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2008年9月

2008年9月29日 (月)

風の軌跡:カルテ12(7/7)完結

風の軌跡:カルテ12(7/7)最終話

   *それぞれのクリスマスイブ*

 今年のクリスマスイブは日曜日だ。透き通った空気の中で街は光と活気にあふれている。

 健太郎は久しぶりに朝10時までぐっすりと休養をとった。そして思い立ったように服を着替えて出かけていった。

 俊介は朝から部屋の大掃除に追われていた。それがやっと落ち着いた3時頃からは、いつものようにたまった書類と格闘していた。今晩は有紀と一緒に食事をする約束だ。俊介はなんとなくウキウキした気分になって鼻歌交じりにペンを走らせていた。

 氷室鋭二と酒井美穂、朝倉瞳は日直だった。今日はインフルエンザや胃腸炎の患者が朝からひっきりなしに来院し、目の回るような忙しさだった。

 沙紀は夕方、朝から編み続けていたセーターをかたつけ、シャワーを浴びた。そして髪を乾かし、丁寧に化粧をした。沙紀には今晩健太郎が自分に何を話すつもりなのか、わかっていた。でも最後の言葉は・・・自分から言いたい。捨てられるのではなく、自分からさよならを言いたい。そして健太郎の前では最後までできるだけ美しい自分でいたい。それが自分のせめてものプライドだ。そして最後に「今までありがとう」とお礼を言いたい。

 ベッドに座ったままコンパクトを見ながら口紅をひく沙紀の目からは思わず涙がこぼれ落ち、沙紀はあわててティッシュで拭った。

「あら?高岡先生・・・」

 忙しかった日勤の仕事を終えた朝倉瞳は病棟へ向う健太郎の姿を見つけた。

―きっと南川さんの回診に行くのね。じゃあ、病棟で待っていれば・・・会えるわ・・・。今日はクリスマスイブよ。神様が合わせてくれたのね。瞳、勇気を出しなさい―

 瞳は自分に言い聞かせるようにゆっくりとうなずいて病棟への階段を登った。

 健太郎は椅子に座ってベッドの上の沙紀と向かい合っていた。二人とも話を切り出せずにじっと座ったまま下を向いている。そしてついに健太郎が切り出した。

「今日は・・・大事な話があるんだ。真剣に聞いてくれ」

「わかってるわ。私も大切な話があるの」

 沙紀は健太郎から顔を背けて言った。

「沙紀・・・俺は・・・」

「待って!私から言わせて!」

 沙紀は健太郎に向き直りって彼の言葉をさえぎった。

「いや、俺から言う」

「だめよ!私が先よ!」

 ベッドから降りようとする沙紀を健太郎は両手で制した。

「落ち着いてくれ、沙紀!いいから・・・そこに座れ・・・」

 健太郎は大きな瞳を潤ませる沙紀の両肩に手を添えてベッドに座らせ、ゆっくりと言った。

「沙紀・・・俺と・・・俺と結婚してくれ!」

 健太郎の言葉を聞いた瞬間、沙紀は動かなくなった。まっすぐに健太郎を見たまま瞬きもせずに呆然(ぼうぜん)と座っていた。

「俺と結婚してくれ!」

 2回目の健太郎の言葉にようやく沙紀は自分を取り戻し、そして小さく首を横に振った。

「・・・いやよ・・・」

「どうして!俺のことが嫌いになったのか!」

 健太郎は真剣な表情で沙紀を見つめた。

「いやよ・・・いや!どうして!どうしてそんなこと言うのよ!」

 沙紀は健太郎を嫌悪(けんお)の目で見つめた。

「俺には・・・お前が必要なんだ!これからも俺のそばにいてくれ!」

「必要?何言ってるのよ。こんな私がどうして必要なのよ。こんな身体で何もできない。子供だって作れない。それどころか治るかどうかもわからない。こんな私がなんで必要なのよ!同情はやめて!」

「同情なんかじゃない!俺はお前のことを愛しているんだ!これからもずっとお前と一緒にいたいんだ」

「私は・・・私はあなたのことを愛していないわ。私は・・・今日あなたにお別れを言うつもりだったの」

「強がるなよ!お前だって俺のことを愛しているはずだ!お前にも俺が必要なんだ!自分の気持ちに素直になれ!」

「うぬぼれないで!私には・・・あなたは必要ないわ。私は一人で生きて行ける」

「じゃあ・・・これはなんだよ!」

 健太郎はベッドサイドの棚を開けた。

「これはなんだ!お前、ずっと編んでたんだろ?俺のために編んでいたんじゃないのか?」

「ち・・・違うわ。リハビリのつもりよ。健太郎のために編んでいるんじゃない」

「じゃあ、なんでこんなに大きいんだよ!俺にぴったりじゃないか!」

「それは・・・まだ指が動かなくて・・・小さいのが編めないからよ・・・」

 沙紀は下を向いて小さな声で答えた。健太郎はふっとため息をついて編みかけのセーターを丁寧に棚に戻し、ゆっくりと椅子に座った。

「俺な・・・この前から毎日がつらかったんだ。お前がよくなったのになんでこんなに気分が晴れないんだろうって思ってた。その理由がやっとわかったんだ。この前からお前となんとなくぎこちなくなっただろ?話をしても事務的なことばかりで・・・。お前とうまくいってなかったから・・・俺は毎日が楽しくなかったんだ」

「沙紀の治療が始まった頃は、毎日医局に寝泊りしてつらかったけど、あの頃の俺って、なんとなく幸せだったなって思うんだ。毎日お前と一緒にいて、つらいときも力になってやれて・・・。白血球が上がってきたとき、お前が飯を食えるようになったとき、本当にうれしかったんだ。それでな・・・2日前にやっとわかったんだ。俺が幸せでいるためにはお前が必要なんだって。お前が病気だって寝たきりだって俺と一緒にいて笑ってくれれば、俺と一緒に幸せを感じていてくれれば、俺は幸せなんだ。だから・・・これからも、俺と一緒にいてくれ!」

 沙紀はベッドの上でじっとうつむいたまま肩を震わせていた。

「あなた・・・ばかよ・・・」

 沙紀は小さな声でつぶやいた。そして顔を上げて涙でぐしょぐしょになった顔でもう一度言った。

「あなた、ばかよ!どうしようもないばかだから・・・私が・・・私が一緒にいてあげるわ!」

「本当か!結婚してくれるのか?」

 沙紀は鼻をすすりながらうなずき、健太郎に抱きついた。

「子供、産めないかもしれないけど・・・いい?」

「ああ」

「あなたのために何もできないかもしれないけど、ごめんね」

「ああ」

「髪の毛抜けて、きれいじゃなくなるけど、お嫁さんにしてくれる?」

「髪の毛なんかなくても・・・沙紀は・・・誰よりもきれいだよ」

 沙紀は健太郎にしがみついてもう一度鼻をすすった。そしてゆっくりと身体を離してベッドに座りなおしてティッシュをとり、涙を拭きながら聞いた。

「健太郎・・・」

「なんだ?」

「そんなきざなセリフ、誰に習ったの?」

 沙紀が鼻をすすりながらちょっと微笑んで聞いた。

「だ・・・誰にって・・・。お・・・俺が思ったまま言っただけだよ」

 健太郎は決まりが悪そうに沙紀から顔を背けた。

「そう・・・。初めてね、健太郎が私のこときれいだって言ってくれたの・・・」

 沙紀はくすっと笑いながら言った。

「そ・・・そうだ!これを・・・渡さないと・・・」

 健太郎はあわてて自分のポケットから箱を取り出した。

「さっき・・・買ってきたんだ」

 健太郎はそう言いながら箱を開けて指輪を沙紀に差し出した。

「健太郎・・・本気なのね。本当に私をお嫁さんにしてくれるのね」

 沙紀の瞳は再び涙で見えなくなった。

「あたりまえだろ!さあ・・・手を出してくれ」

 沙紀は小さくうなずいて左手を健太郎に預けた。

「・・・あれ・・・?ちょっときついか?」

「いた・・・痛いよ、健太郎」

「あ・・・すまん。おかしいな・・・。ちゃんとサイズ、合わせたはずなのに・・・」

「健太郎・・・」

「え?」

「小指にはめて・・・」

「小指?」

「小指なら入るでしょ?」

「ああ・・・」

 健太郎は沙紀の薬指から指輪を抜くと小指に入れた。

「ありがとう・・・健太郎」

「あした、ちゃんと交換してくるから・・・」

健太郎が決まり悪そうに言った。

「いいの・・・。わたし、健太郎が今日はめてくれたこの指輪がいいの。一生大事にするから・・・」

 沙紀は大事そうに左手を胸に当てた。

 病棟の階段の前で朝倉瞳は健太郎を待っていた。

「あら?朝倉さんじゃないの。どうしたの?こんなところで・・・」

 通りかかった川村師長が聞いた。

「え?あの・・・高岡先生にちょっと用事が・・・。さっき病棟へ行かれるのを見つけたので・・・」

 瞳はしどろもどろに答えた。

「ああ・・・そう。でも、今日は多分だめだと思うわよ。だってクリスマスイブでしょ?イブの夜くらい一緒にいたいでしょ。南川さんも大分よくなったみたいだし・・・」

「え?南川・・・さん・・・」

「イブの夜くらいあの二人の邪魔しないであげたら?急ぎなの?あなたの用事・・・」

「え?そんな・・・そんなことないんです!明日出直します!失礼します!」

 瞳はそう言うとあわてて階段を走り下りた。

―高岡先生の彼女って・・・南川さん?そんな・・・そんなことって・・・。私・・・私って・・・ばか!ばか!―  

 仕事を終えた俊介はコートをはおって玄関のロビーへ降りた。

「パパー!」

 俊介を見つけた有紀が笑顔で駆け寄ってくる。左手の包帯がまだ痛々しい。

「すまん!遅くなったな」

「いいのいいの。今日はクリスマスイブなんだから。遅刻ぐらい許してあげる」

「さあ、どこへ行こうか」

「今日はパパにクリスマスプレゼント持って来たのよ」

「クリスマスプレゼント?」

「ほら、あそこ・・・」

 入り口の横で翔子がちょっと恥ずかしそうに右手を上げて俊介に合図した。

「翔子・・・」

「さあ!行くよ!」

「おいおい・・・」

 有紀は俊介の腕を引っ張って翔子のほうへ連れて行った。そして翔子を捕まえると二人と腕を組んで明るく笑いながら二人を外へと連れ出した。

 酒井美穂はロビーの端でそっとその様子を見つめていた。そして誰もいなくなったロビーの椅子に座ると、目じりを人差し指でほんの少しぬぐい、バックからゆっくりと携帯を取り出した。

「・・・あ・・・おかあちゃん?わたし・・・。今?病院・・・仕事終わったところ・・・」

 美穂はもう一度左手で涙を拭いた。

「この前の話だけど・・・会うだけ会ってみようかな・・・。うん・・・正月の2日なら休みだから・・・。1日の夜帰るから・・・。うん。身体・・・気をつけてね」

 美穂はそっと携帯をたたんでバッグにかたつけると大きく息を吸い込み、そしてふーっと吐き出した。そしてちょっと間をおいてから立ち上がると、ほんの少しだけ笑みを浮かべて一歩一歩床を踏みしめながらしっかり前を向いて歩き始めた。

 氷室鋭二が外へ出た時には雪がちらついていた。

「寒いと思ったら、こんなものが降ってきやがった」

 鋭二はコートの襟を立てて足早に家路を急ごうとして、ふと立ち止まった。

「やっぱり、傘とってきたほうがいいかな」

 鋭二はそうつぶやいて病院のほうへ向き直った。すると玄関から若い女性が駆け出してきた。その女性は鋭二の目の前でふり積もった雪に足をすべらせた。

「きゃー!!」

 鋭二は思わず手を出して女性を抱きかかえた。

「大丈夫か?」

「す・・・すみません・・・」

 氷室は自分の腕の中にいる女性の顔を覗き込んだ。

「おまえ・・・朝倉じゃないか・・・」

「は・・・はい。すみません氷室先生・・・」

 朝倉瞳は鋭二に申し訳なさそうに頭を下げてあわてて立ち上がった。

「おまえ・・・泣いてるのか?」

「え・・・?」

 鋭二に指摘されて瞳はあわてて手で涙を拭った。

「そうか・・・おまえ、健太郎のことが好きだったんだっけな・・・。ふられたのか?」

「私・・・高岡先生の相手が・・・南川さんだなんて知らなかったんです・・・。知ってたら最初から・・・」

「なんだ、まだ知らなかったのか?お前も相当鈍いやつだな」

「私、鈍いんです・・・。鈍感でおっちょこちょいで・・・仕事もできなくて・・・」

「ば・・・ばか!泣くなよ!人が見てるじゃないか!」

 鋭二はあわてて瞳の腕をつかんで病院の横手のほうへ引っ張っていった。

「ほら、これで涙拭け!」

「ず・・・ずびばぜん・・・」

 鋭二からハンカチを受け取った瞳は涙を拭いた。

「ほら、鼻も・・・」

 そしてティッシュを受け取り鼻をかんだ。鋭二はそんな瞳をじっと見つめていた。

「おまえ・・・今からなんか用事・・・あるのか?」

 鋭二がちょっと口ごもりながら瞳に聞いた。

「そんなの・・・あるわけ・・・ないですぅ・・・」

 瞳が鼻をすすりながら下を向いて答えた。

「じゃあ・・・仕方ないから・・・今日は俺がどっか連れてってやるよ」

「本当・・・ですかぁー?」

 瞳がびっくりして、涙を拭いて真っ赤になった顔を上げて鋭二を見つめた。

「ああ・・・。話、聞いてやるから・・・」

「あ・・・ありがとう・・・ございば・・・ず・・・」

「ば・・ばか!泣くなって!ほら、行くぞ!」

 鋭二は瞳の腕を引き寄せると街の灯りのほうへ歩いていった。

 健太郎と沙紀は薄暗い部屋の中で並んでベッドに腰をかけて窓を見ていた。

「健太郎・・・雪・・・」

「本当だ」

「セーター間に合わなくてごめんね・・・」

「いいんだ。まだ冬は長いんだから・・・。無理しないでゆっくり編んでくれよ」

「春になっちゃうかも・・・」

「春になっても寒い日があるから大丈夫だよ」

「ひょっとしたら夏になっちゃうかも・・・」

「夏でも・・・サマーセーターっていうのがあるだろ?俺、ちゃんと着るから」

「ばか・・・」

 二人は天から舞い降りる光のかけらを肩を寄せ合って見つめていた。

 「風の軌跡―風間俊介診療録―」 終わり

  この物語はフィクションです。風間俊介をはじめとした医療従事者、患者、背景等はすべて架空のもので特定のモデルはありません。

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2008年9月28日 (日)

風の軌跡:カルテ12(6/7)

風の軌跡:カルテ12(6/7)

   *同情と愛情*

「なんだ、あいつ・・・」

 健太郎はふてくされて医局のソファに仰向けになった。

 この10日あまり、健太郎はほとんど自分のアパートに帰っていない。シャワーを浴びに帰っても沙紀のことが気にかかり、いつも医局のソファで朝を迎えていた。そして健太郎の体力もそして精神力も限界に来ていた。

 いままでずっと沙紀のことを考えて一生懸命に治療に当たってきた。もちろん他の仕事や当直も普通にこなしてきた。そんな努力がようやく報われて沙紀が元気を取り戻した。そんな自分に対してもう少しねぎらいの言葉があってもいいじゃないか。

 確かに大変な病気になった沙紀のつらい気持ちもよくわかる。しかしこんな状態でこれからの長い沙紀との闘病生活に耐えていくことができるのだろうか?

「やあ・・・健太郎、大丈夫か?」

 医局へ入ってきた氷室鋭二が声をかけた。

「ああ・・・鋭二か、今日当直だったよな」

「今日は患者が来なくて暇だぜ。たまにはこんな日があってもいいよな」

「そうか・・・」

 健太郎はめんどくさそうに返事をした。

「彼女、よくなったんだって?」

 鋭二がちょっと間をおいて聞いた。

「ああ・・・何とか乗り越えたよ」

「そうか・・・お前もよくがんばったな。毎日ここで寝泊りしていたんだろ?」

「ああ・・・」

 健太郎はぼさぼさの頭をかきながらゆっくりと起き上がって座りなおした。

「お前・・・これからどうするんだ?」

 鋭二が真剣な顔できいた。

「これからって?」

「お前たち付き合ってるんだろ?これからは・・・どうするつもりなんだ?」

「どうするって・・・そのままだろ?」

「彼女と結婚するつもりなのか?」

「・・・わからん・・・」

 健太郎は鋭二から顔を背けた。

「あまり・・・深入りしないほうが・・・いいぞ」

「深入りってなんだよ!」

 憤慨(ふんがい)してにらむ健太郎を見ながら鋭二はちょっと間をおいて答えた。

「中途半端な気持ちで付き合うなってことだよ」

「俺達は真剣だ!中途半端な気持ちじゃない!」

 健太郎は吐き捨てるように鋭二に言った。

「いいか?健太郎、よく考えてみろよ。彼女は今から半年以上、化学療法を受けることになるんだぜ。それでも治るかどうかわからん。もし治ったとしてもしばらくは子供を作れない。そしてこれからもいつ再発するかわからないんだぞ」

「そんなことはお前に言われなくたってわかってる」

「いや、わかっちゃいない。それがどんな意味なのか考えてみたことがあるのか?」

「どんな意味だ?」

「お前、長男だろ?両親の世話はいずれお前がしなきゃいけないんだぜ。10年後20年後のことを考えたことがあるのか?それに親だったら早く孫の顔が見たいって思うもんだろ?彼女にとってもそれはプレッシャーになるはずだ」

「・・・」

「お前どうして彼女と付き合い始めたんだ?」

「どうしてって・・・」

「かわいかったからだろ?彼女がきれいだったから付き合い始めたんじゃないのか?今の彼女を見て同じ気持ちか?」

「病気がよくなればまた元にもどるさ!」

「よくならなかったらどうするんだ?再発してまた別の化学療法を延々とやらなければいけなくなったら・・・」

「そんな先のことはわからん!」

「健太郎、冷静になって考えてみろよ。俺はお前にとって嫌なことを言っているのはわかっている。彼女にもつらいことだろう。でもな、お前が幸せじゃなかったら彼女だって不幸なんだぞ。中途半端な気持ちで付き合い続けるよりはっきり別れた方がお互いに幸せだってこともあるんだ。お前なら・・・かわいくて健康な女の子がいくらでも見つかるはずじゃないか」

「沙紀を捨てろというのか?今一番つらい思いをしている沙紀を捨てて他の女と付き合えというのか?そんなことできるはずないじゃないか」

「お前のその気持ちが・・・すでに愛情じゃなくて同情じゃないのか?あいつがかわいそうだから自分がいてやらなければいけないと思っているんだろ?違うか?」

―違う・・・同情じゃない・・・。俺は・・・俺は沙紀のことを・・・愛しているんだ―

 健太郎は心の中で自分に確かめるように繰り返した。しかし鋭二の前でそれを言葉に出すことができない。

「あいつは強いよ。研修医の俺が言うのも変だけどな、外科病棟へ移ってまだ半年なのに誰よりもしっかり自分の仕事をこなしていた。最初は悲しむだろうが、お前の気持ちだってちゃんとわかってくれるさ。一人になってもちゃんと病気と闘っていけるはずだ」

「俺達のことは・・・お前にはわからん・・・」

 健太郎は鋭二の顔を見ないでポソリといった。鋭二はそんな健太郎をじっと見つめていた。

「ああ・・・そうだな。悪かったな、余計なこと言って・・・。悪気はなかったんだ。勘弁してくれ」

 鋭二はそう言うと医局を出て行った。

 健太郎は一人になった医局でじっと考え込んでいた。

―沙紀と別れる?そんなこと、できるはずないじゃないか―

 健太郎は沙紀が入院してから今の今まで沙紀と別れるなどということは考えてもみなかった。付き合っていた相手が病気になったから一生懸命に看病して治療した。今から苦しいことがたくさん待ち構えていることもわかっていたし、それは沙紀にとっても自分にとっても避けることができないことなのだと言い聞かせていた。

 しかし鋭二は自分がそこから逃げ出せるのだと言う。そのほうが沙紀も幸せなのだと言う。健太郎の頭の中には今まで考えもしなかった沙紀と別れたあとの生活が次々と浮かんできた。

 病院を出た健太郎はアパートへ向って歩き出した。

―ああ・・・。今日は、まだ晩飯食ってなかったっけ・・・―

 健太郎はふと足を止めてアパートのほうから天真爛漫(てんしんらんまん)の方角へ向おうとした。すると病院から出てくる人影があった。

「高岡先生!遅くまでおつかれ様です!」

「やあ・・・朝倉くんか。君も今帰りか?」

「今日は夕方から入院が多くて・・・やっと今仕事がかたづいたところなんです」

「そうか・・・。じゃあ・・・まだ飯食ってないのか?」

「はい。もうお腹ペコペコですよ」

「じゃあ、一緒にそこまで行くか?俺もまだなんだ」

「本当ですか?お願いします!」

 朝倉瞳は大きな声で返事するとぺこんと頭を下げた。

    *酔った勢い*

 二人は天真爛漫で中ジョッキと単品料理をいくつか注文した。

「ご苦労様」

「おつかれ様でーす!」

 乾杯した二人は運ばれてくる料理を黙々と食べ始めた。健太郎もよく食べるが瞳の食欲もかなりのものだ。

―よく食うやつだな・・・―

 瞳は一皿一皿残さずにきちんと最後まで食べる。野菜の切れ端やスープなども残さずきれいに食べ上げる。

「君は好き嫌いはないのか?」

 健太郎があきれた顔で聞いた。

「すみませーん。私、食べるのと健康なのだけがとりえなんです。食べれないものなんてひとつもありませーん」

 瞳は笑いながら明るい声で答えた。

 健太郎は瞳と一緒にいるとなんとなく元気が出てくるような気がする。久しぶりにアルコールを飲んだこともあり、彼は自分が最近になく明るい気持ちになっていることに気がついた。

「高岡先生、南川さんどうですか?」

「え?」

「先生、主治医なんでしょう?少しよくなってきたって聞いたんですけど・・・。大丈夫ですか?」

―ああ・・・この子は・・・俺と沙紀のことをまだ知らないんだ―

「ああ・・・今日は白血球も上がってきたし、出血も止まっているから山は越えたと思うよ」

「本当ですか!よかった・・・。南川さんってすごく仕事できますよね。なんでもてきぱきして、それにきれいだし・・・。私もあんなナースになれたらいいんですけど・・・」

 瞳はあこがれるような目線で話す。

「大丈夫だよ。君だって立派なナースになれるよ」

「本当ですか?高岡先生からそんなふうに言われたら私、張り切っちゃいます」

 それから健太郎はビールをお代わりし、瞳もチューハイを注文し、1時間あまりが過ぎた。

「酔っちゃいましたー。明日大丈夫かなー?」

「もうこれくらいにしておけよ。明日師長さんにしかられても知らないぞ。君は飲むといつもこんな感じなのか?」

「すみませーん。でも今日は・・・特別です。高岡先生が誘ってくれたからうれしくて・・・」

 健太郎は瞳の屈託(くったく)のない明るい笑顔に吸い込まれそうになる。

「飯に誘ったくらいのことがそんなにうれしいのか?」

「はい。女なんて単純なもんですよ。好きな人から『君が一番きれいだよ』って言われたらそれだけで舞い上がっちゃいますからね。あ・・・高岡先生!私、告白していいですか?先生のこと、好きなんです!」

「な・・・何を言い出すんだ。君はかなり酔ってるな・・・」

「酔ってますけどしらふです・・・って、変かな?いえ、いいんです!先生に彼女がいるってこと知ってます。でもそれでもいいんです。だってまだ結婚しているわけじゃないでしょ?だったらまだ私にもチャンスがあるじゃないですか。それが誰なのかわからないけどその人に宣戦布告でーす」

「わ・・・わかった・・・。わかったから今日は・・・これくらいにして・・・。すみません!お勘定お願いします!」

 健太郎はぐでんぐでんに酔っ払った瞳を抱えるとあわてて店を出てタクシーを捕まえて瞳を乗せた。

『結婚しているわけじゃないからチャンスがある・・・』

 瞳を送り届けた健太郎は瞳の言葉を頭の中で繰り返しながら家路へと急いだ。

    *悲しいすれ違い*

 次の日、初めて入浴許可が出た沙紀は2週間ぶりにシャワーを浴びた。

 髪は昨日よりもさらに抜けていいく。沙紀は恐る恐るブラシをあててそっとタオルで拭いた。そして久しぶりに薄く化粧をして口紅を塗ってみた。

「今日はどうだ?」

 健太郎がのっそりと部屋に入ってきた。

 昨日は成り行きとはいえ沙紀のことを忘れて瞳と一緒に夕食をとり、健太郎はそれなりに楽しい時間を過ごした。そのことが沙紀になんとなく申し訳ないような気がして今日の彼はまともに沙紀の顔を見れなかった。

「大丈夫・・・」

 沙紀はチラッと健太郎を見てちょっとぶっきらぼうに答えた。

「熱は下がったようだな。食事食べたか?」

「食べた」

「吐き気は?」

「ない」

「鼻血出ないか?」

「出ない」

「そうか・・・大分よくなったな。もう点滴もいらないし、血液検査も2-3日ごとでいいから・・・」

 健太郎は持ってきたカルテをめくりながら言った。

「さっきシャワー浴びたの。いいって言われたから・・・」

「そうか・・・風邪(かぜ)ひかないようにな。じゃあ、また夕方来るから・・・」

 そう言いながら健太郎はチラッとだけ沙紀の顔を見てそそくさと部屋を出て行った。

―どうして・・・どうして私の顔をちゃんと見てくれないの・・・?―

 健太郎の事情を知らない沙紀は健太郎のそっけない態度がすべて自分が変わってしまったからだと思ってしまう。

 こんな自分でも精一杯きれいにして少しばかり化粧もしてみた。健太郎にほんの少しでも・・・今日はきれいだな・・・そんな言葉を言ってほしかった。

 健太郎は昼過ぎに呼ばれた救急患者の診療を終えてカルテを記載していた。

「あの・・・高岡先生・・・」

 健太郎が振り向くと朝倉瞳が申し訳なさそうな顔をして立っていた。

「やあ・・・朝倉君か。大丈夫か?二日酔いじゃないのか?」

「昨日はすみませんでした!私、酔っ払っちゃって・・・。いつもはあんなんじゃないんです。昨日言ったこと、全部忘れてください!失礼します!」

 瞳は口早にそう言うと深々とお辞儀をして部屋を出ようとした。その時・・・

「きゃー!」

 ガッシャーン!!瞳はそばにあった救急カートを倒してしまった。

「また・・・またやっちゃいました・・・」

 瞳は泣きそうな顔をしてあわてて散らばった注射器や器具をかたつけ始めた。

「ああ・・・しょうがないな・・・」

 健太郎はくすっと笑いながらカルテを置いて瞳と一緒にかたつけ始めた。

「高岡先生!いいんです!私やりますから!」

「いいんだ。二人でやったほうが早く片つくから・・・」

 健太郎はにっこり微笑んで散らばった注射器を拾い始めた。

「す・・・すみません・・・」

 瞳は真っ赤な顔をして下を向いたまま必死に散らばっている物品をかき集めた。

 それから数日後、沙紀は食事も取れるようになり、部屋の外へも出歩けるようになった。顔の腫(は)れもほとんど引き、肌のつやも戻って元通りの生気のある顔を取り戻していった。しかし髪は相変わらず抜け続けた。

 沙紀は2-3日前からこっそりと編み物をするようになった。もうすぐクリスマスになる。何もできない自分にできることは?健太郎のために何か自分にできることはないか?必死に考えた沙紀は健太郎のセーターを編むことを決心したのだ。

 よくなったとは言っても疲れはある。果たして短期間で編み上げることができるかどうかわからなかったが、それでも何かをしなければ不安で仕方がなかった。あれから健太郎との間は相変わらずしっくりこない。声を荒立てるわけではないが会話も事務的で笑顔を交わしても心は通っていないのが沙紀にはわかっていた。

 健太郎も悩んでいた。健太郎の沙紀に対する気持ちは以前と変わっていない。今でも沙紀のことをいとしいと思う気持ちに変わりはない。いや、変わりはないはずだ。しかし健太郎にはこのままずっと沙紀と一緒にやっていけるかどうか自信がなかった。

 沙紀のことを幸せにできるかどうか?そして自分が幸せでいられるのかどうか?今の健太郎には自信が持てなかった。

「風間先生・・・。実は相談したいことが・・・」

 健太郎が俊介の元を訪れたのはクリスマスイブの2日前だった。健太郎は今の思いを切々と俊介に伝えた。

 俊介は健太郎には沙紀とずっと一緒にいてほしいと思う。この二人のことを知ってから俊介は陰ながら応援してきたつもりだ。健太郎にはこれからの沙紀の闘病生活を一緒に支えてやってほしい。しかしそれが二人にとって幸せになる道かと問われれば・・・。俊介にもそうアドバイスする自信はない。

「俺にもどうしろとは言えない。決めるのは君たち二人だ」

「はい。わかっています・・・」

「ただ、人生を共にする相手を決める時に考えることは一つだけだ」

「一つだけ・・・」

「その人が自分にとって必要かどうかだ」

「その人が必要かどうか・・・」

「自分のこれからの人生に彼女が必要だと思うならばその人に決めたらいい。必要ではないと思うならは他の相手を探すことだ」

「俺にとって沙紀が必要かどうか・・・」

「あとは俺にはわからん。自分で考えろ」

「わかりました」

 健太郎は顔を上げて俊介にはっきりと返事をした。

 その夜、健太郎は自分のアパートに戻ってベッドの上でずっと考えた。ほとんど一睡もせずに沙紀と自分のこれからの人生を考え、そして一つの結論を出した。

「沙紀・・・。実は大事な話があるんだ」

 翌日、健太郎は沙紀に向って真剣な表情で話しかけた。

「そう・・・」

「明日の夜、ここで・・・いいか?」

「私も・・・私も話があるの」

「そうか。じゃあ明日、夜7時頃に来るから・・・」

 カルテ12(7/7)最終回へ続く

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2008年9月27日 (土)

風の軌跡:カルテ12(5/7)

風の軌跡:カルテ12(5/7)

   *血球貪食症候群*

 細川亜矢子は今年37歳になる血液内科専門医だ。白血病や悪性リンパ腫などの血液悪性腫瘍を一手に引き受けている。

「どうだ?細川先生」

 俊介が細川亜矢子に聞いた。健太郎もその横で心配そうに座っている。

「さっき彼女の腸骨(ちょうこつ)から骨髄を採取しました。とりあえずライトギムザ染色の標本だけ見てきましたが、やはり血球の貪食(どんしょく)が見られます。ヘモファゴで間違いないと思います」

「そうか・・・それで原因は?」

「リンパ腫を疑わせるような細胞もあるのですが・・・確定診断はなんとも・・・。免疫染色や表面マーカーの検索をしてみればもう少しわかるかもしれませんが・・・」

「追加検査の結果を待つ余裕は・・・ないだろうな」

「はい。病態は急速に進行しています。できるだけ早く治療を開始しないと・・・」

「ステロイドパルス療法でいいだろうか?」

「第一選択はステロイドとシクロスポリンとエトポシドの併用なんですが・・・判断がむつかしいところですね。進行が急速なので私は・・・もし患者さんが男性ならば多剤(たざい)化学療法を・・・CHOP(チョップ)を開始したいところですが・・・」

「男性ならばとはどういう意味ですか?細川先生」

 健太郎がけげんそうな声で聞いた。

「CHOPにはエンドキサンが入っているでしょ?催奇性(さいきせい:妊娠した場合に奇形児が生まれる可能性)があるのよ。少なくとも3年間は妊娠できないわ。それにもちろん脱毛も・・・」

 健太郎はだまってうなだれた。

 3年間妊娠できない・・・。今からCHOP療法が開始されれば毎月1クール、合計8クールの治療が必要だろう。少なくとも4年間は子供を作ることができない。それに脱毛は必ず起こる。

「なぜこんな病気に・・・」

「悪性リンパ腫のほかに、急性のウイルス感染が原因のこともあるし膠原病(こうげんびょう)が原因のこともあるけど、最近はEBウイルスの持続感染が原因の症例があるようね」

「EBウイルス感染・・・」

「小さい頃に感染したEBウイルスがリンパ球の中で持続感染していて大人になってから再活性化してリンパ腫や白血病を発症(はっしょう)することがあるのよ。蚊アレルギーとの関連が報告されているわ」

「蚊アレルギー?」

 健太郎が大きな声を出した。

「蚊アレルギーの患者さんにはEBウイルスが持続感染したリンパ球が増えていることがわかっているの。その中に白血病やリンパ腫や血球貪食症候群を発症する患者さんがいるのよ」

「細川先生・・・彼女は・・・蚊アレルギーです」

「え?」

「小さい頃から蚊に刺されると水ぶくれになって3日くらい熱が出たそうです。だから虫が嫌いになって夏はほとんど出歩かないんです」

「南川さんが・・・蚊アレルギーですって?」

「細川先生。そうなると彼女の身体の中ではEBウイルスが再活性化されて、感染したリンパ球が腫瘍性に増殖して血球貪食症候群を・・・」

 驚く細川亜矢子に俊介が言った。

「多分、そうだと思います」

「それじゃあ・・・やはり早めにCHOPをしたほうがいいわけだな」

「はい」

 二人の会話を健太郎はじっと下を向いて聞いていた。

「高岡先生。選択の余地はなさそうだ。彼女のご両親は?」

「それが・・・彼女に両親はいません。小さい頃にご両親が離婚して、2年前にお母さんが交通事故で・・・。兄弟姉妹もいないんです」

「そうか・・・仕方がない、彼女に直接話をしてCHOP療法に同意してもらおう」

 健太郎はしばらくじっと考え込んでいたがおもむろに顔を上げた。

「風間先生!ムンテラは俺に・・・俺にさせてください!」

「高岡先生、私からも話をするわ」

「いえ、彼女と二人だけで話をさせてください。お願いします!」

「でも・・・」

 俊介は困惑する細川亜矢子を制して健太郎に言った。

「わかった、君に任そう。俺達は薬剤の準備をしておくから、同意が得られたらすぐに治療開始だ」

       *確率50%*

 健太郎は沙紀の横に座って今の病状と今後の治療方針を隠さずに詳しく説明した。

「それで・・・助かるの?わたし・・・」

 何日も高熱が続いて体力を消耗している沙紀は健太郎を見ながらだるそうに聞いた。

「このままの状態なら・・・まず助からない。しかしCHOP療法の効果が出れば十分期待できるはずだ」

「期待って・・・どれくらい?」

「・・・半々だ」

 健太郎は沙紀の目を見ながらきっぱりと言った。

「50%・・・。そう・・・あんまりないのね・・・」

「CHOP療法は本来それほど副作用が強い治療ではないんだ。しかし今のお前の状態でCHOPを行えば白血球減少や血小板減少が進行して感染や出血などの重篤(じゅうとく)な合併症を併発する可能性もあるだろう。しかし最初のCHOPがうまくいけば状態は改善する。そうすれば救命率は80%以上に向上するはずだ」

「今からの数日が私の命の分かれ目ってことね」

「そうだ」

 沙紀はじっと仰向けのまま天井を見ている。健太郎はそんな沙紀をじっと見つめていた。

「健太郎・・・」

 沙紀は健太郎の顔を見ずに聞いた。

「え?」

「わたし・・・子供産めなくても・・・いい?」

 沙紀の大きな瞳はほんの少し潤んでいるように見えた。

「ああ」

 健太郎は優しく微笑みながら答えた。

「髪が抜けても?」

 沙紀の瞳から大きな涙がひとすじ流れた。

「髪はまたすぐに生えてくるさ」

 健太郎は明るい声で言った。

「健太郎がいいなら・・・やって・・・」

 沙紀はそう言うと健太郎と反対側をむいて布団をかぶった。

「俺に任せておけ。必ず治してやる」

 健太郎はゆっくり立ち上がるとそう言いながら布団の上から沙紀の肩にやさしく触れた。

    *CHOP: DAY 1*

 CHOP療法はエンドキサン、アドリアシン、オンコビン、プレドニンを組み合わせた化学療法だ。プレドニンは内服薬で、それ以外の薬剤は点滴や静脈注射で投与される。健太郎はアドリアシンの入った注射器を手にとって沙紀に注射しようとしていた。

「いつ見ても毒々しい色ね」

「そうだな」

 アドリアシンはまるでイチゴシロップのような鮮やかな赤い色をしている。

「今まではまさか自分がこれを注射されるなんて思っていなかったわ」

「そうだよな・・・」

 健太郎は注射器を沙紀の点滴のラインにつながる三方活栓(さんぽうかっせん)に丁寧に接続した。

「パジャマにつけないでよ。洗っても取れないから」

「そんなこと、俺だってわかってるさ」

 健太郎はちょっと不機嫌そうな声で答えると注射器をゆっくりと押した。点滴のラインの中を毒々しい赤い液体が沙紀の身体に向って吸い込まれていく。

―頼むぞ・・・おまえたち―

 健太郎は赤い液体に向って祈るようにつぶやきながらゆっくりと注入して行った。

 アドリアシンは細胞毒性の強い薬剤だ。血管の中に入れば問題ないが、血管の外に漏れ出すと皮膚は壊死(えし)して大きな潰瘍(かいよう)を形成してしまうので絶対に皮下に漏らしてはいけない。そのためアドリアシンの投与には中心静脈が利用されることが多い。手足ではなく首や胸からカテーテルを中心静脈に挿入してから注射すれば皮下に漏れる可能性はなくなる。

 しかし今の沙紀の状態で中心静脈にカテーテルを挿入しようとすれば出血や感染などの重篤な合併症を引き起こす可能性が高い。健太郎たちはあえて腕の静脈から投与する方法を選んだのだ。 

 夜9時過ぎ、健太郎は誰もいない医局のソファに仰向けになって休んでいた。今日は当直ではないが沙紀をひとり置いてアパートへ帰る気持ちにはとてもなれない。そこへ俊介が入ってきた。

「あ・・・風間先生。今日は色々ありがとうございました」

 健太郎が身体を起こして座りなおした。

「効くといいなCHOP・・・」

 俊介は健太郎の前に座った。

「ええ・・・。それにしても、色々な病気がありますよね。最初はただの風邪(かぜ)だと思っていたのにこんな恐ろしい病気が隠れているなんて・・・」

「そうだな。血液の病気は循環器の病気と同じであっという間に悪くなるからな。半日の診断の遅れが命にかかわることもある」

「よくなるでしょうか・・・」

「大丈夫だよ。きちんと治療すればきっとまた仕事にも戻れるさ。まあ、子供はしばらく無理だけどな」

「そんなことはどうでもいいんです。あいつがよくなってくれさえすれば・・・え?何・・・何言ってるんですか?風間先生!俺は・・・」

 健太郎はしどろもどろになって言い訳しようとした。俊介はそんな健太郎を制して静かに言った。

「これからの彼女には君の力が必要なんだ」

「し・・・知ってたんですか?先生・・・」

 俊介は何も言わずに笑いながらコーヒーカップを手に取った。

「いつから・・・いつから知ってたんですか?」

 健太郎がびっくりした顔で問いかける。

「いつから?そうだな・・・この物語の第1話から・・・かな?」

「え?何のことですか?」

 俊介はそれには答えずに微笑みながらコーヒーを一口飲んだ。

    *CHOP: DAY 3*

 その2日後、沙紀の熱は下がった。血球貪食症候群で熱が出るのは異常な白血球からサイトカインという物質が大量に放出されるためだ。普通、風邪などにかかると熱が出るが、これはウイルスが熱を出しているわけではなく、反応した白血球がサイトカインを出しているためである。

 血球貪食症候群ではそのサイトカインが大量に放出され、高熱や多臓器障害などを引き起こす。熱が出なくなったということはCHOP療法が奏功してサイトカインの分泌が落ち着いてきた可能性が高い。

「風間先生、CHOP効いているようですね」

 ナースセンターで健太郎がうれしそうに言った。

「そうだな、しかしまだまだ安心できないぞ。勝負はこれからだ」

 今朝の沙紀の血液検査では白血球は1000(正常値は4000以上)、そして血小板は1.8万(正常値は15万以上)まで低下している。腫瘍細胞は減少しているかもしれないがCHOPの影響で骨髄抑制が現れてきているのだ。

「ふつうCHOPでは骨髄抑制は1週間くらい経過してから起こるものだが彼女の場合、もともとかなり骨髄がやられていたから、すでにかなりきつい状態だな。これからは支持療法をしっかりやらないと」

「はい。GCSF(骨髄の白血球を増やす薬剤)と血小板輸血、それと感染対策も再確認しておきます」

 沙紀の個室は面会禁止となり、医師や看護師もマスクやガウンに着替えた上、きちんと手を消毒してから入室することになった。健康な人間にはなんでもないような病原体も今の沙紀にとっては命取りになるのだ。

―今からの1週間・・・血球が立ち上がってくるまでがんばれば、沙紀は助かるんだ―

 健太郎はそう自分に言い聞かせてもう一度自分の出した指示に間違いがないか確認した。

    *CHOP: DAY 4*

 CHOP療法が開始されてから4日目、ついに恐れていたことが起こった。沙紀が再び39度の熱を出したのだ。白血球はすでに400まで低下している。今の沙紀には病原体と戦う力がほとんどないのだ。

「大丈夫か?咳でないか?」

「咳は出ないわ。身体はだるいけど・・・」

「何か食べたいものはないか?生(なま)ものじゃなかったらなんでもいいんだぞ」

「食べたくないの。何か口に入れたら吐いてしまいそうで・・・。薬を飲むのがやっと・・・」

「そうか・・・今が一番つらいときだからな。がんばれよ」

 マスク越しの健太郎の言葉に沙紀はほんの少しだけうなずいた。

    *CHOP: DAY 6*

 CHOP療法6日目。沙紀は相変わらず40度近い発熱を繰り返していた。ぐったりして食事は全くとれず、必要な水分とカロリーは点滴で補われている。

「高岡先生、南川さんの血液塗沫(とまつ)標本から・・・」

 検査技師が報告伝票を持ってきた。

「なんだって?グラム陽性球菌(きゅうきん)が・・・。くそ・・・敗血症(はいけつしょう)か」

 今朝採血した沙紀の血液の中から細菌が検出されたのだ。

 人間の身体の中には多くの細菌が存在している。口腔(こうくう)内、腸管、尿路などには健康な人でも多数の細菌が存在している。しかし通常は血液中には細菌は検出されない。血液の中から細菌が検出されたということは明らかに異常なことで、これを菌血症(きんけつしょう)という。そして菌血症により臓器障害が起こった場合を敗血症と呼び、きわめて重篤な状態である。

 検出された細菌がどのような種類であるかは4-5日後の培養結果を待たなくてはならないが、少なくとも今、沙紀の身体の中では全身に無数の細菌が飛び回っているということだ。

 もちろんCHOP療法開始と同時に抗生物質が投与されているが自分の免疫力がなければどんな抗生物質も効果は出ない。しかし、できることはすべてやった。今健太郎にできるのは沙紀の骨髄が回復して白血球を作り出し、細菌を排除してくれるのを待つことだけだ。

―がんばってくれ・・・沙紀―

 健太郎は祈るような目で、ぐったりして荒い呼吸をしている沙紀を見つめていた。    

   *鼻(び)出血*

 昼の1時過ぎ、医局へ戻った健太郎は病棟から呼ばれた。

「なんだって?鼻(び)出血?わかった!すぐ行く」

 健太郎が病室に入ると沙紀が苦しそうに横を向いて膿盆(のうぼん)を抱えていた。

「ボスミンガーゼだ!それと血小板は?今日の分の血小板はまだ来ないのか?」

 沙紀の今日の血小板は0.6万まで低下していた。血小板が1万以下になると自然出血を起こすようになる。もちろん毎日のように血小板輸血も行われているがとても追いつかない状態なのだ。

「血小板10単位、今準備できたそうです。すぐ持ってきます!」

 高橋さやかがあわてて部屋を出た。健太郎は血管収縮剤のボスミンでぬらしたガーゼを丁寧に沙紀の左の鼻の中につめていった。

「よし、俺がしばらくこのまま抑えているから、君は止血剤を準備してくれ。生食100mlにアドナとトランサミンを1アンプルずつだ」

「はい」

 もう一人の看護師が部屋を飛び出し、部屋の中には健太郎と沙紀だけが残った。健太郎はガーゼがつめられた沙紀の鼻を押さえていた。沙紀は血液を少々飲み込んだらしく、ゴホゴホと時々咳をして苦しそうに呼吸している。

「・・・けんたろう・・・」

「なんだ?沙紀」

「私・・・だめかも・・・しれない・・・」

「ばか!だめなことあるもんか!CHOPは効(き)いているんだ!あともう少しがんばればお前の骨髄が持ち直してくる!それまでの辛抱じゃないか!おまえらしくないぞ、弱音を吐くな!」

 健太郎は右手で沙紀の鼻を押さえながら左手で沙紀の身体を支え、必死に叫んだ。

「わたし・・・なおる?」

「当たり前だ!俺や風間先生や細川先生だって一生懸命になっているんだ。お前ががんばらないでどうするんだよ」

「うん・・・がんばる・・・」

 沙紀は小さな声でうなずいた。健太郎の右手に沙紀の涙がひとしずくこぼれ落ちた。

    *CHOP: DAY 7*

 体温39.5度 脈拍98 血圧82/46.白血球400 赤血球264万 血小板 1.2万鼻出血 2回。 食欲なし。

   *CHOP: DAY 8*

 体温38.9度 脈拍96 血圧88/46 白血球500 血小板245万 血小板1.3万鼻出血 2回。 食欲なし。 嘔吐1回。

   *CHOP: DAY 9*

 体温38.4度 脈拍90 血圧90/48

「どうだ?沙紀」

「ありがと・・・今日はちょっといいみたい・・・。出血もないし・・・」

「そうか・・・見てみろ!今日の採血結果だ!」

「白血球900、赤血球256 血小板2.3・・・上がってる・・・。昨日より上がってるね、健太郎」

「そうだ!熱も下がってきてるし山は越えたぞ!あとは日に日によくなるはずだ」

「本当?私、助かるの?」

「当たり前だろ!苦しいのももう2-3日の辛抱だぜ!」

「ありがとう・・・。健太郎・・・」

 沙紀は涙を拭いた手で健太郎の手を握ってうなずいた。

    *CHOP: DAY 11*

 体温37.2度 脈拍82 血圧94/56、白血球2200、赤血球289万、血小板4.6万

「風間先生、もう大丈夫ですよね!」

 健太郎は検査データを俊介に見せながらうれしそうに言った。

「ああ・・・何とか乗り切ったな。彼女も君もよくがんばった。もうマスクやガウンは必要ないだろう」

 俊介は健太郎の肩をたたきながら言った。

「しかし大変なのはこれからだぞ。化学療法はこれから半年以上続けなくてはならない。場合によっては骨髄移植だって必要になるかもしれない」

「はい・・・わかっています」

 健太郎は神妙な声で答えた。

 沙紀の入院からもうすぐ2週間、苦しみのどん底からようやく光が見えてきたところだ。しかし戦いは始まったばかりなのだ。これから半年以上、いやそのあとも自分と沙紀は病気と闘い続けなくてはならないのだ。

    *CHOP: DAY 13*  

 南川沙紀はようやく元気を取り戻し、食事も半分以上食べれるようになった。熱もなく点滴もはずれ、ふらつきながらもベッドの周りを歩けるようになった。沙紀はベッドの上に起き上がると、ふと自分が寝ていた枕元を見た。

「やだ・・・。あんなに抜けてる・・・」

 枕の上には沙紀の髪がごっそりと抜け落ちていた。化学療法の副作用の脱毛だ。沙紀はもちろん脱毛が起こることは知っていたし、当然覚悟はしていた。しかし今まではそのことを考える余裕もなかった。

 沙紀はゆっくりと身体を起こすと部屋の中にある洗面所によろよろと歩いていった。そして沙紀は鏡に映った自分をはっとして見つめた。

―これが・・・わたし?―

 まぶたは腫(は)れあがり、くぼんだ頬はまるで骸骨(がいこつ)のようだ。肌は乾燥してまるで張りがない。沙紀はそこにおいてあったブラシを手にとると髪を恐る恐るといでみた。ブラシにからみついた髪の毛の束を見た沙紀は思わずブラシをほおり投げてあわててベッドにもぐりこんだ。その時ドアをノックする音が聞こえた。

「どうだ?沙紀、元気か?」

 沙紀は健太郎の声にはっとして布団を頭からかぶった

「どうしたんだ?具合悪いのか?」

「大丈夫。なんでもない」

「そうか・・・食事食べれたか?」

「うん」

「吐き気は?」

「ない」

「どうしたんだ?頭から布団かぶって・・・」

「なんでもないの。今日はもう行って」

「もう行けって・・・?どうしたんだよ」

 健太郎が布団を剥がそうとしたその時・・・

「やめて!」

「な・・・なんだよ・・・。いったいどうしたんだ?」

 健太郎はびっくりして布団から手を離した。

「ごめんなさい・・・。でも今日は・・・もう行って・・・」

「わ・・・わかったよ」

 一人になった部屋の中で沙紀は布団をかぶったまま泣いた。

 沙紀は自分に自信があった。健太郎は確かに短気なところはあるが若い医師で体格も大きく見た目もそこそこ魅力的だ。彼に惹(ひ)かれる若い女性も多いはずだ。しかし病気になる前の自分もそこそこのルックスで看護師としての技量も人並み以上だという自負(じふ)があった。

 そして自分の性格は健太郎に合っており、彼も自分のことをパートナーとして認めてくれていると思っていた。彼の両親に紹介されても気に入られる自信があった。しかし今の自分は・・・。

 自慢だった美しい瞳は腫れあがり、頬は骸骨のようにこけている。これから髪も抜け落ちていくはずだ。そして窮地(きゅうち)は脱したもののこれから助かるかどうかもわからない。少なくとも半年以上は抗癌剤の投与を受け、それがうまくいっても3年以上は子供を作ることができない。そしていつ病気が再発するかもわからない。

 そんな自分が・・・健太郎の相手としてふさわしいのだろうか?自分を紹介された彼の両親はなんと思うのだろうか?結婚して孫ができるのを心待ちにしているはずなのに妊娠できるかどうかわからない、それどころか働けるようになるかどうかもわからない、そんな嫁を歓迎できるだろうか?

 確かに健太郎は今、自分のことを一生懸命に思ってくれている。しかしそれは本当に自分への愛情からなのか・・・。単なる同情ではないのか・・・。ひょっとしたら自分と付き合ってきた義務感から一緒にいるだけなのではないだろうか?100歩譲って今、健太郎が自分のことを愛してくれているとしてもそれがいつまで続くのだろう?何年も闘病生活を続けていても同じ気持ちで自分のことを想ってくれるのだろうか?そして・・・それだけの価値が今の自分にあるのだろうか?

 カルテ12(6/7)に続く

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2008年9月26日 (金)

風の軌跡:カルテ12(4/7)

風の軌跡:カルテ12(4/7)

   *不器用*

 翌日夜、俊介が美穂の待つスナックのドアをあわてて開けたのは約束の10時を2分ほど回った頃だった。

「遅くなってすまない」

 俊介は申し訳なさそうに頭を下げて美穂の横に座った。

「私も今来たところです」

 店のマスターから渡されたおしぼりを手にした俊介はバーボンを、そして美穂はカクテルを頼んだ。薄暗い店の中には俊介が学生時代によく聞いた古いジャズが流れている。

「有紀ちゃん大丈夫ですか?」

「ああ、創(きず)の経過はいいらしい。本人も元気だよ」

 俊介はバーボングラスを傾けながら有紀の話や今日診察した外来患者の話を続けた。美穂は微笑みながら時々うなずいて俊介の話を静かに聞いていた。

 俊介たちの他には若いカップルが一組だけ、カウンターの離れたところの椅子に座って店のマスターと楽しそうに話をしていた。そして俊介の話が途切れ、二人の間にはしばらく沈黙が流れた。俊介は意を決したようにバーボンを一口飲んで顔を上げた。

「酒井君・・・」

「はい・・・」

「申し訳ないが・・・俺は・・・君の気持ちを受け入れることはできない」

「・・・そう・・・」

 美穂は俊介の顔を見ずにちょっとだけ間をおいて静かに答えた。まるで最初から俊介の言葉を知っていたように・・・

「俺は仕事のために家族を捨ててきた。そしてこれからも今の仕事を続けていきたいと思っている。俺は・・・家庭を持てる人間じゃない。君と一緒にいても君を幸せにすることはできないし、幸せじゃない君と一緒にいる俺も多分・・・幸せではない」

 俊介は言葉を選びながら、それでも自分の気持ちにできるだけ忠実に話した。

「そうよね・・・」

 そんな美穂のあっさりした言葉に俊介はちょっと拍子抜けしたが、バーボンをもう一口飲んで自分の気持ちを素直に語り続けた。

「実は俺は、今の仕事をやめて産業医になろうかって考えていたんだ」

「産業医?」

「ああ・・・知り合いからその話を持ちかけられたんだが・・・。今の仕事がつらいから楽な仕事に変わって君と一緒に第二の人生をって考えてしまった。でもそれは・・・間違いだとわかったんだ。俺には今の仕事が一番合っているような気がするんだ」

 俊介の言葉を聞いた美穂はちょっと間をおいて答えた。

「先生は・・・病院をやめちゃだめよ」

 美穂は俊介に微笑みながら首を小さく横に振り、そして一口カクテルグラスを傾けて静かに言った。

「本当はね、私、自分の気持ちを伝えるつもりなんてなかったの」

「え?」

「私の気持ちを伝えたって先生の仕事の邪魔になることがわかっていたから・・・」

「・・・」

「でも、最近の先生はとても苦しそうだったから・・・。そんなあなたのために私が何かできるんじゃないかと思ったの」

「・・・」

「でも今日の先生は元に戻っているわ」

 美穂はうれしそうに言った。

「今、私の目の前にいるのは私がよく知っている風間俊介・・・」

 美穂は少女のように輝く瞳で俊介を見つめた。俊介はそんな美穂の瞳に吸い込まれそうになる自分をやっとの思いで制した。

「あなたが元気になるために・・・私も少しは力になれたって思っていていいですか?」

 俊介が人生に自信をなくして落ち込んでいたとき、美穂からの告白がどれだけ俊介の自信になったか・・・。

「もちろん・・・。君のおかげで俺は・・・」

「そう・・・よかった。私、それだけでいいの」

 美穂は笑顔でそう答えるとバッグを手に取って立ち上がった。

「お・・・送っていくよ」

「いいの」

 立ち上がろうとする俊介を美穂が目で制した。

「でも風間先生・・・。私、もうしばらく先生のことを好きでいると思うから・・・。つらいことがあったら・・・いつでも私のところへ来てください」

 『もうしばらく好きでいるから・・・』こんな美穂の言葉にどう答えたらいいのか・・・。自分のために気持ちを打ち明け、それを拒否されても想ってくれる美穂のために、自分は何をしてやれるのだろうか?

「酒井君・・・俺は・・・」

 言葉を捜して困惑している俊介を見ながら美穂が小声でつぶやいた。

「先生って・・・不器用ね・・・」

 美穂は潤んだ瞳にほんの少し笑みを浮かべ、小走りに出口へ向った。

    *裁量(さいりょう)*

 翌日の俊介は何かが吹っ切れたように明るい気分で仕事をしていた。隣にいる美穂の顔を見ると申し訳ない気持ちになるが、彼女はいつもどおり明るい笑顔で俊介に接してくれる。

―ちょっと・・・もったいなかったかな・・・―

 俊介はそんなことを考えて苦笑しながら外来診察を進めていった。

 その日の昼過ぎ、俊介は最後の患者である河上光彦の頭部MRIの画像を見ながらはたと考え込んでいた。

 河上光彦は45歳の男性で不安神経症、うつ病で通院している患者だ。2週間前から動悸(どうき)、頭重感(ずじゅうかん)、めまい感を感じるようになり、なにか大変な病気が隠れているのではないかと検査を希望して10日前に来院した。

 彼はこのような症状は以前から時々訴えることがあり、俊介も精神的な原因であろうと考え抗不安剤と抗うつ剤を少々増量して投与していた。頭部CTや血液検査、胸部レントゲン、心電図、24時間心電図などの検査では異常がなく、症状も徐々に落ち着いてきていた。このまましばらく投薬を続ける予定であったが、患者の強い希望により今日、頭部MRI検査を行うことになったのだ。

 俊介はMRI検査で異常が出るとは考えなかったが、異常がなければ患者も安心して症状も落ち着くだろうと思って検査を予約したのだ。しかし俊介の予想に反して彼の脳には小さな異常が見つかった。

「これは・・・動脈瘤(どうみゃくりゅう)か・・・」

 河上光彦の脳に4mmくらいの小さな動脈瘤が見つかったのだ。

 脳動脈瘤は破裂するとくも膜下出血という重篤(じゅうとく)な病気を発症する。しかし今の河上光彦の症状とは全く関係はない。大きな脳動脈瘤は破裂する危険が高いので予防手術が行われることがある。しかし予防手術にもある程度の危険があり、脳梗塞などの合併症が2-3%の確率で起こりうる。

 要するに動脈瘤が破裂する危険と、手術合併症の危険を考えて手術を行うかどうかを決めることになる。高血圧などの基礎疾患がなければ大きさ5mm以下の動脈瘤は破裂の危険性は非常に少ないので手術リスクのほうが高いため予防手術を行うことは少ない。河上光彦の動脈瘤も手術適応はほとんどないということになる。

 これを患者に説明する時はこうなる。「あなたの脳の血管に動脈瘤という血管のこぶが見つかりました。あなたの今の症状とは関係ありません。あなたの動脈瘤はこれから1年間に0.5%の確率で破裂してくも膜下出血を起こすことがあります。破裂を予防するための手術には3%程度、死亡や脳梗塞などの重篤な合併症を発症するリスクがあります。手術の危険性のほうが高いのでこのまま様子を見ましょう。1-2年後にもう一度検査して大きくなっていたらその時また考えましょう」

 ほとんどの患者は動脈瘤、くも膜下出血という言葉に驚くが、丁寧な説明により納得し、少々不安な気持ちを残しながらも深く考えずに日常生活に戻る。時には、次のように話す患者もいる。

「実は私、来年から2年間アフリカの奥地へ行かなくてはならないんです。医療設備もないところでくも膜下出血を起こせば助からないと思うので手術危険性は少々あっても手術してください」

 このような場合は手術リスクよりもメリットのほうが大きいと判断されれば手術が行われる。これを患者の自己決定権という。最近の最高裁判所の判例を見ても今の日本の医療は自己決定権を最大限優先させることが推奨されている。しかし河上光彦の場合、ちょっと事情が異なる。それは彼が自分の症状に過大に反応する極度の不安神経症だからである。

 もし彼に同じ説明をしたらどうなるか・・・。俊介がどんなに丁寧に説明しても彼の頭の中から「くも膜下出血」という言葉が消えることはないだろう。一旦手術をしないことに同意したとしても、これからの彼は常にくも膜下出血におびえることになる。

 今回のような軽いめまいや頭重感があるたびに病院を受診し、繰り返し検査を受け、日常生活もままならなくなるだろう。場合によっては無理に手術を希望して重篤な合併症を引き起こすことになるかもしれない。

 しかし医師が動脈瘤があることを説明しなければ、彼はまたもとのように普通の生活に戻れるのだ。ただ、わずかとはいえ、小さい動脈瘤も破裂する危険がないわけではない。そうなればもちろん患者にとっては不幸なことであるが、説明をしなかった医師にとっても不幸なことになる。

 脳動脈瘤があることを知っていたのにそれを患者に説明しなかった。もし説明を受けて患者が手術をするという選択をしていればくも膜下出血を発症しなかった可能性が高い。「手術リスクのほうが高いから説明する必要はない」といういいわけは通らない。患者の自己決定権を侵害(しんがい)した。そう判断されてその医師は多額の賠償金を請求され、怠慢な医療をした医師として非難されるかもしれない。

「医師は患者のためを考えてあえて説明しなかった」

 そう判断してくれる裁判官がどれくらいいるだろうか?

 20年前まではこのケースのように「患者に悪い影響を与える可能性のある説明をしない」という判断は医師の裁量として一般に認められていた。しかし今の日本ではそのような医師の勝手な判断は許されなくなってしまった。

 医師が訴訟のリスクを負わないためには・・・ありのままに説明をしなくてはならない。その結果患者にどういう結果がおころうが、きちんと説明しておけば、とりあえずその医師が責任を問われることはなくなるのだ。

 俊介はじっとモニター画面を見つめていたが、意を決してマイクに向かい、患者を呼びいれた。

「おそいじゃないですか・・・風間先生。何か見つかったんですか?私の頭、どうなんですか?」

 診察室に入るや否や河上光彦が不安そうな声で俊介に聞いた。

「すみません。見落としがないようにじっくり見ていたものですから・・・」

 俊介が笑いながら答えた。

「そ・・・それで・・・結果は・・・」

「大丈夫ですよ」

「え?本当ですか?」

「ええ。まあ、年齢相当の動脈硬化はありますが、頭の中には腫瘍も出血もないですよ」

「本当ですか・・・ああ・・・よかった。命が10年ちぢまりましたよ」

 河上光彦はモニター画面に映し出された自分の頭の写真を見ながら胸をなでおろした。

「めまいはどうですか?」

「おかげさまで大分よくなりました。やっぱり精神的なもんだったんですね。自分ながらいやになっちゃいますよ」

 明るく笑う河上光彦を見ながら俊介もにっこり微笑んでうなずいた。

「じゃあもうしばらく今のお薬を続けてみましょうか。それと、1年くらいしたら動脈硬化の進行具合を見るためにもう一度MRIの検査をしてみましょう」

「おねがいします。でも本当に大丈夫ですか?『突然血管が切れちゃう』なんてことないですか?」

 河上光彦はまだ不安そうに俊介に聞いた。俊介は彼にまっすぐに向き直って・・・

「だ・い・じょう・ぶ・ですよ」

 笑いながらもう一度ゆっくりと答えた。

 一人になった診察室で俊介は椅子に背中をもたれかけて大きく深呼吸をした。

―もしも不幸にして彼の動脈瘤が破裂したら・・・。俺は患者からも社会からも非難されることになるかもしれない。でも俺がした決断は間違っていないはずだ。彼のために、彼が幸せになるために一番いい選択をしたと思う。万が一、二人にとって不幸な結果になったとしても・・・俺は自分が決断したことに胸を張って生きていけるはずだ―

   *急性肝炎?*

 その日の夕方、俊介は内科病棟の川村文子師長と話しをしていた。

「え?南川って外科病棟へ行った南川沙紀か?」

「ええ・・・急性肝炎でさっき入院したんですよ」

「急性肝炎・・・。大分悪いのか?」

「検査データはそれほどじゃないんですけど熱が4-5日続いているらしいんです」

「主治医の先生は?」

「高岡先生です」

―なるほど・・・―

 俊介は苦笑しながらうなずいてカルテを手に取った。

「AST 256 ALT 301 LDH1878か・・・。黄疸(おうだん)はまだ出ていないようだな。白血球 2800 ヘモグロビン9.6 血小板 8.4・・・。好中球38%、異型(いけい)リンパ球が2%か。それにプロトロンビン時間が41%。ちょっと低すぎるな。熱以外の症状はないのか?咳とか下痢とか・・・」

「全身倦怠感(けんたいかん)と食欲不振はあるようですが咳や下痢はないんです」

「そうか・・・。超音波検査は肝臓腫大(しゅだい)と脾臓(ひぞう)腫大・・・。腹水(ふくすい)はなさそうだな。ちょっと診察させてもらおうか。師長さん、一緒にいいですか?」

 俊介は川村師長とともに南川沙紀の病室に向った。

「大丈夫か?」

 俊介はベッドの上で横になっている沙紀に声をかけた。

「すみません、風間先生。ダウンしちゃいました」

 沙紀は明るく笑いながら起き上がろうとした。

「起きなくていいから、そのまま寝ていなさい」

 俊介が沙紀を右手で制すると、川村師長が反対側へ回って診察の介助をした。

―黄疸は・・・なし。頚部リンパ節は少し腫(は)れているようだな。肺雑音や心雑音はなさそうだ。肝臓が・・・少し腫れているようだ・・・―

 俊介は沙紀の診察をしながら検査データや超音波検査の所見を思い出していた。

「やっぱり急性肝炎ですか?」

 沙紀はパジャマを直しながら、心配そうな声で診察を終えた俊介に聞いた。

「まだなんとも言えないけど多分ウイルス感染が原因のようだな。ただ膠原病(こうげんびょう)などの自己免疫(じこめんえき)疾患も一応チェックしておかないといけないからな」

 俊介は笑顔で答えた。

「どのくらいで仕事に戻れますか?」

「南川さん、入院したばかりじゃないの。仕事のことは忘れておとなしくしていなさい。佐々木師長さんもゆっくり休ませてやってくださいって言っておられたから・・・」

 川村師長の言葉に沙紀はちょっと舌を出して布団を引き寄せた。

「まあ、熱はすぐに引くと思うが、肝機能が改善するには最低2-3週間はかかるだろうな。今年いっぱいはお休みだ」

「えー!今年いっぱい?クリスマスも帰れないんですかー?」

「クリスマスプレゼントに俺が点滴を持って来てやるから・・・」

 俊介は笑いながら部屋を出た。

「どうですか?風間先生。やっぱり急性肝炎でしょうか?」

 川村師長が不安そうな声できいた。

「うーん、2-3日経過を見てみないとなんとも言えないが・・・。高岡先生は病棟回診中か?」

「他の患者さんの胸水穿刺(せんし)をしておられますけど、もうそろそろ終わるんじゃないかしら」

 川村師長の言葉が終わると同時に健太郎がナースセンターに戻ってきた。

「あ・・・風間先生。聞かれましたか?南川さんのこと」

「ああ、今診察してきたところだ」

「え?診察・・・」

「なんだ?いけなかったか?」

「いえ・・・そんなわけじゃ・・・。それで・・・やっぱり急性肝炎でしょうか?」

 健太郎はちょっとあわてて俊介から目をそらせてカルテに目をやった。

―相変わらず正直なやつだ―

「まだわからんが、なんとなく普通の急性肝炎ではなさそうだな。何らかのウイルス感染が原因のような気はするが・・・。ウイルスマーカーは調べたのか?」

「はい。A,B,Cの肝炎ウイルスとEBウイルス,サイトメガロウイルス検査はオーダーしました。それとpancytopenia(パンサイトペニア:白血球、赤血球、血小板が減少すること)があったので一応自己免疫疾患のマーカーもチェックしました」

―ほう・・・さすがよくわかっているじゃないか―

「それと・・・妊娠の可能性は・・・大丈夫だな?」

「はい。それは大丈夫です」

 即座に答えてしまった健太郎はあわてて言葉をつないだ。

「あの・・・大丈夫だ・・・そうです」

 俊介は思わず笑い出しそうになるのを必死にこらえた。

「LDHが高いな。それに凝固機能が落ちているのがちょっと気になる。明日もプロトロンビン時間をチェックしておいてくれ」

「わかりました!」

   *凝固機能異常*

 その翌日11時過ぎ、外来診察中の俊介は健太郎からPHSで呼び出された。

「どうした?」

“すみません診察中に・・・。沙紀の・・・あ、いや、南川さんのデータがちょっとおかしいんです”

「おかしい?」

 俊介はそう答えながらコンピュータを操作して沙紀のデータを表示した。

「AST、ALTは300そこそこか・・・。LDH2390、白血球2100、血小板3.4、プロトロンビン時間・・・30%だって?」

“凝固機能がかなり悪いんです。劇症肝炎でしょうか?”

「ウイルスマーカーは・・・BとCは陰性だな。抗核(こうかく)抗体も陰性か・・・。熱はどうだ?」

“今日も39度以上の熱が出ています”

「まずいな・・・」

 沙紀の発熱(はつねつ)や肝機能障害の原因はまだ不明である。しかし血球が減少し、凝固機能が悪化しているということはかなり危険な状態であるということだ。

「ひょっとして・・・」

 俊介はマウスを操作していた手を止めた。

「高岡先生、今日の検体でフェリチンを追加検査してもらってくれ。それから検査技師さんにストリッヒを引いてもらって(血球を観察するための標本を作ること)血液像を詳しく見てもらうんだ。結果がわかったらもう一度連絡してくれ」

“わかりました”

―これはやっかいなことになった・・・―

 俊介は神妙な顔つきになってPHSをポケットにしまった。

     *フェリチン異常高値*  

 外来診察を終えた俊介はあわてて病棟へと向った。

「風間先生!フェリチンが異常高値です!」

 俊介の顔を見つけた健太郎が思わず叫んだ。

「そうか・・・9890か・・・かなり高いな。血液像は?」

「好中球(こうちゅうきゅう)が減少していてリンパ球優位です。異型(いけい)リンパ球が数%程度あるようですが・・・。幼弱(ようじゃく)な細胞(まだ成熟していない、分化が途中段階の細胞。普通は骨髄の中にだけ見られ、血液中に出現することはない)はそれほどなさそうだということです。先生!白血病でしょうか?」

「いや、幼弱細胞が出ていないのなら今のところ、その可能性は低いだろう。彼女は多分ヘモファゴだ」

「ヘモファゴ?」

「ああ・・・hemophagocytic syndrome(ヘモファゴサイティック シンドローム)・・・血球貪食(けっきゅうどんしょく)症候群だろう」

「血球貪食症候群・・・」

 血球貪食症候群は血液の中の白血球の一部が自分の血球を貪食、つまり食べてしまう病気である。ウイルス感染症や悪性リンパ腫などに合併することが多い。前者をvirus asociated hemophagocytic syndrome(VAHS)、後者をlymphoma asociated hemophagocytic syndrome(LAHS)とよぶ。

 高熱と貧血や感染、出血傾向などを合併し、的確な治療が行われなければごく短期間で命を落とすことがある、いわば急性白血病のような経過をとる疾患である。しかし白血病のように血液検査で白血病細胞(幼弱細胞)が検出されることは少ないためその診断は困難で、診断がつかないままに命を落としてしまうことも多い。血液検査でフェリチンが異常に高い値をとることがあるので診断の助けになる。

「風間先生、どうしたらいいんでしょうか?」

 健太郎が不安そうな声で俊介に尋ねる。

「まずステロイドは必要になるだろう。場合によっては免疫抑制剤や多剤(たざい)化学療法・・・CHOP(チョップ)が必要になるかもしれない・・・」

「CHOPですって?抗癌剤を投与するんですか?」

 CHOP療法とは悪性リンパ腫の標準的な治療方法である。3種類の抗癌剤とステロイドを投与する。血球貪食症候群の原因が悪性リンパ腫の時だけでなく、重症の場合はウイルスが原因の時もCHOP療法を行うことがある。

「とにかく、血液内科の細川先生に連絡してくれ。すぐ骨髄穿刺(こつずいせんし)をして確定診断をつけないと・・・」

 カルテ12(5/7)に続く

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2008年9月25日 (木)

風の軌跡:カルテ12(3/7)

風の軌跡:カルテ12(3/7)

   *敵*

「有紀はどうだ?」

 病室の扉をそっと開けながら、俊介はベッドの横に座っている翔子に小声で聞いた。

「眠っているわ。さっき痛み止めを打ってもらったの。ちょっと熱があるみたいだけど・・・」

 翔子は有紀の寝顔を見ながら答えた。

「そうか・・・」

 俊介は窓際のソファに腰を下ろした。時計はすでに10時を回っている。俊介にとってのこの半日間はとてつもなく長いようでもあり、あっという間でもあった。

「今日は俺がここについているから君は帰ってくれ。明日からも色々と大変だろう?」

「いいの。明日の分の仕事はほとんど他の人に頼んだから、私は明日の夜ちょっと顔を出すだけで大丈夫。それに左手だから有紀も目が覚めれば自分のことは自分でできるわ。ただの指の怪我なんだからそんなに大げさに考えなくてもいいじゃないの」

「俺も今日は病院から呼ばれても他のやつに頼むから大丈夫だ。今晩は俺がここにいるから・・・」

 それを聞いた翔子は声を殺してクスクスと笑い出した。

「どうしたんだ?何がおかしいんだ?」

 俊介がけげんそうな声できいた。

「だって・・・10年前にこんな会話があったら私たち、きっと今でも一緒にいられたわよね」

―10年前・・・。そうだ・・・二人とも仕事に一生懸命になって、有紀や家庭のことを大切に考えなかった―

 10年前まで一緒に暮らしていた3人。今、久しぶりに一つの部屋の中に一緒にいる。俊介は不思議な思いで10年ぶりに見る有紀の寝顔を見つめていた。

―こいつの寝顔は・・・あのころと変わっていない―

 静かな部屋の中には時計の音だけが聞こえていた。俊介はふと顔を上げて翔子に言った。

「実は俺・・・今の仕事をやめるかもしれない・・・」

「・・・そう・・・」

 翔子はちょっと顔を上げて静かに答えた。

「産業医の話があってな。俺ももうすぐ50になるから身体もしんどくなってきたし、いつまで今の仕事を続けられるかわからないからな。いい機会かもしれないと思うんだ」

「じゃあ・・・もう急患や重症患者さんは診ないの?」

「ああ・・・第二の人生を考えようかなって思っているんだ」

 俊介は翔子に美穂のことを話す勇気はなく言葉をにごした。

「それに最近、世間の風当たりも強くなっているだろ?今の仕事を続けていればいつ訴訟を受けたり逮捕されたりするかわからないからな。もうそれに立ち向かっていけるほど若くはないよ」

「そう・・・。あなた・・・年とったわね」

「ああ・・・」

 俊介はうなだれて力なく答えた。しばらくの沈黙の後、翔子が言った。

「お医者さんって他人から攻撃されることに慣れていないのよね」

「攻撃?」

「あなたの仕事ってまじめにやっていればほとんどは患者さんから感謝されるでしょ?面と向って不満をぶつけられることってあまりないでしょう?」

「それはそうだが・・・」

「患者さんは不満があってもお医者さんには苦情を言わないわ。苦情を聞くのは看護婦さんや受付事務の女の子たち」

「・・・」

 俊介はじっと翔子の言葉を聞いていた。

「あなたは訴訟を受けるのがそんなに怖いの?」

「訴訟を受けるのが怖いわけじゃない。自分が正しいと思ったことを一生懸命にやっているのにそれを何も知らないやつらに非難されることがいやなんだ」

 俊介はぶっきらぼうに言い放った。

「私は医療訴訟は扱わないんだけど・・・。私たち弁護士はね、一つ仕事をすれば一人敵ができるの」

「敵?」

「弁護士の仕事は依頼人の利益を最大限守ることなのよ。だから法律で許されているあらゆる手段を使って依頼人に有利になるように作戦を立てていくわけよ。その結果依頼人にとって有利な判決が出れば私たちの仕事は評価される。でもね、依頼人にとって有利ということは相手にとっては面白くない判決ということよ。裁判の現場には必ず相手がいるわ。私が勝てば相手は負け。たとえ真実がどうあろうともね。そんな判決を受けた相手は私のことを恨んでいるわ。時には社会全体を敵にしなくてはならないことだってある。私は町の中を歩いているといつ刺されるんじゃないかと気がきじゃないわよ。でもそれが私の仕事なのよ」

 俊介は笑いながら話す翔子をじっと見つめていた。

「あなたが周りから非難されるなんてめったにあることじゃないでしょ?だからそのことを考えると暗い気持ちになるんだわ。でもあなたの仕事っていうのはたとえ非難されたとしても、少なくとも自分が正しいと思うことができるじゃないの」

 俊介はじっと黙って考え込んだ。

―そうだ・・・俺は少なくとも自分が正しいと思ったことはできるはずだ・・・―

「でも・・・あなたの気持ちもわかるわ。確かにあなたも私ももう若くないからね。それに・・・あなたって不器用だから手を抜くってことができないのよね」

「不器用か・・・」

 多方面にわたる医学知識を持ち、色々な手技をそつなくこなしてきたと思っている俊介には翔子の「不器用」と言う言葉は少々納得できない。翔子はチラッと有紀の寝顔を見て続けた。

「ただ・・・あなたが今の仕事をやめたら有紀はちょっとがっかりするかな?」

「え?有紀が?」

「有紀はね、あなたの仕事が自慢だったのよ」

「自慢?」

「幼稚園の頃からお父さんがいなかったでしょ?有紀も小さくて離婚ってことがよくわからなかったから・・・。だからお父さんは病院の仕事が忙しくて自分のところへはたまにしか来れないんだって思っていたのよ。ちっちゃいころからテレビの医療番組を見るのが好きでね、患者のことに一生懸命になって家へ帰らない医者を見ると『パパも患者さんのことで大変だから有紀のところへ帰って来れないのよね』って笑いながら言ってたわ」

 俊介はじっと有紀の寝顔を見ながら翔子の言葉を聞いていた。

「お父さんがいなくて幼稚園でいじめられることもあったんだけど、『パパは病院でお仕事してるから有紀のところへは来れないの!』って男の子に食って掛かってたらしいわ」

「そうか・・・」

「小学生になるとさすがに私たちが別れたんだってことがわかってきたけど、でも有紀はあなたの仕事を誇りに思っていたわ。あなたが私や有紀を捨てたのではなくて患者さんのために一生懸命に仕事をしているんだってことはちゃんとわかっていたから・・・」

 有紀はすやすやと眠っている。俊介は幼い頃の有紀に思いをはせた。父親がいないことでどんなつらい思いをしてきたのだろうか?幼い娘がせめて父親の仕事に誇りを持つことで寂しい気持ちに必死で耐えようとしていた。

 俊介の胸の中は有紀を思ういとしい気持ちで一杯になった。そして有紀をそんな素直でがんばり屋の娘に育ててくれた翔子に心から感謝した。

 時計は11時を回った。俊介は翔子にあとを頼んで病室をあとにして玄関のロビーでタクシーを待っていた。

 この半日は俊介にとって大きな意味を持った半日になった。有紀の事故、有沢との再会、翔子との会話。この半日の間に俊介の周りで起こったことは彼の気持ちの中に一つの灯りをともした。俊介は目をつむったまま大きく深呼吸をした。

 その瞬間俊介は、はっと身体を起こした。

「しまった!」

 思わずそう叫んだ彼はあわてて携帯を取り出した。

「もしもし、風間です!すまない!」

 今日は有紀に美穂のことを相談する予定だった。そしてそのあとで美穂に連絡することになっていたのだ。美穂はどんな気持ちで俊介からの連絡を待っていたことだろう。俊介は今日あったことをあわてて美穂に伝えた。

“それで・・・有紀ちゃん、大丈夫ですか?”

「ああ・・・今は薬が効いてよく寝ているよ。こんな時間まで連絡できずに申し訳ない」

“いいの。そんなこと・・・”

 電話の向こうの美穂は明るい声で答えた。

「すまないがこの前の返事は・・・有紀のことが落ち着くまで待ってもらえないだろうか・・・」

“私はいつまででも待てますから・・・。私のことは気にしないで・・・”

「すまない・・・」

 俊介は静かに携帯をたたんだ。

     *ひとつの決心*

 俊介がアパートに戻った時はすでに12時を回っていた。

―俺は・・・最近悲観的になりすぎていたのか?―

 柴崎の一件以来、俊介は自分が最悪の結果ばかりにとらわれていたように思う。悪いことばかりを考えて仕事も自分の人生も萎縮(いしゅく)させていた。しかし言葉を変えれば俊介の今までの人生が順調すぎたのかもしれない。

 この世の中の誰もが幸せになろうと、もがきながら生きている。俊介よりもつらいことや不幸なことを経験しているものはたくさんいるはずだ。しかし、みんながそれを乗り越えて『時々幸せ』を感じている。俊介のこれからの人生も多分、苦しいことを避けているだけでは幸せはやってこないのだろう。

―自分が正しいと思ったことをやっていれば、たとえどんな評価を受けても堂々としていればいいじゃないか。そこから逃げていても・・・そこに幸せはないだろう。俺も・・・胸を張って生きたい。死ぬ時はどぶの中でも前を向いて死にたい。どっちみち今の俺には失うものは何もないんだから―

 俊介は開き直った気持ちになってベッドの上から起き上がった。

―俺が幸せでいるためには今の仕事を続けていくしかないんだ―

 俊介はポケットから携帯を取り出してそれを開いた。発信履歴の最後に「酒井美穂」が入っている。

―美穂は・・・俺の返事をどんな気持ちで待っているのだろうか―

 俊介は壁のカレンダーに目をやった。

―明日・・・月曜日は・・・美穂は夜勤だ。じゃあ、火曜日に、ちゃんと話をしないと・・・―

   *訴訟せず*

 翌日夕方、俊介の部屋には弁護士の児玉龍治が訪れていた。

「え?訴訟をしない?」

 俊介がびっくりして聞き返した。

「はい」

「そうですか・・・」

「私も今回のことはあまり乗り気ではなかったのです。松本さんの奥さんと一緒に何とか思いとどまってもらおうと説得を続けていたのですが、今朝電話があって正式に今回の依頼を断るとのことでした」

「ありがとうございました・・・」

 俊介は深々と頭を下げた。もともと俊介は松本義雄から訴訟を受けることは覚悟をしていた。そしてそのことは俊介の心の中をずっと暗い霧をかけたように覆(おお)っていた。

「松本さんも今日の電話の声はずいぶん落ち着いていました。それから・・・もしよろしければ、また先生の外来に通院したいと言っておられるのですが・・・。自分からは頼みにくいので私から頼んでもらえないかと・・・。あつかましいお願いかもしれませんが、引き受けていただけいますでしょうか?」

「もちろんです!ぜひ、またおいでくださいとお伝えください。私と沢森先生でできる限りのケアをさせていただきますから・・・」

「はい。そう伝えます」

 児玉は人懐こい笑顔で答えた。俊介は心の中の霧が一気に晴れていくように感じた。

 病名の告知から2ヶ月、松本義雄はようやく自分の病気を受け入れらるようになったのだろう。それまでの間、彼はどれほど悩み、どれほど怒り、どれほど苦しんだことだろう。そしてそれを支える家族はどんなにつらかったことだろう。本来その気持ちを癒(いや)してやるべき自分が何もできなかったことに俊介は心から申し訳ない思いを感じていた。

 松本義雄が訴訟をしないということは、俊介はいろいろなわずらわしい作業や社会的非難から解放されるということだ。しかしそんなことよりも、松本義雄との以前と同じような信頼関係が回復できたことが俊介には何よりもうれしい。

「児玉さんには申し訳ないのですが・・・」

「え?」

「いままで患者側の弁護士さんていうのは我々に敵対するものだと思っていました。裁判で我々を攻撃される印象しかないものですから・・・」

「いえ、それは時と場合によります。我々の目的は医療被害者の救済です。そしてその目的を達成するために最も大きな壁となるのが医療の密室性なのです。医療側が真実を隠蔽(いんぺい)するような態度をとれば、我々も攻撃的にならざるをえません」

「なるほど・・・警察や検察の方たちと同じなのですね?」

「そうです。先生方が医療ミスをしてもきちんとそれを認めて誠意をもって謝罪していただければ示談(じだん)で済みますから医療裁判なんて起こらないんです。そうすれば我々も先生方を攻撃しなくてもすみます。先生方にとっては『誠意』がご自分を守るもっとも有効な武器だと私は思っています」

 俊介は無言でうなずいた。そしてふと、目の前の弁護士に柴崎の事を聞いてみたくなった。

「児玉先生。確かに我々は医療ミスをすれば誠意をもって対応すべきだと思うのですが、時には我々に責任がないと思われるようなことで非難されることがあるのです。私の友人なのですが・・・」

 俊介は柴崎の訴訟の件をゆっくりと説明した。児玉は腕を組んで黙って聞いていた。

「その先生は・・・かわいそうな事をしました・・・。確かに我々も重度の障害を負った患者さんに同情すれば、できるだけ多額の賠償金を勝ち取るために過度に先生方を攻撃してしまうかもしれません。それは裁判官も同じでしょう。先生が言われるような補償制度や中立の医療事故調査機関が日本でも早く実現できるといいのですが・・・」

    *ぴあの*

 夕方6時になるや否や俊介はあわてて白衣を脱いだ。結局、昨日は手術が終わってから有紀とほとんど話をすることはできなかった。今日は夕方から翔子は職場に戻らねばならず、今、病室には有紀が一人でいるはずだ。

 有紀も16歳になるのだから指の怪我くらいで一人でいてもどうということはないはずなのだが、俊介は1分でも早く有紀のもとへ行ってやりたかった。机の上には土曜日からの書類が山積みになっている。

 俊介は、いつもならたまった書類は日曜日のうちに片付けるのだが、昨日は有紀に会って美穂のことを相談する予定だったのでその余裕もなかった。今日もとてもそれに目を通す気持ちにはなれない。俊介は申し訳ない気持ちで書類の山を横目で見ながらそそくさと部屋をあとにした。 

「どうだ?元気か?」

 俊介は病室の扉を開けながら有紀の顔を見て聞いた。

「パパ、来てくれたのね」

 明るい笑顔で答える有紀を横目で見ながら俊介はそばにあった椅子を引き寄せてベッドの横に座った。

「まだ痛むか?」

「ううん、大丈夫。手が使えないとちょっと不自由だけど左手でよかったわ」

 有紀は包帯で覆(おお)われた手をちょっと上げて答えた。

「そうか・・・」

 この痛々しい包帯は有紀の優しい気持ちそのものなのだ。

「有紀・・・偉かったな」

 俊介は昨日から言ってやりたいと思っていた言葉をやっとのことで口に出せた。

「偉いも何も私、夢中だったの。何がどうなったのか覚えていないのよ。気がついたら女の子が泣いていて、自分の指を見たら血だらけでちぎれかかってるからびっくりしちゃって・・・」

「痛かっただろ?」

「それが全然・・・。痛みを感じている余裕もなかったのよ。でもよかった、あの子がなんともなくて・・・。まだ4歳くらいだったから・・・」

 もしその女の子の小さな指が挟まれていたら多分有沢医師といえどもつなぐことは無理だっただろう。有紀はその子に指を与え、有沢医師は有紀に指を与え、そして俊介には大きな幸せを与えてくれた。

「でも有沢先生っていい腕よね。わたし、ちぎれかかっている指を見たらもうだめだって思ってた。まさかちゃんともとのようにつながるなんて・・・。今日梅田先生がガーゼを換えてくれたんだけど私の指、ちゃんとついてるのよ。まだしびれて感覚はないんだけど、だんだん戻るって言われたわ」

 有紀は包帯に覆われた左手を見ながらうれしそうに言った。

「有沢先生は俺の大学時代の先輩だが、手の外科に関してはこの辺りじゃ右にでる人はいないからな。娘さんの嫁入り道具を見に来ていたのにお前のためにわざわざ来てくださったんだ」

「そうなの・・・。私、運がよかったのね。でも・・・パパもそうするんでしょ?」

「え?」

「私の結婚式のときに病院から電話がかかってきたら行ってあげるでしょ?」

 有紀は屈託(くったく)のない笑顔で俊介に聞いた。

「ああ・・・多分な。悪いな、有紀」

 俊介は笑いながら有紀の肩をぽんとたたいた。

―もし、この質問が昨日だったら・・・俺はどんな顔で有紀を見ただろうか?―

「いいのよ。私もそんなパパが好き」

―ああ・・・。これで・・・これでよかったんだ―

 有紀の明るい笑顔を見ながら俊介は静かに微笑んだ。

「でも、困ったな。ピアノ、弾けなくなっちゃった」

 その言葉に俊介は、はっとして思わず有紀から目をそむけた。

「そ・・・そうだな・・・」

「私、音楽関係の大学へ行ってもう少しピアノの勉強しようと思ってたんだけど、この指じゃあ無理よね」

 有紀はちょっと上に挙げた左手を見つめながら、ほんの少し微笑んで言った。

「そ・・・そうか・・・」

―有紀にとってのピアノはそんなに軽いものじゃなかったはずだ。きっとこいつの心の中では・・・―

 つらい現実に必死で耐えようとして明るく振舞っている娘の姿が痛々しい。

「パパ・・・指が1本動かなくても医者になれる?」

「え?医者に?そりゃあ・・・大丈夫だけど。内科とか精神科とか手術をしない科なら全然問題ないし、外国には指が3本しかないのに外科手術をしている先生だっているくらいだからな」

「本当?じゃあ、私医者になろうかな?」

「医者に?」

「うん。今度のことで思ったの。お医者さんってすごいなって。有沢先生がいなかったら私今こんなに明るい声で話ができていないと思う。私も誰かをそんな気持ちにできるお医者さんになりたい」

―ああ・・・こいつも・・・俺と同じことを・・・―

 俊介は自分の高校時代を思い出していた。

―しかし医者っていうのは・・・そんないいことばかりじゃないぞ。俺だって・・・―

 そう思いかけて俊介は心の中で小さく首を横に振った。

―こいつなら・・・きっと大丈夫だ。つらいことがあっても、きっと乗り越えていけるはずだ。親の役目は子供がつらい目にあわないようにすることじゃない。子供がつらいことに耐える力を育ててやり、そして本当に苦しいときには支えてやることが親の仕事だろう。俺は・・・こいつが苦しいことに出合ったときに、できる限り支えてやりたい―

「ああ・・・医者はつらいけど楽しいぞ」

 俊介は笑いながら有紀の笑顔を見つめた。その時、ドアをノックする音が聞こえた。

「はい。どうぞ」

 俊介の声からしばらくおいて扉が開いた。

「あの・・・古川ですが・・・」

 30歳くらいの女性の後から4歳くらいの女の子が入ってきた。

「おねえちゃん!だいじょうぶ?」

 そう叫びながら女の子は有紀の横に走ってきた。

―ああ・・・この子が・・・―

 俊介は無意識にその女の子の指に目をやった。

「大丈夫。おねえちゃんの指、ちゃんと治るって・・・」

 有紀は包帯が巻かれた左手を振って笑いながら答える。

「本当?よかった」

「本当に大丈夫なんですか?」

 母親が俊介に心配そうに聞いた。

「ええ。多分大丈夫だと思います」

「そうですか・・・よかった。私、娘さんになんてお礼を言っていいか・・・」

 涙を流しながら頭を下げる母親の肩に手を置いて俊介が言った。

「その子に怪我がなくてよかった」

 それからしばらくの間、有紀はその女の子に幼稚園のことや好きな食べ物のことなどを聞きながら楽しそうに話をしていた。

「ねえ、おねえちゃん」

「え?」

「香奈ちゃんね、明日からピアノ教室行くんだ。そして、うーんと上手になってみんなの前でひいてあげるの。お姉ちゃんピアノひける?」

 俊介は、はっとして有紀の顔を見た。

「う・・・うん・・・。少しね。指が治ったら・・・また練習しなきゃね」

 有紀はちょっとだけ戸惑った声を出したが、すぐに笑顔に戻って返事をした。

「そう。じゃあ香奈ちゃん上手になったら教えてあげるね」

「おねがいね・・・」

 有紀は優しい笑顔で女の子を見つめながら静かに答えた。

「香奈ちゃん、あんまり遅くまでお邪魔しちゃ悪いから行くよ。あの・・・本当にありがとうございました」

 俊介は深々と頭を下げる母親に小さく会釈した。

 二人になった部屋の中、有紀は両手でひざを抱えてじっと前を向いて座っていた。俊介はゆっくりとカーテンを引き、有紀のとなりにそっと腰をかけ、有紀の肩を優しく抱いた。しばらくそのままじっとしていた有紀の瞳から突然大粒の涙がこぼれ落ちた。そして有紀は俊介の腕の中で声を上げて泣いた。

 カルテ12(4/7)に続く

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2008年9月24日 (水)

風の軌跡:カルテ12(2/7)

風の軌跡:カルテ12(2/7)

   *遅刻*

 次の日曜日は肌寒い風が吹く曇り空だった。12月の街中(まちなか)はサンタクロースやクリスマスツリーなどが飾られ、まわり中が赤と緑と白に包まれている。午後3時過ぎ、俊介は約束の時間の1時間前から有紀との待ち合わせの喫茶店に居座り、すでに3杯目のコーヒーをお代わりしていた。

―それにしても・・・なんて切り出せばいいんだ?―

『本当に誰かいい人いないの?』

『いるわけないだろ!』

 俊介はほんの1ヶ月前に有紀と交わした会話を思い出す。

―あの時は、まさかこんなことになるなんて思わなかったよな・・・―

 目の前の時計にふと目をやるとすでに約束の時間を過ぎている。

―遅いな・・・。あいつが時間に遅れるなんて珍しいこともあるもんだ。でも今日だけは・・・なんとなくその方が気持ちが楽だけど・・・―

 俊介はそんなことを考えながら冷めたコーヒーをすすった。

 それからさらに30分が過ぎたが有紀はまだ現れない。

―いくらなんでも変だぞ。場所を間違えたのか?―

 俊介が携帯を取り出すと同時に呼び出し音がなった。

「はい。風間です」

“・・・私・・・”

「・・・翔子・・・か?」

 なぜ翔子が・・・。別れてから事務的な用事で話をすることはたまにあったが、俊介の携帯に電話をかけてきたのは多分これが初めてだろう。俊介はいやな胸騒ぎを感じた。

「どうしたんだ?有紀が・・・どうかしたのか?」

“有紀が怪我(けが)をして・・・。今病院にいるの”

「なんだって?どこを!どこを怪我したんだ!」

 思わず大声を出した俊介ははっと周りを見回し、少し声を落としてゆっくりと聞きなおした。

「それで?どんな状態なんだ?」

“怪我をしたのは指なの。命には別状ないわ”

「指?そ・・・そうか・・・」

 俊介はちょっとほっとしてソファに座りなおした。

“左の薬指が・・・ほとんどちぎれかかっているの・・・”

 電話の向こうの翔子は涙声で答えた。

「なんだって?ちぎれかかってる?どうして・・・どうしてそんなことに・・・」

“デパートの・・・入り口のドアにはさんで・・・”

―ドアにはさんで・・・ドアにはさんで・・・どうして・・・どうして・・・―

 俊介は頭の中で翔子の言葉を繰り返した。

「いまどこにいるんだ?」

“F市総合病院の・・・救急外来よ。いまから手術室に向うところ・・・。先生はつながるかどうかわからないけどとにかくやってみるって・・・”

「わ・・・わかった。俺もすぐ行くから・・・総合病院だな!30分くらいで行けるから」

 そう言いながら俊介は携帯をたたんであわてて伝票をつかんで店をあとにした。     

   *大切な薬指*  

 F市総合病院は大学病院と並ぶ県内有数の救急指定病院である。俊介も何回か当直やパートで勤務したことがあり、その勝手はよくわかっている。タクシーを降りた俊介は時間外受付に駆け込んだ。

「あの、有紀は・・・。いや、浅妻(あさつま)有紀という高校生が指の怪我で救急受診したと思うのですが・・・」

 俊介は久しぶりに、別れた妻の旧姓を口にした。

「あら、浅妻さんならまだ手術室だと思いますよ」

 通りかかった看護師が俊介の後から声をかけた。

「手術室はそこのエレベーターで・・・」

「ありがとうございます!」

 ふりかえった俊介は彼女の言葉が終わる前に軽く頭を下げると一目散に走っていった。

「翔子・・・」

 手術室の前の待合室でなつかしい顔を見つけた俊介は足を止めた。

「あなた・・・」

 あなた・・・そんな風に呼ばれるのは何年ぶりだろう。10年以上前に離婚しているわけだからいまさら『あなた』と呼ばれるような間柄ではないと俊介は思う。しかし不思議とそう呼ばれることに違和感はなかった。翔子は立ち上がって少し腫(は)れた目で俊介を見つめた。俊介はその肩を手でささえて彼女をソファに座らせて静かに聞いた。

「どうなんだ?」

「有紀は・・・元気よ。注射が効いていて痛みはあまりないみたい。手術室に入るときも私に気を使って笑いながら手をふっていたから・・・」

 右手に握っていたハンカチで涙を拭きながら話す翔子の言葉に俊介は胸が熱くなった。

―あいつらしい・・・―

「薬指の中節骨(ちゅうせつこつ)っていう骨が砕けているんだって。血管や神経も切れているのでつながらないかもしれないらしいわ。坐滅(ざめつ)がひどいって・・・」

「砕けている・・・」

―中節骨の粉砕(ふんさい)骨折か・・・。神経や血管が坐滅・・・―

 指の骨は根元から基節骨(きせつこつ)、中節骨、末節骨(まっせつこつ)と呼ばれる。中節骨の部分で切断になれば指の長さは半分以下になってしまうだろう。もちろん左手の薬指が半分になったからといって生活がそれほど不自由になるわけではない。コンピューターは扱いにくくなるだろうが普通の仕事や家事には何の支障もないはずだ。

 しかし若い女の子の指がなくなれば・・・彼女は人前で手を見せるのを躊躇(ちゅうちょ)するようになるだろう。それに左手の薬指は・・・結婚指輪をはめる指だ。俊介は胸が締め付けられるような思いがした。

「それにしてもなんで指を・・・」

 翔子は大きく息をついて話し始めた。

「今日は昼過ぎから一緒に近くのショッピングセンターへ買い物に行ったの。車を降りて入り口に向かう時に小さな女の子がドアのところで遊んでいるのが見えたのよ。その子は開いたドアの根元のところに手を入れていたので危ないなと思った有紀はその子の方へ歩いていったの。その時、他のお客さんがドアにぶつかって・・・閉じようとするドアに女の子の指が挟まれそうになったから有紀はとっさに女の子の手を抜こうとして自分の手を・・・」

 俊介は言葉を失った。もし今、目の前に有紀がいたら力いっぱい抱きしめてやりたかった。よくやった。偉かったな。そう言って抱きしめたやりたかった。俊介はあふれそうになる涙をこらえながら話題を変えようとして翔子に聞いた。

「その女の子は・・・大丈夫なのか?」

「ええ。怪我もなくて・・・。お母さんと一緒にさっきまでここにいてくれたんだけど、帰ってもらったわ」

「そうか・・・」

 俊介はそう答えると両手を組み、じっと前を向いて黙りこんだ。

 どれくらい時間がたっただろうか?俊介と翔子はほとんど言葉も交わさずにしんと静まり返った日曜日の手術室の前に座っていた。

―今、有紀は・・・どんな気持ちでいるだろうか?痛みはないだろうか?不安だろうな・・・―

 もし許されるなら自分がそばについていてやりたい。そして多分俊介がそう望めば手術の立会いが許されただろう。しかし彼はあえてその道は選ばなかった。手術中に身内が、しかも医療関係者がじっと見つめていることは術者にとって相当なプレッシャーになる。そうなれば本来の力を発揮できないこともあるはずだ。俊介は患者の父親として、ただじっと待つことを選択した。

―もしも有紀の指をつなげるために俺に何かできる事があるのならば、俺は・・・どんなつらいことでも我慢できるだろう。これから先の人生にどんなつらいことがあってもかまわない。訴訟を受けようが、逮捕されようが、たとえ命をとられようが有紀の指が助かるならば、そんなことはどうでもいいことだ。しかし今の俺にできるのは・・・ただこうやって待つことと祈ることだけだ―

 俊介は自分の無力をうらめしく感じながらうつむいてじっと下を見ていた。俊介がここ2ヶ月間思い悩んできたこと、そんなことよりも今の彼にとっては有紀の指一本のほうがはるかに重要なことなのだ。それだけ俊介にとって有紀が大切な存在だということなのか・・・。それとも・・・俊介が悩んでいたことが取るに足らないようなことなのか・・・。

 その時、手術室の扉が開いた。俊介と翔子は同時に立ち上がった。

「有沢先生・・・」

「風間君じゃないか・・・」

 俊介が有沢と呼んだ医師は手術用の帽子とマスクをはずしながら俊介のほうへ近寄ってきた。

「先生に・・・執刀(しっとう)していただいたんですか?」

「風間君の・・・娘さんなのか?苗字が違っていたから気がつかなかったよ。いや・・・これは失礼・・・」

 有沢哲男は俊介の大学時代の3つ先輩である。大学では整形外科の講師をしていたが数年前からとなりの県にある個人病院の整形外科部長として勤務している。彼は指の外科の全国的な第一人者である。

「昼過ぎにここの整形外科部長の梅田君から連絡があってね、若い女の子だっていうからなんか力になれるかなって思って飛んできたんだけどね」

「それは・・・先生・・・。ありがとうございました」

 俊介は深々と頭を下げた。

「先生、有紀は・・・有紀の指は・・・」

 翔子が不安そうな声できいた。

「ああ・・・大丈夫ですよ。ちょっとてこずりましたけど多分うまくくっつくでしょう」

「本当ですか!有沢先生!」

 今度は俊介が大声で聞いた。

「ああ、少なくとも外見はだいじょうぶだろう。しかし今までどおり動かせるようになるかどうか・・・」

「いえ・・・つないでいただいただけで・・・。ありがとうございました」

 俊介はもう一度深々と頭を下げた。

「左手の薬指だから日常生活にはそれほど支障はないと思うが・・・。ただピアノは・・・難しいかもしれないな」

 その瞬間俊介ははっとして顔を上げた。

―ピアノ・・・ピアノ・・・ぴあの・・・そうだ・・・ピアノは・・・無理だ―

『私、高校を卒業してからもピアノの勉強をしていこうと思ってるの』

 1ヶ月前の有紀の言葉が俊介の胸に突き刺さる。今の今まで俊介はピアノのことなど頭の片隅にもなかった。

「いえ・・・そんなことは大丈夫です。そのことは・・・落ち着いたら私の口からゆっくりと伝えますから・・・」

 恐縮して答える俊介の言葉をさえぎるように有沢が言った。

「いや・・・ピアノが難しいことは彼女はもう知っているよ」

「え?」

「手術が終わったときに聞かれたよ。『またピアノ弾けますか』ってね。その時は娘さんのピアノの腕前を知らなかったから『ああ、何年もかかるかもしれないけどきっと弾けるようになるよ』って答えてしまった。彼女は一瞬、暗い顔をしたけどすぐに『ありがとうございました』って笑いながら答えてくれたよ。あとで聞いたらお嬢さんはコンテストで優勝を狙うくらいの腕前なんだってな・・・。そこまで戻るのは・・・」

 俊介はまた胸が張り裂けそうになった。小さい頃から続けていたピアノ・・・。そして将来も続けていこうと決心した矢先の事故。それをあきらめなければならないと知ったときの有紀の気持ち。そして・・・そのことを顔にも出さずに笑顔で答えた有紀・・・。今どんな思いでいるのだろうか?

 その時、手術室のドアが開いて車椅子を押された有紀が出てきた。

「有紀ちゃん!」

 翔子が駆け寄って有紀の右手を握った。

「有紀!」

 俊介も近寄って声をかけた。

「パパ・・・ごめんね。約束の時間に行けなくて・・・」

 屈託(くったく)のない笑顔で話しかける有紀を見て俊介は思わず目頭(めがしら)が熱くなった。左手に巻いた包帯が痛々しい。

―こんな時にも俺に気を使っているのか・・・―

 俊介はあふれそうになる涙をこらえて首を横に振るのがやっとだった。『よくがんばったな。そして偉かったぞ』。有紀に会ったら言ってやろうと思っていた言葉は一つも出てこなかった。首にかけられたオパールのネックレスが俊介の目に眩(まぶ)しい。

 俊介は有紀に涙を悟られないように無言で有紀の後に回り、看護師に代わって車椅子を押した。そして上を向いて神に感謝した。

―神様・・・ありがとうございます。有紀の指を奪わないでくれて・・・―

    *前のめりで死にたい*

「有沢先生、今日は本当にありがとうございました。お休みのところを来ていただいて・・・」

 俊介はF市総合病院の医局のソファに有沢哲男と向かい合って座っていた。

「いや、梅田君が若い女の子なのでどうしてもつないでくれって言うもんだから飛んで来たよ。ちょうどF市に買い物に出ていたところだったから・・・。うちへ送ってもらうより俺がこっちへ来たほうが早かったからな」

「それは・・・申し訳ありませんでした」

「実は俺の長女が来月結婚することになってな・・・」

「え?それはおめでとうございます」

「今日は女房と3人で嫁入り道具を選ぶのにつき合わされていたところだ。どうして女っていうのはあんなに細かいことを考えるのかな?いい加減いやになっていたところに救いの電話だったよ」

 俊介に気を遣(つか)わせまいとする先輩の気持ちが身にしみる。家庭の大切なイベントをほっぽりだして有紀のために駆けつけてくれた。おかげで有紀は指を1本失わずにすんだ。多分その代わり有沢は妻や娘の信頼を失ったことだろう。

「そんな大切な日に来ていただいてなんとお礼を言っていいか・・・」

「いやいや、俺は買い物に付き合っていてもただの中年の親父だ。家にいたってゴロゴロしているだけで女房や娘には邪魔にされる。しかし手術室にいれば俺は特別な人間になれる。病院は俺の価値を最も認めてくれる場所ってわけだ。いわば俺が一番幸せな空間だ。怪我をした娘さんには申し訳ないがおかげで今日は幸福なひと時を味わうことができたよ」

―幸せな空間・・・。そうだ・・・俺も・・・俺も今までは同じことを感じていた。重症患者を救命できた時に感じる充実感・・・それこそが俺が生きていくための原動力だったはずだ―

「有沢先生・・・ちょっと立ち入ったことを聞いていいでしょうか?」

「なんだ?」

「先生でも、うまくいかない症例はあるんでしょうか?」

「当たり前じゃないか。患者をたくさん診ていれば中にはうまく行かない場合だってあるさ。君もそうだろう?」

「ええ・・・。その中には医療訴訟を起すような患者さんは?」

「もちろんいるさ。実際俺は今、医療訴訟を受けている最中だ」

「え?有沢先生が・・・ですか?」

「ああ・・・結構わずらわしいもんだ」

「もし差し支えなかったらその話を聞かせてもらえませんか?」

 俊介はちょっと恐縮して言った。有沢はソファに背中をもたれかけてゆっくりと話し始めた。

「50代の工員が機械に挟まれて右手の人差し指から3本を切断して運び込まれた。切断指も持ってきたんだが油にまみれているし坐滅がひどい。さらに患者は無治療のDM(糖尿病)だ。さすがの俺もこれは無理だと思ってそのまま断端(だんたん)形成すると話したんだ。でも患者はどうしてもつないでくれと言って聞かない。俺は多分だめだろうから壊死(えし)を起こしかければすぐにアンプタ(切断)すると断ってつないでみた。そして10時間かけて3本の指をつないだってわけだ」

「それで・・・やっぱりだめだったんですか」

「いや、思いのほか経過はよかった。心配した血行障害も思ったほどじゃなくて俺もいけるかな?って思っていた。ところが数日後、人指し指に感染の徴候が出てきたんだ。抗生物質を使って治療したがもともと血流が悪いからどんどん悪化して敗血症(はいけつしょう)の危険がでてきた。やむを得ず人差し指はアンプタせざるをえなかった」

「それがなぜ、訴訟に・・・」

「細菌培養でMRSAが出てきたんだ」

「MRSA・・・」

 MRSAはメチシリン耐性ブドウ球菌と呼ばれる細菌である。多くの抗生物質に耐性で治療が困難なのが問題になっている。ただ、毒性が特別強いわけではなく健康な人にくっついても感染は成立しない。

 しかしそのようなMRSAを持った健常者から抵抗力の弱い患者に感染するとかなり危険なことになる。このためMRSAは院内感染の原因菌として重要視されているのだ。

「もちろん、もともとの状態がよくなかったから残りの2本がくっついたこと自体が奇跡的だ。MRSAが感染したのも糖尿病を治療せずに放置しておいたことが原因だろう。しかしその患者は院内感染によって指1本の切断を余儀なくされたと言って訴訟を起こしたわけだ。まだ結審していないからこの先どうなるかわからないがな」

「先生のところの感染症対策は?」

「君の前で言うのも申し訳ないが整形外科病棟は内科病棟に比べたらはるかに感染に対して敏感だ。その頃、同じ病棟にはMRSAと診断された患者はいなかった。しかし彼の培養結果が出た2日後に他の患者の創(きず)からもMRSAが検出された。その患者はなかなか創の直りが悪くてな・・・10日前の培養では普通の細菌が検出されていたんだがその後MRSAに菌交代をおこしたんだろう。手術をした患者はひょっとしたらその患者から感染したのかもしれない。しかし培養検査をして結果が出るまではMRSAがいるかどうかなんてわからないじゃないか。俺達にはどうやったって感染を予防する機会がなかったってわけだ」

―ここでも同じことが・・・―  

 俊介は呆然(ぼうぜん)として有沢の話を聞いていた。確かに院内感染を起こされて憤慨(ふんがい)する患者の気持ちはわかる。しかし医療側がどんなに注意しても院内感染を100%予防することは無理だ。今日ふつうの菌が検出されたからといって次の日にはそれがMRSAに代わっているかもしれない。

 培養検査の結果が判明するまでには通常4-5日間必要だ。するとたとえ毎日培養検査を行っても5日を経過しないと診断できないことになる。もちろん細菌の培養検査が保険で認められるのは1週間から10日に一回くらいだから状況はさらに悪くなる。

 院内感染が原因で患者が不利益をこうむったのならば患者側にはそれなりの補償がされるべきであろう。しかしそのすべて医療側に責任を求められることには俊介は不条理を感じる。不十分な感染症対策を行っていたのならまだしも、有沢医師のようにマニュアルどおりにきちんと対応していたにもかかわらず院内感染を起こすことは、ある一定の確率で起こりうることなのだ。

 医療事故が起こっても医療側に過失がない場合、すなわち医療過誤(かご)でない場合には国が、すなわち国民全体が補償してやる制度が不可欠だろう。

「俺はMRSAじゃなくても処置をするときはマスクをして一人一人きちんと手洗いをしている。これ以上どうしろと言うんだ?患者を全員無菌室に移せというのか?そして全員のガーゼ交換の時に俺と看護師がいちいちマスクとガウンを着替えて処置をしろというのか?」

 さっきまで笑顔で話をしていた有沢は憤慨して言い放った。

「いいよ・・・俺はそれでもいいよ。でもそれを義務づけるならば消毒液やガウンやマスクの保障をしてくれよ。きちんと対応すればするほど病院が赤字になるのはおかしいだろう?病院にそれを負担させないで国が負担するようにしてくれ。そして医者や看護師を増員してくれ。そうすればいくらでも時間をかけて消毒液やガウンをふんだんに使って処置をしてやるよ。それを保障もしないで現状を知らないやつに批判されたくはない」

 有沢も俊介と同じ気持ちなのだ。

「でも、いくらなんでもこのケースで先生が敗訴(はいそ)になることはないでしょう?」

「いや、向こうの弁護士はもっぱら院内感染を前面に出して裁判官の心証を悪くしようとしている。院内感染を起こすような病院はそれだけで『いい加減な治療をしている悪者』ってことだ。院内感染を予防するために俺達がどんなに努力しているかなんてあいつらにとってはどうでもいいことで、もっともらしい理由をつけて裁判官を納得させればそれで賠償金を請求できるってわけだ。今の医療裁判っていうのはそんなもんだ。あ・・・君の前の奥さんは弁護士さんだったな。これは失礼・・・」

 俊介は暗い気持ちになった。ここでも柴崎の時と同じようなことが繰り広げられている。

「先生はいやになりませんか?」

「俺は訴訟を受けるのは今回が初めてだがな、体験してみると裁判っていうのはめんどくさいもんだな。素人の裁判官が理解できる言葉で膨大な答弁書(とうべんしょ)を書かなければならない。自分の診療を正当化する文献も要約して、英語はちゃんと翻訳してつけなくてはならない。それを毎日の診療が終わってからやるわけだからいい加減いやになるさ。そして、最後はそんな医療のことが何もわからない素人の裁判官に自分のことを判断されるんだから誰が考えてもおかしいだろう?・・・でもな、これが日本の制度だから仕方ないさ。裁判の結果が悪くたって一生懸命診療した結果だから俺にはどうしようもないじゃないか。今の日本で仕事していこうと思ったら医療訴訟なんてあきらめるしかないんだよ。それに裁判に負けたって命までとられるわけじゃないからな」

「でも・・・もし執刀したのが有沢先生ではなくて他の医者だったら・・・。最初から指をつなごうなんて思わないでしょうから感染も起こさないだろうし、訴訟にもならなかったですよね。先生が傑出した技術を持っていて患者さんのためを考えて必死に努力したから訴訟を受けている・・・。なんかやりきれないですよね・・・」

「ああ・・・そうかもしれないな」

 さっきまで興奮気味にまくし立てていた有沢はちょっと落ち着いた声で続けた。

「しかし風間君、俺はな・・・。訴訟は受けたがその患者の指をつないだことを決して後悔してはいない」

「それは・・・どうしてですか?」

 俊介は身を乗り出して聞いた。

「1本はだめになったが2本は残った。患者が訴訟を起こそうが、敗訴になって賠償金を払おうが、俺が世間から非難されようがその指は俺がいたから今存在している。その2本の指は俺が生きていた証(あかし)なんだ」

「生きていた証・・・」

「この仕事を続けていればこれからも訴訟を受けることもあるし世間から非難されることもあるだろう。場合によっては犯罪者とののしられることもあるだろう。でもな、俺は自分のためにこの仕事を続けていくしかないんだ。俺がこれからも自分らしく生きて行くためには一生懸命に指をつないでいくしかないんだよ。そしてそのために俺は全力を尽くす。娘の嫁入り道具をみつくろっていようが、たとえ結婚式に出ていようが病院から呼ばれれば俺は指をつなぐ。結果がうまくいかなくてそれを他人がなんと批判しようが俺の知ったことじゃない。俺は自分が正しいと思ったことをやっていくだけだ。まあ・・・かっこよく言うと、俺はいつでもまっすぐ前を向いて胸を張って生きていたいんだ」

 俊介は熱く語る有沢のなかに昔聞いた坂本龍馬の言葉を思い出した。『死ぬときはどぶの中でも前のめりで死にたい』俊介の目の前の有沢の姿はまさしく坂本龍馬だった。

 カルテ12(3/7)に続く

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2008年9月23日 (火)

風の軌跡:カルテ12(1/7)

風の軌跡:カルテ12(1/7)―風間俊介診療録―

   「幸せのかたち」

 自分の人生に疑問を抱きつづける俊介。そして突然の有紀の事故。南川沙紀の思わぬ病と健太郎の困惑。クリスマスイブの夜、それぞれの人生が動き始める。

    *時々幸せ*

「ご気分はいかがですか?」 

 俊介は高根清治の個室のドアを開けながら聞いた。

「ああ・・・風間先生、おかげさまで今日はずいぶんいいですよ」

 高根はギャジアップしたベッドにもたれながら俊介のほうを見て答えた。

 高根清治は65歳の末期膵臓がんの患者だ。10年前からホームレスのような暮らしをしていたが1ヶ月前から食欲低下や腹痛、背部痛などを自覚するようになった。しかし病院へ行く金もなく我慢していたのだが、数日前についに動くこともできなくなり、12月の寒空の公園のベンチに苦しそうに横になっていたところを通りがかりの人が見つけて救急車を呼び、S市市民病院へ運ばれて来た。

 担ぎ込まれてきた時はひどい栄養不良で瀕死(ひんし)の状態であったが、点滴などの治療により、ようやく会話ができるまでに回復した。長年風呂に入っていないらしく悪臭がひどく、大部屋に入室させようものならば、たちまち同室者から苦情がでるだろうと考えた俊介は理事長に掛け合って個室に入室させた。

 S市市民病院の個室に入室する時は1日8,000円の個室料が必要になるが、治療の必要性があって個室に入室するときには個室料は請求されない。高根清治のケースは厳密には治療の必要性があったわけではないが、他の患者の迷惑を考えて同様の処置をとったことになる。

 そしてその処置が正しかったことはすぐに明らかとなった。高根清治の部屋を巡回するナースたちは鼻栓(はなせん)の着用を余儀なくされた。鼻栓を使用しなかった入院当初は俊介もぐっと息を止めて部屋に入るとあわてて胸の聴診をしてから「大丈夫ですね?」と声をかけて病室を飛び出し、プハーっと息を吐き出す有様だった。

 一昨日、状態も落ち着いたので初めてナースの介助により入浴が行われ、ようやく俊介も落ち着いて回診ができるようになったというわけだ。

 入院したときのCT検査によって彼は末期の膵臓癌と診断されていた。膵臓に3cmくらいの腫瘤(しゅりゅう)があり、すでに肝臓にも転移が多数あり、腹水(ふくすい)も出現していた。すでに手の施しようがなく、もって2ヶ月の命であろう。家族もなく・・・というか本人が家族への連絡をかたくなに拒否しているので連絡のつけようもなく、俊介は悩んだあげく、昨日本人に告知した。

 普通、癌の告知、それも末期癌の告知は患者の性格や家庭状況などを把握した上で少しずつ段階的に行う。俊介もそのつもりで昨日は病気の大まかなことだけを伝えるつもりで話を始めたのだが、高根清治の妙に落ち着き払った態度になんとなく人生を達観したようなイメージを持ち、ついそのまま告知を進めてしまった。

 誰しも自分が末期癌であと2ヶ月の命と言われれば少なからず動揺するものだが高根清治は全くそんなそぶりを見せず、ちょっと微笑みながら「ああ・・・そうですか」と一言つぶやき、じっと窓の外を見ていた。

 そして彼は患者の精神状態を心配する俊介の顔を見ながら、「それで先生・・・この痛みはだんだんひどくなりますか?」とだけ言った。俊介は癌の痛みはほとんど麻薬によって取り去ることができるから痛みに関しては心配しなくていいと伝え、抗癌剤の効果があればもう少し延命ができることを付け加えた。

 高根清治は静かに微笑みながら、「それはよかった・・・。でも先生、抗癌剤は必要ありません。痛みだけとってもらえれば、それでいいんですよ」と答えたのだ。俊介は、今日はもう少し詳しく高根清治から話を聞きたいと思い病室を訪問したのだ。

「痛みは大丈夫ですか?」

「ええ・・・全く大丈夫ですよ。あんな小さい薬がこんなに効くんだからたいしたもんですよね」

 今日の高根清治はひげもきれいに剃られ、きちんとした身なりで俊介に答えた。数日前のルンペンのような彼とはまるで別人のようだ。

―これなら明日には個室から出してもいいだろう。きっとこの人は昔、それなりの地位にいた人なのだろう―

 俊介はそんなことを考えながら話を続けた。

「痛みがないのは何よりです。これからも苦しいことがあったら我慢せずにおっしゃってください」

 高根は笑顔でうなずいた。

「ところで高根さん、御家族の方には本当に連絡しなくてもいいんですか?」

「ああ・・・いいんですよ、先生。私は10年前に家を出てずっと一人暮らしですから・・・。家内と娘は今頃どこでどうしているんだか・・・」

「娘さんがおられるのですか?だったら・・・」

「娘と言っても、もう嫁に行っていますから、もともとほとんど顔も見ていないんですよ。事業に失敗してからは家内にも愛想をつかされて・・・。まあ、私が仕事人間で家のことをかまわなかったのが悪いんですがね」

 俊介は一瞬ドキッとして高根の顔から目をそらした。

「家にいて毎日家内の顔を見ているのもつらくなって一人暮らしってわけですよ。だからいまさら夫婦ってもんでもないんですよ。向こうだって私のことなんかなんとも思っていませんから」

「それはそうかもしれませんが・・・最後の時くらい・・・」

 そう言ったあとで俊介は、はっとして言葉をつぐんだ。

 『最後』それはわかっていても言ってはいけない言葉なのだ。しかし高根はそんな俊介の心配をよそに笑いながら話を続けた。

「最後の時くらい自分の好きにさせてくださいよ、先生」

―ああ・・・この人は、本当に達観している。生きることにあれこれ悩んでいる俺から見るとまるで悟りを開いているように見える。俺がこの人にしてあげられることは何もないのかもしれない・・・―

「高根さん、よくわかりました。高根さんが御家族の方に連絡してほしくないと言うならばこちらからはあえて連絡しません。しかし・・・退院の時は・・・どなたかに連絡をしないと・・・」

「ああ・・・そうでしょうね。亡骸(なきがら)をいつまでもここにおいておくわけにもいかないですか・・・。じゃあ・・・献体(けんたい)にしてもらえませんか?」

「え?」

「私が死んだらこの身体を先生方の役に立ててください。こんなぼろぼろの身体でも焼いちまうよりは少しは役に立つでしょう?」

「それは願ってもないことですが・・・」

「じゃあ、そうしてくださいよ。私もそのほうが気が楽ですよ」

 俊介は無言でゆっくりうなずいた。

 彼はふと、この男に聞いてみたくなった。

「高根さん、高根さんは・・・いま、幸せですか?」

「幸せ?」

「はい。我々医療従事者は患者さんを幸せにするのが仕事です。残念ながら高根さんの病気を治すことは我々にはできません。しかし高根さんには残された時間をできるだけ幸せな気持ちでいてほしいのです」

「幸せな気持ち・・・ですか・・・」

「高根さんはいま幸せですか?もしそうでないならば我々に何かできることはありますか?」

「いま幸せですかって・・・?先生も難しいこと聞きますよねー・・・」

 高根清治は苦笑しながら俊介の顔を見つめた。俊介も自分の質問がいかに間の抜けた質問であったかを感じていた。末期がんを告知したばかりの患者に「あなたは幸せですか?」なんて聞くほうがおかしいというものだ。しかし俊介は目の前の患者がそんなことを超越しているような錯覚にとらわれていたのだ。

「じゃあ・・・先生はどうですか?いま幸せですか?」

 高根は逆に俊介の顔を見ながら聞いた。

「え?」

 俊介はドキッとして、また高根から目をそらした。

―俺は・・・俺は・・・幸せ?―

「私は今まで65年間生きてきましたがね、いろんなことがありました」

高根はベッドに背中をもたれて話し始めた。

「私は不動産を扱っていたんですがね、バブルの頃はそりゃあ景気よかったですよ。1億2億の金が右から左に動いてた。なんか自分が特別な人間のように思ってました。絶対に終わりなんか来ないって信じていましたけどね・・・」

「でもバブルがはじけてからは・・・あっという間です。自分の手の中にあったものが次から次へとこぼれ落ちるようになくなっていきました。幸せの絶頂から不幸の真っ只中にまっさかさまって感じですか?最後に残ったビルも資金繰りがつかなくなって人手に渡りそうになった時、昔世話をしてやった知り合いが無担保で融資してくれたんですよ。そりゃあ・・・ありがたかったです。その人が神様に見えました。その時の気持ちはどん底を見た人間にしかわからんでしょうな・・・」

 俊介はベッドのそばにおいてあった椅子に座って高根の話をうなずきながら聞いていた。

「おかげで一時は持ち直しましたが、でも結局はだめでした。破産宣告をしてすべてを失って・・・夫婦二人でぼろアパート暮らしです。そうなると男っていうのは情けないもんで、甲斐性(かいしょう)がないくせに女房にはいばりたがる。女房はそんな私にだんだん愛想をつかして口も利かなくなって知らんぷりですよ。まあ、娘が嫁に行った後だったのが不幸中の幸いですがね。公務員のしっかりしただんなですよ」

 高根清二はふっと息をついて話を続けた。

「私はそんな毎日にいたたまれなくなってアパートを飛び出してホームレスってわけです。多分女房も私がいなくなってせいせいしているんじゃないですか?それからは毎日ごみや空き缶を集めてその日暮らしをしていましたけどね、慣れてみるとそれもまた悪くないんですよ。まわりに誰もいなくて自分だけでしょ?捨ててある雑誌を拾ってきて片っ端から読みあさったり、ラジオを拾ってきて直したりね。他人に気を使うこともないし自分がよければそれでいいわけですから結構幸せだったと思いますよ」

 高根はそばにおいてあったお茶を一口飲んだ。

「それが1ヶ月前から食欲がなくなって腹が痛くなって・・・。薬を買う金もないしもちろん医者なんていけるわけがない。水を飲んで我慢してましたが食べるものもなくなって動けなくなっちまった。いよいよ最後かなって公園のベンチの上で寒さに耐え忍んで転がっていたら親切な人が救急車を呼んでくれてここへ運んでもらえたってわけです」

「最初はもうこのまま逝(い)かせてくれって思ってましたけど、点滴してもらって痛み止めの注射してもらったら少しずつ楽になってもう少し生きてみたいなって思うようになりました。おとといは何年ぶりかで風呂に入れてもらって・・・。腹の痛みも昨日からいただいている薬でずいぶんいいんです。今幸せかって聞かれたら、幸せって答えますかね」

「そうですか・・・高根さんは色々な経験をされてきたんですね。でも高根さんがいま、幸せと感じているのなら我々も治療をしたかいがあります。そしてこれからも高根さんが幸せな気持ちでいられるようにすることが我々の仕事ですから・・・。もし痛みがあれば我慢せず言ってください。痛みを止めるお薬を増やして全く痛みを感じないような状態で治療していくこともできますから」

「いやいや・・・風間先生。そんなことはいいんですよ」

「え?」

「先生が・・・『私に残された2ヶ月間』ですか?その2ヶ月間をずっと幸せでいられるようにって言ってくださるのはありがたいんですがね・・・そこまで考えていただく必要はないんです」

「考える必要がない?」

「ええ。人間生きていればいいことも悪いこともありますよ。私は今、痛みがなくて幸せですけど、それは痛かったときが苦しかったから幸せなんです。最初から痛みがない人は痛みがないことを幸せだって感じないでしょ?不幸なことがあるから幸せを感じられると思うんですよ。先生は『私がずっと幸せでいるように』じゃなくって、『私が不幸になった時に』助けてくだされば十分なんです。私のような人間は少しぐらい痛い目にあったほうがいいんですよ」

 俊介は笑いながら話す高根を困惑した顔で見つめた。

「しかし・・・痛みはないほうが・・・」

「風間先生、先生は幸せってことに固執しすぎてやいませんか?」

「え?」

「人間、ずっと幸せでいようなんて大それたことを考えちゃいけませんよ。『時々幸せ』でいいじゃないですか」

 高根は笑いながら俊介を見つめて言った。

「時々幸せ・・・ですか?」

「ええ。ちょっとくらい不幸なことがあったほうが、かえって幸せなんじゃないですか?それに『時々幸せ』だったら・・・『自分は今幸せなのか?』なんてめんどくさい質問に本気で考えこまなくてもいいじゃないですか」

 高根は皮肉を込めた笑いを浮かべて俊介の顔を見た。

     *苦悩*

『先生は幸せってことに固執しすぎてやいませんか?』

 自室に帰った俊介は椅子にぼんやりと座って、さっき高根が言った言葉を思い出していた。

―俺が・・・幸せに固執している?―

『ずっと幸せでいようなんて大それたことを考えちゃあいけませんよ』

 俊介が自分の人生のことを深く考え始めたのはごく最近のことだ。それまでの俊介は何の疑問も持たずにただがむしゃらに仕事をこなしてきた。確かに苦しいことや努力が報われないことも多かったが、救急で危ない患者を救うことができたときや、重症で生死をさまよった患者が回復して退院するときなどは充実した気持ちになり、心から幸せを感じることができた。そんな気持ちは確かにつらいことがあったから味わうことができたのであって、変化のない患者だけを診(み)ていたならば感じることのできなかった気持ちであろう。

『時々幸せでいいじゃないですか・・・』

―時々・・・幸せか・・・―

 自分の生き方に疑問を抱くまでの俊介は確かに『時々幸せ』であり、彼はそのことに何の疑問も持っていなかった。彼の中で何かが変わったのは柴崎の訴訟の話を聞いてからだ。自分が正しいと思ったことを一生懸命にやっていれば世間の評価もついてくる。そう信じていた俊介だったが、一生懸命に正しいと信じている診療をしていても時には訴訟を起され、そして運が悪ければ刑事訴追(そつい)も受け、犯罪者として非難されるのが今の日本の現状だ。俊介はそんな社会の中で今までのようにつらい仕事を続けて幸せを感じていける自信をなくしていた。

―でも俺は・・・今の仕事をやめて、本当に幸せなのだろうか?―

 確かに美穂との新しい生活はすばらしいものになるだろう。そこには俊介がいままで知らなかった世界が開けているように思える。しかし・・・

―いままで俺が感じてきた充実感を・・・再び感じることはなくなるのだろう―

 俊介は自分が今の仕事にすべてを打ち込んできたことをあらためて感じていた。

―いっそこの仕事を続けたまま美穂と一緒に・・・。彼女がいてくれたら・・・彼女さえ俺のことを理解してくれていたら・・・苦しいことがあっても続けていけるんじゃないのか?―

 俊介はそんなことを考えて、あわてて首を横に振った。

―彼女は、魅力的過ぎる・・・―

 俊介は自分の性格をよくわかっている。二つのことに同時に一生懸命になることなどできない。50歳に近づいた俊介が若くて魅力的な美穂と恋愛を始めたら・・・。多分彼は仕事など手につかなくなるほどのめり込んでしまうだろう。

 今の俊介にはS市市民病院の内科部長としての責任がある。それは自分が診ている患者だけではなく内科のすべての患者に対する責任があるということだ。だから彼は循環器、呼吸器、消化器、腎臓、感染症、血液、内分泌などあらゆる分野の日進月歩ですすんでいく知識をたえず更新していかなくてはならない。そのためには診療時間内だけではなく自分のアパートへ帰ってからも文献(ぶんけん)や医学雑誌を読みあさって新しい知識を吸収していかなくてはならない。俊介が今の仕事を続ける限り、美穂との甘い生活をおくる余裕はないだろう。

―俺は・・・どうしたらいいんだ?―

 俊介は伏せてあった有紀の写真を手にとり、また前と同じ質問を繰り返した。 ―おまえは・・・おまえはどう思うんだ?。俺が今の仕事をやめて若い女性と一緒に暮らすと言ったら・・・―

 俊介には有紀の気持ちなどわかるよしもないが、決して彼女から諸手を上げて歓迎される提案ではないような気がする。

―とにかく・・・今度の日曜に有紀に会って美穂のことを話さないと・・・―

 俊介はちょっと暗い気持ちになって帰りじたくを始めた。

 カルテ12(2/7)に続く

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2008年9月21日 (日)

風の軌跡:カルテ11(4/4)

風の軌跡:カルテ11(4/4)

   *天国と地獄*

 次の月曜日、俊介は明るい気分で1日の仕事を終えた。ほんの2日前まで毎日沈んだ気持ちで仕事をしていた俊介であったが、美穂の告白を聞いてから世の中が一気に明るくなったような気がした。

―同じ仕事をしているのにな・・・。不思議なもんだ―

 俊介は鼻歌交じりに自室のテーブルの上の書類をかたずけていた。そしてふと午前中の外来診察の風景を思い出した。

 今日の美穂は・・・ひときわ輝いて見えた。二人の間には仕事の会話以外は何もなかったが、お互い相手の考えていることが不思議によくわかった。こんな気持ちは翔子と付き合い始めた20年以上前に感じて以来だろう。

―これから俺は彼女と一緒に・・・―

 ペンを止める俊介の口元は自然と緩んだ。

 その時、俊介の机の上の電話が鳴った。俊介ははっとして現実に戻り、ペンを机の上に置いて受話器を取った。

「え?氷室先生が?・・・そんなことを・・・。ああ・・・そうだな。わかった。俺から話をしてみるよ」

 俊介はため息をついて椅子に背中をもたれかけた。

―ああ・・・いいことばかりじゃないよな。でも・・・これも俺の仕事だから・・・。もうしばらくはがんばらないと―

 俊介はPHSで氷室鋭二を呼び出した。

「もしもし・・・氷室先生か?風間だけど・・・今ちょっといいか?・・・俺の部屋まで来てもらえるか?」

 氷室鋭二はすぐにやってきた。

「さっき病棟のナースから連絡があったよ」

「そうですか」

 氷室鋭二は悪びれもせずにまっすぐに俊介を見て答えた。

「患者さんとトラブルがあったそうだな」

「いえ、トラブルではありません。患者と家族が俺の言うことを理解できなかっただけです。そして病棟のナースも・・・」

「理解できなかった?」

「はい。俺は患者の胃癌が肝臓に転移していること、手術は不可能で化学療法により延命効果が期待できること、その化学療法には骨髄(こつずい)抑制や腎機能障害などの副作用があって逆に余命をちぢめる可能性もあること、化学療法の代替(だいがえ)治療として対症(たいしょう)療法もあることを1時間かけて説明しました。内容は主治医の長谷川先生と申し合わせたとおりです。長谷川先生が往診先でトラブルがあって予定の時間にもどれないと連絡があったので俺が話をしました」

 氷室は冷静な言葉で手際よく説明した。

「しかし患者さんはもう助からないのだと思って取り乱してしまった・・・」

「はい。治らないのなら退院すると言って先ほど病院を出て行かれました。主治医の長谷川先生が往診から戻るまで待つように説得しましたが聞き入れませんでした」

「なるほどな・・・」

 俊介は大きく息をついて天井を見上げた。ほんの少しの沈黙の後、俊介は鋭二の顔をじっと見ながら聞いた。

「君はどう思うんだ?」

「正確な情報を与えた上で患者さんが決めたことです。患者さんが治療を拒否して退院を希望されたのならばそれを認めるべきだと思います」

「するとその患者さんはどうなるんだ?」

「多分、痛みや食欲不振が強くなってまたうちの病院に来るか、他の病院を受診すると思いますが、その時には状態が悪化して化学療法はできないでしょう」

「君はそれでいいのか?」

「いいも何もそれが患者の選択した道ですから・・・。我々は一番いいと思う方法を患者に提示して患者が納得した治療をするのが仕事だとおもいます」

「そうか・・・」

 俊介は再び黙って天井を見上げた。

「君はこの病院をどう思う?」

 俊介は話題を変えた。

「え?」

「君は病気をする前は一時期、大学病院でも研修していただろう?そこと比べてどうだ?正直に言ってくれ」

「正直に・・・ですか。申し訳ありませんが・・・大学病院と比べるとここは・・・レベルが低いと思います」

「レベル・・・」

「はい。ナースや技師さんそれに・・・患者のレベルも低いと思います」

「患者のレベル・・・」

「はい。俺がちゃんと説明しても理解できない患者が多すぎます。高齢者が多いせいもあると思いますが、大学病院ではもっときちんと説明ができました」

「するとこの病院の環境では君は自分の技量を発揮できない・・・そう言うことか?」

「はい。研修医の俺が言うのも生意気ですが、今度のことは俺の責任ではないと思います。俺は環境が変わればちゃんとした医療ができると思います」

「そうか・・・。もう一つ聞くが・・・君は内科の研修を始めてまだわずかの時間しかたっていないが、内科部長として俺は研修医の君に何点くらいつけていると思うかな?」

「点数ですか?」

「ああ・・・謙遜(けんそん)せずに言ってみろ」

「多分・・・90点くらいじゃないかと・・・」

「90点か・・・そうか・・・。俺が君につけた点数はよくて35点だな」

「35点?なぜですか!」

 さっきまで冷静に話をしていた鋭二はちょっと興奮した声で聞いた。

「40点以下は落第だな。君は落第ってわけだ」

「なぜですか?納得できません!確かに今日の患者でうまく行かなかった点があるのは認めますが大学病院なら・・・」

 俊介は鋭二の言葉を手で制した。

「君を取り巻く環境の問題じゃないんだ。落第の理由は君に臨床医としての技量がないからだ」

「臨床医としての技量がない?俺に?」

 鋭二は明らかに不満とそしてほんの少し怒りをこめた目で俊介を見つめた。

「君は医療の目的はなんだと思う?」

「それは・・・患者を治すことです」

「じゃあ今日の患者のように治らない患者はどうする?」

「病気が治らなくても少しでもQOL(quality of life:生活の質)を上げる治療をすることです」

「QOLを上げるとはどういうことだ?」

「それは・・・よりよい生活をできるだけ長く維持させることです。化学療法や鎮痛処置をして・・・」

「そうだな。それが正しい医療だな。じゃあ聞くが君は今日の患者のQOLを上げる治療ができたか?」

「それは・・・患者が選択したことですから・・・」

「今日の患者は君から見ても明らかにQOLを低下させる方法を選択したわけだな?」

「・・・そうなります・・・」

「じゃあ君は今日、正しい医療ができなかったことになる」

「・・・・」

「だから今日の君の点数は0点だ」

 鋭二は唇を震わせて下を向いた。

「なあ、氷室先生」

「え?」

「正しい医療を行うには色々な知識や技術が必要だ。君もそう思うだろ?」

「はい」

 鋭二は顔を上げて俊介を見つめた。

「そして君は病気で休職していた1年間、必死で色々な知識を詰め込んだ。多分一緒に大学を卒業した誰よりも君の知識は豊富だろう。そして研修を再開してからも、持ち前の手際のよさでいろいろな技術を身につけている」

「・・・」

「しかし君には残念ながら人の心を扱う技術がない」

「人の心を扱う技術?」

「医療は人間を相手にする仕事だ。そして医療の目的はその『人間』を満足させること、すなわち人間を幸せにすることだ。それが俺達の仕事の最終的なoutputだろ?その人が幸せだと感じなかったら俺達の仕事は失敗ってわけだ。いいoutputを出すためには医療の技術だけではなく、人間を扱う技術も必要になるんだ」

「人間を扱う技術・・・」

「医療は人間を相手にする仕事だ。そして医療の目的はその『人間』を満足させること、すなわち人間を幸せにすることだ。それが俺達の仕事の最終的なoutputだろ?その人が幸せだと感じなかったら俺達の仕事は失敗ってわけだ。いいoutputを出すためには医療の技術だけではなく、人の心を扱う技術も必要になるんだ」

「・・・」

「まあ、人の心を扱う技術といっても何も特別なことじゃない。目の前の人の気持ちをいつも考えていること、簡単に言えば相手に対する思いやりを持つってことかな」

「思いやり・・・ですか・・・。でも俺は・・・思いやりのある人間じゃないですから・・・」

 なかば投げやり気味につぶやく鋭二を見ながら、俊介はソファに背中を持たれかけて言った。

「思いやりのある人間じゃない・・・か・・・。君がそう思うのはな、君が思いやりを持つ努力をしていないだけだ」

「思いやりを持つ努力・・・」

「ああ。世の中には思いやりのある人間とない人間がいるわけじゃない。その努力をしているかしていないかだけだ。他人を満足させるためには自分がいやなことやつらいことを多かれ少なかれ我慢する必要がある。俺たちがいい結果を出すためには患者の気持ちを考え、自分が我慢してその気持ちを満足させる努力が必要なんだ。君が『自分は思いやりがない人間だ』って開き直るのは単に努力をせずに苦しいことから逃げているだけだ」

―この男は俺だ・・・20年前の俺の姿だ。医者になったばかりの俺も同じことを考えていた。竹森先生にいつも食って掛かってたっけ・・・。竹森先生はいつも丁寧に根気よく俺を説得し、そんな自分勝手な考えを変えてくれた。俺ものこの優秀な若い医師を育ててやらなくてはならない―

―確かに今の彼の態度には患者に対する思いやりにかけている点がいくつか見られる。しかしどんな医者も医学を志した時は「人を救いたい、社会の役に立ちたい」、そんな思いを胸に秘めていたはずだ。彼にその気持ちを思い出させることが俺の役目だ。彼が患者の心を扱うことの大切さが理解できるようになれば、それが自分の仕事にとって不可欠なことであることに気がつけば、彼も次第に患者の気持ちを理解できるようになってくる。かつての俺がそうだったように・・・―

―そして・・・「患者が幸せを感じる」ということが「自分の喜びになる」ということを理解するようになる。優秀な能力を持った彼がその気持ちを理解するようになれば彼はきっとすばらしい臨床医になるだろう―

「君は環境が悪いから自分の力が発揮できないと言ったな?」

「はい・・・」

「こんな時に合う話かどうかわからないが俺が小さいときにばあちゃんにきいた話をしてやろう」

「風間先生の・・・おばあさんに聞いた話ですか?」

 俊介はソファに背中を預けて話を始めた。

「昔、ある男がお釈迦様に天国と地獄を見学させてもらったそうだ」

「なんか・・・芥川龍之介の小説みたいですね」

「彼はまず地獄に連れて行かれた。そこの住人たちはみんながりがりにやせ細り、動くのもやっとの状態だった。それを見た男は地獄というところはなんと恐ろしいところだろうと思った。きっと食事も満足に食べさせてもらえないのだろうとな」

「そして食事の時間になった。運ばれてきたのはなんと山盛りのご飯に非常に豪勢な食事だ。当然、男はそれを見て不思議に思った。ただ我々の世界と違うのは地獄の住人たちは3メートルくらいはなれて2列に向かい合って座り、その間にはやはり3メートルくらいの溝があり、食事はその溝の中に運ばれてくるということだ。そして彼らには3メートルの長い箸(はし)が与えられた。みんな必死になって長い箸を使って下においてある食事を食べようとするのだがそんな長い箸でうまく食べられるはずがない。やがて食事の時間が終わり、地獄の住人たちはほとんど食べられないままご馳走は片つけられてしまった」

「ご馳走を目の前にして食べられないようになっているわけですか・・・それが地獄なのかもしれませんね」

「次に男は天国へ連れて行かれた。そこの住人はみんな丸々と太って幸せそうに暮らしていた。男はああ・・・さっきとは全然違う、さすが天国だと思った。そして食事の時間になった。男が驚いたことに食事の内容も向かい合って座るのも溝の下に食事が運ばれてくることもさっき見た地獄と全く同じだった。どういうことだ?男は訳がわからなかった。しかし謎はすぐに解けた。天国の住人は長い箸を使って下においてあるご馳走をつまむと向かいの人に向って食べさせてやっていた。それを交互に繰り返してみんなお腹いっぱい食べて食事はかたつけられた」

「・・・」

「天国も地獄も環境は全く同じだったわけだ。違うのは自分の気持ちの持ち方だけだ。君はこの病院の環境では自分の実力が発揮できないから満足できないと言った。しかしな、どんな環境にあっても自分の気持ちの持ち方しだいで幸せにもなるし不幸にもなるんだ。自分が不幸なことをまわりのせいにするな」

 鋭二はじっと黙って下を向いていた。

―・・・自分が不幸なことをまわりのせいにするな・・・―

 俊介は自分が言った言葉を頭の中でもう一度繰り返した。

―俺は・・・どうなんだ?俺は今、この環境では幸せになれないと思っているじゃないか。そしてそこから逃げようとしている。俺が幸せではないと思うのも・・・自分のせいなのか?―

「俺、何から始めたらいいんでしょうか?」

 鋭二は下を向いて小声でつぶやいた。

「そ・・・そうだな・・・」

 俊介はあわてて身体を起した。

「まず手始めに・・・病院の全職員に君から挨拶してみろ」

「え?全職員に・・・挨拶・・・ですか?」

「そうだ。君は挨拶しているか?」

「ええ・・・。おはようございますとか・・・ご苦労様でしたとか・・・普通にはしているつもりですが・・・」

「ドクター以外はほとんど相手から挨拶されるだろ?」

「ええ・・・多分・・・」

「相手を見つけたら君から挨拶してみろ」

「はい・・・」

「病院の全職員にだ」

「・・・はい・・・。やってみます・・・」

 一人になった俊介は机の前に座りなおしてから大きく深呼吸をして真っ白な天井を見あげた。

「ああ・・・また出てきたか・・・」

 俊介は10年以上前から時々目の前にチラチラとゴミのようなものが見える。これは飛蚊症(ひぶんしょう)といい、網膜(もうまく)に一部傷がついていることが原因だ。ほとんどは加齢による網膜の変性によるものだが時には網膜はく離などの重篤(じゅうとく)な疾患のこともある。

 俊介は最初に症状を感じたときに眼科医の診察を受けたが、特に問題はないと言われそのままにしている。普段はあまり気にならないが、明るいところで白っぽいものを見たときにはいつも俊介の目の前にはゴミがちらついて見える。わずらわしいといえばわずらわしい症状だ。しかし俊介はこの飛蚊症を自覚した時にそれほどの不快感を感じない。それは彼が最初にこの症状を感じたときのことを思い出すことができるからだ。

 俊介は有紀が生まれてから一度だけ家族旅行へ行ったことがある。3日間の休みを取って当時3歳の有紀と翔子と3人で沖縄へ出かけた。その時に見た静かな海は言いようがないほどに美しかった。真っ青な空につながるエメラルドグリーンの海。有紀と翔子と3人で見たその風景は俊介の心の中で何よりも大切な宝物として刻み込まれている。

 そして俊介はその美しい風景を見ているときに最初の飛蚊症の症状を感じた。それ以来彼は飛蚊症を自覚するといつもその沖縄の海を思い出し、有紀と翔子との思い出にふけることができる。飛蚊症は俊介にとっては美しい思い出を呼び起こすきっかけとなってくれるのだ。そう考えればわずらわしい症状もそれほど気にならない。

―有紀は・・・どう思うだろうか・・・―

 なつかしい風景を思い出しながら俊介は考える。

―俺が今の仕事をやめると言ったら・・・そして美穂と暮らすと言ったら・・・―

 俊介は目の前の有紀の写真を手に取った。そしてそれをそっと伏せて元の位置へ戻した。

    *俺にも・・・*

―自分から挨拶だって?そんなことして、何になるんだ?・・・―

 鋭二は人気のない静まり返ったロビーを歩きながら、不満げにつぶやいた。ふと目の前を見ると掃除のおばさんが待合室のソファの周りにモップをかけている。

―こんなに遅くに掃除しているのか・・・。そうだよな、ここは夕方まで患者さんがいっぱいだから夜しか掃除できないんだ―

 鋭二はその傍らを通り過ぎて玄関に向かおうとした。

―全職員・・・ってことは、このおばさんにも自分から挨拶しろってことか?―

 鋭二は戸惑いながらちょっと立ち止まって掃除婦を見つめた。彼女は鋭二には気づかずに一生懸命モップ掛けをしている。鋭二は勇気を振り絞って声を出した。

「お・・・遅くまで・・・ご苦労様・・・」

 その声を聞いた掃除婦はふりかえって鋭二を見つけるとモップをかけている手をとめた。

「あら、氷室先生。いつも遅くまで大変だね。ご苦労さん」鋭二はぎこちなくちょこっとお辞儀をして足早にロビーを通り過ぎた。

―俺のことを・・・知っているのか・・・?研修医の俺を・・・―

 鋭二はなんとなくウキウキした気分になって自動ドアを開けて表に出た。

―俺にも・・・できるじゃねーか・・・―

 鋭二はオリオン座が輝く透き通った夜空を見上げると、コートの襟を立てて白い息を吐きながら家路へと急いだ。

風の軌跡:カルテ11 「天国と地獄」 終わりカルテ12(1/7)に続く

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2008年9月20日 (土)

風の軌跡:カルテ11(3/4)

風の軌跡:カルテ11(3/4)

   *産業医*

 次の日、俊介は自室で来客を迎えていた。

「宮田、久しぶりだな」

「ああ、風間。この前の同窓会以来だな。突然悪いな・・・」

 宮田修二は俊介の高校時代の同級生だ。大学を卒業して建築関係の大手企業に就職して管理職についている。二人はしばらく昔話に花を咲かせていた。

「風間の時間を取らせても悪いから、この辺で要件を単刀直入に言うとだな、実は俺の会社で産業医を探しているんだ」

「産業医?」

「今うちにいる産業医の先生が再来年で退職なんだがね、ちょっと体調も悪いので早めに切り上げたいって言うんだ。来年中をめどに誰か来てくれる先生を知らないか?」

「会社の検診業務をするのか?」

「ああ。検診やドックもそうだが一応レントゲンとか内視鏡とか簡単な検査はできるようになっているし、点滴や投薬もできる。まあ、企業が母体の診療所みたいなもんだ。もちろん職場視察や作業管理もしてもらわないといけないがな」

「何科の医者でもいいのか?」

「まあ、いいんだが・・・。できれば内科か外科の先生がいいかなって思うんだが・・・」

「そうか・・・」

「まあ、うちの職員になるわけだから給料はそんなによくないが、土日や祝日は原則休みだし、勤務時間は9時から17時までだからそんなにきつくはないと思うんだ。病院の仕事に疲れたような先生がいたら声をかけてみてくれないか?」

「わかったよ。探してみる」

「頼むよ」

 宮田修二は俊介に握手して部屋をあとにした。

「産業医か・・・」

 俊介はソファに座りなおしてつぶやいた。

    *親睦会の夜*

 S市市民病院では11月下旬から12月初旬にかけて職員の親睦を目的とした一泊旅行がある。ほとんどの職員が50-60名くらいのいくつかのグループに分かれて温泉などへ出かけるわけだ。健太郎と沙紀、それに酒井美穂は俊介と同じグループになっていた。

「風間先生、こんなにゆったりした気分も久しぶりですよね」

 土曜日の夕方、バスの中で健太郎が隣に座っている俊介に缶ビールを渡しながら話し掛けた。

「ああ、今日ばかりは病院から呼び出されても行きようがないからな。患者さんには悪いが留守番の先生方におねがいするしかない。こんな時じゃないと俺達は開放されないんだから因果(いんが)な仕事だな」

 缶ビールのふたを開けながら俊介が答えた。バスに揺られて2時間近く、目的の温泉に到着した頃には二人はすっかり出来上がっていた。

「風間先生・・・。ちょっと飲みすぎましたかね・・・」

 真っ赤な顔をした健太郎がふらふらしながらバスを降りた。

「大丈夫か?宴会までまだ時間があるからさっと一風呂浴びて酒を抜いてこよう」

 俊介もちょっともたつきながら答えた。

「いやーね。もう酔っ払って・・・。美穂さん、あの二人大丈夫かしら。温泉に入って倒れたって私知らないから・・・」

 健太郎の後姿を見ながら沙紀が酒井美穂に言った。

「そうね」

 美穂は沙紀にちょっと微笑みながら一言だけそう答えてバスを降りた。

―今晩、風間先生に自分の想いを伝える・・・―

 そんな気持ちが美穂の心をかき乱し、楽しいはずの温泉旅行でも、なかなか開放的な気分になれない。

   *宴会*

 宴会は夜7時に俊介の乾杯の合図で始まった。

 最初はみんな料理を食べながら隣の席どおしでしゃべっていたが30分もするとあちこちにビールやお銚子(ちょうし)を手にするものが入り乱れ、もうどこが誰の席なのか全くわからないほどになっていった。そして9時頃には部屋に帰って休むもの、もう一度温泉に入りなおすもの、気の会った仲間と部屋で飲み直すものなどがばらばらと席を離れ、宴会場には俊介や健太郎などほんの10名くらいが残るだけになった。

「風間先生・・・二次会!二次会行きましょう!」

「二次会?おいおい、俺はもう飲みすぎたから休ませてくれよ・・・」

 健太郎は逃げ腰になる俊介の腕をつかんだ。

「だめですよ!だめだめ!今日は最後まで付き合ってもらいますからね。カラオケ行きましょ!」

「カラオケ?勘弁してくれよ。君たちの知ってる歌なんか俺は歌えないよ」

「いいんですって!歌わなくたって・・・。そんなことが目的じゃないんですから・・・」

「歌うことが目的じゃないって・・・じゃあ何でカラオケに行くんだ?」

 俊介はけげんそうな顔で健太郎を見つめた。

「え?それは・・・えっと・・・カラオケルームだったら周りに誰もいないから思いっきり話ができるじゃないですか!ほら!君も一緒に行くぞ!」

 健太郎はしどろもどろになりながら、そばにいた沙紀の肩をたたいて立ち上がった。

「はいはい。風間センセ!一緒に行きますよ!」

 もう一風呂浴びてから部屋へ帰って休もうと思っていた俊介であったが沙紀に手を引かれてしぶしぶあとについていった。そしてその後からちょっと緊張した顔で美穂がついていった。

 4人はこじんまりとしたカラオケルームへ入った。薄暗い部屋の中で、小さなミラーボールがきらきら輝いて今風(いまふう)の音楽が流れている。決して落ち着いた雰囲気ではないが、確かに部外者は一人もおらず気は楽だ。俊介はソファの一番奥にどっかりと腰を下ろした。そしてそのとなりから沙紀、健太郎、美穂の順に腰掛けた。

「じゃあ一曲目いきまーす!」

 健太郎は曲名リストをチラッと見るや否やリモコンで手際よく入力していった。すると俊介にも聞き覚えのある最近の曲が流れ、健太郎が歌い始めた。 

―何年ぶりだろうか。こんなところへ来たのは・・・―

 翔子と別れて一人になってからの俊介はほとんど娯楽施設というところへ行ったことがなかった。行くとしてもたまに近くの飲み屋で病院の職員と食事をするか、娘の有紀と一緒にデパートへ買い物に行ったり、夕食を食べにいったりするくらいだ。

 彼には趣味といえるようなものもなく、一人でアパートにいる時はいつも医学雑誌か文献(ぶんけん)を読んでいる。俊介の生活の場はほとんどが病院か自分のアパートでそれが今の俊介の生活空間のすべてだといってもいいだろう。

―きっと世の中には俺の知らないことがたくさんあるんだろうな・・・―

 俊介はいまさらながらに医者になってから自分が送ってきた25年の人生が幅の狭いものだったことを身にしみて感じていた。

―俺はずっと医療の仕事ばかりをしてきた。家族も捨てて、ほとんど遊びにも行かずに・・・。そして今の仕事をやめたら、俺には何が残るんだ?あとの人生は何をしたらいいんだ?もし楽な仕事に変わったとしたら・・・自由につかえる時間ができたら、俺はこうやって誰かとカラオケにいったり映画にいったりスキーへいったりするのか?ああ・・・そういえば・・・スキーなんて学生時代に行ったきりだな・・・。あの頃はみんなと一緒にきたない民宿に泊まって・・・―

 俊介が学生時代に思いをはせていると健太郎の歌が終わった。そして次の曲の前奏が始まると沙紀がマイクを奪い取った。

「次、私ね!」

 沙紀はバラード調の歌を上手に歌っている。俊介はマイクを持つ沙紀とその向こうの健太郎をぼんやりと見つめていた。

―ああ・・・この二人の人生はこれから始まるんだ。恋愛して結婚して子供を生んで・・・。でもあいつは要領が悪いから、俺と同じで仕事に一途(いちず)になりすぎるんじゃないのか?そして家族をかえりみずに、俺と同じような人生を送るのではないのか?そんなことは・・・させてはいけない。俺はこいつの上司として、家庭を持ったら最低限それを維持できるだけの余裕を与えてやらないと・・・―

 俊介は目の前に置かれている水割りのグラスを手にとった。俊介の手の中でとけかかっていた氷が耐え切れなくなったようにカランと音を立てて水割りの中に沈んだ。

―しかし今の俺に・・・あいつを守ってやることができるのか?上司だって?俺はいつまでこの仕事を続けていけるんだ?自分が幸せだと思えない人間が他人を幸せにすることことなんてできるものか―

「はい!次、美穂さん!」

 歌い終わった沙紀はマイクを健太郎の向こうに座っている美穂に渡した。

「あ・・・ありがとう」

 美穂はぎこちなくマイクを受け取ると自分が選んだ曲の前奏に合わせてじっと画面を見つめていた。

―ああ・・・そうだ。今日は酒井美穂と一回も言葉を交わしていなかったな・・・―

 今日の宴会の席で、なぜか美穂は俊介のそばに寄ってこなかった。いつもならこういう席では必ず隣に来て酒をついでくれるのに今日の彼女は妙によそよそしい。わざと俊介を避けているようにも見える。

―俺はまた何か美穂に誤解されるようなことをしたのか?―

 俊介は不安な気持ちで、歌っている美穂とその前においてあるグラスを見つめる。ここへ来てからまだ10分もたっていないのにもうグラスが空いている。彼女がそこそこ酒が強いのは知っているが今日はちょっとペースが早すぎると思う。

―まあ、今日は親睦会だから・・・。俺だってかなり入ってるしな・・・―

 俊介はグラスにほんの少し口をつけて美穂の歌に聞き入った。

「風間先生!何歌います?」

 沙紀が俊介の目の前に曲目リストを差し出した。

「お・・・俺はいいよ。君たちが知っている歌なんて歌えるわけないじゃないか」

 俊介の学生時代はカラオケなどというものはなく、歌は仲間が集まった下宿でギターを弾きながら歌っていた。その頃のフォークソングやニューミュージックなどといわれ始めた歌なら一つ二つ歌えないではないがこの3人が聞いたこともないような歌を歌っても場がしらけるだけだ。

「そんなこと言わないで先生も何か歌ってくださいよ。先生の歌、聞いたことないですよ」

 健太郎がもう一本のマイクを俊介の手にぐいぐいと押し付ける。

―勘弁してくれよ・・・。こいつもかなり酔ってるな―

「俺は・・・みんなの歌を聞いているだけで楽しいから・・・。飲むことに専念するから、3人でやってくれよ」

 俊介は戸惑いながらマイクを沙紀に戻した。

「しょうがないなー・・・」

 健太郎はそう言いながらリモコンを手にとって次の歌を入力していった。歌い終わった美穂は笑いながら自分のグラスにウイスキーを注いで俊介を見つめている。

 3人が交互にマイクを奪い合いながら30分近くが過ぎた。俊介は時々聞き覚えのあるフレーズを画面の歌詞を見ながら口ずさみ、水割りを飲んでいた。それにしても今日の美穂はペースが早い。もう3-4杯目のお代わりをしている。

「あ・・・俺ちょっと他のグループを見てきます」

 健太郎が思い立ったように席を立った。そして歌い終わった沙紀もそれに続いた。

「わたしも・・・ちょっと酔っちゃったから風に当たってきます。風間先生はもう少しゆっくりしててくださいね」

 そう言いながら沙紀もそそくさと席をあとにした。

―なんだ?いきなり・・・。ああ・・・そういう事か・・・―

 俊介はおかしくなって沙紀の後姿を見送った。

―お前たちのことはずっと前から知っているんだぞ。いい加減、白状したらどうなんだ?―  

 健太郎と沙紀が出て行くと、静かなBGMが流れる部屋には俊介と美穂の二人だけが取り残された。俊介はなんとなく気まずい雰囲気を感じて言葉を捜した。

「酒井君・・・。今日はかなりペースが早いようだが・・・大丈夫か?」

 俊介はちょっと戸惑いながらソファの反対側に座っている美穂に声をかけた。

「はい・・・大丈夫ですよ」美穂からは思いの他、しっかりした声で返事が返ってきた。

―ああ・・・やっぱり彼女は強いな。一緒に飲んだらこっちがつぶれそうだ―

 そんなことを考えながら俊介はグラスを手にとってほんの少し口をつけた。

「風間先生・・・」

「え?」

「そっちへ座っても・・・いいですか?」

「あ・・・ああ・・・いいとも」

 美穂の突然の申し出に俊介はちょっとどぎまぎして答えた。美穂は自分のグラスを手に取るとゆっくり移動して俊介の隣に座った。

―ああ・・・美穂の香りだ・・・―

 いつもの美穂の香水の香りに俊介は胸がすこしずつ高鳴っていくのを感じた。この病院に来て美穂と仕事をするようになって3年以上になるがこうして二人きりになるのは初めてだ。俊介はほとんど院内でしか美穂のことを知らない。

 美穂は礼儀正しく、頭の回転が速く、さらに患者にも思いやりを持って接することができるすばらしい看護師だ。そして・・・その清楚(せいそ)で上品な美しい瞳と均整の取れた肢体(したい)はまわりの多くの男性をひきつけているはずだ。

 しかし俊介が知る限り彼女に浮いたうわさはなく、もちろん結婚暦や離婚暦はない。彼女は今32歳になるはずだが、このようなすばらしい女性がなぜ一人でいるのか?いや、周りの男たちがなぜ一人でいさせるのか?彼女と出会ってから俊介にはずっと理解できないことだった。彼がもう10歳も若ければきっと美穂と一緒に暮らすことを夢見ただろう。

「久しぶりですね・・・風間先生」

「え?ああ・・・そういえば・・・最近外来で君と一緒にならないから・・・話をするのは1週間ぶりくらいかな?」

―久しぶり・・・か。粋(いき)な挨拶だな・・・―

 ほんの20cmくらいの距離から艶(つや)っぽい笑顔で自分を見つめる美穂にちょっと戸惑いながら俊介は答えた。

―ああ・・・きれいだ・・・。こんなにきれいな人だったのか・・・―

 俊介は美穂の美しい瞳に思わず吸い込まれそうになる。

「今週は寂しかったわ。先生と話ができなくて・・・」

 美穂はゆっくりと俊介からテーブルに目を移すと、ちょっと首をかしげる。毛先にソフトなカールがかかった髪がさらりと俊介の肩に触れ、フローラルのシャンプーの香りが漂う。

「お・・・俺も・・・寂しかったよ」

―ど・・・どうしたんだ?今日の美穂は・・・。えらく色っぽいぞ。やっぱりかなり酔っているのか?―

 俊介は無意識にちょっと身を引くと、ドキドキしながら美穂の言葉に答えた。こんなに動悸(どうき)がするのは有紀が腕を組んできた時以来だ。

―俺は・・・もう少し女性と話をすることに慣れないと・・・―

 部屋の中には静かなBGMの音だけが流れていた。俊介は早鐘のように打っている自分の心臓の鼓動が美穂に聞こえるのではないかと気が気ではなかった。

―何か・・・何か話をしないと・・・―

「酒井君・・・。君は・・・なぜ一人でいるんだ?」

―ば・・・ばか!いきなりこんな事を聞くやつがあるか!―

「さあ・・・?なぜかしら・・・」

 美穂は俊介の肩に軽くもたれかかり、ちょっと寂しそうに小声で答えた。

「き・・・君は、だ・・・誰か・・・好きな人は・・・いるのか?」

 俊介は乾いた唾液をゴクンと飲み込みながらやっとのことで聞いた。気の利(き)いた言い方を考える余裕はもう今の彼にはなかった。

「・・・そう・・・好きな人が・・・いるの・・・」

 美穂はいっそう俊介の肩にもたれかかって答えた。

―やっぱり・・・。誰かのことをずっと想っているのか・・・。でもどうしてその相手に気持ちを伝えないんだ?美穂が相手なら誰だって二つ返事でOKだろう?・・・ひょっとして、不倫なのか?!―

「その相手って言うのは・・・許されない人なのか?」

「ううん・・・ちゃんとした独身。でもね、すごく鈍感なの。全然私の気持ちに気づいてくれなくて・・・」

―そうか・・・不倫じゃないのか・・・―

 俊介はほっと胸をなでおろした。美穂が誰を好きになろうが俊介には関係ないことだろうが彼女には不幸になってほしくないと心から思う。

―それにしても、美穂に想われている相手というのは・・・ずいぶん幸せなやつだな。っていうか間抜けだ。こんな素敵な女性に想われて気づかないなんて・・・。そいつの顔が見てみたいもんだ―

「そうか・・・。でも独身なら・・・君がちゃんとその人に気持ちを伝えればそれでうまくいくじゃないか。君が相手だったら誰だって断るなんてことはないと思うよ」

「本当?」

 美穂は突然身体を起して俊介の目をじっと見つめた。俊介は美穂の真剣な表情にちょっとたじろんで、そしてゆっくりと笑顔でうなずいた。

「あ・・・ああ。君から想いを伝えられたら男なら誰だってすごくうれしいと思うよ」

「先生・・・本当にそう思う?」

 美穂はいっそう顔を近づけてじっと俊介の目を見つめる。

「ああ。ところで誰なんだ?その幸せな男は・・・。いったいどこにいるんだ?」

 俊介は軽い嫉妬(しっと)を感じながら美穂の美しい瞳を見つめて聞いた。

「その人は・・・私が、ずっとずっと想っている人は・・・ここに・・・」

 美穂はそう言いながら突然両手で俊介に抱きつき、顔を俊介の胸にうずめた。

「その人は・・・今・・・私の腕の中に・・・」

―ええ?!!!なんだ?どういうことだ?―

 俊介は一瞬何がおこったのかわけがわからないまま、抱きついた美穂の背中に手を回した。

―俺?俺?俺か?俺が美穂が想っている相手?なんで?―

「ちょ・・・ちょっと・・・ちょっと待ってくれ・・・酒井君!君が好きな相手って・・・」

 俊介は美穂の肩をつかんであわてて自分の胸から引き離した。美穂はじっと俊介の顔を見つめる。

「そう・・・。私がずっと心の中で想っているのは・・・風間俊介・・・」

―なんで?なんで俺なんだ?美穂みたいな魅力的な女性がなんで、もうすぐ50になる俺のことなんかを・・・。ひょっとしてからかわれているのか?―

「な・・・なんで・・・俺なんだ?」

「だめ?」

「だめって・・・。そんなこと・・・あるはずないじゃないか・・・」

「じゃあ・・・いいの?このまま先生のこと好きでいても・・・」

「そ・・・それは・・・」

 俊介は思わず美穂から目をそらした。俊介は酒井美穂のことを仕事のできる素敵な女性だとずっと思ってきた。看護師としてもすばらしいし、一人の女性としても他の誰よりも惹(ひ)かれるものを感じていた。そんな美穂から好きだと言われてうれしくないはずがない。しかし・・・

「俺はもう50に手が届くんだぞ。君はまだ30そこそこだろう?そんな20近くも歳の違う男を相手にしなくても・・・」

「そんなの関係ないわ。風間先生、すてきよ・・・」

 俊介はドキッとして美穂の言葉を聞いた。

―ああ・・・有紀も・・・有紀もこんな事を言ってたっけ・・・―

 夕方から飲み続けている酒も回り、もう俊介の頭の中はまともな思考回路が働いていなかった。

「先生のこと・・・好きでいてもいいですか?」

 好きでいてもいいですか?美穂らしい控えめな言い方だ。決して自分の気持ちを押し付けるようなことはしない。俊介は自分の心がきゅんと締め付けられるのを感じた。

「お・・・俺も・・・君のことが・・・好きだ・・・」

「本当?」

 美穂が瞳を輝かせて俊介を見つめた。

「ああ・・・ずっと前から素敵な人だと・・・思っていた・・・」

「うれしい・・・」

 美穂は俊介の肩に寄り添った。二人の間にはしばらく沈黙が流れた。

―何を・・・何を話せばいいんだ?いくらなんでもこのままじゃ・・・まずいぞ・・・―

「しかし、お・・・俺は・・・君の気持ちを受け入れることは・・・できない」

 しどろもどろの俊介の言葉からちょっと間をおいて、美穂は俊介の肩に寄り添ったままテーブルを見つめながら聞いた。

「・・・どうして・・・?」

「俺には・・・君を幸せにする自信がない・・・」

「幸せにする自信?」

「ああ・・・。もう10年もすれば俺は60になるんだ。今から病気だってたくさんするだろう。そんな男と一緒にいても君が幸せになれるとは思わない。それに・・・今の俺だって・・・。俺は・・・君が好きになるようなりっぱな男じゃない」

 美穂はじっと前を向いてグラスを見つめながら俊介の言葉を聞いていた。

「違うわ・・・」

「え?」

「・・・違うの・・・。私はあなたに幸せにしてほしいなんて思っていない・・・。私が・・・私があなたを幸せにしたいの。私は、あなたが幸せになるために少しでも手助けがしたいだけ・・・」

 俊介は言葉を失った。うれしかった。美穂の言葉がうれしかった。これほどまでに自分のことを想ってくれる人がすぐ隣にいる。しかもそれは自分がずっとすばらしい女性と思ってきた酒井美穂なのだ。

 その美穂が自分のことを大切に思ってくれている。自分の人生に疑問を感じ、自分に自信をなくしていた俊介は乾いた心が満たされていくのを感じていた。

「わたしを・・・あなたのそばに・・・おいてください」

 美穂は俊介の肩に寄りかかったまま、潤んだ瞳で俊介をじっと見あげた。

「酒井君・・・」

―何も・・・何も考えたくない・・・。今はただ・・・この人を抱きしめたい―

 俊介は美穂の肩を静かに抱いた。

 俊介はソファにもたれたまま左手に美穂のぬくもりを感じていた。

―このまま・・・このままずっと時間が止まればいい・・・―

 そして美穂も俊介と同じ気持ちで俊介の腕に抱かれていた。

―これからずっと美穂と一緒にいれば・・・美穂が俺のことを支えてくれる。俺が夜遅く帰ったら笑顔でお帰りなさいって言ってくれる。美穂が一緒にいてくれるのならばつらい仕事も・・・いや・・・それよりも、いっそのこと今の仕事をやめて楽な仕事に変わってこれからの人生を美穂と一緒に・・・。旅行に行ったりスキーに行ったり映画にいったり・・・今までできなかったことを美穂と一緒にやって行けたら・・・。それが一番幸せなんじゃないのか?―

 俊介の頭の中には美穂との幸せな生活が次々と浮かんできた。

―でも俺は・・・美穂のことは何も知らない。趣味も・・・友人や家族も知らない。好きな食べ物も好きな音楽も何も知らないじゃないか。それなのに・・・この気持ちに浮かれてそんな大切なことを軽々しく決めていいのだろうか?―

 若い頃の俊介なら何も考えずに美穂の気持ちを受け入れただろう。しかし彼は自分の気持ちに素直に従うには年をとりすぎた。その時、俊介に聞き覚えのある、なつかしいメロディーが聞こえてきた。

―ああ・・・この曲は・・・有紀が生まれた頃によく聞いた・・・翔子が好きだった曲だ―

 俊介の酔った頭の中に昔の記憶が少しずつよみがえる。

―そうだ・・・有紀は・・・有紀はどう思うだろう?―

『誰かいい人いないの?』

『いるわけないだろ!』

―ああ・・・そうだ・・・。有紀は、翔子と・・・翔子ともう一度やり直さないかと言ってたっけ・・・。このまま俺が美穂の気持ちを受け入れてしまえば・・・有紀を裏切ることになるんじゃないのか?―

 たのしい夢を見ていた俊介は有紀のことを思い出してほんの少し冷静さを取り戻した。

「酒井君・・・」

 俊介は自分の身体からゆっくりと、そして優しく美穂を離した。

「え?」

 美穂はちょっと不安げに俊介を見上げた。

「ありがとう。君のおかげで俺は今すごく幸せな気持ちだ。2ヶ月前から俺は仕事にも自分の人生にも自信が持てなかった。でも君のおかげで心の中が明るくなった」

「本当?よかった・・・」

 美穂はほんの少し微笑んで俊介を見つめた。

「でも・・・すまないが返事はもう少し待ってくれないか?」

「え?」

「君の気持ちはすごくうれしいが、こんなに酔った頭で返事できるようなことじゃない。しらふになったときにもう一度真剣に考えさせてくれないか。それに・・・もう一つだけ、ちゃんとしておかなくてはいけないことがあるんだ」

「娘さんのことね・・・」

「ああ・・・君に返事をする前に、有紀には・・・自分の気持ちをちゃんと話しておきたい」

「私、待ってる・・・」

 美穂はもう一度俊介の胸に顔をうずめた。

 カルテ11(4/4)に続く

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2008年9月19日 (金)

風の軌跡:カルテ11(2/4)

風の軌跡:カルテ11(2/4)

   *急変*

「工藤さん!」

「工藤さん!大丈夫ですか!」

 先に声をかけた鋭二を押しのけて健太郎が工藤に詰め寄った。工藤は苦しそうにヒュー、ゼー・・・ヒュー、ゼーと音を出して呼吸しているが健太郎が声をかけてもほとんど応答がない。すでに意識レベルが低下しているのだ。

「裕二!大丈夫?ねえ!返事して!」

 ベッドの向こう側から若い女性が必死の形相で工藤の胸を揺さぶっている。しかし患者の目は上を向いている。

「いかん!アンビューだ!」

 当直看護師の朝倉瞳がそばにあったアンビューバックを手渡した。健太郎はそれを掴み取り、工藤の口に当ててバックを握った。

「挿管(そうかん)!チューブは9.0だ!鋭二!家族を外に出してくれ!」

「わかった!」

 鋭二は健太郎の後ろを通って患者の反対側に回った。

「奥さん。今から処置をしますからちょっと出てください」

 鋭二は若い妻の肩に手をおいて冷静に言った。

「なによ!どうなったの?裕二、なんで答えないの?!」

 工藤の妻は取り乱して患者の身体を揺さぶっている。

「喘息の発作です!今から挿管しますから部屋から出ててください!」

 健太郎がアンビューバックを押しながら強めの口調で言った。

「喘息の発作って・・・前の病院では発作が起こってもこんなことなかったのよ!昨日もここへ来たのよ!何で病院に来たのに悪くなるのよ?」

「処置の邪魔になりますから出てください!」

 鋭二が彼女の右手をひっぱって強い口調で言った。

「いやよ!ここにいる!」

 工藤の妻は鋭二の手を振り切って患者に抱きついた。

「あんたがここにいれば処置が遅れるんだ!わからないのか!」

 鋭二は後から無理やり彼女の身体をつかんで廊下に連れ出そうとした。

「なによ!私はこの人の妻なのよ!」

 声を上げて抵抗する彼女を鋭二と瞳が二人がかりで外へ連れだした。

―喘息の重責(じゅうせき)発作だ!とにかく挿管だ!レスピレーターを装着して、それからステロイドの大量投与をしないと・・・。見てろよ、鋭二!一発で決めてやるからな。本の知識と経験の違いを見せてやる!―

 健太郎はそんなことを考えながら挿管チューブと喉頭鏡(こうとうきょう)を手に取るやいなや患者の口の中に喉頭鏡を突っ込んだ。

―なんだ?みえない!声帯が見えないじゃないか!―

 健太郎は必死に左手で喉頭鏡を押し上げて声帯を確認しようとするが目の前が真っ赤でほとんど何も見えない。

―喉頭蓋(こうとうがい)は?・・・喉頭蓋はどこだ?―

「先生!sPO2 60%です!」

 健太郎は一気に血の気が引くのを感じた。呼吸状態は確実に悪くなっている。今自分が挿管できなければ・・・この若い患者は間違いなく死ぬ!

 気管内挿管は今まで20人以上経験してきた。確かに指導医の助けを借りたこともあったがそれでも声帯やその周囲の器官の一部は確認できた。しかしこの患者はそれが全く見えない!なぜだ?!

「健太郎!どうだ!挿管できそうか?」

 鋭二が横から聞いた。

「うるさい!今やってるところだ!黙ってろ!」

 健太郎はそう言い放って必死で声帯を確認しようと患者ののどを覗きこんだ。

   *心臓をつかまれるような・・・*

「今朝はなんとなくあわただしいな」

 出勤して救急外来の近くを通った俊介はそう感じた。

 救急外来のソファには若い女性がうつむいて座っており、救急室の中からはあわただしい雰囲気が伝わってくる。

―ああ・・・きっと急患が入ったんだな・・・―

 俊介は肩を落としてうつむいている女性に声をかけた。

「大丈夫ですか?」

 するとその女性は顔を上げて俊介をにらんだ。

「あなた!この病院の人?!」

「え?は・・・はい。内科部長の風間と申しますが・・・」

 女性の強い語調に俊介はちょっとたじろんで答えた。

「じゃあ裕二を助けてよ!喘息がひどくなって呼んでも答えないの!」

 女性は俊介の上着をつかんで言った。

「喘息・・・ですか?」

「昨日も診てもらったのよ!大丈夫だって言われて帰ったのに!何で悪くなるのよ!」

「ちょっと・・・待ってください。わかりました。私が様子を見てきますから・・・」

 俊介は女性から逃げるようにその場を離れて救急室へと足早に向った。

「裕二にもしものことがあったら許さないから!」

 その言葉を聞いた俊介は後ろから心臓をつかまれるような気持ちで救急室のドアを開けた。

「どうしたんだ?喘息だって?」

「風間先生!」

 俊介を見て朝倉瞳が声を上げた。必死に患者の声帯を確認しようとしていた健太郎が憔悴(しょうすい)しきった目で俊介を見つめた。

「・・・風間先生・・・見えないんです・・・」

 健太郎は弱々しい声を出した。

「貸してみろ!バイタルは?」

 俊介は健太郎から喉頭鏡と挿管チューブを取り上げながら聞いた。

「血圧70。脈拍120。sPO2 56%です!」

 朝倉瞳が叫んだ。その声を聞きながら俊介は喉頭鏡を患者の口の中に突っ込んだ。

―これは・・・―

 目の前が真っ赤で全く視野が取れない。

 俊介は声帯が確認できなくても喉頭蓋や声帯の一部さえ確認できれば挿管できる自信があった。しかしこの患者はそれすらも全く見えないのだ。

「いかん!トラヘルパーを用意しろ!」

 俊介は喉頭鏡を放り投げるとアンビューバックをつかみとり、患者の口に当てながら叫んだ。

―硬い・・・―

 俊介が押すアンビューバックに抵抗がある。気道が狭窄しているのだ。

「高岡先生!経過を教えてくれ!」

 俊介がアンビューバックを押しながら健太郎に聞いた。

「は・・・はい。もともと気管支喘息で俺の外来に通院していた患者さんなんです。昨日の朝からのどの痛みと熱と咳が出て、夕方から喘息がぶり返して7時過ぎに救急受診しました。吸入とアミノフィリンの点滴で少し改善したので帰宅させたんですが・・・・。今朝から喘息の発作が強くなって・・・」

「そうか・・・。喘鳴(ぜんめい)は・・・吸気時(きゅうきじ)に強くなかったか?」

「え?昨日は・・・そんなことは・・・」

 健太郎の答えはしどろもどろになった。

「今朝・・・俺が診たときには・・・吸気時のほうが強かったと思います」

 横にいた鋭二が答えた。

「そうか・・・急性喉頭蓋炎だな」

 俊介はゆっくりうなずいた。

「先生!トラヘルパー準備できました!」

「よし!高岡先生!首の周りを消毒してくれ!」

「はい!」

 健太郎がイソジンで首全体を消毒するや否や俊介はアンビューバックから手を離してトラヘルパーを患者の首に突き刺した。俊介が内筒(ないとう)を抜くとそこから空気が排出された。

 トラヘルパーは緊急の気道確保器具だ。上気道の狭窄が起こったときに気管に直接針を穿刺(せんし)して空気の通り道を作るわけだ。しかし内腔(ないくう)は非常に細いのでトラヘルパーだけで十分な換気量(かんきりょう)を確保できるわけではない。あくまでも非常用の器具にすぎない。

「血圧74!sPO2 70%です!」

 朝倉瞳が声を上げた。

「すぐに気管切開をするぞ!氷室先生!津川先生を呼んでくれ!」

 健太郎はその場にへなへなと座り込んだ。

  *九死に一生*

 午前8時30分、俊介と津川信行の手により気管切開が終了し、患者の状態はようやく安定した。健太郎は医局へもどり、ぐったりとソファにもたれかかっていた。そこへ俊介が顔を出した。

「大変だったな。高岡先生」

「すみません・・・。本当に・・・ありがとうございました、風間先生・・・」

 健太郎はソファから身体を起しながら力なく答えた。

「君は急性喉頭蓋炎を診るのは初めてだな?」

「はい、すみません。聞いたことはあったんですが・・・自分の頭の中には・・・ありませんでした」

 喉頭蓋というのはちょうど声帯の上にあるふたのような器官で食べ物が声帯、気管へ入るのを防ぐ働きをする。ここに炎症が起こるのが急性喉頭蓋炎で普通の上気道炎や肺炎に比べるとかなりまれな疾患である。強い喉の痛みと嚥下(えんげ)障害、発熱(はつねつ)などが起こる。

 喉頭蓋は声帯の真上、すなわち気管の入り口に位置するのでここに炎症が起こって腫脹(しゅちょう)すれば気道を閉塞(へいそく)してしまうことがある。

 人間の身体の中で機能不全になると直ちに命にかかわる臓器が二つある。ひとつは心臓だ。心臓が停止すればその瞬間に死につながる。手術中に太い動脈が切れて大出血を起しても脳の血管が詰まっても即死することはない。しかし心臓が止まればそれはまさしく死を意味する。

 そしてもう一つの死につながる臓器は上気道、すなわち声帯周囲と気管である。鼻が詰まっても口から呼吸ができるし口がふさがれても鼻から呼吸ができる。しかし声帯が閉塞したり気管が閉塞したりすれば呼吸は全くできなくなる。すなわち死に直結するということだ。

「上気道狭窄は吸気時の喘鳴が特徴だ。昨日君が見た時には普通の喘息の音だったんだな?」

「はい。呼気性(こきせい)の喘鳴で、普通の喘息の音だったと思います」

「そうか。多分喉頭蓋の炎症は昨日の朝からあったのかもしれないが、君が夕方診たときにはまだ上気道を閉塞するほどではなかったんだろう。昨日の呼吸困難は君の診断通り、感染による気管支喘息の悪化ということだ」

「・・・はい・・・」

「しかしのどが痛いと言っていたな?昨日口腔(こうくう)内は診たか?」

「はい。朝から食べれないと言っていたんですが、扁桃腺(へんとうせん)も腫(は)れていなくて、咽頭粘膜が少し赤い程度でした」

「あとから考えるとそれが急性喉頭蓋炎を疑わせる所見だな。喉の痛みが強い割には口腔内の所見が軽い。すなわちその奥、喉頭(こうとう)に炎症の主体があるってことだ。氷室先生が今朝診たときには吸気時の喘鳴があると言ってたな?じゃあ、この半日のうちに喉頭蓋の炎症が強くなって上気道を閉塞したんだ。まあ、気道確保さえできていれば急性喉頭蓋炎は決して怖い病気ではないからな。抗生物質を投与していれば1週間くらいでよくなるはずだ」

(注:気管切開の穴はチューブを抜けば徐々にふさがる)

「おれが昨日の時点で気づいていればこんなにあわてなくてもすんだはずです・・・」

「まあ患者は落ち着いたんだからそんなに落ち込むな。それに吸気時の喘鳴がなかったら急性喉頭蓋炎を疑うのは俺でも無理だよ」

 俊介は健太郎の肩をぽんとたたいて外来診察に向った。

    *健太郎と鋭二*

 俊介は外来に向いながら工藤裕二の妻の言葉を思い出していた。『裕二に何かあったら許さないから・・・』この患者は幸い処置がうまくいき、1週間もすれば退院できるだろう。しかし紙一重のところで冷たくなっていたかもしれないのだ。

 ほんの2日前まで元気に仕事をしていた一人の若い患者が命を落としていたかもしれない。当然、患者本人や家族にとっては大変不幸な結果になる。しかし不幸な結果は患者側だけでなく医療側にもとっても同じだ。医療訴訟はまぬがれないし、当然前の日に喉頭蓋炎を見逃した健太郎に責任がかかることになり、それはすなわち内科部長である俊介の責任ということになる。

 今までの俊介は危ない状態になった患者を救命できたときには充実感を味わうことができ、そしてそのことが自分の活力になっていた。しかし最近の俊介はすべてがネガティブ思考となり、悪いことばかりを考えるようになってしまった。今の俊介の頭の中には、また記者会見で深々と頭を下げ、世間から罵倒(ばとう)される自分の姿が浮かんできた。 

 今日の件は健太郎が急性喉頭蓋炎を診断できなかったことが原因だ。普通に考えれば健太郎にその責任があるわけで、健太郎が急性喉頭蓋炎を診断する能力を持ち、注意して患者を診察していれば問題は起こらなかったことになる。そして内科部長の俊介の責任はそのような疾患を自分の部下に啓蒙(けいもう)して間違いが起こらなくするように努力することだろう。

 しかし物事はそれほど単純ではない。もちろん健太郎が能力の劣ったほとんど勉強もしない3年目の医師ならば話は簡単である。しかし健太郎は俊介が見る限り標準以上の能力を持ち、勤勉で熱心な医師である。

 喘息の治療を受けている患者が発熱や咽頭痛と喘鳴を伴う呼吸困難で夜間受診した。健太郎は急性扁桃腺炎などの細菌感染を除外するために口腔内を診察し、さらに胸部レントゲンで異常がないことも確認している。その上で「ウイルス感染による急性上気道炎に伴う喘息発作の悪化」と診断し、気管支拡張剤の点滴を行い1日分の解熱剤(げねつざい)を処方して翌日の外来受診を指示した。

 結果としてその患者は細菌感染による急性喉頭蓋炎で翌日早朝に急変してしまったわけだ。幸い緊急処置がうまくいって救命することができたが、ほんのちょっとタイミングが悪ければ命を失っていただろう。

 これを避けるためには昨日のうちに急性喉頭蓋炎と診断してあらかじめ気管切開などの気道確保の処置を行わなくてはならなかったことになる。しかし吸気時の喘鳴が明らかとなった今朝の状態ならまだしも、昨晩の状態で急性喉頭蓋炎と診断できる3年目の医師がどれだけいるだろう?いや、もっと上級の医師でも、それどころか俊介でさえ同じような判断をしたかもしれないのだ。

 それくらい工藤裕二を的確に診断することは難しいが世間の人々はそうは考えない。3年目の医師が誤診した結果、若い患者が死亡した。そのことだけが表に出て健太郎と俊介は非難を浴びることになる。

 通常の職業では「普通の能力を持った人間が普通に努力して仕事をすれば」まず批判されることはないだろう。ところが医師にはそんな甘えは許されず、つねに完全な診療を行うことが要求される。それが社会の常識で、だからこそ医師には安定した収入と社会的に高い地位が与えられているわけだ。

 しかし現実の医療現場の状況は一般社会の人たちが考える状況とはかなりかけ離れた状態にある。日本の医療レベルは諸外国と比べるとかなりの高水準であるが、日本の一般社会の要求はそれをはるかに超えたところにある。

 最近の俊介はこのギャップを痛切に感じていた。俊介や他の医療従事者がどんなに努力したとしても社会の要求を完全に満たすことはとうてい無理なことなのだ。

―この責任と重圧に自分はいつまで耐えていけるのだろうか?―

 今日の患者のように重篤(じゅうとく)な結末となりうる疾患は決して急性喉頭蓋炎だけではなく、それこそ何十何百もの疾患がある。だから今日のような出来事は俊介が今の仕事を続けている限りこれからも日常茶飯事(さはんじ)におこりうることなのだ。俊介は暗い気持ちで外来診察室の椅子に座り、外来診察を始める準備をした。

―それにしても・・・―

 俊介は氷室のことを考えていた。氷室鋭二が内科研修に来て2週間になるが俊介は病棟や外来や当直で彼の診療にかかわってきた。その間に俊介は氷室鋭二が極めて論理的な、優れた思考能力を持っているということをあらためて感じていた。

 たとえば診断をつけるために医師は頭の中に色々な疾患を思い浮かべて鑑別診断を行い、疾患を絞っていく。たとえば腹痛の患者を診た時には胃潰瘍(かいよう)や胆石や急性虫垂炎などの疾患を頭に浮かべて必要な検査を行い、その結果を見ながらまた次の検査を行い、徐々に疾患を絞り込んでいくわけだ。能力の劣った医師は見当違いな無駄な検査も多くなり、的確な診断にいたるまでには時間がかかるし手間もかかる。

 氷室は頭の中で考えられる疾患をまず系統だてて分類し、最小限の手間で診断をつけようとする。しかも検査の結果を待ってから次を考えるのではなく、結果が出る前に予想される色々な結果に対する次のアプローチを考えているので指示もスムーズだ。

 健太郎はどちらかと言うと努力型で、考えられる疾患を全部羅列(られつ)し、一つ一つ丁寧につぶしていく。そして一つの検査結果を待ってじっくり考えてから次のステップにすすむ。当然時間がかかるし、指示が遅れてナースから文句を言われることも多くなるわけだ。

 もちろんどちらにも長所短所がありそれだけでどちらが優れているということはできないが、指導する立場から見ていると健太郎のようなタイプは安心感があり、氷室のようなタイプは頼もしい感じがする。

―ただ・・・彼には・・・ひとつ問題があるが・・・―

 俊介はそんなことを考えながらマイクで最初の患者を呼び込んだ。

    *沙紀と瞳*

 その日の夜、仕事を終えた健太郎は沙紀のアパートに来ていた。

「そう・・・大変だったね、健太郎」

 沙紀が食事のあとかたずけをしながら健太郎に言った。

「ああ・・・今日は参ったよ」

 健太郎が座椅子にもたれかかって力なく答えた。

「ところで・・・氷室先生、元気にしてる?」

 洗いものを終えた沙紀が台所から出てきて健太郎に聞いた。

「氷室?」

 健太郎はちょっと顔をこわばらせて聞いた。

「今、内科研修中でしょ?」

「ああ・・・そうだけど・・・」

「彼ね、外科病棟で結構人気あったのよ」

「そうか・・・」

 健太郎が不機嫌そうな声で答えた。

「うん。だって・・・かっこいいし、指示も早いし、研修医のわりに手つきもスムーズで・・・それにどことなく影があって魅力的って言っているナースが何人もいたのよ。でも私は・・・」

「だったらあいつと付き合ったらいいだろう!」

 沙紀の言葉をさえぎるようにして健太郎は大声を出した。

「なによ・・・。なに怒ってるのよ」

「うるさい!今日はもう帰る!」

 そう言いながら健太郎は立ち上がると足早に玄関に向い、乱暴にドアを開けて寒空の中を出て行った。

 自分のアパートへ帰ってベッドの中で布団をかぶった健太郎は悔しさでいっぱいだった。

 確かに今日の工藤裕二が生きるか死ぬかの状態になったのは前の日に自分が急性喉頭蓋炎を診断できなかったことが原因だ。氷室は最終診断はできないまでも通常の喘息ではないことを判断し、自分に伝えようとした。

 今の健太郎のやるせない気持ちは、氷室に対してよりも変なプライドから意地になって氷室の言葉を聞かなかった自分に対する怒りの気持ちだ。悪かったのは自分だ。そんなことはわかっている。でもせめて沙紀にだけは自分のことを理解してほしかった。傷ついた自分の心をいたわってほしかった。

 そんな気持ちから健太郎は仕事が終わるや否やまっすぐに沙紀のアパートへ向ったのだ。しかしその沙紀までが自分よりも氷室のことを評価していることがどうしようもなく悔しかった。

   *暗い気持ち*

 翌日の健太郎の業務は外来診察だった。彼は昨日の患者のことや、沙紀とのトラブルのこともあり、朝からずっと暗い気持ちで外来診察を行っていた。今日は再診患者を診察しているわけだからいつもと同じ仕事をしているはずだ。それなのに健太郎の気持ちは晴れず、いつも感じる充実感がない。一人一人の患者への説明もおっくうであった。

 健太郎は気持ちがすぐに態度に出る。患者もなんとなくそれがわかるのか、あまり質問もしないでそそくさと診察室を出て行く。

―ああ・・・今日は・・・全然気分が乗らない―

 健太郎はため息をつきながらカルテを書いていた。幸い今日は患者が少なく、11時過ぎには患者が途切れた。健太郎は椅子にもたれかかってぼんやりと目の前のシャーカステンを見つめていた。すると今日の健太郎の診察の介助をしていた朝倉瞳がちょっととまどいながら声をかけた。

「あの・・・高岡先生。昨日の患者さん、いかがですか?」

「え?昨日?ああ・・・工藤さんか?大分よくなったよ。今朝は熱も下がって元気そうにしていたよ。気管切開しているから声は出ないけどな、笑顔で挨拶してくれたぜ」

「そうですか・・・よかった」

 瞳はちょっと微笑みながら診察の終わった患者のカルテを整理していた。

「・・・朝倉君・・・」

「え?」

「昨日は氷室と当直だっただろ?・・・あいつのこと・・・どう思う?」

 健太郎は瞳の顔を見ずに半ばやけくそ気味に聞いた。

「え?どうって・・・氷室先生ですか?あの・・・かっこいいと思いますけど・・・。仕事もできるし・・・」

―こいつもか・・・―

 瞳の言葉を聞いて健太郎はさらに暗い気分になった。

―ああ・・・聞くんじゃなかった―

「でも、なんとなく冷たい感じがして・・・。私はちょっと・・・」

「え?」

「なんか・・・考えていることがよくわからないっていうか、私、あまり頭の回転が速くないので氷室先生の言うことがよく理解できないんです」

「そ・・・そんなもんか・・・」

 健太郎はちょっとほっとしながら瞳の言葉を聞いていた。

「私はどちらかって言うと、高・・・・」

 言葉の途中で瞳はあわてて口をつぐんだ。

「え?」

「な・・・なんでもないです!次の人のカルテもらってきまーす!」

 瞳はあわてて診察室を飛び出していった。

―ひょっとして・・・俺のことか?やっぱりあの子は俺のことを・・・―

 健太郎はなんとなくウキウキした気持ちになってマウスを動かしてコンピュータの画面を操作していた。

 それから先の健太郎の外来診察はうって変わって気合が入ったものになった。一人一人に笑顔で接し、説明も丁寧で患者の質問にもきちんと答えていた。

―あー・・・これがいつもの俺だ。それにしても・・・なんでこんなにさっきと違うんだ?―

 まわりの状況は何も変わっていない。変わったのは健太郎の気持ちだけだ。自分の気持ちの持ち方が変わっただけで同じ環境でも幸せになったり不幸になったりする。

―不思議なもんだな・・・―

 健太郎はそんなことを考えながら朝倉瞳をチラッと横目で見ながら仕事を進めていった。

「鋭二・・・昨日は悪かったな」

 外来が終わって医局で氷室鋭二を見つけた健太郎はばつが悪そうに言った。

「ああ・・・。工藤さんどうだ?」

 鋭二は右手をちょっと上げて健太郎に挨拶しながら聞いた。

「落ち着いているよ。熱も下がったしな、呼吸も楽そうだ。4-5日で気管切開のチューブも抜けそうだ」

 健太郎はソファに座りながら言った。

「そうか、よかったな」

 健太郎は熱くなるのも早いがさめるのも早い。誰かとけんかしてカッとなっても気持ちが落ち着けば何のわだかまりもなくもとのように付き合うことができるし、自分が悪いと思ったら素直に謝ることができる。周りの人間もそんな健太郎の性格をよくわかっているので健太郎の態度を根に持つこともない。

    *告白*

 ピンポーン・・・

「はーい・・・」

 夜10時過ぎ、チャイムの音を聞いた沙紀は玄関のドアを開けた。

「や・・・やあ・・・」

 そこには健太郎がきまり悪そうな顔で立っていた。

「どうしたの?こんな時間に・・・」

「いや・・・昨日のことを・・・謝ろうと思ってな・・・」

 健太郎が下を向きながら小声で言った。

「昨日のこと?」

「ああ・・・。わ・・・悪かったな。怒って帰ったりして・・・」

「ああ、そんなこと。健太郎が急に機嫌悪くなるのは今に始まったことじゃないからなんとも思ってないわよ。それよりも入って・・・」

 沙紀はあっけらかんとした声でドアを大きく開けて健太郎の手を引っ張った。

「い・・いや・・・。今日は謝りに来ただけだから・・・。それにもう遅いし・・・」

「何言ってるのよ。早く入ってよ」

 健太郎は沙紀に強引に引っ張られて部屋の中に入った。

「そこに座って」

 健太郎は沙紀に言われるままにすごすごとテーブルの前に座った。

「本当は昨日相談したかったんだけど・・・。今度の親睦会のこと」

「親睦会?」

「やだ、忘れたの?風間先生と美穂さんをくっつけるって・・・」

「え?ああ・・・ああ・・・そうだった・・・。でも、美穂さんがなんて言うか・・・」

「それなんだけど・・・美穂さん、最近前向きなのよ」

「え?本当か?」

 健太郎はびっくりした顔で身体を起して沙紀を見つめた。

「最近の風間先生、元気ないでしょ?」

「ああ・・・。十二指腸潰瘍(かいよう)になってからいつもくらい顔してるよな。もうそろそろ治ってもいいはずなんだけど」

「だって・・・50近くになっても一人暮らししてるのがね、よくないと思うのよ。病院で毎日遅くまで仕事して、疲れて帰っても誰もいなくて、食事の支度(じたく)や洗濯も全部自分でしなくちゃいけないでしょ?」

「まあ・・・そうだよな」

 健太郎は自分が俊介の年齢になった時のことを考えてみた。確かに今は若いからつらいことがあっても勢いで乗り切れる。しかし20年後の自分にそれができるだろうか?

「美穂さんはね、風間先生のために何か自分ができることをしてあげたいって思っているのよ」

「そうか・・・。元気のない風間先生の身の回りのことをしてあげたり精神的に支えてあげたりしたいってことか・・・。それで思い切って告白を・・・」

「だから・・・私たちがちゃんとセッティングしてあげないと・・・」

美穂が身を乗り出して健太郎に近づいた。

 カルテ1(3/4)に続く

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2008年9月18日 (木)

風の軌跡:カルテ11(1/4)

風の軌跡ー風間俊介診療録ー:カルテ11(1/4)

「天国と地獄」

 病気のため1年遅れで研修を行っている健太郎の同期生、氷室鋭二(ひむろえいじ)。俊介は彼の臨床医としてのすぐれた才能を認めていた。そんなある日、俊介の人生に大きな転機が・・・。

    *鋭二*

「よろしくな、健太郎」

「ああ。久しぶりだな、鋭二。身体の方は大丈夫なのか?」

 健太郎は大学時代の同期生の氷室鋭二と固く握手を交わした。

「ああ、もう全く大丈夫だ。お前は相変わらず頑丈そうだな」

 鋭二は笑いながら健太郎の胸を軽くこぶしでたたいた。

 氷室鋭二は健太郎と一緒に2年半前にS市市民病院で臨床研修を開始した。しかし1年目の12月、多忙がたたって肺結核を発症し、6ヶ月間の結核病棟での入院生活を余儀なくされた。そしてその後、半年間自宅療養を行い、1年遅れで再び研修に戻ったのだ。だからすでに前期研修を終えて内科医として後期研修をしている3年目の健太郎から1年遅れて、前期研修の2年目ということになる。

 彼は復帰してから外科、麻酔科、小児科などをローテートし、この11月中旬から4ヶ月の内科臨床研修を行うことになっている。がっしりした体つきの健太郎と違って鋭二はやせ型で一見ひ弱な印象も受けるが、学生時代はバスケットボール部のエースとして活躍した。メガネの奥にきらりと輝く涼しい瞳は一見冷たい印象も与えるが、精悍な顔立ちはいかにも秀才タイプで学生時代の成績もトップクラスだった。

「ところで鋭二は後期研修の行き先は決めたのか?」

「ああ、俺もこの病院の内科にしようと思っているんだ。なんとなく自分に合っているような気がしてな。だからお前は俺の先輩になるってことだ。よろしく頼むぜ」

 鋭二が笑いながら健太郎に言った。

「そうか!内科にするのか!まかしとけって!わからないことがあったら何でも先輩に聞いてくれって」

 健太郎はうれしそうに鋭二の肩をたたいた。

    *名医の予感*

「発熱を主訴に来院した5歳の男児です。夕方から39度の熱が出て仕事帰りの母親が連れてきました」

 夜8時過ぎ、氷室鋭二は医局で俊介に時間外受診患者の報告をしていた。今日は内科をローテートして初めての俊介との当直である。

 2年目の研修医は一人で診療を完結させることはない。必ず指導医の確認を受けなくては患者を帰すことはできない。彼は先ほど外来受診した幼児の診察を終え、その内容を俊介に報告していた。

「既往歴には特記すべきものはありません。昨日朝から37.5度の発熱があり、幼稚園を休ませて市販の解熱剤(げねつざい)で祖母が様子を見ていましたが本日夕方から39度に上昇しました。咳と鼻汁(びじゅう)を認めますが頭痛や腹痛、下痢、嘔吐(おうと)はありません」

「身体所見は、体温39.3度。脈拍110。項部(こうぶ)硬直なし。眼瞼(がんけん)結膜(けつまく)の充血および咽頭の発赤(ほっせき)を認めます。扁桃腺(へんとうせん)は軽度に腫大(しゅだい)、アズキ大(だい)の頚部リンパ節を数個、両側に認めます。肺野(はいや)にラ音(おん)なし。心雑音なし。腹部圧痛(あっつう)なし。ソケイ部にヘルニアありません。四肢の浮腫(ふしゅ)や出血斑(しゅっけつはん)、皮疹(ひしん)もありません。患児(かんじ)の周囲に発熱しているものはいないようです。インフルエンザの迅速(じんそく)検査を施行しましたが陰性でした」

 鋭二はカルテを見ないで流暢(りゅうちょう)な言葉で説明していった。俊介はうなずきながら聞いていた。

「それで?診断は?」

「はい。ウイルス感染による上気道炎だと思います」

 鋭二が俊介をまっすぐに見て言った。

「つまり風邪(かぜ)ってことだな?鑑別診断は?」

「小児の発熱をきたす疾患でもっとも重要なものは髄膜炎(ずいまくえん)ですが、この患治の場合、頭痛や嘔吐がなく、項部硬直もないことからまず否定的です。急性虫垂炎も疑い腹部の触診(しょくしん)を丁寧に行いましたが圧痛点(あっつうてん)は見られませんでした」

「ウイルス感染と診断する前に細菌感染を除外しなくてはなりませんが中耳炎、扁桃腺炎、肺炎は身体所見から積極的に疑わせるものはありません。上気道症状が中心なので膀胱炎などの尿路感染症でもなさそうです。ただしマイコプラズマなどによる異型(いけい)肺炎は完全には否定できません。風疹(ふうしん)や水痘(すいとう)は発熱2日目の現在、皮疹がないことから否定的です。川崎病は積極的に疑わせる所見はありませんが現時点では完全には否定できません」

 鋭二の明瞭な説明を俊介は感心して聞いていた。

「それで風間先生、口腔内(こうくうない)の診察をお願いしたいのですが?」

「口腔内?」

「はい。風疹と水痘は現時点で否定的だと思うのですが、麻疹は一度解熱(げねつ)したあと2回目の発熱と同時に皮疹が出るのでまだ否定できません。口腔内のコプリック斑がないことは確認しましたが、俺はコプリック斑は写真でしか見たことがありません。先生の目で確かめていただきたいのです」

―こいつは・・・すばらしいな・・・―

「わかった、一緒に外来へ行こう」

 俊介はゆっくりと立ち上がり、鋭二のあとについて外来へと向った。

「ところで氷室先生、胸部レントゲンを撮(と)らず、インフルエンザの検査をした理由はなんだ?まだインフルエンザのシーズンにはちょっと早いが・・・。確率的にはインフルエンザよりも異型肺炎のほうが高いように思うが・・・」

「時間外の今、完全な診断をつける必要はないと思います。肺炎は完全には否定できませんが慢性疾患のない5歳の小児の場合、半日診断が遅れても手遅れにはなりません。必要があれば明日小児科外来で検査すればいいと思います。しかしインフルエンザの場合はタミフルを処方するオプションがあります。タミフルは発症から48時間以内の投与が推奨されています。すでに最初の発熱から35時間が経過しているので明日まで待った場合タミフル投与が無効になる可能性があります。それにインフルエンザの場合は今晩のうちに脳症(のうしょう)を発症して急激に悪化する可能性がありますので時間外でも検査が必要と考えました」

―こいつは・・・本当に2年目の研修医なのか?―

 俊介は鋭二の言葉に驚嘆していた。

 鋭二の思考は極めて論理的だ。疾患を片っ端から羅列(られつ)するのではなく系統だてて考え、しかもそれぞれの疾患の時間的推移を考慮して3次元的にとらえている。そして重要な疾患を確実に除外し、今必要でしかも十分なことだけを行おうとする。要するに最小限の手間で最大のoutputを、しかも少ないリスクで得ようとしているのだ。

―こいつは・・・とんでもない名医になるかもしれない―

 俊介は鋭二の後姿を見ながらそう思った。

    *誘い*

「ねえ高岡先生」

「え?」

 2週間後の夜7時過ぎ、病棟でカルテを書いていた健太郎は病棟ナースの高橋さやかの声に振り向いた。

「今度研修に来た氷室先生って高岡先生の同級生だったんでしょ?」

「ああ・・・。あいつ病気して1年間休んじまったけどな。学生時代から仲良くてよく飲みにいったぜ。なんだ?」

「じゃあ今度、一緒に食事に誘ってもらえないかな?」

「ああ?鋭二と一緒に食事に行くって?なんで?」

 健太郎は無愛想(ぶあいそう)な声で聞いた。

「なんでって・・・ちょっとすてきじゃない。理知的でかっこよくて。それに・・・ちょっと影があるって言うか・・・」

 高橋さやかはうれしそうに答えた。

「そんなもんか?」

―昔からあいつはもてたよな。合コンに行くといつもきれいな子はあいつのそばにいったような気がするぜ。でも俺だって結構いいセンいってたんだけどな―

「ダメ?」

「わかったよ。じゃあ今度時間が取れるときにそっちも誰か誘って4人で一緒に飯でも食いに行くか?」

「本当?さすが高岡先生!先生の指示受け何時でもしちゃうから」

「ああ・・・。じゃあ早速で悪いけど川崎さんの明日の採血頼んでいいか?」

 健太郎はカルテを手渡しながら言った。

「了解しました!」

 高橋さやかはうれしそうにカルテを受け取るとそそくさと仕事にもどって行った。その時、健太郎のPHSが鳴った。

「はい、高岡です。え?工藤さんが・・・?また発作(ほっさ)が・・・わかりました。すぐ行きますから」

 健太郎の外来に通院している喘息(ぜんそく)の患者が発作を起して救急外来を受診したようだ。

 普通18時以降の外来診療は当直医が責任を持つわけだが早い時間のうちは当直のナースは直接主治医に連絡することもある。患者の病態をよく知っている主治医のほうがスムースな診療ができる事が多いからだ。

    *喘息悪化*

「いつから発作が出ているんですか?」

「昨日から熱があって咳が出て風邪かなって思ってたんです。やばいかなーって思っていたら案の定、夕方からまたぜーぜーしてきました。さっき発作用の吸入薬(きゅうにゅうやく)を使ってちょっと楽にはなったんですけど・・・。それにのどが痛くって飯も食えないんです。今日は朝からスポーツ飲料水ばっかり飲んでるんですよ」

 工藤裕二は25歳の営業マンだ。小さいときから喘息に悩まされ、今も1ヶ月に一回くらい軽い発作がおこるので予防薬を内服し、吸入ステロイドを毎日2回常用(じょうよう)している。3ヶ月前に当地に転勤してS市市民病院を受診し、健太郎の外来に通院している。健太郎はポケットから聴診器を取り出して、苦しそうに話をする工藤の胸を聴診した。

―やっぱり喘鳴(ぜんめい)が聞こえるな。気道感染をおこして喘息の発作がでてきたんだ―

「sPO2は?」

 健太郎はそばにいた当直看護師の朝倉瞳に聞いた。

「えっと・・・93%です」

「ちょっと低いな。のどが痛いって言ってましたね。工藤さん、ちょっとのどを見せてもらえますか?」

 健太郎は机の上にあった舌圧子(ぜつあっし)を手にとるとペンライトで工藤の口の中を照らしながら観察した。

―ちょっと咽頭(いんとう)が赤いな。でも扁桃腺も腫(は)れていないし、炎症はそれほどきつくなさそうだな。あとは肺炎のチェックをしておかないと・・・―

「工藤さん、扁桃腺は大丈夫です。あと、念のためレントゲンを撮って肺炎がないか確認しておきましょう」

「お願いします。でも扁桃腺、腫れてないですか?こんなに痛くて飯も食えないんですけど・・・」

 工藤はちょっと首をかしげて朝倉瞳に連れられてレントゲン室へ向った。

 健太郎は出来上がったレントゲンフィルムをじっとにらみながら工藤に言った。

「大丈夫ですね。肺炎もなさそうです。多分、上気道炎。つまり風邪でしょう。ウイルス感染で気道が炎症を起して喘息が悪化したんです。いまから吸入と点滴をしましょう。それから解熱剤(げねつざい)と気管支拡張剤、それとうがい薬を出しておきますから・・・。工藤さんは薬のアレルギーはなかったですよね?」

 喘息患者の中には解熱剤の投与により発作が悪化する患者がいる。これをアスピリン喘息といい、喘息患者の診療に当たる時は常に頭に考えておかなくてはならない疾患である。

「はい。薬を飲んで蕁麻疹(じんましん)や喘息(ぜんそく)が出たことはないと思います」

 熱があると抗生物質を希望する患者も多いが、抗生物質は細菌感染には有効であるがウイルス感染には全く効果がない。むしろアレルギー反応によって喘息を悪化させたり薬疹(やくしん)を発症(はっしょう)するなど有害なことも多く、医師はなんらかの細菌感染の徴候(ちょうこう)がない限り抗生物質は処方しないように勧告されている。

 健太郎は細菌感染症である肺炎や急性扁桃腺炎などを除外し、工藤裕二は多分ウイルス感染症であろうと診断したのだ。

「明日もう一度外来受診できますか?すみませんが夜間は1日分しか処方できない決まりなんです」

「はい。いつものことなので3日ほど仕事は休みをもらいましたから・・・。すみませんがよろしくお願いします」

 健太郎はカルテに処方を書いた後、吸入薬と点滴の指示を出して救急外来を後にした。

    *翌日早朝*

 12月に入り、朝はかなり冷え込むようになった。

  翌日朝7時頃、健太郎は医局でコートと手袋を脱いで白衣に着替えようとしていた。そこへ昨日当直だった氷室鋭二がやってきた。もちろん彼は2年目の研修医なのでひとりで当直を行うことはなく、他の内科医師が一緒に勤務している。昨日は消化器内科の長谷川聡と一緒の当直勤務であった。

「やあ、鋭二、当直だったのか?」

「おはよう。早いな健太郎」

「ああ、今日はちょっと調べたいことがあって早起きしたんだ。外は寒いぜ。何か面白い患者が来たか?」

「そのことなんだが、お前が昨日の夜診察した若い喘息の患者な・・・」

「喘息の患者?ああ・・・工藤さんのことか?」

 健太郎は白衣のボタンを止めながら言った。

「そうだ。6時前に息がつらいって言ってまた来たんだ」

「え?また喘息の発作か?」

「多分な。長谷川先生と一緒に診察して今、ステロイドとアミノフィリンを点滴しているんだけど・・・」

「そうか悪かったな。昨日吸入と点滴して薬出したからおさまると思っていたんだが・・・」

「でもな・・・あの患者、なんかおかしいぞ」

「おかしい?」

「ああ・・・普通の喘息じゃないぜ」

「どういうことだ?」

「喘息っていうのは下気道(かきどう)の狭窄が主体だろう?だから呼気時(こきじ)に喘鳴(ぜんめい)が出るはずだよな。でも今聴診すると吸気時(きゅうきじ)にも喘鳴があるんだ。それに喉(のど)をすごく痛がるんだ」

「それは・・・上気道炎が合併していればそういうことがあってもいいんじゃないのか?それに昨日は普通の喘息の音だったぜ。喉も診(み)たけどそれほど炎症は強くなかったはずだぞ」

 健太郎はちょっと不機嫌そうに答えた。

「ああ・・・俺も喉を診たけどそれほどの炎症所見はなかった。でもな、一度呼吸器の津川先生に診てもらったほうがいいんじゃないのか?」

「風邪をひいた喘息患者くらい俺だって診れるよ!」

 健太郎はちょっと声を荒くして答えた。

「だからただの喘息じゃないんだって!俺はこの前小児科を回ったばかりだけどな、クループとよく似た音なんだ」

「クループって子供の病気じゃないか!あの患者は25歳なんだぞ!25歳のクループなんて聞いたことないぞ!」

「何もクループだなんて言ってない。それと同じような上気道狭窄の病態じゃないのかってことだ」

 鋭二もむっとして言い返した。

「俺はこの4月から内科医として勤務しているんだ!喘息の患者は何人も診てきた。津川先生に診てもらうかどうかは俺が判断する。あとは俺に任せてくれ!」

 健太郎と鋭二は大学時代は同級生でこの病院で研修を始めたのも同じだ。しかし鋭二が1年間休職したために健太郎は1年先輩になった。そして彼は後期研修で内科を専攻し、色々な経験をつんでそれなりの修羅場(しゅらば)もくぐってきた。健太郎には今は鋭二よりも自分のほうがはるかに経験をつんだ医師であり、自分の判断のほうが正しいのだという自負(じふ)がある。そんな鋭二に自分の診療方針をとやかく言われたくはない。

「確かに俺は1年間休職してお前より臨床経験は少ない。しかし俺も休んでいた時にただ寝ていたわけじゃないぞ。毎日毎日色々な本を読んだ。少しでもお前たちに遅れをとりたくないと思ってな。今朝のあの患者の喘鳴は明らかに吸気時に強い。これが上気道狭窄の症状だってことはどの教科書にも書いてある!あの患者は上気道炎と喘息以外の病気が隠れているはずだ!」

「お前はまだ2年目の研修医だろ?だったら俺の・・・」

 その時、鋭二のPHSが鳴った。

「はい、氷室です。え?呼吸困難が?sPO2は? ・・・84%だって?すぐ行きます!」

 PHSをポケットにしまいながら鋭二は健太郎に向かって言った。

「こんな事を議論している場合じゃない!工藤さんの呼吸困難が強くなって意識レベルが低下している」

 そう言いながら鋭二はすぐ救急外来へと向った。健太郎もあわててその後に続いた。

 カルテ11(2/4)に続く

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2008年9月16日 (火)

風の軌跡:カルテ10(4/4)

風の軌跡:カルテ10(4/4)

   *瞳*

 その日、当直の健太郎は救急外来に顔を出した。

「お・・・お疲れ様です!きょ、今日は・・・よろしくお願いします!」

 健太郎を見た若い看護師が丁寧に頭を下げて挨拶した。

「えっと・・・君は・・・」

「新人の朝倉瞳です!」

 朝倉瞳は大柄な身体に似合わない少女のようなあどけない瞳で健太郎を見つめた。

―ああ・・・新人のナースなのか。そういえばこんな子がいたような・・・。今まで気づかなかったけど、なかなかかわいいじゃないか・・・―

「今日はご迷惑お掛けするかもしれませんがよろしくお願いします!」

 そう言いながらもう一度頭を深々と下げた朝倉瞳のお尻は勢い余って救急カートにドンとぶつかり、上に乗っていた挿管(そうかん)器具や注射器を落としてしまった。

「きゃー!!!す・・・すみません・・・・」

 瞳はあわてて散らばった物品をかたずけはじめた。

―あーあ・・・元気だけどちょっとおっちょこちょいって感じか?―

 健太郎は笑いをこらえながら注射器や針を拾うのを手伝った。

「す・・・すみません!私自分でやりますから!」

 瞳は顔を真っ赤にして健太郎の顔を恥ずかしそうに見つめた。

―あー・・・かわいいな・・・。若い子って・・・いいよな・・・―

 南川沙紀は、きりっとした大きな瞳と堀の深い顔立ち、どちらかと言うときつめの印象を受ける美人だ。しかし朝倉瞳は沙紀と同じように大きな瞳だがちょっとたれ目の丸顔で笑顔が人懐こい。

―性格も外見に現れるのかもな・・・―

 健太郎はそんなことを考えながら必死で注射器を拾っている瞳を見つめていた。

「あら、大変」

 そこへ酒井美穂がやってきた。

「すみません、酒井先輩!またやっちゃいました!」

 瞳は申し訳なさそうに酒井美穂を下から見上げた。

「あれ?美穂さんも今日泊まりですか?よろしくお願いします」

 健太郎は美穂を見てぺこんと頭を下げた。

「よろしく、高岡先生。この子まだ新人だから面倒見てあげてね」

 微笑みながら物品のかたづけを手伝う美穂に健太郎はにっこり笑ってもう一度頭を下げた。

    *小児発熱*

 夜10時過ぎ、健太郎は3歳の男の子を診察していた。一昨日から発熱し、近くの医院で投薬されたのだが今晩になって熱が39度を超えてきたので心配になって母親が連れてきたのだ。男の子はきげんが悪く鼻をぐずぐずさせ、健太郎の顔を見るやいなや泣き出してしまった。

「あー・・・ごめんね・・・」

 健太郎はそう言いながら男の子の胸を聴診した。

 泣き叫ぶ子供の聴診は小児科医でも難しい。発熱がある時は呼吸音の中に異常音が聞こえないかどうかを確認する。異常音が聞こえれば肺炎や胸膜炎などの疾患の可能性があることになる。もちろん患児(かんじ)が泣いている時には呼吸音など聞こえるはずがない。ほんのわずかな時間、泣き声がやんで呼吸をするその瞬間に注意を集中して音を聞くわけだ。

 聴診を終えた健太郎は診察ベッドの上に男の子を寝かせておなかを診察し、首の周りを診察し、最後に母親に抱っこさせて口の中を診察しようとしていた。

「はい、ごめんね・・・。もう一回泣いてもらわないといけないねー」

 健太郎は舌圧子(ぜつあっし)と呼ばれる薄い木の棒を男の子の口の中に突っ込んでほんの短い時間観察した。

 子供が発熱する病気の多くはウイルス感染が原因の、いわゆる『風邪』であり、解熱(げねつ)剤などの対症(たいしょう)療法で改善することが多い。だが簡単にそう決め付けてはいけない。中耳炎や扁桃腺炎(へんとうせんえん)、肺炎、膀胱炎(ぼうこうえん)などの細菌感染の可能性もあり、これらの疾患の治療には抗生物質が必要となることが多い。また、特殊なウイルス性疾患として麻疹や水痘、風疹なども子供に多い病気であるがこれらは皮疹(ひしん)が出るので鑑別しやすい。

 重篤(じゅうとく)な病気に髄膜炎もある。そして忘れてならないのが虫垂炎、いわゆる盲腸である。虫垂炎の患児は腹痛がはっきりせず、発熱だけで来院することもままあるのだ。研修医の時に小児科を4ヶ月間ローテートしていた健太郎は、これらの病気を頭において患児をしっかりと診察していった。

―扁桃腺は腫(は)れていないし肺の音も異常ないな。皮疹もないから麻疹や水痘でもないだろう。咳や鼻水がひどいし首のリンパ節が少し腫れている。多分ウイルス感染による発熱だな。でも念には念を入れないと・・・。また医事課長に過剰診療だって言われるかもしれないけどな・・・―

「お母さん、今の診察では特に問題となる所見はないのですが念のため胸のレントゲンをとりたいと思います。それから検尿とインフルエンザの検査もしておきましょう」

「お願いします」

 母親は深々と頭を下げた。

 健太郎は出来上がったレントゲンフィルムをじっと見つめていた。

―・・・問題はないな。インフルエンザキットも陰性か・・・尿検査も大丈夫だな―

「お母さん、レントゲンもインフルエンザ検査もおしっこの検査も特に問題ありません」

「よかった・・・」

「ところでこの子はご飯食べていますか?」

「あまり食べないんです」

「じゃあ水分は?お茶とかジュースは飲みますか?」

「水分は大丈夫です。さっきも牛乳を飲みましたし、朝からジュースなら何回も飲んでいますから」

 子供の場合は発熱すれば容易に脱水になりやすい。しかし食事が取れなくても水分摂取ができればとりあえずは大きな心配はない。

「そうですか。今のところ肺炎や髄膜炎の可能性は低そうです。多分風邪だと思うのでお薬で様子みていいと思いますよ。熱さましを1日分出しておきますから明日小児科に来てください」

「そうですか・・・肺炎じゃないんですね。あんまり熱が高くてぐずるものですから心配になって・・・。でも先生、お薬2日分出してもらえないでしょうか?」

「え?2日分?」

「ええ。実は明日はどうしてもだめなんです。わたし、ピアノを教えているのですが明日は午前も午後もレッスンの日で家に子供達が来るので・・・。悪い病気でなかったらあさってまで薬出してもらえませんか?」

「うーん・・・2日分ですか?」

 S市市民病院では当直時間の投薬は次の日までと決められている。ただし土曜日と祝日の前日は2日分の投薬が許可されている。

「規則で1日分しか出せないんですよ」

 健太郎は申し訳なさそうに言った。

「そこをなんとか・・・。具合が悪かったらすぐに連れてきますから・・・」

 確かに母親の事情もよくわかる。明日この子を病院に連れてくるためには予約の生徒をキャンセルしなくてはならないのだろう。カルテの表紙を見ると保険の筆頭者の名前が女性になっている。ひょっとしたらシングルマザーなのかもしれない。

 健太郎は母親の顔をチラッと見やった。年のころは30そこそこで理知的な顔立ちの女性だ。自分の都合でごり押しをするようなわがままな女性には見えない。やはり明日の仕事はどうしてもはずせないのだろう。健太郎はこの人のために何かをしてあげたい気持ちになっていた。

―この患児は重篤な病気の可能性はなさそうだ。俺が2日分の投薬をすればそれですむことじゃないか。それに、問題があれば明日連れてくると言っている―

「わかりました。2日分処方しましょう!」

「ちょっと高岡先生・・・」

 隣にいた酒井美穂が健太郎の肩をつついた。健太郎はそんな美穂に手で合図して母親に向かって言った。

「でもお母さん、水分が取れなかったり熱が下がらなかったりしたらすぐに連れて来てくださいよ。それにただの風邪とはいっても他のお子さんにうつるかもしれないから決して同じ部屋に入れないようにしてください」

「わかりました!ありがとうございます、先生!」

 母親は健太郎に深く頭を下げて診察室を出て行った。

「高岡先生、いいの?当直時間の投薬は規則で翌日までしか出せないことになっているじゃないの」

 患者が出て行った後の診察室で美穂が心配そうに言った。

「大丈夫ですよ。多分、ただの風邪だと思いますから。水分さえ十分取れれば1日くらい大丈夫ですって。それに熱が下がらなかったら明日連れて来るって言ってますから・・・。俺、最近規則ってやつにうんざりしてるんですよ。病院の規則って患者さんのためにあるものでしょ?患者さんのためにいいと思うことなら少しくらい規則から外れたっていいと思うんですよ」

「でも・・・何かあったら先生の責任になるわよ」

 美穂が心配そうな声で言った。

「大丈夫ですって。俺だって小児科をちゃんとローテートしてきたんですから・・・。それに・・・風間先生だってきっと同じことをしてますよ」

 健太郎にそう言われて美穂はちょっと微笑んでうなずいた。

    *男と女のルール*

 翌日朝6時過ぎ、健太郎は救急室の椅子に座って大きく伸びをした。

「ああ・・・疲れた・・・」

 4時過ぎに意識障害の老人が救急転送され、CTで脳梗塞と診断された。一通りの処置を行い、今ようやく病棟に運んで一息ついたところだ。

「おつかれさま」

 酒井美穂が救急室に散らかった物品をかたつけながら健太郎に言った。そしてそのとなりで同じようにあとかたづけをしている朝倉瞳が元気な声を出した。

「本当に今日は大変でしたよね。でも色々勉強になりました」

 瞳はゴミを捨てた瞬間・・・

「あ・・・いっけなーい!私、病棟に点滴の申し送りするの忘れてました!すぐ行ってきます!」

 そう言いながら瞳は救急室のドアから飛び出していった。健太郎と美穂はぽかんとしてそのあとを見つめていた。

「だいじょうぶかな?あの子・・・」

 健太郎が笑いながらつぶやいた。

「ほんとね、でも・・・かわいいでしょ?瞳ちゃんって・・・」

 美穂がちょっと微笑んで健太郎に聞いた。

「ええ・・・本当にかわいいですよね・・・。え?いや!そんなこと・・・ないですって!」

 ニヤニヤしていた健太郎は急に真顔になって美穂に弁解した。

「いいのよ、そんなにあわてなくても。若い子はいいなーなんて思ってるんでしょ?」

「そ・・・そんなこと・・・ないですって!何言ってるんですか?」

 心の中を見透かされた健太郎は美穂から顔をそむけてあわてて否定した。

「瞳ちゃんね、高岡先生のことが好きなのよ」

 美穂がいたずらっぽい目で健太郎を見て言った。

「え?な・・・なに言ってるんです!美穂さん!」

 美穂の言葉に健太郎はびっくりしてしどろもどろに答えた。

「本当よ。初めて高岡先生を見たときからずっと想っていたんだって・・・」

「そ・・・そんな・・・そんなことあるはず・・・ないじゃないですか・・・。あんなかわいい子が・・・」

「あら、そんなに謙遜(けんそん)しなくってもいいじゃない。高岡先生、す・て・き・よ」

 美穂は皮肉な笑いを込めてゆっくりと言った。

「や・・・や・・・やめてくださいよ・・・美穂さん・・・」

―あの子が・・・俺のことを?おいおい・・・本当なのか?―

 健太郎はドキドキしながら顔を真っ赤にして、美穂に背中を向けてモニター画面を見て必死でマウスを動かしていた。

「でもね・・・ダメって言っておいたわ」

「え?」

 健太郎はマウスを動かしていた手をぱたりと止めて振り返り、美穂を見つめた。

「高岡先生には決まった人がいるからあなたが誘惑してもだめよって・・・。まあ、相手が誰なのかは言わなかったけどね」

「そんなこと・・・別にはっきり言わなくても・・・いいのに・・・」

 健太郎は不満そうな声で答えた。

「あら・・・じゃあ瞳ちゃんに手を出すつもりだったの?」

「そんなこと・・・!するわけないじゃないですか!美穂さん、俺が沙紀と別れて彼女と付き合うとでも思っているんですか?」

「それも・・・いいんじゃないの」

「ええっ!?な・・・何・・・何言ってるんですか?」

「私は別に沙紀ちゃんとずっと一緒にいなさいなんて言わないわよ。もっといい人がいたらその人と一緒になればいいじゃないの。そのほうがみんな幸せでしょ?でもね・・・あなたは今、沙紀ちゃんと付き合っているんでしょ?瞳ちゃんと付き合いたいのならばまず沙紀ちゃんと別れてからにすることね。それが男と女のルールってものでしょ?」

 健太郎は冷静に話しかける美穂の顔を見つめた。自分の考えをしっかり持っている大人の女性の顔だ。彼女は人当たりのいい建前やいいわけなども言わない。こんな美穂の言葉を聞いていると健太郎は自分がまるで姉から諭(さと)されている弟のような気分になってくる。

「そんな・・・もんですか・・・」

 健太郎は確かに瞳のことをかわいいと思い、沙紀にはない魅力を感じていた。チャンスがあれば食事に誘ってみたいとも思った。しかし美穂はそんな自分の気持ちを見透かしてすべてを一蹴(いっしゅう)してしまった。確かに瞳と付き合うことを否定してはいないが、今の言葉は全く否定されてしまったのと同じことだ。

 恋愛というものは自分の感情が高ぶっても、それだけで大きく進行するものではない。しかし自分が想っている相手も自分に好意を抱いていることがわかると恋愛感情は急速に膨れ上がる。健太郎が瞳のことをかわいいと思い、瞳が健太郎のことを素敵だと思っていてもお互いが相手の気持ちに気がつかなければ二人の関係はほとんど進行しない。しかしお互いが相手の気持ちに気がついた時、二人の恋愛関係は急速に進行する。美穂が何も言わなければ健太郎と瞳の間にはそんな出会いがあったのかもしれない。しかし今の美穂の言葉でそのチャンスはすべてつぶされてしまったのだ。

 健太郎は別に沙紀と別れたいと思っているわけではないし、瞳と付き合いたいという気持ちもないのだが、忙しかった当直明けの朝、美穂の言葉を聞いた彼は言いようのない寂しさを感じていた。

「それにしても美穂さん、美穂さんのほうはどうなんです?」

「え?」

 健太郎は逆襲に出た。

「風間先生と何か進展ありました?」

「な・・・何言ってるのよ・・・・。あるわけないじゃないの」

 美穂はちょっと顔を赤らめて健太郎に背を向けて下を向いてあとかたづけを続けた。

―あー・・・かわいいな、こんなに顔を赤らめて・・・。やっぱり美穂さんは風間先生のことを本気で・・・―

 たった今まで姉のように自分を諭していた女性が恥ずかしそうに顔を背けている。

―風間先生は何でこの人の気持ちに気がつかないんだ?―

 健太郎はなんともいえない、いとしい気持ちになって一生懸命あとかたづけをしている美穂を見つめていた。

   *思わぬ病気*

 その2日後の夕方、健太郎は長谷川聡と医局でくつろいでいた。そこへ小児科医の岡部一樹が入ってきた。

「高岡先生、ちょっといいか?」

 岡部はそう言いながら健太郎の横に座った。

「はい?」

 健太郎はそう返事をしてちょっと場所を空けた。

「君はおとといの当直のとき、発熱の男の子を診ただろう?」

「発熱の男の子?ああ・・・あの3歳くらいの・・・。はい、診ました」

「なぜ2日分の処方を出したんだ?当直時間帯の処方は翌日までに決められているはずだろう?」

「あ・・・すみません。お母さんがどうしても翌日連れて来れないって言ってたものですから・・・。やっぱり・・・まずかったですか?」

 健太郎は気まずそうに顔をちょっと下に向けて岡部を見あげた。

「今日の午後、小児科外来を受診したよ」

「そうですか・・・」

「その子は麻疹だ」

「ましん?マシン?えっ!?麻疹?はしか・・・ですか?」

「ああ・・・いまどきめずらしい典型的な麻疹だ」

「そんな・・・麻疹だなんて・・・。あの時は皮疹(ひしん)なんて出てなかったですが・・・」

「麻疹は二峰性(にほうせい)の発熱をすることくらいは知ってるだろ?皮疹は二回目の発熱と同時に出てくるもんだ。君が診た翌日には熱が下がったそうだ。そして今日また熱が出て全身に麻疹特有の皮疹が出てきている」

「・・・・・」

 健太郎はその子供を見たときに麻疹の可能性も頭の片隅に考えないわけではなかった。しかし皮疹がないことから完全に否定してしまったのだ。

「多分2日前に君がその子の口の中を注意深く診たらコプリック斑が見えたはずだ」

 コプリック斑は麻疹の患者の口の中の粘膜に現れる白い斑点だ。これを確認すれば麻疹の可能性を考えることができるのだが、現在、麻疹の患者は決して多くなく、小児科医以外の医者が麻疹の患者に遭遇することはあまりない。医者になって3年目の健太郎が泣き叫ぶ子供の口の中を詳しく観察してコプリック斑と診断することはまず不可能である。

「内科の先生に皮疹が出る前の麻疹を診断しろなんてことは俺も言わない。だがな、君が規則どおり翌日小児科外来を受診させていれば俺が診断できたんだ。2日分の処方を出したために診断が1日遅れてしまった。麻疹が命にかかわる重篤な病気だってことくらいは知ってるよな?」

 岡部は怖い顔で健太郎の目をじっと見つめて聞いた。

「・・・はい・・・」

 健太郎はうなだれて力ない声で答えた。

「それに麻疹ウイルスの感染力が極めて強いことも知ってるな?」

「・・・・はい・・・・」

 病原体が感染する様式には接触感染、飛沫(ひまつ)感染、空気感染などがある。接触感染は実際に患者の身体に触れたり手にしたものに触れたりすることによる感染だ。胃腸炎を起すウイルスや細菌はこのタイプだ。飛沫感染は患者の咳などを吸い込むことによる感染である。インフルエンザウイルスなどがこれに相当する。

 そして一番重要なのは空気感染だ。空気感染する病原体は部屋の中に浮遊し、患者と同じ部屋の中にいるだけで感染する極めて感染力の強い病原体だ。これに分類されるのは結核菌、水痘ウイルスそして麻疹ウイルスである。免疫力のない人間がこれらの病原体を排出する患者と同じ部屋に長時間いれば間違いなく感染が成立するのだ。

「幸いその子は昨日誰とも接触してないからよかったがな・・・」

 とりあえず健太郎が他の子供と接触させるなと言っておいた事が好をそうしたわけだ。

「す・・・すみません・・・岡部先生」

 健太郎は蚊の泣くような弱々しい声で答えた。

「君は麻疹の予防接種は受けているのか?」

「は・・・はい、一応・・・」

「じゃあ後であの子を見て来い。一度見たら忘れないだろう?」

 岡部は健太郎にそう言い残して静かに席を立った。

 長谷川と健太郎だけになった医局はしんと静まり返っていた。

「やっちまったな・・・」

 長谷川がぼそりと言った。

「・・・やっちまいました・・・」

 健太郎はソファにぐったりと寄りかかりながら答えた。

「俺達はきめられたことだけ、はいはいってやってりゃいいんだよ。かっこつけて変わった事をしようとするからこんなことになるんだ」

「そうですよね・・・」

 健太郎は長谷川の顔を見ずに力なく答えた。

「ところで・・・そのお母さんは、美人だったんだろ?」

「・・・そんなところですよ。長谷川先生の言うとおり、俺が何もわかってないくせに規則を破ったからいけなかったんですよね」

 確かに規則というものは実情にそぐわないことがある。明らかな不具合がおこっている時に、ばか正直にひたすら規則を守ることに固執することもおろかなことだ。しかし規則は何らかの理由があって決められたものだ。物事の本質を理解しないまま規則を破ることは大きな危険を伴う。

 規則に違反するからにはそれなりの知識や経験や覚悟が必要なのだ。ここしばらく規則というものにうんざりしていた健太郎であったが、今日はいやというほど規則の大切さと自分の軽率さを身にしみて感じていた。

「小児科病棟へ・・・行ってきます・・・」

 健太郎はそう言いながら力なく立ち上がった。

「きれいなお母さんによろしくな・・・」

 長谷川が健太郎の後姿に声をかけた。健太郎はその声には振り向かずに、うなだれたまま右手をちょっと上げて合図をした。そして、ため息をつきながらドアを開けて医局を後にした。

 風の軌跡:カルテ10終わりカルテ11(1/4)に続く

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2008年9月15日 (月)

風の軌跡:カルテ10(3/4)

風の軌跡:カルテ10(3/4)

   *有紀の将来*

 それから2日後の日曜日の昼過ぎ、俊介は朝から自宅のベッドに横になって休んでいた。

 十二指腸潰瘍と診断されてピロリ菌除菌の薬剤を内服しているがまだ気分はすぐれない。本当は今日は1ヶ月ぶりに有紀と会える日だった。有紀に会いたいのは山々であるがこんな状態で一緒にいたとしても有紀を楽しませてやることはできないだろう。そう考えた俊介は昨日、有紀に断りの電話を入れたところだ。

 食欲はあまりないが薬を飲まないわけにはいかない。俊介は牛乳をコップ1杯飲んで朝の薬を飲み、またベッドに横になっていた。

―そろそろ昼飯を食わないと・・・―

 病院に勤務していれば具合が悪くても仕事をしないわけにはいかないので自然と身体を動かすことになる。食事も病院の食堂に行けばお粥でもうどんでも食べることができる。しかし自分ひとりで家にいると、ついつい動くことがおっくうになる。

―お粥でも作るか―

 俊介はぼさぼさの頭をかきながらパジャマのままでベッドから起き上がった。一人暮らしをして10年以上、俊介は自炊も時々やっているが体調が悪いときに食事を作るのはつらいものがある。かといって外に食べに行く元気もない。こんなときはしみじみと一人身のつらさが身にしみる。俊介はやかんにお湯を入れてIHヒーターのスイッチを入れた。

―いつまでこの生活を続けられるだろうか?―

 柴崎の話を聞いてから俊介は自分の仕事に疑問を感じるようになっていた。そしてその疑問は私生活にも波及し、今の俊介は自分が生きる意味さえも見出せなくなってきているのだ。

 自分が正しいと信じてやってきた仕事、そのために彼は家族を失った。しかしその仕事も柴崎のようにいつつまずくかわからない。自分が正しいと思うことをしていれば周りからの評価もついてくる。そんな俊介の思いは幻想に過ぎなかった。自分が一生懸命に診療しても結果が悪ければ社会から非難されることになる。そうなれば自分も今の仕事を続けていくことはできなくなるだろう。

 その時自分に残るものはなんだろう?柴崎には家族が残っている。しかし俺には・・・。仕事のためにすべてを捨ててきた俺に残るものはなんだ?そんなやるせない思いが俊介の胸の中にわきあがってくる。

 ピンポーン・・・そのときドアのチャイムが鳴った。

―誰だ?日曜日の今頃・・・―

 俊介は玄関に出てちらっとのぞいた。

「有紀!」

 俊介はあわててドアを開けた。

「大丈夫?パパ・・・。あらあら・・・ひどいカッコ・・・」

 そこにはスーパーの袋をさげた有紀が立っていた。

「どうしたんだ?こんなとこへ・・・」

「どうしたって・・・パパがぐあいが悪いって言ってたから食事でも作ってあげようかなって・・・。ごめんね、遅くなって・・・。お昼食べちゃった?」

 そう言いながら有紀はドアを引いて中へ入った。

「いや・・・今からなんか作ろうと思ってたとこだけど・・・」

 俊介はちょっと戸惑いながら有紀のためにスリッパを床に置いた。

「どう?」

「ああ・・・はらわたにしみわたるよ」

 有紀の作ってくれたおじやを一口食べた俊介は心からおいしいと思った。そして味噌汁を一口すすった。

「お前、いつも作ってるのか?」

「たまにね、ママが遅くなるときとか・・・。上手でしょ?ママに習ったのよ」

―そういえば・・・翔子の味に似ている―

 食欲がなかったはずの俊介であったが有紀の作ってくれたおじやと味噌汁とサラダをあらかた平らげてしまった。

「ああ・・・おいしかったよ。病気になったおかげで有紀の手料理を食べられたからよかったよ」

「うれしいわ。今度ちゃんとしたものを作ってあげるからね。でも大丈夫なの?パパ」

「ああ、十二指腸潰瘍なんて病気のうちに入らないさ。1週間もすれば元気になるって」

 十二指腸にできた傷が完全に治るには約2ヶ月間を要する。しかし薬を飲んでいれば症状は速やかに改善し、4-5日もすれば全く普通の生活ができるようになるものだ。しかしそこで内服を中止するとすぐに再発することになるが・・・。

「よかった。じゃあ来月のクリスマスにはまた一緒に食事に行けるね」

「もちろんさ。今日のお礼にすごくおいしいものをご馳走してやるからな」

 俊介は笑いながら有紀を見ながら言った。

「期待してるわ。ところで・・・パパ・・・。この前の話だけど・・・」

 有紀がちょっと微笑みながら俊介を見つめた。

「この前?」

「本当にいい人・・・いないの?」

「な・・・何を言い出すんだ!いるわけないだろう?」

 俊介は真っ赤な顔をしてテーブルの上のお茶を一口飲んだ。

「そう・・・。だったら・・・またママと一緒に暮らさない?」

「翔子と?」

「もともとママとは嫌いになって別れたわけじゃないんでしょ?仕事が忙しくって・・・」

 確かに翔子と別れた理由はお互いの多忙から来るすれ違いだ。もしも彼女が専業主婦だったら多分別れることはなかっただろう。しかしすでに10年以上の歳月が流れている。いまさら元に戻ることなど・・・。

「それはそうだけど・・・」

「ママもね、最近時々寂しそうな顔するんだ。仕事が忙しいときとか・・・。3人で撮った昔の写真を見ている時もあるのよ。きっとママだってパパともう一度一緒に暮らしたいって思っているんじゃないかしら」

「翔子が・・・」

 有紀とは月に1回会っているが翔子とは時々電話で話をするだけでここ2-3年は顔も見ていない。しかし翔子に対しては俊介のほうに特にわだかまりはない。それは多分、翔子も一緒なのだろう。しかしいまさら翔子と一緒に暮らすことなど・・・俊介は考えたこともなかった。

 翔子と一緒に暮らす・・・それは俊介が再び家庭を持つということだ。俊介はここ1ヶ月の生活を頭に思い描いた。翔子と一緒にいればこうやって病気になった時にも看病してもらえるだろう。夜、疲れて帰っても待っている人間がいれば、一人の部屋に帰って明かりをつける時のむなしさは感じなくてもすむ。そして何より・・・有紀といつも一緒にいることができる。

「パパの気持ちはどう?」

「それは・・・」

 俊介は何も答えられなかった。

「でもな・・・男と女っていうのはそんなに簡単にくっついたり離れたりはできないもんだよ。いきなりお前からそんなことを言われても答えようがないじゃないか」

「ふーん・・・大人ってめんどくさいのね。でも考えておいてよね」

 有紀はあきれた顔をして食器をそそくさと片付けた。

「あ・・・それからピアノのコンテストだけど、やっぱりだめだったわ」

 有紀は台所に食器を運びながら明るい声で言った。

「そ・・・そうか・・・」

「せっかくパパにお守り買ってもらったのにごめんね」

 有紀は首にかけたネックレスを俊介にチラッと見せながら言った。

「でも私、ピアノは続けることにしたから・・・」

「え?」

「音楽関係の大学へ行ってピアノの勉強を続けようと思うの。その先どうなるかまだわかんないけどね、でも好きなことをしているのが一番でしょ?」

 有紀は明るく笑いながら食器を洗っていた。

    *抗酸菌(こうさんきん)陽性*

「日下部(くさかべ)さん、今日はいかがですか?」

 健太郎は人工呼吸器をつけたまま仰向けに寝ている日下部雄二に笑顔で挨拶した。そばにいた夫人が軽く会釈する。

 日下部雄二は3ヶ月前にパラコートを飲んで自殺未遂をした患者である。健太郎の懸命な治療により一命をとりとめ、2週間後には退院となったがその肺障害は徐々に進行していた。2ヶ月前から呼吸困難が強くなって再入院となり、2週間前に気管切開を行って人工呼吸器を装着したところだ。

 しかし呼吸不全は急速に進行し、人工呼吸器をつけてはいるが酸素飽和度はかなり低下している。意識ももうろうとして呼びかけにやっとうなずく程度である。健太郎は胸部の聴診をして夫人のほうに向って小声で言った。

「尿量も減ってきているのであと2-3日かもしれません・・・」

 夫人は無言で、小さな咳をしながらうなずいた。

「風間先生!」

 健太郎はナースセンターでカルテを書いている俊介を見つけてあわてて走りよった。

「何だ、高岡先生。そんなにあわてて・・・」

「あの・・・日下部さんなんですけど・・・」

「日下部さん?ああ、俺も今診てきたがかなり厳しいな。多分あと2-3日ってとこか」

「え?ええ・・・そうなんです。かなり厳しいんですが・・・。それより風間先生、これを見てください!日下部さんの奥さんの喀痰検査の結果なんです!」

「日下部さんの奥さん?」

「はい。咳と痰が出るって9月に外来診察に来たんです。その時の喀痰検査の結果が・・・」

「どれどれ・・・。なんだ?抗酸菌(こうさんきん)の培養が・・・陽性?ナイアシンテストも陽性か?じゃあ・・・テーベ(結核)なのか?」

「はい。5週間の培養で抗酸菌がわずかに検出されていたんですが多分非定型抗酸菌症だと思っていたんです。DNA検査も陰性だったので・・・。今日ナイアシンテストの結果が出て陽性だと・・・」

 結核菌は一般の細菌培養検査では検出されない。結核菌を対象とした特別な染色と培養をしなくては検出されないのだ。結核菌を対象とした喀痰検査は抗酸菌検査と呼ばれる。それが陽性になれば結核か非定型抗酸菌症のどちらかということになる。

 結核はもちろん伝染性があり重要な疾患であるが非定型抗酸菌症は人から人への感染は確認されておらず、また、症状も重篤(じゅうとく)にはならないことが多い。抗酸菌が検出されたときにはこの二つを鑑別するためにナイアシンテストが行われ、これが陽性ならば結核菌と判定される。

「そうか。しかし喀痰培養で結核菌が検出されたってことは・・・これは結核予防法の適応だな」

「やっぱりそうですか・・・。それじゃあ日下部さんの奥さんは・・・」

「ああ・・・結核病棟のある病院へ入院させないといけない」

 結核患者は結核予防法という法律で管理される。特に喀痰から結核菌が検出される患者は排菌者(はいきんしゃ)と呼ばれ、結核病棟という隔離(かくり)病棟に入院させることが法律で義務づけられている。

 もっとも、喀痰を直接プレパラートに塗沫(とまつ)して結核菌が検出される「塗沫陽性」の患者に比べるとこの患者の場合、塗沫検査陰性で、培養検査でやっと検出されたということなので感染させる可能性はかなり少ないということになる。しかし法律では培養で陽性になった患者も排菌者として同じように扱うように決められているのだ。

「でも風間先生、日下部さんのご主人はあと2-3日の命なんですよ。せめてその間くらい一緒にいさせてあげたいんですが・・・。5週間の培養でやっと検出されるくらいですから他人に感染させる可能性なんて少ないと思うんですよ。日下部さんが亡くなるまでずっと部屋にいてもらえば問題ないんじゃないでしょうか?」

「多分な。すでに2ヶ月の間普通の社会生活をしているわけだからいまさら隔離病棟に入れるのも間が抜けたことだけど・・・。しかしな、医師は結核患者を診断したら48時間以内に管轄(かんかつ)の保健所に届けなければいけないんだ」

「48時間以内・・・」

「そうだ。そして届け出た時点で結核予防法の34条が発令されて奥さんは結核病棟へ強制入院となる」

「そんな・・・たった2-3日のことじゃないですか。それくらい大目に見てくれても・・・」

「それが法律なんだ。規則なんだよ」

「また規則ですか?規則って何のためにあるんですか?人を幸せにするためでしょ?いま日下部さんの奥さんを結核病棟に隔離したって誰も幸せにならないじゃないですか!」

 健太郎は憤慨して俊介にまくし立てた。

「君の言うこともわかるがこれは俺達だけで決められることではないんだ。俺が保健所の所長さんに掛け合ってみるから・・・」

      *判断*

「すみません。わざわざご足労いただいて・・・」

 その日の午後、俊介は自分の部屋で来客を迎えていた。

「はじめましてS市保健所の塚崎と申します」

 塚崎と名乗った男性は名刺を俊介に渡した。

「内科部長の風間です。いつもお世話になっております」

「結核の患者さんが発生したのですね?」

「はい。5週間目の培養でコロニーが4つ認められただけなので感染力もほとんどないと思うのですが・・・。ちょっと社会的に困った問題がありまして・・・」

「何でも御主人が今日明日の命とか・・・」

「はい。パラコート中毒の末期で呼吸不全になっておりまして、多分2-3日中にお亡くなりになると思うんです。それまでの間、患者さんを当院で診させていただくわけにはいかないでしょうか?もちろん患者さんは病室から一歩も出しません」

「ここには結核病棟はなかったですね。原則として排菌が確認された結核の患者さんはF市の国立療養所に送っていただくことになっているのですが・・・」

「それは十分承知しています。しかし感染の可能性もほとんどない患者さんなので、例外を認めていただけないかと・・・」

「その患者さんは今どこに?」

「呼吸器をつけている御主人の隣の個室に入ってもらっています」

「会わせていただいてよろしいでしょうか?」

 帽子とマスク、そして感染予防のガウンを着たて病室に入った俊介は日下部夫人に頭を下げて挨拶をした。

「日下部さん、こちらはS市保健所長の塚崎さんです」

「はじめまして。塚崎と申します」

 同じように帽子とマスク、ガウン姿の恰幅(かっぷく)のいい男性に挨拶された日下部夫人は、恐縮してベッドの上に正座して頭を下げた。彼女もまたマスクをつけている。

「あの・・・私はやはり・・・ここにはいられないのでしょうか?」

 不安そうに聞く日下部夫人を見つめながら塚崎が優しい目で言った。

「そのことで私がここに参りました。日下部さん、咳は出ますか?」

「はい。時々ですが・・・」

「痰はどうですか?」

「痰はほとんど出ないのです」

「ここ2ヶ月の間、病院と家の他にどこかいかれましたか?旅行とか・・・親戚のお家とか・・・」

「ここ2ヶ月・・・。いいえ・・・主人が悪くなってからはほとんど家と病院の往復で・・・。近くのスーパーに買い物に行くくらいで・・・。私どもは二人暮しで子供もおりません。親戚づきあいもほとんどなくて・・・」

「そうですか。ご主人がかなりお悪いと聞きましたが・・・」

「はい。先生のお話ではあと2-3日と・・・。その間だけでもここにいさせてもらえないでしょうか?」

「ご主人は奥さんと話ができるのですか?」

「いいえ、呼吸器をつけているので・・・。意識も大分遠のいております。でも、私が話しかけると目を少し動かすので・・・わかっているのだと・・・」

「そうですか。奥さんのことがまだわかるのですね」

 日下部夫人は小さくうなずいた。塚崎はじっと黙って夫人を見つめていた。そして顔を上げて俊介を見て言った。

「風間先生、もしこの患者さんがこの病院で治療を受けるとなると隣の御主人の部屋に一緒に入院することになるのですね?」

「はい。できれば、そうしたいと・・・。ご主人はもう余命いくばくもないので万が一夫人から結核感染してもあまり問題ないように思いますし・・・もし感染するのならばもうすでに感染しているはずですから・・・今から離してもあまり意味がないと思うのです。個室にもう一つベッドを運んで二人部屋として管理したいのですが」

「部屋の空調は切ることができますか?」

「え?はい。代わりに何か暖房設備が必要になりますが・・・」

「それと看護婦さんや他のスタッフは十分な感染予防対策が取れますか?」

「はい。部屋に出入りする職員は限定します。ツベルクリン反応陽性が確認されているもののみとして帽子、マスクとガウン、手袋を着用させます」

 ツベルクリン反応が陽性ということは結核に対する免疫がある証拠となるので、感染する可能性はほとんどなくなる。

「わかりました。それじゃあ、御主人が亡くなるまでの間に限って患者さんはここで管理してください」

「え?よろしいのですか?」

 俊介がびっくりして聞いた。

「それから6時間ごとに部屋の窓を開けて外気に換気してください。くれぐれも患者さんを部屋の外に出さないように・・・。外部のお見舞いもすべてシャットアウトです」

「もちろんです!ありがとうございます」

 俊介は深々と頭を下げた。

「日下部さん!よかったですね。ご主人と一緒にいれるのですよ」

 俊介の言葉に日下部夫人は涙を流してベッドの上で手をついて深々と頭を下げた。

「風間先生!信じられませんよ。行政の人たちってみんな頭の固いわからずやばっかりだと思っていましたから・・・。あんなに話のわかる人もいるんですね」

 ナースセンターでは健太郎が明るい笑顔で言った。

「そうだな。でもな、話がわかるなんていう簡単な言葉で片付けられる問題じゃないんだ。もしトラブルが発生したら・・・たとえばこの病院で誰かが結核に感染したら、それはすべて彼の責任になるんだ。俺達は法律に従って行政に報告した。しかし法律に従わずにこの病院で患者を診ることを許可したのはあの所長さんだ。彼はそうなることも覚悟して日下部夫人をこの病院で管理することを許可したんだ。事なかれを考えるなら間違いなく転院の指示だな」

「そうか・・・。えらい人ですよね・・・」

「彼は日下部夫人を見て何とか御主人の最後を看取(みと)らせてあげようと思ったのだろう。目の前の患者さんを幸せにしてあげたいと思う気持ち・・・俺達も見習わないとな」

 俊介は健太郎の肩をぽんとたたいてナースセンターをあとにした。

 それから2日後、日下部雄二は静かに息を引き取った。最後まで夫人に看取られて静かに心停止となった。夫人は俊介と健太郎に深々と頭を下げた。

 カルテ10(4/4)へ続く

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2008年9月14日 (日)

風の軌跡:カルテ10(2/4)

風の軌跡:カルテ10(2/4)

   *訴訟*

 それから2週間後、俊介は自室に来客を迎えていた。

「はじめまして。S市法律事務所の児玉と申します」

 児玉と名乗った男性は俊介に頭を下げると丁寧に両手で名刺を渡した。

「はじめまして。内科部長の風間です」

『S市法律事務所 弁護士 児玉龍治』

 俊介は両手で名刺を受け取りながら児玉をソファに促した。児玉は少々太めの大きな身体をソファに沈めながら丸顔の人懐こい笑顔で話し始めた。

「突然お邪魔しまして申し訳ありません。実は松本義雄さんという患者さんの件なのですが・・・」

 松本義雄の名前を聞いたとたん俊介は一瞬表情をこわばらせた。

 松本義雄は1ヶ月前に筋萎縮性側索硬化症(きんいしゅくせいそくさくこうかしょう)と診断された。その後、夫人を伴って俊介と神経内科の沢森医師の外来診察に一度来院したが、その後ぱたりと来なくなった。彼のことは俊介も気にしており、そろそろ連絡を入れてみようかと思っていた矢先である。

「実は松本義雄さんが訴訟を起こしたいと言って私のところへ来られらのです」

「・・・そうですか・・・」

 俊介は下を向いて力なく答えた。

「まだ正式に依頼をお受けしたわけではないのですが、お話を伺いますとちょっとふに落ちない点もありまして・・・。訴訟の前にこうやって相手方のところへ来るのはどうかと思ったのですが、どうしても一度先生に直接お会いしてお話を伺いたいと思いまして・・・」

「ふに落ちない・・・と言いますと?」

「松本さんは先生の過失だとえらく憤慨しておられるのですが・・・。話をよく伺いますと彼が今、健康被害を受けたわけではないようですし・・・。私は医療訴訟を扱っているのですが、私のつたない知識では筋萎縮性側索硬化症という病気は診断されても治療法はない病気だと思っておりましたので診断の遅れが治療の遅れとなっているわけでもなさそうです。松本さんは『精神的苦痛』に対する慰謝料と言っておられるのですが・・・一緒についてきた奥さんが・・・あまり乗り気ではなさそうなのです」

 児玉龍治はちょっと恐縮して俊介の顔をうかがいながら話した。

「奥さんが乗り気でない?」

「ええ・・・。松本さんご本人が一人で憤慨してまくし立てて、奥さんがそれを抑えようとしているような・・・」

「そうですか・・・」

―彼はまだ自分の病気を受け入れられないのだろう。だから周りの者に攻撃的になってしまうのだ。誰でも自分が寝たきりの生活になると言われたら・・・―

「それで先生、松本さんの病状に関して経過を含めて教えていただくわけにはいかないでしょうか?もちろん本人の同意書はとっております。いえ、私も訴訟を起そうかという相手方にこんな事をお願いするのはおかしいと思っているのですが・・・」

 児玉はカバンから松本義雄の署名の入った同意書を俊介の前に差し出した。俊介は同意書を受け取ると静かにうなずき、そしてゆっくりと松本義雄の半年間の経過を説明していった。

「なるほど・・・。先生がもう3ヶ月前にこの病気を疑っていればその時に診断が可能だったということですね?」

「そうです。私が筋萎縮性側索硬化症という病気を頭に思い浮かべることができなかったために診断が遅れてしまいました」

「そのことを松本さんは診断ミスだと指摘してそれによって精神的苦痛を負わされたというわけですか・・・」

「そうだと思います」

「なるほど・・・。ところで筋萎縮性側索硬化症の診断は簡単なのでしょうか?たとえば神経の専門外の医師でも診断できるような・・・」

「いえ、進行してからなら容易かもしれませんが、初期の診断はそれほど簡単ではないと思います」

「すると神経の専門医でない先生が3ヶ月前に診断するのはなかなか難しいことだということですね?」

「それはそうなのですが・・・。私が体重減少から筋萎縮性側索硬化症を疑えば、その時点で神経内科専門医に受診させて診断をつけることができたと思います」

 俊介は真剣な表情で児玉弁護士の顔を見ながら答えた。

「なるほど・・・。先生は・・・正直な方ですね」

 児玉が顔に笑みを浮かべながら言った。

「え?」

 俊介が驚いて聞き返した。

「今から訴訟になるかもしれない相手側の弁護士に自分が不利になるような情報を伝えてはいけません」

 児玉が笑いながら言った。

「そ・・・そんなものなのですか・・・。すみません、こういうことはあまり慣れていないものですから・・・」

 俊介は恐縮して答えた。

「お話はだいたいわかりました。どうも私の考えでは診断の遅れと精神的苦痛はあまり関連がないような気がします。多分3ヶ月前に診断されていたとしても同じ程度の精神的苦痛を受けていたと思いますから・・・。ですから精神的苦痛に対する慰謝料請求は無理でしょう。しかし先生、3ヶ月前に診断されていればその間、彼が仕事をやめて家族と過ごしたり旅行に行ったりできたかもしれません。もし3ヶ月前に先生が診断できなかったことに過失があると判断されれば、それに対する賠償を請求される可能性はあります」

「そうですか・・・。そうなればそれは・・・やむをえないことだと思います」

 俊介は児玉の顔を見て答えた。

「風間先生、そう簡単に考えてはいけません。先生が訴訟を受けて裁判を戦うということはS市市民病院が、そしてその母体であるS市が戦うということなのです。先生一人のご判断で謝罪したり賠償したりできるわけではありませんよ。病院の責任者や顧問弁護士さんと相談して対応しなくてはなりません」

「そうですか・・・」

 俊介は自分が過失を犯せばそれに対して謝罪するのが当然と考えていたし、賠償金を請求されてそれが社会的に正当なものだと判断されれば当然支払うべきもので、それが社会のルールだと考えていた。しかし彼の立場では個人でそれらのことを判断してはいけないということだ。

「松本さんの件は、私はあまり乗り気ではありませんが私もS市の医療被害者救済の会を作っている関係上、患者さんがどうしても言われれば話を進めざるを得ません。先生もその覚悟だけはなさっておいてください」

「わかりました」

「そこから先は先生お一人で判断なさらずに顧問の弁護士さんと相談して行動なさってください。それから・・・先生に限っては大丈夫と思いますが・・・くれぐれもカルテの改ざんや追記はなさらないように・・・。裁判官の心証を著しく悪くしますから・・・」

「ご忠告ありがとうございます」

 俊介は暗い気分で深々と頭を下げた。

    *シマウマを探すな*

 その日の夕方、俊介の部屋に医事課長が困った顔をしてやってきた。

「お忙しいところすみません、風間先生・・・。実は先月の高岡先生のレセプトなんですが・・・。腹部CTとか腹部エコーの検査が異常に多いんですよ」

 医事課長はカバンから書類の束を取り出してどさっと俊介の目の前に置いた。

「え?これ全部ですか?」

「はい。まあ、ちゃんと病名はついているんですがね。膵臓癌疑いとか、胆のう癌疑いとか・・・。でもこれだけ多いときっと査定されてくると思うんですよ」

「そうでしょうね・・・」

 俊介は目の前に置かれたレセプトの束を手にとって内容を確認していった。

 通常の医療機関では保険診療を行っている。患者はかかった医療費の1割から3割を窓口で支払い、残りは健康保険や国民健康保険、すなわち国や組合が支払ってくれるわけだ。その支払いを請求する目的で作成されるのがレセプトと呼ばれる書類である。いわば医療費の細かい明細で、行った検査や使用した薬や器具など診療にかかった費用が事細かに記載されている。そしてそれぞれの患者には担当医によって数個から十数個の病名がつけられ、行われた医療がその病名に即したものであるかどうかを審査されるわけだ。

 つけられた病名にそぐわない検査や診療行為があったときには支払いは行われず、その分は病院の損失となってしまう。これを査定されるという。かかった医療費のすべてを病院が負担することになってしまうわけだ。そんなわけで医事課の職員はレセプトの記載に極めて神経質になる。

「いくら病名がついていても入院、外来の受け持ち患者のほとんど全員に腹部CTをしたら過剰診療として査定されると思うんですよ」

「確かに・・・ちょっと多すぎますね」

「もうやっちゃったことはどうしようもないのでこのまま提出しますが、多分相当数差し戻しになると思うんです」

 医事課長はちょっと不機嫌そうに俊介に言った。差し戻しとは審査機関が診療内容に疑問点がある時に医療機関にそのレセプトを一旦戻してその診療を行った理由を記載させる制度である。その結果理由が正当なものならば支払いが行われるが審査官が不当と判定すればその医療行為は査定されてそのまま病院の損失となる。

「それで風間先生、高岡先生に差し戻しになった分のコメントをお願いしていただくことと、今後ちょっと検査を差し控えていただくようにお願いしてもらえませんか?もちろん必要な検査はどんどんしていただいていいんですが、この数はちょっと・・・」

「わかりました。彼に十分伝えておきます。私の監督不行き届きでご迷惑お掛けしまして申し訳ありません」

 俊介は深々と医事課長に頭を下げた。

 俊介も決して健太郎の気持ちがわからないわけではない。先月、見ようとしなければ見えない病気が数多くあることを知った彼は自然と色々な病気を頭に思い浮かべるようになり検査の数も増えていったのだ。そしてその中から早期の膵臓癌も見つけることができた。そして2週間前には河野医師が500人のAMIの患者にずっとエコーを行い、そしてやっと一人の大動脈解離の患者を診断できたことに感激していた。そんな気持ちがきちんと検査をしなければいけないという意識を彼に持たせたわけだ。

 しかし保険診療というものは限られた財源の中で行うことが要求される。患者全員にすべての検査を行っていたのでは医療費はいくらあっても足りない。当然その中の一部は査定され、病院は何百万という損失をこうむることになるのだ。

「ああ・・・また胃の具合が悪くなってきたな・・・。今日は仏滅か?」

 俊介は思い足取りで医局へ向った。

 医局のドアを開けると健太郎と消化器内科の長谷川聡がソファに座っていた。

「高岡先生、ちょっといいか?」

 俊介は健太郎の隣に座った。

「はい。なんでしょう?」

 健太郎はちょっと横にずれて場所を空けた。

「先月のレセプトだがな・・・。ちょっと腹部エコーや腹部CTが多いんじゃないかって医事課長から言われたんだ」

 俊介は医事課長から預かったレセプトの束をテーブルの上においた。

「なんだ?これ全部エコーやCTをしたのか?そりゃあお前・・・やりすぎだぞ。消化器内科の俺だってこんなに出さないぜ」

 長谷川がびっくりしながらレセプトを数枚手にとって確認しながら言った。

「やっぱり、言われましたか・・・。俺もちょっと多いかなって思ったんですけど・・・。でも病気なんて検査しなかったらわからないじゃないですか。この前だって風間先生、見ようとしなければ隠れているものは見えないって・・・」

「それはそうだけどな・・・。俺達は保険診療をしているわけだからその範囲でしか検査はできないってことだ」

 俊介はちょっと困惑しながら言った。

「でもこの前だって河野先生が解離を診断できたのも500人以上の患者さんにずっと心エコーをしてきたからじゃないですか。500人検査してやっと一人の患者を見つけられたわけでしょ?」

「急性心筋梗塞の場合はすべての症例で心エコー検査が保険で認められているんだ。彼は保険診療の範囲内でやっているから問題はない。事実、今まで一回も査定されたことはないんだ」

「でも・・・もしも腹部CTや腹部エコーの検査をしなくて病気を見逃したら・・・患者さんから訴訟を起されるわけでしょ?そんな時は『保険で査定されるから検査しなかった』って言えば許してもらえるんですか?」

「いや、その病気を疑う理由があって検査しなかったらまず無理だな」

「だったら・・・。ほら、この患者さんはなんとなくお腹が張った感じがするって言ってたんですよ。この患者さんは時々背中が痛いって・・・。それに兄弟が膵臓がんで死んだから自分も心配だって・・・。この人はなんとなく身体がだるいって・・・。そんな人たちって膵臓癌の可能性もあるじゃないですか。結局みんななんともなかったんですけど、この人たちがもし本当に膵臓癌だったら・・・症状があるのになぜ検査しなかったんだ?って言われるんじゃないですか?」

 健太郎は不機嫌そうな顔で俊介を見つめた。俊介はちょっと困惑した顔で健太郎が示したレセプトを見つめた。確かにすべての患者はよく聞けばなんらかの異常を訴えるものだ。そんな訴えのほとんどは癌とは関係ないのだが、その中に偶然癌を合併している患者がいれば検査をしなかったことで訴訟を起され、敗訴にされるのは間違いないだろう。かといって全員に検査をすれば過剰診療として査定される。健太郎が憤慨するように俊介にも納得できない点が多々ある。しかしそれが今の日本の制度であり、医療訴訟の現状なのだ。

「シマウマだな」

 長谷川が皮肉な微笑を浮かべて健太郎に言った。

「シマウマ?」

「知ってるか?Don’t seek the zebraって言葉」

「Don’t seek the zebra?シマウマを・・・探すな?ですか?」

「後ろからひずめの音が聞こえてきたら誰だって馬が来たって思うだろ?ひょっとしたらシマウマかもしれないって思う奴のことを皮肉ってこう言うんだ。めったにないまれな病気ばかり探し回るやつのことだよ」

 健太郎はぶすっとして不機嫌そうな顔をした。

「要するにおかみが言いたいことは『癌のある患者には検査しろ、癌がない患者には金がもったいないから検査するな』ってことだよ」

 長谷川が笑いながら健太郎に言った。

「それがわかれば検査なんてしませんよ!」

 健太郎が憤慨して長谷川を見つめた。

「まあ、君の気持ちはよくわかる。俺だって同じ気持ちだ。でもな、これが社会で決められた規則なんだ。俺達は不満があってもそのルールに従って診療しなければいけないんだよ」

 俊介が健太郎をなだめた。

「ルールって患者のために作られるものでしょ?今の保険制度って患者のためになっていないことがいっぱいあるような気がするんですが・・・。使いたい薬が保険診療で認められていないことだってあるし・・・」

「そうだな。でもそれも全部お偉いさんが決めたことだから俺達にはどうすることもできないんだよ」

 俊介は笑いながら言った。

「なんか・・・やりきれないですよね」

 健太郎はあきらめたように天井を見上げた。

「正しいと思うことをしたかったら偉くなることだな」

「え?」

 健太郎は思わず俊介に聞き返した。

「偉くなれば自分の好きなようにルールを作ることができるだろ?たとえば俺はこの病院の内科部長だからこの病院の内科診療に関してはある程度俺が正しいと思った診療ができるわけだ。日本で自分が正しいと思う診療がしたかったら日本で一番偉い医者になることだな」

 俊介は笑いながらそう言って健太郎の肩をぽんとたたいた。

「ところで長谷川先生、俺は最近ちょっと胃の具合が悪いんだ。久しぶりに胃カメラでもしてもらおうと思うんだがお願いしていいか?」

「風間先生の胃カメラですか?そういえば2年前にしたきりですよね。じゃあ・・・あさってやりましょうか?」

「頼むよ」

 俊介は長谷川に頭を下げるとレセプトの書類を抱えて医局をあとにした。

    *つらい内視鏡検査*

 2日後、俊介は内視鏡室の検査台の上で仰向けになっていた。

 上部消化管内視鏡検査(胃カメラ)を行う時には咽頭(いんとう)麻酔を行う。麻酔薬を含んだゼリーをのどに含んで5分くらいゴロゴロとうがいをしているのだが、これが苦く、思わず吐き気をもよおしそうになる。俊介は何回か胃カメラを受けているがこの咽頭麻酔は何回やっても苦手だ。

「もういいですよ、風間先生。出してください」

 内視鏡担当の緒方由香里が俊介の横に膿盆(のうぼん)を置いた。俊介は横向きになって口の中の麻酔薬を吐き出した。

「これだけは何回やっても好きになれないよ」

 俊介は笑いながら口元をティッシュで拭いた。

「おはようございます」

 そこへ長谷川聡が元気よく入ってきた。

「おはよう。今日はよろしく」

 俊介は横になったままちょっと頭を下げた。すると長谷川の後ろから健太郎が顔を出した。

「おはようございます!風間先生!」

「高岡先生?なんで君が・・・ここに来るんだ?」

 俊介はけげんそうな顔で健太郎を見つめた。

「今日はよろしくお願いします!」

 健太郎は元気に挨拶してそばにおいてあった手袋を手に取った。

「な・・・なんだ?どういうことだ?」

 急に不安になった俊介は長谷川聡をすがるような目で見つめた。

「高岡先生は先月から胃カメラの研修をしているんですよ。大分慣れてきたからそろそろひとりで大丈夫かな?って思っているんですけど・・・。最初から患者さんの検査をさせるのもどうかと思うので・・・。風間先生、お願いできますよね!」

 長谷川はその大きい身体で俊介を見下ろしながらあっけらかんと言った。健太郎はニヤニヤしながら内視鏡のファイバーを点検している。

「お・・・俺が高岡先生の第1例目・・・なのか?」

 俊介は泣きそうな声で長谷川を見上げた。

「大丈夫ですよ。彼もファイバー操作はほとんど一人でできるようになりましたから。俺も一緒に見ていて危ないことがあったらすぐ変わりますから・・・」

「危ないことって・・・」

 俊介の頭の中は不安でいっぱいになった。

「やっぱりダメですか?じゃあやっぱり第1号は患者さんに・・・」

「いや・・・いや・・・、そんなわけじゃないんだ!やってくれ!」

 俊介は覚悟を決めてマウスピースを口にくわえた。

―もうどうにでもなれ・・・―

 俊介はやけくそな気分で腕を組んで目をつむった。

「おい高岡先生、風間先生のお許しが出たぞ。さあやってくれ」

「わかりました!お願いします!風間先生」

 健太郎の元気な声に俊介は無言でうなずいた。

―お願いしますはこっちのセリフだろ?―

 健太郎はぎこちない手つきでファイバーを右手に握ってモニター画面を見ながら俊介の口の中に突っ込んだ。

「おえっ!!」

 いきなりのどの奥にファイバーを突っ込まれ、俊介は思わず吐きそうになった。

「あーだめだめ・・・そんなに一気に入れたら・・・。もっと優しくゆっくりと・・・」

 長谷川が健太郎の前でファイバーを操作する真似をした。

「すみません、長谷川先生・・・」

―謝ってほしいのはこっちだよ・・・。何でもいいからちゃんと入れてくれ―

 俊介は泣きそうな気持ちになって黙って目をつむっていた。

「風間先生!もう一回行きますからね。力を抜いてください」

―力を抜くのはお前のほうだ。このばか力め・・・―

「はい力を抜いて・・・」

「そうそう・・・喉頭蓋(こうとうがい)をこえたな。風間先生、ちょっとゴクンと飲み込んでください。高岡先生!そこでちょっと押し込め・・・。そうそう・・・入った入った・・・」

 長谷川がうれしそうに声を上げた。上部消化管内視鏡は食道に入るまでが一番苦しい。ファイバーが咽頭を超えて食道に入ってしまえばあとはじっと耐えていればいつか検査は終わる。俊介はそう思いながら目をつむったまま、のどの圧迫感に耐えていた。

「そうそう。エアーを入れながら少しずつすすめる。そこ右、うまいじゃないか。そこがPリングだな」

 Pリングとはpyloric ringの略で幽門輪(ゆうもんりん)といわれる胃の出口である。ここから先が十二指腸になる。

「さあ、うまく超えられるかな?」

 長谷川が画面を見守る中、健太郎は額に汗をにじませながら必死にファイバーを操作してPリングを超えようとしていた。

―腹が・・・腹が張る・・・。何とかしてくれ・・・―

 俊介は祈るような気持ちで目をつむって必死に耐えていた。

「あーだめだめ、そんなにエアーを入れたら・・・。患者さんが苦しいだろ?ねえ風間先生?」

 ゲフー!!!!俊介は耐え切れなくなって思いっきりげっぷをした。

「ほらほら・・・お前がエアーを入れすぎるからだぞ」

「す・・・すみません!風間先生!」

 俊介は無言で目をつむったままうなずいた。

―あー・・・今日はとんでもない日だ・・・。何でもいいから早く終わってくれ―

 内視鏡をする医師が初心者であれ熟練者であれ上部消化管内視鏡検査を受ける患者にはある程度の苦痛が伴う。しかし今の俊介は自分の身体を任せているのが全くの初心者の健太郎だということがわかっているので、不安な気持ちが一杯になりその苦痛が何倍にも感じられるわけだ。もし状況を何も知らない一般の患者だったらこれほどの不安と苦痛は感じなかっただろう。

「そうそう・・・そこだ!そこで押し込め!」

 俊介は腹部に強い圧迫感を感じた。

「入った!入ったぞ。そこがブルブス(十二指腸球部:十二指腸の一番最初の部分)だ」

「はい」

 健太郎が満足そうに微笑んだ。

―入ったのか・・・―

 十二指腸にファイバーが入れば後はゆっくりと観察して抜いてくるだけだ。これで一つの山は越えた。俊介は苦しい意識の中でほっと安堵(あんど)した。

「あらあらあら・・・」

 長谷川が思わず声を出した。

「長谷川先生!これは・・・」

 健太郎もモニター画面を見ながら声を出した。

―なんだ?なんだ?どうしたんだ?―

「風間先生、立派な十二指腸潰瘍(かいよう)ですよ」

―十二指腸潰瘍?―

 俊介は無言で目を開けてモニター画面を見あげた。確かにそこにはオレンジ色の粘膜の中に白くえぐれた部分が見える。

―俺が?十二指腸潰瘍?そういえば最近胃の具合が悪いと思っていたが、こんなものができていたのか―

 柴崎の件があってから俊介はどことなく憂鬱(ゆううつ)で食欲もあまりなかった。いつも胸の奥にどーんとした圧迫感を感じていたのだ。そしてこの十二指腸潰瘍こそがその原因であったのだ。

 人間誰しも病気だと診断されることは決してうれしいことではないが、自分が悩んでいた症状が科学的に説明されたということは一種の安心感を抱かせる。俊介も自分が十二指腸潰瘍と診断されたことになんとなくほっとしていた。

 健太郎は左手でスイッチを押して何枚かの画像を記録していった。

「さあ次は胃の中を観察していくぞ。ファイバーを抜いてゆっくりと・・・見逃しがないようにな。病気を一つ見つけても安心しちゃだめだぞ。十二指腸潰瘍に胃癌が合併していることだってあるんだからな」

 『胃癌』という言葉を聞いて俊介はまたまた不安な気持ちになる。健太郎は長谷川の言葉にうなずきながらファイバーを抜いてゆっくりと胃の中を観察していった。

「何もないですよね・・・」

 健太郎がちょっと不安げに長谷川の顔を見て聞いた。

「ああ、大丈夫だな。あとはピロリ菌のチェックだ。さあ、代わろうか。ここから先は俺がやるから・・・」

 長谷川はそう言うと健太郎からファイバーを受け取った。

「ピロリテック準備してくれ。風間先生、ピロリ菌の検査しますので組織を3箇所ほど取らせてもらいますよ」

 長谷川の声に俊介は安堵してうなずいた。ピロリ菌はヘリコバクターピロリといわれる胃の中に住み着く細菌である。顕微鏡で見るとシッポの部分がらせん状になっているので「ヘリコ」という名前がついた。胃潰瘍や十二指腸潰瘍の原因となることがあるので潰瘍が見つかった時には胃の粘膜を採取してピロリ菌に感染していないかどうかを確認する。

 長谷川は手際よく内視鏡の鉗子孔(かんしこう)から鉗子を挿入して続けざまに3個の組織を採取した。俊介はちょっとお腹が引っ張られるような感じを受けたが特に痛みは感じなかった。

 組織を採取するだけなので健太郎から長谷川に術者が代わってもそれほど大きな違いはないのだが俊介はずいぶん楽になったような気がする。これも安心感から来るのだろう。

「じゃあ終了します。あと食道を観察して終わりますからもう少し辛抱してください」

 長谷川はそう言いながらゆっくりとファイバーを抜いて慎重に画面を見つめた。

―ああ・・・これで終わった―

 まだのどの奥にはファイバーの圧迫感を感じていたが俊介は心の底から安堵していた。

「はい、終わりです。ご苦労様でした」

 ファイバーを口から抜かれた俊介はちょっとむせながらうなずいた。

「・・・あ・・・ありがとう・・・ごほ・・・」

「大丈夫ですか?風間先生」

 俊介は背中をさすってくれる健太郎をチラッと見た。

―大丈夫じゃないのは・・・お前の・・・せいだろうが・・・―

「風間先生。こんな潰瘍ができていたんじゃずいぶんつらかったんじゃないですか?」

 長谷川が手袋をはずしながら聞いた。

「確かにこのところ食欲がなくて気分が優れなかったが・・・。これのせいだったのか・・・」

「高岡先生、お前が心配ばっかりかけるからだぞ!ちょっとは責任を感じているのか?」

「そ・・・そんな・・・俺は一生懸命に診療しているだけですよ。そりゃあ確かに風間先生に心配かけているかもしれませんけど・・・」

―今までのことなんて今日のお前よりは何百倍もましだって・・・-

「それはそうと・・・ピロリテックは・・・。ありゃありゃ・・・もう陽性ですよ」

 長谷川は組織を付着させたシートを見ながら言った。普通ピロリ菌の検査は30分から1時間くらいで判定するが俊介の胃の組織はもう陽性反応が出ている。

「風間先生、除菌したほうがいいですね」

「そうか・・・じゃあ処方を頼むよ」

 ピロリ菌感染は決して珍しいことではない。俊介の年齢では6割以上の人間はピロリ菌に感染していると言っても過言ではない。しかしピロリ菌に感染しているすべての人が除菌治療を受けなければいけないわけではなく胃潰瘍や十二指腸潰瘍などを発症した患者のみが除菌の対象となる(注:除菌治療が保険適応となるのは胃、十二指腸潰瘍などの病変が確認された患者のみである)。

「高岡先生、除菌の処方知ってるか?」

 長谷川がコンピュータに所見を入力している健太郎に聞いた。

「ピロリ菌の除菌ですか?えっと・・・PPI(protone pump inhibitor:強力な制酸剤)とクラリスロマイシンと・・・アモキシシリンを1週間でしたっけ・・・」

「そうそう。よく知ってるじゃないか」

「はい。えっと・・・じゃあパリエットとクラリスとサワシリンでいいですか?」

「だめだめ。PPIはパリエットじゃなくてタケプロンかオメプラールだよ」

「え?でも、どれも同じようなもんじゃないですか」

「そういう決まりなんだよ。効果は一緒でもピロリ菌の除菌にはタケプロンかオメプラールを使うことになってるんだ。それがルールなんだ」

「またルールですか・・・。もういやになっちゃいますよ」

 健太郎は不満そうにコンピュータの入力を続けた。俊介は検査ベッドにぐったりと横になったまま、まだちょっとむせながら手招きで長谷川を呼んで小声でつぶやいた。

「長谷川先生・・・。もうしばらく彼には・・・ごほ・・・一人で・・・ファイバーを握らせるな・・・」

(注:2007年よりパリエットも除菌適応となっている)

 カルテ10(3/4)に続く

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2008年9月13日 (土)

風の軌跡:カルテ10(1/4)

風の軌跡ー風間俊介診療録ー:カルテ10(1/4)

   「ルール」

 現実に合わない規則に嫌気がさしている健太郎。ついに彼は規則を破って当直の時に2日分の投薬をしてしまうが・・・

    *心筋梗塞?*

「河野先生!右冠動脈(かんどうみゃく)のAMIです!」

 高岡健太郎は、息を切らせて救急室に飛び込んできた河野孝明を見るや否や叫んだ。

「バイタルは?」

 河野は聴診器を取り出して患者の胸にあてながら呼吸を整えて冷静にきいた。

「血圧82の38!sPO2 90%、脈拍60です!」

 そばにいた外来師長の山際良子が即座に答えた。

 午前11時、健太郎は救急車で転送された男性の心電図から急性心筋梗塞と診断した。そして循環器内科医の河野孝明にすぐに連絡したのだ。健太郎はたった今とったばかりの心電図を河野に見せた。

「II,III,aVf誘導でST上昇か・・・。確かにAMIらしいな」

 河野が答えた。

「カテですね!カテ室(血管造影室)のナースにはもう準備するように言ってあります!すぐ運びましょう!」

 急性心筋梗塞は心臓を栄養する冠動脈が閉塞(へいそく)する疾患である。冠動脈が閉塞するということは心筋に血液が供給されないということで、そのまま放置すれば心筋はどんどん壊死がすすんでいくことになる。

 心筋の壊死がすすめば心臓のポンプとしての働きは低下する。しかしカテーテル検査を行い、PCI(冠動脈形成術)により閉塞した冠動脈を開くことができれば心筋の壊死の進行を止めることができる。1分でも早く血流を回復できればそれだけ壊死心筋の量を減らすことができるわけだ。

「ちょっと待ってくれ。まず心エコーをするから」

 河野はせかす健太郎を制して手早くそばにあったエコーの機械を引き寄せて電源を入れた。そして患者の胸にエコープローブをあてた。

「河野先生・・・下壁(かへき)の動きが悪いようですが・・・。やはり心筋梗塞ですね」

「そうだが・・・それだけじゃなさそうだ」

 エコー画面を見ながら河野が冷静に答えた。

「それだけじゃないって・・・?心電図ではSTが上がって・・・間違いなく心筋梗塞じゃないですか?」

「その理由は今から教えてやるよ。CTをとるぞ」

「え?CTですか?」

 CT室では健太郎と河野がじっと画面を見つめていた。

「どうだ?高岡先生」

 河野がモニター画面を見つめながら健太郎に聞いた。

「えっと・・・」

「荒木君、大動脈基部(きぶ)を見せてくれ」

 河野はCTの操作をしている荒木技師に言った。

「はい」

 健太郎は映し出されたモニター画面をじっと見つめた。

「あ・・・解離(かいり)・・・ですか」

 そこには裂けた大動脈の壁が映し出されていた。

「そうだ。この患者はただの急性心筋梗塞ではない、解離性大動脈瘤だ。大動脈の基部が裂けて右冠動脈を閉塞した。だから心電図ではII,III,aVf誘導のSTが上昇していたってわけだ。だからこの患者にはカテは必要ない。すぐオペだ。心臓外科の村上先生にお願いしないとな」

 大動脈の壁は内膜(ないまく)、中膜(ちゅうまく)、外膜(がいまく)の3層に分かれている。解離性大動脈瘤は中膜の部分で大動脈の壁が裂ける病気だ。

「大動脈解離ですか・・・」

 健太郎は呆然(ぼうぜん)とモニター画面を見つめていた。

「もし・・・この患者さんを・・・直接カテ室に送っていたら・・・どうなったんでしょう?」

「右冠動脈は解離した大動脈の内膜で閉塞しているわけだから、いくらカテーテルを突っ込んでも右冠動脈は造影されないだろうな。そうしているうちに解離が進行して血圧が下がって・・・ショックになってテーブルデス(カテーテル台の上で死亡すること)ってとこだな」

 健太郎は絶句した。自分が絶対正しいと思っていた選択、1分でも早くカテ室に運ぶという選択はこんなにも大きなリスクを背負っていたのだ。

「恐ろしい・・・ですね」

「ああ・・・エコーで心臓だけじゃなくて大動脈も丁寧に診(み)ないとな。エコーで解離の診断はなかなか難しいが、時には診断できることもあるさ」

「河野先生・・・すごいですね」

 健太郎は河野の診断能力に心から感心していた。この患者が単純な心筋梗塞ではなく、解離性大動脈瘤である可能性を彼が考えなかったら今頃この患者は血管造影室の検査台の上で冷たくなっていたかもしれないのだ。

「そんなたいそうなもんじゃないよ」

 健太郎の賞賛に河野はにこりともせずに、そうつぶやいて健太郎と目を合わせずに患者のほうへ向った。

 患者が戻った救急室では河野が心臓外科の村上俊和に引継ぎをしていた。患者の様態は一応安定しているが一刻も早い緊急手術が必要なのだ。

「河野先生、あとは任せてくれ。それにしてもよく診断できたな。あわててカテしていたら今頃は死んでるな」

 村上俊和は笑顔で河野の診断能力をたたえた。

「いえ・・・よろしくお願いします」

 河野は村上俊和に頭を下げて静かに救急室の出口のドアを開けた。そこには健太郎から患者の報告を受けてやってきた俊介の姿があった。河野は俊介を見ると軽く会釈してその傍らを通り過ぎた。俊介はちょっと微笑んで後ろから河野の肩をぽんと軽くたたいた。  

   *10年来の恋人*

 夜7時頃、俊介は医局にいた河野孝明に声をかけた。

「河野先生。仕事終わったか?今日はちょっと付き合わないか?」

「え?」

「たまにはいいだろう?」

 人懐こい笑顔の俊介を見て河野も笑顔で答えた。

「はい。お願いします」

 天真爛漫(てんしんらんまん)で注文した料理を腹いっぱい食べた二人は苦しそうに椅子にもたれかかっていた。

「あー今日はよく食ったな。ちょっと注文しすぎたかな、とても食べ切れん。それに・・・最近胃の具合が悪くってな・・・」

 俊介は腹をさすりながら言った。

「はい・・・。たまには・・・外食も・・・いいですよね」

 河野は普段ほとんどアルコールを飲まない。忘年会や会合があっても乾杯のビールに口をつけるだけで、もっぱら食べることに専念するタイプだ。もちろん自宅での晩酌もしない。しかし今日は生ビールの大ジョッキを飲み干し、かなり酔ってしまったようだ。ほとんどろれつが回らない状態だ。

 そこへ仕事の帰りに立ち寄った健太郎が入ってきた。

「あれえ?風間先生。河野先生も!イヤー珍しいな!」

 健太郎はうれしそうに走りよって河野の隣に座った。

「高岡・・・先生か?久しぶり・・・」

 河野はろれつの回らない口調で笑いながら健太郎の肩をたたいた。

「河野先生、もうかなりできあがっちゃってますね?大丈夫ですか?」

「何・・・言ってんだ?お前が・・・俺のことを・・・心配するなんざ・・・十年早いって・・・」

 河野はそう言いながら壁に寄りかかって眠ってしまった。

「風間先生・・・。河野先生、大丈夫ですか?」

「普段あんまり飲まないからな・・・。もう帰したほうがよさそうだな。これ以上だと俺が奥さんにしかられそうだ。高岡先生、悪いがタクシーを拾ってくれるか?」

「わかりました」

 河野は健太郎と俊介に抱きかかえられてタクシーに乗せられた。

「大丈夫か?ちゃんと帰れるか?」

「大丈夫ですって・・・。運転手さん・・・えっと・・・S市公民館の裏まで・・・お願いします・・・」

 そのまま河野は眠ってしまった。

「運転手さん、すみません。公民館の後の病院官舎までお願いします。おつりはいいですから・・・」

 俊介はそう言いながら千円札を運転手に渡した。

「高岡先生、遅くまでご苦労様。さあ乾杯だ」

「乾杯!」

 健太郎はうれしそうに俊介とジョッキを合わせ、そしてその3分の1を一気に飲み干した。

「あー!うまい!へへへ・・・。今日はラッキーでした」

 そう言いながら残っている料理を次々と平らげていった。一人で居酒屋に来れば最低3000円の出費は覚悟しなくてはならない。しかし俊介と一緒にいるということはどんなに飲んでも食っても金の心配はしなくてもいいということだ。

「それにしても河野先生、大丈夫でしょうか?あんなにぐでんぐでんの河野先生、見たことないですよ」

「まあ・・・奥さんには電話しておいたから大丈夫だろう」

「でも・・・河野先生ってすごいですよね。今日の患者さんなんて他の医者が診てたら完全に死んでますよね。あ、風間先生は別ですけど・・・。俺なんて一刻も早くカテ室に送ることしか考えてませんでしたから・・・」

「そうかもしれないな」

「それにしても・・・今日の河野先生どうしちゃったんですか?あんなに酔っ払って・・・。誰か好きなナースにでも振られちゃったんですかね?」

「何言ってるんだ。河野先生は君とは違うって・・・」

 俊介は笑いながらジョッキを口にした。健太郎はちょっとブスっとして目の前の料理をつまんだ。

「好きなナースに振られたか・・・。その逆だな」

「え?」

「河野先生は今日、10年来の恋人に出会ったんだ」

 その瞬間、健太郎は口の中の物を噴き出してしまった。

「す・・・すみません!こ・・・恋人ですか?あの河野先生が・・・?奥さんと・・・3人の娘さんがいる河野先生に恋人ですか!そ・・・その話、詳しく聞かせてください!」

 健太郎はテーブルをおしぼりで拭きながら俊介の顔を真剣な目で見つめた。

「聞きたいか?」

 俊介は健太郎の顔をじっと見つめ返した。

「は・・・はい!ぜひ聞きたいですよ!風間先生!」

「そうか、じゃあ話してやろうかな・・・。でもな、河野先生の恋人の話は君が想像しているような浮いた話じゃないんだ」

「はあ?」

 健太郎はけげんそうな声を出した。

「君は河野先生が今日の救急患者さんを診断できたことをえらくほめていたな?」

「ええ、さすが循環器専門医だって思いました」

「今から十年前のことだ・・・。彼がまだ5-6年目で循環器内科医の駆け出しだった頃、一人の患者さんを誤診しているんだ」

「え?」

「俺も以前、彼から聞いた話だがな。その患者さんは70代の男性だったが、胸痛で救急外来に運び込まれた。心電図でII,III,aVf誘導でST上昇があって血圧60台、心拍数40だ。どう思う?」

「それは・・・誰が診たって右冠動脈閉塞のAMIじゃないですか・・・。あ・・・でも・・・そうか!その患者さんも大動脈解離だったんですか?」

「君の言うとおり誰だってAMIだと診断するだろう。当然彼もそう考えた。右冠動脈が閉塞して洞不全(どうふぜん)症候群(注:心臓の刺激を作り出す洞結節(どうけっせつ)の異常により徐脈(じょみゃく)になる疾患。洞結節は右冠動脈により栄養される)を併発して徐脈になってショック状態になったとな。彼は直ちに患者をカテ室に運んでまずペースメーカーを挿入した。その後脈拍は安定して血圧も80台に回復して彼は引き続いて冠動脈造影を行ったわけだ。しかしいくらやっても右冠動脈にカテーテルが入らない。そのうちに患者さんの血圧が再び低下してショック状態になった。彼はドーパミンやIABP(大動脈バルーンポンピング:大動脈にバルーンをいれて心機能を補助する方法)などあらゆる処置を行ったが結局その患者さんはカテ室で亡くなってしまった。納得できなかった彼は遺族に頼み込んで病理解剖をしたわけだ」

「それで解離が・・・」

「そうだ。その患者さんは今日の患者さんと違って徐脈になっていた。だからまずペースメーカーを挿入する必要があったわけで、一刻も早くカテ室に運んだことは決して間違いではない。そしてAMIの疑いの患者がカテ室にいたらそのまま冠動脈造影をするのもごく当たり前のことだ」

「そうですよね。どんな病態であっても心拍数40でショックになっていたらまずペースメーカーを入れないと・・・。それに・・・AMI疑いの患者にカテ室でペースメーカーを入れたあとにCT室へ運ぶなんてことは現実的じゃないですよ」

「しかし彼はその患者の診断ができなかったことをずっと悔やんでいたんだ。それから彼はAMIの疑いのある患者はどんなに緊急であっても必ず心エコーをしてからカテ室に運ぶことにしたんだ。彼はこの病院で年間50人以上のAMIを診ているだろう?ということはこの10年間で500人以上のAMIを診ているわけだ。彼はその500人は必ず心エコーをしてからカテ室に運んだ。先輩の循環器内科医の中にはそんな彼を批判するものもいた。心電図で診断は確定しているのだからそんな暇があったら1分でも早く冠動脈再建を考えろってな。でも彼はなんと言われても心エコーをすることをやめなかった。もちろんその後、同じ病態の患者は一人も来なかった。この10年間、彼は無駄な努力をしてきたことになるな」

「・・・」

「そして今日、その患者は10年ぶりにやってきた。彼はエコーで解離性大動脈瘤の可能性を考え、カテ室ではなくCT室に患者を運んだ。その結果今日の患者さんは手術を受けて助かった。今日の救急の患者さんは彼にとっては10年来の恋人ってわけだ」

「そんなことが・・・あったんですか・・・。だから河野先生は俺がほめちぎってもうれしそうな顔もせずに・・・」

「彼は今日の患者を救えたことで10年前の呪縛からやっと開放されたんだ」

「だからあんなに酔っ払って・・・」

 健太郎はまじめな顔になってジョッキをつかんだ。

「医者って・・・厳しいですよね・・・」

 そして残りのビールをゆっくりと飲み干した。

「それはそうと風間先生。その河野先生の亡くなった患者さんって、医療関連死になりますよね。やっぱり警察に届けないといけないんでしょうか?」

「医療行為をしている最中になくなったわけだから当然医療関連死になるだろうな。ただ、あの患者は病理解剖の結果、解離性大動脈瘤と診断されたわけだから明らかな病死だ。いまさら河野先生が届出義務違反で逮捕されることはないだろうが、本来は病理解剖をする前に警察に届けないといけないだろう。でも届出をしても問題があるんだがな」

「問題?警察に届けるとどうなるんですか?」

「まず警察が検視を行い、死因に疑問があれば司法解剖に回される」

「やっぱり解剖して死因を究明するわけですね」「そうだ。その結果、死因は解離性大動脈瘤と診断される」

「じゃあ、同じじゃないですか。どうして問題なんですか?」

「解剖の結果は警察にしか報告されないんだ。遺族も医療側も死因がなんだったかはわからないってことだ。もちろん警察に問い合わせても教えてくれない。何しろ俺達は刑事事件の被疑者になるかもしれないわけだからな」

「死因がわからなかったら、これから同じような患者が来たときにどう対応していいかわからないじゃないですか?河野先生は病理解剖をして解離性大動脈瘤と診断されたからずっと心エコーをしてきたわけでしょ?じゃあもし河野先生が10年前に警察に届け出て司法解剖になっていたら・・・」

「今日の患者さんは助からなかっただろう。そしてまた警察に報告して同じことが繰り返される」

「そんなばかげたことが・・・」

「それだけじゃない。警察は司法解剖の結果、死因は解離性大動脈瘤と診断する。当然河野先生の診断ミスの可能性を考えるかもしれない。カテーテル検査をする前にCT検査をしていれば診断できたはずだとな」

「またですか・・・。そんなことあとから言われたって・・・」

「警察には医療現場の実情なんてわからない。AMI疑いの患者がカテ室の検査台の上に乗っているのにカテーテル検査をせずにCT室に運ぶということがどんなに非現実的なことか・・・。じゃあエコーをしろと言うかもしれないがエコーで診断できる解離性大動脈瘤は多くない。今日の患者は運がいいわけだ。それに、エコーやCTをしている間に冠動脈の閉塞が持続すれば逆に心筋梗塞で命を落とすことになるかもしれない。そうなればなぜカテ室にいるのにもたもた他の検査をしていたのか?ってことになる」

「あとになってそんなこと言われるなんて絶対おかしいですよ!」

「俺達が救急の現場で医療知識や経験に基づいて判断していることを、医療知識がない警察や検察に捜査させるっていう今の制度が根本的におかしいんだ。医療事故を警察が捜査するのは世界中で日本だけだ。警察だって『そんなこと自分たちの仕事じゃない』って思っているのかもしれないけどな。でもこれが日本の国で決められたルールだから仕方ない。前に君に言ったことがあるが、中立の医療事故調査機関や医療関連死調査機関が日本にもできるといいんだがな」

「俺、日本で医者やってるのが、いやになってきましたよ・・・」

 健太郎は不機嫌そうな顔でほとんど空になったジョッキをもう一度飲み干した。

   カルテ10(2/4)に続く

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2008年9月11日 (木)

風の軌跡:カルテ9(5/5)

風の軌跡:カルテ9(5/5)

 *敗訴*

「やあ・・・調子はどうだ?」

「ああ・・・俊か。おかげさまで大分いいよ。1週間前の自分がうそのようだ」

 柴崎亮太は俊介の大学時代からの同級生だ。学生時代からきわめてまじめな性格で、道から外れたことが大嫌いなタイプだ。半面融通(ゆうづう)の聞かないところもあるがいつも誠意を持って患者と接し、俊介とはなんとなく馬が合い、大学を卒業してからも時々飲みに行ったりしている。

 実家は産婦人科の医院を開業しており、彼も医局を卒業して8年間大学の産婦人科医局で研修を積んだあと、老いた父親と一緒に仕事をしている。昨年彼がお産させた患者から医療訴訟(そしょう)を起され、先月敗訴の判決が下りた。

 それまでは裁判を闘いながら一生懸命診療を続けてきた柴崎であったが、敗訴とともに糸が切れたように仕事ができなくなった。どんなに自分を奮い立たせても診察に行く気がおきず、自室に閉じこもったままとなった。

 心配した父親と妻が俊介に連絡して俊介が駆けつけたときには彼は自殺を企(くわだ)てる寸前であった。俊介はあわてて精神科の須藤隆康医師に連絡を取り、緊急入院となったわけだ。そして治療のかいあって彼の病状も徐々に回復し、こうやって俊介と普通に会話できるまでになった。

「それはよかった。この機会にゆっくり身体を休めるといい」

「代診(だいしん)の先生を世話してもらってすまない。おかげで仕事のことは忘れてゆっくりと休ませて貰っているよ」

 柴崎産婦人科医院はW町周辺の出産を一手に引き受けている。年老いた父親だけではとうていまかないきれない。俊介は産婦人科部長の佐藤琢磨に頼み込んで週に何回かパートの診察と出産を引き受けてもらったのだ。

「そんなことは気にするな。佐藤先生も亮のところならと、気持ちよくOKしてくれたよ。これも日ごろのお前の精進(しょうじん)のたまものだな」

「すまない」

 柴崎はギャジアップしたベッドに背をもたれかけてちょっと微笑みながら答えた。そんな彼を見た俊介も軽く微笑みながら椅子に腰掛けた。

 1週間前は目つきがまるで違っていた。俊介が問いかけても顔を見ずに下を向いたままで会話もまともにできなかった。上目づかいに俊介を見つめたその目を見たとき、背筋がぞっとしたのを覚えている。それが今ではヒゲもそって衣服もきちんと整え、以前と同じように俊介に気を使って話をしている。

―あー・・・大分よくなったようだ。いつもの亮に戻っている―

 俊介はそんなことを考えながら思い切って聞いてみた。

「ところで亮、まだこんな事を聞いてはいけないのかもしれないが・・・。よかったら・・・裁判のことを話してもらえないだろうか?」

 自殺未遂をするほどひどいうつ状態であった患者に事情をあれこれ聞くことは決して正しいことではない。しかし俊介は今は医師としてだけではなく親友として何とかこの友人の心の中を理解して少しでも力になってやりたいと思う。

 そのためにはその原因の大半を占めたであろう訴訟のことを聞く必要があるのだ。柴崎はじっと俊介の顔を見つめていた。

「いや、無理にというわけじゃないんだ。ただ少しでも・・・お前の気持ちを理解したいと思ってな・・・」

「いいよ、俊。お前にはちゃんと話しておきたいと思っていたんだ。でも時間は大丈夫なのか?」

―俺の時間のことを気にしてくれている。以前のこいつに戻っている―

 俊介はほっとした。

「ああ。今日は病棟も落ち着いているからな。時間はたっぷりあるんだ」

「そうか・・・じゃあ聞いてくれ。問題のお産はちょうど1年前だった・・・」

 柴崎はゆっくりと前を見て語り始めた。

「その妊婦はな、東京でモデルをしている23歳の女性だったんだ。出産は実家の近くでしたいと言って俺のところでお産することになったわけだ。産道(さんどう)が狭くてな、ひょっとしたら帝王切開になるかもしれないって話をしたんだ。そしたらな、出産したあとはまた仕事に戻りたいから極力自然分娩でお願いしますって言うんだよ。妊娠中もずっと体型が崩れないように、妊娠線ができないように必死に努力してきたらしい」

「なるほどな。帝王切開をすれば下腹部に大きな傷がつくからモデルの仕事をしていれば水着になるのはちょっと厳しいかもしれないな」

「ああ・・・。でもな、俺はお産に関しては何よりも母体(ぼたい)の安全を第一に考えるんだ。その次が胎児の安全だ。それ以外のことはあまり重視しない。だから俺は危険だと感じたらすぐに帝王切開を選択する。10人の産婦人科医がいたら俺はその中で1-2番目に帝王切開を選択する確率が高いだろう。だから俺は出産の前にその夫婦に言ったんだ。確かにそのことは頭に入れておきます。でも自然分娩に危険があれば私の判断ですぐに帝王切開に切り替えますがよろしいですかってな・・・」

「俺は産婦人科のことはよくわからんが、慎重な亮のことだから危険だと思ったらすぐに帝王切開をするんだろう?」

「ああ・・・。そしてその夫婦もそれを了承した。そしていよいよ陣痛が始まった。予想通り難産だった。半日たってもなかなか胎児は下に降りてこない。出産のときに胎児の心拍をモニターすることは知ってるな?」

「ああ・・・胎児心拍数が低下すれば危険な状態になるんだろ?」

「そうだ。俺は慎重にモニターを見つめながら帝王切開を決断するタイミングを見計らった。そして胎児の心拍数が急に落ちた。俺は今が帝王切開に踏み切るべき時だと考えて母親に話した。しかしな、彼女は我慢強い女性でこう言ったんだ『先生・・・私、まだがんばれます。おなかに傷をつけないで・・・』ってな。お産の苦しみって言うのは俺達男には想像できないくらいつらいものだ。それを今感じている彼女がそんなことを言うのは彼女が本気で仕事に打ち込んでいるのだと思った」

「しかしこのままでは胎児も母体も危険になる。そう考えた俺はもう一度彼女を説得しようとしたんだ。しかしその時、胎児の心拍数が元に戻った。それを見て俺は帝王切開をやめて吸引分娩を行うことにした。胎児の頭を吸引して分娩させる方法だ。しかし帝王切開にいつでも移行できるように手術室の準備は平行して始めさせた。しかし1時間がんばったが胎児は出てこない。俺はこれが限界だと考えてもう一度帝王切開を勧めようとした。その時胎児の心拍数が再び低下したんだ」

「俺は一刻の猶予もないと判断して母親に簡単に説明した。彼女も今度はお願いしますと了解してくれた。帝王切開は・・・あらかじめ準備しておいたのですみやかに開始できた。そして自分で言うのもなんだが手技はきわめてスムーズだったと思う。多分他の産婦人科医ならば倍くらいの時間がかかっただろう。でもな・・・胎児は仮死(かし)状態で生まれてきたんだ」

 俊介は無言で柴崎の話を聞いていた。確かに俊介も内科医師として人の生き死にに立ち会っている。しかし内科の場合は目の前の患者は常に一人であって、その患者を救うことを精一杯に考えていけばいい。

 そして不幸にも患者を救うことができなくてもベストの医療を行ったのならばなんら責められることはないはずだ。しかし産婦人科の場合は必ず母体と胎児の二つの命がかかわってくる。しかもどんな場合でもその両方を問題なく救うことが要求されているのだ。

「結果としてその子は・・・脳性まひになってしまった。多分一生寝たきりの生活で言葉もしゃべれないだろう・・・。両親は当然分娩に問題があったとして俺を訴えたってわけだ」

 柴崎は目を伏せて寂しそうに言った。

「それは・・・大変だったな・・・」

 俊介は目を伏せる柴崎の顔を見てつぶやいた。健康に生まれて祝福されるべき一人の子供が脳性まひになってしまった。一生歩くこともしゃべることもできない。両親の落胆はどれほどのものだろう?産婦人科の医師に怒りをぶつける気持ちもよくわかる。しかし・・・。

「でも亮、俺にはよくわからんが、今の話を聞くとお前には落ち度はないじゃないか。ちゃんとインフォームドコンセントもとっているし、有害事象(ゆうがいじしょう)を起さないために慎重に対処している。しかも行った処置も的確だ。なぜ敗訴になるんだ?」

「俺も訴訟を起されたときにはまさか敗訴になるなんてことは考えなかったさ。もちろん患児や両親はかわいそうだと思うがな。でもな俺も今回わかったんだが医療裁判っていうのはそんなものだ」

「そんなもの?」

「健康に生まれるべき一人の人間が一生寝たきりになってしまった。それは誰かに責任があるはずだっていうのが裁判官の考え方だよ。その責任があるのは分娩をした医者の俺ってわけだ」

「君にどんな責任があるというんだ?」

 俊介はちょっと憤慨して聞いた。

「最初に胎児の心拍数が落ちただろう?そのときに帝王切開を選択していれば脳性まひにはならなかっただろうっていうのが裁判官の意見だよ。胎児心拍数の低下を見たときに異常事態であることを認識して母親に帝王切開の必要性を説明して強く説得すべきであった。胎児に重篤(じゅうとく)な合併症が起こる可能性を説明していれば母親はその時点で帝王切開を選択し、脳性まひの合併症は避けられた可能性が強い。被告の説明義務違反および処置の遅延に対して1億2450万円賠償を請求するってわけだ」

「そんなことが・・・」

 俊介は絶句した。

―柴崎の行った医療行為のどこに間違いがあるというのだ?確かに最初の胎児心拍低下のときに帝王切開をしていれば脳性まひは避けられた可能性もある。しかしそんなことは後から結果を見て判断できることで、その時に結果が分かっていれば柴崎も帝王切開を強く勧めたはずだし、妊婦も拒絶することはなかっただろう。

 しかし神様でもない限り前もって結果を知ることはできない。我々は経験に基づいて状況を的確に把握して判断していくしかないのだ。柴崎は十分な経験を持ち、状況を的確に判断し、しかも患者に誠意を持って対応している。それで悪い結果が生じたからといって医師の責任にされるのは同じ医師として俺には納得できない。

 もしそのときに帝王切開をして無事に胎児が出産されたとして、今度は母親がおなかに傷をつけられたことで訴えることはないのか?私はまだがんばれますと言ったのに無理に帝王切開をしておなかに傷をつけられた。モデルとして得られる収入が大きく減少し、また大きな精神的苦痛を負わされた。そんなことを言ってになったのではないのか?―

「それで・・・お前は控訴(こうそ)しないのか?」

「最初は絶対控訴すると考えたさ。でもな・・・実際俺が最初の時に母親の希望を無視して無理に帝王切開をしていればあの子は健康に生まれてきた可能性もゼロではない。その意味では俺にも責任があるのかもしれない。俺が控訴すればあの家族はまた多額の裁判の費用と長い年月を費やすことになる」

「幸い俺は保険にも入っているから1億はそこから支払われる。俺が負担するのは残りの2000万円あまりだ。少々きついがこれからも一生懸命仕事をしていけば何とかならない金額ではない。このまま控訴しなければあの家族には賠償金が支払われることになる。それに、最近は結果が悪いからといって刑事訴訟を受けて逮捕されたり起訴されりする産科医もいるんだ。俺の場合は民事ですんでいるから、犯罪者にされるよりはましだと思わないとな」

「だからといって・・・」

「もしかりに俺が控訴して勝訴したら家族は1円も受け取れないことになる。脳性まひの社会保障なんてすずめの涙ほどだ。そんなことになったらあの子の生活はどうなるんだ?」

 俊介は胸が締め付けられるような気持ちになった。誰が悪いわけでもない。両親も、医者も、裁判官も、もちろん患児も・・・。みんなが幸せになりたいと思い、目の前の人間を幸せにしたいと努力してきたのだ。しかし結果は・・・。俊介は顔を上げて柴崎に聞いた。

「確かにその家族は不幸だろう。しかしその責めを医師に無理やり過失を押し付けて受け負わせるというのは・・・ちょっとひどすぎないか?」

「ああ・・・、俺もそう思うよ。でもな誤解を恐れずに言わせて貰えばこれは今の日本の司法制度や行政にも問題があると思うんだ。まず、医療を知らない裁判官が医療行為に対して正しい判断ができるはずがないじゃないか。医療訴訟には医療訴訟を扱う専門的な機関が必要なんだ」

「それは、俺もそう思う。いくら鑑定人とか参考人とかを連れてきたって最終判断を医療の素人ができるはずがない」

「それと今の日本では脳性まひになった患児に対する補償が不十分なんだ。だから司法は誰かに責任をかぶせて賠償を請求しようとする傾向が強くなる。医療事故が起こったとき、医師に明らかな過失があればもちろん医師の責任で賠償金が支払われるべきだ。しかし脳性まひのように今後何十年に渡って介護や家族の負担が必要な疾患を発症した場合には医療ミスがあろうがなかろうが国が十分な補償をしてやらなければならないだろう。もし国が脳性まひになった患児に1億の補償を出す制度があったら裁判官は俺の過失だと結論付けなかったように思うんだ」

「なるほど・・・今後の経済的負担が大きくなる疾患を発症した場合は医療側に過失があろうがなかろうが国がしっかりした金額を補償するということか・・・」

「まず、しっかりした経済的補償を与えた上で、患者側が医療行為に疑問があればそこで専門の医療事故調査機関に訴えて医療ミスがあったかどうかを判断してもらえばいいんだ。そこで医療ミスが指摘されれば補償の一部を医療側が負担する」

「しかし国が補償するってことは、その費用は国民が負担するわけだろう?だから国民がそういう補償を受けるためには出費が必要だってことを納得しなければこの制度は成立しないな。それに専門の医療事故調査機関を作るのにも莫大な費用がかかる」

 日本ではとにかく医療費削減の方向に動いている。毎年何兆円もの医療費が雪だるま式に増えていくからだ。しかし、いい医療を受けるためには当然それだけの出費も必要になるはずだ。出費を抑えれば質は下がる。今の日本の国民が要求する医療を行うためには今の3倍の医療従事者と3倍の医療費が必要だろう。日本の医療従事者の数は先進諸国の3分の1で医療費は2分の1である。それでも日本はどの先進諸国よりも高い医療水準を維持できている。それはなぜか?

 それは日本の医療従事者が昔から自分や家庭を顧みずに朝から晩までそれに見合わない報酬で献身的に働いてきたからだ。そして日本では医師や看護師、検査技師などはそうすることが当然だとさえ思われている。そんな今の日本で国民が多額の負担をしてさらに高額な補償をするなどという制度を成立させることはかなり難しいことだ。そして専門の医療事故調査機関や医療関連死調査機関が日本で機能すれば・・・患者側にとっても医療側にとっても大きなメリットになるだろうが、それにはさらに多額の出費が必要となる。

(注:2008年に入って、脳性まひに関しては医師に過失がなくても補償を受けられる『無過失補償』の制度、医療事故を調査する第三者機関を作り上げる動きが出てきている)。

―だいたい、医療の専門家ではない裁判官に柴崎の行った医療を判断できるはずないじゃないか―

 俊介はもう一度憤慨して考える。柴崎が帝王切開を遅らせたことに責任があるのかどうかを判断するならば、たとえば10人の産科医師に「結果を知らせずに」この妊婦の状況を与えてシミュレーションを行わせることが必要だろう。その結果、全員が最初から帝王切開をすると結論を出したならば柴崎の判断は間違えていた可能性が高いことになる。当然柴崎は敗訴になり賠償金を支払うべきだ。

 しかし10人のうち3人が帝王切開をしないと判断したならば、選択肢が最初から二つあったことを意味し、柴崎の判断は間違いとは言えないという結論になる。それでも裁判官が多数決と言って柴崎を罰するならば同じ判断をした3人の産科医も罰せられるべきで、強いてあげれば全国8000人弱の産科医の3割の2500人も同じ意見であるはずなので罰せられることになる。

 そして裁判官は2500人の産科医に今後このような判断をしないように警告しなければならず、それによって日本の自然分娩は減り、帝王切開は飛躍的に増える。医療のことを知らない司法にこのような権限を与えることは誰が考えても間違っているだろう。

 医療はファジーなもので、一人の患者に対して一つの治療法が決まっているわけではない。普通、複数の治療法があり、どれを選択してもうまくいくこともあるし、どれを選択してもうまくいかないこともある。そしてその中の一つだけがうまくいくこともある。しかし多くの場合、結果を見るまではどれが正しいかわからない。だから医師は過去のデータや自分の経験などから一番いいと思う方法をおのおのが選択するわけだ。

 そしてたとえ結果が悪くても選択した方法が普通の医師が考えて妥当な範囲にあるのならばその医師の責任は追及できない。いや、追求してはいけないはずだ。

 誰にも責任がないのに患者に有害事象が起こることは産科に限ったことではない。

 たとえば胃や十二指腸潰瘍から出血した場合には内視鏡による止血処置が行われる。出血している血管をクリップという小さな金具で挟んで止血させるわけだ。しかしこの処置はいつもうまくいくわけではない。クリップが血管を傷つけ、逆に出血を助長させてしまうこともありえるのだ。

 吐血した患者に内視鏡検査をして、まさに出血している血管が見つかった場合はほとんどの内視鏡医はクリップによる止血術を試みる。今、目の前の出血を止めなければ出血性ショックとなり命はないからだ。

 しかし問題は内視鏡検査を行った時に一時的に止血している場合である。出血源と思われる血管(露出血管)が見つかったが現在は出血していない場合、内視鏡医は考える。

 クリップによる止血操作がうまくいけばこの露出血管から再度出血する可能性は非常に少なくなる。しかしクリップが露出血管を傷つけてしまえばせっかく止まっていた出血が再び起こることになる。その場合は出血が止まるまで繰り返し止血クリップを使うことになるが、それでも止血できる保証はない。緊急で開腹手術になったり、出血性ショックから脳梗塞を併発したり、死亡したりする事もあるのだ。

 ではクリップによる止血処置をしない場合はどうなるか?点滴で止血剤や抗潰瘍剤を投与する保存的治療を行うことになるが、数日間経過すれば潰瘍は安定し再出血の可能性はなくなる。しかし、安定する前に露出血管から再出血する可能性がもちろんある。

 その時は緊急で再び内視鏡を行いクリップによる止血を試みるわけだが、胃の中が血の海になっていれば処置は困難となり、最初に比べて止血できる可能性は低くなる。

 そんなわけで一時的に止血している露出血管を見たときに内視鏡医は露出血管の部位、大きさなどから止血処置の難易度を判断し、血圧や貧血などの全身状態、準備されている輸血の量などを考えながら自分の経験にもとづき治療方針を決定する。

 当然結果が思わしくないこともあるのだが、それは治療前には予想ができず、医師は最も確率が高いと思う方法をとるしかないのだ。

 しかしそんな事情を知らない患者は結果が悪ければ納得できないことも当然あるはずだ。なぜ止血しているのにあえてクリップを使って出血させたのか?逆になぜ内視鏡をして出血源を確認したのに止血処置をしてこなかったのか?そんな疑問を抱き、医療側が説明しても納得できず、医療ミスと考えて長年にわたり医療裁判を争うようになるかもしれない。

 医療裁判になれば医療側の過失を患者側が立証しなくてはならない。それは裁判の費用とあわせて医療知識のない患者側には大変な負担となる。そして何よりも患者側と医療側が対立し、険悪な間柄となってしまう。患者は医師を信頼し、医師は一生懸命に治療をしたにもかかわらず対立しなくてはならないのは両方にとって不幸なことだ。

 中立の医療事故調査機関が判断をしてくれれば患者側の負担や医療側のストレスが減り、そして争いごとが減るのではないかと俊介は思う。

「それで・・・これからどうするんだ?」

俊介が柴崎に聞いた。

「実はな・・・俺は産科をやめようと思っているんだ。婦人科と老人医療施設だけにしようと思うんだ」

「え?産科をやめる?でもおまえ・・・亮のところはW町でたった一つのお産ができる医院じゃないか。お前が辞めたら、お産をするためにこのS市まで来ないといけない。夏場はいいとしても雪が積もったら1時間くらいかかるかもしれないじゃないか」

「俺もそう思っていたから今までがんばってきたんだ。本当はな、もう4-5年前から産科はやめたいと思っていたんだ」

柴崎はしんみりと話しはじめた。

「その患者の出産の日は、俺の次男の誕生日だったんだ」

「子供さんの誕生日・・・」

「ああ、小学校5年だがな。いつもならそんな日は大学から当直の先生を頼んで町に食事に出かけるんだ。でもその日は彼女の出産が近いから自宅で誕生パーティをすることにしたんだ。俺もなるべく帝王切開をせずに出産させてやりたいと思っていたからな。パートの医者に任せてはおけないだろ?案の定ハッピーバースデイの歌を歌っているときに陣痛が始まった。俺はケーキに口もつけずにすぐに医院に向った。そしてほとんど一睡もせずにがんばった結果がこれだ」

「・・・」

「医者が努力しても評価されない仕事だってことは俺だって父親を見てきたからわかっているさ。夜中に出かける時だってつらいとは思ったが元気に生まれてくる子どもの声を聞けば疲れなんてすっ飛んだよ。でもな、自分が必死に努力したことが、批判されるようになったら・・・もうその仕事を続けていくことはできないよ」

 目を潤ませながら話す柴崎を見ながら俊介は何も言わずにうなずいた。

 この男にどんな悪意があろう?それどころか学生時代から勉強熱心で医療技術も卓越している。患者のために自分や家族のことも省みずに必死でがんばってきた。それなのに社会からは医療ミスを起した悪徳医師として批判され、1億を超える賠償金を請求されている。どこかがおかしい・・・。

 医療従事者が圧倒的に少ない今の日本の医療が何とか成り立っているのは柴崎のように自分の生活を省みないで必死にがんばっている医師や看護師が支えているからだ。そんな彼らの努力を認めないばかりか結果だけを見て批判するような社会になれば第一線で働いている医療従事者はどんどん辞めていくだろう。

 今の社会は物事の本質を見際めないまま、うわべだけをみて他人を非難する風潮になっているのだ。自分は安全なところにいて、他人を非難することで自分が正義を振りかざしているつもりになっていることも多い。これは決して医療現場に限ったことではない。

犯罪者を見逃した場合、警察は痛烈な非難を受ける。

連続殺人事件の容疑者が逮捕された時に、1ヶ月前にその容疑者の犯罪であることを疑わせる通報があったのになぜ2度目の犯罪が起こる前に逮捕しなかったのか?社会は犯罪が見逃されたとわかった時点で警察を非難する。

しかし最初の通報がどのようなもので、その時にどのような捜査がされたのかはその時点では市民にわからないはずである。その捜査官は的確な捜査をしたにもかかわらずその時点では被疑者の犯罪だと断定できなかったのかもしれない。社会が警察を非難するならばそれを明らかにして捜査官にミスが認められたときに非難すべきで、何もわからない状態で結果だけを見て非難することはおろかなことである。あとからその選択肢が明らかなミスであると判明したとしても、その時点の基準で妥当な範囲の判断がされているならば非難されるべきではない。ミスを犯したことがわかれば、そのことを学習して今後判断の基準を変更していけばいいのだ。

物事の本質を見ようとせずに結果だけを見て他人を非難する、今の日本国民の体質を改善しない限り社会は衰退していくだろう。

 柴崎が産科をたためば、これからW町の妊婦は自宅の近くで出産することはできなくなる。W町の住民は誠実で有能な産婦人科医を失ったことになる。

              *命の重さ*

 自室に帰った俊介は机の前に呆然と座っていた。

「俺は・・・このまま今の仕事を続けていけるのだろうか?」

 S市市民病院の内科部長という仕事は確かにつらいことも多いが多くの人々の人生や命にかかわりを持つことができる。彼は毎日の仕事の中で命の重さを感じることができるはずで、それが医師という職業を続けていくための原動力になってきた。

 しかし、一つ間違えば・・・いや、間違わなくても運が悪ければ柴崎のように社会から非難され、莫大な賠償金を請求されることになる。

 たとえば今回の宮川渚の件はどうだろう?俊介は限られた時間の中で彼女の甲状腺機能を改善させたが、決して正常ではない状態で手術に踏み切った。幸い合併症は起こらなかったがもしも彼女に甲状腺機能亢進による手術合併症が発症したとしたら、機能亢進状態で中絶手術を許可した俊介の責任が問われるのではないか?

「妊娠が進行しており、これ以上は待てなかった」と俊介が弁解したとしても、

「もう1週間待てなかったのか?」と言われたら・・・。

「もう1週待てば合併症の危険は少なくなったのではないか?」と言われたら・・・。

 医師にとっては、結果を見た後でそんなことを追及されるのは全く理不尽なことであるのだが、柴崎の件ではそんなことが正当にまかり通っているのだ。

 俊介は今までつらいことにも耐え、医師というものはそういう職業なのだと自分に思い込ませてきた。しかし自分はその職業ゆえに妻や娘と別れる羽目になった。それでも彼が仕事を続けているのは自分がやっていることが正しいことだと信じており、そして世間もそれを認めてくれるからだ。それが非難されるようになったら・・・。

「そんなことになった時に俺は・・・今の仕事を続けていけるのだろうか?」

 俊介は自分がマスコミの前で頭を下げてひたすらに謝る姿を想像した。自分や自分が管理する部下に過失があれば謝罪するのは当然だ。しかし自分にどうしようもないことを責められても・・・。俊介は大きくため息をついた。

「まあ・・・社会から非難されるようになったら、つらい仕事を続けるなんて無理だろうな。すると俺も柴崎のようにいつかこの仕事をやめる時が来るってことか・・・」

 俊介はもう一度ため息をついて天井を見上げた。今まで自分が必死で作り上げてきたもの、守ってきたものがガラガラと音を立てて崩れていくように思えた。俊介は暗い気分のまま正面に向き直り、ふと目の前の有紀の写真に目をやり、そっと手に取った。

「こいつが生まれたときは・・・産科の先生は大変だっただろうな」

 翔子は妊娠8ヶ月のときに前置(ぜんち)胎盤早期剥離(はくり)で出血がひどく、有紀は帝王切開で生まれてきた。今こうして成長した有紀の姿を見ることができるのは、その時の産科の医師が必死にがんばってくれたおかげだ。ひょっとしたらその日は彼の子供の誕生日だったのかもしれない。結婚記念日だったのかもしれない。それにもかかわらず病院に飛んで来て的確な処置をしてくれたから有紀が元気な姿でいられるのかもしれない。

「彼は一つの命を無事に生まれさせて満足しただろうか?それとも家庭を犠牲にする医師という職業が嫌になっただろうか?」

俊介は今では名前も忘れてしまったその医師に思いをはせた。

「俺も翔子も有紀もその医師のおかげで今幸せを感じている。彼がこの世に生み出してくれた一つの命は俺たちにとってはかけがえなく大きい」

 一つの命を救うということは患者だけではなく、その家族やまわりの多くの人々に長い年月にわたって幸せを与えられるということなのだ。俊介はいつしか命を救うということへの感動が薄くなっていた自分に気がついた。そして一つの命を救うために一生懸命になり、感動していた若い頃の自分の姿に思いをはせた。

「命の重さを・・・感じられるうちは続けられるかもしれないな・・・」

俊介はそうつぶやきながら有紀の写真をゆっくりと机の上に戻した。

              「命の重さ」終わりカルテ10(1/4)に続く

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2008年9月10日 (水)

風の軌跡:カルテ9(4/5)

風の軌跡:カルテ9(4/5)

   *夜8時*

 健太郎はチャイムの音で目が覚めた。

 眠い目をこすってドアを開けるとそこにはスーパーの袋を持った沙紀が立っていた。

「おはよ!健太郎。眠れた?」

 沙紀は明るい笑顔で入ってきた。

「ああ・・・何時だ?夜の8時か・・・。たっぷり眠れたよ。病院からの呼び出しもなかったし、こんな日も珍しいよな・・・」

 腕時計を見ながら健太郎が答えた。

 沙紀は合鍵を持っているのだから自分で開けて入ればいいのだが、健太郎が中にいるときには必ずチャイムを鳴らし、健太郎がドアを開けるのをじっと待っている。健太郎から見れば気を使っているようにも見えるし、自分との付き合いに一線を引いているようにも見える。

―ひょっとしたら・・・いきなり入って俺が誰かといるのを見るのが怖いのか?―

 沙紀の心の中がわからない健太郎はそんなことも考えたりする。

「おなかすいたでしょ?今日は遅くなっちゃったから焼肉の材料を買ってきたの。すぐ準備するね」

 沙紀は笑顔でそう言いながらまっすぐに台所に向った。

「ああ・・・頼むよ。おれ、シャワー浴びてくるわ」

 健太郎は眠い目をこすってそう言いながらバスルームへ向った。

   *安堵(あんど)*

「どうしたの健太郎?あまり食べないね。おなかすいてないの?」

 プレートで肉を焼きながら沙紀が不思議そうに聞いた。

「いや・・・そんなわけじゃ・・・ないんだけど・・・」

 いつもなら沙紀の倍は食べる健太郎だったが今日はどうしても食がすすまない。昼に病院で食べてから8時間以上何も食べていないのだから腹は減っているはずなのだが、これから沙紀に話すことを考えるととても食べる気持ちにはなれない。

―それにしても・・・なんでこいつはこんなにあっけらかんとしているんだ?女ってやつはやっぱりわからん―

 沙紀は健太郎の食欲にはお構いなしにドンドン肉を焼いていく。

「あのな・・・沙紀・・・」

「え?」

「今日はちょっと話があるんだ」

 健太郎は箸(はし)を持ったまま沙紀に話し掛けた。

「何よあらたまって・・・」

「いや・・・食べてからにするよ」

「へんなの。あ・・・私も話があるんだ。今日ね、きたの」

 沙紀はあっけらかんとした笑顔で健太郎に言った。

「きたって・・・何が・・・」

 健太郎は落ち込んだ気持ちのままで沙紀に聞きかえした。

「あれよ・・・いつもの・・・あ・れ・」

 その瞬間健太郎は箸をおいて口の中にあった肉を一気に飲み込み、さらに目の前にあったビールを一気にぐいっと飲んだ。

「きたって・・・お前!本当か!」

「夕方ね。でもこんなに遅れたの始めてよ」

「な・・・なんで・・・なんでそれを先に言わないんだ!」

 健太郎は憤慨して沙紀をにらみつけた。

「そんなににらまないでよ・・・」

 沙紀は不機嫌そうな声を出した。

「だってお前!そのために俺はこの3日間どんな思いでいたと思っているんだ?」

「どんな思いでいたのよ」

 沙紀は健太郎をにらみつけて聞いた。

「どんな思いって・・・」

 健太郎はばつが悪そうに顔を背けた。

 その時ベッドの上においてあった健太郎の携帯が鳴った。健太郎はあわてて携帯を手に取った。

「はい、高岡です!なんだおふくろかよ・・・。起きてるよ・・・なんだよ?」

 健太郎はベッドの上に座り込んだ。

「え?なんだって?けっこ・・・」

 健太郎は沙紀のほうをチラッと見てあわてて目をそらせて後ろ向きになって声を落とした。

「ばか・・・そんなこと冗談に決まってるだろ?ないって!そんな暇あるわけないじゃん!え?まご?ば・・・ば・・・ばか!何言ってんだよ!もう切るぜ・・・帰れないって!忙しいんだから・・・。ああ・・・正月には顔出すから・・・。わかったわかった・・・。じゃあな」

 そう言いながら健太郎はあわてて携帯を切って机の上においた。

「お・・・おふくろだよ。最近もうろくしちまってわけのわかんないことを言い出すんだ。困ったもんだぜ」

 健太郎は沙紀の顔を見ながら額の汗を拭いながら答えた。

「健太郎のお母さん?」

「ああ・・・。一回顔見せろって言うんだけど、そんな暇あるわけないじゃねーか」

「そうだよね・・・。でも、一回会って見たいな、私・・・」

 笑いながら話しかける沙紀を見て健太郎はどぎまぎしながらテーブルの上のコップにビールをついで、また一気に飲んだ。

―な・・・なんだって?俺のお袋に会いたい?こいつ本気で俺と結婚してもいいと思っているのか?―

「だって健太郎のお母さんって健太郎に似ておもしろそうじゃん」

 笑いながら答える沙紀を見ながら健太郎はどう答えていいのかわからず空になったコップに無言でまたビールを注いだ。

「ところで・・・健太郎の話ってなによ」

 沙紀は真剣な顔で聞いた。

「話?ああ・・・ああ・・・あれか・・・。あれは・・・もういいんだ」

 健太郎はあわてて答えると注いだばかりのビールをまた一気に飲んだ。

「なによ。ちゃんと話しなさいよ」沙紀は怒った顔で聞き返した。

「本当にいいんだって!たいした話じゃないんだって!さあ!肉が焦げるぞ!」

 そう言いながら健太郎は一気に肉や野菜を口にほおりこんだ。さっきまで食欲のなかった健太郎だが、それから15分足らずで沙紀が準備した材料のほとんどを一気に食べつくしてしまった。

 健太郎と沙紀はベッドの上に仰向けになっていた。

「ねえ、健太郎?」

「うん?」

「ほっとした?」

「・・・・・・・」

 健太郎は何も答えずじっと天井を見つめていた。そしてゆっくりと口を開いた。

「ああ・・・。よかったって・・・思ってるよ・・・」

 健太郎は自分の気持ちに正直に答えた。

「そう・・・。私も・・・」

「そうか・・・」

 二人の間には沈黙が流れた。

「私ね、本当にできてたらどうしようと思ってたの。やっと今の病棟に来て色々仕事ができるようになったところだし、来年は救急救命士の資格を取ろうと思っていたから・・・。子供ができちゃったら全部だめになっちゃうでしょ?」

「そうだよな・・・」

「本当はね・・・私、堕(お)ろすことを考えていたの・・・」

「え?」

 健太郎は沙紀の横顔をチラッと見つめた。

「でもね、もし本当に子供ができていたら私のそんな気持ちをその子がどう思うかなって考えたの。自分が望まれない存在だってわかったら私のおなかの中ですごく悲しむだろうなって・・・」

 健太郎はじっと黙って天井を見ながら聞いていた。

「そしたら私、自分はなんて勝手な人間なんだろうって思って、どんどん自分のことが嫌いになってきたの。私、二人のことなのに最初は健太郎に責任とってほしいって思ってたのね。健太郎が堕ろせって言ってくれれば自分の責任が軽くなるような気がして・・・。そんな自分勝手なことを考える私となんか一緒にいれるはずないよね・・・」

 沙紀はちょっと潤んだ瞳で言った。健太郎はじっとだまって天井を見つめていた。

「俺も・・・俺もおんなじことを考えていたんだ」今度は沙紀が健太郎の横顔を見つめた。

「俺もな、子供ができたって中絶してしまえば今までどおりにお前とやっていけるんじゃないかってな。でもそんな俺のことをきっとお前はいやになって去っていくんじゃないかって思っていたんだ」

 沙紀は健太郎のほうに身体をまわすと両手で健太郎の腕を握った。

「今日・・・ここに泊まっていっていい?」

「ああ・・・」

 健太郎はそう答えながら自分も沙紀のほうに身体を向けて沙紀の肩を抱きしめた。そして沙紀の顔に唇を近づけようとした瞬間・・・。

「だめよ・・・」

「な・・・なんでだよ?」

「だって・・・始まったって・・・言ったじゃないよ・・・」

「あ・・・そうか・・・」

「ばか・・」

 健太郎は苦笑して沙紀の肩をもう一度抱きしめた。

    *理由*

 次の日の夕方、俊介は医局で産婦人科部長の佐藤琢磨と話をしていた。

「風間先生、宮川さんの件ではお世話になりました」

「いえ、とんでもない、こちらこそ・・・。でも・・・今度もあまり通院してくれそうにはないですね。また先生にご迷惑お掛けするかも・・・」

「そのことなんですが風間先生・・・」

「はい?」

「実は彼女、長年付き合っている男性がいるようなんです」

「ああ・・・そうですか」

 若い女性が一人でいることのほうが不自然だろう。俊介は当たり前のように返事をした。

「その男っていうのがちょっと問題・・・らしいんですよ・・・」

 佐藤は真剣なまなざしで俊介を見詰めた。

「え?やばい・・・人なんですか?」

「いえ、その関係じゃないんですが、何でも自称ミュージシャンでバンドをやっているようです。きちんとした収入もなくてほとんど彼女が養っているそうです。その彼が彼女が太ることをあまりよく思わないらしいんですよ」

「なるほど・・・たしかにバセドウ病でやせているほうが魅力的に見えるのかもしれませんね。でも・・・」

「はい。そんな男と別れてしまえばいいって思うんですけどね・・・」

「そう思いますよね・・・」

「でも・・・好きなんでしょうね・・・」

「そんなもんでしょうか・・・」

 俊介は納得できない表情でうなずいた。

 50の声が近くなった俊介や佐藤には自分の身体がぼろぼろになっても恋愛にのめり込む若い女性の気持ちは正直理解しがたい。しかし病気とわかっていながら治療を受けない宮川渚にも彼女なりの事情があるということで、医者から見ると病気を治療すれば心機能も全身の代謝(たいしゃ)もよくなって万々歳だと思うのだが彼女にとってはそれは好ましいことではないらしい。

 治療によって太っていくことは彼女の人生にとっては許しがたいことであり、さらに妊娠中絶に伴う大きなリスクをも凌駕(りょうが)することなのだ。そんな彼女に治療を継続させるためには彼女の人生そのものにかかわらなくてはならないわけだが、現実問題として俊介にはとうていできない。彼にできることは彼女が妊娠中絶をする前や病気が悪化して全身状態が悪くなったときに一時的に機能を正常化してやることだけなのだ。

「それはそうと風間先生、柴崎先生の具合はどうですか?」

 佐藤琢磨がゆっくりと座りなおして俊介に聞いた。

「ああ・・・佐藤先生、その節はお世話になっています。大分いいみたいです。さっき須藤先生に聞いたらそろそろ普通に面会できるということなので、あとで行って来ようと思っているんです。先生のおかげであいつもゆっくり休めます」

「いえいえ、お役に立てて何よりです。まじめな先生ですから一人で何でもかんでも背負い込んでしまうのでしょう。あの地域のお産を全部引き受けていらっしゃる。本当に頭が下がりますよ。それに腕も確かだ」

「仕事に戻るにはもうしばらくかかると思いますが、引き続きよろしくお願いします」

 俊介は佐藤に頭を下げて医局を出て精神科病棟に向った。

 カルテ9(5/5)に続く

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2008年9月 9日 (火)

風の軌跡:カルテ9(3/5)

風の軌跡:カルテ9(3/5)

   *呼吸困難*

 その日の夜、健太郎は一人で医局のソファに座っていた。

 あれから3日たつが沙紀の生理はまだ来ない。直接話はしていないがさっき廊下ですれ違った時に健太郎が目で合図すると沙紀は暗い顔をして首を横に振った。

 この3日間、健太郎は毎日の仕事にがほとんど上の空である。確かに検査や外来勤務に集中している時には沙紀のことも忘れているのだがふと息をついた拍子に思い出し、そのたびに胸がズーンと重くなる。

「こんな日に限って患者が来ないんだからな・・・。あー仕事をしているほうがよっぽど気楽だぜ」

 今日は健太郎の当直だ。10月になって健太郎の後期研修も半年が過ぎ、今院内にいる医師は健太郎だけである。しかし今日の当直はほとんど患者が来ない。健太郎はテレビを見たり雑誌や新聞を読んだりしていたがまったく集中できず、沙紀の妊娠のことがずっと頭から離れない。

 健太郎がため息をついてソファに仰向けになった時、ポケットの中のPHSが鳴った。

“高岡先生、あと5分で救急車入ります。30歳女性、主訴は呼吸困難です。救急隊の連絡では血圧60で脈拍116。酸素飽和度85%です!”

「わかりました!すぐ行きます!」

 健太郎はすぐ立ち上がるとあわてて救急室に向った。

―なんだって?30歳女性の呼吸困難?ショック状態で酸素飽和度85%?どういうことだ?―

 健太郎は頭の中で考えられる疾患を思い浮かべた。

 この前のことがあってからショック状態や低酸素血症(けっしょう)の患者に関しては一通り復習したつもりだ。もっとも、集中して勉強できるような精神状態ではなかったが・・・。それでも健太郎の頭の中には色々な疾患が浮かんできた。

―心筋梗塞、緊張性気胸はまず除外しておかないと・・・。若い女性ならば・・・子宮外妊娠の破裂や婦人科関連の出血かも・・・でも出血なら低酸素血症にはならないかもしれない―

―そうだ膠原病(こうげんびょう)かもしれないぞ。膠原病だったら胸膜炎とか心筋炎、心膜炎もショックになる可能性があるな。そうだ!心膜炎から心のう水が溜まって心タンポナーデになっているのかもしれないぞ!それともうひとつ・・・忘れちゃいけないのが肺塞栓症だ。でも若い女性ならその可能性は低いだろうな―

 健太郎はそんなことを考えながら救急室のドアを開けた。それと同時に救急車が到着し、救急隊が冷や汗をかいて苦しそうにしている若い女性を運び込んできた。

「森山香織さん。30歳女性です。自宅で急に呼吸困難になって救急連絡されました。特に持病はありません。最終の血圧は72と40。脈拍106。酸素10リットル投与で酸素飽和度91%です」

 健太郎は救急隊員の報告を聞きながら患者を救急室のストレッチャーに移した。

「森山さん!わかりますか?」

 健太郎が大声で聞くと患者は苦しそうな顔をしながらうなずいた。

「胸やおなかは痛くありませんか?」

 患者は苦しそうな顔で、それでも小さく顔を横に振った。

―意識は大丈夫だ。とりあえず挿管はしなくても大丈夫そうだな。酸素が投与されてから少し状態が改善しているのかもしれない。おなかが痛くないとなると婦人科的な出血ではなさそうだ。胸の痛みもないのならば心筋梗塞の可能性も低いだろう―

 そうしている間に当直看護師の真田由紀子の手によって心電図モニターや血圧計がすばやく取り付けられ、採血、点滴が行われた。

「酸素は10リットルで継続。胸部レントゲンをポータブルでお願いしてください。それから心電図を・・・」

 健太郎は看護師に指示しながら自分で心電計を患者の横に運んで電極を装着した。

「ST上昇はなし。心筋梗塞はなさそうだな・・・」

 そこへレントゲン技師がポータブルレントゲンの機械を運んできた。健太郎はとなりの準備室にエコーの機械をとりに行った。どんな疾患でもそうだが診断がつくまでの医師は不安である。特に重症患者ならなおさらだ。しかし重症であっても診断がついてしまえばあとはやることは決まってくるので医師の側にも余裕がでてくる。

 健太郎は不安な気持ちで、それでもエコーで診断の糸口がつかめることを期待しながら、エコーの機械をレントゲン撮影が終わった患者の横に運んだ。

―きっと・・・きっと大量の胸水か心のう水があるはずだ・・・―

 健太郎は祈るような気持ちでプローブを患者の胸にあてた。

―ないぞ・・・心のう水も胸水も・・・ないぞ・・・。じゃあ・・・なんなんだ?―

「先生、血液検査の結果がでました!」

 健太郎は看護師が持ってきた伝票を見つめた。

「ヘモグロビンは・・・12.4か・・・。貧血はないな」

「レントゲンできました!」

 レントゲン技師が現像された胸部レントゲンフィルムをシャーカステンにかけた。健太郎はじっとフィルムを見つめた。

「心臓も肺も・・・特に問題ないじゃないか・・・。なんだ?何が起こっているんだ?」

 健太郎の不安な気持ちは一気に頂点に達した。

 今、何か重大なことがこの若い患者の身におこっている。しかし一通りの検査を施行したがその原因らしきものは見つからない。このまま診断がつかなければ酸素投与や昇圧剤(しょうあつざい)の点滴などの対症療法(たいしょうりょうほう)を行うしかないわけで、いつ病状が悪化して急変するとも限らない。そしてそのようなときに診断がついていなければ患者や家族にも説明のしようがないのだ。

 患者は相変わらず苦しそうに呼吸をしている。

「血圧68!酸素飽和度89%に低下しました!」

 真田由紀子の言葉を聞いた健太郎はすでにパニック状態になりかかっていた。

「河野先生を・・・河野先生を呼んでくれ!」

 健太郎は「自分の手に負えないときには誰かの助けを借りろ」そんな俊介の言葉を思い出しながら循環器内科の河野医師を呼び出すように依頼した。

 健太郎は自分に落ち着け落ち着けと繰り返しながら、もう一度頭の中に考えられる疾患を思い出そうとした。

 その時彼は、はっと思い出したようにエコープローブをあわてて手に取りもう一度患者の胸にあててじっと画面を見つめた。

「右心室が・・・大きいじゃないか!」

 この患者の右心室はふくらんで左心室を圧迫している。これは・・・3日前に見た所見と一緒だ。

「じゃあ・・・肺塞栓症か?何で?何でこんな若い患者が・・・?しかも自宅にいたのに・・・」

 肺塞栓症は長時間同じ姿勢でいるときにおこりやすい疾患だ。足の付け根の大腿(だいたい)静脈に血栓(けっせん)が形成され、それが肺動脈に飛んでいって肺動脈を閉塞(へいそく)するのだ。3日前の外科病棟の患者のように手術をしたあとに安静を介助されて歩行を始めるときに発症しやすい。

 若い人に発症することもあるが、大抵の場合は長時間飛行機や車に乗っていて同じ姿勢を続けることが誘引となる。しかしこの患者のように自宅で普通の生活をしている若い患者が肺塞栓症を発症する可能性は極めて低いのだ。

 本当に肺塞栓症なのか?健太郎はまだ自分の診断に自信がもてなかった。

「と・・・とにかく・・・CTだ!エンハンスCTをとるぞ!」

 健太郎の目の前にCTの画像が映し出されていく。

「右の肺動脈に血栓がつまっているじゃないか!やっぱり肺塞栓症だ」

 こんなに若い患者になぜ肺塞栓症を発症したのか、その理由はよくわからないがとにかくこれで診断はついた。健太郎はちょっとほっとしてレントゲン技師に言った。

「ディレイフェーズで大腿静脈までスキャンしてください」

 肺塞栓症の患者は3日前に診たばかりだ。その日からの健太郎は沙紀の妊娠騒ぎでまともな精神状態ではなかったが肺塞栓症の救急診療にたずさわったことはかなりインパクトの強いことであり、その診療に関しては十分に勉強していた。

 CTで大腿静脈をスキャンすれば現時点でどのくらいの血栓が残っているかを評価することができる。すなわちこの患者の肺塞栓症が今から重症化する可能性があるかどうかを判定できるわけだ。

 造影剤は腕の静脈から投与されると一度肺を通って動脈に移行するので、動脈はすぐにコントラストがついて映し出される。造影剤を注入しながらすぐにCTをとる検査方法をダイナミックスキャンという。それに対して全身の静脈に造影剤が移行するには2-3分の時間がかかる。ちょっと間をおいてからCTをもう一度取ることをディレイスキャンという。

 胸部のダイナミックスキャンによりこの患者の診断は確定したわけだが、肺塞栓症では大腿静脈の血栓の有無が今後の治療方針を決める上で重要な因子になる。医師がそのことを知って、大腿静脈をディレイスキャンする指示をレントゲン技師に出さなければ、この患者のCT検査は不十分な情報しか得られないことになる。

 健太郎は3日前におなじ症例を経験していたためにしっかりとディレイスキャンの指示を出すことができたわけだ(注:実際に大腿静脈の血栓を診断する時には通常のディレイスキャンよりももう少し遅いタイミングでスキャンする)。

 そこへ河野孝明が駆けつけてきた。

「30歳女性がショック状態だって?」

 河野はCT画像を覗き込みながら健太郎に聞いた。

「あ・・・河野先生。すみません、夜分お呼びして・・・。今原因が分かりました。肺塞栓症です」

「肺塞栓症?飛行機にでも乗っていたのか?」

「いえ、自宅にいたらしいのですが・・・。原因はよくわかりませんが肺動脈に明らかな血栓がありました。今から大腿静脈をスキャンするところです」

 二人はじっとモニター画面を見つめた。河野医師がうなずきながら言った。

「左の大腿静脈に・・・血栓がちょっと残っているな。でもこれくらいなら下大静脈フィルターは入れなくてもいいだろう。ヘパリンを3000単位静注(じょうちゅう)だ。それからtPA(てぃぴーえー)を準備してICUへ連絡してくれ」

 そばにいた真田由紀子がすでに準備されていた薬剤をてきぱきと注射器につめた。

「高岡先生・・・すごいじゃないか。CTをとる前にもう診断していたのか?」

 河野が感心して聞いた。

「ええ・・・。エコーで右心室が拡張していたので多分間違いないと思ったんですよ」

 健太郎は先ほどの不安な気持ちでいっぱいだった自分のことはケロッと忘れて得意顔で答えた。

「なるほど、エコーで診断できたのか。でも・・・真田さんは、高岡先生がパニック状態だって・・・電話で言ってたけどな」

 河野は意地悪く微笑みながら聞いた。

「え?そ・・・それは・・・エコーをする前の・・・話ですよ」

 健太郎はばつが悪そうに河野の顔を見ずに答えた。

「まあいいさ。でもな右心室が拡張しているだけでは肺塞栓症とは診断できないぜ。あくまでも肺動脈圧や右心室圧が高いということがわかるだけだからな。エコーで右心室が拡張しているときに考えられる疾患を他に知ってるか?」

「え?えっと・・・」

 とっさに聞かれて健太郎は必死で考えたが他の疾患など全く浮かんでこない。

「一番多いのはCOPD(慢性閉塞性肺疾患)だな。呼吸困難があってエコーで右心室が拡張しているからといって肺塞栓症と診断してしまうと大変なことになる。それから心房中隔(ちゅうかく)欠損(けっそん)症などの心臓に穴が空いている疾患も同じ所見になることがある。それに若い患者なら本態性(ほんたいせい)肺高血圧症という怖い病気だってあるぞ」

(注:本態性肺高血圧症は肺の血管が徐々に変性して肺動脈圧が高くなって呼吸困難が進行するまれな疾患である。根本的な治療法がなく心肺(しんぱい)同時移植が行われることもある。若い女性に発症することが多い)

 健太郎は3日前に見た肺塞栓症の患者のインパクトが強烈で、頭の中では右心室拡張のエコー所見と肺塞栓症をほとんど短絡的に結び付けていた。しかし同じ所見が見られてもさらにいくつもの鑑別を必要とする疾患がある。

 この患者はCTで診断がついたからよかったようなものの、そうでなければ健太郎の頭の中はまたパニック状態になっていたに違いない。健太郎はいまさらながらに自分の経験のなさと医学の深さを思い知った。

「森山さん、いかがですか?」

 2時間後、ICUのベッドで仰向けになっている森山香織に向って健太郎が聞いた。

「はい・・・大分楽になりました。ありがとうございました」

 森山香織は酸素マスク越しに小さな声で答えた。健太郎は目の前にあるモニター画面を見つめた。血圧120の82。脈拍88。酸素飽和度1