「ゼウスの火」第2章(1/3)
第2章 呪いと絆
9月18日(火曜日)
【若菜】
2日前に発症した患者は次々に息を引き取っていた。
国立感染症研究所には全国の血液センターからのサンプルが集められ、その数は8000を超えていたが、不思議なことにパンドラウイルスの抗体は誰からも検出されなかった。
「高梨先生。いくらなんでもおかしいですよ。これだけ調べても抗体を持っている人間がいないなんて・・・。たった一人、佐々岡慎太郎だけですよ。どういうことでしょう?」
今野が美里に聞いた。
「それに高岡竜司は抗体を持っていないにも関わらず感染していない。もう完全にお手上げだわ」
「あとは・・・このDVDを実際に見て調べてみるしかないですか?」
「それはだめ!」
「でもこのままじゃ日本中がパニックになりますよ。感染経路も分からず治療法もないなんて・・・僕だって毎日気が気じゃないです」
「二次感染が起こっていないのは幸いだわ。少なくともこのDVDを見ていない人間は発症していない」
「このDVDに何が隠されているんでしょうか?」
今野はDVDを手に取って天井にかざした。
その日、美里は久しぶりに和馬のアパートではなく自分のアパートに戻った。
美里は妹の若菜と二人暮らしをしている。
若菜は19歳になったばかりで、今年東京の大学に入学し、美里と同居することになった。ナチュラルボブの髪を茶色に染めている。身長は160cmと美里より少々小柄だが、女性的なボディーラインで、美里と同様に大きな瞳と長いまつげの美人である。
高校時代は勉強などそっちのけでアイドルのおっかけをしており、東京の大学を受験したのも芸能人に近づきたいだけという不純な動機であった。
それを知っている両親は若菜の東京の大学受験も許可しなかったが、美里と同居するということを条件にしぶしぶ了承したのだった。
しかし美里は半年前に和馬と付き合い出し、ほとんど若菜の待つアパートには帰ることがなくなり、若菜は事実上東京の一人暮らしを獲得していたのだった。そのような事情をもちろん両親は知らない。
一回り年が離れた妹である若菜のことを美里は誰よりもかわいがってきた。
「お姉ちゃんお帰り。珍しいわね、こっちに帰ってくるなんて。お兄ちゃんと喧嘩でもした?」
若菜はまだあどけなさの残る笑顔で美里に言った。彼女は和馬のことをすでに「お兄ちゃん」と呼んで慕っているのである。
「ただいま。たまにはあんたを監視しないと何するかわからないからね」
「あー・・・信用ないなー。来年には私も20歳になるんだから・・・。いい加減大人として認めてよ」
「いくつになってもあんたは一人ではほっておけないわ」
美里は笑いながらカバンを椅子に置いた。
ふと隣の椅子の上を見た美里はびっくりして若菜のカバンを手に取った。
「若菜! これは何!」
美里はカバンのポケットに入っていたDVDケースを取り上げると鬼のような形相で若菜に突き付けた。それは・・・まさしく美里が苦しめられている「ゼウスの火・・・呪いのビデオ」のDVDであった。
「そ・・それは・・・」
「あんた今これが大変なことになっているのを知ってるの? これを見た人間が次々と死んでいるのよ!」
「だ・・・大丈夫よ・・・私の呪いは・・・もうとけたから・・・」
「呪いがとけた? あんた! 誰かにこれを見せたの?」
「だって・・・仕方ないじゃない・・・私まだ死にたくないもん・・・」
「ばか! なんでこんなもん見たのよ!」
「だって・・・仕方なかったのよ・・・あの松翔が・・・」
「松翔? あんたが追っかけてる松川翔?」
「うん・・・」
「どういうこと? ここに座って! ちゃんと説明しなさい」
若菜は涙を拭きながら美里の前にすごすごと座った。
【若菜の回想】
話は3日前にさかのぼる。
若菜は大学の講義の合間に喫茶店でレポートを仕上げていた。
そんな若菜にサングラスをかけた若い男が声をかけた。
「あの・・ちょっといいですか?」
「はい?」
見上げた若菜はびっくりして声を失った。
「ま・・松川・・翔さん?」
「しっ・・!内緒で・・・」
松川翔は笑顔でそういいながら若菜の横に座った。
「僕のこと、知ってるってことは僕のファンかな?」
「も・・もちろん! わたしデビューのころから大ファンです!」
若菜は目を輝かせて隣に座ったアイドルを憧れのまなざしで見つめながら小声で答えた。
「本当! それはどうもありがとう。君のようなかわいい女の子がファンだなんてとてもうれしいよ。それじゃあ・・・折り入って話があるんだけど・・・ちょっと時間とれるかな?」
「はい!何時間でも!」
「名前聞いていいかな?」
「高梨若菜です!」
「若菜ちゃんか・・・君にぴったりのかわいい名前だね」
二人は店を出て近くのマンションの1室に入った。そこにいたのは・・・。
「佐久間雅(みやび)!・・さん・・・」
若菜はびっくりして声を上げた。
佐久間雅は松川翔の弟分のような存在で、最近売り出し中のアイドルである。
「さあ入って入って・・」
雅に促されて若菜は恐縮しながら靴を抜いだ。
若菜はテーブルを挟んで松川翔と佐久間雅の前に座った。
ずっと憧れてきたアイドルが二人、自分の目の前に座っている。若菜の心臓は早鐘のように鳴っていた。
「じつは・・・若菜ちゃんに折り入ってお願いがあるんだ」
「はい! なんでしょうか?」
「はっきりと言うよ。僕たちと・・一晩ずつ付き合ってもらえないかな?」
「つ・・付き合うって・・・」
「君ももう大人だからわかるよね? 一晩付き合うっていう意味・・・」
「え・・・ええ・・・」
若菜は恥ずかしそうに下を向いて答えた。
「じつは君にこれを見てほしいんだ」
松川翔はカバンからDVDを取り出した。
「ゼウスの火・・呪いのビデオ・・・これ・・・今都市伝説で話題になってる・・・」
「そう。実は俺、2日前にこれを見ちゃったんだ」
「翔さんが?」
「そう。知り合いにすすめられて興味本位で見ちゃったんだけど、これ相当やばそうなんだよね」
松川翔は佐久間雅と顔を見合わせた。
「それで、これを見ると1週間後に死ぬっていうんだけど、誰かにこのDVDを見せて、24時間後にその人と交わると呪いはとけるんだ」
「24時間後に・・・交わる・・・」
「そう。君に今このDVDを見てもらって、あした・・僕と一晩付き合ってくれないかな?誰かいい女の子を探してたんだけど、君なら僕の好みだし、雅も気に入ると思ってね」
佐久間雅は笑顔でうなずいた。
「あの・・雅さんも・・・」
「いや雅はまだ見ていない。このビデオを君が見たら今度は君が呪いにかかるだろ? そしたら君の命が危なくなる。そこで今度はこれを雅に見せて、そのあと君と雅が・・ってことなんだけど・・・そしたら君も助かるし・・・」
「でも・・そしたら雅さんが・・・」
若菜は不安そうな顔で佐久間雅を見つめた。
「僕なら大丈夫。また次の相手を見つけるから。でも今は翔さんの呪いを何とかとかないと・・・君も翔さんが死んじゃったらいやでしょ?」
「それはもちろん・・・でも・・・」
「頼むよ・・・本当は君のようなかわいい女の子はプライベートで付き合いたいくらいなんだ」
松川翔はそういいながら若菜の手を握った。若菜は下を向いて小さくうなずいた。
次の夜・・・すべてが終わったあと、松川翔は若菜のおでこにキスをして言った。
「ありがと・・・若菜ちゃん。今からこれを雅に見せるから・・・明日同じ時間にもう一度ここに来てくれるかな?」
若菜は布団の中で小さくうなずいた。
そして翌日、若菜は雅のマンションに向かったが、電車の事故のため2時間ほど遅れてしまった。すべてが終わったのは12時を少々回ったころだった。
若菜が帰り支度をしていると玄関のチャイムが鳴った。
「誰だ?今頃・・・」
雅があわてて鍵を開けると・・・。
「あ・・翔さん・・・」
「おう、雅! 終わったか? しっかしあの女も馬鹿だよなー! お前が本当にあのDVD見ると思ってるのか? 死ぬってわかってるのに見るわけないだろうが。なあ雅!」
「あ・・翔さん・・あの・・ちょっとヤバイっす・・・」
雅は翔の身体を捕まえるとあわてて外に出ようとした。
そこへ翔の声を聞いた若菜が奥の部屋から出てきた。
「あ・・・若菜・・ちゃん・・」
若菜を見つけた翔はあわてて言葉をつないだ。
「い・・・今のウソだから・・全部ウソ・・・」
若菜はそこに置いてあったDVDを手に取ると泣きながら二人の横を通って表に飛び出した。
【宇都宮誠】
話し終わった美里は大きくため息をついた。
「呆れた・・・松川翔にうまく言いくるめられて騙されたってこと?」
「だって・・・」
若菜は泣きべそをかきながら小声で答えた。
「それで? あなたどうしたの? このDVD誰に見せたの? 河合君?」
「晴彦は・・・逃げちゃった・・・」
「逃げた?」
「あの後すぐ電話したんだけど、そんなもん見れるわけない、こんな時間に電話するなって怒って切っちゃった・・・」
「そりゃまた冷たい・・・それであなた・・・まさか誠くんに・・・」
「だって・・・他に誰もいないんだもん・・・」
「いつ?」
「昨日見てもらって・・・さっき・・・」
「呆れた・・・あなた、誠君は中学校の時からあなたに思いを伝えてきたのにずっと相手にしなかったじゃないの」
「だって・・・私死にたくない・・・」
「あんたね・・・都合のいい時だけ人を利用して・・・恥ずかしくないの?」
「ごめんなさい・・・」
若菜はその場でテーブルにうつむせになって泣き崩れた。
「でもどうしてあなたがこれを持っているの? 誠君に渡さないとこんどは彼がFSISを発症するのよ」
「いらないって・・・」
若菜は顔を上げて答えた。
「いらない?」
「僕は誰にも見せるつもりはないって・・・」
「そんなばかな・・・いいわ。私が明日誠君に会ってくるわ」
美里は若菜の持っていたDVDをカバンにしまった。
9月19日(水曜日)
【誠の決心】
翌日朝、美里は若菜の血液を採取し、今野に検査を依頼していた。
「若菜ちゃんはパンドラウイルス抗体陽性です。ウイルスRNAは検出されません」
「そう・・・よかった。FSISの発症は免れそうね」
ありがとう・・・誠君・・・美里は心の中で誠に手を合わせた。
「2例目の抗体陽性者ですね。」
「これで分かったわ。何人検査しても抗体陽性者がいないわけが。もともとパンドラウイルスの抗体を持っている人間はいない。パンドラウイルスに感染して初めて抗体が陽性になるのよ。感染していない献血者の血液センターのサンプルの中には抗体陽性者はいないはず」
「それにしてもどうして感染して抗体ができてFSISを発症しない人と抗体ができずに発症する人がいるんでしょうか? DVDを他人に見せることで抗体ができるとはとても思えないんですが・・・それに新種のウイルスに感染してから抗体ができるまでの期間が短すぎるような気も・・・」
「DVDを他人に見せてその人と交わった人には一気に大量のパンドラウイルス抗体ができるということ・・・。理不尽だけどこれは紛れもない現実だわ。でもその理由を考える前に、DVDを見ただけでパンドラウイルスに感染する謎を解明するのが先ね。何とか所長を説得する根拠を見つけないと・・・」
美里は時計をちらっと確認するとテーブルの上に置いてあったDVDをカバンにしまった。
「これから若菜からDVDを見せられた人のところに行ってくるわ。今野君は若菜の血液を使って血清を作ってちょうだい」
宇都宮誠は若菜と同じ19歳で中学校時代からの同級生である。やや細身で一見ぼんやりした顔立ちで何となく頼りない外見だが、努力家で成績はいつも上位であった。
中学1年の時から若菜を気に入り、一途な彼の眼には他の女性は映らなくなった。中学高校一貫教育の学校だったので彼は6年間若菜にアプローチを繰り返していたが、当の若菜は一向に振り向こうとはしなかった。彼女はどちらかというと筋肉質のたくましい野性的な男が好みのようだ。
美里も何回か誠に会っていた。彼女はまじめで誠実な誠に好感を抱いており、いつも妹に「彼と付き合ってみたら?」とアドバイスしていた。
それでも誠はことあるごとに若菜の手助けをし、若菜は都合のいい時だけ誠に頼みごとをし、誠もそれを受け入れるという、いわばお嬢様と召使いのような奇妙な関係が継続していたのである。
誠が東京の大学に進学したのも若菜の後を追ってきたということらしい。もっとも若菜とは違い、全国の秀才が集まる有名校に難なく合格したのであるが・・・。
今日は午後から誠の授業がなく、自分のアパートに帰っているとのことで美里は誠のアパートに向かっていた。
「お姉さんお久しぶりです」
誠は美里のことをお姉さんと呼び、美里もそれで通している。
「久しぶり、元気そうね、誠君」
「どうぞ・・・すみません殺風景で・・」
8畳の部屋の中には机が一つと本棚が3つ。そしてその中にはぎっしりと難しそうな本が並んでいた。
誠君らしい・・・美里は周りを見回してそう感じた。
部屋の真ん中に置かれた座布団に座った美里はさっそく本題に入った。
「誠君、ごめんなさい。若菜がとんでもないお願いをしてしまって・・・」
美里は両手を畳について頭を下げた。
「いいんですよ。自分で決めたことですから・・・」
「それで・・・これを・・・」
美里はカバンの中からDVDを取り出した。
「私がこんなことを言ってはいけないのだけど、あなたには・・・死んでほしくないの。これを・・・使って・・・」
誠はしばらく考え込んで顔を上げ、笑顔できっぱりと言った。
「それはできません」
「どうして!これは本物の呪いのビデオだわ! これを見たらあなた、5日後にFSISを発症して1週間後に死ぬのよ!」
「わかっています」
「ならどうして・・・」
「僕が中学校のころからずっと若菜ちゃんのことを好きだったこと、お姉さんも知ってるでしょ? その若菜ちゃんが3日前の夜中に泣きながら僕のところに来たんです。事情を聞いたら、騙されて呪いのビデオを見させられたって。私もう1週間後に死ぬんだって、僕にしがみついてワンワン泣き出すんです」
「そう・・・」
「それで僕、心配するなって・・ちゃんと僕がそれを見て若菜ちゃんの呪いをといてあげるって言ったんです。そしたら若菜ちゃん、僕の顔をじっと見つめて何度も『本当?本当に?』って聞くんですよ。それで僕はそのDVDを受けとりました。帰り際に若菜ちゃん何度も『ごめんね、ごめんね』って繰り返していました。あんな若菜ちゃん見るの初めてでした」
「それで昨日の夜・・・」
「はい」
誠はちょっとはにかんで美里から目をそらした。
「でも誰かにそれを見せなければ今度はあなたに呪いがかかってあなたが死ぬことになるわ。それでもいいの?」
「・・・昨日の夜、布団の中で若菜ちゃん・・・僕の胸にしがみついて泣きながら『ありがとう、ありがとう、本当にありがとう』って繰り返して言っていました。僕は中学校の時に若菜ちゃんを一生守ろうって決めたんです。だから後悔はありません」
「でも・・・」
「僕は・・・若菜ちゃんのぬくもりが残ったこの体でほかの女の人を抱きたくないんです」
「誠君・・・・」
このとてつもなく尊く、揺るぎのない決心・・。若いからこそ、そして限りなく純粋だからこそ言える言葉だ。美里は若菜ではなく、誠のことを心からうらやましいと思った。
美里は涙を流しながら誠の手を握った。
「あなたを・・死なせやしない! あなたを死なせたらあなたの両親に申し訳が立たないわ。私が必ずこのDVDの謎を解いてみせる!」
「本当に呪いがかかってるんですか?」
「そんなはずはない! 呪いなんて言う非科学的なことじゃなくて、このビデオとパンドラウイルス感染には必ず科学的な因果関係があるはず。誠君、このDVDの内容覚えてる?できるだけ詳しく教えてほしいの」
「もちろん覚えています」
誠は天井を見上げて思い出した内容を語り始めた。
「プロメテウスにより火を授かりし我々にゼウスは怒り、
エピメテウスに嫁いだパンドラに箱を渡した。
パンドラは禁じられた箱をあけ、
パンドラの内からゼウスの火が世界に広がりし。
ゼウスの火に触れたものはその目を焼かれ、
8回目の日を見ずして旅立つであろう。
他の人間にゼウスの怒りを伝え、
そのものと交わったものにはゼウスの怒りは解かれよう。
4つ目の日を見る前にゼウスの怒りを伝え、
その次の日を見る前にそのものと交わればゼウスの火は消え去らん。
イージスの盾を持つものはゼウスの火により目を焼かれず。
戦いの女神アテナ、22のうち1つの男にイージスを授けるものなり」
「すごいわ・・・。完璧に暗記しているのね」
「僕は考古学の分野に進みたいと思っています。ですからギリシャやローマの神話には興味があって神様の名前なんかもほとんど覚えてます」
「そう。あなたならいい学者になりそうね」
「本当は高校時代にはデザインに興味があったんです。でも僕、色覚異常があるようで・・・ちょっと向いてないかなって思って方向転換しました」
「色覚異常・・・」
「ええ。赤緑色覚異常って言うらしいんですけど赤と緑の区別がちょっとつきにくい障害らしいです。普段の生活には全然支障ないんですけど、色を扱う仕事はちょっと不利かなって思って・・・」
「そう・・。でも誠君には考古学のほうが合ってると思うわ」
「そうですか・・・あ・・そうだ。あのビデオに出てきた人、僕知ってます」
「なんですって!」
「たぶん久留間神児っていう生物学者です」
「生物学者!」
「ええ。彼は大学時代にアマチュアバンドをやってたんですけど一時メジャーデビューしたことがあって僕、なぜか彼のギターが好きで彼が出ている番組はよく見ていたんです。右手に2本の傷があって結構特徴的だったんですけど、DVDの中でもちらっと見えたんですよ。たぶん間違いないと思います」
誠は自分の右手を挙げて左手で傷の部位を美里に指示した。
「その久留間神児っていう人は今どこに・・」
「さあ・・卒業してからバンド活動はやめてどこかの研究所に入ったらしいですけど・・。でもちょっと危ない人だったな。コンサートの途中でギターをたたき壊しちゃったり、自分は神だから世界を支配するなんて話し出したり・・まあ、そこが受けてたのもあるんですけどね」
「わかった! 調べてみるわ、ありがとう、誠君! それから・・・今から一緒に来て」
「え?どこに」
「国立感染症研究所よ。あなたの血液を検査させてちょうだい。それから・・・若菜から採取した血清をあなたに投与したいの」
「若菜ちゃんからの血清?」
「そう。彼女の血液にはパンドラウイルスの抗体ができている。効果があるかどうかはわからないけど今私があなたにできることはそれくらいしかないの」
【感染せず!】
研究所に帰った美里は宇都宮誠の血液を採取し、今野に検査を依頼した。
「多分あなたの血液にはパンドラウイルスのRNAが検出される。それを確認して若菜の血清を点滴するわ。結果が出るまでの間もう一度呪いのビデオのことを詳しく聞かせてちょうだい」
1時間後今野がやってきた。
「高梨先生・・・宇都宮誠君の血液からはウイルスRNA検出されませんけど・・・。抗体も陰性です」
「なんですって! そんなはずは・・・もうビデオを見て2日以上経過しているからウイルスは検出されるはずよ」
「でも間違いなく陰性です」
「そんな馬鹿な・・・」
「あの・・・若菜ちゃんの血清どうします?」
「血液中にウイルスが検出されないのなら抗体を投与しても意味がないわね。誠君、しばらく毎日検査をさせてちょうだい。ウイルスが陽性になった時点で血清を投与するから」
「わかりました」
美里は一人になった研究室でじっと考えこんでいた。
「わからない・・・まったくわからない・・・どういうこと? 調べれば調べるほど袋小路にはまっていく。誠君は感染していないというの? だったら若菜は・・・今からFSISを発症するの? いや、若菜の血液中にもウイルスRNAは検出されず、代わりに抗体が検出されている。ということは、感染はしたけれど発症を免れたということ。だったら若菜の代わりに誰が感染しているの?」
美里ははっと頭を起こした。
「ひょっとして佐久間雅・・・そうか・・彼もDVDを見たんだ! 彼がDVDを見たことによって若菜の身体に抗体が・・・。でも誠君はどうして感染しないの?」
その時、美里の脳裏に高岡竜司の顔が浮かんだ。
「待って・・・これは高岡竜司と同じ。彼もDVDを見たにもかかわらず感染を免れている。DVDを見ても感染しない・・・『イージスの盾を持つものはゼウスの火により目を焼かれず・・・』 イージスの盾とは?」
美里は誠から聞いた呪いの全文を写したメモを見直した。
「『戦いの女神アテナ、22のうち1つの男にイージスを授けるものなり』・・・22人に一人の男性がイージスを与えられゼウスの呪いを免れる・・・。宇都宮誠と、高岡竜司の共通点は何?」
その瞬間美里ははっと体を起こした。
「色覚異常!」
美里は立ち上がると図書室に向かって走り出した。
図書室で美里は眼科学の本を手に取り色覚異常の項目をさがした。
「・・・日本人の男性の22名に一人は色覚異常を持つ・・・これだ! イージスの盾とは色覚異常! 色覚異常の男性は呪いのビデオをみてもパンドラウイルスに感染しない! このDVDに記録されている何らかの色情報がパンドラウイルスの感染にかかわっているんだわ!」
色覚異常は伴性劣性の遺伝形態をとる疾患である。
伴性とは性染色体に遺伝子情報があることを意味し、劣性とは父方母方の2本の染色体のうちどちらかが正常なら発症しないということである。
色覚異常の遺伝子は性染色体のX染色体上にある。男性はX染色体を1本しか持たないのでその染色体に色覚異常の遺伝子があれば色覚異常を発症する。しかし女性は2本のX染色体があるのでその両方に異常遺伝子がない限り発症しないのである。そのようなわけで日本人では男性の22人に一人が何らかの色覚異常を持つが、女性の色覚異常者はきわめてまれである。
【海園荘】
その日の夜遅く、美里はA市の温泉旅館、海園荘を訪れていた。
「すみません。国立感染症研究所の高梨と申します。宿帳を拝見したいのですが・・・」
美里は事情を話して旅館の女将の許可をもらい宿帳を調べていった。
「9月1日・・田中卓 高橋俊樹 佐々岡慎太郎 西尾桜子・・彼らはこの日にここで呪いのビデオを・・・。その前にこの部屋に泊まったのは・・・8月29日・・えっ!!」
美里の目は宿帳にくぎ付けになった
「久留間神児!! 久留間神児がこの部屋に泊まっている!」
「間違いない。このDVDを作り、ここに置いたのは久留間神児だ。彼こそがパンドラウイルスを世に広めた諜報人!」
« 「ゼウスの火」第1章(3/3) | トップページ | 「ゼウスの火」第2章(2/3) »
「小説」カテゴリの記事
- 「虹の彼方のオズ」第5章(2/2)(2014.09.20)
- 「虹の彼方のオズ」第5章(1/2)(2014.09.19)
- 「虹の彼方のオズ」第4章(2/2)(2014.09.18)
- 「虹の彼方のオズ」第4章(1/2)(2014.09.17)
- 「虹の彼方のオズ」第3章(3/3)(2014.09.16)
コメント