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2008年9月 3日 (水)

風の軌跡:カルテ8(1/3)

風の軌跡ー風間俊介診療録ー:カルテ8(1/3)

「見えない病気」  

 体重が減少する患者の診断に悩む俊介。そして健太郎が入院させた胸痛の患者には思わぬ疾患が隠れていた。

    *有紀*

 秋晴れの日曜日、俊介はF市の公園のベンチに座ってぼんやりと噴水を眺めていた。

 夕暮れが近い公園の芝生の上では子供達が父親と一緒に飛び回り、恋人たちはフリスビーをしてはしゃいでいる。ここに座っていると時間に追われている毎日の生活が遠く離れた世界のことのように思えてくる。

―コンクリートで囲まれた病院の中じゃこんなにのんびりした気分にはなれないよな・・・―

 俊介はそんなことを考えながらぼんやりと水の動きを見つめていた。

「ちょっと早く来すぎたかな?」

 腕時計をちらっと見た俊介は大きく深呼吸をして紅葉からこぼれおちるおだやかな空気を吸い込んだ。

 彼は学生時代から、待ち合わせ時間の10分前にはかならず到着するようにしている、というか、どうしてもそうしなければ気がすまないのだ。急な用事でもない限り俊介は他人を待たせた記憶はなく、いつも自分が待つ立場になっている。他人を待たせることは俊介にとっては我慢できないことであり、逆に自分が待つことはさほど苦痛なことではない。今日は一か月ぶりに娘の有紀に会うことができる日である。彼はもう20分も前からベンチに座ってじっと噴水を見つめていた。

「まだ10分くらいあるな」

 俊介は再び腕時計に目をやった。

「こめんなさーい!待った?パパ」

 噴水の向こうから有紀が小走りにかけてくる。息を切らせながら走りよってきた娘を見上げて俊介は思わず口もとを緩ませて答えた。

「いや、俺が早く着きすぎたんだ。お前も早いじゃないか。まだ10分前だぞ」

「うん。私ね、ひとを待たせるのって苦手なんだ。約束の時間の5分前には必ずついちゃうの。どんなに時間がないって思ったときも、あわててやってくるといつも私が一番なのね。でも・・・パパには負けるわ。いつも私のほうが遅刻よね」

 息を弾ませて笑いながら話す有紀を見て俊介はうれしくなる。

―やっぱり俺の娘だ、変なところまで似るもんだ・・・―

 そんなことを考えながら俊介はゆっくりと立ち上がった。

「さあ、今日はどこへ行く?有紀の誕生日プレゼントを買う約束だったな?」

 俊介は笑いながら聞いた。

「パパ・・・本当に何でも買ってくれる?」

 有紀は上目遣いに、瞳を輝かせて俊介を見つめた。俊介はその澄んだ大きな瞳に思わずすいこまれそうになる。

「なんだ?あんまり高いものは勘弁してくれよ。ママにしかられない程度のものにしてくれ」

 俊介の言葉を聞いて有紀はちょっと目を伏せて答えた。

「あのね・・・ママにはダメって言われたんだけど・・・」

「翔子が?じゃあダメじゃないか・・・。いったいいくらするんだ?」

「値段はそんなに高くないんだけど・・・」

「高くない?じゃあ何で・・・?」

「あのね・・・パパ、私、宝石がほしいの」

「宝石?!おいおい・・・パパはそんなに金持ちじゃないぞ」

「違うのよ。そんな高いものがほしいわけじゃないの。あのね・・・私、お守りがほしいの」

「お守り?」

「うん。今度ピアノのコンテストがあるの。それに優勝すれば全国の大会に進めるんだけど・・・。一人、ライバルがいるの」

「ライバル?」

「うん。鏡冴香っていう人なんだけど、すごいの。私、その人にどうしても勝ちたいんだけど自信がないんだ。それで・・・私の誕生石のオパールを持って演奏したいと思ったんだけど・・・。ママはそんなものに頼らずに自分の力でがんばりなさいって言うの。宝石なんて大人になってから持つ物だって。でもね、私、宝石ってなんとなく不思議な力があるような気がするのね。自分の中に眠っているものを全部引き出してくれるような・・・」

 ちょっと下を向いて話す有紀を見ながら俊介は娘がピアノを弾いている姿を想像した。小さい頃からピアノを続けていることは知っているが有紀がコンテストの優勝を狙えるほどの腕前であることなどは今まで知らなかった。

 有紀が発表会に来てほしいと誘ってくれたことも何度かあったが俊介はいつも多忙で行く余裕もなかった。今度のコンテストは有紀にとって大きな転機となるものらしい。その有紀が心のよりどころにほしいと言うもの・・・それがどんなものであっても俊介は与えてやりたいと思う。たとえ翔子が反対しても・・・。

「それは・・・どこに売っているんだ?」

「本当?買ってくれるの?」

「あんまり高いものはダメだぞ。それに・・・ママには内緒だ・・・」

「わかってるって・・・」

 有紀はうれしそうに俊介の腕をつかんで街中へ引っ張っていった。

「いらっしゃいませ」

 上品な雰囲気の宝石店の女性が俊介を見て挨拶した。

「あの・・・オパールを・・・見せてください・・・」

 俊介は自分ながら変な言い方だなと思った。宝石店に来ることなど翔子との結婚指輪を買いに来た時以来だ。こういうことには不精(ぶしょう)な俊介はこんなところでどう振舞ったらいいのか全くわからない。

「かしこまりました。どのようなものにいたしましょう?ペンダント、ブローチ、指輪などありますが・・・」

 店員はいくつかの商品を取り出しながら俊介に聞いた。俊介は助けを求めるようにチラッと有紀のほうを見た。

「あの・・・ネックレスが・・・あまり石が大きくないものがいいんです」

 有紀は店員の女性に遠慮がちに言った。

―あまり大きくないもの?俺の財布を気にしてくれるのか?―

 俊介はちょっとうれしいような情けないような気持ちになる。

 店員がウインドーの上に並べたネックレスを有紀は生き生きした表情で見つめている。

―それにしても・・・他人から見ると自分たちはどう映るのだろうか?年の離れた男と女・・・普通に考えれば父親と娘だ。しかし・・・最近はそんな単純な関係ではない男女もよく目にする。俺達もまさかそんな関係に見られてはいないだろうか?―

「ねえパパ。これ、きれいよね」

 有紀は深海のように青く輝く小さな石を手にとって俊介に見せた。

―パパと呼ばれれば父親と娘に見られるかな?―

 そんなことを考えながら俊介は有紀が手に取ったネックレスを見つめた・・・というかそれについている値札を見つめたのだが・・・。

―16,000円・・・そんなもんだろうな・・・―

「いいんじゃないか?きれいじゃないか」

「なんとなく不思議な力がありそうよね・・・。じゃあ・・・これにしていい?」

 うれしそうな有紀を見ながら俊介も微笑みながら無言でうなずいた。

 宝石店を出たときにはすでに薄暗くなっていた。日が落ちるとそろそろ肌寒い季節になった。大分日も短くなったが、街中は若いカップルたちで活気にあふれている。

「さあ、飯を食いに行くか?今日は何が食べたい?」

「えっと・・・回らないおすし屋さんに行きたいんだけど・・・」

「回らないおすし屋さん?」

 俊介はきょとんとして有紀を見つめた。

「うん。私、おすし屋さんってくるくる寿司しか行ったことないの。テレビで見るような、カウンターに座って『これ握って』って言うと、板前さんが『はい』って出してくるようなおすし屋さんに行きたいな・・・」

 俊介が子供の頃には回転寿司などというものはなかった。俊介の両親は彼が乳児の頃に事故で亡くなり、彼は小さい時は祖母に育てられた。その祖母も俊介が4歳のときに亡くなり、その後施設で育てられた俊介にはもちろんすし屋に連れていってもらった記憶などはない。初めてすし屋に行ったのは大学時代の部活の先輩に連れていってもらった時である。

 今は安い回転寿司のおかげですし屋はずいぶんと身近になった。しかしその代わり、昔ながらのちゃんとしたすし屋に行く機会は少なくなったのかもしれない。

「じゃあ・・・俺の行きつけのすし屋にいくか?」

「本当?うれしい!」

 そう言いながら有紀は俊介の左腕に自分の両手を巻きつけて身体を寄せてくる。俊介はちょっとドキッして一瞬身を引いたが、少し戸惑いながらほんのちょっと有紀から身体を離してぎこちなく歩き始めた。

―いくら親子でも・・・もうちょっと離れたほうが・・・いいんじゃないのか?―

 「動悸(どうき)」という単語が無意識に頭に浮かんできた俊介はあわててタクシーを拾うと、自分の住むS市へと向った。

    *寿司屋*

「でもね、その子ったら全然私の言うことわかってないの」

 初めての回らないすし屋で思いっきり食べておなかのふくれた有紀は、上機嫌で俊介に話し続ける。月に一度の娘と一緒にすごす時間・・・今の俊介が一番大切にしているひと時である。夜間の呼び出しや病院での患者や職員とのトラブル、そんな毎日のつらいこともこの時間があるから忘れられる。今日だけはポケットにいれた携帯が鳴らないでほしい・・・。

 俊介は有紀と一緒のときはいつもそんなことを考えているが、今までは俊介の願いもむなしく有紀とのデート中に何度も呼び出されていた。そんなときも有紀はいやな顔ひとつせずに「がんばってきてね」と笑顔で送り出してくれる。

「それでね、私、しっかりと自立できる女性になりたいの」

「自立?」

「うん。手っ取り早く言えば手に職をつけたいと思うんだ。ママのような弁護士か、パパのようなお医者さんになりたいなと思っているの」

 有紀から将来の夢のことを聞かされるのは初めてだ。学校の成績がほどほどにいい事は聞いていたが・・・。

「来年は私も3年生でしょ?今年中にある程度進路を決めないといけないんだけど・・・」

「ママはどう言っているんだ?」

「ママは・・・どっちも反対なの」

「どっちも反対?」

「うん。弁護士も医者もあなたが思っているほどいい仕事じゃないからやめときなさいって・・・」

 有紀は不満げに口を尖らせて前を見つめて言った。翔子らしいな・・・俊介はそう思った。弁護士のことはよくわからないが俊介も有紀に自分と同じ道を歩んでほしいとは思っていない。

 確かに医者は患者の命を救ったり人生を変えたりすることができる、そういう意味ではやりがいのある仕事かもしれない。しかしその反面自分の生活を犠牲にしなくてはならないことも多く、実際、俊介と翔子はそのために別れることになり、彼は愛する一人娘と月に一回しか会うことができない。そんな思いを自分の娘にさせたくはない。

「パパはどう思う?」

「え?」

「私が弁護士になるか医者になるかどっちがいいと思う?」

 突然有紀からそう聞かれても俊介には答えようがない。

「それは・・・俺にはなんとも言えないけど・・・。有紀がいいと思うほうでいいんじゃないのか?」

 俊介は戸惑いながら有紀の顔を見ずにしどろもどろに答えた。

「いい加減な返事よね。私が何になろうが別れた自分には責任はないってこと?」

「そんなわけじゃ・・・」

―こいつも理屈を言うようになったな・・・。こういういやなところも俺とよく似ている―

「まあ・・・何になるにせよ自分が決めたことに一生懸命になれば道は開けるもんだよ」

 俊介は笑いながら答えた。有紀は納得いかない顔で俊介から目を背けて目の前のお茶を一口飲んだ。

―それにしても・・・こいつはさっきから色々な話をしているが、ピアノのコンテストのことは一言も触れていないじゃないか。さっきはあれほど気にしているそぶりで、勝つためのお守りを買ってくれなんて言ったのにどうしてそのことを何も言わないんだ?―

「それはそうとお前のピアノのコンテストのことだけど・・・」

 俊介はさりげなく切り出してみた。

「コンテスト?ああ・・・来月の・・・」

 有紀は今初めて思い出したようにちょっと間を置いて答えた。

―なんだ?まるで興味がないような言い方じゃないか?―

 俊介は不思議に思った。

「うん。あれはね・・・無理なのよ」

「無理?」

「うん・・・私も勝ちたいとは思うんだけどね・・・。さっき話した人がね、すごいんだ・・・」

 有紀は下を向いて言った。

「鏡冴香とかいう人か?」

「なんか・・・世界が違うのよね。同じ曲を演奏していても私とは全然違うの。あ・・・でもパパからお守り買ってもらったからちょっとは対抗できるかもね。やるだけがんばってみるから・・・。そうだ、医者も弁護士もダメならピアノの先生になろうかな?」

 有紀はあっけらかんとした表情で俊介の顔を見ながら言った。

―なんだ?・・・さっきの公園での話とはずいぶん違うじゃないか。コンテストに勝つためにお守りにオパールを買ってほしいと言ってそれで俺は行きつけない宝石店に・・・―

 俊介がそんなことを考えながらお茶を飲んでいる有紀を見つめた瞬間、彼ははっと気がついた。

―有紀は・・・ひょっとしたら・・・オパールなど、宝石など・・・もともと、それほどほしいとは思っていなかったんじゃないのか?ピアノのコンテストにしたって最初から半分あきらめている様子だ。それなのになぜ俺にお守りにオパールを買ってくれと・・・―

 俊介はそんなことを考えながら目の前のビールを一口飲んだ。隣の有紀はおいしそうに赤出汁(あかだし)をすすっている。

―そうか・・・なるほどな・・・。多分・・・有紀は俺に何かを買わせてやりたかったんだ。この前に会ったときに俺がしつこく誕生日のプレゼントは何がいいか聞いたじゃないか。有紀は俺が娘の誕生日に何かを買ってやりたいという気持ちをわかっているんだ。それで俺の気持ちを満足させるために宝石をお守りだといって買わせたというわけか。こいつはこいつなりに俺に気を使っているわけだ―

 俊介はふとおかしくなった。一緒に暮らした期間はわずかだが親子というものは変なところで似るものだ。まるで自分が考えることとそっくりだ。

「お守りを持っていれば大丈夫だよ。一生懸命やればきっと勝てるって」

 俊介は笑いながら有紀に言った。

「そうよね。私がんばってみるわ」

 明るく答える有紀を見ながら俊介も微笑みながらうなずいた。物事というものは見ようとしなければ見えてこないものだ。今の有紀の気持ちにしたって俊介がぼんやりしていれば気がつかなかっただろう。彼が有紀の気持ちを考えようとしたからこそ、彼女の真意が見えてきたわけだ。

 病気というものも医者が見ようとしなければ目の前にあっても見えないことがよくあるものだ。いつも隠れているものを見つけ出そうという気持ち、これを持ち続けることが医者にとっては大切なことなのだ。俊介はあらためてそう感じていた。

「ところでパパ?」

「なんだ?」

 俊介は有紀の顔を見ながらビールを一口含んだ。

「パパは付き合ってる人、いる?」

 プファ!

 俊介は思わず口の中のビールを噴き出してしまった。

「な・・・何を言い出すんだ?」

 俊介はあわててポケットからハンカチを取り出して上着を拭きながら言った。

「病院の看護婦さんとかきれいな人いっぱいいるじゃない。誰かいい人できた?」

「ば・・・ばか!そんなのいるわけないじゃないか!俺はもう50になるんだぞ!いまさらそんな物好きがいるわけないだろ?」

「あら・・・パパは結構いけてるわよ。パパのことを素敵だと思ってる人もいるんじゃないかな?」

「な・・・何を言うんだ!親をからかうな!」

 俊介は顔を赤くして有紀から目をそむけて言った。アルコールを飲んでもほとんど顔色を変えない俊介も今は自分の顔が熱くほてるのを感じていた。

「本当に誰もいないの?」

「当たり前だ!」

「ふーん・・・そうなんだ・・・」

 有紀は俊介の顔を見ずに目の前のお茶を一口飲んで答えた。

「あ・・・そうだ!これ・・・」

 有紀は思い出したようにカバンに手を入れた。

「これ・・・この前頼まれた私の写真」

 俊介は有紀から写真を受け取り、じっと見つめた。近くの公園かどこかだろうか・・・明るい日差しの中で微笑んでいる有紀の笑顔がまぶしい。

「ありがとう。大事にするよ」

 俊介はそう言いながら写真を大事そうに胸の内ポケットにしまった。俊介の机の上の有紀の写真はいまだに4歳のままだ。

―これでもう少し身近にこいつのことを感じることができる―

 俊介はそんなことを考えながらビールを一口飲んだ。

 カルテ8(2/3)に続く

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