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2008年8月 8日 (金)

風の軌跡:カルテ1(1/2)

風の軌跡ー風間俊介診療録ー:カルテ1「つまずいた熱意」(1/2)


「患者にとって一番いい医療をしたい」

脊髄損傷の患者の痰を吸引するために24時間体制で気管支鏡を行う決意をした後期研修医、高岡健太郎だが・・・

              *帰り際の訪問者*

 6月も終わりに近づいたがまだ梅雨は明けず、蒸し暑い日が続く。

「今日は珍しく何もなかったな・・・」

午後8時、仕事を終えた風間俊介は内科部長室で帰り支度をしていた。今日のように病棟患者の急変や救急患者の搬送が朝から一人もない日は珍しい。

 俊介がS市市民病院の内科部長に就任して3年が過ぎた。大学の講師時代の彼は、助教授への道へ進むことを考えていた。しかし、結局は大学の研究主体の生活よりも、臨床(りんしょう)の面白さを捨てきれず現在の道を選ぶことになった。彼も研究は好きで、できれば大学に残りたいとも考えたが、患者を自分で診(み)るということへの愛着を捨てきれず結局この地位を選んだ。

 S市市民病院はベッド数300床の中堅病院である。人口10万人のS市では中心的病院で、特に内科に関しては俊介の人当たりのよさや診たての確かさもあり開業医や小病院からの紹介患者があとをたたない。

 俊介が帰り支度をして自室を出るやいなや、高岡健太郎に後から呼び止められた。

「風間先生!」

「高岡先生・・・どうした?そんなに息を切らして・・・」

高岡健太郎は27歳、大学を卒業して3年目の後期研修医である。日本では2004年から現在の研修医制度が開始された。6年間の医学部を卒業後、国家試験に合格したものは医師免許を習得するわけだが、その後2年間は前期研修医として大学病院をはじめとした全国の研修病院に就職する。

前期研修医の2年間は指導医のもとに内科、外科、小児科などをローテートして一般医療の知識と技術を身につける。給料はもらえるが当直など責任のある診療を一人で行うことはなく、いわば半人前ということである。そして3年目からは自分の専門領域を決め、後期研修医としてほぼ1人前の医師として出発することになる。

 身長185cm近くはあろう大柄な図体(ずうたい)は後ろから見ると威圧的にも感じるが、話をすると素朴で、どこか人懐こい印象を受ける。性格は一途で診療態度も熱心で、医療に対する情熱をうかがわせる。学生時代はラグビー部でかなり鍛えこんだらしい。俊介も173cmと小さいほうではないが健太郎と話す時は上目遣いになってしまう。

「風間先生、お帰りのところすみません!ちょっと相談したいことが・・・」

「ああ・・いいよ。入りなさい」

 俊介は閉めたドアをもう一度開けると上着をハンガーにかけなおし、健太郎をソファに座らせた。

「風間先生、聞いてください!ちょっとひどいと思うんです!」

 座るや否やせきを切ったように話し出す健太郎をなだめるように俊介は笑顔で聞いた。

「どうしたんだ?またナースが君の指示を受けてくれなかったのか?」

 健太郎はむっとして答えた。

「違いますよ、先生!今日はそんなんじゃないんです!」

 健太郎はソファに座りなおして話を続けた。

「この前、俺、ブロンコができるようになったって話したでしょう?」

 ブロンコとは気管支鏡の略で、細いファイバーを口から挿入して気管および肺を観察する検査である。

「ああ。呼吸器内科の津川先生についてずいぶん一生懸命勉強していたな」

「はい。おかげで何とか自分で麻酔をかけてファイバーを挿入して観察できるようになったんです」

 ファイバーがのどを通るときは嘔吐(おうと)反射がおこる。のどに挿入された異物(ファイバー)を排除しようとして強い吐き気がおこるのだ。患者にとっては非常に苦しいことだ。気管支鏡検査を行うときはこの嘔吐反射を防止するために麻酔薬を口腔(こうくう)内に含ませてしばらくゴロゴロとうがいをさせる。これが咽頭(いんとう)麻酔である。その後、麻酔薬を霧吹きのような器具で10分くらい吸入させて気管や気管支の反射を抑制する。

「ずいぶんと上達が早いじゃないか」

「ありがとうございます。だって一生懸命勉強しましたから・・・本当ですよ!ブロンコの本だって何冊も読んだんです」

 健太郎は得意顔で答えた。

「で、そのことがどうかしたのか?」

「・・・はい・・・そんなことじゃないんです!昨日、俺は当直だったんですよ」

「そうだったな、当直明けなのに、またこんなに遅くまで帰れなかったのか。大変だったな」

「いえ、そんなことは別にたいしたことじゃありません。じつは・・・夜中の1時ころ、病棟にいたら高山さんという津川先生の患者さんが息が苦しいってナースコールがあったんですよ」

「高山さん・・・ああ・・肺炎で入院した脊損(せきそん)の患者さんだったな」

「はい。脊損で呼吸筋が麻痺して痰を出せないんです」

 脊損とは脊髄(せきずい)損傷の略である。事故などで脊椎(せきつい)の中を通る神経(脊髄)が損傷を受け、四肢や呼吸筋が麻痺してしまう。患者の多くは車椅子やベッド上の生活を余儀なくされる。脳には全く問題がないので意識障害はない。自分では必死に手足を動かそうとするのだが動かない。言いようがないほど苦しい状態であろう。その脊損の患者が肺炎を起こすと自分の力で痰を出せないために非常に苦しい呼吸困難となる。

「確か気管切開をする予定じゃなかったのか?」

 痰が出せない患者は窒息の危険がある。何らかの方法で気管にたまった痰を定期的に吸引してやらなくてはならない。これを『吸痰(きゅうたん)』という。普通は口や鼻から細いチューブを入れて痰を吸引するわけだが、気管の奥まではチューブは入らない。気管の奥までチューブを入れるためには気管切開というのどに穴を開ける処置が必要になる。のどに穴を開けてその穴から直接チューブを挿入して痰を吸引するわけだ。気管切開により呼吸はずいぶん楽になるが、喉に穴が開くことに抵抗を感じる患者も多い。

「はい。でもまだ患者さんは迷っているんですよ。津川先生からは気管切開をしたほうがいいと言われているんですが、やっぱり首に穴を開けるということが・・・」

「まあそうだろうな・・・。これからの一生の問題だから簡単には決められないだろう・・・」

「はい。でも、痰が出せずに苦しそうなんですよ。だから俺、ブロンコをしたんです」

「夜中の1時にか?」

「はい、自分で内視鏡室の鍵を開けて、気管支鏡を病室に運んで準備したんですよ。それで患者さんにキシロカイン(麻酔薬)を吸入させて麻酔をかけて、気管支鏡を使って高山さんの痰を吸引してあげたんです。そのあともちろん使った器具は洗浄してかたつけました」

「それを全部自分ひとりでやったのか?」

「はい」

「それはたいへんだっただろう」

「ええ。全部終わったら3時半になってました。幸いその時間帯に外来患者さんが来なかったので助かりましたが・・・」

「高山さんは楽になったのか?」

「もちろんです!すごく楽になって、本当に喜んでくれました」

「そうか・・・。それは・・・よかった・・・」

 俊介はちょっと困惑気味に答えた。

「先生もそう思うでしょう?で、俺も高山さんに言ったんです。これからも痰がからんでつらかったらこうやって吸引できますからって・・・。高山さんは確かに脊損で痰を出す力は弱っていますけど、今回は肺炎を契機に悪くなったわけでしょ?だったら肺炎が治ったらまた痰は出なくなって気管切開は必要ないんじゃないかと思うんですよ。確かにしばらくは痰が多くて大変だと思いますけど、俺がやったようにブロンコで吸痰してあげれば気管切開までしなくてもいいんじゃないかと思うんです。それで朝、津川先生に言ったんですよ!」

「気管切開はしなくてもいいんじゃないかって?」

「はい。しばらくブロンコで吸痰すればいいんじゃないかって・・・」

「津川先生、怒らなかったか?」

「・・・もうかんかんでした。『それならお前がブロンコすればいいだろう』って捨てぜりふを残して行っちゃいました」

「そうだろうな・・・」

「でも風間先生!俺が言ってることおかしいですか?高山さん、もうしばらくブロンコで吸痰すれば気管切開しなくてもよくなるんじゃないですか?津川先生は夜中にブロンコするのが面倒で患者さんに気管切開を勧めているんですよ。先生前に俺におっしゃいましたよね。患者さんにとって一番いいと思った医療を選択しろって。俺は高山さんにとって今、気管切開をするよりブロンコでもうしばらく吸痰してあげたほうがいい医療だと思うんです」

「もうしばらくって・・・どのくらいだ?」

「え?それは・・・CRP(炎症の程度を示す値)も改善傾向ですから・・・あと4-5日じゃないですか?」

「じゃあその間は気管切開をせずに高山さんに呼吸困難があれば君が気管支鏡を使って吸痰してあげるわけか・・・」

「はい。主治医の津川先生がしないんですから俺がやるしかないですよ。こんな時のために気管支鏡の勉強をしてきたんですから・・・」

「器械の準備から洗浄まで全部一人でやるのか?」

「そこなんですよ、先生・・・」

健太郎は身体を乗り出してすがるような目で俊介の顔を見つめた。

「時間外でブロンコしなきゃいけない時に麻酔をするのはまだいいんですけど、準備や洗浄は正直ちょっとしんどいんです。何とか当直の看護師さんにお願いできないかなと思うんですけど・・・。そこで風間先生!先生からナースにお願いしてもらえませんか?」

―これか!俺を引き止めて言いたかったことって・・・―

俊介はちょっと困惑しながら答えた。

「時間外なら、外来師長に頼まなきゃいけないな・・・」

「お願いできますか?先生!やっぱり風間先生だ!患者さんのことを本当に思ってくれているんですね!」

「あと4-5日の間、君が緊急で気管支鏡をするときに外来夜勤のナースに準備と洗浄をしてもらえばいいんだな?ただし外来患者が多いときは無理だぞ」

「それはもちろんです!無理なときは自分で全部やるつもりですから」

健太郎は意気揚々と立ち上がった。

 次の日は俊介の内科病棟総回診日であった。

「高山さん。どうですか?」

高山正春は56歳の男性である。7年前交通事故で頚椎(けいつい)を損傷し、四肢はほとんど自由にならず寝たきり状態である。夫人がいつもそばについて看護をしている。彼は頚椎損傷のため呼吸筋も萎縮(いしゅく)しており、発語も一言ずつゆっくりとしかできない。

「ええ・・・調子・・・いいです・・・。高岡先生・・カメラで痰を・・・取ってくれる・・・です。つらいとき・・・いつでも呼んでって・・・。本当、神様みたい・・・思ってます・・・。今朝4時ころ・・・どしてもつらくて・・・来てもらいました・・・。カメラしてもらうと・・・タンが少なくなって・・・すごく楽です。津川先生・・・気管切開、勧められて・・・しようか思ってたけど・・・もうしばらく(様子を)みます。でも、津川先生が・・・私の身体、一番よく知っててくれるです・・・また、相談します・・・」

「高山さんが納得できる方法を選んでください。我々はそのお手伝いをするだけですから・・・」

俊介は笑顔で答えた。

*夏期休暇*

「そうか・・・やっぱりその日の便(びん)しか取れなかったのか・・・。うん・・・わかってるって」

 それから4日後の夜、健太郎は携帯を右手に持ったままベッドの上に仰向けになっていた。

「俺?お・・・俺は、大丈夫だって・・・。先月からちゃんと休みは届けてあるし、病棟の患者は代行の先生にお願いすることになってるし・・・。うん・・・わかってるよ。俺も北海道は初めてだから、本当に楽しみにしてるんだ。絶対大丈夫。任せとけって・・・」

 健太郎は携帯をたたんで大きくため息をついた。

―あー・・・まずいよな・・・。いまさら予定変更なんてできないよな・・・。あいつの勤務もあるし・・・―

 健太郎はベッドの上に仰向けになったまま目をつむった。

―どう考えたって高山さん、あと3日の間によくならないよな・・・。いまさら気管切開しましょうなんて言えないし・・・。津川先生とはあれから口もきいていないしな・・・―

 ごろんと横になった健太郎は洗濯物が散らばった部屋の中を見回した。

―ああ・・・なんだか疲れたぜ・・・。そういえば最近まともに寝ていないんだった―

 そんなことを考えているうちに健太郎は睡魔に襲われ、そのまま朝を迎えた。

     カルテ1(2/2)に続く

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