風の軌跡:カルテ9(1/5)
風の軌跡ー風間俊介診療録ー: カルテ9(1/5)
「命の重さ」
妊娠中絶予定の甲状腺機能亢進症患者の治療をする俊介。そして健太郎には大変な事件が待ち受けていた。
*妊娠中絶*
「え?また・・・ですか?」
夕方、自室の電話をとった俊介はびっくりして大きな声を出した。
“すみません、風間先生。いつも急なことで・・・”
産婦人科部長の佐藤琢磨が申し訳なさそうな声で答えた。
「それで・・・アウス(妊娠中絶手術)は?」
“もう20週なので・・・来週中には・・・”
「来週中・・・。じゃあ1週間で甲状腺機能を下げなくてはいけないのですね?」
“申し訳ありません。これで3回目のお願いになりますが・・・”
「とんでもない佐藤先生。私の管理が悪いせいで先生に御迷惑を掛けているのです。それに、柴崎産婦人科の件では本当に無理を聞いていただいて・・・こちらこそ恐縮しています。患者さんは今から内科診察室に向わせてください」
俊介はそう答えて受話器を置くと内科外来診察室に向った。
宮川渚は25歳の女性だ。ちょうど2年前に妊娠中絶を希望して産婦人科を受診し、そこで甲状腺機能亢進症と診断され内科に紹介された。
甲状腺機能亢進症はバセドウ病とも呼ばれる若い女性に多い疾患で、首の前にある甲状腺という組織からホルモンが過剰に分泌されることが原因だ。
甲状腺ホルモンは身体に元気を与える働きをする。そのホルモンが欠乏すれば体中の組織は元気がなくなるわけで、表情はぼんやりとうつろになり動きも鈍くなる。逆に過剰状態になれば全身の代謝(たいしゃ)は亢進し、心臓は早く拍動し、全身に汗をかき、身体はやせ細る。これが甲状腺機能亢進症という病気である。そして眼球突出(とっしゅつ)といって目が大きく飛び出るのがこの病気の特徴だ。
その当時の彼女は病的にスリムで、脈拍120、血圧180、全身に汗をかき、目は大きく飛び出しており甲状腺も大きくはれあがっていた。産婦人科医である佐藤琢磨もその異常に気がつき中絶手術を行う前に俊介に相談したというわけだ。
甲状腺の機能が亢進した状態で手術を行えば重篤(じゅうとく)な感染症を併発したり心不全などの合併症を起したり、時には甲状腺ホルモンが一気に放出されて生命に危険を及ぼすクリーゼという状態になる。
甲状腺クリーゼは一旦発症すれば治療しても半数以上は死亡する危険な病態である。2年前に俊介は宮川渚に甲状腺機能亢進症の治療を行い、その後彼女は安全に中絶手術を受けた。それからしばらく俊介の外来に通院して治療を続けていたが2ヶ月くらいでぱたりと来なくなった。
それから1年後、同じように佐藤医師のもとへ中絶を希望して受診し、甲状腺機能亢進症が再発していた彼女は同じように俊介に紹介された。そして中絶手術後再び彼女の受診は途絶えた。そして今回3回目の中絶を希望してまたまた佐藤医師のもとを訪れたわけだ。
「すみません・・・」
診察室に入った宮川渚はぺこんと俊介に頭を下げたまま下を向いていた。一時期、治療によってややふっくらした身体に戻っていた彼女は再びがりがりにやせ細り、肌はしっとりと濡れている。両手は小刻みに震えて、目は大きく飛び出ている。典型的な甲状腺機能亢進症の症状だ。婦人科で行われた血液検査の結果を見るとやはり甲状腺ホルモンの数字が正常の4倍近くに跳ね上がっている。
「お久しぶり。元気でしたか?」
俊介は受診が途絶えて病気が再発した患者へのそんな言葉を決して皮肉の意味で言うわけではない。患者には色々な事情がある。彼はそれらを知らない医者が頭ごなしに患者を非難することは決して正しいことだと思っていない。
患者が医師の指示に従わない時、医師は患者の事情を詳しく聞き、なぜこの患者が指示に従えなかったかを理解する必要がある。それを理解したうえで初めて医師は患者に厳しいことを言ったり叱責(しっせき)したりすることができるのだ。医師の側に患者の事情を理解する余裕がない時には決して患者を叱責すべきではないと俊介は思っている。物事の本質を知らないまま、うわべだけを見て他人を非難するようなことがあってはならない。
宮川渚は顔を上げずに黙ってうなずいた。紫のタートルネックにミニスカート、長いつけまつげで目元はよりいっそうパッチリと見える。そして真っ赤な口紅と、それと同じくらい真っ赤なマニキュアに彩られた爪は彼女が水商売の女性であることをうかがわせる。
「事情は佐藤先生から聞きました。来週はじめには中絶手術ができるようにしなくては・・・。これから1週間、私の言うとおりにしてくださいね」
「はい・・・」
彼女はやはり俊介には目を合わさずに小さな声で答え、そしてちょこんとうなずいた。
「治療は前と同じです。抗甲状腺剤、それから心拍数を抑えるβ(べーた)遮断剤、それからヨード剤を処方します」
甲状腺機能亢進症の治療法は3種類ある。薬物治療、手術治療、放射線治療だ。通常は薬物治療が行われ、手術や放射線治療が行われるのはやや特殊なケースだ。しかし薬物治療に使用される抗甲状腺剤の効果が発現するためには1-2か月の期間を要する。宮川渚の中絶は来週中に予定されているのでそれではとても間に合わない。そこで俊介はβ遮断剤に加えてヨード剤を併用することにしたのだ。
ヨードは体内に入ると甲状腺に高率に取り込まれる。そして急激に甲状腺機能を低下させる効果がある。しかしその効果は長続きしないので持続した治療には適さないが、宮川渚のように急激に甲状腺機能を低下させたいときには有効な方法である。
一通りの薬の飲み方と副作用などを説明した後、俊介はちょっと間をおいて宮川渚に聞いた。
「ところで宮川さん・・・」
「え?」
宮川渚は初めて顔を上げて俊介を見つめた。
「前にも話しましたけど甲状腺機能亢進症は治療に時間のかかる病気です。今の治療で一時的には改善して宮川さんは多分安全に手術を受けられるようになりますが、完全に治癒させるには最低2年間の治療が必要なんです。宮川さんにも色々事情があると思いますが、今回中絶手術が終わったらまた内科に通院して甲状腺機能亢進症の治療を続けませんか?」
「はい・・・今度は必ず・・・通うから・・・」
力なく答える宮川渚の表情を見て俊介は不安を感じた。多分今回も彼女は中絶が終われば通院しなくなるのだろう。しかしなぜ・・・?
「仕事が忙しいの?午前中にこれないのならば時間さえ決めてもらえれば夕方診察することも考えますけど・・・」
「仕事のことも・・・そうだけど・・・。あの・・・体重が増えないように治療できないかな?」
「え?体重?」
「うん。薬を飲んでいると身体はずいぶん楽なんだけど・・・だんだん体重が増えてくるから・・・」
宮川渚はまた俊介から顔を背けてうつむいたまま小声で言った。甲状腺機能亢進症は全身の細胞の代謝が亢進する病気なので体重は減少する。その治療を行えば体重が増えるのは当たり前なのだ。体重が減っていること自体が病的なことであり、むしろ体重が増えることで治療効果を確認することができる。
「体重が増えることが治療がうまくいっている証拠ですよ」
俊介はちょっと困惑した笑みを浮かべて答えた。
「それはそうかもしれないけど・・・。体重が増えると・・・あまりよくないんだ・・・」
下を向いて話す宮川渚を見て俊介は理解した。
―なるほど・・・この患者も体重が問題なのか・・・―
甲状腺機能亢進症は若い女性に多い病気である。治療する前は身体の線が細く、目も大きく一見すると今の若い女性にとっては理想的な外見に映ることがある。それが治療によって体重が増えていくと徐々に体型は理想から外れていくわけだ。この患者が治療を続けられないのはそこに問題があるようだ。
「しかし甲状腺機能が亢進した状態が続くことは決していいことではないですよ。体中の代謝が亢進するから早く年をとってしまいます。40歳になる前におばあさんみたいな外見になってしまう人もいますよ」
宮川渚は俊介の言葉をじっと黙って聞いていた。
「うん・・・。何とか・・・やってみる」
そう答える彼女を見て俊介はこれ以上説得することは困難だと感じた。何か彼女にはもっと深い事情があるようだ。そんな事情をたまに外来で会うだけの医者があれこれ詮索して患者の生活の中に深入りすることは不可能なことだ。俊介は宮川渚に向ってちょっと寂しい笑顔でうなずいた。
*ショック*
それから4日後の夕方、風間俊介と高岡健太郎は内科病棟で入院患者の治療方針を話し合っていた。その時、健太郎のPHSが鳴った。
「はい、高岡です。え?・・・そうだけど・・・」
PHSに答えながら健太郎はちょっと俊介に背中を向けて小声になった。
「え?ショック状態?・・・わかった!すぐ行く!」
とたんに大声になった健太郎はPHSをポケットに片つけると勢いよく立ち上がった。
「どうした?」
「風間先生!外科病棟の患者さんが急にショック状態になったそうです!外科の先生方が手術中で手が離せないのですぐ診てほしいと言われたので行って来ます!」
そういうが早いか健太郎は外科病棟に向って駆け出した。
「俺もすぐ行くから・・・」
俊介はそう言いながらカルテをかたつけると健太郎の後を追って廊下に飛び出した。
全力で走って行く健太郎の大きな後姿を追いかけながら俊介も必死に走った。健太郎は階段を3段とびに上っていく。俊介も健太郎の真似をして必死で2段とびに上っていくが階を一つ上がったところで息切れがしてきた。
―だめだ・・・。運動不足かな?それとも・・・歳なのか?まあ・・・あいつが先に行って応急の処置をしているだろうから俺はゆっくりでいいか・・・―
そんなことを考えながら俊介はゆっくりと一段ずつ階段を上って行った。
―それにしても・・・かかってきたのは病棟の電話にじゃなくてあいつのPHSにだよな?俺じゃなくってなんであいつなんだ?―
外科病棟の処置室では健太郎が今まさに患者の気管内挿管(きかんないそうかん)をしようとしていた。周りでは数名の外科病棟の看護師が救急薬品の準備をしたり心電図モニターを運んだりあわただしく動いている。
「よし、入った!沙紀!アンビューをくれ!」
「はい!」
隣にいた南川沙紀がそばにあったアンビューバックを手際よく健太郎に渡した。
―ああ・・・そういう事か・・・。でも、呼び捨ては・・・まずいんじゃないか?―
俊介はなんとなくおかしくなったが、今の状況はそれどころではない、と気持ちを引き締めなおした。
―それにしても・・・こいつもずいぶん挿管がうまくなったな。こんな状況で一発で入るなんて・・・―
俊介は感心して必死にアンビューバックをもみ続ける健太郎を見つめた。
「バイタルをもう一度教えてくれ!」
健太郎の叫び声に沙紀が答える。
「血圧60!脈拍120!sPO2(動脈血酸素飽和度) 78%です!」
「ドパミンつないでくれ!時間20だ!酸素は10リットル!レスピレーター(人工呼吸器)準備してくれ!」
健太郎がてきぱきとまわりの看護師に指示していく。
―これじゃあ俺の出る幕はないな・・・―
俊介はそんなことを考えながら患者の顔を見つめた。70歳くらいのちょっと太った女性だ。意識はないようで顔は汗でびっしょり濡れている。
「佐々木師長さん。状況を教えてください」
俊介はとなりでレスピレーターの準備を指示していた外科病棟の佐々木師長に聞いた。
「すみません風間先生。胃癌の術後5日目の72歳の患者さんです。今日から歩行の許可が出たので看護師がついてトイレまで行った帰りに急に胸がつらいと言って座り込んだんです。すぐにここに運んだんですが・・・。最初は血圧も測れなくて全身に汗をかいてチアノーゼが著明でした」
「胃癌の術後・・・。何か基礎疾患はあるんですか?」
「軽いDM(糖尿病)があって、確か5年前に心筋梗塞をされていますが、最近は発作はないそうで術後経過も特に問題ありませんでした」
「心筋梗塞の既往があるんですか!風間先生!再発かもしれませんね!」
アンビューバックを押しながら健太郎が俊介に言った。
「そうだな、まず心電図をとろう。それから師長さん、胸部レントゲンをポータブルでお願いしてください」
処置室に心電計が運ばれてきた。俊介は手際よく電極を患者の胸と両手足に取り付けた。
「血圧82の40です!sPO2 90%!」
南川沙紀が叫んだ。
気管内挿管をして昇圧剤(しょうあつざい)を投与したため状態はやや改善してきているようだ。しかし今やっている処置はあくまでも対症療法に過ぎない。血圧が低いから昇圧剤を投与し、酸素飽和度が低いから気管内挿管して酸素を投与しているだけなのだ。それで数字が改善したからといって安心することはできない。大切なことはなぜこの患者がショック状態になったかを解明することだ。
こんな時、俊介の頭の中にはすでにいくつかの疾患が浮かんでいる。それらを大切なものから一つ一つ除外していくために的確な検査を選択して診断を進めていくわけだ。健太郎の頭の中にはいくつの疾患が浮かんでいるだろうか?
俊介が心電計のスイッチを押すと心電図波形が記録されていく。
「どうだ?高岡先生」
「ST上昇は・・・ないですね。心筋梗塞ではなさそうですが・・・。胃癌の手術後だそうですけど、縫合不全による出血性ショックでしょうか?」
そこへレントゲン技師がポータブルレントゲンの大きな機械を両手で押して運んできた。
「遅くなりました」
レントゲン技師はベッドサイドで胸部レントゲンをとる準備を進めた。その間にレスピレーターの準備もできたようだ。健太郎はアンビューバックを取り外し、挿管チューブとレスピレーターをつないだ。
レスピレーターを装着すれば健太郎はアンビューバックを押す必要がなくなる。健太郎は必死にアンビューバックを握っていた右手をほぐしながらレントゲンを撮影する手助けをした。
「血液検査の結果が出ました!」
外科病棟の看護師が健太郎に伝票を手渡した。
「うーん・・・貧血は・・・全くないな。これは出血性ショックではないですね」
健太郎は困惑顔で俊介を見つめた。
「南川君。ポータブルエコーを持ってきてくれないか?」
俊介は南川沙紀に言った。
「はい!」
沙紀は返事をするや否や駆け足で処置室を飛び出していった。
「風間先生、薬剤性ショックでしょうか?佐々木師長さん、今日何か注射した薬剤はないですか?」
健太郎は頭の中で色々な疾患を思い浮かべながら佐々木師長に聞いた。
「今日は・・・いつもの抗生物質を点滴しましたけど・・・」
その時レントゲン技師が現像されたレントゲンフィルムを息を切らせて持ってきた。健太郎と俊介はシャーカステンにかけられたフィルムを見つめた。
「肺のうっ血は・・・ないですよね。気胸(ききょう)も・・・ないです。心臓はちょっと大きいかな?ショックの原因はなんでしょう?やっぱり薬剤性ショックでしょうか?」
ショックと低酸素血症(けっしょう)になる原因は色々ある。この患者では心電図、胸部レントゲン、血液検査などが施行された結果、心筋梗塞、出血、気胸、心筋炎、肺炎、胸水、無気肺などは否定された。残る疾患は・・・。すでに俊介の頭の中ではほぼ診断は確定していた、というか俊介は最初からその疾患を疑って状況を見ていたのだ。
―しかし、確定診断を下す前にもう一つだけ除外しておかなくてはならない疾患がある・・・―
「お待たせしました!エコー持って来ました!」
そこへ南川沙紀がポータブルエコーを息を切らせて持ってきた。
「高岡先生、心臓を調べてくれ」
「はい。心臓ですか?あ・・・わかりました!心タンポナーデかもしれませんね!」
心タンポナーデは心臓の周りに体液や血液(心のう水)などがたまって心臓の動きを抑制する疾患である。心臓が十分な血液を送り出すことができなくなり、血圧は低下してショック状態となる。
健太郎はそう言いながら沙紀からエコーのプローブを受け取って患者の胸にあてた。
「風間先生・・・心のう水は、なさそうですが・・・。ただ・・・左心室の動きが一部悪いようです」
「それは以前の心筋梗塞のなごりだろう。今回のショックとは関係なさそうだな。このエコーをみると・・・心タンポナーデもないってことだな」
俊介はエコーの画面を見つめて言った。そして満足したようにうなずきながら健太郎に言った。
「じゃあ診断はなんだ?」
「え?・・・」
健太郎はエコーの画面を見つめながら必死に考えたが的確な病名が思い浮かばない。困惑する健太郎を見ながら俊介が言った。
「この患者さんは肺塞栓症(はいそくせんしょう)だよ」
「え?肺塞栓症・・・ですか?なるほど・・・肺動脈が血栓(けっせん)で閉塞(へいそく)したから低酸素血症になってショック状態になったのか・・・。でも風間先生、エコーでもレントゲンでも肺動脈の血栓はわかりませんが・・・なぜそんなふうに言い切れるんですか?」
「君がやっているエコーで診断がついたよ」
「え?肺動脈の血栓が・・・見えるんですか?」
健太郎はあわてて必死に肺動脈をエコーで探った。
血液は血管の中ではスムーズに流れているが一旦血管の外に出るとたちまち凝固が始まる。それは出血をできるだけ少なくするための生体の巧妙なしくみだ。しかし何らかの理由で血管の中で凝固が起こるとそこに血液の塊ができてしまう。その塊を血栓と呼び、血栓がその場所を離れて血液の流れに乗って他の血管に詰まってしまうことを塞栓症と呼ぶ。
俊介はこの患者のエコーを見て肺動脈に血栓が詰まっていると診断したわけだ。しかし健太郎が目を凝らしても肺動脈に血栓らしいものは見えてこない。
「エコーで肺動脈の血栓を見るのは無理だ。しかしな、右心室が拡張しているだろ?」
「え?右心室?」
そう言われて健太郎はプローブを操作しながらエコーの画面を見直した。通常は左心室が右心室より大きく、内部の圧力も高いのでエコーで見ると左心室が右心室をおさえているように見える。しかし肺動脈に血栓が詰まると右心室の圧力が高くなって左心室を圧迫するように見えるのだ。
この患者ではまさに右心室が左心室を圧迫している。これが右心室圧および肺動脈圧が上昇していることを示す所見で、それこそが俊介がこの患者を肺塞栓症と診断した根拠なのだ。
「肺塞栓症のほとんどは下肢の静脈にできた血栓が肺動脈に飛んでいって閉塞することが原因だ。ちょっとプローブを貸してくれ」
俊介はそう言いながら健太郎からエコープローブを貰うと患者のズボンを下げて大腿(だいたい)部の付け根にあてた。
「ほら・・・これが大腿静脈だ。まだ血栓が残っているだろ?この血栓の一部が飛んでいって肺動脈に詰まったんだ。術後にはたまにある合併症だ。南川君、バイタルはどうだ?」
「血圧86の46、脈拍100、sPO2 93%です」「状態は安定しているな。よしCT室へ運ぼう。エンハンスCT(エンハンスとは造影剤を静注(じょうちゅう:静脈内に注射すること)して血管にコントラストをつける方法)をとれば診断は確定する。師長さん、ヘパリンとtPA(てぃぴーえー)製剤を準備してください。それからCTのあとで下大静脈(かだいじょうみゃく)にフィルターをいれるかもしれないから血管造影室と放射線科にも連絡してください」
肺塞栓症の治療にはヘパリンという血栓形成を予防する薬剤、tPA(tissu plasminogen activator)という血栓を溶解する薬剤が使用される。そして大腿静脈に残った血栓が再び肺動脈に詰まるのを防ぐ目的で下大静脈に血栓を捕獲するフィルターをいれることがある。俊介は診断が確定しだいすぐに治療に移れるようにあらかじめ準備しておくように指示したわけだ。
CT室では俊介と健太郎、そして南川沙紀がモニター画像をじっと見つめていた。
「ほら、高岡先生・・・肺動脈に細長い血栓がみえるぞ。やはり肺塞栓症だ」
「本当だ・・・。これが・・・大腿静脈から飛んできた血栓ですか?」
「南川君、ヘパリンを3000単位静注してくれ。それからtPAを点滴する準備を頼む」
俊介が南川沙紀に向って指示した。
「はい」
沙紀は手際よく薬剤を準備していった。
「そういえば南川君は・・・来年救急救命士の資格をとるって言ってたっけ。そうしたら、今日みたいな時には自分で気管内挿管ができるようになるな」
俊介は、沙紀を見ながら笑顔で聞いた。
「え?ええ・・・そのつもり・・・なんですけど・・・」
沙紀は薬剤を注射器につめながらちょっと困惑した顔で答えた。そしてあわててその場を離れて患者のほうへ向った。
カルテ9(2/5)に続く
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