最後の贈り物
2作掲載し、ようやく少し慣れてきました。3作目の短編小説、筋萎縮性側索硬化症の夫と彼をささえる妻に訪れた奇跡、「最後の贈り物」を掲載します。
「最後の贈り物」
・・・愛の力は不思議な奇跡をおこします・・・
『さ・む・い』
「はい。ちょっと待ってね、あなた」
笑美子さんは病室の入り口のエアコンのスイッチを少し弱くしました。
『あ・り・が・と・う』
ベッドに寝たままの孝一さんが目を細かく動かすとディスプレーに文字が1文字ずつ映し出されます。
「すぐ暖かくなるわ」
笑美子さんは孝一さんの横に座って笑顔で答えました。
孝一さんが体調の不良を感じ始めたのは3年前、56歳のときでした。体重が減ってなんとなく疲れやすくなり、もともと高血圧で通院していた主治医の先生から神経内科受診を勧められ、診断が下されました。
筋萎縮性側索硬化症(きんいしゅくせいそくさくこうかしょう)。それが孝一さんの病名です。 孝一さんの症状は、はじめのうちはなんとなく手足に力が入らない程度でしたが徐々に進行して車椅子が必要になり、そして半年前からは手足の自由は全く利かなくなり、ついに寝たきりの生活を余儀なくされてしまいました。
そればかりではありません。自力では呼吸をすることができないのでのどに穴を開けてチューブを入れ、人工呼吸器の助けを借りて呼吸しています。もちろん声は出せません。食事を食べることもできず胃に挿入されたチューブを通して直接栄養を1日3回送り込んでいます。今の孝一さんに動かせるのは目の周りのほんのわずかな筋肉だけなのです。
そのわずかな目の動きをコンピュータが感知してディスプレーに文字を映し出します。孝一さんは耳は聞こえますし、意識も正常ですから笑美子さんの声を聞いて文字で返事をすることができるのです。
筋萎縮性側索硬化症(きんいしゅくせいそくさくこうかしょう)は英語でamiotrophic lateral sclerosis(ALS)、略してアミトロともよばれる神経の病気です。40から50代以上の男性に多く発症し、原因は不明です。治療法はなく、進行すれば孝一さんのように人工呼吸器をつけたり胃に栄養チューブを挿入したりすることになります。呼吸筋の力も落ちるので痰を十分に出せないために定期的に吸痰(きゅうたん)チューブをのどに開いた穴に入れて痰を吸引する必要があります。最後は肺炎で亡くなる方が多いのです。
孝一さんと笑美子さんはこの病名を聞いた時は途方にくれました。絶望して二人で自殺を考えたこともありました。しかし同じ病気と戦っている多くの患者さんや家族の人たちに励まされて精一杯二人で生きていこうと決心したのです。
「テレビでも見る?」
笑美子さんが孝一さんに聞きました。
『つ・か・れ・た・か・ら・ね・る』
孝一さんが表情も変えずに目を動かして答えます。表情はありませんが孝一さんも笑顔なのです。笑美子さんもそれがよくわかっています。微笑みながら布団を孝一さんの身体にかけました。
不幸というものは重なるものです。実は孝一さんの病気はこれだけではないのです。孝一さんは1ヶ月前、肝臓癌、それもかなり末期の肝臓癌という診断を受けました。あと3ヶ月の命だそうです。もともと孝一さんはB型肝炎というウイルスによる肝臓の病気にかかっていました。B型肝炎の患者さんは慢性肝炎や肝硬変になることが多いのですが、時として肝臓癌を発症することがあります。
癌の告知を受けたとき孝一さんは驚きませんでした。このままずっと生きていれば妻や息子に迷惑をかけてしまう。末期癌ならそれも長い期間ではなくなるだろう。優しい孝一さんはそんな気持ちだったのかもしれません。
しかし笑美子さんは悲しみました。孝一さんの前では気丈に振舞っていましたが一人になった時には悲しくて悲しくて涙が止まりませんでした。なぜあの人だけが・・・なぜ私たちだけがこんな目にあうのだろう?何も悪いことはしていないのに・・・。この世には神様なんていないんだ・・・。毎日毎日そんなことを考えていました。でも最近になってやっと気持ちの整理がつき、残されたわずかな時間をできるだけ二人で有意義にすごす決心をしたのです。
笑美子さんは孝一さんより5歳年下ですが、二人の間には孝志さんという今年28歳になる息子さんがいます。孝一さんが経営していた小さな会社を引き継ぎ毎日がんばっています。自立するために家から出て一人でアパート暮らしをしています 。
「そんな・・・孝志、5千万なんて・・・」
笑美子さんが心配そうに息子の孝志さんを見つめます。
「今ここで設備投資しておけば何倍にもなってかえって来るんだよ。今のままじゃ生存競争に勝てないんだ。わかってくれよ」
孝志さんは笑美子さんをじっと見つめて説得します。
「でも孝志・・・土地と家が抵当になるんでしょう?もし借金を返せなかったら私たちには帰る家がなくなってしまうのよ」
笑美子さんはベッドの上の孝一さんをチラッと見つめながら孝志さんを説得しようとします。孝一さんは何も言わず、それでも目だけはじっと孝志さんを見つめています。
「だいじょうぶだよ。親父の代から懇意(こんい)にしていた銀行で金利は高くないから返す額は毎月そんなに多くないし・・・ね?いいだろ?父さん」
孝志さんは幸一さんを見つめて頼み込むように言いました。
『お・ま・え・の・も・の・だ・ ・す・き・に・し・ろ』
孝一さんが目を動かして答えます。
「本当?いいの?」
孝志さんはうれしそうに目を輝かせて動かない孝一さんの手を握りました。
「あなた・・・帰る家がなくなってしまうかもしれないのよ」
笑美子さんが心配そうに孝一さんに話しかけます。
『ど・う・せ・お・れ・は・か・え・れ・な・い・ ・は・は・は』
笑美子さんは思わず噴出してしまいました。笑うことのできない孝一さんの精一杯の表現なのです。孝一さんはつらいときには昔からいつもユーモアたっぷりの会話で笑美子さんの心を和ませてくれました。笑美子さんにも孝一さんの今の気持ちが痛いほどよく分かりました。
「感謝するよ、父さん。心配するなって。きっと父さんが作った会社をもっと立派にして見せるよ。見ていてくれ!」
孝志さんはそう言いながら意気揚々と病室から出て行きました。
「孝志も立派になったわね」
笑美子さんは孝一さんを見つめて言いました。
『い・う・こ・と・だ・け・は・な』
笑美子さんはディスプレーを見て、またくすっと笑いました。
それから1ヶ月がたちました。孝一さんはますますやせて腹水がたまって少しおなかが大きくなり、皮膚もちょっと黄色くなってきていました。最後の時は確実に近づいているのです。
笑美子さんはそんな孝一さんの変化を見てみぬふりをしていました。残された時間はもう1ヶ月もないかもしれません。笑美子さんは孝一さんに最後の時が訪れることを認めたくなかったのです。孝一さんは眠っている時間が長くなりました。ディスプレーを使った会話も今では1日のうちほんの数回になりました。
笑美子さんがソファに座って孝一さんの寝顔を見つめていると静かにドアが開いて孝志さんが入ってきました。
「父さんは?」
「寝てるわ」
笑美子さんが人差し指を自分の口に当てて静かに答えました。
「そう・・・」
孝志さんはそう言いながら笑美子さんの隣に静かに座りました。
「かあさん・・・じつは・・・」
孝志さんは笑美子さんの顔を見ないでちょっとうつむいたまま話しはじめました。
「資金繰りがうまくいかないのね」
笑美子さんが優しい声で聞きました。
「知ってたの?」
孝志さんはびっくりして笑美子さんの顔を見つめました。
「だいたいね。おととい会社へお父さんの物を整理しに行ったらみんなの雰囲気がね・・・」
笑美子さんは静かに答えました。
「ごめん・・・父さんと母さんの家、手放さないといけないかもしれない・・・」
申し訳なさそうに小声で話す孝志さんを見ながら笑美子さんは優しく言いました。
「いいのよ。お父さんがいなくなったら私一人で住むには大きすぎるもの。でも、お父さんには最後まで言わないでね」
「わかったよ。ごめん・・・」
二人は眠っている孝一さんをじっと見つめていました。
次の日、笑美子さんは病室に花を飾っていました。明日は孝一さんの60歳の誕生日です。今の孝一さんは好きだったお酒もケーキも口にできませんが、せめて花を飾って還暦のお祝いをしてあげたい。そう思って笑美子さんはきれいな花を買ってきました。病室の掃除もいつもより念入りにしました。
「笑美子」
「え?」
笑美子さんははっとして振り返りました。確かに孝一さんが自分の名前を呼んだような気がしたのです。でも孝一さんはベッドに寝たままでじっと笑美子さんを見ているだけです。
―そうよね、呼吸器がついているんだから言葉が出るはずなんてないのに・・・私ったら最近おかしいのかな?―
そうです。最近笑美子さんは今と同じように孝一さんが自分を呼ぶ声が時々聞こえるのです。
―きっと私も疲れているのね。でもやっぱり私ってこの人のことを愛しているんだわ。もう一度・・・私の名前を呼んでほしい。そんな気持ちが幻覚になるのね―
笑美子さんがふと顔を上げると病室に飾ってあるカレンダーが目に入りました。
―そう。30年前の今日、あなたと始めて出会ったのね。初対面なのに『明日は僕の30歳の誕生日だからなんかくださいって言ってたっけ・・・。私が困った顔をしていたら、じゃあプレゼントの代りに今度デートしてくださいって・・・。最初から変な人だったわね―
孝一さんの寝顔を見つめながら笑美子さんは昔のことを思い出していました。
―色々なことがあったわね・・・―
孝一さんとの思い出を一つ一つ振り返る笑美子さんの目にはいつしか熱いものがこみ上げてきました。
―今までありがとうね・・・―
笑美子さんはちょっと涙をふきながら孝一さんに心で話しかけました。
その夜、笑美子さんは疲れていつの間にか病室のソファに横になって眠ってしまいました。時計の針は夜の9時をさしています。笑美子さんは自分の名前を呼ぶ懐かしい声で目覚めました。
「笑美子」
「え?」
笑美子さんが飛び起きるとそこには孝一さんがニコニコ微笑みながら立っていました。
「笑美子」
「あなた!どうして・・・」
笑美子さんはびっくりして思わず声を上げ・・・そのまま黙って孝一さんの顔を見つめました。
「やっと君の中へ入れたよ。今日はきっと特別な日なんだ」
笑顔で話しかける孝一さんを笑美子さんはきょとんとして見つめていました。
「あなた・・・しゃべれるの?それに・・・立ってる。ああ・・・わかった。きっと夢なのね。私夢を見ているんだわ。でも夢でもいいわ。あなたの声が聞けたんだもの」
笑美子さんは微笑みながら孝一さんを見ていました。
「いや、夢じゃないんだ。俺は今、君の意識の中に入っているんだよ」
「え?私の意識?」
「この病気になってから俺の手足は日に日に動かなくなっていった。だんだん自分の意思が身体に伝わらなくなっていったんだ。そして半年前から俺は自分の意思で自分の身体をほとんど動かせなくなってしまった。筋萎縮性側索硬化症(きんいしゅくせいそくさくこうかしょう)という病気は運動神経が障害される病気だから・・・」
「そう・・・そんなあなたを見ているのがつらかったわ。あなたは私に気を使って一言もつらいなんて言わなかったけど、それがわかっているから私余計に・・・」
「すまない。君にもつらい思いをさせて・・・。身体が動かなくなった俺は・・・自分の身体の一部だけでも思うように動かせるようにならないかとずっと考えていた。そしてあることに気がついた。おれの病気は運動神経はやられてしまうが自律神経、内臓を支配する神経は障害されないってことに・・・」
「自律神経?」
「そうだ。自律神経は人間の意志で支配されることはない。だから普通は自分の意思で内臓の動きを調節することはできないはずだ。でも俺は長い時間をかけて自分の自律神経を自分の力で調節することができるようになった」
「どういうこと?」
笑美子さんがけげんそうな声で聞きました。
「俺は胃腸の動きや心臓の動きを自分で調節することができるようになったんだ。俺の胸に手を当ててみろ」
笑美子さんは孝一さんの胸に恐る恐る手をあててみました。不思議なことに孝一さんの胸はまるで若いときのようにがっしりとしていました。
「俺の心臓の拍動を感じるだろう」
「ええ。あなたの・・・心臓・・・元気に動いているわ」
笑美子さんは安心した顔で微笑みました。するとその動きが急に早くなりました。
「どうしたの?あなた!大丈夫?」
笑美子さんは心配そうに孝一さんの顔を覗き込みます。
「ああ。今度はどうだ?」
すると孝一さんの心臓の拍動は急にゆっくりになりました。笑美子さんは心配そうに孝一さんの顔を見つめます。
「まだまだ遅くできるんだ」
孝一さんの心臓の拍動は徐々にゆっくりになり、3秒に一回しか拍動しなくなりました。
「このまま心臓を止めてしまうことだって・・・できるんだ」
「やめて!あなた!」
笑美子さんはびっくりして孝一さんの胸から手を離しました。
「ごめんごめん。冗談だよ。でもこれで・・・俺が自分の自律神経を調節できることがわかっただろ?」
笑美子さんはまだ胸がドキドキしていましたが下を向いて小さくうなずきました。
「それだけじゃない。俺は自分の脳波をコントロールすることもできるようになった」
「のうは?」
「ああ。俺も理論的なことはよくわからないけど、俺の脳波を君の脳波と同調させて君に俺の意思を伝えられるみたいだ」
「私の脳波と同調?」
笑美子さんはわけがわからずに孝一さんの顔を不安そうに見つめていました。
「1ヶ月から俺は君の事を時々呼び続けていた。最初は全く通じなかったけど最近は10回に一回くらい君に通じるようになった。時々俺の声が聞こえただろ?」
孝一さんは得意げな顔で笑美子さんを見つめました。
「ああ・・・それで最近あなたの声が・・・あれは本当にあなたが呼んでいたの?」
「そうだよ。でも今までは名前を呼ぶことが精一杯だった。それが今は・・・こうして君の心の中に入っていける。今日はきっと特別な日なんだ」
「特別な日?」
「ああ・・・今日は俺と君が出会った日じゃないか」
孝一さんは笑美子さんの顔をじっと見つめて言いました。
「ええ・・・そうよ。30年前の今日、傘がなくて困っている私にあなたが傘をさし掛けてくれたのね」
笑美子さんは懐かしそうに微笑みながら答えました。
「そう。今日はきっと二人ともあの日に戻れるんだよ」
「そういえばあなた・・・若いわ。まるで・・・そう、あの日と同じ」
「君だって・・・ほらよく見てごらん」
どこから取り出したのでしょう?孝一さんが差し出した鏡をのぞきこんだ笑美子さんはびっくりしました。
「これが私?・・・これ、20歳の頃の私よ・・・」
笑美子さんは呆然(ぼうぜん)として鏡の中の自分の姿をじっと見つめていました。
「さあ・・・濡れるよ。もっとこっちへお寄り・・・」
笑美子さんが周りを見回すと、いつの間にか雨が降っていました。そして孝一さんは、またどこから出したのか大きな傘をさして笑美子さんを抱き寄せました。笑美子さんは小さくうなずいて孝一さんに身体を預けました。
「さあ、食事に行こう」
孝一さんがそう言うと周りの風景は二人が初めて行った懐かしいレストランに変わっていました。
「ここ・・・そう・・・あなたと初めてのクリスマスに行ったフランス料理のレストランね!」
笑美子さんはびっくりして、そして本当にうれしそうに声をあげました。
「ここであなたは・・・カツ丼を頼んだのよね」
笑美子さんがくすっと笑いながら言うと・・・
「そうだった。メニューを見ても何がなんだかわからなかったから・・・」
孝一さんは照れくさそうに答えました。
「上品なお顔のウエイターさんが困った顔をして『申し訳ありません。当店では扱っておりません』って・・・私おかしいやら恥ずかしいやらで顔をまともに上げられなかったわ」
笑美子さんが懐かしそうに話しました。孝一さんはそんな笑美子さんを微笑みながら見つめていました。そして次の瞬間、二人は白樺の林の中に立っていました。
「ここは・・・あなたと初めての旅行で行った信州の白樺林だわ」
笑美子さんは目を大きく開いて白と緑のコントラスト鮮やかな白樺の林を見回しました。そして樹々から溢れてくる透明な空気を胸いっぱいに吸い込みました。
「ああ・・・なつかしいわ。この香りよ。あの時とおんなじ・・・」
二人が白樺の中を歩いていくと目の前に真っ青な空と湖が現れました。頭の上はスクリーントーンを貼ったように雲ひとつない濃い青空で、周りへ下りるにしたがって白いグラデーションがかかり、水色になって緑の山々につながっています。湖は明るいオレンジ色の太陽に照らされてきらきらと宝石のように輝いていました。
「ここで・・・ここであなたからプロポーズされたのね」
笑美子さんはきらきら輝く湖を見ながらつぶやきました。
「そうだったな」
孝一さんが笑美子さんの顔を見ないで照れくさそうに笑いました。
「あの時もそんな顔だったわよ。私の顔を見ないでぼそぼそってつぶやくように・・・私、本当にあなたが何言ってるのかわからなかったの。え?って聞き返したらあなた大きな声で・・・」
「俺と結婚してくれって・・・」
「そう。私びっくりして・・・でもまわりに誰もいなかったから私もわざと大きな声で『はい』って返事したの。だってあんまりうれしかったから・・・」
笑美子さんはそう言いながら白樺の林の中で孝一さんの肩に頭を預けました。
「ここにいるとまるで昨日の事のようだ」
「本当・・・」
孝一さんは笑美子さんの肩を抱き、二人は美しい湖をじっと見つめていました。
「さあ。今度はどこへ行きたい?」
孝一さんが優しく聞きました。
「え?」
「札幌の雪祭り?それとも沖縄の透き通った海をもう一度見に行こうか?」
笑美子さんは下を向いてじっと考えました。そしてゆっくりと顔を上げ、孝一さんを見つめて言いました。
「・・・ううん、雪祭りよりも海よりも私は・・・家に帰りたい」
「え?」
「私たちの家へ・・・あなたと一緒に帰りたいの」
潤んだ瞳で見つめる笑美子さんに孝一さんは微笑みながら小さくうなずきました。するとまわりの景色はあっという間になつかしい自宅の居間に変わっていました。孝一さんと笑美子さんはこたつに座っています。
「帰ってきたのね。私たちの家に・・・」
笑美子さんは周りを見回しながらなつかしそうに言いました。
「正月にはいつもこうやってこたつに座ってみかんを食べてたっけ」
そう話す孝一さんの横にひいてある小さな布団には、小さな孝志さんがすやすやと眠っていました。笑美子さんはその横に座って小さな孝志さんをじっと見つめました。
「こんなにちっちゃかったのね」
「ああ、本当にかわいかったな。それがあんなに一人前のことを言うようになって・・・」
笑美子さんは何も言わずに小さな寝顔を見つめていました。
「あなた・・・あのね・・・」
笑美子さんは孝一さんの顔を見ずに下を向いてつぶやきました。それから思い直したように首をちょっと横に振って言い直しました。
「あなたって・・・魔法使いみたいね」
「魔法使い・・・この家を建てたときも君はそんなこと言ってたっけ」
「そうだったわ。だってあなた、私のために・・・まだ20代だった私のためにこんな立派な家を建ててくれたんだから・・・私本当にびっくりしたのよ」
「あの頃はまだ会社を興(おこ)したばかりで不安もいっぱいあったけど、君のためにこの家を建てたことで俺もがんばらなきゃと思うようになったんだ」
「そしてあなたは本当にがんばってくれたわ」
笑美子さんは孝一さんの顔をじっと見つめました。
「ねえ、この魔法は・・・これからもずっと・・・続くのかしら・・・」
孝一さんは何も言わずに笑美子さんの目を見つめ、そしてはっきりとした口調で答えました。
「この魔法は今だけの・・・今だけの特別な魔法なんだ」
笑美子さんはちょっとがっかりした顔で、でも微笑みながら言いました。
「そうよね・・・でもいいわ。わたしあなたの声を聞けて一緒に家に帰れたんだもの。それだけで十分よ」
「笑美子・・・」
孝一さんは笑美子さんの肩に手をまわし、しっかりと自分のほうに抱き寄せました。
「でもこの時間は・・・永遠なんだ」
孝一さんの言葉に笑美子さんもうなずきました。二人はしばらくじっと黙ってお互いの顔を見つめていましたが、ふと孝一さんが口を開きました。
「笑美子・・・あまり時間がないんだ」
「え?」
「君に話しておかないといけないことが・・・」
「なあに?あなた」
首を傾げてたずねる笑美子さんの肩に両手をかけて孝一さんが言いました。
「君に・・・贈り物があるんだ」
「贈り物?」
「受け取ってくれるかい?」
「え?ええ・・・もちろん。でも何かしら」
「よかった・・・笑美子・・・今まで本当にありがとう」
孝一さんの声はちょっと小さくなりました。その姿もさっきより少しぼんやりとしてきました。
「あなた・・・どうしたの?」
笑美子さんは不安そうな顔で輪郭がゆがんできた孝一さんの顔を見つめています。
「・・・ありがとう・・・」
孝一さんの声はますます小さくなり、顔はほとんど見えなくなりました。
「あなた!あなた!待って!まだ行かないで!」
笑美子さんは必死に孝一さんを追いかけようとしましたが孝一さんは真っ暗な闇の中に吸い込まれるように消えていきました。
笑美子さんは病室のソファの上ではっと目を覚ましました。隣のベッドを見ると孝一さんが静かに寝ています。部屋の中には呼吸器の中を流れる機械的な空気の音だけが規則的に聞こえてきます。笑美子さんはふとディスプレーを見つめました。するとそこには数字が表示されていました。
『xxx-xxx-0987』 ―何かしら・・・電話番号みたいだけど―
そう思いながら笑美子さんは手帳を取り出してその番号を写し取りました。そして孝一さんの寝顔を笑顔で見つめました。
―ありがとう、あなた。本当に・・・素敵な夢だったわ―
笑美子さんが握った孝一さんの手はいつもよりちょっと冷たく感じられました。胸騒ぎがした笑美子さんはあわてて孝一さんの胸に手をあててみました。ところが孝一さんの心臓の拍動が感じられません。笑美子さんは真っ青になって孝一さんの右手に触れました。脈もありません。笑美子さんはあわててナースコールを押しました。それと同時に病室を飛び出し、大声で叫びながらナースセンターへ走りました。
それから病室であったことを笑美子さんはあまり覚えていません。看護師さんが飛んできて血圧を測ったり心電図をつけたり、点滴をしたり、当直の先生があれこれ指示を出して注射をしたり心臓マッサージをしたり・・・。
笑美子さんは病室の入り口に立って治療を受けている孝一さんをぼんやりと眺めていました。笑美子さんは主治医の先生が自分を呼ぶ声で我に返りました。主治医の先生がいつの間に病室に来たのかも覚えていません。笑美子さんは呼ばれるままに孝一さんの横に立ち主治医の先生の言葉を聞きました。
「午後11時26分・・・ご臨終です」
「ありがとうございました・・・」
笑美子さんは自分でも不思議なほど当たり前に返事をしていました。
「看護師が見たときにはすでに心臓は止まっていました。確かに御主人の癌はかなり進行していましたが、私はまだ1ヶ月くらいは大丈夫だと思っていました。ご主人には以前から不整脈がありました。死因は多分・・・心臓の不整脈発作だと思います」
「はい」
笑美子さんは素直にうなずきました。
「ただ奥さんが死因をもっと詳しく解明したいのならば、病理解剖という方法もありますが・・・」
主治医の先生が笑美子さんを気遣って優しい言葉で聞きました。
「いえ。解剖は・・・結構です。このままそっとしてやってください」
笑美子さんははっきりとした口調で答えました。主治医の先生は深々と孝一さんと笑美子さんにお辞儀をすると病室をあとにしました。笑美子さんは二人きりになった病室で孝一さんの横にひざまずいて孝一さんの身体を抱くようにして座りました。大きかった孝一さんの身体は痩(や)せ細って笑美子さんの腕の中にすっぽり入るくらいに小さくなっていました。
―ありがとう、あなた・・・。あなたは最後に私に素敵な夢を見せてくれたのね。あなたが言っていた贈り物ってこのことだったのね―
笑美子さんは大きな涙をぽろぽろこぼしながらじっと孝一さんの顔を見つめました。そして顔を孝一さんの胸にうずめて声を殺して泣きました。
「本当に急に逝(い)っちまったな・・・」
孝志さんがぼそっとつぶやきました。
「でも・・・本当に安らかな死に顔ね」
笑美子さんが自宅の居間に横になっている孝一さんを見つめながら言いました。
「やっと帰ってこれたわね。あなたの家よ」
笑美子さんは孝一さんの頭をなでながら話しかけました。
「父さん、ごめんな。何もしてやれなくって・・・それに父さんが建てたこの家、俺のせいで手放さないといけないかもしれないんだ」
孝志さんも孝一さんの顔を見ながら申し訳なさそうに言いました。
「いいのよ。父さんだってきっとわかってくれるわ」
笑美子さんは微笑みながら孝志さんに言いました。
「これからどうするの?父さん生命保険だって入ってなかったんだろ?」
「父さんはもともとB型肝炎って診断されていたから保険には入れなかったの。でも大丈夫よ。お葬式の費用やこれからの生活費くらいは何とかなるから」
「ごめんよ。母さん・・・」
うなだれて涙を流す孝志さんの肩を笑美子さんは優しく撫でました。
初七日も終わりやっと気持ちの整理がついた笑美子さんは仏壇の前に座って孝一さんの遺影を見つめていました。
―あなた・・・本当にご苦労様。これでもう苦しいことはないわね。これからは私たちのこと、ずっと見守っていてくださいね。あなたが最後に見せてくれた夢、私一生忘れないわ―
笑美子さんはふと、あのときの番号を思い出しました。
―そうだわ、あの番号に電話してみないと・・・。でも誰なのかしら?―
笑美子さんが電話した相手は意外な人でした。
「保険会社の・・・方なんですか?」
それから2日後の夕方、昼過ぎから降り出した雨の中で自宅を訪ねてきた男性を見て笑美子さんはけげんそうな顔で聞きました。
「このたびは本当にご愁傷様です。私は孝一くんとは高校時代の同級生で40年来の友人なんです。友人と言っても私は福岡に住んでいるので年に一回会うか会わないかなんですが・・・」
その男性は仏壇に手を合わせたあと、人懐こい笑顔で笑美子さんに話しました。
「そうなんですか・・・」
笑美子さんは軽くお辞儀をして答えました。
「じつは孝一君は私の会社の生命保険に入っていたのです。いえ、10年前に私が無理に加入をお願いしたのですが・・・」
「え?でも主人はB型肝炎で保険には入れないはずですが・・・」
「ええ。でもうちの会社にはB型肝炎や高血圧などの慢性疾患の方のための特約の商品があるんです。孝一君に加入してもらった保険はB型肝炎関連の死亡では保険金は出ないのですが、事故やそれ以外の病気が死因の時には保険金が支払われる商品なのです。奥さんのお話では孝一君の死因は心臓の不整脈発作ということでしたね?死亡診断書の記載も間違いありませんから満額お支払いできると思いますよ」
「満額って・・・おいくらくらいなんでしょうか?」
「死亡時5千万円です」「5千万円!!」
「はい。死因によっては支払われるかどうかわからない保険ですから奥さんにも何も言わなかったのでしょうね。でも私は自分にもしものことがあったらよろしく頼むと言われていたのです。そう、彼が今度の病気になった3年前のことです」
「主人がそんなことを・・・」
「はい。今日はご焼香に伺っただけですのでこれで失礼しますが・・・具体的な手続きに関しては後日連絡させていただきます」
そう言いながらその男性は笑美子さんに丁寧にお辞儀をして玄関を出ようとしました。
「あ、奥さん。こんな事を言うのもなんですが・・・・」
「え?」
「孝一君は本当に奥さんのことを大事に思っていました」
「そんな・・・」
「たまに会って飲みに行ったときにはいつも奥さんの自慢話をしていましたから・・・それに・・・」
「え?」
笑美子さんはちょっと恥ずかしそうな顔で、そしてちょっと首をかしげながら聞き返しました。
「実はあの日に孝一君が旅立ったのは・・・偶然ではないような気がするのです」
「あの・・・どういうことでしょうか?」
「孝一君に加入してもらった保険は59歳までは死亡時5千万円が支払われるのですが、60歳になると500万円に減額されてしまうのです。孝一君は60歳の誕生日を迎える前の日になくなりました。死亡時間がもう30分遅れていたら・・・死亡保険金は500万円になっていたのです。いや、かといって彼が死亡時間を調節できるはずがありません。余計なことを言いました。どうか忘れてください。失礼します」
そう言いながらその男性はもう一度深々とお辞儀をして、傘を手にとって雨の中に消えていきました。
あとに残った笑美子さんはしばらく呆然(ぼうぜん)として玄関に立ちすくんでいました。
その時、急に雨音が激しくなりました。
『死亡時間がもう30分遅れていたら・・・』
笑美子さんは、はっとして思わず息を飲み込みました。
『あまり時間がないんだ・・・』
『君に贈り物がある・・・』
笑美子さんは夢で見た孝一さんの言葉を思い出して思わず身震いしました。
『おれはこのまま心臓の動きを止めてしまうことだってできるんだ・・・』
―まさか・・・まさかあなた・・・―
激しい雨音を背中に聞きながら笑美子さんは小走りに廊下を走り、仏壇の前に座り込みました。そして孝一さんの遺影を手にとって問いかけました。
「あなた!知ってたの?この家が取られることを知っていたの?」
笑美子さんは必死に問いかけましたが孝一さんはただ笑っているだけで何も答えてくれません。
「あなた・・・ごめんなさい・・・ごめんなさい・・・ごめんなさい・・・ごめん・・・なさい・・・・・・・知ってたのね・・・」
笑美子さんは孝一さんを抱いて仏壇の前にうずくまり泣き崩れました。激しい雨の音だけが聞こえる誰もいない部屋の中で一人わんわん声を出して泣きました。お葬式の時も気丈に涙をこらえていた笑美子さんでしたが、次から次から涙が溢れてきて止めることができませんでした。
そしてどれくらいの時間がたったでしょう。笑美子さんは孝一さんの遺影を大事そうに仏壇に戻し涙をふきながら話しかけました。
「ありがとうね、あなた・・・。あなたは最後まで私のことを・・・本当に大事に思ってくれていたのね。私・・・何もできなくてごめんね・・・・」
いつの間にか雨音はやんで外は静かになっていました。笑美子さんはゆっくりと立ちあがると大きく深呼吸して部屋の窓を開け、雨が上がった空を見上げました。
夕暮れが迫った赤紫色の空には大きな虹がかかり、学校帰りの子供達がはしゃぎながら空を見上げていました。
前の家から雨が上がるのを待っていた女の子が飛び出してきて右手に持っていたストローをふうっと吹きました。女の子の口もとから勢いよく飛び出した無数の透明なシャボン玉が七色に光り輝きながら風に舞います。
彼らは風の中で短い命を終え、最後には大きな二つがお互いに絡み合いながら上がっていきます。そしてそのひとつが消え、残りのひとつが名残惜しそうにその周りを舞いながら虹のかなたへ消えていきました。
「最後の贈り物」 終わり
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はじめまして、キャサリンと言います。
小説読ませていただきました
私もALSに罹患してます。私の最後も自分の意思であんなふうになれるといいなと思いました。
あったかくて素敵な文章でした!
キャサリン
投稿: キャサリン | 2008年8月 7日 (木) 08時59分
今回も感動しました。
ややもすると汚れそうになってしまう自分の心が洗われるようです。
最後の贈り物というタイトルも、全文を読み終わって改めて、強烈にメッセージを送ってくるようです。
ありがとうございました。
投稿: あーちゃん | 2008年8月 7日 (木) 10時06分
あーちゃんさん。いつもコメントありがとうございます。小説をブログに掲載することを勧めていただき本当にありがとうございました。本来の目的の「風の軌跡」を何とか掲載していけそうです。
キャサリンさん。コメントありがとうございます。新しい人に自分の作品を読んでいただき、しかもコメントをいただけると本当にうれしいです。
病気と闘うことは大変だと思いますが、あなたの周りにはあなたを支えたいと思っている人がたくさんいると思います(ご家族だけではなく多分主治医の先生も周りのスタッフも・・・)。月並みな言葉になってしまいますが、がんばってください。
投稿: 堂島翔 | 2008年8月 7日 (木) 22時16分
みんな の プロフィールは、アクセスアップをお手伝いするサイトです。
http://blog.livedoor.jp/miminapu/
より多くのひとに貴方のブログを見てもらえます。
投稿: みんな の プロフィール | 2008年8月10日 (日) 06時55分