「呪怨遺伝子」(1/3)
数年前に書きかけてそのままになっていた作品を何とか完成させましたのでアップします。
障害者の遺伝子治療をテーマにしたものですが、当時の私にはテーマが重すぎて苦しくなって筆を止めてしまいました。
今でも大きな変わりはないのですが、最近ダウン症の遺伝子検査が話題に上り、完成させようと決心しました。
舞台は今よりも遺伝子診断や治療が進んだ近未来です。
「呪怨遺伝子」
第1章) 逆玉
2022年 東京にて・・
「本当にすまないと思っている・・・・じゃあ・・・さようなら」
佐々岡高志は無言の片桐夕子の背中にそう告げると静かにドアを開け、大きく息を吸い込んで外へ出た。
そして8年間の思いがこもった鍵を、ゆっくりとメールボックスに落とした。
高志が学生時代から付き合っていた同じ年の夕子との別れを考え始めたのはほんの2週間前のことだった・・・。
「なるほど・・・君の気持ちはよくわかった。自分が傷つけた女性に負い目を感じて彼女のために尽くそうと思っているわけだな?」
森尾雄二はふっと息をつきながら専務室のソファに深く腰をかけて高志を見つめた。
「いえ・・・あの・・・負い目を感じているって訳じゃないんですが・・・なんていうか・・・僕は・・・その・・・実際に彼女のことを愛しているんです。これからも今までとおり彼女と一緒に幸せになりたいと思っているのですが・・・」
高志は恐縮しながら答えた。
「愛しているか・・・」
森尾専務はちょっと皮肉な微笑を浮かべながらちらっと高志を一瞥(いちべつ)し、そしてその目を天井に向けて話を続けた。
「じゃあ聞くが・・・君が今言った『彼女を愛してる』っていう感情は『この先彼女以外の女性と一緒では幸せになれない』という意味なのか?」
「え?・・・それは・・・そんなことは・・・ないと思いますが・・・」
高志は申し訳なさそうに下を向いてしどろもどろに答えた。
しばらく間をおいて森尾専務は高志に向き直って聞いた。
「君は子供ができないっていう事がどういうことなのかわかっているのか?」
「え?」
「その彼女と結婚したら君には一生子供ができないわけだ」
「はあ・・・そういう事になりますが・・・しかしそれはもとはと言えば私の不注意で彼女に中絶手術を受けさせたことが原因なので・・・」
「そのことで彼女に引け目を感じているわけか・・」
「いえ、そんなわけでは・・・」
高志は顔を伏せて額の汗をぬぐった。
「由香里は私の一人娘だということは君も知っているね?」
「はい。存じております」
「40を超えてからできた由香里は私にとっては一言で言うと『宝物』だ」
「宝物・・・」
「私は君と同じように若い頃は仕事が第一だった。どんなことよりも仕事を優先させてきた。父親の葬儀の日も仕事を優先させた。しかし由香里が生まれてからはその生活が全く変わった。それからの20年余りの人生、私は由香里のために生きてきた。由香里が生まれてからは私の中では価値観が全く変わってしまったんだ。どんなことよりも由香里のことを大切に思ってきた。そして今もその由香里のために君と向かい合っている訳だ」
「恐れ入ります」
「親バカと言われるかもしれないが、私は由香里のためならどんなことでもしてやりたい。あれは確かに私が過保護に育ててきたこともあり少々甘えん坊なところがある。しかし常識はわきまえているし、他人には思いやりを持って接することも教えてきたつもりだ。君も上司として2年間見てきたのだから大体わかっているだろうが・・」
「は・・それはもちろん・・」
高志は恐縮してまた下を向いて答えた。
そして新入社員として配属された2年前の森尾由香里の様子を思い出していた。
「佐々岡先輩!あさってのプレゼンの資料できました!ご検閲お願いします!
高志はびっくりして後ろを振り返った。
「ああ・・・森尾君か・・・びっくりしたよ」
「すみません!地声が大きいので」
森尾由香里・・・23歳。去年入社したばかりの新人。
ただし父親は親会社の有力な重役で将来の社長候補。すなわち彼女をものにすれば出世はほぼ約束されたといってもいいだろう。
そればかりではなく森尾由香里は大きなつぶらな瞳に端正な顔立ちとお嬢様らしい洗練された雰囲気。身長162cm、体重48kgのスリムな体系。逆にお嬢様らしくないあっけらかんとしたあかるい性格の持ち主。
社内での人気もナンバーワンの新入社員で狙っている同僚や後輩も多い。
「よくまとまっているじゃないか」
資料にさっと目を通しながら高志が答えた。それは確かに新人が作成したにしてはよくできている内容だった。
「ありがとうございます!」
森尾由香里は本当にうれしそうにその大きな目を輝かせて高志を見つめた。高志はちょっとドキッとしながら由香里の瞳から手に持った資料に目を移して言葉をつないだ。
「ただ・・・ここの表現は・・・ちょっと抽象的でわかりにくいかな?もう少し具体例を挙げて記載したほうがいいんじゃないかな」
「なるほど・・・わかりました!すぐ直してきまーす!」
由香里は明るい声で答えると高志が差し出す資料を手にとって駆け足で自分のデスクに戻っていった・・・。
数日後・・
「森尾君、ご苦労様。よかったよ。今日のプレゼン」
高志は森尾由香里の肩をたたきながら部下の苦労をねぎらった。
今日の由香里のプレゼンテーションは確かにすばらしいものであり、それは偽りのない彼の気持ちであった。
「ありがとうございます。佐々岡先輩!本当にあれでよかったでしょうか?」
森尾由香里はその大きな瞳を輝かせて高志の顔を見つめた。
「ああ。俺が訂正したところもきちんと直してあったし、何より君らしい大胆な話し方がお偉いさんの心をつかんだと思うよ」
「そんな・・・大胆なんて・・・私、佐々岡先輩にそう言っていただけるのが一番うれしいです」
由香里は本当にうれしそうに高志の目を見つめた。その瞬間高志の心の中に小さな感動が走った。
「そ・・・そうか。ところで・・・君は・・・今日なにか予定があるのか?彼氏と食事の約束でもあるのかな?」
「いえ・・・彼氏なんて・・・いないんです。今日のプレゼンが成功したら一人で家に帰って祝杯でも挙げようかなって思ってたんです」
「そうか・・・じゃあ、俺もその祝杯を挙げるお手伝いをさせてもらっていいかな?」
「え?」
「この近くに俺の知ってる店でいいシャンパンを入れてるところがあるんだ。今日の君へのご褒美にご馳走させてもらえないか?」
「本当ですか!佐々岡先輩!」
由香里は本当にうれしそうに高志の目を見つめた。
この時以来、高志も由香里から悪い印象は持たれていないと思ってはいたが今こうして父親である森尾雄二から由香里の意中の相手が自分だと言われるといささか困惑する。
重苦しい専務室のソファに座りながら高志は考える。
確かに俺は今、夕子のことを愛している。そしてこれからもずっと一緒にいたいと思っている。そして、新しい魅力的な女が目の前に現れたからといってその女に手を出してさっさと乗り換えようなどと考えるには夕子とは深く付き合いすぎている。
俺はいずれ夕子と結婚し、今の会社でそれなりに出世してそこそこ安定した生活を送っていくことになると思っていた。理知的な夕子との生活は知的な会話にとんだ楽しいものになるはずだった。
しかし・・・いま俺の前にはとてつもない幸運が広がっている。
それは「約束された未来」だ。
由香里と一緒になれば間違いなく出世コースのトップを走ることになる。
しかもあの魅力的な由香里と一緒に・・・。
自分でも仕事はできるほうだと思っている高志も、多くのライバルを押しのけて上に登っていけるほど世の中は甘くないことは知っている。
しかし由香里の父親の後ろ盾があれば・・・大きなアドバンテージを得ることになるのだ。
そして・・・由香里には夕子にはないものがある・・・そう、由香里には「華」があるのだ。
それは外見の華やかさ、性格の明るさだけではない。
由香里の周りにはいつもオーラのようなあかるい光が取り巻いている。まるでそばにいるものを一緒に輝かせるような不思議な光だ。
森尾専務が体を乗り出して言った。
「失礼な言い方になるかもしれないが、今回の話は君にとってもチャンスだと思うんだ。世の中がきれいごとだけでは通っていけないことは君も分かるだろう?それに・・子供っていうのは自分の人生にかけがえのない存在なんだよ。君が選択しようとしている人生はそれを否定する人生ってことだよ」
「私も・・・子供はほしいと思っていたんですが・・・自分の息子とキャッチボールしたり、一緒にバスケットをしたりする姿を思い描くこともあったのですけど・・・」
学生時代のコンパで知り合った夕子は、物静かで平凡な外見であったが、医学部の才媛らしい理知的な会話と落ち着いた雰囲気が気に入り、高志はそのままずるずると一緒に生活を続けてきた。
バスケットボールの花形選手であった高志はほかの女性とも付き合ったこともあったが、結局は夕子のもとに戻ってしまうのであった。
「君はバスケットが得意だったな?でも、彼女と一緒にいる限り、自分の子供と一緒にバスケットをすることは不可能なことだな?」
「はあ・・・でも・・・お言葉ですが、子供だけが人生のすべてでは・・・」
戸惑いながらも反論しようとする高志の言葉をさえぎるように森尾雄二が言葉を発した。
「まあ・・・君の言うことはよくわかる。君はやはりいい男だ。由香里が惚れるのもよくわかる。だがな・・・一番大切なことは・・・みんなが幸せになることだろう?」
「はあ・・・みんなが・・・幸せに・・・ですね」
「君がこのまま彼女と一緒にいるとすると君たちには子供ができない。君も口にはださないだろうが心の中に不満はのこる。それがいつしか彼女の前に顔を出す。それを感じる彼女は不幸だし君も不幸だ。そして君に振られた由香里も不幸だし、その父親である私も不幸だ」
「申し訳ありません」
高志が申し訳なさそうに下を向いた。
「でも君が迷いを振り切って由香里を選んでくれれば少なくとも由香里は幸せだし、私も幸せだ。君も将来が開けるし子供だってできるだろう。君のことだから多分今付き合っている彼女のことを心配するんだろうが、彼女だって決して不幸ではない。なぜなら彼女は医者だ。結婚しないで子供も作らずに仕事をしている女医さんはいくらでもいる。私の知り合いにも何人か独身の女医さんがいる。そして彼女たちは決して不幸ではない。それぞれが男性との出会いや別れを経験していると思うが今、彼女たちはみんな生き生きとして仕事をして社会に貢献して充実した人生を送っている。君の彼女が今君と別れれば一時的には苦しむだろう。君を恨むかもしれない。しかしそれは一時的なことだ。きっとまた新しい目標を持って自分で幸せをつかむ。心の中に不満を持った君と一緒に暮らしているよりはずっと幸せじゃないのか?」
「・・・・・」
「君は仕事ができるだけではなく、曲がったことが嫌いで義理堅く、しかも思いやりがある男だ。君と今日話をしてよくわかった。私は・・・君が由香里の気持ちを受け入れてくれれば君を私の後継者として育てたいと思っているのだが・・・」
「こ・・後継者ですか・・・お・・恐れ入ります・・・」
「だから・・・利口になれ。一時の感情にとらわれずにみんなが幸せになる道を考えてみろ」
高志の頭の中は混乱していた。ほんの30分前、すなわち森尾専務と話をする前までは夕子と別れるなんていうことは頭の片隅にもなかった。子供はできなくてもこれからずっと夕子と一緒に楽しい暮らしができるはずだ。いや、自分にはそうする義務があると思い続けてきた。しかし「義務」と言う言葉自体が「幸せな生活」を否定するものではないか。
「君の彼女に対する気持ちはよくわかるし私も共感できる。私は君の彼女のことは全く知らないが、決して不幸になってほしくないと思う。そのために私ができることは最大限にさせてもらいたいと思っている」
「え?」
「その女医さんはやりたい研究があるといってたな?小児遺伝子に関するものだとか・・今のご時世、のんびりとすきな研究だけを続けていけるほど経済事情は甘くない。当直や外勤のアルバイトを相当こなさないと研究を続けていくことはできないものだ。私にはその援助をする力はあると思うんだ」
「それは・・・慰謝料を・・・彼女に・・・」
「まあ・・・わかりやすく言えばそういうことになるが・・・」
「それはダメです!森尾専務!専務にそんなことをしていただくことはできません!」
「まあ・・・佐々岡君。物事を建前だけで捉えるな。気持ちの問題は確かに大切だが、それだけでは解決しない。どうしても物理的な方法の助けが必要になるんだ。しかしそれはあくまでも助けに過ぎない。気持ちの問題は君が解決するしかない。彼女には君が直接、はっきりと話をしなくてはならない。その後は・・・私と私の知り合いの弁護士が力を貸そう」
そして・・・・高志は2週間悩みに悩んだあげく、夕子に別れを告げた。
第2章 障害
2030年 8年後・・・横浜にて
2010年代の後半より、それまでには見られなかった奇妙な乳児の神経疾患が散見されるようになった。
四肢の筋力低下と知能障害を伴う新生児が立て続けに報告されるようになったのである。
2020年、その原因は新しいタイプの遺伝子変異によるものであることが解明され、「高田型筋ジストロフィー」と命名された。
(作者注:高田型筋ジストロフィーは実際には存在しない架空の疾患です)
生まれた時から筋の脱力があり、産声は弱々しい。筋脱力の症状は上肢より下肢に強く成長しても歩行はできない。
知能の発達も悪くIQの発達は80程度までであり、日常生活には介助を要する。
しかしその性格は温厚で自己主張は強くなく、その意味では育てやすいとも言える。
愛くるしい大きな目と筋脱力による乏しい表情が特徴的で、その多くは生まれた時点で診断可能である。
そして遺伝子変異の原因として2000年ころより増加してきた電磁波の影響が推測されていた。ある一定の遺伝子配列を持つ個体が電磁波の影響により高田型筋ジストロフィの遺伝子異常をきたしやすいことがわかってきたのである。
2030年 横浜にて・・・
「紹介しよう。こちらが柏木紗理奈先生だ」
自宅に帰ったばかりの高志は義父から紹介された美しい女性に戸惑いながら右手を差し出した。
「は・・初めまして。森尾・・高志です」
「初めまして・・・柏木紗理奈です・・・」
柏木紗理奈はソファから立ち上がると高志の右手を静かに握った。
「高志君、いくら柏木先生がきれいだからって、そんなあからさまな態度では由香里がおこるぞ」
森尾雄二が目の前に座っている娘を見ながら笑顔で言った。
「仕方ないわよ、お父さん。だって柏木先生本当におきれいだもの。たぶん日本の女医さんの中じゃナンバーワンじゃないかしら」
「恐れ入ります」
柏木紗理奈はほんの少し微笑むと軽く会釈した。
「まあ、高志君も座りたまえ」
高志は妻の横に座ると正面の紗理奈に軽く会釈した。
そして高志は自宅に突然美しい女医が招かれた理由を義父から聞かされることになる。
「すると柏木先生は・・高田型筋ジストロフィーの専門家なのですか?」
高志が紗理奈の顔を見ながら言った。
紗理奈はほんの少しうなずいた。
「柏木先生はまだ若いが、高田型筋ジストロフィー、特にその遺伝子診断に関しては日本の第一人者だ」
「すると・・・今、由香里のおなかの中にいる子供が・・・筋ジストロフィーを発症するかどうかを診断できるのですか?」
高志は隣の妻の顔を見ながら聞いた。
「その通りですわ。奥様の血液をほんの少しいただければ・・99%の確率で胎児診断が可能です」
紗理奈が答えると森尾雄二が口を挟んだ。
「残念ながらうちの家系には高田型の筋ジストロフォーの患者がいる。そして君の家系も・・・君の甥御さん・・・君のお姉さんの息子さんも同じ病気だ。なんでも電磁波による遺伝子の障害が原因とのことだが、本当に嫌な病気がでてきたものだ。
まあ、それはさておいて・・・ということは、8年かかってやっと授かった由香里のおなかの中の子供も同じ遺伝子異常を持っている可能性がかなり高くなるということだ。そうですな?柏木先生」
「はい。高田型筋ジストロフィーは常染色体劣性遺伝であることがわかっています。父方と母方の責任遺伝子の両方に異常があれば発症します。両親が保因者の場合、子供には4分の1の確率で発症します」
「この子は25%の確率で高田型筋ジストロフィーを発症すると・・・」
「そこで柏木先生の出番というわけだ。由香里の血液をほんの少し採取するだけでおなかの胎児に遺伝子異常があるかないかを的確に判断していただける」
「もしも異常があったら・・・」
高志は心配そうに雄二を見つめた。
由香里は夫から目をそらした。
「高志君。私はきれいごとを言うつもりはない。障害児を育てるということは簡単なことではない。それは私の姉の長女の苦労を見ているからよくわかっているつもりだ。それは君も分かっているだろう。もし異常があれば・・・今回はあきらめたほうがよい」
由香里は無言で下を向いた。
「それは・・中絶を・・・」
高志の質問に雄二は無言でうなずいた。
「残念ながらそうせざるをえないだろう。それは君たち二人の負担を考えてのことだ」
高志はちょっと戸惑った表情を浮かべて目の前の女医に聞いた。
「柏木先生、異常がわかった時点で遺伝子を修復することはできないのでしょうか?」
「それは・・理論的には可能です。しかしまだ動物実験の段階で現実にはまだまだとても・・」
「では現段階では・・・」
「はい。胎児の段階での遺伝子治療は不可能です。でも・・・逆に・・・正常な遺伝子を異常な遺伝子に組み替えることなら簡単にできますのよ。ベクターという遺伝子の運び屋に異常な遺伝子を組み込んで・・・」
紗理奈が悠長な口調で語り始めた。
「正常な遺伝子を・・組み替える・・・」
「あら・・・私としたことが・・・。つい医者仲間と話しているような気になってしまって・・・・冗談ですわよ。高志さん、そんな真剣な表情をなさらないで・・・」
「呪怨遺伝子」(2/3)に続く
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