースセンターの入り口に片山夫人が立っていた。

「先生、ありがとうございました・・・」

 片山夫人は丁寧に頭を下げた。俊介も立ち上がって頭を下げた。

「あの・・・先ほどのお話ですが・・・」

「話?ああ・・・ああ・・・奥さん。あれはもう結構です」

「え?」

「たいしたことではありませんでした。あとで高岡先生にもう一度確認すれば済みますから・・・」

「・・・はい・・・」

 夫人は下を向いたまま小さくうなずいた。

    *つらい当直*

 その日の夕方、俊介は少し重い気分で医局のソファに腰をかけて天井を見つめていた。

 今日は当直だ。内科部長の俊介は本来、当直業務は免除されている。しかしこの病院に赴任する時に、月に一回は当直をするということを自分から条件に挙げていた。それは、救急の現場を離れてしまうことによって臨床の感が鈍ってしまうことを何よりも恐れたからである。長く救急を離れていると、実際に患者が急変したときに迅速に行動できない。それはすなわち患者の死亡や重篤なミスにつながる。そう思って俊介はあえて月一回のペースではあるが当直を続けている。

 今日はその当直の日であるが、できれば今日だけは遠慮したかった。まだ先ほどの片山幸雄の死亡に立ち会ったことが俊介の気分を落ち込ませている。幸か不幸か片山幸雄は呼吸器をはずすことなく自然に最後を迎えられた。しかし片山夫人に対する疑問は・・・俊介は心の中に閉じ込めてしまった。果たしてそれは正しい判断だったのか?

「風間先生、今もどりました」

 健太郎が医局に入ってきた。

「ご苦労さん。大変だっただろう」

 健太郎は今日、午後から企業の健診業務に出かけていた。

「はい。ずっと座りっぱなしで疲れました。聴診器をずっと当てていたので耳が痛いですよ。あ・・・先生、片山さん、亡くなられたんですね」

「ああ・・・幸か不幸か呼吸器は外さずにすんだよ」

「かわいそうですが、これでよかったのかもしれませんね」

「そうかもしれないな・・・」

 俊介が上をむいたまま目をつむると急に睡魔が襲ってきた。俊介はそのまま浅い眠りに落ちていった・・・。

「先生。お先に失礼します」

 俊介がはっと目を覚まして後ろを振り返ると健太郎が明るい声で挨拶し、帰り支度(じたく)をしている。

「なんだ?もう帰るのか?今日はえらく早いじゃないか。」

「だって今日は風間先生が当直でしょ?病棟で何かあっても、たいていの事は先生が診てくださるじゃないですか。今日はゆっくりした気分で休めますよ」

「そんなこと言うなよ。こっちは気が重くなるじゃないか」

「ほかの内科の先生方だって同じこと思ってますよ。じゃあ、お先に失礼します。当直頑張ってください。あ、何か面白いことあったら呼んでくださいね」

 健太郎はそう言いながらそそくさと医局をあとにした。

―こんなにあわてて・・・。多分デートだろうが完全に遅刻だな・・・―

 俊介は苦笑しながらゆっくりとのびをして立ち上がると医局をあとにした。

 医局を出た俊介は救急室に足を運んだ。救急待合室にはまだ患者の影は見えずひっそりしている。

 俊介が救急室の中に入るとナースが器具の点検をしている。真田由紀子だ。

 真田由紀子は小児科外来の主任看護師である。ちょっと小柄だが、いつも笑顔でてきぱきと仕事をこなす。外来の当直は各科の外来勤務のナースが毎日3名ずつ順番に行っている。真田由紀子は38歳で2児の母親であり、当然子供の扱いはうまい。小児の対応があまり得意でない俊介は内心ほっとしていた。

「今日は君が当直か?」

「あら風間先生。よろしくね」

「ついてないな。最近の君は患者がつくらしいじゃないか」

 同じ当直をしていても重症患者が大勢来院していつも忙しい看護師と、逆に来院患者が少なく忙しくない看護師がいる。科学的ではないが、こういうことは確かにある。どうも真田由紀子は患者が「つく」看護師らしい。

「失礼ね。私のせいじゃないですよ」

「この前もひどかったらしいじゃないか」

「あー。河野先生と高岡先生の時ね。片山さん、どうですか?」

 俊介はちょっと顔を曇らせて答えた。

「さっき、亡くなったよ」

「そうですか・・・。高岡先生がんばったのに・・・」

「今日は何もないことを祈るよ」

「本当ね」

 真田由紀子が笑いながら答えた。

 その日は外来患者がほとんど来なかった。俊介は夕方から2-3人の熱発の患者を診察したが、夜8時以降、彼は自分の部屋でゆっくりと文献を調べることができた。時計が10時を回ろうとしたとき俊介のポケットのPHSが鳴った。

「はい。風間です」

“先生!救急!すぐ来て!”

 真田由紀子の声の電話はすぐに切れた。

―ただ事じゃないな―

  俊介はそう感じてあわてて救急室に向かった。

―ベテランの彼女がこれほどあわてるとは、また心肺停止か―

   風の軌跡:カルテ3(3/3)に続く

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2008年8月13日 (水)

風の軌跡:カルテ3(1/3)

風の軌跡ー風間俊介診療録ー:カルテ3(1/3)

 「呵責(かしゃく)」

・・・脳死状態になった若い患者には死亡宣告がなされた。しかし夫人にはある秘密が・・・

    *脳死状態*

 片山幸雄が心肺(しんぱい)停止状態で運び込まれてから5日が過ぎた。いまだに意識は戻らず、集中治療室で管理されている。自発呼吸はなく、相変わらず人工呼吸器につながれた状態である。手足の動きは全くなく、あるのは原始的な反射だけである。この時点で彼が脳死状態であることはほとんど間違いなく、意識の回復は見込めないと判断されていた。夫人は毎日来院し、じっと夫に付き添っているが、さすがに疲れの色が見える。

 今日は頭部CT検査と脳波検査が予定されている。片山幸雄が入院して以来、始めてICUを離れることになる。人工呼吸器は移動中には装着することができない。自発呼吸がないので人工呼吸器をはずすと呼吸停止状態となる。高岡健太郎がアンビューバッグという呼吸を補助する器具を使用してCT室までの往復に付き添うことになる。風船のようなアンビューバッグを患者の口から気管に挿入されているチューブにつなぎ、手で風船を握ることを繰り返して肺に空気を送り込むのだ。

 検査終了後、風間俊介は健太郎に呼ばれてICUへと向かった。

「どうだ?」

 俊介がまず口を開いた。

「・・・脳死に非常に近い状態です。脳波は・・・ほとんど波形がありません。CTでも大脳皮質(ひしつ)が全体的に障害されています」

「発症して5日目だな・・・。それじゃあ回復の見込みはなさそうだな」

「はい。検査結果は脳外科の佐伯先生にも見ていただきました」

俊介はため息をつきなら、口を開いた。

「じゃあ・・・家族にムンテラ(説明)しようか」

 ICUの医師記録室に片山夫人と片山行雄の父親が入ってきた。父親は多分60代と思われるが、年齢の割に背筋がしっかり伸びて背が高く、意志の強そうな大きな目をしている。俊介は帽子とマスクをはずした片山夫人を見るのはこれが始めてであった。今日は薄く化粧をしている。

―美しい人だ―

 俊介はそう思いながらふと、夫人の左あごと、右手にうすく青いあざがあるのに気がついたが、あまり気にも留めずに話を切り出した。

「奥さん。御主人は心肺停止状態から回復し、今日で5日目になります」

「・・・はい・・・」

夫人が下を向いたまま小さな声で答えた。

「今のところ心臓の機能は落ち着いています。しかし自発呼吸はなく意識の回復もありません。本日は脳波とCT検査をしました」

 夫人と父親はじっとコンピューターのモニター画面を見つめていた。俊介はモニターに映し出されるCTの画像を指で示しながら説明を始めた。

「これが片山幸雄さんの脳を断層撮影した写真です。ここが大脳で、物事を考えたり、判断したり、感情をつかさどるなど人間の活動に最も重要な働きをする部分です。この大脳の全体がやや黒っぽく見えます。これは脳が障害されている所見です。片山さんの場合、心臓が一旦停止し、脳へ酸素の供給が途絶えました。そのため脳全体がダメージを受け、意識が戻ってこないのです。呼吸をさせる脳幹という部分も障害されているので自発呼吸もありません。しかし心臓の機能にはやや回復が見られ脈拍や血圧は安定しています」

「意識が回復する可能性はあるんでしょうか?」

 夫人はストレートに聞いた。

「脳波もほとんど波形がありませんので・・・残念ながら、意識が回復する可能性はゼロに等しいと思います。今後も人工呼吸器を装着し、点滴などで栄養を補給しなければなりません」

「すると、ずっとこのままということですか?」

 夫人の向こう側に座っていた父親が少し大きな声で聞いた。

「残念ながら・・・」

 しばらく沈黙が続いた。夫人の目には涙があふれていた。父親はじっとモニター画面を見つめている。

「これからどうしたらいいんでしょうか?」

 夫人のこの言葉が今後の生活のことを意味するのか、夫の介護のことを意味するのか、俊介には判断できなかったが、最初から用意していた言葉で答えた。

「血圧や脈拍は安定してきているので明日、一般病棟へ転室したいと思います。しかし人工呼吸器はそのまま装着しておく必要があります。したがって口から挿入したチューブも外すことはできません」

 二人は黙ってモニター画面を見つめていた。

「それから・・・ここから先は家族の方の同意が必要なのですが・・・・」

 俊介は夫人と父親の顔をチラッと見ながら話を続けた。

「口から気管に挿入されたチューブは閉塞や感染を起こしてくるため1週間から10日くらいで交換しなくてはなりません。長期間気管チューブが必要な場合は気管切開という処置を行います。のどに穴を開けて短いチューブを挿入して人工呼吸器を装着します」

「その気管切開というのをしなければ?」

 今度は父親が俊介を見ながら聞いた。

「気管切開をしない場合は・・・10日ごとに口から入っている気管チューブを入れ替える必要がありますが、自発呼吸がない状態なので、入れ替えのときに状態が急変する可能性があります。気管切開にも出血や感染などの合併症の可能性が少々ありますが、気管チューブを何回も入れ替えるよりは危険は少ないと思います」

 父親は少し考えて口を開いた。

「気管切開をせずに気管チューブを抜くことはできんのですか?」

「気管チューブを抜くということは・・・人工呼吸器をはずすということです」

 俊介がちょっと躊躇(ちゅうちょ)して答えた。

「人工呼吸器を外せば・・・呼吸が止まるのですね・・・」

 片山夫人が聞いた。

「そうです・・・・。呼吸器を外すということは、そこで片山さんの命を終わらせるということになるのです」

 しばらく沈黙が流れた。長い沈黙を破ったの父親だった。

「もし呼吸器をつけていれば、このまま何年も脳死状態で生き続ける可能性もあると言うことですか?」

「どこまで頑張れるかはわかりませんが、脳死状態では何年も生き続けることは無理でしょう。ほとんどの場合は1ヶ月以内に血圧が不安定になったり肺炎などの合併症を引き起こしてお亡くなりになられることが多いようです。でも・・・片山さんはまだお若いですから・・・それはなんとも言えません」

 父親は下を向いてじっと黙って考え込んでいた。そしておもむろに顔を上げて俊介に言った。

「先生、もう一度お尋ねしますが・・・気管チューブを抜いて、呼吸器をはずすことはできんのでしょうか?」

「それは・・・難しい選択ですね・・・」

 脳死状態の患者の人工呼吸器を外す、それはすなわちその患者の命を人為的に終わらせることだ。今の日本で法律上それが許可されているのは移植を前提とした脳死の判定を行った時だけだ。脳死となった患者がドナーカードに移植の意思を記載した時に限って医師は厳格な脳死判定を複数の医師で行い、人工呼吸器をはずして人為的に患者を死亡させることが法律的に許可されている。

「幸雄さんは移植の希望は?ドナーカードは持っておられますか?」

「希望は・・・ありません」

 夫人が首を横に振りながら答えた。

「実は・・・私、去年主人にドナーカードを渡したんです。友人からもらったので・・・。その時はあまり気にも留めなかったんですが、こんなことになってしまって・・・。昨日、主人の机の中を探したんです。そしたら見つかったんですが、何も書いてありませんでした」

 その言葉に俊介は夫人の以外に冷静な面を見た気がした。

「しかし先生、息子は延命治療を拒否していたんです」

 父親が言った。

「え?」

「以前テレビで植物状態の患者を見て、私があんなことになったらいっさい延命治療はしてくれるなと息子に言ったんです。息子は、何もできず他人の世話になっている私の姿を見るのがとてもつらいから、延命治療はしないと言いました。あの時はまさか息子がそんな状態になるなんて思ってもみなかったですが・・・。私は息子が他人の世話になって生きていく姿を見るのがつらいのです。幸雄は私が言うのもなんですが、勉強もスポーツもよくできました。ちょっと短気なところはありましたがいつも人の上に立って指導する立場を続けてきたんです。そんなあいつがこれから、嫁や孫に負担をかけていく姿を見るのはとてもつらいことです。先生にはここまでしていただいて本当に感謝しています。でもあとは、息子の尊厳を守ってやりたいのです」

「幸雄さんが自分の延命治療を拒否していたわけではないのですね?」

「それはそうですが・・・息子の気持ちは私が一番よくわかっています」

 俊介は父親から目をそらし、黙ってじっと考え込んだ。患者が脳死状態になった時に家族が延命治療を拒否することは今までにも何度かあった。そして、そんな時に呼吸器をはずして死亡宣告をすることは昔の医療現場ではよく行われていたことなのだ。患者の意思を示す文書がなくても家族の言葉から本人が延命治療を希望していなかったことが類推できれば医師は呼吸器をはずすことは社会通念上、問題のない行為と考えていたからだ。

 しかし近年事情が変わった。医師の判断で呼吸器をはずして死期を早めたことが殺人罪の疑いがあるとして警察が関与してくるようになったからだ。医師は、すでに脳死状態になった患者の死亡時間を早めることが社会的に問題になるとは考えない。

 しかし日本では心臓停止が死亡の基準であり、心臓が動いている間はその患者は法律的には生きているわけで、呼吸器をはずして死期を早めれば警察は殺人罪の疑いありと判断するわけだ。

 脳死移植以外の患者に対する呼吸器取り外しに関する明確な基準が今の日本にはないことが問題なのだ。今の日本で医師が自分の判断でそのような行為を行うことは殺人罪で逮捕される危険を犯すということだ。

―息子を思うこの人の気持ちはよくわかるが・・・―

 親しい人の尊厳を守りたいという家族の気持ちはよくわかる。

「片山さん、これは私一人で決められる問題ではありません。院長や法律の専門家とも相談したいと思いますので少し時間をください。その間に気管切開のことも含めてご家族でもう一度相談なさってください」

「わかりました」

 父親はうなずいた。片山夫人は何も言わず、じっと下を向いていた。

「風間先生、呼吸器はずしてもいいんでしょうか?」

 二人が出て行ってから健太郎が聞いた。

「まあ、院長にも相談してみるが、最近の社会情勢じゃ無理だろうな」

「蘇生処置をした自分が言うのもなんですが、俺は延命処置はやめてあげたいです・・・。呼吸器をはずしてあげられたらいいんですが・・・」

「そうか・・・」

「だって・・・このまま脳死状態でずっと生き続けるなんて、自分だったら絶対にいやですよ。仮に少し回復するにせよ、せいぜい息をしているだけの植物状態でしょ?自分の妻が同じ状態になったとしても無理に延命させるようなことはしたくないです。別に介護するのがいやっていうわけじゃないんですよ」

「そうだな・・・俺もそう思う」

 俊介もうなずいた。

「・・・ところで高岡先生、奥さんの顔のあざに気がついたか?」

「あざ?あー・・・はい。最初救急室で見たときから、あごがちょっと腫れて青くなっていました。ご主人を見に行くときに階段から落ちたって言ってました。多分すごくあわてていたんでしょう」

「階段から・・・落ちた・・・」

「はい。それが何か?」

「いや、それからご主人が倒れているのを発見して、そのあと気が動転して救急隊に連絡が遅れたと言ってたな?」

「はい。何がなんだかわからずに10分くらい電話帳をしらべたり実家に連絡したりして遅れたらしいです。何かおかしいですか?」

「いや・・・いいんだ・・・」

  片山夫人への説明が終わったあと、俊介は自室のソファに腰掛けて考えていた。

―あの冷静そうな奥さんが・・・気が動転して救急隊への連絡を思いつかないなんてことがあるだろうか?それにあのあざは・・・。階段から落ちた?―

  階段から落ちた・・・。それは怪我の理由を知られたくないときに患者がよく使う言葉だ。

―確かに夜中にあわてて階段を下りようとすればすべり落ちるかもしれない・・・。しかしなぜ左あごを・・・―

   *ほったらかしに・・・*

 翌日14時30分過ぎ、俊介は食堂に遅い昼食をとりに出かけた。一人でカレーを食べる俊介の後ろから女性が声をかける。

「あら、風間先生。お久しぶりです」

 レイヤーボブの大きな明るい瞳のナースがカレーをテーブルに置いて俊介の隣に座った。南川沙紀だ。

「やあ、南川君か・・・久しぶり」

「お昼遅いんですね」

「ああ、今日はいろいろ忙しくてね。君も遅いじゃないか」

「あら先生、ナースは遅番(おそばん)になればこれくらい当たり前よ。今日はまだ早いほうで、ひどいときには3時4時までお昼食べれないことなんてざらにありますよ」

「それは大変だな。ところで・・・外科病棟はどうだ?もうなれたか?」

 沙紀は首を小さく横に振りながら答えた。

「全然だめ。外科のドクターって病棟に来る時間が一定していなくって待っているのも大変。内科のドクターはナースがいなければみんな自分で回診していくでしょ?でも外科はガーゼ交換や処置が多いので必ずナースがついていかなくちゃいけないんです。まだ仕事のペースがつかめないわ」

 カレーを口に運びながら以前と変わらない調子で話す沙紀を俊介はなんとなく懐かしく感じていた。

「外科の先生方とは仲良くなったか?」

「それがなかなか・・・。部長の立花先生、言うことが細かくって・・・」

 沙紀はそう言いかけてちょっと周りを見渡し、言葉を続けた。

「私が慣れないのもあるんだけど・・・」

「まあ、外科の場合、傷がちょっとしたことで感染したり縫合不全を起こしたりするから特に慎重になるんだろう。それは細かいじゃなくて慎重って言うんだ」

 笑いながら話す俊介の言葉に沙紀は肩をちょっと上げて首を引っ込めた。俊介はカレーを口に入れた後、水を一口飲んでポソリと聞いた。

「ところで内科部長の方の評判はどうだ?君の耳には何か入ってきているか?」

―なかなかうまく切り出せたな―

 健太郎と飲みに行ってから自分のことをひそかに想っているナースというのがどうも気になる。別に自分から声をかけようと思うわけではないが、周りのナースを見回すと無意識にそういう目で見てしまう。しかしそれらしいそぶりを見せる者もいない。健太郎に直接聞けばいいのだろうが、何か腹の中を見透かされるようで面白くない。そこで情報の発信源であろう南川沙紀にカマをかけたというわけだ。

「あら、先生は評判上々よ。だって仕事はできるし患者さんにもナースにもやさしいでしょ?」

「それはうれしいな。じゃあ・・・どのあたりで評判上々なんだ?」

 俊介はちょっと苦しいかな、と思いながらも言葉をつないだ。

「外科病棟でも内科病棟でも外来にだって受けがいいわよ」

―これ以上深入りすると怪しまれそうだな・・・―

  俊介はあきらめて話題を変えた。

「いま内科病棟に36歳の脳死状態の患者さんがいるんだ」

「あー・・・心筋梗塞でVFになった人」

 沙紀はうっかり即座に答えてしまった。

「よく知ってるじゃないか」

「え?・・・だって・・・ICUにいた人でしょ?この前ICUに患者さんを迎えに行った時ちらっと見たんですよ。若い人がいるなって・・・」

―なかなかうまいじゃないか―

俊介はこみ上げてくる笑いをこらえながら続けた。

「高岡先生が頑張って蘇生させたんだけど、意識は戻らないんだ」

「まだ若いのに・・・。奥さんも大変ね・・・」

「心肺停止になっているところを奥さんが見つけたんだが動揺してしまって、救急隊への連絡が遅れてしまったらしい」

「医療従事者じゃなかったら、どうしていいかわからないでしょうね」

「君は大丈夫か?将来結婚して御主人が心肺停止になったら、蘇生処置できるか?」

 沙紀はカレーをほおばりながら自信満々答えた。

「大丈夫ですよ。何人も心マッサージとかしてきたからちゃんとできるわ。それに私、来年は救急救命士の資格を取ろうと思っているんですから。でも・・・けんかしてたら、ほったらかしにしちゃうかも・・・」

「え?」

 俊介は一瞬スプーンをもった手を止めて聞き返した。

「冗談ですよ。今にも死にかけてるっていうのにそんなこと言ってられないでしょ?それに、まだご主人になる人だって決まってないんだから、まずそっちのほうが先よ」

 沙紀は笑いながら残りのカレーを一気にたいらげると俊介に軽く会釈して、そそくさと勤務に戻っていった。

―けんかしてたら・・・ほったらかしに・・・―

  沙紀の言葉を繰り返す俊介の心の中では、ひとつのことが引っかかっていた。

   風の軌跡:カルテ3(2/3)に続く

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2008年8月12日 (火)

風の軌跡:カルテ2(3/3)

風の軌跡:カルテ2(3/3)

 夜8時過ぎ、俊介が帰りじたくをしているとドアをノックする音が聞こえた。

「風間先生、高岡です。ちょっとよろしいですか?」

―また来たな。こんどはなんだ?―

  いつも帰り際にやってくる部下にちょっと閉口しながら俊介は答えた。

「どうぞ、開いてるよ」

「失礼します・・・。先生、ちょっと聞いてください!」

―そらきた・・・。今度はなんだ?―

「病棟のナース、全然だめですね。全くやる気がないんです。今、田中さんの明日の採血の指示を出してきたんです。そしたらもう6時を回ってるからだめだって言われるんですよ」

「規則では緊急以外の指示は夕方6時までに出すことになっているからな。君の指示は緊急なのか?」

「まあ、患者の命にかかわることかと言われるとそんなことはないんですが、今日の午前中までICUにいた患者さんですよ。病態に応じて指示が出るのは当たり前じゃないですか。ICUでは何時でも指示を受けてもらえたのに一般病棟に変わったとたん6時までなんてちょっと杓子定規すぎますよ。あんまり腹が立ったんでカルテをテーブルに放り投げて出てきちゃいました」

 高岡健太郎は一気にまくし立てるように話し続けた。

―これはちょっとやそっとじゃ収まりそうもないな・・・―

 俊介はなだめるように話しかけた。

「そうか・・・。ところで君はもう今日の仕事は終わったのか?」

「え?はい。今から心筋梗塞の急性期治療についてちょっと勉強しようかと思っていたところですが・・・」

「ちょっと腹も減ったから続きは食事でもしながら聞こうじゃないか」

「本当ですか?食事ですか・・・へへへ・・・。じゃあ、着替えてきます」

 食事と聞いてちょっと機嫌の直った健太郎は足早にロッカーのある医局へ向かった。

   *天真爛漫(てんしんらんまん)*  

 「天真爛漫」は病院から歩いて5分の居酒屋風の飲み屋だ。それほど大きくはないが病院関係者もよく利用している。俊介も夕食や夜食をここで済ませることも多い。

「まずは乾杯といこう」

 二人は笑顔でジョッキを交わした。

「・・・あーうまい!仕事のあとの最初の一杯って最高ですね!」

「本当だな。さあ、こみ入った話はあとにしてまずは腹ごしらえしようじゃないか」

 二人は他愛もない話をしながら出されてくる料理に箸を進めた。健太郎もアルコールが入って上機嫌となり、さっきのナースの話はすっかり忘れてしまっている。健太郎はアルコールが入るとすぐに顔が赤くなるので酔っているのが一目でわかる。また、機嫌がすこぶるよくなるので周りにいる者も一緒に飲んでいて楽しい。

 俊介はどちらかというと飲んでも顔に出ないタイプで、酒の席ではしゃぐようなこともほとんどない。しかし決して酔っていないわけではなく、少しアルコールが入ると楽しい気分になる。

「でも先生。あの二人の運命ってどこで別れたんでしょうか?」

 突然の話題の転換だが俊介には何の話かすぐ理解できた。

「そうだな・・・」

「同じような年齢で全く同じ病気ですよ。家族性高コレステロール血症で急性心筋梗塞を発症し、心室細動を起こしたのも一緒です。発症時間だって数時間しか違わない。でも一人は元気に回復し、一人は植物状態になってしまった。先生の隣で心室細動になったか奥さんの隣で心室細動になったかの違いですよね。たとえ除細動器はなくても先生の隣で心室細動になったなら蘇生処置してもらえるから脳死状態にはならずに済みますよね」

「現状では一般人には蘇生処置はムリだろう。病院で心室細動になるということがかなり運のいいことなんだろうな」

「もし奥さんに蘇生処置ができたら状況は変わっていたでしょうか?」

「多分な。でも片山さんの奥さんは責められない。普通の人間なら動揺してしまって奥さんと同じ行動をとるだろう。そうなると・・・結婚するのはナースにしないといけないってことかな?」

 俊介はちょっと意地悪く微笑みながら聞いた。

「別に・・・ナースじゃなくてもいいと思いますけど・・・。奥さんに蘇生処置を覚えてもらえばいいんじゃないですか?」

 むきになる健太郎に俊介は笑いながら答えた。

「そんなに大声を出さなくてもいいじゃないか」

「別に大声なんて・・・。すみません、地声が大きいもんで・・・」

―正直なやつだ・・・―

  俊介は枝豆をつまみながら苦笑した。

「それより風間先生。先生こそ再婚されないんですか?」

 健太郎が唐突に聞いた。

「なんだ急に・・・俺はもう50近いんだ。いまさら恋愛なんて考えてないよ」

「何を言ってるんですか!まだまだこれからですよ。ひそかに先生のことを想っているナースだっているんですよ!」

「ふーん。それは誰から聞いた情報なんだ?」

俊介はまた意地悪く聞いた。

「誰からって・・・誰からってことはないんですけど・・・。うわさですよ、うわさ・・・」

「そうか。じゃあ、仕事が暇になって毎日早く家に帰れるようになったら再婚も考えるよ」

 残っているビールを飲み干しながら俊介は軽く受け流した。

 その時、隣の団体が帰り支度を始めた。そのうち一人はかなり酩酊しているようでほとんどまともに歩けないようだ。彼が俊介たちのテーブルの横を通る時に健太郎のジョッキに身体が触れ、ジョッキが倒れて健太郎の服にビールが少々かかってしまった。

「お・・・悪いな。あんちゃん・・・」

 酩酊した男はちょっと手を上げて健太郎に謝った。健太郎はむっとして立ち上がり、大声で叫んだ。

「なんだ!その言い方は!もっとちゃんと謝ったらどうなんだ!」

「なにー?・・・ちゃんと・・・謝っただろうが!」

ろれつの回らない口調で男が健太郎につかみかかる。男もまあまあ大柄だが健太郎のほうが大きい。男は怖い顔で健太郎を見上げている。

「なんだと!」

「やめるんだ!」

 今にも男につかみかかろうとする健太郎を俊介が間に入って制した。向こうの団体も2-3人の仲間が男を必死で抑えている。

「すみません。彼はちょっと気が短いもんですから・・・」

 俊介は相手の団体に頭を下げて謝った。

「先生!悪いのはあっちですよ!どうして先生が謝るんですか!」

「君は黙ってろ!」

俊介の強い口調に健太郎はたじろんで椅子に座り込んだ。

「いえ、こちらこそすみません!さあ、いくぞ!こいつはかかえて連れて行こう」

 つれの男性2-3人にかかええられながら男は千鳥足で店の外に出された。

    *作らなくてもすむ敵を作るな*

「すみません、つい興奮してしまって・・・。でも先生!あいつのほうが悪いですよ!他人のビールをこぼしておいてあの言い草はないでしょう?」

「まあまあ。腹もふくれたからちょっと場所を変えよう」

 二人は近くのスナックのカウンターに腰を掛けた。ようやく気持ちの落ち着いた健太郎に俊介が諭すように話しかけた。

「なあ高岡先生」

「はい?」

「今日は君にひとつだけアドバイスをしてやろう」

「なんでしょうか?」

 健太郎は酔いが回ってぼんやりした目で俊介を見つめた。

「作らなくてもすむ敵を作るな」

「作らなくても・・・敵を・・・?」

「作らなくてもすむ敵を作るな」

「作らなくても・・・すむ・・・敵を・・・作るな・・・ですか?」

 健太郎はゆっくりと俊介の言葉を繰り返した。

「そうだ」

 俊介は水割りを一口飲んで続けた。

「さっきの男がビールをこぼしたとき、君は怒ってつかみかかっただろう?」

「はい。あんまり腹が立ったので・・・」

「あのままほっておいたらどうなったと思う?けんかになったかもしれないな?」

「ええ。先生が止めてくれなかったら多分・・・」

「そしたら君は怪我をしたかもしれない。骨でも折ったらしばらく仕事はお休みだ。逆に相手に怪我をさせていたかもしれない。君の力で取っ組み合いになったら運が悪ければ相手も大怪我するかもしれない。そしたら君は傷害罪に問われることになる」

「まあ・・それはないとはいえませんが・・・」

「頭をぶつけて急性硬膜外血腫を引き起こしたら、場合によっては命にかかわるかもしれない。そしたら君は傷害致死罪だ。もう医者は続けられなくなるかもしれないな」

 俊介は真剣な顔で健太郎を見つめながら言った。

「そんな、極端なことを言わないでくださいよ。ちゃんと加減はしますよ」

 健太郎は俊介から顔を背けた。

「それだけじゃないぞ。相手が刃物でも持っていたらどうする?酔っ払ってかっときた勢いで君を刺すかもしれないぞ。そしたら君の命にかかわることになる。まあ、蘇生処置はしてやるがね」

 俊介は自分の胸を両手で2-3回押して心マッサージをする真似をして見せた。

「おどかさないでくださいよ」

「いや、まるっきり可能性がないとは言い切れないだろう?でも、もし君がビールをこぼされたとき時、『大丈夫。気にしないで』と言えば、今のことは全く可能性がなくなるわけだ」

「それは、そうかもしれませんが・・・」

 俊介は水割りを少し飲んで一息つき、話を続けた。

「君は今日、病棟ナースの態度を非難していたが、18時を過ぎて指示を出す時『すみません』と言ったか?」

「いえ・・・。でも『明日、田中さんの採血よろしく』と言ってカルテを渡しました」

「それでナースがもう18時過ぎていますからだめですと言ったわけだな?」

「そうです」

「それで腹を立ててカルテを放り出して俺の部屋に来た」

「はい」

「カルテを渡すときに『時間外ですみませんが、明日田中さんの採血お願いします』と言ったら、やっぱりだめと言われたか?」

「それは・・・わかりません」

「少なくともまだ、会話の余地はあっただろう?」

 健太郎は何も言わず、じっと前を見つめている。

「俺が悪かったんでしょうか?」

―素直な男だ―

  健太郎は熱くなるのも早いが自分が悪いとわかるとすぐに反省する。それに対して俊介はいつも冷静に振舞い、あまり感情を表に出さない。表立って相手に腹を立てることもないが、その代わり自分に間違いがあってもなかなかそれを認められない。それを自分でもよくわかっているのでこのような健太郎の性格をみるとうらやましいとも思う。

「いや、落ち度はどちらにもあるんだ。ヨッパライの男も悪いし、病棟のナースも君や患者に対する配慮が足りない。しかしお互いに相手の悪いところを責めていたら人間関係は成り立たないだろう?自分がちょっと我慢すれば丸く収まることじゃないか。確かにどうしてもうまくいかず、他人と対立しなくてはならないこともある。でも自分が我慢してすむことなら我慢したほうが結局自分も得をするんだ。作らなくてもすむ敵をつくるな、とはそういう意味だよ」

「先生の言われること、わかるような気がしますが・・・。でも俺にはなかなか難しいかもしれません・・・。でも、なるべく・・・努力してみます」

 そう言いながら健太郎は水割りグラスの横にあった水を一気に飲み干し、背もたれに寄りかかって目を閉じた。

 彼自身も今日はだいぶ飲みすぎたことを自覚しているようだ。すでに時計は11時を回っていた。健太郎はしばらくしてから目をあけて薄暗い天井の明かりを見つめながらつぶやいた。

「あの二人も・・・」

「え?」

「いえ。片山さんと田中さんのことをふと思い出したんです。奥さんの話では片山さんは人間関係から会社務めがうまくいかず独立したって言ってましたよね」

「そうだったな」

「多分まわり中、敵だらけだったんじゃないかって思うんです。それで独立してそのあとも得意先ともめて無理を重ねてこんなことになってしまった・・・。確かに高コレステロール血症は心筋梗塞の大きな原因だと思いますが、引き金を引いたのは無理をしすぎたことのような気がするんです」

「多分そのとおりだろう」

「田中さんは得意先の社長も言ってましたが、自分から敵を作るような人ではないと思います。ICUにいる時も動けなくてもじっと我慢してナースに冗談も言ってました」

「彼の人柄が野辺山さんの足を病院まで運ばせたってことか」

「野辺山さんが田中さんのことを気にかけずにそのまま自分の会社で休ませてほったらかしにしておいたら・・・」

「そこで心室細動になって心肺停止で病院に担ぎ込まれた・・・」

「今頃は脳死状態になっていたかもしれない」

―なるほど、そのとおりかもしれない―

 俊介は黙ってうなずいた。

    *呼べないお迎え*

  店を出て家路に向かう健太郎はほとんど千鳥足であった。

「大丈夫か?一人で帰れるか?」

「もちろんですよ。ちょっと飲みすぎましたが、アパートはこの近くですから・・・」

 そう言いながらも健太郎の足は斜め方向に進んでいる。

「彼女に迎えに来てもらったらどうだ?電話してやろうか?」

「だめですよ!そんなこと・・・だめにきまってます!」

「どうして?一緒に旅行にも言ったんだろ?」

「どうしてでもだめなんです!大丈夫、一人で帰れますって・・・。おやすみなさい・・・」

 そう言いながら健太郎はふらふらとよろめきながら帰っていた。

「まあ、いいか。死ぬようなことはないだろう」

 俊介もだいぶ酔ってはいたが自宅までは何とか歩いて帰れそうだ。

「明日の外来はつらいな・・・」

 俊介はそう思いながら家路を急いだ。

「ところで・・・」

 そしてふと足を止めてさっきの会話を思い出した。

「俺のことをひそかに想っているナースって誰なんだ・・・?」

 立ち止まる俊介の横を若いカップルが追い越していった。

         カルテ2 「敵」 終わりカルテ3(1/3)に続く

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2008年8月11日 (月)

風の軌跡:カルテ2(2/3)

   *AM 8:00*

 風間俊介の毎日の勤務は病棟から始まる。昨日内科病棟へ入院した患者をまず回診することにしている。しかしこの日の勤務は一般病棟ではなくICU(集中治療室)からはじまった。

「高岡先生、昨日は大変だったそうじゃないか」

「ええ。正確には今日ですが・・・」

 健太郎はさすがに少し疲れたのか、少し不機嫌に答えた。それは眠れなかったことよりICUに入室した片山幸雄が救命はしたものの社会復帰が極めて難しい状態になったことに原因があった。

「現在は血行動態(けっこうどうたい:血圧や脈拍)は不安定ながらも大丈夫そうだな。自発呼吸(機械の力をかりず、自分の力で行う呼吸)は?」

「ありません・・・・」

「発症から蘇生処置開始までの時間はどのくらいだ?」

「・・・約20分少々です」

「20分か・・・きついな・・・。血圧が不安定な状況では低体温療法も無理だな・・・。やはり脳の機能の回復は難しいかもしれないな・・・」

「最初は7-8分だと思ったんですが・・・。あとで奥さんから話を聞いたら・・・心肺停止になってから消防署に連絡するまで15分以上かかったようです」

「奥さんも動揺していたんだろう。しかし・・・15分以上か・・・。ちょっと長すぎるな。奥さんが・・・連絡を故意に遅らせたという雰囲気は感じなかったか?」

 俊介はちょっと声を落として聞いた。

「え?」

「考えたくはないが夫婦間でトラブルがあったような雰囲気はなかったか?」

「それは・・・大丈夫だと思います・・・多分。患者さんは確かに少し短気なところはあったようですが、3歳のお嬢さんのいい父親だったようです。最近独立して事業がうまくいっていなかったようですが、夫婦でがんばって乗り越えようとしていたところらしいです」

「そうか・・・それならいいんだ。そんなことを考えるのは我々の本職とは違うが頭の片隅にはおいておかなくてはいけないからな」

「でも風間先生・・・。蘇生処置はあまり一生懸命しないほうがよかったでしょうか?」

 健太郎が下を向いて聞いた。

「どうして?」

「だって、心肺停止時間が20分以上なら回復する可能性は、まずないと思うんです。こうやって心拍が戻っただけでも奇跡的だと思うんです。多分このまま脳死か、よくても植物状態になる可能性が強いんじゃないでしょうか?それくらいなら最初から蘇生しないほうが患者も家族も幸せなんじゃないかって思うんです」

 ちょっと間をおいて俊介が言った。

「君の気持ちはよくわかる。でもこのまま息を引き取ったほうがよいかもしれないと思うのは俺達医者の思い上がりだと思うんだ。心肺停止の患者がこれからどうなるかなんて病院に来た時点では誰にもわからないんだ。そんな時に医者が人の生き死にを決めるなんてできるはずがないだろう?我々は心肺停止患者を見たらまず全力で蘇生を目指すしかないんだ。家族だって少なくとも今は、患者さんが蘇生せず亡くなってしまうより、とりあえずもち直したことを喜んでいるだろう。それに君だってこの患者さんの処置をしているときに心肺停止から何分かって考えながら心マッサージしていたか?」

「いいえ。高齢の患者さんなら別かもしれませんが、あまりに若かったので、そんなことを考える余裕なんてありませんでした。ただ何とか心拍がもどってくれないかと・・・」

「そうだろう?それでいいんだよ。それに、20分以上心肺停止していたからといって100%意識が戻らないっていう確証はないだろう?可能性はわずかかもしれないがそれを信じて治療していこうじゃないか」

「はい・・・。それにしても俺はこんなに若い心筋梗塞を診るのは初めてです。俺とそんなに年齢も変わらないんです」

「36歳だったな。じゃあ、患者さんを診(み)せてもらおうか」

 俊介はICU病室へ入っていった。

 片山幸雄は口から気管チューブを挿入されていたが、髪の毛や肌のつやから十分若いことが見てとれた。ベッドサイドには夫人と思われる女性が付き添っていた。ICUの帽子とマスクを装着していたのでその表情は詳しくはわからなかったが、かなり憔悴(しょうすい)しているのが俊介にもわかった。

「内科部長の風間です」

「片山の家内です・・・。お世話になります・・・」

 頭を下げる夫人の声は弱々しかった。

 俊介はまず患者のまぶたを開いて、瞳孔を観察した。

―両側とも散大だな・・・。対光反射は・・・なしか―

 俊介は持っていたペンライトを患者の目にかざしながら少し落胆の表情を浮かべた。瞳孔は光を当てると小さくなる。これを対光反射というが、脳の機能が一部残っている証拠になる。医師が患者の目に光を当てて「ご臨終です」というのはこの対光反射がないことを確認しているのだ。片山幸雄に対光反射がないということは脳の機能がかなり障害されているということだ。

―確かにきびしい・・・―

 次に胸部に聴診器を当てながら心電図モニターを見つめた。脈は100とやや早いが不整脈はなく安定している。血圧は86/50mmHgと表示されている。

―とりあえず血圧が維持されているのは高岡先生が、がんばったおかげだな・・・―

 次に俊介は患者の足首に手を伸ばした。

  ―やはりな・・・。FHだ・・・―

「高岡先生。コレステロールの結果はもう出ているか?」

「いいえ。まだ緊急検査だけしか出ていないんですが、もうそろそろわかるころだと思います」

「そうか・・・」

 俊介は夫人のほうに向き直って話しかけた。

「奥さん。高岡先生からもお聞きになったと思いますが、ご主人は心肺停止状態から奇跡的に持ち直しました。しかし現在意識はなく、呼吸も人工呼吸器に依存しています。瞳孔も散大しています。これからのことはなんとも言えませんが、現在ほとんど脳死状態です。意識が回復する可能性はきわめて低いと思います」

「やっぱり・・・脳死・・・ですか」

「残念ながら・・・その可能性が高いと思います。しかし、まだ発症直後です。年齢も若い。今脳死と判断するのはまだ早いと思います。今はしっかりと治療を行い、奇跡を信じましょう」

「はい・・・お願いします」

 夫人はハンカチで目頭をふきながら力なく答えた。

「それにしても、この人が心筋梗塞だなんて・・・こんなに若いのに・・・。本当に心筋梗塞だったんでしょうか?」

「そのことなんですが、ご主人のご両親やご兄弟は心臓の病気はなかったでしょうか?」

「主人の両親は二人とも60代ですが心臓が悪いとは聞いていません。兄弟はいないんです」

「そうですか。ご主人はコレステロールが高いと言われたことはないですか?」

「検診は独立する前に会社でしていたようですが、確かにコレステロールが高いので再検査を勧められていました。でも若いから大丈夫だって言って検査を受けたことはないんです」

「先生。検査結果が出ました」

 ICUナースが検査結果表を持ってきた。俊介が受け取った検査結果表を健太郎も覗き込んだ。

「総コレステロール322mg/dlか・・・。やはり高いですね」

 総コレステロールの正常値は220mg/dl以下である。322mg/dlはかなり高い数字だ。

「ああ。それに悪玉のLDLコレステロールが230mg/dlもある」

 コレステロールには大きく分けて善玉と悪玉がある。HDLコレステロールは善玉、LDLコレステロールは悪玉である。コレステロールが高くても善玉が多ければ動脈硬化はそれほど進行しないが、悪玉のLDLが高ければ急速に動脈硬化が進行し、心筋梗塞や脳梗塞の原因となる。

「コレステロールが高いのが主人の心筋梗塞の原因なんですか?」

 俊介はマスクから見えている夫人の目を見て答えた。

「すべてではありませんが大きな原因のひとつです。ご主人は、多分、家族性高コレステロール血症という遺伝性の病気です」

「遺伝?」

「そうです。コレステロールを処理する遺伝子が欠損しているんです。遺伝子は父方からと母方からとひとつずつ受け継がれます。悪玉のLDLコレステロールは正常なら140以下ですが遺伝子の両方に障害があれば600以上とかなりの高値になり、動脈硬化が急速に進行します。10代で心筋梗塞を発症する患者さんもいるのです。このような患者さんをホモの家族性高コレステロール血症と呼んで10万人に1人の非常にまれな疾患です」

「10代で・・・心筋梗塞になるんですか?」

 片山夫人はびっくりした声で聞いた。

「しかしご主人は多分ご両親のどちらか片方の遺伝子に障害があるのだと思います。片方の遺伝子は正常なわけですからLDLコレステロールも200から300程度までしか上昇しません。このような患者さんをヘテロの家族性高コレステロール血症と呼んでいます。ホモに比べて進行は遅いのですが、一般の人に比べれば動脈硬化はかなり早く進行します。ご主人は多分、ヘテロの家族性高コレステロール血症です。ヘテロの高コレステロール血症は500人に1人くらいで決してまれな病気ではありません」

「でも主人の両親はどちらも心臓が悪いなんて聞いていませんが・・・」

「多分お母さんに障害遺伝子があるのでしょう。女性の場合はコレステロールが高くても女性ホルモンの影響で動脈硬化の進行が遅いのです」

「じゃあ、主人の病気はなるべくしてなったものということですか・・・」

「確かに高コレステロール血症は心筋梗塞の大きな原因のひとつですが、それだけではありません。タバコやストレスなども発症の原因となります」

「主人は短気なほうで・・・。昨年までは建築関係の会社に勤務していたんですが、周りの人と折が合わなくって、けんかばかりしていたんです。これくらいなら自分でやったほうがましだと言って、この4月から独立したんです。でもなかなか依頼主さんともうまくいかなくって・・・。今日も徹夜で見積もりのやり直しをしていたんです。タバコも1日2箱くらい吸ってました」

「それも誘引だと思います。でも病気の原因は今は重要なことではありません。これから我々ができることを一緒に考えていきましょう」

 俊介と健太郎は片山夫人に軽く会釈してICUの医師記録室へもどった。

「先生。家族性高コレステロール血症ですか?」

「ああ。ヘテロFH(FHはfamiliar hypercholesteremia家族性高コレステロール血症の略語)だ」

「先生、検査結果が出る前にわかっておられたんでしょう?なぜすぐにわかったんですか?」

「あとで患者さんのアキレス腱をさわってみるといい。アキレス腱肥厚はFHの特徴だよ」

「そんなこと気にも留めませんでした。でも先生、総コレステロールが300近い患者さんてたまにいるじゃないですか。俺も今年の2次検診で何人か診ました。みんな50-60歳くらいですよ。でも心筋梗塞を発症していた患者さんはいなかったように思いますが・・・」

「家族性高コレステロール血症と普通の高コレステロール血症はぜんぜん違う病気なんだ。普通、コレステロールは年齢が上がるにしたがって徐々に上昇してくることが多い。30-40代になって正常値を超えてくることがほとんどだろう?」

「はい」

「しかし家族性高コレステロール血症の患者の血管は幼少時から高いコレステロールにさらされているんだ。たとえヘテロであっても30歳にもなれば動脈硬化はかなり進行して、いつ心筋梗塞を起こしてもおかしくない状態になっているんだよ」

「なるほど・・・高いコレステロールにさらされている期間が問題なんですね」

「普通の高コレステロール血症の患者さんは、まず食事療法や運動療法をしていけばいいが、家族性高コレステロール血症は診断したらすぐに治療を始めなくてはならないんだ。特に男性はな・・・」

「じゃあ、片山さんもコレステロールが高いと言われた時点で治療を開始していれば・・・」

「多分今回のような発作は起こしていないだろう」

「そうですか・・・。たかがコレステロールくらいと思っていましたが、恐ろしいものですね。本当は今日、河野先生にガンツの入れ方を教えてもらえる予定だったんです。でもこの患者さんが来られたので延期になってしまったんですけど、かわりにいいことを勉強しました」

「俺の部屋に高脂血症の第一人者の馬田教授が書かれた本があるからあとで読んでみるといい。当直ご苦労様だったな。午前中で受け持ち病棟患者の回診を済ませたら帰って休みなさい」

  S市市民病院では当直明けの午後の勤務は免除されている。日本の病院はどこも医師が不足しており、ほとんどの病院では当直明けでも医師は丸一日勤務している。それどころかその次の日も夜中に呼び出されてまる2日間眠れないこともしばしばである。この意味ではS市市民病院の医師は非常に恵まれているといえよう。

 しかし午後の勤務が免除されているからといって、医師たちはすぐに帰宅するわけではない。S市市民病院のほとんどの当直明けの医師は夕方まで勤務を続けている。医師には「同僚の医師や職員にできるだけ迷惑をかけたくない」という思いと、自分の診察を望む受け持ち患者が希望をできるだけかなえたいという思いがあるからである。

 俊介は片山幸雄のベッドをもう一度チラッと眺めてから集中治療室をあとにした。

   *AM 11:10*

 俊介の外来診察日は予約の患者さんで待合室はあふれかえっている。俊介が集中治療室を出たあとで病棟の新患患者の回診を行い、外来に向かったときは9時を少し回っていた。次から次へと予約患者の診察を流れ作業のようにこなし、11時頃には何とか少し落ち着いて診療ができるようになった。

 今日俊介の外来診察についている酒井美穂は今年32歳になる独身の看護師だ。均整の取れたしなやかな肢体に、理知的な涼しい目元と上品な唇が魅力的だ。やや細身だがなかなかのがんばりやで、どんなに忙しくても疲れた顔を見せたことがない。

 この前も38度の熱があるのにそんなことは顔にも出さず、午後1時過ぎまで俊介の外来診察についていた。言葉使いもやさしく、患者の受けも良い。こんな女性が30過ぎまでどうして独身でいるのかみんなが不思議がるが、俊介もそのとおりだと思っている。彼女は仕事もてきぱきとこなすので俊介の今日の外来は混雑していたが比較的スムーズにすすんでいる。そこへ外来師長の山際良子がやってきた。

「先生。胸が苦しいという患者さんがいるんですが、先生の隣の処置室のベッドに休んでもらっていいですか?初診外来の処置室がいっぱいなんです」

「いいよ。診察は初診の先生に任せていいのか?」

「はい。高崎先生から心電図を先にとるように指示を受けましたので、あとで高崎先生に診て頂きます」

―よかった。じゃあ、このままゆっくり診察していてよさそうだ―

 俊介はマイクで次の患者を診察室に呼んだ。

「山口和孝さん。1番診察室にお入りください」

 俊介は患者に近況を尋ね、血圧を測定し、診察を行っていった。変化のない再診患者の診察は初診患者よりもずっと時間は短くてすむ。そこへ山際師長が先ほどの胸痛の患者の心電図を持ってやってきた。

「風間先生。すみませんが、ちょっと心電図、診ていただけませんか?」

「どれどれ・・・」

その瞬間、俊介の顔に緊張が走った。

―AMIだ!―

  そうつぶやきながら俊介の身体は隣の処置室に向かっていた。

「患者さんのお名前とお年は?」

「田中文明さん、34才です。1時間前から胸部違和感と呼吸困難があって、営業の得意先の方が連れてこられたんです」

「田中さん、内科部長の風間と申します。今も胸が苦しいですか?」

 俊介は処置ベッドに横になっている田中文明の顔を見ながら聞いた。

「ええ・・・さっきよりは少し楽なんですが・・・胸になにか、おもりを乗せたような感じが続いています。それから・・・喘息でしょうか?ちょっと息がゼーゼーして苦しいんですが・・・」

 心電計はまだ患者の身体に装着されたままになっている。

―PVCが出ているな・・・―

 PVCとは心室性不整脈の略語である。健康な人にもよく見られる不整脈で、単発で出現している時には問題にならないことが多いが、急性心筋梗塞のときは全く意味が違ってくる。1発のPVCからVF(心室細動)に移行する可能性があるのだ。俊介の脳裏には今朝の片山幸雄の顔が浮かんできた。俊介は患者の胸に聴診器を当てた。

 ―両肺にラ音がきこえる。SPO2(動脈血酸素飽和度)92%か、心不全をおこしているようだな―

「山際師長さん、すぐ血管確保(点滴の針を刺して薬剤をすぐに投与できるようにすること)だ。それから救急室のDC(除細動器)を持ってこさせてくれ。酒井君、酸素マスクで6リットル投与してくれ。それから心電計はそのままはずさないように」

 俊介は山際師長と、酒井美穂に指示を出した。酒井美穂は俊介に言われたとおり手際よく酸素の準備をはじめた。俊介はポケットからPHSをとりだすと循環器内科の河野孝明を呼んだ。

「河野先生。当直明けのところ申し訳ないが、ちょっと内科の処置室まで来てもらえないか?AMIだ」

―34歳のAMIか・・・―

俊介はそう考えながら患者の足首をさわった。

―またFHだ・・・―

 病気というものはおかしなもので、同じ疾患が、集中してやってくることがある。朝、出血性胃潰瘍の患者が来たかと思うと夕方には出血性十二指腸潰瘍の患者が来たりする。もちろん季節的なこともあるのだろうが、俊介はそれだけでは説明できない何かがあるような気がしている。もちろん医者もその疾患が頭に残っているので診断が容易なのかもしれない。

「先生、DC持って来ました」

 山際師長が息を切らして除細動器を運んできた。

「早いな、患者さんの横にスタンバイしておいてください」

 俊介が隣の診察室でカルテを記載しようと座った直後であった。うーんという低いうめき声に続いて山際師長の叫び声が診察室に響き渡った。

「先生!来てください!」

―VFだ!―

 患者の状態を見た俊介はすぐにそう判断した。患者は目を見開いたまま天井を見つめて小刻みに痙攣している。心電図モニターはVFの波形だ。俊介は大腿動脈に手を置いた。

―拍動が触れない!やはりVFだ!―

「DC!200でチャージ!」

 そう言いながら俊介は自分で除細動器のスイッチを押して充電した。3秒後アラームが充電完了を知らせる。

「離れて!」

 俊介は患者の胸についていた心電図電極を一気に払いのけ、2つのパドルを胸に押し当てた。ドン!鈍い音と共に患者の身体がわずかに浮かび上がった。

「どうだ!心電図の電極をつけてくれ!」

 そう言いながら俊介は患者の大腿動脈に手を置いた。患者の痙攣はとまっている。

―拍動がある!(心電図波形も)戻っているはずだ・・・―

「電極つけました!」

酒井美穂が大きな声で言った。

ピッ・・ピッ・・ピッ・・

 患者の波形が正常に戻っている。その直後、患者は大きな息をひとつして「あー」と低い声を出した。

「田中さん!大丈夫ですか?」

 俊介が大声で聞いた。

「・・・はい・・・あ・・どうした・・んですか・・・?」

 田中文明はまだボーとした状態である。

「酒井君、2%キシロカインを5cc静注(静脈内に注射すること)してくれ。師長さん、バイタルをとって下さい(血圧や脈拍をチェックすること)」

 俊介は救急の現場では必ず相手を指定してから指示を出すことにしている。よくテレビドラマで医師が矢継ぎ早に採血や注射の指示をまくし立てているが、それを受ける人間がいなくては指示はとおらない。相手を指定して指示を出すだけの冷静さが救急患者を診る医師には必要なのだ。

「またAMIですか?」

 河野孝明がやっと駆けつてきた。

「そうだ。しかも34歳、またFHのようだ。たった今VFになって除細動したところだ」

「先生の横のベッドでVFになったんですか?それは運のいい患者さんだ」

 エコーの準備をしながら河野は答えた。

―なるほど・・そうかもしれない―

 この患者は今からの治療により多分助かり、元気に職場復帰するだろう。しかし同じような年齢、同じ病気でありながら片山幸雄には通常の生活はもう帰ってこない。

―この違いはどこにあるのだろう。運がいいか悪いかというだけなのか?―

「間違いないですね。急性心筋梗塞です。発症1時間でしたね。今からカテーテル検査をして適応があればPCI(percutaneous coronary intervention:カテーテルにより心臓の血管の狭窄を取り除くこと)に移ります。師長さん,患者さんを血管造影室へ運んで。それから至急家族に連絡を取ってください」

「得意先の人が連れてこられたと言ってたな。先ずその人に隣の診察室に入ってもらってくれ」

 俊介は山際師長に指示した。

「あ・・・風間先生」

 河野が俊介を引きとめた。

「なんだ?」

「高岡先生に手伝ってもらっていいでしょうか?今朝ガンツの入れ方を教える予定だったんです。それが心肺停止の患者が入ったもので・・・。この患者さんも心不全を起こしているようなのであとでガンツを入れようと思うんですが・・・」

「ああ。是非そうしてくれ。彼もきっと喜ぶだろう」

「ありがとうございます」

    *頑張り屋*

 俊介の診察室に恰幅(かっぷく)のよさそうな50歳くらいの男性が入ってきた。俊介は椅子から腰を上げて挨拶した。

「内科部長の風間と申します」

「私、館山商事というイベント関係の仕事をしております野辺山と申します。田中君は心筋梗塞ですか?大丈夫ですか?助かりますか?」

 野辺山と名乗った男性は少し関西弁交じりの早口で俊介に聞いた。

「大丈夫です。一時危険な不整脈が出ましたが、今は落ち着いています。今から検査をして治療に移ります。それで家族の方にお話ししたいのですが、連絡先をご存知でしょうか?」

「はい。彼の家は花屋をやっているんですが、うちに装飾用の花を入れてもらっているんです。彼の父親が昨年他界しまして、そのあとは田中君がお母さんと奥さんと跡をついでがんばっていたんです。あーそういえばおやじさんも心筋梗塞でしたな。突然ぽっくり逝ってしまいました。私は彼のおやじさんにはえらく世話になったんです。田中君はいつも元気がいいんですが今日はどこか具合が悪そうだったので帰って休むように言ったんですよ。でも少し休んでいれば治ると言うのでしばらく会社のソファで休ませていたんです。でも一向によくならないので嫌がる田中君を無理やり引っ張って連れてきたんですよ。頑張り屋で、やさしい男なんです」

―この人は世話好きで話し好きな人のようだな・・・―

  俊介はそう考えながら話の腰を折った。

「つれてきてもらってよかったですよ。それで、奥さんの連絡先は?」

「あーすみません。えっと・・・これです。これが彼の名刺ですわ。この電話番号に連絡すれば奥さんかお母さんがいるはずです」

「ありがとうございます」

  俊介が午前中の外来診察を終えたのは午後2時近くになっていた。田中文明はカテーテル検査とPCIを終え、集中治療室に入室していた。閉塞していた血管にはカテーテルを通して風船をふくらませる治療が行われ、そのあとにステントという金属の筒が血管内に留置された。処置は河野孝明の手馴れた手つきによりスムーズに行われた。

 集中治療室のモニターには高岡健太郎が始めて挿入したスワンガンツカテーテルの波形が映し出されていた。そばでは健太郎が少し得意げにモニターを見つめている。

「田中さん、風間です。ご気分はいかがですか?」

「はい、ありがとうございます。動けないのがつらいんですが、胸はちょっとヒリヒリするだけでさっきのような痛みはもうありません。呼吸も楽になりました。先生が電気ショックで助けてくださったんですか?」

 田中文明の胸にはさっきの除細動のパドルの跡がくっきりと丸く残っている。軽い火傷(やけど)のあとだ。

「いえ、田中さんが助かったのはここに連れてきてくれた野辺山さんのおかげですよ。もし病院の外で不整脈の発作が起こったら田中さんは病院へ来る前に命がなかったでしょう」 

 館山商事にいる時にVFがおこれば、そこにAEDが装備され、誰かがそれを作動させない限り田中文明は助からなかっただろう。

「そうですか・・・。野辺山さんには、なんてお礼を言ったらいいか・・・。それにしてもまさか自分が心筋梗塞になるなんて、思ってもみませんでした。去年親父を同じ病気で亡くしているんです。こんなに若くても心筋梗塞になるものなのですか?」

「それについては・・・ここにいる高岡先生が詳しく説明してくれるでしょう」

    *3日後*

 田中文明はICUを退室し一般病棟に転室となった。しかし片山幸雄の意識は相変わらず戻らない。自発呼吸もなく手足は全く動かない。瞳孔は散大したままで、痛覚(つうかく)刺激に対する反応も全くない。心肺停止で来院した救急患者でも治療が奏功して元気に歩いて帰っていくことはたまにある。しかしそのような患者は、翌日には目を開け、手足を動かすようになっているものだ。片山幸雄のように3日たっても意識が戻らない場合は社会復帰できるまでに回復することはまずありえない。

「ありがとうございました」

 車椅子を押されながら明るく挨拶をする田中文明を見ながら俊介の胸の中には ―同じ病気なのに・・・― と再びやるせない思いがわいてくる。

  カルテ2(3/3)に続く

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2008年8月10日 (日)

風の軌跡:カルテ2(1/3)

風の軌跡ー風間俊介診療録ー:カルテ2「敵」(1/3)

 家族性高コレステロール血症(けつしょう)、急性心筋梗塞、心室細動(さいどう)・・・。全く同じ疾患を発症した二人の若い患者。一人は社会復帰し、一人は脳死状態に・・・。二人の運命を分けたものは・・・。

   *AM 5:32*

「DCもう一回だ!早く!」

「先生!チャージは?」

「200だ!」

 高岡健太郎は心マッサージをしながら大声で叫んだ。 除細動器(じょさいどうき)の表示が200J(ジュール)まで上がり、ランプが点滅する。チャージ完了のアラーム音が鳴る。

「200!チャージできました!」

「よし!パドルをくれ!・・・いくぞ!離れて!」

 除細動は患者が心室細動(VF:ventricular fibrillation)という状態になった時に行われる。

 普段は規則的に拍動している心臓の筋肉(心筋)が細かく震えて血液を送り出すことができないのが心室細動だ。この状態が続けば脳をはじめとした全身の臓器に血液を供給できないので数分後には間違いなく死亡もしくは脳死状態になってしまう。

 除細動を行うためには除細動器、通称DCと呼ばれる機械が必要である。除細動器のスイッチを入れ、放出する電力量を決定して充電した後、パドルと呼ばれる持ち手のついた金属の板を患者の胸にあてる。心臓を挟むように右上胸部と左側胸部にパドルをひとつずつあてて同時にスイッチを押すと放電される。

 最近は自動体外式除細動装置(AED:automated external defibrillator)という簡易型の除細動器が一般向けに普及し、簡単な講習を受ければ一般市民も除細動ができるようになっている。

 ドン!

 鈍い音とともに患者がわずかに浮き上がった。肉の焦げたような匂いが救急室に漂っている。

「どうだ!もどったか?」

 健太郎は除細動器のパドルを握ったままモニターを見つめた。

「だめです!まだVF(心室細動)です!」

「くそ!」

 健太郎はパドルを除細動器の上に放り投げ、心マッサージを再開した。患者の胸部にはパドルの跡が火傷となってくっきりと丸く赤くなっている。

「河野先生は!河野先生はまだ手があかないのか!」

「電話してみます!」

 外来看護師の真田由紀子は河野医師が処置中の血管造影室に連絡した。

「・・・・はい・・・わかりました。高岡先生!あともう少しで終わるそうです」

「早く来てくれ・・・。今日はなんて日だ・・・」

 この日の当直は確かに多忙であった。話は今から1時間前にさかのぼる・・・。

    *AM 4:27*

「高岡先生。君の診断は?」

「聴診で心臓に拡張期雑音があって、肺野のラ音(らおん)も著明です。心電図では心房細動がありますが、心筋梗塞の所見はないと思います。多分、弁膜症の心不全じゃないでしょうか?」

 健太郎の診断を聞いていた河野医師は満足げにうなずきながら言った。

「そのとおりだ。多分、僧帽弁(そうぼうべん)狭窄症(きょうさくしょう)によるうっ血性心不全だろう。さあ、レントゲンで確認しよう。きっと肺は、うっ血で真っ白だろう」

 うっ血性心不全とは心臓のポンプの働きが障害されたために血液を身体のすみずみに充分に循環できなくなる病気である。脳や腎臓などの血液循環も悪くなるが、最も問題になるのは肺である。

 全身から心臓(右心室)に帰ってきた酸素の少ない静脈血はまず肺に送られる。静脈血は肺で酸素をもらって動脈血となってまた心臓(左心室)に戻され、大動脈から全身に送り込まれる。

 心臓(左心室)の機能が障害されると肺から戻ってきた動脈血を全身に循環させることができなくなる。その結果、肺に血液がたまり、肺はみずびたしになる。これがうっ血性心不全である。レントゲンでは肺は真っ白にうつり、血液の酸素濃度は著明に低下する。この患者はまさにその状態になっているのだ。

 卒業して2年目までの前期研修医は一人で当直をすることはない。3年目の後期研修医になれば一人当直が可能となるがS市市民病院では後期研修医も半年間は一人当直をさせていない。必ず4年目以上の内科医が一緒に当直してすぐに相談ができる体制になっている。

 この日の健太郎はたまたま循環器内科医の河野孝明と当直勤務についていた。二人とも夜中の2時頃まで、喘息や熱発などひっきりなしに来院する外来患者の応対に追われていた。午前4時過ぎ、ようやく落ち着いたと思った矢先、70歳の呼吸困難の男性が救急車で転送されてきたのである。

 河野孝明は39歳になる循環器専門医である。心不全や心筋梗塞など循環器救急疾患の診療は得意中の得意だ。がっしりした体格で大学時代はラグビー部に所属し、健太郎の先輩にあたる。

 面倒見のいい性格で、健太郎が前期研修医として内科をローテートしていた時にも丁寧に指導してくれた。最近ちょっと薄くなった髪を気にしている。

「ほら。思ったとおり肺は真っ白だ。真田君、ラシックスを1アンプル静注(じょうちゅう)(静脈内に注射すること)してくれ」 

 胸部レントゲン写真を見た河野はそばにいた看護師の真田由紀子に利尿剤の投与を指示した。利尿剤を投与して尿量を増加させて肺のうっ血を少しでも改善させようとする治療法で、うっ血性心不全の治療にはもっともポピュラーに行われる方法だ。

「高岡先生、ガンツをいれたことはあるか?」 

 ガンツとはスワン・ガンツカテーテルの略称である。心不全など心臓の機能が悪い時にこのカテーテルを挿入すると、心臓の圧力や動きを数字で把握できる。重症の心不全治療には欠かせない道具である。

「入っているガンツを管理したことはありますが、まだ自分で挿入したことはないんです」

「そうか。じゃあ、今日は俺が指導してやるから君が入れてみろ」

「ほんとうですか!お願いします!」

 ほとんど眠れない当直であるが、健太郎のような若い医師にとって新しい技術を習得することはたとえ眠れなくても、むしろ望むところである。また、河野にしても自分の得意な手技を若い後輩に教えることは決しておっくうなことではなく、二人はこの日の忙しい当直の疲れも感じさせないような元気さで、血管造影室に患者を運んだ。

    *AM 5:10*

「消毒は終わったな。じゃあまず内頚(ないけい)静脈を穿刺(せんし)してシースを入れてくれ」

「はい」

 シースとはカテーテルを挿入するためにあらかじめ血管に入れる『さや』である。ほとんどのカテーテルはシースを通して血管内に挿入されるので、カテーテルの操作を行うためにはまずシースを血管に挿入する。

 内頚静脈の穿刺は健太郎も何回か経験しているが、今から新しい手技を行うのだという緊張感がわずかに手を振るわせる。患者はマスクで酸素を投与され、また、利尿剤の効果で尿も流出し始め、最初よりはずっと楽そうに呼吸している。

―うまく入ってくれ・・・―

  健太郎は患者の頭を左に向け、祈るように右の側頚部から斜め下方に向って針を進めた。奥まで穿刺した後、針をゆっくり引いてくると血液の逆流がある。うまく針が血管に入った兆候だ。

―よかった・・・―

  ベテランの医師でも血管をうまく穿刺できた瞬間は安堵感を感じるものだ。ましてや医師になって3年目の健太郎がこのような重症患者にうまく手技を行えたのだからほっとするのは当然だろう。

「よし、入ったな。次はガイドワイヤーだ。ゆっくり入れて」

 河野は健太郎の手技を注意深く観察しながら針の中に細い針金を挿入するように指示した。血管内にガイドワイヤーが挿入できればそのワイヤーを通してシースを挿入することができる。

 その時、電話がけたたましく鳴った。電話をとったレントゲン技師が叫んだ。

「先生!救急入ります!CPAです!すぐ救急室にお願いします!」

 CPAとはcardio pulmonary arrest、すなわち心肺停止状態のことだ。心臓の拍動と呼吸が停止しているが、人工呼吸や心マッサージが施行されて、まだ死亡とは判定されていない状態である。

「なんだって?CPAか!・・・今日はなんて日だ・・・。しかたがない。高岡先生、ガンツはまたの機会にしよう。ここは俺がやっておくから、君は先に救急室へ行ってくれ」

「・・・わかりました」

 健太郎はしぶしぶ手袋と清潔ガウンを脱いで足早に救急室に向かった。

   *AM 5:20*

 救急室にはたった今患者が到着したところだった。救急隊員が心臓マッサージと人工呼吸を行い、真田由紀子が心電図を装着する準備をしていた。

―若い!―

 患者を一見して健太郎は一瞬しり込みした。CPAと聞いて70-80歳くらいの老人を想像して救急室に向かっていた。しかし目の前に横たわっているのは30代か、せいぜい40代の患者だ。こんな若い患者が今、死に直面している。それに対応するのは今、自分しかいないのだ!救急隊員が大声で叫ぶ。

「36歳男性!自宅で倒れ、5時5分救急連絡!自宅到着は5時10分。心配停止状態を確認、直ちに人工呼吸、心マッサージを開始しました。車内に収容してすぐに心電図モニターを装着し、VF(心室細動)の波形を確認しました!」

「VFを確認したんですか?除細動は!」

「除細動を試みましたがだめでした。引き続き人工呼吸と心マッサージを続けながら転送しました。自宅出発が5時13分、病院到着が5時17分です!」

―VFか!―

 VFが確認されれば心マッサージに引き続いて、一刻も早く電気的除細動いわゆる電気ショックを行う必要がある。

「モニターつけました!」

真田由紀子が叫ぶ。

「すみません。マッサージとめてください!」

健太郎が救急隊員に言った。心臓マッサージをしている状態ではモニター波形はきちんと読み取ることができない。心臓マッサージをしていた救急隊員は一旦手を止めた。しかし心マッサージをとめるということは脳に血液が供給されないということだ。医師は瞬時に心電図モニターを見て判断する必要がある。

―くそ!まだVFだ!―

「除細動!DCを!マッサージ続けてください!」

 健太郎が叫ぶと救急隊員が心マッサージを再開し、真田由紀子が除細動器を患者の隣に運んだ。

「高岡先生!チャージは?」

「まず150だ!」

 チャージ完了のアラームがなるや否や救急隊員は場所を空け、健太郎が掴み取ったパドルを患者の胸にあてた。ドン!一瞬患者の体が浮き上がった。

「どうだ!」

健太郎はモニター画面を見つめた。波形は変わらずVFのままだ。

「だめだ!マッサージ続けてください!」

―とにかく気道を確保しないと・・・―

「挿管(そうかん)!サイズは9.0!」

 健太郎は気管内挿管を行なって、人工呼吸器を装着しようとした。健太郎が行った除細動は失敗に終わった。次にすることは強心剤などの薬を投与しながら除細動を繰り返すことだ。

 しかし心肺停止状態のときに心マッサージと同じくらい大切なことは気道確保である。気道確保を行った後、人工呼吸を確実に行い、それから循環状態の改善を目指す。救急の教科書にはABC(Airway, Breathing, Circulation)の順番で記載されている。今この患者の呼吸は救急隊員がアンビューバックという呼吸補助用具で補助しているが非常に不安定な状態である。きちんと気管の中にチューブを挿入して人工呼吸器を装着できれば呼吸状態は安定することになる(最近のガイドラインでは心肺停止直後には気道確保よりも心マッサージが優先されている。それは心肺停止直後にはまだ血液中の酸素濃度が維持されているからである。しかし心肺停止後、ある程度時間がたってからは気道確保と人工呼吸が不可欠である)。

 実は健太郎は気管内挿管もまだ数例しか経験がなく、このような心肺停止患者の挿管はあまり自信がなかった。しかし今はそんなことを考えている場合ではない。河野医師がここへやってくるまでは自分しかこの患者を救える可能性のあるものはいないのだ。

 健太郎は仰向けに寝かされた患者の頭の上へ移動し、そこにしゃがみこんだ。そして喉頭鏡(こうとうきょう)という特殊な器具を使って患者の口を開いてのどの奥を観察した。

―見えた!声帯だ!―

 声帯の奥には気管があるはずだ。その中に挿管チューブを入れればいいのだ。

―頼む・・・入ってくれ・・・―

 気管チューブを持つ健太郎の右手が震える。健太郎はゆっくりとチューブを進めた。

―よし!入った!―

「レスピレーター(人工呼吸器)つないでくれ!酸素100%、呼吸回数20回だ!マッサージ一度止めてください!」

 健太郎は真田由紀子に指示し、救急隊員が行っていた心臓マッサージをいったん中止させて患者の胸に聴診器をあて、肺に空気が送り込まれていることを確認した。

―間違いなく気管に入っている―

 不安だった気管内挿管が成功したことで健太郎の心に少し余裕が生まれた。

「あとはこちらでやります。御苦労様でした!」

 救急隊員にそう言いながら健太郎は救急隊員に代わってすばやく心臓マッサージを始めた。

「すみません!次の救急要請がありましたので失礼します。あと、お願いします!」

そういい残して救急隊員は救急室を後にした。健太郎が心マッサージを開始してまだ十数秒だがその額にはすでに汗がにじんでいた。

 そして5分が経過した。

「モニターはどうだ!」

 そう言いながら健太郎は一時心マッサージの手を止めてモニターを見つめた。

―まだVFだ!―

  少なくとも心室細動が続いている間は心臓マッサージをやめることはできない。やめるとすればそれは死亡判定をするときだ。健太郎は再び心臓マッサージを開始した。時計は午前5時30分を回っていた。

「DC(除細動器)もう一回だ!早く!」

「先生!チャージは?」

「200だ!」

 高岡健太郎は心マッサージをしながら大声で叫んだ。 除細動器の表示が200J(ジュール)まで上がり、ランプが点滅する。チャージ完了のアラーム音が鳴る。

「200!チャージできました!」

「よし!パドルをくれ!・・・いくぞ!離れて!」

 ドン!鈍い音とともに患者がわずかに浮き上がった。肉の焦げたような匂いが救急室に漂っている・・・・・・・・・・・・・。

    *AM 5:45*

「DC!もう一度だ!」

 健太郎は額に汗をにじませて心マッサージをしながら叫んだ。

「はい!」

「今度は250、いや300にチャージしてくれ!」

「はい!」

 充電が完了するやいなや健太郎は除細動器のパドルをつかみとり、患者の胸に押し付けた。

「いくぞ!」

ドン!患者が再び軽く中に浮いた。

「どうだ!」

 健太郎がモニター画面に目をやると患者の波形はまっすぐになった。さっきまでの心室細動のでたらめな波がうそのように消えている。しかし患者の心臓の動きを示す正常の波形もまったく出てこない。

「VFが止まったぞ!でもアレスト(心停止)だ!心臓マッサージを続けなくては!」

 除細動も心停止も心臓が拍動していないことには変わりはない。むしろ心停止はそれまでかすかに震えるように存在していた心臓の動きも全くなくなったということで、より死亡に近づいたともいえる。しかし心室細動が止まったということは今から正常な心臓の拍動が回復するかもしれないということだ。

 健太郎はかすかな望みを持って心マッサージを続けた。テレビドラマでは除細動が成功するといきなり心電図が正常となり、患者も呼吸を始める。しかし心停止から時間がたっている場合はそんなケースはほとんどなく、時にはそのまま心臓が動き出さないことすらある。幸い回復するにしても時間がたってからポツリポツリと心電図の波形が出現してくるものだ。

―このまま心臓が動き出さなかったら・・・俺がとどめを刺したことになるのか・・・―

 そんな思いが健太郎の脳裏をよぎった。

「ドパミン全開!ボスミンを1アンプル静注(静脈注射)してくれ!」

 強心剤投与の指示を出しながら健太郎は心臓マッサージの合間に額の汗を腕でぬぐった。

「どうだ?もどったか?」

 しばらくマッサージを続けた後、健太郎は手を止めてモニター波形を見つめた。

・・・・ピ・・・・・・・ピ・・・・・ピ・・・・

 かすかではあるが患者の波形が出現している。

「でたぞ!いける!」

 健太郎は必死でマッサージを続けた。

―いけるかもしれない―

そんな思いが健太郎の身体にエネルギーを与える。

ピッ・・・ピッ・・・ピッ・・・ピッ・・・

 モニターの波形は徐々に速くなり安定してきている。

「頚静脈は?触れるか?」

 そう言いながら健太郎はマッサージをしている手を止め、自分で患者の首の右側を指で押さえてみた。

「だめだ。マッサージだ!」

健太郎は心マッサージを再開した。心電図の波形が出現しても安心はできない。電気的には心臓が活動していてもその心臓が十分な力で血液を送り出しているかどうかは別問題だからだ。

 頚静脈の拍動が触れないということは、患者の心臓の力が十分でなく、脳に血流が供給されていないことを意味する。この状態では心臓マッサージをやめるわけにはいかないのだ。健太郎は引き続き心マッサージを続けた。患者が運び込まれてからすでに40分が経過していた。

    *AM 6:04*

「どうだ!」

 健太郎は祈るようにモニターを見つめた。

 ピッ・ピッ・ピッ・ピッ・・・

 波形はさっきよりも大きくなり、規則的になっている。

「先生!脈が触れます!」

 真田由紀子が患者の腕を触りながら叫んだ。

「本当か!血圧を測ってくれ!」

「はい。・・・・70・・・・下は30くらいです。」

「よし、マッサージはもういらないな。ドパミンの速度をゆっくりにしよう。1時間15mlで設定してください」

 健太郎は心臓マッサージの手を止め、額の汗をぬぐいながら強心剤の投与量を指示した。そこへ河野孝明が息を切らして救急室へ入ってきた。

「遅くなってすまん!ちょっとてこずっちまった・・・」

「河野先生。今(拍動が)もどりました。血圧も低いですが測れます」

 健太郎は、はやる気持ちをおさえ、わざと落ち着いた調子で答えた。

「そうか!よくやった!・・・発症から蘇生処置開始までの時間は何分だ?」

「えっと・・・救急連絡が5時5分、救急隊到着が5時10分ですから7-8分だと思います。」

「7-8分か・・・ぎりぎりだな。」

 心肺停止になれば全身の臓器への血液供給がなくなる。特に重要なのは脳への血流の途絶である。脳神経細胞はいったん壊死に陥ると二度と戻らない。一般には後遺症なく回復するのは心停止から3分以内に心マッサージなどの蘇生処置を開始した時とされている。この患者では少なくとも7-8分が経過しているのだ。

「完全には回復できないかもしれないな。それにしても36歳のVFか・・・原因は何だ?」

「肥大型心筋症でしょうか?」

「そうかもしれん。よし、心電図だ」

 河野と高岡は二人で心電図の電極を患者に取り付け、記録スイッチを押した。

「・・・多分AMI(急性心筋梗塞)だな・・・」

 記録された心電図の波形を見て河野がつぶやいた。

「エコーで確認しよう。真田君!エコーを持ってきてくれ」

 慣れた手つきで患者の胸にあてた超音波装置のプローブを動かしながら河野は健太郎に尋ねた。

「どうだ?わかるか?」

「はい。心室中隔の動きが特に悪いようですが・・・」

「そのとおり。心筋梗塞に間違いない。心臓を栄養する冠動脈が閉塞して心臓の筋肉が壊死を起こし、心室細動の発作を起こしたんだろう」「じゃあ、カテーテルをしますか?」

「そうだな・・・。どこまで脳の機能が戻るかどうかわからないが・・・。今は心臓に対してやるだけのことはやってみよう。真田君、もう一度、血管造影室の準備をしてくれ!高岡先生、家族にまず今までの状況を説明してくれ。その後でカテーテル検査の話は俺がするから・・・」

「わかりました」急性心筋梗塞は心臓の周りを取り巻く冠動脈という血管の閉塞によって発症する。今からカテーテルを患者の血管に挿入し、閉塞した血管を開く処置をすることになる。それにより冠動脈の血流が回復すれば壊死を起こしかかっている心臓の筋肉の一部は回復し、少しでも心臓の機能がよくなるかもしれない。ただし、処置ができるのはあくまでも心臓の血管のみで、脳の機能が回復しなければ何にもならないのであるが・・・。真田由紀子は救急室の外でじっと待っていた女性を呼んだ。

「片山さん。どうぞこちらへ」

・・・片山幸雄・・・まだ何も記載されていないカルテを見た健太郎はここで始めて患者の名前を知った。これから、この1時間にあったことをすべてカルテに記載しなくてはならない。さらに今からの家族との会話もすべて・・・。健太郎は少し気が重くなったが、何より自分の力だけで若い患者を蘇生できたことが気持ちを上向きにさせていた。

 救急室の隣の準備室に入ってきたのはやせ型でやや小柄な女性だ。

―多分この患者さんの奥さんだろうから30代前半だろうか―

健太郎はそう考えたが、片山夫人は髪もぼさぼさで化粧もできずに飛び出してきたためか、40歳くらいに見えた。

「あの・・・主人は・・・やっぱり・・・」

 病院到着からすでに1時間近くが経過している。その間ずっと祈るように待ち続けたに違いない。最初から夫の死をすでに覚悟しているようであった。

「いえ、奥さん、ご主人はお亡くなりになったわけではないんです」

「え?じゃあ!助かったんですか!主人は生きているんですか?」

「救急車で運び込まれたときは心臓も呼吸も停止した状態でした。しかし幸い心臓マッサージや電気ショックなどの治療が功を奏し、先ほど心臓が動き出しました」

 無意識のうちに健太郎の口調は少し誇らしげな言い方になっていた。

「じゃあ、主人は生きているんですね!」

「危険な状態には変わりありませんが心臓の拍動は戻っており、血圧も安定してきています」

 夫人は感謝の言葉を言おうとしたが言葉にならず、少し下を向いて涙をぬぐった。

「御主人がこうなった原因は心筋梗塞です。心臓の筋肉を栄養する血管が詰まったため、心室細動という危険な不整脈を起こしたのです。今から心臓カテーテル検査を行って詰まっている血管を確認し、可能ならば血管を開く治療を行いたいと思います」

「心臓カテーテル検査・・・それをすれば主人は助かるんでしょうか?」

夫人の質問に健太郎はちょっと言葉に詰まった。

「うまくいけば、今よりは状態は安定するはずです。しかし・・・問題がもうひとつあるんです」

「え?問題って?」

「ご主人の心肺停止の時間が少し長すぎたんです。脳のダメージが予想され、現時点ではどこまで意識が回復するかわからないのです」

「じゃあ・・・命が助かっても植物状態になる可能性もあるんですか・・・」

「残念ながら・・・」

「私が悪いんです・・・。もう少し・・・早く救急車に連絡していれば・・・」

 健太郎は夫人の言葉に一瞬耳を疑った。

「え?もう少し早く?」

「寝室で寝ていたら、がたんと音がしたので飛び起きて下の居間に行ったんです。そしたら主人が床に倒れていて、いくら呼んでも答えないので・・・。私、気持ちが動転してしまって・・・。とにかく病院に連絡しなくちゃと思って、電話帳で一生懸命病院の電話番号を探してしまって・・・。でも何がなんだかわからなくて実家に連絡したんです。それで救急車を呼べって言われてやっと119番することに気がついたんです」

「それが5時5分・・・。じゃあ・・・最初にがたんと音がしたのは・・・何時頃だったんですか?」

「飛び起きて時計を見たときには・・・4時50分ころでした。」

「・・・それで・・・最初にご主人を見た時はどんな状態でした?」

「顔が土色になっていて・・・息をしてませんでした・・・」

 健太郎は言葉を失った。てっきり発症してすぐに夫人が救急車を呼んだものと思っていた。しかし実際には救急隊に連絡があったのは15分も経過してからということになる。しかも夫人が4時50分に患者を見たときにはすでに呼吸は止まっていたようだ。ということは心肺停止状態になってから蘇生処置が始められるまでに20分以上かかっていることになるではないか!20分も脳に酸素が供給されなければこの患者の意識が回復する可能性は皆無に近い。

「片山さん、ちょっと・・・ちょっと待ってて下さい・・・」

 そういい残して健太郎はあわてて患者の寝かされている救急室に戻った。患者の心拍は一応安定しているようだ。血圧も70-80程度を維持している。しかしぴくりとも動かず、自発呼吸もなく、人工呼吸器によって呼吸が維持されている状態である。

―何てことだ・・・―

 そうつぶやきながら健太郎は血管造影室で準備をしている河野に電話で連絡を取った。

“何だって?心肺停止から蘇生処置まで20分以上かかっているのか!”

「すみません・・・。奥さんのお話からするとそういうことになるようです・・・」

 健太郎は力なく答えた。

“高岡先生・・・それは無理だ・・・。意識が戻る可能性はまずないだろう・・・。残念だがカテーテル検査は中止しよう。患者さんをICUに運んでくれ”

「わかりました・・・」

 やっとの思いで自分が蘇生させた患者は社会復帰する望みがなくなった。このまま脳死状態か、よくても寝たきりの植物状態だろう。健太郎は全身から力が抜けていくのを感じた。夫人のところへ戻った健太郎は先ほどとは比べようもないくらい小さな声で説明した。

「残念ですが片山さん・・・今のお話からするとご主人は心肺停止状態になってから蘇生処置がされるまで20分以上かかっていることになります。一般には脳は血流が途絶えてから3分経過すると神経細胞が変性してしまって完全には元に戻らなくなります。7-8分までなら障害は残るかもしれませんが一部意識が回復する可能性はあります。しかし20分以上となりますと・・・ご主人の意識が回復する見込みは、ほとんどありません。今はまだ最終的な判断はできませんがご主人は脳死に近い状態です。カテーテル検査の適応はありません・・・」

「それは・・・その検査をして処置をしていただいてもだめなんでしょうか?」

 夫人はすがるような目で健太郎を見つめた。

「心臓カテーテル検査をして処置ができるのはあくまでも閉塞した心臓の血管だけです。それをうまく開いても脳の機能が戻るわけではないのです。・・・それに・・・脳死に近い状態で身体に負担を与える検査を行うことは検査中に急変する可能性も高くなります。そのリスクを犯すだけのメリットはありません。このまま集中治療室へ移って治療を続けたいと思います」

      カルテ2(2/3)に続く

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2008年8月 9日 (土)

風の軌跡:カルテ1(2/2)

風の軌跡:カルテ1「つまずいた熱意」(2/2)

   *夏季休暇*

 それから3日後の夜8時過ぎ、俊介が自室で書類を書いていると電話が鳴った。

“先生・・・高岡です。今お時間よろしいですか?”

「ああ・・」

“高山さんの件でちょっとご相談したいことが・・・”

「いいよ。書類も一段落したところだ」

―そろそろ来る頃だと思ってたよ―

 そう思いながら俊介は書類をかたつけた。

「失礼します・・・」

 健太郎が少し困惑した表情で入ってきた。心なしか大きな身体が少し小さく見える。

「どうだ?高山さんの痰は少なくなってきたか?」

「はい。最初よりは色もきれいになってきて、ブロンコをする回数も1日1回くらいになっています。血液検査ではCRPや白血球などの炎症反応もよくなってきています」

「よかったじゃないか。君の努力の賜物(たまもの)だな。患者さんも喜んでいるだろう?」

「はい。少しずつ元気になっているんですが・・・」

「じゃあ何が問題なんだ?」

 俊介の質問に健太郎はちょっと間をおいて小声で話し始めた。

「実は先生・・・個人的なことで申し訳ないんですが・・・。俺、明日から4日間、夏休みなんです」

「あーそうだったな。なるほど・・・その間、高山さんがブロンコを希望したときにどうするかってことか?」

「はい・・・。痰の状態は大分よくなっているんですが、まだ4-5日はブロンコが必要になると思うんです」

「津川先生には相談したのか?」

「それが・・・先日しかられてから、なんとなく顔をあわせづらくって・・・。それに津川先生は最初から気管切開を勧めておられるので、ブロンコで吸痰(きゅうたん)をするなんていうことはしてもらえそうにないです」

 俊介は静かにうなずいて健太郎の顔を見ながら聞いた。

「君の夏休みをずらすことはできないのか?」

「それが・・・友人と旅行に行くことになっているんです。友人にも予定がありますから・・・」

「なるほど。彼女と一緒ってことか」

 俊介は少し口元を緩ませて聞いた。

「すみません・・・。まあ・・・そんなところです」

 健太郎は申し訳なさそうに大きな身体を小さくして答えた。

「それで・・・先生にお願いなんですが・・・」

―そらきたぞ・・・―

「先生から津川先生にお願いしてもらえないでしょうか?」

 俊介は黙って腕組みをしてしばらくして考え込み、ゆっくりと口を開いた。

「君の言いたいことはわかる。でも津川先生の治療方針をムリに変更したのは君じゃないのか?津川先生は最初から気管切開をして吸痰をスムーズに行うという方針で患者さんにも説明していただろう?そうしていれば今頃は気管切開も終わって君も心置きなく彼女と旅行に行けたはずだな?」

「それはそうです。でも患者さんにとっては気管切開をせずにブロンコで吸痰を続けてよくなればそのほうがいいじゃないですか。先生はいつも患者さんにとって一番いいと思う治療を選択するようにおっしゃってるじゃありませんか。今回のことに関しては津川先生より俺のほうが正しいと思っているんです」

 健太郎はちょっと胸を張って少し声を大きくして答えた。

「でも君が休みを取るとそれができなくなるってことだろう?」

「そうです。だから津川先生に俺に代わってブロンコの吸痰を続けてもらいたいと思うんです」

 ほんの少しの沈黙の後、俊介が健太郎の目を見ながら言った。

「高岡先生。甘えたことを言っちゃいけない」

 いつになく強い俊介の口調に健太郎は言葉を失い、呆然(ぼうぜん)として俊介を見つめた。

「そこまで患者さんのことを考えて治療していると胸を張るのならば君は休みをとるべきではないだろう?」

 俊介はソファに背中をあずけて、ちょっと間をおいてから話を続けた。

「君は自分が一番いい治療を選択していると言うが、その治療は現実的に行き詰っているわけじゃないか。君がいなくなればどうしようもない状態になっているんだろう?確かに俺は患者さんにとっていつも一番いい治療をしろと言っているが『できない治療』をしろとは言っていない。君が始めた治療はS市市民病院では本来『できない治療』なんだ。いや、どこの病院でも事情は同じだろう。病院は一人の患者さんだけを診(み)ているわけではないんだ」

 俊介はちょっと間を置いて話を続けた。

「君はこの一週間、夜中や外来中にも呼び出されてブロンコをしていたんだろう。睡眠も十分とれなかったんじゃないのか?」

「はい・・・。この一週間は高山さんのことが気になってあまり眠れなかったです」

 健太郎は下を向いて答えた。

「それは君の他の業務にもマイナスになっているわけだ。君が診(み)ているほかの患者もちょっとずつその割を食らっていることになる。君だけじゃない。外来のナースだって君が使った気管支鏡の準備や後始末にかなりの時間をさかなくてはならない。それに高山さんが今回気管切開をしなくてすんだとしても、これから同じような気管支炎や肺炎は何回も繰り返すだろう。そして脊損(せきそん)の患者さんは高山さんだけじゃないぞ。君はそのたびに同じように対応できるというのか?津川先生はそれらのことを考えた上で今が高山さんに気管切開を選択する時期だと判断したんだ。その判断は総合的に考えれば病院にとってもドクターやナースにとってもさらには患者さんにとっても一番いい判断だったと俺は思う」

「じゃあ先生は・・・俺がやってきたことは間違いだったと・・・」

「そうは言っていない。君のやったことは立派だ。一人の患者さんのために何日も24時間がんばれるなんてたいしたもんだ。ただ医者も人間だ。食事や睡眠はもちろん休暇だって十分とる必要がある。それができなくなるような治療は『できない治療』だということだよ。『患者のため』・・・響きのいい言葉だが、それを口に出すからには俺達はそれなりの覚悟をしなくてはならない。それができないなら他人の治療方針に軽々しく口を挟むべきではない」

 健太郎は俊介の言葉をじっと黙って聞いていた。そして小さな声で言った。

「じゃあ・・・高山さんにとっては・・・今の時点で気管切開をするのが一番いい治療だと・・・」

「そのとおりだな」

「でも、今から高山さんに気管切開をしろなんてとても言えません」

 健太郎は泣きそうな顔になって俊介を見つめた。

「そうだろうな・・・。患者さんの今の気持ちを考えれば誰もそんなことは言えないだろう」「じゃあ・・・俺はどうしたら・・・」

 健太郎は困惑した声で聞いた。すると俊介は急に優しい目になって語りかけるように言った。

「高岡先生、心配するな。君がいない間は俺がブロンコで吸痰するよ」

「え?風間先生が?」

「ああ。4日間だろう?その間に津川先生と一緒に高山さんに気管切開のことを説得してみるよ」

「でも先生、失礼ですがブロンコもされるんですか?」

「少なくとも君よりは上手だと思うがね・・・」

「そんな・・・本当ですか。じゃあ・・・本当に先生にお願いしていいんですか?」

健太郎は急に明るい表情になって俊介を見つめた。

「ああ。病棟には俺から連絡しておくから・・・」

「ありがとうございます!それと・・・津川先生に謝らないと・・・」

「旅行から帰ったらそうするといい」

「はい」

健太郎は明るい声で返事をしてゆっくりと立ち上がった。

「ところで高岡先生。彼女とどこへ行くんだ?」

俊介は健太郎を見上げて笑顔で聞いた。

「北海道へ行こうと思っています」

「北海道か・・・。高岡先生のイメージだと沖縄の海って感じだけどな」

「彼女が・・・虫が嫌いなので・・・。暑いところはだめなんです」

「虫が嫌い?」

「蚊が苦手らしいんです」

―蚊が苦手?蚊は俺だって好きじゃないが・・・。それが旅行先を決めるほどのことなのか?こいつはなんとなく尻にしかれそうな感じだな―

「彼女とは長いのか?」

「いいえ。まだ付き合い始めて2ヶ月なんです。旅行に行くのは今度が初めてなんです

」ちょっと顔を赤らめながら健太郎が答えた。

「そうか。それでいつ帰ってくるんだ?」

「それが・・・日曜日の夜なんです。その便の飛行機しかとれなくて・・・すみません」

健太郎は申し訳なさそうに頭を下げた。

「いいんだ。ゆっくりと楽しんでくるといい。でも事故だけは気をつけてな」

「ありがとうございます。お土産買ってきますから・・・。じゃあ、失礼します!」

勢いよく出て行く健太郎を見送りながら俊介はソファーに背をもたれかけてふっと息をついた。

「彼女とはじめての旅行か・・・。俺にもそんな時代があったかな・・・」

俊介は自分の学生時代を思い出しながらしばらく目を閉じてまどろんでいた。俊介の頭の中に遠い昔のなつかしい思い出がよみがえる。

「さて、病棟のナースに伝えておくか・・・」

   *内科病棟*

  俊介は高山の入院している病棟に向かった。日勤のナースはほとんど仕事を終え、夜勤のナースは病棟の巡回に出ているようだ。ふと見回すとシャーカステンの前に人影がある。

「津川先生じゃないか・・・今日は当直じゃ・・・なかったよな。まだ帰れないのか?」

「風間先生も遅くまでお疲れ様です」

 津川信行は40歳になる呼吸器専門医だ。長身の痩(や)せ型で目が鋭く、きむずかしそうな印象でちょっと近寄りがたい雰囲気もある。しかし仕事熱心で、やりかけたことは納得するまでやりとおす。半面融通(ゆうずう)のきかないところもあるが、彼に対する俊介の信頼は厚い。

「重症でもいるのか?」

「いいえ、そんなわけじゃないんですが・・・。ちょっと気になる患者がいて・・・」

 津川はカルテの表紙を俊介に見せながら言った。

「ああ・・・高山さんか。脊損(せきそん)で肺炎を併発した患者さんだな?」

俊介はちょっと意外に思ったが、表情には出さずにそう答えた。

「はい。実は気管切開をする予定だったんですが高岡先生がここ数日気管支鏡で吸痰してくれているのでまだしていないんです。でも彼は明日から夏休みなので、その間僕が気管支鏡で吸痰(きゅうたん)しようと思って、今彼のレポートを読んでいるところなんです」

 俊介はびっくりして聞いた。

「でも先生は・・・気管支鏡での吸痰には反対じゃなかったのか?」

「はい。今でも高山さんは早めに気管切開をしたほうがいいと思っています。これからのこともありますから・・・。でも、彼はもうしばらく今の治療を続けてほしいと希望しているんです。実際、吸痰の間隔も少しずつ伸びて、僕もひょっとしたら今回は気管切開をもう少し先に延ばせるかもしれないとも考え始めているんです」

「じゃあ君が明日から4日間、24時間高山さんの吸痰に対応するのか?」

「まあ、40を超えた身体には少々つらいんですが・・・。彼のように1週間は無理でも3-4日間くらいなら何とかがんばれると思います。その間様子を見て、だめそうなら気管切開をもう一度説得してみます」

―さすがだな・・・。津川先生もプロだな・・・―

「そうか・・・大変だけど、がんばってくれ」

「はい。でも・・・先生だから言えるんですが・・・。僕は今度の件で少し高岡先生に嫉妬(しっと)していたんです」

「え?津川先生が?それは・・・患者さんが高岡先生を信頼するようになったから?」

「いいえ!そうじゃないんです!なんていうか・・・高岡先生の気持ち・・・に対してでしょうか?」

「気持ち?」

「はい。僕は患者さんが希望したときに気管支鏡で吸痰するなんていうことはまったく考えなかったんです。そんな自分やナースに負担のかかる治療を選択するなんていう考えは頭の中に全然ありませんでした。高岡先生が24時間待機して気管支鏡で吸痰するって言い出した時、何か自分にない大切なものを持っているような気がしたんです」

「なるほど・・・でもそれは多分、彼がまだ若いからだと思うよ」

「そうかもしれません。でも自分も彼くらいの時には同じようなことを考えていたような気がして・・・。その気持ちが今、なくなっている自分に気がついたんです」

「それで彼に引き続いて気管支鏡で吸痰(きゅうたん)をしようと・・・」

 俊介はうなずいた。

「高岡先生には変につらくあたってしまって・・・。彼の休みが終わったら謝ろうと思っているんです」

「彼が帰ったらそうするといい・・・」

 俊介は先ほどと同じ言葉を繰り返す自分に少し苦笑していた。

―北海道のお土産は津川先生にあげなきゃいけないな・・・―

   *夜空*

 内科病棟をあとにした俊介が外科病棟の前を通りかかると師長デスクの前に人影が見えた。

「やあ、佐々木師長さん。まだ仕事か?」

 俊介はひっそりした外科病棟のナースセンターに入って挨拶した。

「あら風間先生。先生も遅くまで大変ですね」

 外科病棟の佐々木和子師長が顔を上げて俊介に答えた。

「何か問題でもあるのか?」

「それが先生、ナースが一人風疹(ふうしん)にかかって明日から5日間、仕事に出れなくなっちゃったんですよ。」

「風疹(ふうしん)か?それは大変だ」

 風疹(ふうしん)は子供の病気と思われているが大人になってからかかることも多い。最近予防接種を受けていない人たちが増えたことと、小さい時に予防接種を受けても大人になってから抗体価が下がってしまうことがあるからだ。風疹自体は三日ばしかとも言われるように3-4日で熱も下がり重篤(じゅうとく)な合併症を起こすことはまれである。

 しかし怖いのは妊婦が風疹に罹患したときで、胎児の心臓や聴覚などに障害が起こることがある。これを先天性風疹症候群という。

 妊娠したときに妊婦に十分な抗体があれば感染は防げるので女性は妊娠可能な年齢になる前に血液検査をして抗体価を測定し、低ければ予防接種をもう一度受ける必要がある(抗体価を測定せずに風疹の予防接種を行っても問題はない)。今でも毎年数名の先天性風疹症候群の胎児が出産される。さらに妊娠中に風疹に感染したことを理由に中絶した妊婦もかなり多いはずだ。予防接種をするだけで防げるのに不幸な結末を迎えてしまうことに俊介はやりきれなさを感じる。

 昔は風疹の予防接種は、予防接種法によりほぼ強制的に集団接種が行われていたが、平成6年の法改正により接種を受けるか否かは本人(保護者)の意思が尊重されるようになった。その結果、予防接種を受けていない子供の数は増えてしまった。

 なぜ強制接種が中止されたのか?それは予防接種にわずかではあるが脳炎や髄膜炎などの重篤な副作用が報告されたからだ。そのため行政は予防接種の責任を個人に預けてしまったわけだ。

 同じ理由で日本では麻疹(ましん)の罹患率も他の先進諸国に比して高く、麻疹輸出国との批判を受けている。予防接種にはわずかに副作用の可能性はあるが、その疾患が発症したときの個人や社会に対する影響を考えれば、麻疹(ましん)や風疹などの重要な予防接種は行政が強制的に行ってもよいのではないだろうかと俊介は思う。

 もっとも行政がこのような方法をとらざるをえないのは、合併症が起こった時に世論が、国や担当者の責任を強く追及するようになったからで、このような事態を改善するためにはまず国民の意識そのものを変えなくてはならないだろう。

「さっきからその子の勤務の穴埋めに四苦八苦してるんですけどね、最近の若い子は常識がなくて・・・」

 佐々木師長がメガネをはずして疲れた顔でつぶやいた。

「その風疹(ふうしん)のナースのことか?」

「そうじゃないんですよ。その子が4日後の日曜日夜勤なもんですから同級生のナースに交替を頼んだんですよ。ほら、先生もご存知の南川沙紀さん」

「ああ、最近内科病棟から外科病棟に勤務交代になった・・・」

 南川沙紀は卒業4年目のナースで26歳。1ヶ月前まで内科病棟に勤務していたので俊介もよく知っている。やや小柄だが、はっきりと物を言うタイプで俊介も一度、酒の席で部下の医者に対する態度が甘すぎると叱責された覚えがある。大きな二重のくりっとした目をしていて笑顔がかわいらしくレイヤーボブのショートカットがよく似合う。勉強熱心で、看護技術も4年目にしてはなかなかのもので、勤務交代が決まった時も少し残念だった思いが俊介の記憶に残っている。

「その彼女に何か問題が?」

「南川さん、実は明日から4日間休みを取っているんですけど、半日だけ休みを切り上げて日曜日の夜勤をお願いできないかしらって頼んだんですよ。そしたら友達と旅行に行くからだめだって。翌日の日勤を半日ずらすだけなんですよ。しかも同級生が病気で休むのに・・・」

「明日から4日間休むのか?」

「ええ」

―そういうことか・・・―

俊介は思わず笑いがこみ上げてきた。

「先生もおかしいと思うでしょ?」

「え?いや・・・でも、旅行に行くのならしょうがないんじゃないのか?飛行機の時間だって簡単には変えられないだろ?」

「・・・先生・・・同じこと彼女も言ってましたよ。彼女が飛行機で北海道へ行くって御存知なんですか?」

「いや・・・あの・・・夏休みの旅行だから・・・海外でも行くのかなって思っただけだよ」

 俊介はちょっとしどろもどろに答えた。

「そうですか・・・。まあ・・・飛行機が取れないんじゃ仕方ないですかね・・・」

 佐々木師長はまたメガネをかけて、ため息をつきながら勤務表に目をやった。 俊介が病院を出た時はすでに11時を回っていた。7月に入って梅雨も上がり、涼しい風が気持ちいい。ふと空を見上げた俊介は思わず小さな声を上げた。

「・・・明るい・・・」 

 白鳥座がもう頭の上にある。夏の大3角形が天上に大きく広がっている。

「あれが白鳥座だ・・・。するとあれが、こと座のヴェガ・・・。あれが・・・わし座のアルタイルだったっけ・・・」

ふと俊介は気がついた。

「そうか・・・明日は・・・」

7月6日の夜空には天の川が明るく輝いていた。

    カルテ1 「つまずいた熱意」終わりカルテ2(1/3)に続く

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2008年8月 8日 (金)

風の軌跡:カルテ1(1/2)

風の軌跡ー風間俊介診療録ー:カルテ1「つまずいた熱意」(1/2)


「患者にとって一番いい医療をしたい」

脊髄損傷の患者の痰を吸引するために24時間体制で気管支鏡を行う決意をした後期研修医、高岡健太郎だが・・・

              *帰り際の訪問者*

 6月も終わりに近づいたがまだ梅雨は明けず、蒸し暑い日が続く。

「今日は珍しく何もなかったな・・・」

午後8時、仕事を終えた風間俊介は内科部長室で帰り支度をしていた。今日のように病棟患者の急変や救急患者の搬送が朝から一人もない日は珍しい。

 俊介がS市市民病院の内科部長に就任して3年が過ぎた。大学の講師時代の彼は、助教授への道へ進むことを考えていた。しかし、結局は大学の研究主体の生活よりも、臨床(りんしょう)の面白さを捨てきれず現在の道を選ぶことになった。彼も研究は好きで、できれば大学に残りたいとも考えたが、患者を自分で診(み)るということへの愛着を捨てきれず結局この地位を選んだ。

 S市市民病院はベッド数300床の中堅病院である。人口10万人のS市では中心的病院で、特に内科に関しては俊介の人当たりのよさや診たての確かさもあり開業医や小病院からの紹介患者があとをたたない。

 俊介が帰り支度をして自室を出るやいなや、高岡健太郎に後から呼び止められた。

「風間先生!」

「高岡先生・・・どうした?そんなに息を切らして・・・」

高岡健太郎は27歳、大学を卒業して3年目の後期研修医である。日本では2004年から現在の研修医制度が開始された。6年間の医学部を卒業後、国家試験に合格したものは医師免許を習得するわけだが、その後2年間は前期研修医として大学病院をはじめとした全国の研修病院に就職する。

前期研修医の2年間は指導医のもとに内科、外科、小児科などをローテートして一般医療の知識と技術を身につける。給料はもらえるが当直など責任のある診療を一人で行うことはなく、いわば半人前ということである。そして3年目からは自分の専門領域を決め、後期研修医としてほぼ1人前の医師として出発することになる。

 身長185cm近くはあろう大柄な図体(ずうたい)は後ろから見ると威圧的にも感じるが、話をすると素朴で、どこか人懐こい印象を受ける。性格は一途で診療態度も熱心で、医療に対する情熱をうかがわせる。学生時代はラグビー部でかなり鍛えこんだらしい。俊介も173cmと小さいほうではないが健太郎と話す時は上目遣いになってしまう。

「風間先生、お帰りのところすみません!ちょっと相談したいことが・・・」

「ああ・・いいよ。入りなさい」

 俊介は閉めたドアをもう一度開けると上着をハンガーにかけなおし、健太郎をソファに座らせた。

「風間先生、聞いてください!ちょっとひどいと思うんです!」

 座るや否やせきを切ったように話し出す健太郎をなだめるように俊介は笑顔で聞いた。

「どうしたんだ?またナースが君の指示を受けてくれなかったのか?」

 健太郎はむっとして答えた。

「違いますよ、先生!今日はそんなんじゃないんです!」

 健太郎はソファに座りなおして話を続けた。

「この前、俺、ブロンコができるようになったって話したでしょう?」

 ブロンコとは気管支鏡の略で、細いファイバーを口から挿入して気管および肺を観察する検査である。

「ああ。呼吸器内科の津川先生についてずいぶん一生懸命勉強していたな」

「はい。おかげで何とか自分で麻酔をかけてファイバーを挿入して観察できるようになったんです」

 ファイバーがのどを通るときは嘔吐(おうと)反射がおこる。のどに挿入された異物(ファイバー)を排除しようとして強い吐き気がおこるのだ。患者にとっては非常に苦しいことだ。気管支鏡検査を行うときはこの嘔吐反射を防止するために麻酔薬を口腔(こうくう)内に含ませてしばらくゴロゴロとうがいをさせる。これが咽頭(いんとう)麻酔である。その後、麻酔薬を霧吹きのような器具で10分くらい吸入させて気管や気管支の反射を抑制する。

「ずいぶんと上達が早いじゃないか」

「ありがとうございます。だって一生懸命勉強しましたから・・・本当ですよ!ブロンコの本だって何冊も読んだんです」

 健太郎は得意顔で答えた。

「で、そのことがどうかしたのか?」

「・・・はい・・・そんなことじゃないんです!昨日、俺は当直だったんですよ」

「そうだったな、当直明けなのに、またこんなに遅くまで帰