風の軌跡:カルテ10(1/4)
風の軌跡ー風間俊介診療録ー:カルテ10(1/4)
「ルール」
現実に合わない規則に嫌気がさしている健太郎。ついに彼は規則を破って当直の時に2日分の投薬をしてしまうが・・・
*心筋梗塞?*
「河野先生!右冠動脈(かんどうみゃく)のAMIです!」
高岡健太郎は、息を切らせて救急室に飛び込んできた河野孝明を見るや否や叫んだ。
「バイタルは?」
河野は聴診器を取り出して患者の胸にあてながら呼吸を整えて冷静にきいた。
「血圧82の38!sPO2 90%、脈拍60です!」
そばにいた外来師長の山際良子が即座に答えた。
午前11時、健太郎は救急車で転送された男性の心電図から急性心筋梗塞と診断した。そして循環器内科医の河野孝明にすぐに連絡したのだ。健太郎はたった今とったばかりの心電図を河野に見せた。
「II,III,aVf誘導でST上昇か・・・。確かにAMIらしいな」
河野が答えた。
「カテですね!カテ室(血管造影室)のナースにはもう準備するように言ってあります!すぐ運びましょう!」
急性心筋梗塞は心臓を栄養する冠動脈が閉塞(へいそく)する疾患である。冠動脈が閉塞するということは心筋に血液が供給されないということで、そのまま放置すれば心筋はどんどん壊死がすすんでいくことになる。
心筋の壊死がすすめば心臓のポンプとしての働きは低下する。しかしカテーテル検査を行い、PCI(冠動脈形成術)により閉塞した冠動脈を開くことができれば心筋の壊死の進行を止めることができる。1分でも早く血流を回復できればそれだけ壊死心筋の量を減らすことができるわけだ。
「ちょっと待ってくれ。まず心エコーをするから」
河野はせかす健太郎を制して手早くそばにあったエコーの機械を引き寄せて電源を入れた。そして患者の胸にエコープローブをあてた。
「河野先生・・・下壁(かへき)の動きが悪いようですが・・・。やはり心筋梗塞ですね」
「そうだが・・・それだけじゃなさそうだ」
エコー画面を見ながら河野が冷静に答えた。
「それだけじゃないって・・・?心電図ではSTが上がって・・・間違いなく心筋梗塞じゃないですか?」
「その理由は今から教えてやるよ。CTをとるぞ」
「え?CTですか?」
CT室では健太郎と河野がじっと画面を見つめていた。
「どうだ?高岡先生」
河野がモニター画面を見つめながら健太郎に聞いた。
「えっと・・・」
「荒木君、大動脈基部(きぶ)を見せてくれ」
河野はCTの操作をしている荒木技師に言った。
「はい」
健太郎は映し出されたモニター画面をじっと見つめた。
「あ・・・解離(かいり)・・・ですか」
そこには裂けた大動脈の壁が映し出されていた。
「そうだ。この患者はただの急性心筋梗塞ではない、解離性大動脈瘤だ。大動脈の基部が裂けて右冠動脈を閉塞した。だから心電図ではII,III,aVf誘導のSTが上昇していたってわけだ。だからこの患者にはカテは必要ない。すぐオペだ。心臓外科の村上先生にお願いしないとな」
大動脈の壁は内膜(ないまく)、中膜(ちゅうまく)、外膜(がいまく)の3層に分かれている。解離性大動脈瘤は中膜の部分で大動脈の壁が裂ける病気だ。
「大動脈解離ですか・・・」
健太郎は呆然(ぼうぜん)とモニター画面を見つめていた。
「もし・・・この患者さんを・・・直接カテ室に送っていたら・・・どうなったんでしょう?」
「右冠動脈は解離した大動脈の内膜で閉塞しているわけだから、いくらカテーテルを突っ込んでも右冠動脈は造影されないだろうな。そうしているうちに解離が進行して血圧が下がって・・・ショックになってテーブルデス(カテーテル台の上で死亡すること)ってとこだな」
健太郎は絶句した。自分が絶対正しいと思っていた選択、1分でも早くカテ室に運ぶという選択はこんなにも大きなリスクを背負っていたのだ。
「恐ろしい・・・ですね」
「ああ・・・エコーで心臓だけじゃなくて大動脈も丁寧に診(み)ないとな。エコーで解離の診断はなかなか難しいが、時には診断できることもあるさ」
「河野先生・・・すごいですね」
健太郎は河野の診断能力に心から感心していた。この患者が単純な心筋梗塞ではなく、解離性大動脈瘤である可能性を彼が考えなかったら今頃この患者は血管造影室の検査台の上で冷たくなっていたかもしれないのだ。
「そんなたいそうなもんじゃないよ」
健太郎の賞賛に河野はにこりともせずに、そうつぶやいて健太郎と目を合わせずに患者のほうへ向った。
患者が戻った救急室では河野が心臓外科の村上俊和に引継ぎをしていた。患者の様態は一応安定しているが一刻も早い緊急手術が必要なのだ。
「河野先生、あとは任せてくれ。それにしてもよく診断できたな。あわててカテしていたら今頃は死んでるな」
村上俊和は笑顔で河野の診断能力をたたえた。
「いえ・・・よろしくお願いします」
河野は村上俊和に頭を下げて静かに救急室の出口のドアを開けた。そこには健太郎から患者の報告を受けてやってきた俊介の姿があった。河野は俊介を見ると軽く会釈してその傍らを通り過ぎた。俊介はちょっと微笑んで後ろから河野の肩をぽんと軽くたたいた。
*10年来の恋人*
夜7時頃、俊介は医局にいた河野孝明に声をかけた。
「河野先生。仕事終わったか?今日はちょっと付き合わないか?」
「え?」
「たまにはいいだろう?」
人懐こい笑顔の俊介を見て河野も笑顔で答えた。
「はい。お願いします」
天真爛漫(てんしんらんまん)で注文した料理を腹いっぱい食べた二人は苦しそうに椅子にもたれかかっていた。
「あー今日はよく食ったな。ちょっと注文しすぎたかな、とても食べ切れん。それに・・・最近胃の具合が悪くってな・・・」
俊介は腹をさすりながら言った。
「はい・・・。たまには・・・外食も・・・いいですよね」
河野は普段ほとんどアルコールを飲まない。忘年会や会合があっても乾杯のビールに口をつけるだけで、もっぱら食べることに専念するタイプだ。もちろん自宅での晩酌もしない。しかし今日は生ビールの大ジョッキを飲み干し、かなり酔ってしまったようだ。ほとんどろれつが回らない状態だ。
そこへ仕事の帰りに立ち寄った健太郎が入ってきた。
「あれえ?風間先生。河野先生も!イヤー珍しいな!」
健太郎はうれしそうに走りよって河野の隣に座った。
「高岡・・・先生か?久しぶり・・・」
河野はろれつの回らない口調で笑いながら健太郎の肩をたたいた。
「河野先生、もうかなりできあがっちゃってますね?大丈夫ですか?」
「何・・・言ってんだ?お前が・・・俺のことを・・・心配するなんざ・・・十年早いって・・・」
河野はそう言いながら壁に寄りかかって眠ってしまった。
「風間先生・・・。河野先生、大丈夫ですか?」
「普段あんまり飲まないからな・・・。もう帰したほうがよさそうだな。これ以上だと俺が奥さんにしかられそうだ。高岡先生、悪いがタクシーを拾ってくれるか?」
「わかりました」
河野は健太郎と俊介に抱きかかえられてタクシーに乗せられた。
「大丈夫か?ちゃんと帰れるか?」
「大丈夫ですって・・・。運転手さん・・・えっと・・・S市公民館の裏まで・・・お願いします・・・」
そのまま河野は眠ってしまった。
「運転手さん、すみません。公民館の後の病院官舎までお願いします。おつりはいいですから・・・」
俊介はそう言いながら千円札を運転手に渡した。
「高岡先生、遅くまでご苦労様。さあ乾杯だ」
「乾杯!」
健太郎はうれしそうに俊介とジョッキを合わせ、そしてその3分の1を一気に飲み干した。
「あー!うまい!へへへ・・・。今日はラッキーでした」
そう言いながら残っている料理を次々と平らげていった。一人で居酒屋に来れば最低3000円の出費は覚悟しなくてはならない。しかし俊介と一緒にいるということはどんなに飲んでも食っても金の心配はしなくてもいいということだ。
「それにしても河野先生、大丈夫でしょうか?あんなにぐでんぐでんの河野先生、見たことないですよ」
「まあ・・・奥さんには電話しておいたから大丈夫だろう」
「でも・・・河野先生ってすごいですよね。今日の患者さんなんて他の医者が診てたら完全に死んでますよね。あ、風間先生は別ですけど・・・。俺なんて一刻も早くカテ室に送ることしか考えてませんでしたから・・・」
「そうかもしれないな」
「それにしても・・・今日の河野先生どうしちゃったんですか?あんなに酔っ払って・・・。誰か好きなナースにでも振られちゃったんですかね?」
「何言ってるんだ。河野先生は君とは違うって・・・」
俊介は笑いながらジョッキを口にした。健太郎はちょっとブスっとして目の前の料理をつまんだ。
「好きなナースに振られたか・・・。その逆だな」
「え?」
「河野先生は今日、10年来の恋人に出会ったんだ」
その瞬間、健太郎は口の中の物を噴き出してしまった。
「す・・・すみません!こ・・・恋人ですか?あの河野先生が・・・?奥さんと・・・3人の娘さんがいる河野先生に恋人ですか!そ・・・その話、詳しく聞かせてください!」
健太郎はテーブルをおしぼりで拭きながら俊介の顔を真剣な目で見つめた。
「聞きたいか?」
俊介は健太郎の顔をじっと見つめ返した。
「は・・・はい!ぜひ聞きたいですよ!風間先生!」
「そうか、じゃあ話してやろうかな・・・。でもな、河野先生の恋人の話は君が想像しているような浮いた話じゃないんだ」
「はあ?」
健太郎はけげんそうな声を出した。
「君は河野先生が今日の救急患者さんを診断できたことをえらくほめていたな?」
「ええ、さすが循環器専門医だって思いました」
「今から十年前のことだ・・・。彼がまだ5-6年目で循環器内科医の駆け出しだった頃、一人の患者さんを誤診しているんだ」
「え?」
「俺も以前、彼から聞いた話だがな。その患者さんは70代の男性だったが、胸痛で救急外来に運び込まれた。心電図でII,III,aVf誘導でST上昇があって血圧60台、心拍数40だ。どう思う?」
「それは・・・誰が診たって右冠動脈閉塞のAMIじゃないですか・・・。あ・・・でも・・・そうか!その患者さんも大動脈解離だったんですか?」
「君の言うとおり誰だってAMIだと診断するだろう。当然彼もそう考えた。右冠動脈が閉塞して洞不全(どうふぜん)症候群(注:心臓の刺激を作り出す洞結節(どうけっせつ)の異常により徐脈(じょみゃく)になる疾患。洞結節は右冠動脈により栄養される)を併発して徐脈になってショック状態になったとな。彼は直ちに患者をカテ室に運んでまずペースメーカーを挿入した。その後脈拍は安定して血圧も80台に回復して彼は引き続いて冠動脈造影を行ったわけだ。しかしいくらやっても右冠動脈にカテーテルが入らない。そのうちに患者さんの血圧が再び低下してショック状態になった。彼はドーパミンやIABP(大動脈バルーンポンピング:大動脈にバルーンをいれて心機能を補助する方法)などあらゆる処置を行ったが結局その患者さんはカテ室で亡くなってしまった。納得できなかった彼は遺族に頼み込んで病理解剖をしたわけだ」
「それで解離が・・・」
「そうだ。その患者さんは今日の患者さんと違って徐脈になっていた。だからまずペースメーカーを挿入する必要があったわけで、一刻も早くカテ室に運んだことは決して間違いではない。そしてAMIの疑いの患者がカテ室にいたらそのまま冠動脈造影をするのもごく当たり前のことだ」
「そうですよね。どんな病態であっても心拍数40でショックになっていたらまずペースメーカーを入れないと・・・。それに・・・AMI疑いの患者にカテ室でペースメーカーを入れたあとにCT室へ運ぶなんてことは現実的じゃないですよ」
「しかし彼はその患者の診断ができなかったことをずっと悔やんでいたんだ。それから彼はAMIの疑いのある患者はどんなに緊急であっても必ず心エコーをしてからカテ室に運ぶことにしたんだ。彼はこの病院で年間50人以上のAMIを診ているだろう?ということはこの10年間で500人以上のAMIを診ているわけだ。彼はその500人は必ず心エコーをしてからカテ室に運んだ。先輩の循環器内科医の中にはそんな彼を批判するものもいた。心電図で診断は確定しているのだからそんな暇があったら1分でも早く冠動脈再建を考えろってな。でも彼はなんと言われても心エコーをすることをやめなかった。もちろんその後、同じ病態の患者は一人も来なかった。この10年間、彼は無駄な努力をしてきたことになるな」
「・・・」
「そして今日、その患者は10年ぶりにやってきた。彼はエコーで解離性大動脈瘤の可能性を考え、カテ室ではなくCT室に患者を運んだ。その結果今日の患者さんは手術を受けて助かった。今日の救急の患者さんは彼にとっては10年来の恋人ってわけだ」
「そんなことが・・・あったんですか・・・。だから河野先生は俺がほめちぎってもうれしそうな顔もせずに・・・」
「彼は今日の患者を救えたことで10年前の呪縛からやっと開放されたんだ」
「だからあんなに酔っ払って・・・」
健太郎はまじめな顔になってジョッキをつかんだ。
「医者って・・・厳しいですよね・・・」
そして残りのビールをゆっくりと飲み干した。
「それはそうと風間先生。その河野先生の亡くなった患者さんって、医療関連死になりますよね。やっぱり警察に届けないといけないんでしょうか?」
「医療行為をしている最中になくなったわけだから当然医療関連死になるだろうな。ただ、あの患者は病理解剖の結果、解離性大動脈瘤と診断されたわけだから明らかな病死だ。いまさら河野先生が届出義務違反で逮捕されることはないだろうが、本来は病理解剖をする前に警察に届けないといけないだろう。でも届出をしても問題があるんだがな」
「問題?警察に届けるとどうなるんですか?」
「まず警察が検視を行い、死因に疑問があれば司法解剖に回される」
「やっぱり解剖して死因を究明するわけですね」「そうだ。その結果、死因は解離性大動脈瘤と診断される」
「じゃあ、同じじゃないですか。どうして問題なんですか?」
「解剖の結果は警察にしか報告されないんだ。遺族も医療側も死因がなんだったかはわからないってことだ。もちろん警察に問い合わせても教えてくれない。何しろ俺達は刑事事件の被疑者になるかもしれないわけだからな」
「死因がわからなかったら、これから同じような患者が来たときにどう対応していいかわからないじゃないですか?河野先生は病理解剖をして解離性大動脈瘤と診断されたからずっと心エコーをしてきたわけでしょ?じゃあもし河野先生が10年前に警察に届け出て司法解剖になっていたら・・・」
「今日の患者さんは助からなかっただろう。そしてまた警察に報告して同じことが繰り返される」
「そんなばかげたことが・・・」
「それだけじゃない。警察は司法解剖の結果、死因は解離性大動脈瘤と診断する。当然河野先生の診断ミスの可能性を考えるかもしれない。カテーテル検査をする前にCT検査をしていれば診断できたはずだとな」
「またですか・・・。そんなことあとから言われたって・・・」
「警察には医療現場の実情なんてわからない。AMI疑いの患者がカテ室の検査台の上に乗っているのにカテーテル検査をせずにCT室に運ぶということがどんなに非現実的なことか・・・。じゃあエコーをしろと言うかもしれないがエコーで診断できる解離性大動脈瘤は多くない。今日の患者は運がいいわけだ。それに、エコーやCTをしている間に冠動脈の閉塞が持続すれば逆に心筋梗塞で命を落とすことになるかもしれない。そうなればなぜカテ室にいるのにもたもた他の検査をしていたのか?ってことになる」
「あとになってそんなこと言われるなんて絶対おかしいですよ!」
「俺達が救急の現場で医療知識や経験に基づいて判断していることを、医療知識がない警察や検察に捜査させるっていう今の制度が根本的におかしいんだ。医療事故を警察が捜査するのは世界中で日本だけだ。警察だって『そんなこと自分たちの仕事じゃない』って思っているのかもしれないけどな。でもこれが日本の国で決められたルールだから仕方ない。前に君に言ったことがあるが、中立の医療事故調査機関や医療関連死調査機関が日本にもできるといいんだがな」
「俺、日本で医者やってるのが、いやになってきましたよ・・・」
健太郎は不機嫌そうな顔でほとんど空になったジョッキをもう一度飲み干した。
カルテ10(2/4)に続く
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