日本の医療は今(2011):メディカルゲームあとがき
日本の医療は今(2011) メディカルゲームあとがき
ライアーゲームの医療版であるメディカルゲームのアップを終了しました。
当初は一般の方々に総合診断の面白さをお伝えしようと思って書き始めたのですが、専門的なロジックをわかりやすく記載するのはなかなか困難で、詳しい説明をすればするほど文書が長くなってしまい、結局中途半端な形になってしまいました。一般の方にはかなり難解な文章だったと思います。この場を借りてお詫びいたします。
さて、この作品を最後まで読んでいただいた方はどんな印象をもたれたでしょうか?
「ミスをした医者は刑事訴訟を受けるのは当然だ。それなのに試験をして合格したからといって無罪放免にするのはけしからん」
「過失を犯した人間が何を勝手なことを言っているんだ」
そんな意見を持たれた読者の方も多かったのではないでしょうか?実は今回のブログはそんな方にこそ読んでいただきたいと思うのです。
まず結論を書きます。
メディカルゲームでは主人公たちは民事訴訟で敗訴となり、さらに刑事訴訟を受けています。しかし実は彼らは「なんら過失を犯していない」のです(少なくとも私はそう思います)。
過失を犯していない人間が責任を問われ、罰を受ける。
そんな日本の現状が医療を崩壊させています(もちろんこのストーリーは近未来を舞台としたフィクションで、我々の社会には「医療安全推進法」は存在しません。しかしここに描かれた世界は実は現代の日本の医療司法の現状を誇張した世界なのです)。
「何を言っているんだ、患者は死んでいるじゃないか!あんたも医者だからそんなのは仲間をかばう意識の現われだ!」
そういわれる方も多いと思います。
この作品では上原千夏、瓜生巧、榊原瞬が民事訴訟で敗訴となっています。
敗訴ということは過失が認められたということです。
では彼らの過失はどこにあるのでしょうか?
そして過失があるとすれば今後彼らはどうすべきなのでしょうか?
《上原千夏の場合》
上原千夏は「薬剤副作用を説明しなかった」ことが過失とされています。
ではなぜ彼女は重篤な副作用を説明しなかったのでしょうか?
それは彼女がそれを説明することが「患者に不利益をもたらす」と判断したからです。
ここに登場した患者は慢性閉塞性肺疾患です。
彼は肺炎を発症し、このまま抗生物質を投与しなければ呼吸不全となり、死亡する確率がかなり高率となる状態ですが、抗生物質を内服すれば治癒する確率が極めて高くなるのです。
しかし抗生物質を含め全ての薬剤にはわずかの確率でアナフィラキシーなど重篤な副作用を発症する可能性があります。
実は我々医療を行っている医師から見るとこの場合抗生物質を使用するかどうかには選択の余地はありません。なぜなら明らかに抗生物質を使用したほうがこの患者さんがよくなる可能性が高いからです。数字にすると99・99対0・01くらいの比でしょうか?ほとんどの医師は詳しい副作用の説明をせずに抗生物質を使用します。
しかし不利益は0.01であってもゼロではないのです。
それを説明して患者に選択させろということが現在の医療では推奨されています。
「その通り。患者に説明して患者が治療方針を選択することが正しい医療行為である」
そう考える方も多いでしょう。
しかし患者さんはいつでも冷静に判断できるわけではないのです。
アナフィラキシーの可能性がある、失明の可能性がある、そんな副作用が頭に強くイメージとして残り、医師がどんなに時間を掛けて説明しても冷静な判断ができないことが往々にしてあるのです。
そんな時、我々医師は素直に「患者の選択」を受け入れるわけにはいかないのです。
もちろん「エホバの証人に輸血をするか」などの場合は状況が全く違います。
彼らは確固たる信念を持って輸血を拒否しており、彼らの選択は優先されるべきだと私も思います。
しかし通常の患者の選択は往々にして全体を見ずに、目の前の副作用だけを重視し、治療が遅れて重症になってから後悔されることがほとんどなのです。
我々医師はできるだけ患者さんが正しい選択を出来るように補助する必要があります。
そのために時には嘘をつく(結論を誘導する)ことも必要になるのです。
千夏はそんな思いから患者を説得し、患者の副作用に対する意識を変えさえて治療を進めました。
しかし結果として、まれな副作用が出現してしまいました。
これを過失として医師の責任を問うならば、医師は患者が抗生物質を使用しないという選択をしたときに
「わかりました。じゃあ薬なしで様子を見ましょう。悪くなったらまた考えましょうね」
と言わなければなりません。
その結果、この患者はかなりの確率で重症になります。
その時、
「やっぱり悪くなりましたね。じゃあ抗生物質を使いましょうか」
といって治療を開始すれば医師の責任は問われないわけです。
しかしこの患者さんはかなりの確率で死亡することになります。
このお話は近未来のフィクションですが、千夏が行った行為は、現在の日本でも裁判になれば過失にされてしまいます。
このため我々医師は、現状では患者さんが明らかに間違った選択をしてもそれを受け入れざるを得ないのです。自分が民事訴訟や刑事訴訟を受けないためにです。
《瓜生巧の場合》
瓜生巧の場合はどうでしょう?
彼は忙しい中、救急患者を受け入れ、結果としてくも膜下出血を見逃してしまいました。
まず、この多忙の中、救急を受け入れたことは別として、くも膜下出血の見逃しに絞って考えましょう。
巧は通常以上の救急対応能力を持った医師です。
彼はくも膜下出血を見逃しましたが、日本のくも膜下出血の第一人者ならば診断が出来たという設定です。
少々極端なケースになりますが、この患者さんがくも膜下出血の第一人者のところに運ばれたなら早期に診断され、助かったかもしれないということになります。
患者や家族にすればそれは許せないことでしょう。
助かる可能性があったのに医師の能力不足のために亡くなってしまった。
医師の責任を問いたい気持ちは当然です。
しかし社会がそれを認めるとどういうことになるでしょうか?
すなわちマスコミが、診断が出来なかった巧を非難し、民事訴訟で裁判官が賠償命令を出し、警察が業務上過失致死の疑いで動き出したらどんなことが起こるでしょうか?
救急に携わるほとんどの医師は、自分も巧と同様にこの患者さんのくも膜下出血の診断が出来ないだろうことを知っています。
すなわち、自分も巧とおなじ立場になれば過失と判断され、マスコミから非難され、賠償を請求され、警察に逮捕されるかもしれないことを理解します。
それを避けるために医師が取る方法は二つあります。
一つはしっかりした診断が出来るようにくも膜下出血の知識を日本の第一人者とおなじレベルまで完璧にすることです。
しかしこれは全く現実的な選択ではありません。
ある疾患の第一人者というのは何十年も掛けて一つの疾患の研鑽を積み、たくさんの症例をみてそのレベルに達した人のことを言います。
救急に携わる一人の医師がたとえ1年掛けてどんなに努力しても第一人者のレベルには到底及ばないのです。
しかも救急でやってくる疾患はくも膜下出血だけではありません。
心筋梗塞、大動脈瘤、吐血、下血などあらゆる疾患に関してその第一人者になることが要求されることになります。
医師にはもっと現実的な選択があります。
それは自分が診療できない救急患者を診ないことです。
頭痛の患者さんの受け入れを頼まれたときに「自分は専門ではないから診れません」と断ることが最も現実的な選択なのです。
「普通の技量を持った医師が自分にできるだけの対応をする」ことでは許されません。
いつでもベストの診療を要求するというのはそういうことなのです。
そしてそれを要求された医師たちは次々と救急現場から撤退していきます。
日本の救急医療の問題点がここにあります。
救急車が20以上の病院から断られて患者が亡くなった。
どこの施設も処置中で医師の手があいていない。
そんな日本の救急受け入れ不能の根本的な原因がここにあるのです。
どこの施設も「自分ができるだけの対応をする」ことを要求されるのなら多くの施設が救急患者を受け入れることが出来るはずです。
しかし「全ての疾患にベストの診療を行うこと」を要求されれば、医師は自分が訴訟を起こされたり、逮捕されたりすることを避けるために無理なことは断らざるをえないのです。
「とりあえず受け入れて応急処置をして、手に負えなかったら専門施設に転送しろ」
そんな意見もあるかもしれません。
しかし、その判断は簡単ではありません。手に負えないと判断したときには既に手遅れになっていることがほとんどなのです。
そんな場合でも「もっと早く転院の判断をすべきであった」という判決を受けるのが今の医療訴訟の現状です。
ですから今の日本では、
「専門外の疾患や、他の救急患者の処置で手を取られているときは最初から受け入れない」
というのがもっとも現実的な選択肢になってしまっているのです。
「どんなときでもベストの診療を受けたい」
患者さんのそんな気持ちは当然です。私も自分が病気になればそう考えます。
しかし、繰り返しますが、その要求は今の日本では現実的ではありません。
悲しいことですが、日本の社会がそのことを容認しなければ、救急や産科をはじめとした医療崩壊の改善はありえないのです。
《榊原瞬の場合》
榊原瞬の場合は末期医療という別の問題点を含んでいます。
高度医療により多くの重症患者が救命できるようになり、日本人の平均寿命も延びました。
しかし、高度な医療行為を行っても救命できず、延々と集中治療を行った末に亡くなることも多くなりました。
これに伴い「どこまで治療を継続するか」という新しい問題が起こりました。
呼吸が止まれば人工呼吸器を装着すれば生命は維持できます。心臓が止まればペースメーカー、人工心臓。腎臓がだめになれば血液透析。肝不全になれば血漿交換。
一昔前なら当然死亡していた患者さんも延命することが可能になったのです。
すなわち、現代では高度の医療行為を行えば誰でも延命することが可能なのであり、それをしないということは「延命できる手段があるのに延命しなかった」→「故意に死期を早めた」→「殺人罪」ということにつながる危険性があるのです。
ですから日本の全ての医師は、警察や検察が「その気になれば」いつでも殺人罪で逮捕し、起訴することが出来る対象なのです。
だからといって全ての死亡時に集中治療を行えば日本の医療資源(医療費や医療従事者)はあっという間にパンクしてしまうのは目に見えています。
今は全国民がこのことに目をつむって誰も議論しようとしませんが、そろそろ日本でも人間の死に関して真剣に議論する時期が来ているように思います。
《まとめ》
上原千夏、瓜生巧、榊原瞬の3人の行為を日本の社会が過失と認定すれば医療が成り立たないことを述べてきました。
多分それでも「納得できない」という意見の方がまだ多いのではないでしょうか?
それはなぜでしょう?
それは今までの医師が起こしてきた種々の問題、自分が受診した医師の態度に納得できないからではないでしょうか?
日本の医療が抱える問題点に関して、私はいままで医師を擁護する意見を述べてきました。
しかし医療が崩壊する原因は実は医療側にもあるのです。
むしろ医療側の責任が大きいといっても過言ではありません。
医療は古くから閉鎖的な環境で行われてきした。
過去には医療側に過失があっても明らかにされず、患者側が泣き寝入りをしなくてはならないことが多々ありました。
近年の医療側へのバッシングはそんな背景が原因となっているのです。
ようやく最近になってカルテ開示や手術中の記録などが行われ、医療が透明化されてきました。
それに伴って医療側の過失をきちんと追求する風潮になったことは、私はある意味で日本の医療の進歩だと思っています。
医療側に明らかな過失があればきちんと謝罪し、場合によっては賠償金を支払うべきです。
しかしここでもっとも大切なことは「医療側の過失」を正しく判断することなのです。
それを正しく判断せずに医療側を非難することは、これまで述べてきたとおり、まさしく日本の医療の崩壊につながってしまうのです。
多くの外国では医療行為の正否を判断する専門の機関を持っています。
医療事故が起こったときには医学知識のある専門機関がそれを判定し、患者への賠償や謝罪の命令、医師への行政処分、再教育などを行います。臓器の左右取り違えなどの重大な過失や故意の障害を除いては警察が出てくることはありません。
今の日本では医療行為を判断する機関がありません。医療側の過失を判断しているのは医療知識を有しない警察、検察、裁判官なのです。
ここに日本の医療司法の問題点があります。
故意に筋弛緩剤を投与して死に至らしめれば殺人罪ですし、血液型を間違えて患者を死亡させれば業務上過失致死の疑いがあり、当然警察や検察が捜査すべきです。
しかし、治療法が適切であったかどうかの判断は警察や検察、裁判官には無理なのです(たとえ鑑定医の意見を聞いても、最終判断を医療知識がない人間が行うことは無理なのです)。
司法というのは根本的に当事者同士が意見を戦わせ、どちらの意見を裁判官に認めされるかを競う方法です。そこには真実の追究はありません。うまく論理を作り上げ、裁判官を納得させればそれが社会で認められるのです。
医療行為が正しかったかどうかの判断、すなわち真実の判断を行うのは司法ではなく、医療知識を持った専門の機関であるべきなのです。
日本の医師たちはそんな専門機関を作ることを怠ってきました。
すなわち医師の間での自浄作用がありません。
われわれ医師が自分たちできちんと過失を判断する仕組みを作らない限り、国民は決して納得せず、警察や検察、裁判官などの司法に「医療行為が正しかったかどうか」の判断をゆだねざるをえないのです。
とりとめもない文章になりましたが、私は日本でも「医療行為を検証する専門機関」を作り上げることが日本の医療の崩壊を防ぐために最も重要なことだと思います。
そしてそのためには医師だけががんばっても何も出来ません。
それはそのような専門機関を設立するためには何兆円もの予算、何千人もの人員が必要になるからです。
医療費が削減され、医師が足りない現在の日本ではそれを実現することは到底無理なように思います。
しかし医師が、そして国民が「医療行為を判断する専門機関」の重要性を認識し、それを設立するために負担をしなくてはならないことを理解し、少しずつでもその方向に進まなければ日本の医療は決してよくならないように思うのです。
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大変面白かったです。
最後の節は、以下のテキストを思い出しました。。
刑務所 勤務医
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労働時間 8時間厳守 大体15時間以上
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始業時間 7時50分 6時~9時
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終業時間 16時30分 21時~翌日
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通勤手段 徒歩数分 病院泊り込みで0分
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昼食 食う 食えない日がある
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夕食 食う 食えない日がある
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夕食後 テレビや読書など自由 仕事
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残業 全くない ない日がない
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残業代 残業がないから無い 残業あっても無い場合がある
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休憩 午前午後それぞれ15分 状況しだい
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土日祝 確実に休み 出勤
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年数 刑罰に応じる 開業するまで(困難)
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病休 有り 無し
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国民からの迫害 有り 有り
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マスコミからの迫害 場合による 迫害するための捏造記事まである
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投稿: | 2011年12月 9日 (金) 18時40分
「名無し」さんコメントありがとうございます。
多分同業者の方と存じますが、私も日本の勤務医の待遇改善を心から望みます。
投稿: 堂島翔 | 2011年12月11日 (日) 16時19分