風の軌跡:カルテ12(7/7)完結
風の軌跡:カルテ12(7/7)最終話
*それぞれのクリスマスイブ*
今年のクリスマスイブは日曜日だ。透き通った空気の中で街は光と活気にあふれている。
健太郎は久しぶりに朝10時までぐっすりと休養をとった。そして思い立ったように服を着替えて出かけていった。
俊介は朝から部屋の大掃除に追われていた。それがやっと落ち着いた3時頃からは、いつものようにたまった書類と格闘していた。今晩は有紀と一緒に食事をする約束だ。俊介はなんとなくウキウキした気分になって鼻歌交じりにペンを走らせていた。
氷室鋭二と酒井美穂、朝倉瞳は日直だった。今日はインフルエンザや胃腸炎の患者が朝からひっきりなしに来院し、目の回るような忙しさだった。
沙紀は夕方、朝から編み続けていたセーターをかたつけ、シャワーを浴びた。そして髪を乾かし、丁寧に化粧をした。沙紀には今晩健太郎が自分に何を話すつもりなのか、わかっていた。でも最後の言葉は・・・自分から言いたい。捨てられるのではなく、自分からさよならを言いたい。そして健太郎の前では最後までできるだけ美しい自分でいたい。それが自分のせめてものプライドだ。そして最後に「今までありがとう」とお礼を言いたい。
ベッドに座ったままコンパクトを見ながら口紅をひく沙紀の目からは思わず涙がこぼれ落ち、沙紀はあわててティッシュで拭った。
「あら?高岡先生・・・」
忙しかった日勤の仕事を終えた朝倉瞳は病棟へ向う健太郎の姿を見つけた。
―きっと南川さんの回診に行くのね。じゃあ、病棟で待っていれば・・・会えるわ・・・。今日はクリスマスイブよ。神様が合わせてくれたのね。瞳、勇気を出しなさい―
瞳は自分に言い聞かせるようにゆっくりとうなずいて病棟への階段を登った。
健太郎は椅子に座ってベッドの上の沙紀と向かい合っていた。二人とも話を切り出せずにじっと座ったまま下を向いている。そしてついに健太郎が切り出した。
「今日は・・・大事な話があるんだ。真剣に聞いてくれ」
「わかってるわ。私も大切な話があるの」
沙紀は健太郎から顔を背けて言った。
「沙紀・・・俺は・・・」
「待って!私から言わせて!」
沙紀は健太郎に向き直りって彼の言葉をさえぎった。
「いや、俺から言う」
「だめよ!私が先よ!」
ベッドから降りようとする沙紀を健太郎は両手で制した。
「落ち着いてくれ、沙紀!いいから・・・そこに座れ・・・」
健太郎は大きな瞳を潤ませる沙紀の両肩に手を添えてベッドに座らせ、ゆっくりと言った。
「沙紀・・・俺と・・・俺と結婚してくれ!」
健太郎の言葉を聞いた瞬間、沙紀は動かなくなった。まっすぐに健太郎を見たまま瞬きもせずに呆然(ぼうぜん)と座っていた。
「俺と結婚してくれ!」
2回目の健太郎の言葉にようやく沙紀は自分を取り戻し、そして小さく首を横に振った。
「・・・いやよ・・・」
「どうして!俺のことが嫌いになったのか!」
健太郎は真剣な表情で沙紀を見つめた。
「いやよ・・・いや!どうして!どうしてそんなこと言うのよ!」
沙紀は健太郎を嫌悪(けんお)の目で見つめた。
「俺には・・・お前が必要なんだ!これからも俺のそばにいてくれ!」
「必要?何言ってるのよ。こんな私がどうして必要なのよ。こんな身体で何もできない。子供だって作れない。それどころか治るかどうかもわからない。こんな私がなんで必要なのよ!同情はやめて!」
「同情なんかじゃない!俺はお前のことを愛しているんだ!これからもずっとお前と一緒にいたいんだ」
「私は・・・私はあなたのことを愛していないわ。私は・・・今日あなたにお別れを言うつもりだったの」
「強がるなよ!お前だって俺のことを愛しているはずだ!お前にも俺が必要なんだ!自分の気持ちに素直になれ!」
「うぬぼれないで!私には・・・あなたは必要ないわ。私は一人で生きて行ける」
「じゃあ・・・これはなんだよ!」
健太郎はベッドサイドの棚を開けた。
「これはなんだ!お前、ずっと編んでたんだろ?俺のために編んでいたんじゃないのか?」
「ち・・・違うわ。リハビリのつもりよ。健太郎のために編んでいるんじゃない」
「じゃあ、なんでこんなに大きいんだよ!俺にぴったりじゃないか!」
「それは・・・まだ指が動かなくて・・・小さいのが編めないからよ・・・」
沙紀は下を向いて小さな声で答えた。健太郎はふっとため息をついて編みかけのセーターを丁寧に棚に戻し、ゆっくりと椅子に座った。
「俺な・・・この前から毎日がつらかったんだ。お前がよくなったのになんでこんなに気分が晴れないんだろうって思ってた。その理由がやっとわかったんだ。この前からお前となんとなくぎこちなくなっただろ?話をしても事務的なことばかりで・・・。お前とうまくいってなかったから・・・俺は毎日が楽しくなかったんだ」
「沙紀の治療が始まった頃は、毎日医局に寝泊りしてつらかったけど、あの頃の俺って、なんとなく幸せだったなって思うんだ。毎日お前と一緒にいて、つらいときも力になってやれて・・・。白血球が上がってきたとき、お前が飯を食えるようになったとき、本当にうれしかったんだ。それでな・・・2日前にやっとわかったんだ。俺が幸せでいるためにはお前が必要なんだって。お前が病気だって寝たきりだって俺と一緒にいて笑ってくれれば、俺と一緒に幸せを感じていてくれれば、俺は幸せなんだ。だから・・・これからも、俺と一緒にいてくれ!」
沙紀はベッドの上でじっとうつむいたまま肩を震わせていた。
「あなた・・・ばかよ・・・」
沙紀は小さな声でつぶやいた。そして顔を上げて涙でぐしょぐしょになった顔でもう一度言った。
「あなた、ばかよ!どうしようもないばかだから・・・私が・・・私が一緒にいてあげるわ!」
「本当か!結婚してくれるのか?」
沙紀は鼻をすすりながらうなずき、健太郎に抱きついた。
「子供、産めないかもしれないけど・・・いい?」
「ああ」
「あなたのために何もできないかもしれないけど、ごめんね」
「ああ」
「髪の毛抜けて、きれいじゃなくなるけど、お嫁さんにしてくれる?」
「髪の毛なんかなくても・・・沙紀は・・・誰よりもきれいだよ」
沙紀は健太郎にしがみついてもう一度鼻をすすった。そしてゆっくりと身体を離してベッドに座りなおしてティッシュをとり、涙を拭きながら聞いた。
「健太郎・・・」
「なんだ?」
「そんなきざなセリフ、誰に習ったの?」
沙紀が鼻をすすりながらちょっと微笑んで聞いた。
「だ・・・誰にって・・・。お・・・俺が思ったまま言っただけだよ」
健太郎は決まりが悪そうに沙紀から顔を背けた。
「そう・・・。初めてね、健太郎が私のこときれいだって言ってくれたの・・・」
沙紀はくすっと笑いながら言った。
「そ・・・そうだ!これを・・・渡さないと・・・」
健太郎はあわてて自分のポケットから箱を取り出した。
「さっき・・・買ってきたんだ」
健太郎はそう言いながら箱を開けて指輪を沙紀に差し出した。
「健太郎・・・本気なのね。本当に私をお嫁さんにしてくれるのね」
沙紀の瞳は再び涙で見えなくなった。
「あたりまえだろ!さあ・・・手を出してくれ」
沙紀は小さくうなずいて左手を健太郎に預けた。
「・・・あれ・・・?ちょっときついか?」
「いた・・・痛いよ、健太郎」
「あ・・・すまん。おかしいな・・・。ちゃんとサイズ、合わせたはずなのに・・・」
「健太郎・・・」
「え?」
「小指にはめて・・・」
「小指?」
「小指なら入るでしょ?」
「ああ・・・」
健太郎は沙紀の薬指から指輪を抜くと小指に入れた。
「ありがとう・・・健太郎」
「あした、ちゃんと交換してくるから・・・」
健太郎が決まり悪そうに言った。
「いいの・・・。わたし、健太郎が今日はめてくれたこの指輪がいいの。一生大事にするから・・・」
沙紀は大事そうに左手を胸に当てた。
病棟の階段の前で朝倉瞳は健太郎を待っていた。
「あら?朝倉さんじゃないの。どうしたの?こんなところで・・・」
通りかかった川村師長が聞いた。
「え?あの・・・高岡先生にちょっと用事が・・・。さっき病棟へ行かれるのを見つけたので・・・」
瞳はしどろもどろに答えた。
「ああ・・・そう。でも、今日は多分だめだと思うわよ。だってクリスマスイブでしょ?イブの夜くらい一緒にいたいでしょ。南川さんも大分よくなったみたいだし・・・」
「え?南川・・・さん・・・」
「イブの夜くらいあの二人の邪魔しないであげたら?急ぎなの?あなたの用事・・・」
「え?そんな・・・そんなことないんです!明日出直します!失礼します!」
瞳はそう言うとあわてて階段を走り下りた。
―高岡先生の彼女って・・・南川さん?そんな・・・そんなことって・・・。私・・・私って・・・ばか!ばか!―
仕事を終えた俊介はコートをはおって玄関のロビーへ降りた。
「パパー!」
俊介を見つけた有紀が笑顔で駆け寄ってくる。左手の包帯がまだ痛々しい。
「すまん!遅くなったな」
「いいのいいの。今日はクリスマスイブなんだから。遅刻ぐらい許してあげる」
「さあ、どこへ行こうか」
「今日はパパにクリスマスプレゼント持って来たのよ」
「クリスマスプレゼント?」
「ほら、あそこ・・・」
入り口の横で翔子がちょっと恥ずかしそうに右手を上げて俊介に合図した。
「翔子・・・」
「さあ!行くよ!」
「おいおい・・・」
有紀は俊介の腕を引っ張って翔子のほうへ連れて行った。そして翔子を捕まえると二人と腕を組んで明るく笑いながら二人を外へと連れ出した。
酒井美穂はロビーの端でそっとその様子を見つめていた。そして誰もいなくなったロビーの椅子に座ると、目じりを人差し指でほんの少しぬぐい、バックからゆっくりと携帯を取り出した。
「・・・あ・・・おかあちゃん?わたし・・・。今?病院・・・仕事終わったところ・・・」
美穂はもう一度左手で涙を拭いた。
「この前の話だけど・・・会うだけ会ってみようかな・・・。うん・・・正月の2日なら休みだから・・・。1日の夜帰るから・・・。うん。身体・・・気をつけてね」
美穂はそっと携帯をたたんでバッグにかたつけると大きく息を吸い込み、そしてふーっと吐き出した。そしてちょっと間をおいてから立ち上がると、ほんの少しだけ笑みを浮かべて一歩一歩床を踏みしめながらしっかり前を向いて歩き始めた。
氷室鋭二が外へ出た時には雪がちらついていた。
「寒いと思ったら、こんなものが降ってきやがった」
鋭二はコートの襟を立てて足早に家路を急ごうとして、ふと立ち止まった。
「やっぱり、傘とってきたほうがいいかな」
鋭二はそうつぶやいて病院のほうへ向き直った。すると玄関から若い女性が駆け出してきた。その女性は鋭二の目の前でふり積もった雪に足をすべらせた。
「きゃー!!」
鋭二は思わず手を出して女性を抱きかかえた。
「大丈夫か?」
「す・・・すみません・・・」
氷室は自分の腕の中にいる女性の顔を覗き込んだ。
「おまえ・・・朝倉じゃないか・・・」
「は・・・はい。すみません氷室先生・・・」
朝倉瞳は鋭二に申し訳なさそうに頭を下げてあわてて立ち上がった。
「おまえ・・・泣いてるのか?」
「え・・・?」
鋭二に指摘されて瞳はあわてて手で涙を拭った。
「そうか・・・おまえ、健太郎のことが好きだったんだっけな・・・。ふられたのか?」
「私・・・高岡先生の相手が・・・南川さんだなんて知らなかったんです・・・。知ってたら最初から・・・」
「なんだ、まだ知らなかったのか?お前も相当鈍いやつだな」
「私、鈍いんです・・・。鈍感でおっちょこちょいで・・・仕事もできなくて・・・」
「ば・・・ばか!泣くなよ!人が見てるじゃないか!」
鋭二はあわてて瞳の腕をつかんで病院の横手のほうへ引っ張っていった。
「ほら、これで涙拭け!」
「ず・・・ずびばぜん・・・」
鋭二からハンカチを受け取った瞳は涙を拭いた。
「ほら、鼻も・・・」
そしてティッシュを受け取り鼻をかんだ。鋭二はそんな瞳をじっと見つめていた。
「おまえ・・・今からなんか用事・・・あるのか?」
鋭二がちょっと口ごもりながら瞳に聞いた。
「そんなの・・・あるわけ・・・ないですぅ・・・」
瞳が鼻をすすりながら下を向いて答えた。
「じゃあ・・・仕方ないから・・・今日は俺がどっか連れてってやるよ」
「本当・・・ですかぁー?」
瞳がびっくりして、涙を拭いて真っ赤になった顔を上げて鋭二を見つめた。
「ああ・・・。話、聞いてやるから・・・」
「あ・・・ありがとう・・・ございば・・・ず・・・」
「ば・・ばか!泣くなって!ほら、行くぞ!」
鋭二は瞳の腕を引き寄せると街の灯りのほうへ歩いていった。
健太郎と沙紀は薄暗い部屋の中で並んでベッドに腰をかけて窓を見ていた。
「健太郎・・・雪・・・」
「本当だ」
「セーター間に合わなくてごめんね・・・」
「いいんだ。まだ冬は長いんだから・・・。無理しないでゆっくり編んでくれよ」
「春になっちゃうかも・・・」
「春になっても寒い日があるから大丈夫だよ」
「ひょっとしたら夏になっちゃうかも・・・」
「夏でも・・・サマーセーターっていうのがあるだろ?俺、ちゃんと着るから」
「ばか・・・」
二人は天から舞い降りる光のかけらを肩を寄せ合って見つめていた。
「風の軌跡―風間俊介診療録―」 終わり
この物語はフィクションです。風間俊介をはじめとした医療従事者、患者、背景等はすべて架空のもので特定のモデルはありません。
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