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2010年2月10日 (水)

「日本の医療は今」風の軌跡あとがき(2/3)

第2章終末期医療への対応

1)終末期医療の現状

医療訴訟の他にもう一つ医療現場を困惑させているのが終末期医療の問題です。

 一口に終末期医療と言っても色々なケースが考えられます。

(1)末期癌およびそれに準じた状態、

(2)脳死もしくは高度脳機能障害、

(3)いわゆる老衰に近い超高齢者などです。

これらをひっくるめて論じることはできませんが、共通して問題となるのは延命するための医療をどこまで行うかという点です。

 2006年春、人工呼吸器を取り外した富山県の医師の行為が問題になりました。詳しい状況は明らかにはされていませんが、助かる見込みのない患者さんの最後を自然に迎えさせたいという医師の純粋な気持ちから行われた行為で、家族には十分な説明と同意が得られていたものと推測します。

問題にされた点は人工呼吸器をはずすことにより「患者の生命を短縮させた」ことが殺人罪の疑いがあるということです。

この医師の行為が罪になるかどうかは現時点ではわかりませんが(注:2009年不起訴となりました)、以後、日本で終末期医療に対応している医師の間では「人工呼吸器は一旦つけたらはずしてはいけない」「人工呼吸器をつけたらはずせないから最初からつけない」などの考えが出てきました。私はこの考え方にちょっと戸惑いを感じています。

 警察が医師を捜査するのは「患者の生命を短縮させた」ことを問題にしています。医療行為を継続すれば生命を延長できるにもかかわらずそれを中止することによって患者の命を短縮させたとして警察は医師を殺人罪の疑いで捜査するわけです。

患者の状態が悪くなった時に人工呼吸器を最初から装着せずに治療を行い、結果としてその患者が死亡すればその医師は殺人罪に問われることはなかったかもしれません。

しかし私はここに根本的な誤りがあるように思います。

人工呼吸器がなければ生命を維持できない患者の呼吸器を外すことが犯罪ならばその患者に最初から呼吸器を装着しないことも犯罪でしょう。

 命というものは医療により延長しうるわけですから医師という職業は基本的に医療行為を行うことによって命を延長させたり逆にそれを行わないことによって短縮させたりすることができる職業です。

そして古来より医師は老衰や末期の患者さんにあえて医療行為を行わないことによって自然な死を看取ってきました。

現在の日本でも開業医を中心に在宅で多くの老衰や末期の患者さんが看取られており、社会的にも認められている行為です。

しかしそれらの患者さんは病院のICUへ入って人工呼吸器を装着し、ペースメーカーを挿入し、血液透析を行えばもうしばらく延命ができるはずなのです。それを行わないで在宅で死を看取るという行為はまさしく医療を行わないことによって命を短縮させるということに他なりません。

人工呼吸器を外す行為を殺人罪とするならば、この行為は殺人罪にならないのでしょうか?

私はこの二つは本質的に同じことのような気がします。

しかし、このような患者さんをすべてICUに入院させ、先に述べたような治療を行うためには少なくとも今の100倍のICU病床、100倍の医師や看護師、100倍の人工呼吸器や透析器、そして100倍の医療費がかかります。これが不合理なことで、もしそんなことを行う医師がいれたとすれば痛烈な批判を浴びることは誰の目にも明らかで、もちろん日本の医師はそんな医療は行っていません。

ですから生命を最大限に延長させないことが殺人罪ならば日本の医師はすべて殺人罪に問われることになってしまいます。

なぜこんなおかしな議論になってしまうのでしょうか?

それは一般の人たちと医師を一緒にして論じているからです。

一般の人が他人の生命を短縮させる行為をしたとき、または短縮することを分かっていて何もしなかった場合、殺人罪が適応されます。しかし医師に同じ考え方を適応することが間違いなのです。

私は医師が殺人罪を免除される特別の存在だと言っているわけではありません。

しかし医師というものは、生命を延長したり短縮したりする事を行う職業なのです。当然生命を短縮させるという選択肢が認められてしかるべきで、先ほどの在宅の看取りの例でもわかるように、いままでの社会は暗黙の了解でそれを認めてきました。

「時と場合により医師は最大限に生命を延長しなくてもよい」ということで、言葉を変えて言えば「時と場合により医師は生命を延長するべきではない」のです。

誰も明言しませんが、これが国民のほとんどが感じている人間の感情であり、本音だと思います。

終末期医療を議論するときには「生命は最大限に延長されるべきである」という「たてまえ」をすてて、「時と場合により生命は延長するべきではない」ということを明文化して、それを前提にして議論しなければ決していい結論は出せないと思うのです。

我々が今、議論するべきは「どのようなときに人工呼吸器を外していいか?」ではなく積極的安楽死も含めた「どのようなときに生命を延長させないか?」というもっと根本にかかわる点なのです。

2)延命治療中止が認められるのは?

 では「生命を延長するべきではない」のはどんな場合でしょうか?

私は、今社会の常識とされている「生命はもっとも大切なもの」という考えが間違っているように思います。

一番大切なのは「生命」ではなくその生命が感じている「幸福感」ではないでしょうか。

人間は幸福を感じるために生きています。たとえ植物状態であっても家族の言葉をかすかに感じることができる、それも一つの幸福です。

しかし完全な脳死状態でそんな幸福を感じる可能性が全くなくなればその生命に意味はありません。

そんな生命を延長させることは「無駄な延命治療」であり、呼吸器を装着しない、呼吸器をはずす、もしくは場合により積極的に生命を終わらせることも認められるべきではないかと思います(ただし家族にとってはその生命は意味のあるものかもしれません)。

しかしその人がほんのわずかでも「幸福」を感じられるようになる可能性がある時はあらゆる治療を行うべきでしょう。

「一旦呼吸器をつけたらはずせないから最初からつけない」

などという考え方は全くの本末転倒です。少しでもその人が幸福を感じられるようになる可能性があればきちんとした治療を行い、そしてその可能性がなくなったと判断された時点で延命治療を終了すればいいのです。

そしてその判断を誰がどのように科学的、客観的な根拠を持って行うかに関して我々は長い時間をかけて議論する必要があります。

日本の医療は今(3/3)に続く

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