風の軌跡:カルテ12(1/7)
風の軌跡:カルテ12(1/7)―風間俊介診療録―
「幸せのかたち」
自分の人生に疑問を抱きつづける俊介。そして突然の有紀の事故。南川沙紀の思わぬ病と健太郎の困惑。クリスマスイブの夜、それぞれの人生が動き始める。
*時々幸せ*
「ご気分はいかがですか?」
俊介は高根清治の個室のドアを開けながら聞いた。
「ああ・・・風間先生、おかげさまで今日はずいぶんいいですよ」
高根はギャジアップしたベッドにもたれながら俊介のほうを見て答えた。
高根清治は65歳の末期膵臓がんの患者だ。10年前からホームレスのような暮らしをしていたが1ヶ月前から食欲低下や腹痛、背部痛などを自覚するようになった。しかし病院へ行く金もなく我慢していたのだが、数日前についに動くこともできなくなり、12月の寒空の公園のベンチに苦しそうに横になっていたところを通りがかりの人が見つけて救急車を呼び、S市市民病院へ運ばれて来た。
担ぎ込まれてきた時はひどい栄養不良で瀕死(ひんし)の状態であったが、点滴などの治療により、ようやく会話ができるまでに回復した。長年風呂に入っていないらしく悪臭がひどく、大部屋に入室させようものならば、たちまち同室者から苦情がでるだろうと考えた俊介は理事長に掛け合って個室に入室させた。
S市市民病院の個室に入室する時は1日8,000円の個室料が必要になるが、治療の必要性があって個室に入室するときには個室料は請求されない。高根清治のケースは厳密には治療の必要性があったわけではないが、他の患者の迷惑を考えて同様の処置をとったことになる。
そしてその処置が正しかったことはすぐに明らかとなった。高根清治の部屋を巡回するナースたちは鼻栓(はなせん)の着用を余儀なくされた。鼻栓を使用しなかった入院当初は俊介もぐっと息を止めて部屋に入るとあわてて胸の聴診をしてから「大丈夫ですね?」と声をかけて病室を飛び出し、プハーっと息を吐き出す有様だった。
一昨日、状態も落ち着いたので初めてナースの介助により入浴が行われ、ようやく俊介も落ち着いて回診ができるようになったというわけだ。
入院したときのCT検査によって彼は末期の膵臓癌と診断されていた。膵臓に3cmくらいの腫瘤(しゅりゅう)があり、すでに肝臓にも転移が多数あり、腹水(ふくすい)も出現していた。すでに手の施しようがなく、もって2ヶ月の命であろう。家族もなく・・・というか本人が家族への連絡をかたくなに拒否しているので連絡のつけようもなく、俊介は悩んだあげく、昨日本人に告知した。
普通、癌の告知、それも末期癌の告知は患者の性格や家庭状況などを把握した上で少しずつ段階的に行う。俊介もそのつもりで昨日は病気の大まかなことだけを伝えるつもりで話を始めたのだが、高根清治の妙に落ち着き払った態度になんとなく人生を達観したようなイメージを持ち、ついそのまま告知を進めてしまった。
誰しも自分が末期癌であと2ヶ月の命と言われれば少なからず動揺するものだが高根清治は全くそんなそぶりを見せず、ちょっと微笑みながら「ああ・・・そうですか」と一言つぶやき、じっと窓の外を見ていた。
そして彼は患者の精神状態を心配する俊介の顔を見ながら、「それで先生・・・この痛みはだんだんひどくなりますか?」とだけ言った。俊介は癌の痛みはほとんど麻薬によって取り去ることができるから痛みに関しては心配しなくていいと伝え、抗癌剤の効果があればもう少し延命ができることを付け加えた。
高根清治は静かに微笑みながら、「それはよかった・・・。でも先生、抗癌剤は必要ありません。痛みだけとってもらえれば、それでいいんですよ」と答えたのだ。俊介は、今日はもう少し詳しく高根清治から話を聞きたいと思い病室を訪問したのだ。
「痛みは大丈夫ですか?」
「ええ・・・全く大丈夫ですよ。あんな小さい薬がこんなに効くんだからたいしたもんですよね」
今日の高根清治はひげもきれいに剃られ、きちんとした身なりで俊介に答えた。数日前のルンペンのような彼とはまるで別人のようだ。
―これなら明日には個室から出してもいいだろう。きっとこの人は昔、それなりの地位にいた人なのだろう―
俊介はそんなことを考えながら話を続けた。
「痛みがないのは何よりです。これからも苦しいことがあったら我慢せずにおっしゃってください」
高根は笑顔でうなずいた。
「ところで高根さん、御家族の方には本当に連絡しなくてもいいんですか?」
「ああ・・・いいんですよ、先生。私は10年前に家を出てずっと一人暮らしですから・・・。家内と娘は今頃どこでどうしているんだか・・・」
「娘さんがおられるのですか?だったら・・・」
「娘と言っても、もう嫁に行っていますから、もともとほとんど顔も見ていないんですよ。事業に失敗してからは家内にも愛想をつかされて・・・。まあ、私が仕事人間で家のことをかまわなかったのが悪いんですがね」
俊介は一瞬ドキッとして高根の顔から目をそらした。
「家にいて毎日家内の顔を見ているのもつらくなって一人暮らしってわけですよ。だからいまさら夫婦ってもんでもないんですよ。向こうだって私のことなんかなんとも思っていませんから」
「それはそうかもしれませんが・・・最後の時くらい・・・」
そう言ったあとで俊介は、はっとして言葉をつぐんだ。
『最後』それはわかっていても言ってはいけない言葉なのだ。しかし高根はそんな俊介の心配をよそに笑いながら話を続けた。
「最後の時くらい自分の好きにさせてくださいよ、先生」
―ああ・・・この人は、本当に達観している。生きることにあれこれ悩んでいる俺から見るとまるで悟りを開いているように見える。俺がこの人にしてあげられることは何もないのかもしれない・・・―
「高根さん、よくわかりました。高根さんが御家族の方に連絡してほしくないと言うならばこちらからはあえて連絡しません。しかし・・・退院の時は・・・どなたかに連絡をしないと・・・」
「ああ・・・そうでしょうね。亡骸(なきがら)をいつまでもここにおいておくわけにもいかないですか・・・。じゃあ・・・献体(けんたい)にしてもらえませんか?」
「え?」
「私が死んだらこの身体を先生方の役に立ててください。こんなぼろぼろの身体でも焼いちまうよりは少しは役に立つでしょう?」
「それは願ってもないことですが・・・」
「じゃあ、そうしてくださいよ。私もそのほうが気が楽ですよ」
俊介は無言でゆっくりうなずいた。
彼はふと、この男に聞いてみたくなった。
「高根さん、高根さんは・・・いま、幸せですか?」
「幸せ?」
「はい。我々医療従事者は患者さんを幸せにするのが仕事です。残念ながら高根さんの病気を治すことは我々にはできません。しかし高根さんには残された時間をできるだけ幸せな気持ちでいてほしいのです」
「幸せな気持ち・・・ですか・・・」
「高根さんはいま幸せですか?もしそうでないならば我々に何かできることはありますか?」
「いま幸せですかって・・・?先生も難しいこと聞きますよねー・・・」
高根清治は苦笑しながら俊介の顔を見つめた。俊介も自分の質問がいかに間の抜けた質問であったかを感じていた。末期がんを告知したばかりの患者に「あなたは幸せですか?」なんて聞くほうがおかしいというものだ。しかし俊介は目の前の患者がそんなことを超越しているような錯覚にとらわれていたのだ。
「じゃあ・・・先生はどうですか?いま幸せですか?」
高根は逆に俊介の顔を見ながら聞いた。
「え?」
俊介はドキッとして、また高根から目をそらした。
―俺は・・・俺は・・・幸せ?―
「私は今まで65年間生きてきましたがね、いろんなことがありました」
高根はベッドに背中をもたれて話し始めた。
「私は不動産を扱っていたんですがね、バブルの頃はそりゃあ景気よかったですよ。1億2億の金が右から左に動いてた。なんか自分が特別な人間のように思ってました。絶対に終わりなんか来ないって信じていましたけどね・・・」
「でもバブルがはじけてからは・・・あっという間です。自分の手の中にあったものが次から次へとこぼれ落ちるようになくなっていきました。幸せの絶頂から不幸の真っ只中にまっさかさまって感じですか?最後に残ったビルも資金繰りがつかなくなって人手に渡りそうになった時、昔世話をしてやった知り合いが無担保で融資してくれたんですよ。そりゃあ・・・ありがたかったです。その人が神様に見えました。その時の気持ちはどん底を見た人間にしかわからんでしょうな・・・」
俊介はベッドのそばにおいてあった椅子に座って高根の話をうなずきながら聞いていた。
「おかげで一時は持ち直しましたが、でも結局はだめでした。破産宣告をしてすべてを失って・・・夫婦二人でぼろアパート暮らしです。そうなると男っていうのは情けないもんで、甲斐性(かいしょう)がないくせに女房にはいばりたがる。女房はそんな私にだんだん愛想をつかして口も利かなくなって知らんぷりですよ。まあ、娘が嫁に行った後だったのが不幸中の幸いですがね。公務員のしっかりしただんなですよ」
高根清二はふっと息をついて話を続けた。
「私はそんな毎日にいたたまれなくなってアパートを飛び出してホームレスってわけです。多分女房も私がいなくなってせいせいしているんじゃないですか?それからは毎日ごみや空き缶を集めてその日暮らしをしていましたけどね、慣れてみるとそれもまた悪くないんですよ。まわりに誰もいなくて自分だけでしょ?捨ててある雑誌を拾ってきて片っ端から読みあさったり、ラジオを拾ってきて直したりね。他人に気を使うこともないし自分がよければそれでいいわけですから結構幸せだったと思いますよ」
高根はそばにおいてあったお茶を一口飲んだ。
「それが1ヶ月前から食欲がなくなって腹が痛くなって・・・。薬を買う金もないしもちろん医者なんていけるわけがない。水を飲んで我慢してましたが食べるものもなくなって動けなくなっちまった。いよいよ最後かなって公園のベンチの上で寒さに耐え忍んで転がっていたら親切な人が救急車を呼んでくれてここへ運んでもらえたってわけです」
「最初はもうこのまま逝(い)かせてくれって思ってましたけど、点滴してもらって痛み止めの注射してもらったら少しずつ楽になってもう少し生きてみたいなって思うようになりました。おとといは何年ぶりかで風呂に入れてもらって・・・。腹の痛みも昨日からいただいている薬でずいぶんいいんです。今幸せかって聞かれたら、幸せって答えますかね」
「そうですか・・・高根さんは色々な経験をされてきたんですね。でも高根さんがいま、幸せと感じているのなら我々も治療をしたかいがあります。そしてこれからも高根さんが幸せな気持ちでいられるようにすることが我々の仕事ですから・・・。もし痛みがあれば我慢せず言ってください。痛みを止めるお薬を増やして全く痛みを感じないような状態で治療していくこともできますから」
「いやいや・・・風間先生。そんなことはいいんですよ」
「え?」
「先生が・・・『私に残された2ヶ月間』ですか?その2ヶ月間をずっと幸せでいられるようにって言ってくださるのはありがたいんですがね・・・そこまで考えていただく必要はないんです」
「考える必要がない?」
「ええ。人間生きていればいいことも悪いこともありますよ。私は今、痛みがなくて幸せですけど、それは痛かったときが苦しかったから幸せなんです。最初から痛みがない人は痛みがないことを幸せだって感じないでしょ?不幸なことがあるから幸せを感じられると思うんですよ。先生は『私がずっと幸せでいるように』じゃなくって、『私が不幸になった時に』助けてくだされば十分なんです。私のような人間は少しぐらい痛い目にあったほうがいいんですよ」
俊介は笑いながら話す高根を困惑した顔で見つめた。
「しかし・・・痛みはないほうが・・・」
「風間先生、先生は幸せってことに固執しすぎてやいませんか?」
「え?」
「人間、ずっと幸せでいようなんて大それたことを考えちゃいけませんよ。『時々幸せ』でいいじゃないですか」
高根は笑いながら俊介を見つめて言った。
「時々幸せ・・・ですか?」
「ええ。ちょっとくらい不幸なことがあったほうが、かえって幸せなんじゃないですか?それに『時々幸せ』だったら・・・『自分は今幸せなのか?』なんてめんどくさい質問に本気で考えこまなくてもいいじゃないですか」
高根は皮肉を込めた笑いを浮かべて俊介の顔を見た。
*苦悩*
『先生は幸せってことに固執しすぎてやいませんか?』
自室に帰った俊介は椅子にぼんやりと座って、さっき高根が言った言葉を思い出していた。
―俺が・・・幸せに固執している?―
『ずっと幸せでいようなんて大それたことを考えちゃあいけませんよ』
俊介が自分の人生のことを深く考え始めたのはごく最近のことだ。それまでの俊介は何の疑問も持たずにただがむしゃらに仕事をこなしてきた。確かに苦しいことや努力が報われないことも多かったが、救急で危ない患者を救うことができたときや、重症で生死をさまよった患者が回復して退院するときなどは充実した気持ちになり、心から幸せを感じることができた。そんな気持ちは確かにつらいことがあったから味わうことができたのであって、変化のない患者だけを診(み)ていたならば感じることのできなかった気持ちであろう。
『時々幸せでいいじゃないですか・・・』
―時々・・・幸せか・・・―
自分の生き方に疑問を抱くまでの俊介は確かに『時々幸せ』であり、彼はそのことに何の疑問も持っていなかった。彼の中で何かが変わったのは柴崎の訴訟の話を聞いてからだ。自分が正しいと思ったことを一生懸命にやっていれば世間の評価もついてくる。そう信じていた俊介だったが、一生懸命に正しいと信じている診療をしていても時には訴訟を起され、そして運が悪ければ刑事訴追(そつい)も受け、犯罪者として非難されるのが今の日本の現状だ。俊介はそんな社会の中で今までのようにつらい仕事を続けて幸せを感じていける自信をなくしていた。
―でも俺は・・・今の仕事をやめて、本当に幸せなのだろうか?―
確かに美穂との新しい生活はすばらしいものになるだろう。そこには俊介がいままで知らなかった世界が開けているように思える。しかし・・・
―いままで俺が感じてきた充実感を・・・再び感じることはなくなるのだろう―
俊介は自分が今の仕事にすべてを打ち込んできたことをあらためて感じていた。
―いっそこの仕事を続けたまま美穂と一緒に・・・。彼女がいてくれたら・・・彼女さえ俺のことを理解してくれていたら・・・苦しいことがあっても続けていけるんじゃないのか?―
俊介はそんなことを考えて、あわてて首を横に振った。
―彼女は、魅力的過ぎる・・・―
俊介は自分の性格をよくわかっている。二つのことに同時に一生懸命になることなどできない。50歳に近づいた俊介が若くて魅力的な美穂と恋愛を始めたら・・・。多分彼は仕事など手につかなくなるほどのめり込んでしまうだろう。
今の俊介にはS市市民病院の内科部長としての責任がある。それは自分が診ている患者だけではなく内科のすべての患者に対する責任があるということだ。だから彼は循環器、呼吸器、消化器、腎臓、感染症、血液、内分泌などあらゆる分野の日進月歩ですすんでいく知識をたえず更新していかなくてはならない。そのためには診療時間内だけではなく自分のアパートへ帰ってからも文献(ぶんけん)や医学雑誌を読みあさって新しい知識を吸収していかなくてはならない。俊介が今の仕事を続ける限り、美穂との甘い生活をおくる余裕はないだろう。
―俺は・・・どうしたらいいんだ?―
俊介は伏せてあった有紀の写真を手にとり、また前と同じ質問を繰り返した。 ―おまえは・・・おまえはどう思うんだ?。俺が今の仕事をやめて若い女性と一緒に暮らすと言ったら・・・―
俊介には有紀の気持ちなどわかるよしもないが、決して彼女から諸手を上げて歓迎される提案ではないような気がする。
―とにかく・・・今度の日曜に有紀に会って美穂のことを話さないと・・・―
俊介はちょっと暗い気持ちになって帰りじたくを始めた。
カルテ12(2/7)に続く
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