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2008年9月18日 (木)

風の軌跡:カルテ11(1/4)

風の軌跡ー風間俊介診療録ー:カルテ11(1/4)

「天国と地獄」

 病気のため1年遅れで研修を行っている健太郎の同期生、氷室鋭二(ひむろえいじ)。俊介は彼の臨床医としてのすぐれた才能を認めていた。そんなある日、俊介の人生に大きな転機が・・・。

    *鋭二*

「よろしくな、健太郎」

「ああ。久しぶりだな、鋭二。身体の方は大丈夫なのか?」

 健太郎は大学時代の同期生の氷室鋭二と固く握手を交わした。

「ああ、もう全く大丈夫だ。お前は相変わらず頑丈そうだな」

 鋭二は笑いながら健太郎の胸を軽くこぶしでたたいた。

 氷室鋭二は健太郎と一緒に2年半前にS市市民病院で臨床研修を開始した。しかし1年目の12月、多忙がたたって肺結核を発症し、6ヶ月間の結核病棟での入院生活を余儀なくされた。そしてその後、半年間自宅療養を行い、1年遅れで再び研修に戻ったのだ。だからすでに前期研修を終えて内科医として後期研修をしている3年目の健太郎から1年遅れて、前期研修の2年目ということになる。

 彼は復帰してから外科、麻酔科、小児科などをローテートし、この11月中旬から4ヶ月の内科臨床研修を行うことになっている。がっしりした体つきの健太郎と違って鋭二はやせ型で一見ひ弱な印象も受けるが、学生時代はバスケットボール部のエースとして活躍した。メガネの奥にきらりと輝く涼しい瞳は一見冷たい印象も与えるが、精悍な顔立ちはいかにも秀才タイプで学生時代の成績もトップクラスだった。

「ところで鋭二は後期研修の行き先は決めたのか?」

「ああ、俺もこの病院の内科にしようと思っているんだ。なんとなく自分に合っているような気がしてな。だからお前は俺の先輩になるってことだ。よろしく頼むぜ」

 鋭二が笑いながら健太郎に言った。

「そうか!内科にするのか!まかしとけって!わからないことがあったら何でも先輩に聞いてくれって」

 健太郎はうれしそうに鋭二の肩をたたいた。

    *名医の予感*

「発熱を主訴に来院した5歳の男児です。夕方から39度の熱が出て仕事帰りの母親が連れてきました」

 夜8時過ぎ、氷室鋭二は医局で俊介に時間外受診患者の報告をしていた。今日は内科をローテートして初めての俊介との当直である。

 2年目の研修医は一人で診療を完結させることはない。必ず指導医の確認を受けなくては患者を帰すことはできない。彼は先ほど外来受診した幼児の診察を終え、その内容を俊介に報告していた。

「既往歴には特記すべきものはありません。昨日朝から37.5度の発熱があり、幼稚園を休ませて市販の解熱剤(げねつざい)で祖母が様子を見ていましたが本日夕方から39度に上昇しました。咳と鼻汁(びじゅう)を認めますが頭痛や腹痛、下痢、嘔吐(おうと)はありません」

「身体所見は、体温39.3度。脈拍110。項部(こうぶ)硬直なし。眼瞼(がんけん)結膜(けつまく)の充血および咽頭の発赤(ほっせき)を認めます。扁桃腺(へんとうせん)は軽度に腫大(しゅだい)、アズキ大(だい)の頚部リンパ節を数個、両側に認めます。肺野(はいや)にラ音(おん)なし。心雑音なし。腹部圧痛(あっつう)なし。ソケイ部にヘルニアありません。四肢の浮腫(ふしゅ)や出血斑(しゅっけつはん)、皮疹(ひしん)もありません。患児(かんじ)の周囲に発熱しているものはいないようです。インフルエンザの迅速(じんそく)検査を施行しましたが陰性でした」

 鋭二はカルテを見ないで流暢(りゅうちょう)な言葉で説明していった。俊介はうなずきながら聞いていた。

「それで?診断は?」

「はい。ウイルス感染による上気道炎だと思います」

 鋭二が俊介をまっすぐに見て言った。

「つまり風邪(かぜ)ってことだな?鑑別診断は?」

「小児の発熱をきたす疾患でもっとも重要なものは髄膜炎(ずいまくえん)ですが、この患治の場合、頭痛や嘔吐がなく、項部硬直もないことからまず否定的です。急性虫垂炎も疑い腹部の触診(しょくしん)を丁寧に行いましたが圧痛点(あっつうてん)は見られませんでした」

「ウイルス感染と診断する前に細菌感染を除外しなくてはなりませんが中耳炎、扁桃腺炎、肺炎は身体所見から積極的に疑わせるものはありません。上気道症状が中心なので膀胱炎などの尿路感染症でもなさそうです。ただしマイコプラズマなどによる異型(いけい)肺炎は完全には否定できません。風疹(ふうしん)や水痘(すいとう)は発熱2日目の現在、皮疹がないことから否定的です。川崎病は積極的に疑わせる所見はありませんが現時点では完全には否定できません」

 鋭二の明瞭な説明を俊介は感心して聞いていた。

「それで風間先生、口腔内(こうくうない)の診察をお願いしたいのですが?」

「口腔内?」

「はい。風疹と水痘は現時点で否定的だと思うのですが、麻疹は一度解熱(げねつ)したあと2回目の発熱と同時に皮疹が出るのでまだ否定できません。口腔内のコプリック斑がないことは確認しましたが、俺はコプリック斑は写真でしか見たことがありません。先生の目で確かめていただきたいのです」

―こいつは・・・すばらしいな・・・―

「わかった、一緒に外来へ行こう」

 俊介はゆっくりと立ち上がり、鋭二のあとについて外来へと向った。

「ところで氷室先生、胸部レントゲンを撮(と)らず、インフルエンザの検査をした理由はなんだ?まだインフルエンザのシーズンにはちょっと早いが・・・。確率的にはインフルエンザよりも異型肺炎のほうが高いように思うが・・・」

「時間外の今、完全な診断をつける必要はないと思います。肺炎は完全には否定できませんが慢性疾患のない5歳の小児の場合、半日診断が遅れても手遅れにはなりません。必要があれば明日小児科外来で検査すればいいと思います。しかしインフルエンザの場合はタミフルを処方するオプションがあります。タミフルは発症から48時間以内の投与が推奨されています。すでに最初の発熱から35時間が経過しているので明日まで待った場合タミフル投与が無効になる可能性があります。それにインフルエンザの場合は今晩のうちに脳症(のうしょう)を発症して急激に悪化する可能性がありますので時間外でも検査が必要と考えました」

―こいつは・・・本当に2年目の研修医なのか?―

 俊介は鋭二の言葉に驚嘆していた。

 鋭二の思考は極めて論理的だ。疾患を片っ端から羅列(られつ)するのではなく系統だてて考え、しかもそれぞれの疾患の時間的推移を考慮して3次元的にとらえている。そして重要な疾患を確実に除外し、今必要でしかも十分なことだけを行おうとする。要するに最小限の手間で最大のoutputを、しかも少ないリスクで得ようとしているのだ。

―こいつは・・・とんでもない名医になるかもしれない―

 俊介は鋭二の後姿を見ながらそう思った。

    *誘い*

「ねえ高岡先生」

「え?」

 2週間後の夜7時過ぎ、病棟でカルテを書いていた健太郎は病棟ナースの高橋さやかの声に振り向いた。

「今度研修に来た氷室先生って高岡先生の同級生だったんでしょ?」

「ああ・・・。あいつ病気して1年間休んじまったけどな。学生時代から仲良くてよく飲みにいったぜ。なんだ?」

「じゃあ今度、一緒に食事に誘ってもらえないかな?」

「ああ?鋭二と一緒に食事に行くって?なんで?」

 健太郎は無愛想(ぶあいそう)な声で聞いた。

「なんでって・・・ちょっとすてきじゃない。理知的でかっこよくて。それに・・・ちょっと影があるって言うか・・・」

 高橋さやかはうれしそうに答えた。

「そんなもんか?」

―昔からあいつはもてたよな。合コンに行くといつもきれいな子はあいつのそばにいったような気がするぜ。でも俺だって結構いいセンいってたんだけどな―

「ダメ?」

「わかったよ。じゃあ今度時間が取れるときにそっちも誰か誘って4人で一緒に飯でも食いに行くか?」

「本当?さすが高岡先生!先生の指示受け何時でもしちゃうから」

「ああ・・・。じゃあ早速で悪いけど川崎さんの明日の採血頼んでいいか?」

 健太郎はカルテを手渡しながら言った。

「了解しました!」

 高橋さやかはうれしそうにカルテを受け取るとそそくさと仕事にもどって行った。その時、健太郎のPHSが鳴った。

「はい、高岡です。え?工藤さんが・・・?また発作(ほっさ)が・・・わかりました。すぐ行きますから」

 健太郎の外来に通院している喘息(ぜんそく)の患者が発作を起して救急外来を受診したようだ。

 普通18時以降の外来診療は当直医が責任を持つわけだが早い時間のうちは当直のナースは直接主治医に連絡することもある。患者の病態をよく知っている主治医のほうがスムースな診療ができる事が多いからだ。

    *喘息悪化*

「いつから発作が出ているんですか?」

「昨日から熱があって咳が出て風邪かなって思ってたんです。やばいかなーって思っていたら案の定、夕方からまたぜーぜーしてきました。さっき発作用の吸入薬(きゅうにゅうやく)を使ってちょっと楽にはなったんですけど・・・。それにのどが痛くって飯も食えないんです。今日は朝からスポーツ飲料水ばっかり飲んでるんですよ」

 工藤裕二は25歳の営業マンだ。小さいときから喘息に悩まされ、今も1ヶ月に一回くらい軽い発作がおこるので予防薬を内服し、吸入ステロイドを毎日2回常用(じょうよう)している。3ヶ月前に当地に転勤してS市市民病院を受診し、健太郎の外来に通院している。健太郎はポケットから聴診器を取り出して、苦しそうに話をする工藤の胸を聴診した。

―やっぱり喘鳴(ぜんめい)が聞こえるな。気道感染をおこして喘息の発作がでてきたんだ―

「sPO2は?」

 健太郎はそばにいた当直看護師の朝倉瞳に聞いた。

「えっと・・・93%です」

「ちょっと低いな。のどが痛いって言ってましたね。工藤さん、ちょっとのどを見せてもらえますか?」

 健太郎は机の上にあった舌圧子(ぜつあっし)を手にとるとペンライトで工藤の口の中を照らしながら観察した。

―ちょっと咽頭(いんとう)が赤いな。でも扁桃腺も腫(は)れていないし、炎症はそれほどきつくなさそうだな。あとは肺炎のチェックをしておかないと・・・―

「工藤さん、扁桃腺は大丈夫です。あと、念のためレントゲンを撮って肺炎がないか確認しておきましょう」

「お願いします。でも扁桃腺、腫れてないですか?こんなに痛くて飯も食えないんですけど・・・」

 工藤はちょっと首をかしげて朝倉瞳に連れられてレントゲン室へ向った。

 健太郎は出来上がったレントゲンフィルムをじっとにらみながら工藤に言った。

「大丈夫ですね。肺炎もなさそうです。多分、上気道炎。つまり風邪でしょう。ウイルス感染で気道が炎症を起して喘息が悪化したんです。いまから吸入と点滴をしましょう。それから解熱剤(げねつざい)と気管支拡張剤、それとうがい薬を出しておきますから・・・。工藤さんは薬のアレルギーはなかったですよね?」

 喘息患者の中には解熱剤の投与により発作が悪化する患者がいる。これをアスピリン喘息といい、喘息患者の診療に当たる時は常に頭に考えておかなくてはならない疾患である。

「はい。薬を飲んで蕁麻疹(じんましん)や喘息(ぜんそく)が出たことはないと思います」

 熱があると抗生物質を希望する患者も多いが、抗生物質は細菌感染には有効であるがウイルス感染には全く効果がない。むしろアレルギー反応によって喘息を悪化させたり薬疹(やくしん)を発症(はっしょう)するなど有害なことも多く、医師はなんらかの細菌感染の徴候(ちょうこう)がない限り抗生物質は処方しないように勧告されている。

 健太郎は細菌感染症である肺炎や急性扁桃腺炎などを除外し、工藤裕二は多分ウイルス感染症であろうと診断したのだ。

「明日もう一度外来受診できますか?すみませんが夜間は1日分しか処方できない決まりなんです」

「はい。いつものことなので3日ほど仕事は休みをもらいましたから・・・。すみませんがよろしくお願いします」

 健太郎はカルテに処方を書いた後、吸入薬と点滴の指示を出して救急外来を後にした。

    *翌日早朝*

 12月に入り、朝はかなり冷え込むようになった。

  翌日朝7時頃、健太郎は医局でコートと手袋を脱いで白衣に着替えようとしていた。そこへ昨日当直だった氷室鋭二がやってきた。もちろん彼は2年目の研修医なのでひとりで当直を行うことはなく、他の内科医師が一緒に勤務している。昨日は消化器内科の長谷川聡と一緒の当直勤務であった。

「やあ、鋭二、当直だったのか?」

「おはよう。早いな健太郎」

「ああ、今日はちょっと調べたいことがあって早起きしたんだ。外は寒いぜ。何か面白い患者が来たか?」

「そのことなんだが、お前が昨日の夜診察した若い喘息の患者な・・・」

「喘息の患者?ああ・・・工藤さんのことか?」

 健太郎は白衣のボタンを止めながら言った。

「そうだ。6時前に息がつらいって言ってまた来たんだ」

「え?また喘息の発作か?」

「多分な。長谷川先生と一緒に診察して今、ステロイドとアミノフィリンを点滴しているんだけど・・・」

「そうか悪かったな。昨日吸入と点滴して薬出したからおさまると思っていたんだが・・・」

「でもな・・・あの患者、なんかおかしいぞ」

「おかしい?」

「ああ・・・普通の喘息じゃないぜ」

「どういうことだ?」

「喘息っていうのは下気道(かきどう)の狭窄が主体だろう?だから呼気時(こきじ)に喘鳴(ぜんめい)が出るはずだよな。でも今聴診すると吸気時(きゅうきじ)にも喘鳴があるんだ。それに喉(のど)をすごく痛がるんだ」

「それは・・・上気道炎が合併していればそういうことがあってもいいんじゃないのか?それに昨日は普通の喘息の音だったぜ。喉も診(み)たけどそれほど炎症は強くなかったはずだぞ」

 健太郎はちょっと不機嫌そうに答えた。

「ああ・・・俺も喉を診たけどそれほどの炎症所見はなかった。でもな、一度呼吸器の津川先生に診てもらったほうがいいんじゃないのか?」

「風邪をひいた喘息患者くらい俺だって診れるよ!」

 健太郎はちょっと声を荒くして答えた。

「だからただの喘息じゃないんだって!俺はこの前小児科を回ったばかりだけどな、クループとよく似た音なんだ」

「クループって子供の病気じゃないか!あの患者は25歳なんだぞ!25歳のクループなんて聞いたことないぞ!」

「何もクループだなんて言ってない。それと同じような上気道狭窄の病態じゃないのかってことだ」

 鋭二もむっとして言い返した。

「俺はこの4月から内科医として勤務しているんだ!喘息の患者は何人も診てきた。津川先生に診てもらうかどうかは俺が判断する。あとは俺に任せてくれ!」

 健太郎と鋭二は大学時代は同級生でこの病院で研修を始めたのも同じだ。しかし鋭二が1年間休職したために健太郎は1年先輩になった。そして彼は後期研修で内科を専攻し、色々な経験をつんでそれなりの修羅場(しゅらば)もくぐってきた。健太郎には今は鋭二よりも自分のほうがはるかに経験をつんだ医師であり、自分の判断のほうが正しいのだという自負(じふ)がある。そんな鋭二に自分の診療方針をとやかく言われたくはない。

「確かに俺は1年間休職してお前より臨床経験は少ない。しかし俺も休んでいた時にただ寝ていたわけじゃないぞ。毎日毎日色々な本を読んだ。少しでもお前たちに遅れをとりたくないと思ってな。今朝のあの患者の喘鳴は明らかに吸気時に強い。これが上気道狭窄の症状だってことはどの教科書にも書いてある!あの患者は上気道炎と喘息以外の病気が隠れているはずだ!」

「お前はまだ2年目の研修医だろ?だったら俺の・・・」

 その時、鋭二のPHSが鳴った。

「はい、氷室です。え?呼吸困難が?sPO2は? ・・・84%だって?すぐ行きます!」

 PHSをポケットにしまいながら鋭二は健太郎に向かって言った。

「こんな事を議論している場合じゃない!工藤さんの呼吸困難が強くなって意識レベルが低下している」

 そう言いながら鋭二はすぐ救急外来へと向った。健太郎もあわててその後に続いた。

 カルテ11(2/4)に続く

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