「パンドラ(2/3)」
【9月14日 蟻塚は梨緒に「呪いのビデオ」の話を伝える】
「この6人家族は祖父と孫以外は4人が感染。この家族は4人全員が感染。この家族は乳児を除いて感染・・・」
梨緒は健康保険センターからの資料を一つ一つ確認し、地図と照らし合わせていた。
「患者の隣の家でも発症していないところもあるし、3軒連続して発症しているところもあるわ。夏祭りで食べたものも一定の傾向はなし。それどころか祭りに行っていない人さえ発症している。もうわけがわからないわ。本当に感染症なのかしら?」
その時、梨緒の横の館内電話が鳴った。
「はい。香坂です」
<香坂先生、パンドラウイルスの調査責任者に面会したいという方から電話がはいっていますが・・・>
「どんな人ですか?」
<自称ジャーナリストと言っておられますが・・・あまり品のいい話し方ではないようなのですが・・・お断りしますか?>
「いえ、つないでください」
<かしこまりました>
「もしもし、パンドラウイルスの調査責任者の香坂です」
<蟻塚と言います。新聞記者の端くれです・・・>
「申し訳ありませんがマスコミ関係の方への情報提供はできないことになっています」
<いや、情報を提供するのはこちらのほうだよ。実は、エフシスっていう病気の原因が分かったんだよ>
「FSISの原因?」
<エフシスの原因、それは『呪いのビデオ』だ>
「・・・」
沈黙する梨緒にかまわず、蟻塚と名乗る男はやや軽い口調で得意げに話し続けた。
<あれほど多くの人間が一度に死ぬ原因は呪いのビデオ以外には考えられない。そこで俺はF地区で放送されたケーブルテレビの番組をしらみつぶしに調べたんだ。そしてようやく呪いのビデオの存在を・・・>
「ちょっと待ってください、蟻塚さん」
<何?>
「あなたも2日前の政府の発表をご覧になったと思いますが、FSISはウイルス感染症であることの確信が得られています」
<確かに直接の原因はパンドラっていうウイルスかもしれないが・・・それならばこの呪いのビデオを見た人間にだけパンドラウイルスが感染するんだよ>
「すみません、蟻塚さん。私も忙しいのでそのような非科学的なお話にはおつきあいしかねます。科学的な根拠がわかればまたご連絡ください」
<待ってくれ!俺もそのビデオを見ちまったんだ!俺も死にたくない!何とかしてくれよ>
梨緒はそのまま受話器を置いた。そして交換につないだ。
「もしもし、香坂です。今の蟻塚さんという人、これからは私に取り次がないでいただけますか?ええ、私だけでなく、この研究所の職員の誰ともつながないでください」
梨緒は憤慨した声で言うと受話器を置いた。
「呪いのビデオ?ビデオを見た人間にどうやってウイルスを感染させるというの?」
【9月15日 今野がパンドラウイルスの遺伝子情報を解析した】
「香坂先生、パンドラウイルスの遺伝子情報が同定できました」
今野が資料を持って梨緒のもとに走ってきた。
「パンドラウイルスは10kb(キロベース)の1本鎖RNAウイルスでした。宿主の白血球細胞に入り込むと細胞質内で増殖します。その結果白血球が大量のサイトカイン(炎症誘引物質)を放出して全身に炎症を誘発します。そして高熱、血球減少がおこり、すみやかに多臓器不全となって死亡します」
「見かけ上はウイルスとしてはごくありふれたタイプのようね。色覚異常から発症するということは網膜の錐体細胞に親和性があるのかしら」
「それが・・・検出されたRNAシークエンスを見てもそのような特異性は見られなかったのですが・・・」
「それじゃあなぜまず色覚異常から発症するのかしら?」
「目から感染するということでしょうか?」
「目から?」
「感染者全員にウイルスが一度に直接目に入るなんてことはないですよね・・・」
「目から感染・・・」
「ああ、前に話題になった呪いのビデオっていうのがあるじゃないですか。ビデオ見たら殺人ウイルスが感染しちゃうっていう・・そんなビデオがあれば解決ですよね。でもそれって明らかに科学的根拠にかけてますよね。RNAウイルスが電波に乗って飛んでくるとでも言うんでしょうか?コンピュータウイルスじゃあるまいし・・・」
今野は笑いながら言った。
「呪いのビデオ・・・」
梨緒はつぶやいた。
【9月16日 蟻塚がパンドラウイルスに感染しFSISを発症する】
国立感染症研究所の梨緒のもとに隼人から電話が入った。
「どうしたの?ここに電話してくるなんて・・・」
<FSISが・・FSISの患者が現れた!>
「なんですって!」
梨緒は思わずその場で立ちあがった。
「す・・・すぐ行くわ!」
足早に病院に向かった梨緒は隔離病棟に急行した。
準備室でマスク、ゴーグル、ガウンをつけた梨緒は隔離病棟のドアを開けた。
「隼人!FSISの患者は?」
「この患者だ」
梨緒が隼人の指し示すベッドを見ると酸素マスクをして点滴を受けている患者がいた。
眼球は充血して突出し、今までの患者と同様まるで何かに恐れおののくような表情だ。
ベッドの上のネームプレートを見て梨緒は思わず立ちすくんだ。
「蟻塚・・幹夫・・・・」
「昨日から色覚異常と結膜炎症状が出現している。今朝から高熱があり、先ほど救急車で搬送された。症状は急速に進行してすでに血圧低下と意識レベルの低下がある」
「この人と話ができる?話をしたいの!」
梨緒はゴーグル越しに隼人を見つめて懇願した。
「意識レベルはかなり低下しているからうつろに返事をするだけだ」
梨緒は患者に向かって聞いた。
「蟻塚さん!国立感染症研究所の香坂です!わかりますか!」
蟻塚はぴくっと体を動かし、口をもごもごと動かし始めた。
「の・・・ろいの・・・び・・・でお・・・・」
「呪いのビデオ!蟻塚さんが知っていることを話して!」
蟻塚はゆっくりと右を向くと目で自分のカバンを示した。
「このかばんの中に資料があるのね?」
蟻塚はかすかにうなずくと、再びそのまま昏睡に落ちた。
梨緒がカバンの中を探ると1冊の手帳と1枚のDVDが入っていた。
そしてそのDVDに書かれていた文字は・・・
「・・・呪いのビデオ・・・」
「梨緒、何だ?それは」
隼人が怪訝そうに聞いた。
「隼人!この人の荷物を私に貸して!」
「それはだめだ梨緒、FSIS患者の持ち物は隔離病棟から出すことは許可できない。患者が死亡した時に一緒に処理することになっている」
「この中にFSISの病態を解く鍵がかくされているのよ!お願い!私に調べさせて!」
梨緒の強い口調に隼人は一瞬たじろぎ、無言で考え込んだ。
「いいだろう。ただしきちんと消毒をしてからだ」
研究所に戻った梨緒は蟻塚の手帳を開いた。
「これは・・FSISに感染した患者名・・・」
そこに書かれていたのはFSISに感染して既に死亡した患者とその家族の名前が順に羅列されていた。その次には感染していないF地区の住民の名前も多数記載されていた。
「視聴 ○・・・ ×・・・ 途中まで・・・発症・・・発症せず・・・」
梨緒は次々にページをめくった。そしてDVDを見つめた
「『呪いのビデオ』 F地区ケーブルテレビ20XX年8月31日13:00放送・・・。このDVDビデオは放送されたものを録画したものだ。そしてその放送を見た人間がFSISを発症したかどうかを検証しているのね」
梨緒は繰り返しページをめくった。
「放送を見た人間のほとんどがFSISを発症している!それに対して放送を見ていない人間は一人も発症していない!これは・・本当に呪いのビデオなの・・・?」
梨緒はもう一度DVDを見つめた。
「蟻塚さんはこれだけのことを一人で調べて・・私に伝えようとしたのね・・・・。それを私は・・・」
【9月17日 梨緒は佐久間が「呪いのビデオ」にかかわっていることを知る】
梨緒はF地区ケーブルテレビ会社に来ていた。
「支社長の高村と申します。8月31日の放送の件で何か・・・」
「はい、お忙しいところ申し訳ありません。8月31日13時から放送された番組に関してお伺いしたいことがあるので、担当のディレクターの方にお会いしたいのですが・・」
「その時間は『住民健康ジャーナル』ですね。健康に関する情報を15分くらいで住民の皆さんに提供しようという趣旨で始めた番組ですね」
「そのディレクターの方は・・・」
高村はちょっと沈黙してゆっくりと話し始めた。
「申し訳ありませんがディレクターにお会いいただくことはできません」
「どうしてでしょうか?」
「その番組のディレクターとカメラマンの二人は、もうこの世にいないからです」
「この世にいない!お亡くなりになったのですか?」
「はい。先日のパンドラウイルスとかいう感染症で・・・」
「FSISで!」
「はい・・・」
「その8月31日の番組のことをもう少し教えていただけますか?」
「はい。あの日は目の病気の特集で、確か・・・佐久間というどこかの研究所の所長さんにお話しいただいたのだと記憶しています」
「佐久間!!生物光学研究所の佐久間卓也所長ですか!」
「ああ・・確かそんな名前だったような・・・」
「どうして佐久間先生が・・・」
「何でも、あの日のテーマは佐久間先生から申し出があったと伺っています」
「佐久間先生から!」
「はい。視力障害や色覚障害に関して是非F地区の皆さんにお話をしたいと。いえ、私どものような地方のケーブル局で専門の先生にお話しいただける機会はなかなかないものですから・・二つ返事でお受けしたと記憶しております」
「佐久間先生のほうから講演を・・・それで何かビデオのようなものを放送されました?」
「はい。簡単な病気の解説をしていただいた後、先生が持参された5分くらいのビデオを放送したと記憶しております」
「自分で持参したビデオを放送したということですか・・・」
「はい。そういうことです」
国立感染症研究所に帰った梨緒は蟻塚の手帳を見直していた。
「佐久間先生は自分からケーブルテレビの出演を希望した。その番組に持ち込んだビデオを放送し、それを見た人間のほとんどがFSISを発症した。佐久間先生がパンドラウイルスに何らかの関与をしたことは間違いない。でも・・・どうして・・・。それよりも・・・どうやって・・・・。どうやったらビデオを見せてパンドラウイルスを感染させることができるの?」
【9月18日 手がかりがつかめない梨緒はついに自ら呪いのビデオを見ようとする】
夜8時、梨緒は朝からずっと研究所のデスクの上で今までの資料を見直していた。
「ビデオを見ていない乳児は発症から免れている。放送を見たにもかかわらず発症しなかった人たちには男性が多い。遺伝的に男性が何か感染防御に有利な因子を持っているのかしら。・・・・・この家庭では祖父が発症を免れている。祖父の同居の長女は発症。その息子である祖父の孫は発症していない。放送は全員が見ていたと・・・。なぜ同じビデオを見ても発症しないの?」
梨緒は蟻塚のメモを閉じると大きくため息をついた。
「そんなことより、だいたいRNAウイルスは核酸という塩基で構成されている有機物。電波に乗せて運べるのは電磁波だけ。電磁波ができるのはせいぜい見た人間の網膜を傷つけることくらい。どうやったって有機物を電波に乗せて運ぶことなどありえない。しかし佐久間先生はそれをやってのけた。自分が作ったビデオを見た人間にだけパンドラウイルスを感染させた。どうやって・・・・」
梨緒は天井を見上げた。
「ありえない・・そんなことありえない・・・。ひょっとして・・・ビデオの電波によって人間の網膜に障害を起こさせ、そこからパンドラウイルスを感染させたの?でも・・・そもそもパンドラウイルスはどこにいるの?網膜に障害を起こした人間すべてに一度に感染するほど大量に空気中に漂っているとでもいうの?いったいウイルスはどこにいるの?お願い・・・誰かヒントをちょうだい・・・」
疲労が頂点に達した梨緒は両手で頭を抱えて机の上にうずくまった。
ふと梨緒の前に置いてあるDVDが目に入った。
「呪いのビデオ・・・この中にウイルス隠れているとでもいうの・・・?」
梨緒はDVDを手に取った。
「この中に・・この中にパンドラウイルスが・・・ありえない・・ありえない・・そんなことありえない・・ありえない・・ありえない・・でも確かめなきゃ・・確かめなきゃ・・」
梨緒は震える手でDVDディスクをノートパソコンの中にセットした。するとパソコンがDVDディスクを読み込み、ビデオ閲覧ソフトが起動した。
梨緒の呼吸は早くなり、心拍数は100を超えた。
「確かめなきゃ・・確かめなきゃ・・・」
梨緒は震える手で再生ボタンをゆっくりとクリックした。
その時ドアが開いた。
「香坂先生!お疲れ様でーす」
今野の声に梨緒は反射的にノートパソコンのふたを閉じた。
「ど・・・どうしたの?今野君」
「昨日はコンタクトをずっとつけていたので結膜炎になっちゃったんですよ。朝からメガネを探していたんですけどロッカーにも机の上にも車の中にもなくて・・・てっきり自宅に置いてあると思ったんですがなかったので探しに来たんですよ。おかしいなー・・・」
「じゃあ今野君、今、あんまり見えてないのね」
「ええ・・まあ視力は0.4くらいはあるんで何とか仕事はできましたけど・・・あ・・・ひょっとして・・・・あった!」
「どこにあったの?」
「ジャーン!なんとメガネケースの中でしたー!」
「メガネケース?そんなの最初に調べるとこじゃないの?」
「それが・・・僕はメガネをはずしたら大体そのまま机の上に置いておくか引出に入れちゃうんですよ。メガネケースなんてほとんど使ったことがなかったので盲点でした。そういえば3日前に机の上をかたつけるときに壊しちゃいけないと思ってケースに入れたんでした」
「灯台下暗しってやつね」
「探し物は近いところから探せってことですね。あー見える見える」
今野はメガネを掛けながら言った。
苦笑していた梨緒ははっとして息をのんだ。
「探し物は近いところから・・・灯台下暗し・・・」
「え?どうしたんですか?香坂先生」
「今野君!あなたの血液をちょうだい!」
「えー?なんですか?」
「説明はあと!」
梨緒はそういいながら採血のセットを準備し始めた。
困惑する今野の腕に駆血帯を巻きながら梨緒は言った。
「今野君、これが終わったら私の血液も取ってちょうだい」
「え?香坂先生の血液ですか?」
「そう、そして大至急白血球の核内にパンドラウイルスのRNAと同じDNAシークエンスが検出されるかどうか調べてほしいの」
「え?DNA・・・ですか?僕の血液にパンドラウイルスが?そ・・・そんな・・・勘弁してくださいよ」
「いい?RNAじゃなくてDNAを調べるのよ!結果がわかったらすぐ教えてちょうだい」
「わ・・わかりました!」
採血が終わった梨緒はノートパソコンを開き、DVDディスクを取り出すと、カバンに入れてあわてて外に飛び出した。
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