小説タイトル

最近のトラックバック

« 「ゼウスの火」第2章(3/3) | トップページ | オウム返しの術 »

2013年11月 3日 (日)

「ゼウスの火」第3章、エピローグ

3章 終焉

 

927日(木曜日)

 

【最初でそして最後の攻撃】

 

 美里は再び帝都微生物研究所を訪れていた。

「今日で・・・すべてが終わる」

 美里は大きく深呼吸をして久留間神児を待った。

「これはこれは高梨美里先生。またお会いできましたね。ついに降参ですか?」

 久留間神児は応接室に入ってくるなり見下した態度で美里を見つめると、ゆっくりと美里の前に座った。

「あー・・降参じゃなくて・・・ちょっと違うんですけど。戦いの続きです。今日は私のほうからの攻撃です」

「ほう・・攻撃! これはこれは・・・呪いの謎が解けたとでも?」

「はい」

「伺いましょう・・・美里ちゃんの謎解きを・・・」

 久留間神児は余裕を持った顔で微笑みながら足を組んでソファにどっかりと腰を落とした。

「このDVDを調べたら、ところどころに波長600nmの赤い光がごく短時間の周期で複数回挿入されていました。これが呪いの正体です。この光が人間の網膜に吸収されるとその刺激は細胞内の核に伝わります。でも色覚異常がある人にはこの波長の光は吸収されないので呪いを受けないのです」

「DVDを細かく調べたわけですね。それはお見事。ただそれはイージスの盾の謎の解明にすぎません。パンドラウイルス感染の仕組みを説明したことにはならない。パンドラウイルスがどこから来たのか解明できたのですか?」

「はい、もちろん。パンドラウイルスに感染していない人の遺伝子を調べたところ第6番染色体の短腕にパンドラウイルスRNAと同じシークエンスのDNAが53リピート検出されました」

 久留間神児はぴくっと眉を動かし、そしてまた何事もなかったかのように美里の話を聞いていた。

「パンドラウイルスは外から感染したのではありません。もともと我々人類の体の中に潜んでいるのです。600nmの光を特殊な周期で網膜細胞に吸収させることにより網膜細胞の核の中で眠っていたパンドラウイルスのDNAが活性化されるのです。

その活性化したDNAから遺伝子情報が読み込まれるとパンドラウイルスRNAが大量に作成され、そのRNAからさらにウイルスを包むエンベロープ蛋白が合成され、完成されたウイルスとなって血液中に放出されます。

網膜細胞で起こった炎症により色覚異常が発生し、さらに眼球の充血と突出が起こります。

血液中に放出されたウイルスは全身の細胞や白血球に感染し、数日後に組織を破壊して多臓器不全を併発するのです」

「なるほどね・・・」

「これがFSISの正体です。私の推論は間違えていないはずですが・・・」

 美里は久留間神児をにらんで自信を持って言った。

「お見事。高梨先生」

 久留間神児は両手をたたいてゆっくりと拍手した。

「しかしまだ呪いがとかれる謎が解明されていないようですが・・・」

 美里はゆっくりと話を続けた。

「パンドラウイルスが血液中に放出されると白血球や全身の組織の細胞に感染します。

普通、ウイルスが白血球などの人体の細胞に感染すると、その細胞表面のHLAが変化し、Tリンパ球はその感染した細胞を異物として認識します。それにより免疫システムのスイッチが入り、抗体が産生され、ナチュラルキラー細胞が活性化されてウイルスは排除されます。

しかしパンドラウイルスは感染した細胞の表面にあるHLAを、Tリンパ球が異物として認識できない程度にしか変化させないのです。宿主のHLAを模倣する巧妙な仕組みです。その結果免疫システムが働かず、パンドラウイルスは排除されずに全身の細胞の中で徐々に増殖します」

「・・・・」

「私がパンドラウイルスに感染したとします。他の人に呪いのビデオのDVDを見せるとその人もパンドラウイルスに感染します。正確には感染ではなく、もともと持っていたパンドラウイルスのDNA遺伝子が発現して網膜細胞内でウイルスが増殖するのですが・・・。ビデオを見せられた人の体内で作られたパンドラウイルスは、感染した細胞表面にその人のHLAを模倣したHLA、すなわち私のHLAとは違うタイプのHLAを作ります。そして私のTリンパ球はそのウイルス感染細胞を異物として認識することができるのです。

その人と交わることにより口腔内や生殖器から微量のパンドラウイルスが私の身体に侵入し、私の細胞に感染します。私のTリンパ球はその感染細胞のHLAを異物と認識し、初めて私のパンドラウイルスに対する免疫システムが一気に活性化され、抗体やナチュラルキラー細胞が爆発的に増加し、パンドラウイルスを排除します」

無言で目をつむったままの久留間神児の顔をちらっと見て美里は続けた。

「ビデオの刺激を受けた網膜細胞内で増殖し、血液中に放出されたパンドラウイルスはあっという間に全身の細胞に侵入し、血液中からは24時間で消失してしまいます。その数日後にFSISが発症するまでは血液中にはウイルスは存在しないのです。ですからあとから呪いのビデオを見た人には前の人の体内からはウイルスは移行せず、免疫システムは活性化されません。ビデオを見て24時間以内の人と交わらなければ呪いはとけないのです。そしてHLAタイプの近い近親者からのウイルスではTリンパ球は感染細胞を認識できない可能性がある。これが近親相姦では呪いを解くことができない理由です。

 

これが私の仮説ですが・・・間違っていますか?」

 久留間神児は大きく深呼吸し、ソファから立ち上がった。

「あなたの仮説は科学的に証明されましたか?」

「パンドラウイルスに感染した私の友人に他人の血液から精製したパンドラウイルスをごく少量投与しました。翌日彼には抗体ができました。彼はFSISの発症を免れるはずです」

「・・・・・驚きましたね・・・」

「え?」

「完璧です。あなたのようなお嬢さんが・・・私が何年もかけて作り上げたトリックを簡単に見破ってしまうとは・・・」

「私一人の力ではありません。多くの人の力があって初めて解明できたのです」

「あなたのお友達は、あなたがきっと呪いの謎を解明してくれると信じて呪いを受け入れた。いい友人をお持ちだ。私の周りにはそのような友人は一人もいなかった」

 久留間神児はゆっくりと窓に向かい、外の景色をじっと見つめていた。

「ごらんなさい。ここから見下ろすと人間はなんと小さな存在でしょう? まるで大きな地球に寄生しているウイルスのようだと思いませんか?」

「あなたはどうやって人間のDNAの中からパンドラウイルスを見つけたのですか?」

「私がパンドラウイルスの存在に気が付いたのは5年前のこと。偶然人間の6番染色体に奇妙なDNAシークエンスのリピートを見つけました。そのDNAはメチル化されて情報が発現しないように不活性化されていました。

同じようなシークエンスはラットやマウスにはなく、サルには見つかりました。実験を繰り返すうちに私はそれが強力な殺人ウイルスであることに気が付きました。私は神の力を授かったのですよ」

「そんなのは神の力でもなんでもないわ」

「大昔、何百万年も前、パンドラウイルスは我々の祖先に感染し、爆発的に流行したはずです。感染予防の知識などない我々の祖先は、同朋の死体の血液から次々と感染し、絶滅の危機を迎えました。

しかし彼らの中にパンドラウイルスに対する強力な免疫システムを持つ個体が現れたのです。パンドラウイルスに耐性を持った我々の祖先はウイルスを駆逐し、種を反映させてきました。そして今度はパンドラウイルスが絶滅の危機に陥ったのです。彼らの子孫である我々は、もともとパンドラウイルスに対する強力な免疫システムを備えているのですよ」

「それでわかりました・・・免疫のスイッチが入った途端、あっという間にパンドラウイルスが除去されてしまうわけが・・・。パンドラウイルスに対する免疫システムを1から作り始めるのではなく、もともと備わっていたのなら一気に抗体が産生されるはず」

「いったん免疫システムが作動すると我々の体内ではパンドラウイルスに対する抗体やナチュラルキラー細胞が分単位で指数関数的に増加する。さすがのパンドラウイルスも細胞内に潜んでいることはできず、完全に駆除されてしまいます。しかし大昔のパンドラウイルスは非常に頭のいいウイルスだったのでしょう。何とか生存するために宿主の遺伝子の中に隠れることに成功したのです。

遺伝子の中に隠れるだけなら高梨先生もご存じのように、レトロウイルスと呼ばれるエイズウイルスなどと同じです。レトロウイルスはパンドラウイルスと同じように自己のRNAを逆転写して作成したDNAを宿主のDNAの中にもぐりこませ、引き続き増殖を続けます。

しかしパンドラウイルスの賢いところはDNAをメチル化して自らの活動性を停止させ、宿主に影響を及ぼさずに宿主の遺伝子の中にもぐりこんだところなのです。

そして我々の遺伝子の中で何百万年もの年月をかけて、感染した宿主のHLAを模倣して宿主の免疫の網から逃れるシステムを作るまでに進化していたのです。これを神のウイルスと呼ばずに何と呼びましょう?」

「私たちはそれを悪魔のウイルスと呼ぶわ。あなたは悪魔を眠りから覚ました悪魔使いよ」

「呼び方は人それぞれで結構。しかしあなたが現れなければ世界は私の手の中にあったはず。誰も謎を解くことができないパンドラウイルスを使って私は神になれたのです。あなたがパンドラの箱に唯一残った人類の希望だったというわけですか・・・」

「人間が作ったトリックは必ず人間が解くことができる。人間は神になどなれないのよ。これであなたの作ったDVDが殺人兵器であることが科学的に立証されたわ。あなたは殺人犯よ」

「そういうことになりますか・・・となると早々にここから立ち去らなくてはなりませんね」

「そうはさせないわ!」

 美里がドア走りよって一気にドアを開けたとたん2人の男たちが入ってきた。

「W署の神永です。署まで同行願えますか? 久留間神児さん」

 神永と名乗った男は警察手帳を久留間神児に見せた。

 久留間神児は一瞬顔をこわばらせたがすぐに不敵な笑みを浮かべた。

「クックックック・・・」

「何がおかしいの?」

「これはまた手回しのいい・・・さすがは美里ちゃん。抜かりがない」

「ここは6階よ。あなたはもう逃げられないわ!」

「それがですね・・・・・あなたたちには私を捕まえることはできないのですよ」

「なんですって?」

「なぜなら・・・私は神だから・・・そう、私は本当に神なのです。人間が神を捕まえることなんてできるわけないでしょ? 永遠にね・・・」

 そう言った直後、久留間神児は一気に窓を開け、大きく手を広げて窓の外に飛んだ。

 

【健人の夢】

 

 

 

 久留間神児の死は事故として扱われ、呪いのビデオに関しても報道されることはなかった。それは今後起こりうるテロなどを防ぐためであり、FSISの病態に関しては関係者のみが知る極秘事項とされた。

 

 

 その日の夜、健人は国立感染症研究所に血液検査を受けに来ていた。

「お待たせ、健人君。結果が出たわ。ちゃんとパンドラウイルスの抗体ができていたわよ」 

 美里は嬉しそうに健人に言った。 

「それって・・・呪いがとけたってこと?」 

「そう。あなたは助かったのよ」 

「本当っすか! やった!」 

 健人は立ち上がって両手を上げて喜んだ。

 「これでまた茜さんを守れるわね」 

「はい・・・それはそうなんですけど・・・」 

 健人は力なくうなだれて椅子に座った。 

「どうしたの?」 

「それが・・・今日の茜さん、なんかよそよそしいんですよ。顔を合わせてもすぐに目をそらしちゃうし、話をしようとしても都合悪そうにしてあっち行っちゃうし・・・・。嫌われちゃったのかな?」 

 健人は下を向いてさみしそうに言った。 

「その反対よ、健人君」 

 美里は笑顔で言った。 

「反対?」

「そう。健人君はね、茜さんの中で特別な存在になったのよ。茜さんもどう対応していいかわからなくて戸惑っているんだわ」 

「特別な存在って・・・」 

「茜さんはね、健人君のことが好きになっちゃったのよ」 

「な・・・な・・・なにを・・・」 

 健人はびっくりして大きな目を見開いて聞き返した。 

「茜さんは健人君に惚れちゃったんだなー」 

 ズデーン! 

 健人は思わず丸椅子から転げ落ちてしまった。 

「せ・・・先生! 何言ってんの? そんなことあるわけないじゃん!」 

「あら? どうして?」 

「だって茜さんはうちの工場だけじゃなくってあの辺の若い男みんなのアイドルっすよ!」 

「へーえ・・茜さんってそんなにもてるの?」 

「あたりまえじゃないっすか!」 

 健人は体を起こして丸椅子に座りなおした。 

「あれだけきれいでスタイルも抜群で、仕事もできるし、なんにでも一生懸命で、後輩の面倒見もいいし、誰にでもエコヒイキしないし、親孝行だし、料理もうまいし、バイクの運転も抜群だし、歌もスゲーうまいし、もう完璧なんっすから!」 

 健人は興奮して一気にまくしたてた。 

「ふーん・・健人君って本当に茜さんのことが好きなんだー・・・」

―この子すごい。茜さんのいいところをこんなにすらすらと続けて言えるなんて・・全然頭悪くないじゃないの。 

 美里は感心しながら笑顔でうなずいて言った。 

「あたりまえっしょ? 茜さんに言い寄ってくる男なんて掃いて捨てるほどいるんですから。俺なんかよりずっとかっこよくて仕事もできる男が言い寄ってきても相手にしないんですから、俺なんかのことを好きになるはずないじゃないですか!」 

「ふーん・・でも、健人君も結構かわいいわよ。私が10歳若かったら手を出しちゃいたいくらい」 

 美里はいたずらっぽい目で健人に微笑みかけた。 

「かっ・・かっ・・かっ・・・・かわいい? 先生! ふざけないでくださいよ」  

 健人は顔を赤くして憤慨して言った。 

「俺なんかのことを好きになるはずないか・・・・でもね、そうじゃないんだなーこれが・・・。健人君、茜さんを助けたいと思ってビデオ見たでしょ?」 

「はい」 

「しかも自分が死んでもいいから茜さんを助けたいって」 

「そのとおりっす!」 

 健人は胸を張って答えた。 

「女の子はね、いつだって自分のことを本気で守ってくれる人と一緒にいたいって思うものなのよ」 

「・・・・」 

「しかもあなた、茜さん以外の女の人は抱きたくないって言ったでしょ?」 

「あー・・・そんなこと・・・言ったような・・・。俺、茜さん抱いた後、すっごく幸せな気分で、もうこのまま世界が終わってもいいって思いました。そんな時に他の女抱いて来いって言われても・・・そのまま消えてなくなったほうがましっす」 

「茜さんも健人君のそんなところにまいっちゃったんだなー」 

「そ・・そんなところって・・・」 

 健人は下を向いてもじもじして言葉をすぼませた。 

「茜さんはね、どうやって健人君に自分の気持ちを伝えようか迷っているのよ。だからそんなつれない態度になってしまうのよ」 

「ま・・まじっすか?」 

 美里は笑顔でうなずきそして続けた。 

「でも健人君」 

「はい?」 

「あなた、一生茜さんを守っていきたいと思っているわね?」 

「もちろんです!」 

「でも女の子をずっと守るためにはね、命をかけるだけじゃだめなのよ」 

「命をかけるだけじゃダメ?」 

「そう。これから先も生きている限り、茜さんはいろいろな苦難にぶつかるわ。工場がうまく経営できなくなるかもしれない、お父さんが病気で倒れるかもしれない、茜さんだって病気やけがをするかもしれない、そんな時にあなたが茜さんを守るためにはあなたに力が必要なの」 

「力?」 

「力と言っても腕力や喧嘩の力じゃないわ。あなたの男として、人間としての力よ。工場の機械が壊れれば直さないといけない。そのためには機械の説明書やマニュアルを理解する能力が必要ね。お得先とうまくやっていくためには会話や営業の能力が必要だわ。銀行と交渉するためには経済や経営の能力も必要。あなたが茜さんを守っていくためにはあなたがそんな能力を身に着けて茜さんを守れる力を持った男になる必要があるのよ」 

「・・・」 

「そのためにはあなたはこれから嫌いな勉強や嫌な人との付き合いやいろいろな努力をしなくてはいけない。それが茜さんを守るってことなの。あなたにはその覚悟があるかしら?」 

 健人は美里の言葉を、下を向いて黙って聞いていた。 

 そしておもむろに顔を上げて美里の目をまっすぐ見つめて言った。 

「俺、やります! これからもずっと茜さんを守るためにいろいろな勉強をして、ちゃんとした男になります」 

―この子は勉強が嫌いなわけじゃないわ。今まで勉強する意味を教えられてこられなかっただけ。真面目で、意志が強く、誠実でそして思いやりのある優しい子なのね。この子ならきっと茜さんを守っていける。 

「そう・・。あなたにその気持ちがあれば茜さんは必ずあなたについてきてくれるわ」 

「茜さんが・・俺に・・・。本当に? どうしよう・・・そんなことになったら・・・俺・・・」 

 健人は急にそわそわしだした。 

「今晩帰ったらまず茜さんにあなたの気持ちを素直に伝えなさい。飾る言葉なんていらないわ。あなたの茜さんに対する気持ちをそのまま伝えればいいだけ」 

「俺の気持ちを・・・。なんか勇気が出てきました。俺、やります!」 

「私も応援しているわ」 

 美里は右手を差しだし、健人は両手でその手を握った。

 

 

 

【茜と健人】

 

 

 茜は自宅の横の路地で健人を待っていた。 

「茜さん!こんなとこで待っててくれたんっすか!」 

 茜を見つけた健人が走り寄ってきた。 

「健人! どうだった? 呪いとけたのか?」 

 茜は心配そうに健人に聞いた。 

「ばっちりです! 抗体とか言うのができて呪いはとけたって先生言ってました」 

「本当か! 健人、本当に呪いとけたのか!」 

「はい」 

「よかった! よかったなー健人!」 

 茜は健人の両肩をつかんで涙を流した。 

「茜さんのおかげです」 

「いいんだよ、そんなこと」 

 茜は涙を拭きながら答えた。 

「茜さん」 

「なんだ?」 

「俺、茜さんに大事な話が・・・」 

「大事な話? なんだ?」 

 健人は襟を正して直立した。 

「茜さん! 俺、これからも一生茜さんのことを守ります!」 

「な・・・なんだ、いきなり・・・照れるじゃねーか」 

 茜は困惑して健人から顔をそらした。 

「俺、今は何もできない情けない男ですけど、これからいろんな勉強して、いろんなこと覚えて、いろんな人と会って茜さんのことを守れる男になります」 

「勉強って・・・お前、勉強嫌いだから高校中退して働き始めたんじゃなかったのか?」 

「茜さんを守るためならどんなことだって我慢できます。工場の機械のこととか、世の中の仕組みとか、お金のこととか、俺、最初から全部勉強し直して茜さんの役に立てるような立派な男になって見せます。だから・・・茜さん・・・俺に・・・俺についてきてください!」 

 健人は茜の目をまっすぐ見つめて言った。 

 茜は今までとは違う健人の態度にびっくりして、そしてほんの少しドキドキしながら言った。 

「健人・・・お前・・・本気か? 本気であたしのこと、一生守ってくれるのか?」 

「はい!」 

「けんと・・・」 

 茜は目を潤ませて健人の胸に飛び込んで抱きついた。 

「茜さん・・・」 

 健人は茜の背中に手を回して茜を抱き寄せた。 

 健人の胸に茜のぬくもりが伝わった。 

「俺、今からうんと頑張って10年後に茜さんにふさわしい男になります。そしてその時、茜さんにプロポーズさせてください」 

10年かー・・・なげーなー。あたし36だよ」 

 茜は健人の胸の中でつぶやいた。 

「茜さんは30になろうが40になろうが今と同じくらいきれいっす! でも・・・ちょっと長いかな? じゃあ・・・8年くらいで・・・」 

「馬鹿! 10年くらい待ってやるよ! でも10年後も頼りなかったらプロポーズしてもOKしないからな!」 

 茜は抱きついたまま顔を上げて健人をにらんで言った。 

「お・・・おっす・・・・」 

 そして茜はもう一度健人の胸に顔をうずめた。

 

 

エピローグ

 

928日(金曜日)

 

【新しい絆】

 

 夜8時過ぎ、美里は若菜の待つアパートに帰った。

「ただいま。若菜」

「あ、お帰り!お姉ちゃん」

 若菜が台所から顔を出した。

「お姉さんお帰りなさい!」

 その後ろから宇都宮誠が顔を出した。

「誠君? なんでまたここに・・・」

「お姉ちゃん! 今日は私たち二人でごちそう作るからそこに座ってて!」

 若菜は美里の肩を押してテーブルに座らせた。

 そしてまた台所に戻り、誠と二人で楽しそうに料理を作っていた。

「へーえ・・そうなんだ・・・・」

 美里は笑みを浮かべてうなずきながら二人の様子を見ていた。

「なるほど・・・そういうことか・・・」

 美里は誠からのメールの内容を思い出してもう一度うなずいた。

 

 15分後、テーブルに皿が並べられた。

「なんだ。ごちそうってクリームシチューなの?」

「ごめんねー。たいしたものできなくって。あ、誠、サラダ持ってきて、冷蔵庫に入れてあるやつ」

「ほい」

「あんた相変わらず誠君使ってるのね」

 若菜はペロッと舌を出した。

「いいんですよ。お姉さん」

 誠はサラダの大皿を真ん中に置いた。

「じゃあいただきまーす!」

 3人は一斉に声を上げてシチューを食べ始めた。

「あ・・ところでお姉ちゃん。明日の土曜日はお兄ちゃんのところに泊まってくるでしょ?」

「え? 多分・・そうなると思うけど・・」

「そう!」

 若菜が嬉しそうに微笑んだ。

「なによ若菜」

「なんでもないよー。でも・・・なんかいいことあるかもよ。ねー誠!」

「そうそう」

「何よ、いいことって・・・」

 美里は不満そうに聞いた。

「さあ? なんでしょう?」

「変なの」

 

【もう一つの絆】

 

 茜の部屋では茜と健人がひそひそと話をしていた。

「あたしはこそこそするのは嫌だから。明日社長に話すよ」

「えー! 勘弁してくださいよ茜さん。俺と茜さんが付き合ってるなんて社長が知ったら俺、社長にどんだけどつかれるか」

「おまえ、1回死んだんだろ? だったらどつかれるくらいがまんしろ」

「だって・・・社長のびんたより呪いのほうが、なんぼかましっすよ」

「情けない奴だなー。一生あたしを守るんじゃなかったのか? 昨日の勢いはどこ行ったんだよ」

「そりゃあ・・・そうですけど・・・。わかりましたよ・・・あーどうしよ。でも社長許してくれますかね?」

「さあな」

「そうだ、俺、社長が許してくれるまで毎日玄関で正座してますよ」

「馬鹿。仕事どうすんだよ」

「あ・・そうか」

「お前・・・やっぱり頭悪いのかもしれないな。こんなんであたしを守れるのか?」

 

9月29日(土曜日)

 

【そしてもう一つの絆】

 

 美里は和馬の帰りを待っていた。

 9時を回ったころドアが開いた。

「お帰り和馬」

「ああ、ただいま」

「食事食べてきたんでしょ?」

「6時ころ病院で軽く済ましてきた」

「じゃあ、ワインでも開けようか。事件が一段落したお祝いにね。ちょっとしたものならすぐ作れるから」

「そうだな」

 和馬は笑顔で答えた。

 

「かんぱーい!」

 二人がワイングラスを合わせると、透き通ったグラスの音色が部屋に響き渡った。

「お疲れでござった、美里姫。呪いのビデオの謎解き、お見事であった」

「なになに、あれしきのこと。たいしたことではござらぬ・・・。そんなことより和馬、本当にありがとうね」

「なんだ?」

「呪いのビデオを見てくれたこと。私、あの時もう時間がないと思っていたから本当に助かったし、そして本当にうれしかったの。私が今こうしていられるのも和馬のおかげよ」

「そうか・・・。でも実は俺、一度だけ美里を裏切ったよ」

「え?」

「パンドラウイルスを注射した時、もしこれが効かなかったらってことを考えたんだ。そうしたら、親のこととか仕事のこととか一気に浮かんできて死ぬのがとても怖くなった。誰かにビデオを見せようかって、本気で考えてしまった」

「それが普通よ。人はみんな自分だけじゃなくて家族や友人や社会的責任の中で生きているわ。自分の命は自分だけのものじゃない。それがわかっているから大人なのよ。自分の理想に命をかけられるのは若者だけの特権だわ。そんな時代が懐かしい」

 美里は誠や健人に思いをはせた。

「そうかもしれないな。あ・・・そうだ・・・・美里に渡すものが・・・」

 和馬がポケットから小さな箱を取り出した。

「これを・・・」

「和馬・・・これって・・・」

 美里は箱を手に取ってゆっくり開いた。

「和馬・・・本気?」

 美里は和馬の顔を真剣なまなざしで見つめた。

「今度のことで改めて自分の気持ちがわかったよ。美里がいなくなると思ったら、いてもたってもいられなくなった。気が付いたら呪いのビデオを見ていたんだ。その時はっきりわかった。俺には美里がどうしても必要なんだ。これからもずっとそばにいてほしい」

「かずまー・・・」

 美里は瞳を潤ませて和馬の顔を見つめた。

「ずっと一緒にいてくれるな?」

 その言葉に美里は小さく2回うなずいた。

「本当はな、この前、若菜ちゃんに怒られたんだ」

「若菜に?」

「いつまでお姉ちゃんを一人にしておくのよって」

「若菜がそんなことを・・・・・・・ああ・・なるほど・・・・いいことって・・・これか」

 美里は笑顔でゆっくりとうなずいた。

「ずいぶん美里のこと、心配していたぞ」

「あの子はね、私が和馬と一緒にいれば自分は一人になれるのよ。だから一刻も早く私を嫁がせたいの」

「なるほど・・・・・そういうことだったのか。でも、そうなると若菜ちゃんをもうしばらく一人にしないほうがいいかな? またいろいろ心配事が増えそうだし・・・」

「ううん、もういいの。私の代わりに若菜を本気で守ってくれる人が現れたから」

「本当か!」

「うん。あの子なら命に代えても若菜を守ってくれるわ」

「そうか・・・若菜ちゃんいい人見つけたんだな」

「わたしもよ」

 美里は笑顔でワイングラスを持ってもう一度和馬と乾杯した。

「でも和馬ー」

「え?」

「死にたくないと思った時、あのビデオを誰に見せるつもりだったの? 看護婦さんかなー? きれいな人いっぱいいるし・・・」

 美里はほおづえをつきながら首をかしげて和馬の目を見つめ、皮肉な笑みを浮かべて聞いた。

「ば・・・馬鹿言うな! 具体的な相手なんて考えてるわけないだろ!」

 和馬は気まずそうに美里から目をそらした。

 

 

 この1か月間で多くの絆が壊れ、多くの新しい絆が生まれた。そしていくつかの絆はより強く深いものになった。

 強くなった新しい絆はこれからもきっと強い愛をはぐくんでいくことだろう。

 

 「ゼウスの火」 終わり

この作品はフィクションです。登場する人物や団体や疾患は架空のものです。

 

解説

 

 

 ブログにアップした後も修正に修正を重ね、ようやく「ゼウスの火」が完成しました。

 

 終盤の茜と健人のストーリーは最後に追加したものです。村木修一郎という接着剤で美里と茜をくっつけたということになりますが、この一連のストーリーがなくても物語としては完成しています。

 ただ、茜と健人を登場させることで作品に彩りができ、全体のテーマも分かりやすくなったように思います。

 「他人に呪いのビデオを見せて交わることにより呪いがとける」という設定にしたことにより必然的に「男女の絆」がこの物語のテーマになりました。

 物語の中ではパンドラウイルスの感染に伴って3組の男女の絆が深まっていく様子を描きました。

 私は女性の気持ちはよくわかりませんが、女性は「命を投げ出してでも自分のことを守ってくれる人」と一緒にいたいと思うものではないでしょうか? そしてその覚悟を男性の中に見たときに「この人について行こう」と決心するのでしょう。

「僕が全力でお守りしますから・・・」

 皇太子殿下が雅子妃にプロポーズしたときの言葉です。

 皇室に入ることを躊躇していた雅子妃もこの言葉を聞いて決心されたのではないでしょうか?

 周囲からどんなに避難されても、時には親族からの非難を受けても、かたくなに雅子妃をずっとかばい続ける皇太子殿下は男性の鏡だと思っています。

 私の娘たちもそんな男性を見つけてくるでしょうか?

 

 さて、今回の作品は「呪いのビデオに科学的なこじつけをする」というところから出発しているのでどうしても表現が難解になってしまいました。なるべく読者の皆さんにわかりやすくという点を心がけましたが、科学論文などを書いてきた性でしょうか?「正確に記載する」という癖が残ってしまい、わかりにくい文章になってしまったことをお詫びいたします。

 それでもこの「ゼウスの火」では読者の方にできるだけわかりやすくするために「呪いの謎」をかなり簡略化して記載しました(それでもかなり難解になってしまいましたが)。本来の私が設定した「呪いの謎」をもう少し詳しく記載しますと以下のようになります。興味のある方だけどうぞ。 

 

 RNAウイルスであるパンドラウイルスは白血球など人間の細胞に感染すると細胞内の核酸やアミノ酸やリボゾームなどを利用し、自己のRNAを設計図として(メッセンジャーRNAとして)、ウイルスを構成するエンベロープやカプシドなどの蛋白質を合成して、さらに自己のRNA複製を作成します。これにより大量のパンドラウイルスが作成されます。

 

増殖したパンドラウイルスは次々と白血球や全身の細胞に感染し、増殖を繰り返します。感染した白血球から放出された大量のサイトカインは全身により強い炎症を引き起こし、高熱、血球貪食による汎血球減少(赤血球、白血球、血小板が減ること)、多臓器不全を引き起こして宿主を死に至らしめます。何百万年前の我々の祖先、まだサルと分化していなかった時代ですが・・・彼らはパンドラウイルスにより絶滅の危機に瀕しました。

 

 ところが我々の祖先の中にパンドラウイルスの抗体を持つものが突如出現し、感染したパンドラウイルスは次々と駆逐されていきました。そして抗体を持つ宿主のみが種を維持するようになると今度はパンドラウイルスが絶滅の危機に瀕しました。しかしRNAウイルスはDNAウイルスに比べて不安定で変異しやすいのが特徴です。抗体を持った宿主に対抗するためパンドラウイルスの中にも自己のRNAから相補的DNAを複製する「逆転写酵素」のゲノムを獲得するものが現れました(レトロウイルス機能の獲得)。

 

 逆転写酵素を持った新しいパンドラウイルスは自己のRNADNAに複製し二本鎖として、宿主である我々の祖先のDNA遺伝子の中に自己の遺伝子を組み込みました。もちろんHIVウイルスのように宿主のゲノムの中で機能を発現して自己のRNAやウイルス蛋白を作成することも可能なのですが、それらはパンドラウイルスの抗体を持った宿主の中では駆逐されてしまい、最終的にはやっとのことで組み込んだパンドラウイルスのDNAゲノムまでも駆逐されてしまう可能性がありました。

 

 そこでパンドラウイルスは自己の遺伝子の発現をストップさせ、宿主に自分を攻撃させないような仕組みを作ったのです。それがDNAのメチル化です。DNAにメチル基を組み込むとRNAポリメラーゼはその部分の遺伝子情報を読み込むことができません。パンドラウイルスはDNAをメチル化する「DNAメチラーゼ」の遺伝子情報も獲得し、あえて自分のDNA遺伝子を宿主の中で発現させないように仕組みました。

 

 パンドラウイルスは人間の性染色体にも感染し、白血球と同様に染色体の中に自分のDNAを忍び込ませました。こうしてパンドラウイルスのDNAゲノムは何百万年もの間、人間に知られることなく、我々の遺伝子の中で眠り続けたのです。

 

 偶然人間とサルの遺伝子の中に奇妙なDNAシークエンスのリピートを見つけた久留間神児は、それを発現させることにより宿主が数日で死に至るような強毒性の新種のウイルスであることを知ります。神児は、やがてパンドラウイルスと命名されるRNAウイルスを人間の生体内で発現させる方法の研究に打ち込みます。そしてついに600nmの光を網膜の赤を感知する錐体細胞(色を感知する細胞:赤、緑、青の3種類がある)に特殊な周期で照射することにより、錐体細胞内のホスホ・ジ・エステラーゼが活性化され、サイクリックGMP濃度が低下し、細胞膜チャネルの変化により、細胞内電解質濃度が変化し、特殊なDNAデメチラーゼ(パンドラウイルスDNAゲノムに結合したメチル基を脱メチル化して遺伝子情報を発現させる)の活性を亢進させることを発見したというわけです。

 

 さて、網膜の錐体細胞内でメチル基が外れて活性化したパンドラウイルスDNAからRNAポリメラーゼの働きによりパンドラウイルスRNAが作られます。そのRNAをメッセンジャーRNAとして錐体細胞内でエンベロープやカプシドなどが合成され、完成されたパンドラウイルスは血液中に放出されます。

 

 放出されたパンドラウイルスは白血球や全身の細胞に次々と感染します。24時間が経過し、錐体細胞で作られたすべてのパンドラウイルスが全身の細胞に感染してしまうと血液中からはウイルスは検出されなくなります。しかし、ウイルスは全身の組織の中でゆっくりと増殖を繰り返し、数日後に一気に組織を破壊して白血球からはサイトカインが大量に放出され、宿主はFSISを発症して多臓器不全により死亡します。

 

 通常のウイルスが細胞に感染すると、ウイルス由来の蛋白が感染した細胞の表面に運搬され、その細胞の表面マーカーであるHLAを変化させます。それによって宿主のTリンパ球は感染細胞を非自己すなわち「異物」と認識して免疫システムのスイッチが入り、Bリンパ球から抗体が産生され、ナチュラルキラー細胞などが活動をはじめ、感染細胞やウイルスを排除します。パンドラウイルスに対しても我々はこの免疫システムを太古の祖先から受け継いでいました。

 

 しかし人間の遺伝子の中に潜んでいたパンドラウイルスDNAは、何百万年もの歳月をかけて、宿主のHLA遺伝子の一部を自分の遺伝子の中に取り込むことに成功しました(HLA遺伝子は人の6番染色体の短腕にあり、パンドラウイルスDNAの感染部位と同じです)。すなわち網膜の錐体細胞から放出されたパンドラウイルスは自分の細胞に感染してもそのHLAをほとんど変化させず、Tリンパ球の監視から逃れるシステムを作り出していたのです。すなわち免疫寛容となり、宿主の免疫システムの網にかからず体内で増殖を続けることができるのです。

 

 しかし、他人の体内で作られたパンドラウイルスが自分の細胞に感染するとそのパンドラウイルスは感染細胞のHLAを自分のHLAとは違う形に変化させてしまいます。すると自分のTリンパ球は感染細胞を認識し、そこで初めて免疫システムのスイッチが入り、パンドラウイルスに対する大量の抗体やナチュラルキラー細胞の活性化が起こります。それによって体内に潜んでいたパンドラウイルスは駆逐されてしまうのです。

 

 パンドラウイルスが血液中に存在するのは網膜に光刺激を受けてから24時間です。その間に性行為を行うと口腔粘膜や生殖器から微量の他人由来のパンドラウイルスが侵入します。それが自分の細胞に感染することによりTリンパ球がそれを認識して、免疫システムが活性化され、パンドラウイルスを駆逐し、呪いがとけるというわけです。

 

 先にビデオを見ていた人の血液中からはすでにパンドラウイルスは消失しているので、あとから見た人の体内には先にビデオを見た人由来のパンドラウイルスが侵入することはありません。そのためあとから呪いのビデオを見た人はまた新しい誰かに呪いのビデオを見せて感染させ(錐体細胞内でパンドラウイルスDNAを活性化させ)、その人由来のウイルスを体内にもらわない限り自分の中のパンドラウイルスは駆逐できないのです。

 

  終わり

 

 

« 「ゼウスの火」第2章(3/3) | トップページ | オウム返しの術 »

小説」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 「ゼウスの火」第3章、エピローグ:

« 「ゼウスの火」第2章(3/3) | トップページ | オウム返しの術 »

2024年8月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
無料ブログはココログ