「ゼウスの火」第1章(1/3)
第1章 パンドラウイルス
(注:この前にプロローグがあります)
9月6日(木曜日)
【都立聖礼病院】
滝沢和馬は救急外来に向かっていた
身長182cm体重86Kg。筋肉質のがっしりした体型の和馬はマスクとゴーグルを装着すると救急外来のドアを開けた。ストレッチャーの上には若い女性が横たわっていた。
「またか・・・さっきの患者と同じだ・・・今度は女か」
その患者は眼球が真っ赤に充血して飛び出し、まるで何かにおびえるような表情で苦しそうに呼吸していた。
「患者の名前は西尾桜子。血圧90と60。脈拍120です! 体温39.5度。昨日から目の異常を訴え、今日呼吸がつらくなって家族が救急連絡しました」
和馬は患者の首を触りながら救急隊からの申し送りを聞いた。
「この患者も目の障害を?」
「はい。昨日から周囲が青っぽく見えてそのあと目が充血してきたようです。今朝になって急に高熱が出てショック状態となり意識障害を併発しています」
「さっきの二人と同じだな」
「はい。家族に聞いたところによると先ほど搬送した田中卓さんと高橋俊樹さんは大学の同級生だそうです」
「なんだって?」
「1週間前にこの三人ともう一人で旅行に出かけています。西尾桜子さんと高橋俊樹さんは以前から付き合っていたようです」
「これは・・・感染症だ! 3人とも感染症病棟に移せ! 国立感染症研究所に連絡してくれ!」
【和馬と美里】
「失礼します。国立感染症研究所の高梨美里と申します」
高梨美里はゴーグルとマスクをつけて都立聖礼病院の感染症病棟の集中治療室に入ってきた。
「ああ美里、待ってたぞ」
和馬が美里に手を挙げてあいさつした。
「ちょっと公私混同しないでよ。私は仕事で来てるのよ」
美里は不満そうに和馬に小声で言った。
「まあ、固いこと言うな。患者はこの3人だ。眼球突出と高熱、意識障害、ショック状態だ。発症は三人とも昨日。ほぼ同時だ。1週間前に4人で旅行に行っている」
目が大きく飛び出し、まるで何かにおびえるような表情の若い患者が3人並んで人工呼吸器を装着して寝かされていた。
「症状からはサイトカインストームね。ウイルス感染症とすればこんなに眼球突出するようなウイルスは今までには報告されていないわ。確かに新種の病原体による感染症が疑われるわね。血液サンプルは?」
「もう準備してある。さっき採血したばかりだ。EDTA採血管と全血と培養ボトルに入れてある」
「それと尿と咽頭ぬぐい液もほしいわ」
「それも採取済みだ」
「さすがね・・」
美里はゴーグルの奥で微笑んだ。
「1週間前に旅行に行ったと言ってたけど旅行先はどこ?」
「A市の温泉旅館だ」
「旅行に行ったのは4人と言ったわね。もう一人は?」
「こちらには搬送されていない。だが名前はわかっている・・・これだ。佐々岡慎太郎。今、事務職員に探させている」
和馬はメモ書きを見ながら言った。
その時ガラス窓の向こうから看護師が和馬にマイクで呼びかけた。
<先生。佐々岡慎太郎さんがこちらに見えています>
「見つかったか! ナイスタイミング! よし、今そちらに行く」
「私も同席させてもらうわ」
二人はガウンとマスク、ゴーグルを脱いで感染病棟を後にした。
高梨美里は今年31歳になった国立感染症研究所勤務の医師である。
身長165cmと女性としてはやや長身であるが和馬と並んで歩くときは小柄に見える。そして実は美里もそのことを少々気に入っている。肩まである黒髪を後ろでまとめ、黒いバレッタで止めており、白衣の奥からそのスレンダーな体型が見え隠れしている。大きな愛くるしい瞳をしており、美しさの中にもどこか愛嬌のある顔立ちである。
「救急科の滝沢です」
「国立感染症研究所の高梨です」
カウンセリングルームで慎太郎の前に座った二人は手短に挨拶をした。
「さ・・・佐々岡・・慎太郎です」
慎太郎は座ったまま、恐縮して肩をすぼめて小さく頭を下げた。
和馬が慎太郎の顔色を観察しながら聞いた。
「佐々岡さん、身体の具合は何ともないですか?」
「はい・・・僕は何とも・・・」
「目の痛みや熱はないですか?」
「はい・・・」
「お友達のことはご存知ですね?」
「はい・・・。今朝入院したと・・聞きました」
「かなり重症だということも?」
「はい・・・あの・・・話はできますか?」
和馬はしばらく黙って、ゆっくり言葉をつないだ。
「今は・・・・無理です。意識は低下して人工呼吸器を装着しています」
「た・・助からないんでしょうか?」
「何とも言えませんが全力を尽くしています」
「そんな・・・2日前に会った時にはみんな元気だったのに・・・」
美里が静かに聞いた。
「ところで佐々岡さん、4人で旅行に行かれたと伺いましたが・・・何か変わったことはありませんでしたか?たとえば虫に刺されたとか、動物にかまれたとか、変わったものを食べたとか・・・」
「今回は最後の夏休みの記念にとA市の温泉旅館に4人で出かけました。ええ、僕たち4人は時々グループで行動しているんです。でも山に行ったわけじゃないし、海でクラゲに刺されたわけじゃないし、動物にもさわっていないし・・・」
「あなただけ何ともないということですけど、ほかの3人がしてあなただけしなかったことは何かないですか?」
「僕だけ・・・ですか?食べたものは同じだし・・・。行動したことも・・・同じことしかしていないです」
しばらくの沈黙の後、和馬が聞いた。
「何でもいいんです。佐々岡さんだけ別行動をしたことはないでしょうか?」
「僕だけ・・・あの・・・どんなことでもいいですか?」
「もちろん」
「実は・・・旅館で、たまたまそこに置いてあったDVDを見たんです」
「DVD?」
「はい・・・呪いの・・ビデオ・・・って書いてありました」
慎太郎は口ごもりながら続けた。
「男が出てきて、このビデオを見ると1週間後に死ぬって・・・。死なないためにはこのビデオをほかの誰かに見せて交わるしかないっていうんです」
「交わる?」
美里が聞いた。
「あ・・・あの・・・キスをしたり・・セックスしたりすることだと・・・」
下を向いて答える慎太郎を見ながら和馬が聞いた。
「それで、4人とも見たんですね?」
「はい。でもほかの三人は全然信じてなかったんですけど、僕は何となく気になって不安になってしまって・・・」
「ほかの誰かにビデオを見せて・・・」
「はい・・・僕の彼女に・・・・」
慎太郎の言葉を美里が制した。
「わかりました。佐々岡さん、そのお話は結構です。ほかに何か思い出したことがあれば私のところに連絡お願いします。それから申し訳ありませんが佐々岡さんの血液と尿を採取させてください」
美里は名刺を渡しながら言った。
「それから体調が悪かったらすぐにこの病院に連絡してください」
和馬も名刺を渡した。
慎太郎が出ていったあと、部屋には和馬と美里が残っていた。
「呪いのビデオか・・・とんでもないものがでてきたな」
和馬の言葉に美里がくぎを刺した。
「やめてよ。そんなオカルトみたいなことを議論している場合じゃないでしょ? 一刻も早く病因を特定しないと・・・。これが本当に感染症で全国に広まったら日本中パニックよ」
「そうだな。これが広がったら感染症病棟はあっという間に満員だ」
「じゃあ・・私は研究所に帰ってすぐに分析と調査に入るわ」
「頼むよ。わかったことがあったらすぐ教えてくれ。それから・・・今晩はどうする?」
「今日は遅くなるわ。もしかしたら研究所に泊まるかもしれないから、夜はひとりで食べてて」
「俺も今日は帰れないかもしれないからいいよ」
9月7日(金曜日)
【香里奈 発症】
「なに?慎太郎。休憩時間もう短いから手短にお願いね」
香里奈はスマホを耳に当てて周りを見回しながら小声で言った。
「え? 体調? なんでもないわよ。あんたまだそんなこと言ってんの? え? 桜子さんたちが・・・本当? 大丈夫なの? ・・・やばいって・・・そんなに悪いの?」
香里奈はスマホを持ち直して体を起こした。
「呪いのビデオって・・・まだそんなこと本気で信じてるの? あんたたち、なんか虫にでも刺されてない? 慎太郎だけ臆病で旅館で寝てたんじゃないの? 3人ともなんか伝染病にかかったんでしょ?」
その時、店長が向こうから香里奈に声をかけた。
「古沢君!そろそろいいかな?」
「はい! 今行きまーす! ごめんね、慎太郎。休憩時間終わったからもう切るね。バイバイ」
香里奈はバックにスマホをしまうと店のカウンターに出た。
「あれ?」
「どうしたの?古沢君」
「ちょっと・・・目がおかしくて・・・なんか青っぽくみえて・・・」
9月8日(土曜日)未明
【患者死亡】
<滝沢先生。西尾桜子さんの心拍数が落ちています>
感染症病棟の仮眠室で休んでいた滝沢和馬は看護師のコールで起こされた。
「わかった。今いく」
和馬はガウンとゴーグルをつけて集中治療室に入った。
「蘇生処置しますか?」
「いや、いい。無駄だ・・・」
和馬はつい2時間前に死亡宣告した俊樹と卓が寝ていたベッドを見ながら言った。
「心拍数20・・・・・10・・・・フラットです」
「9月8日朝5時32分死亡」
俊樹、卓、桜子の三人は一度も意識を回復することなく、入院して3日をまたずに息を引き取った。その形相は三人とも真っ赤に充血した眼球が突出し、まるで何かに恐れおののくような表情であった。そしてそれは呪いのDVDを見てからちょうど1週間後のことだったのである。
「何なんだ・・・」
医局に戻った和馬は両手で髪をかきむしった。
「色覚障害と眼球突出で発症。高熱とショック状態。多臓器不全で3日で死亡。新しいウイルスなのか?」
3人の遺体はその日のうちに病理解剖が行われた。
9月9日(日曜日)
【対策会議】
日曜日にもかかわらず、国立感染症研究所では緊急の対策会議が開かれていた。
所長の黒坂が美里たち数名の職員を前にしてプレゼンをしていた。
「今回の疾患の病名が決定された。劇症型全身性炎症症候群。Fulminant
Systemic Inflammatory Syndrome略してFSIS=エフシス。昨日3人とも死亡したとの報告があった。高梨先生、細菌感染の兆候は何か見つかったか?」
「いいえ。主病変である眼球を中心に全身の臓器の培養検査と塗抹標本検査を行いましたが細菌は検出されていません。いま今野先生が電顕の検索を行っています」
その時ドアが開いた。
「黒坂先生! 出ました! ウイルスエンベロープが・・・」
ドアから入ってきたのは今野巧だった。
「何? 見つかったか!」
「はい! いま画面にだします! これを・・・」
若い今野巧はUSBをあわててパソコンにセットした。
「眼球から検出されたものです・・・円形のエンベロープに包まれたウイルスと思われる病原体を検出しました。血液中にも同様のウイルスが多数検出されました」
「これでFSISがウイルス感染症だということがほぼ確定したわけだ。高梨先生、今までわかっていることをまとめてくれないか」
黒坂の言葉に従って美里は前に出てホワイトボードに記載していった。
初発症状:色覚異常(周囲が青っぽい灰色に見える)
その後視力障害が出現し結膜充血、眼球突出
1日後に発熱、全身の倦怠感
速やかに多臓器不全となり血圧低下
その1-2日後に死亡
剖検では全身の炎症細胞浸潤、特に網膜周囲に強い炎症
細菌は検出されず、血中に新種のウイルスが検出された
「人類が今までに経験したどのウイルスの感染症状とも合わない。まず君の意見を聞こうか。高梨先生」
「はい。血中に新種のウイルスが検出された以上、FSIS(エフシス)は新しいウイルス感染症と考えられます。3人が同時に発症していることから、同時にウイルスに暴露されていることになります」
「二次感染がほとんどないということが不思議だ」
「人から人への感染力はそれほど強くないのだと思います。多分HIVやC型肝炎ウイルスと同様に血液や粘液を介した感染をするのではないでしょうか?」
「血液感染するウイルスがどうして3人同時に発生するのかね?」
「それは・・・蚊などの昆虫を媒介とした感染も考えられるかと・・・」
「それに初発の症状も我々が経験したことがないものだ。色覚障害から結膜炎、眼球突出へと進行しているが・・・」
「都立聖礼病院の眼科医もこのような症例は今まで経験したことがないと言っています」
「よし、高梨先生は主に疫学方面から疾患の感染形態を解明してくれたまえ。今野先生はウイルスの遺伝子解析を行いウイルスの正体を突き止めてくれ。私は行政の対応とそれを通じてワクチン精製に取り掛かる」
「黒坂先生。このウイルスは今までも自然界に存在していたのでしょうか?」
「もしそうだとしたら人類がこれほどの強毒性ウイルスの存在を今まで知らなかったということはありえないだろう」
「では・・・生物兵器を使ったテロの可能性も・・・」
「政府ではすでに極秘にその方向の捜査が始まっている」
「もしこのウイルスがテロの目的で人間により作られたとしたら・・・FSIS患者は再び出現します。このウイルスをコントロールするすべを持たずに使用してしまったとしたら・・・人類は滅亡します」
「そうかもしれない。ウイルス兵器の開発はあらゆる国で行われている。このウイルスが人間の手によって作られたものならば人類はついに開けてはならないパンドラの箱を開けてしまったのかもしれない」
「パンドラの箱・・・」
「しかしパンドラの箱の中には『希望』が残っていたという。我々はどんな状況になっても希望を失わずにこのウイルスの正体を解明し、人類を危機から脱出させなくてはならない。このウイルスは『パンドラウイルス』と命名することにしよう。私は今から政府の対策委員会に出席する。本日中に全国民に向かって何らかの広報をしなくてはならない。国民に不安を与えないようにFSISはすでに終息していると発表する予定だ。次の患者が現れる前に何としても病態を解明し、対策を立てておくんだ」
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