小説タイトル

最近のトラックバック

日記・コラム・つぶやき

2014年1月 6日 (月)

オウム返しの術

オウム返しの術

 

先日テレビを見ていたらインコの特集をやっていました。

インコがどうして人間の声をまねることができるのかという疑問に対して科学的に検証していたのですが、興味深かったのは

「インコは一度つがいになると一生相手を変えずに添い遂げる。そしてオスは、つがいになったメスと同じ声で鳴くようになる」

ということです。

オスがメスと同じ声で鳴くことによりきずなが深まるわけです。

私はこの話を聞いて思わず笑ってしまいました。

それは少し前のテレビ放送で、夫婦が仲良く暮らしてく秘訣と称して「オウム返しの術」が紹介されていたからです。

夫が妻から相談を受けるときにはどのような返答をするでしょうか?

たとえば

「ねえ、お隣の奥さん、燃えるごみの中に不燃物を入れているのよ。どう思う?」

「うーん・・・それは本人も気づかないで出しているのかもしれないから、それとなく注意してみたら?」

「何言ってるのよ。お隣どうしでそんなことしたら角が立つじゃない。こういうことはちゃんと町内会長さんか班長さんにお願いして伝えてもらわないといけないのよ。あなたはゴミの分別なんてしたことないからわからないでしょうけど」

「・・・・(最初から結論が出ているのなら聞かなきゃいいのに・・・)」

 夫は相談されたことに対してきちんと方法を考えて伝えようとしたのに妻の答えは最初から決まっているようです。

 夫からすると最初から結論が出ているのなら聞かなきゃいいのに・・・と思ってしまうのですが・・・。

 このようなすれ違いはあらゆる場面で起こります。

「こっちの服とこっちの服、どちらが似合うと思う?」

 こんな質問も要注意です。

 妻の気持ちは最初から決まっています。

 妻が気に入ったほうと違うほうを勧めでもしたら・・・

「でも、こっちのほうがけばけばしくなくて落ち着いた雰囲気でしょ?やっぱりこっちがいいような気がするけど・・・」

「じゃあそっちにしたら?」

「なによ、あなたって全然真剣に考えてくれないのね!」

 ということになるのが目に見えています。

 夫からすれば妻からの質問に真剣に考えて自分なりの答えを誠意を持って伝えているのですが、妻の要求はそういうことではなく、自分の考えに共感してほしいだけなのです。

 ではこんな時にはどうすればいいでしょう?

 ここで登場するのが「オウム返しの術」です。

 これは「とにかく妻の言葉をそのまま繰り返しなさい」ということだそうです。

「隣の奥さん、燃えるごみの中に不燃物を入れてるのよ」

「燃えるゴミの中に不燃物を入れてるのか・・・それはいけないなー」

「そうでしょ?かといって直接注意するのも角が立つじゃない?」

「うん、直接注意したら角が立つよねー」

「だから町内会長さんにお願いしてそれとなく伝えてもらおうと思うんだけど・・・」

「町内会長さんにおねがいするのか、それはいいんじゃないの?」

 と、こんな具合です。

 夫婦円満に過ごしていくためには、夫は妻の言葉に共感の気持ちを持って接することが大切なようです。

 インコの夫婦が生涯仲良く添い遂げる秘訣もこのようなところにあるのかもしれない。などど考えて感心してしまったのでした。

 

 

 

2013年8月19日 (月)

不幸のエントロピー

 「エントロピー」という言葉をご存知でしょうか?

 日本語に訳すると「乱雑さ」になります。

 形がないものなのでちょっとイメージがつかみにくいですよね。

 

 コーヒーにミルクを垂らすと最初は1か所に固まっていますが次第に広がって全体に混ざっていきます。この状態を「エントロピーが増大した」と言います。

 すなわち、「エントロピーが増大した」とはきちんと整頓されていた状態からバラバラになった状態になることを意味します。

 整理整頓された部屋の中が徐々に乱雑になっていく状態も同様です。

 このように宇宙の原則としてエントロピーは徐々に増大する傾向にあるのです。

 

 さて、エントロピーの増大を防ぐためにはどうすればいいでしょうか?

 たとえば部屋の中が乱雑になれば掃除をすれば再び整理整頓された状態に戻ります。すなわち増大したエントロピーが減少することになります。

 このように増大したエントロピーは減少させることも可能ですが、そのためには「エネルギー」が必要なのです。

 誰かが部屋の中をきれいに掃除しない限り決して部屋は整理整頓された状態には戻りません。

 生物が死ぬと体の代謝がとまります。すると体の組織は徐々に崩れ始め、最終的には形をとどめなくなります。これもエントロピーの増大です。

 これを防ぐためには生物は食べ物を摂取してエネルギーに変え、代謝を持続し、エントロピーの増大を防ぐ必要があります。このようにエントロピーを減少させるためにはエネルギーが必要です。

 

 さて私事ですが、私はこの6月から医師会の大変な役職を請け負ってしまいました。とても私などがこなせるような仕事ではないのですが、逃げ切れずに押し切られてしまいました。

 自分の能力を超え、体力的にも時間的にも相当の忍耐を強いられることが明らかで、6月の私は不幸の真っただ中でした。しかし、落ち込んでいても事態が改善するわけもなく、あきらめて腹をくくって「与えられた仕事を自分の能力の限り一生懸命やろう」と決心してから世界が変わりました。

 確かに時間はないし体力的にもつらいのですが、新しい仕事を勉強しながら工夫してやっていくことにより自分の能力が向上し、それがとても新鮮で楽しいのです。私の不幸は幸福に変わっていきつつあるのでした。

「不幸は誰にでもやってくる。しかし不幸を不幸のままにするのも幸福に変えるのも自分次第」

 そんな言葉をかみしめている毎日です。

 

 さて、世の中には「不幸」がたくさんころがっています。

 まるで我々は「幸せ」が充満している空間に生活していて、その片隅に「不幸」の塊がおいてあり、徐々にそれが空中に漏れ出している・・・そんなイメージです。

 我々は必然的につぎつぎと不幸に出会うようになっており「不幸のエントロピー」は徐々に増大する傾向にあるのです。

 我々が何もしないでじっとしている限り我々には次々に「不幸」が訪れていきます。

 そんな不幸のエントロピーを減少させるためにはエネルギーが必要なのです。

 我々がエネルギーを使って努力をすることによって漂っている不幸をまた固めることができ、不幸のエントロピーを減少させることができるのです。

 

「何もしなくても不幸じゃない人だっている」

 そうかもしれませんがそれは自分以外の誰かがエネルギーを使って不幸のエントロピーを減らしてくれているのです。

 子供のころは親が不幸のエントロピーを減らしてくれます。

 親は莫大なエネルギーを使って子供が不幸になることを防いでくれます。

 病気にならないように衣食住を与え、必死にお金を稼いで子供が不幸にならないように努力します。時には莫大な遺産を残します。

 でもそんな親がいなくなれば不幸のエントロピーを減らすのは自分しかいないのです。

 不幸に出会ったときは大きなエネルギーを使って努力をしなければ幸福はやってこないのです。

 逆に言えば自分が大きなエネルギーを使って努力をすれば不幸を幸福に変えることができるということになります。

 そしてそれができるためには自分の中にエネルギーが十分あることが必要で、すなわち自分が幸福になるためには十分な休養をとり、心身にエネルギーを蓄えておくことも必要なのことなのです。

 

2013年5月 3日 (金)

車の中では見てはいけない「フランダースの犬」

 先日、家内の実家に帰省するときに車の中で「フランダースの犬」を見ていました。もちろん私は運転中なので画面はほとんど見ていないのですが、ラストの音声を聞いているだけで映像が頭の中に浮かんできてうるうるになってしまいます。こらえても「アベマリア」が流れてくると、もうどうにもなりません。

 今後、車の中では「フランダースの犬」は禁止とします。

 後ろの座席でボリボリとお菓子を食べながら平気な顔で見ている末娘もいずれはこんな感性を持ってこの作品を見るようになるのでしょうか?

 

 有名なお話なのであえて解説するまでもありませんが、10歳そこそこの主人公のネロには次々に不幸な事件が降りかかってきます。

 唯一の身内であるおじいさんが亡くなり、放火の犯人に間違われてみんなから白い目で見られ、絵のコンテストに落選して希望を失い、さらにはクリスマスの夜に住まいを追い出されてしまいます。

最後は雪の中をさまよいながら教会にたどり着いて倒れてしまいます。

 そして朦朧とする意識の中で、ずっと見たかったルーベンスの2枚の絵を偶然見ることができるのです(本当はお金を払わなくては見ることができない)。

 ネロはそのことに感激して幸せを感じながら、後を追ってきた愛犬のパトラッシュとともに息絶えるというストーリーです。

 周りから見ているととても不幸なネロの短い一生ですが、本人は幸福だと感じて天に召されていきます。幸福とは主観的なもの・・・ということでしょうか。

 

 さて、我々の多くはネロとは違い、そこそこ幸福な生活を送っています。しかしそんな中で漠然とした不安感を感じることはないでしょうか?

 「今は商売もうまくいっているが、いつトラブルに巻き込まれてしまうかもしれない。家族も元気だがいつか誰かが病気になって入院しなくてはいけないかもしれない。大きな地震が来たら家も壊れて住むところがなくなってしまうかもしれない。交通事故にあったら・・・。今のささやかな幸福は本当にもろいものなのだ。それが壊れてしまったらどうしよう・・・」

 そんな不安感をいつも持ち続けて生活していないでしょうか?

しかし、これらの事柄はどれも「不運」なことなのですが、降りかかってくる「不運」はすなわち「不幸」なのでしょうか?

 

 月曜日に仕事に行くときにはとてもつらい気持ちになりますよね?

 「もう一日休みがあったら・・いや、自分がお金持ちで仕事をしなくても暮らしていけたら、どんなに幸せだろうか?今の自分はとても不幸だ」

 毎週毎週そんな気持ちになってしまいますが、実際、職場にいって頑張って仕事を始めるとだんだん元気が出てきて普通に仕事をこなせるようになりますよね。

 そして帰るときには「ああ、今日も仕事ができた。よかった」そんな気持ちにならないでしょうか?

 実は一見不幸に見える出来事というものは、そのほとんどは自分が努力(我慢)をすることによって解消できるものなのです。逆に言えば、

 「幸せは人から与えられるものではなく、自分が努力してつかむもの」

 ということになります。

 

 我々が感じている不幸な出来事に対する漠然とした不安感は、実は「自分が不幸になること」に対してではなく、「努力をしなくてはいけないこと」に対する不安感なのです。

 ですから不運な出来事があっても「自分が努力してなんとかしてやる」という「覚悟」があればやってくる「不幸」など恐れるに足りず、不安を感じることなどないのでしょう。

2013年3月 6日 (水)

猫のおうち

最近自宅の玄関にときどき猫が座っています。

自宅が建つ以前の空き地の時にも時々やってきて、おしっこをしていった猫です。

サザエさんの家で飼っている「タマ」のような白い猫ですが、まるで

「ここはもともと私の土地」

と言わんばかりのふてぶてしい態度です。

もちろん私が前の地主さんからお金を出して買った土地なのですが、猫にすれば

「自分の土地に何をする?」

といった感じでしょうか?

猫の世界にも人間の世界と同じように猫の地主さんがいるのでしょう。

「どこかの飼い猫だろうか?」

と辺りを見回していたところ、近くに建築中の宅地の看板を見つけて思わずうなずいてしまいました。

そして字の読めない白い猫に教えてやりました。

「ほら、あそこがあんたのお家だよ」

その看板に書いてあったのは・・・

    『タマホーム』

2013年2月26日 (火)

パリスの審判

皆さんは「パリスの審判」のお話をご存知でしょうか?

ギリシャ神話の中の有名なお話ですが、ご存じない方のために簡単にあらすじを・・・

神々が参列する結婚式の会場に、ただ一人招かれなかった「不和の女神」エリスはそれに腹を立て、式場を混乱させる目的で「最も美しい女神に与える」と書いた黄金のリンゴを投げ入れました。

そこに居合わせた3人の女神、ヘラ、アテナ、アフロディーテは「そのリンゴは自分がもらうべきだ」と、ともに譲らずゼウスに詰め寄りました。

困ったゼウスは「トロイの王子、パリスという美しい若者に決めさせる」と言って逃げてしまいました。

3人の女神はパリスのもとに赴きます。そしてパリスに対して次のような約束を交わします。

ゼウスの妻であるヘラは

「私を選んでくれたらあなたにアジアの土地をすべて与える」

戦いの女神アテナは

「私を選んでくれたらこれからの戦いに勝ち続ける力を与える」

美の女神アフロディーテは

「私を選んでくれたらこの世で最も美しい人間の女性を与える」

そして若いパリスは・・・散々迷った挙句、アフロディーテを選んだのでした。

さて、その当時最も美しいとされたのはヘレナという女性でしたが、すでにギリシャの王の一人、メネラオスの妻となっていました。

アフロディーテの計らいでギリシャに赴いたパリスは美しいヘレナを見て一目で恋におち、そしてヘレナも美しいパリスに心を奪われるのでした。

パリスはこっそりとヘレナをトロイに連れて帰ってしまいます。

当然夫であるメネラオスは大変憤慨し、ギリシャの他の王達と一緒に軍艦の大軍を率いてトロイに攻め込みます。

ここからがトロイ戦争の始まりなのですが、ブラッドピット主演の映画「トロイ」をご覧になった方もおられるでしょう。

ギリシャ軍は堅固な城壁に囲まれたトロイを攻めあぐねていたのですが、ギリシャの策士オディッセウスの案で大きな木馬に兵士を潜ませ、トロイ軍が城壁の中に木馬を運び込んだ夜に、木馬から抜け出した兵士が門を開放し、ギリシャの大群がトロイの町に攻め込み、トロイは滅亡します。これが有名な「トロイの木馬」です。

さて、パリスがアフロディーテを選んだことが災いを招き、トロイは悲劇的な結末を迎えることになってしまったのですが、もし彼が他の選択をしたら歴史はどう変わったでしょうか?(紀元前1000年以上前のお話なので実話と神話が混ざっていますが、トロイの町は実際に遺跡が見つかっているので、ある程度実話だとされています)

ヘラを選び、パリスがアジアの王となったならば、トロイは歴史に残る広大な王国を築くことになったでしょう。

アテナを選び、パリスが戦いに勝ち続ける力を手に入れたとしたら・・・

彼はのちに出てくるアレキサンダー大王以上に歴史に残る王として語り継がれたでしょう。

パリスはどうしても美しい女性を手に入れたかったのですが、もしヘラを選んでアジアの王となっても美しい女性は手に入れることはできたでしょう。しかしそれでも戦いに勝つ能力は手に入れることはできません。

しかしもしアテナを選んだとしたら・・・

彼は周りの敵を次から次へと打ち破り、アジア以上に広大な世界を手に入れ、その結果美しい女性をも手に入れることができたでしょう。

すなわち、パリスはアテナが約束してくれた「戦いに勝ち続ける能力」を手に入れるべきだったのではないかと私は思うのです。

さて、「パリスの審判」を現代におきなおして考えてみます。

ヘラが約束した「アジアの王」は「巨万の富」に相当します。

アテナの「戦いに勝ち続ける能力」は「仕事ができる能力」に相当します。

アフロディーテの「美しい女性」は現代でも同じです。

あなたはどれを望みますか?

私は・・・「仕事ができる能力」があれば富も名誉も女性もすべて手に入れることができるように思うのです。

幸せな人生は「何かを持っているから」つかめるのではなく、「自分に与えられた能力を使って自分で掴み取るもの」ではないでしょうか?

ですから、「何かをあげます」と言われた時にはお金や物よりも「能力」を選択し、その能力を使って自分で努力して幸せをつかむべきなのだと思います。(でも、誰もそんな能力なんて与えてくれないんですけどね・・・結局その能力も自分で努力してつかむしかないのでしょう・・・)

(女性の場合には「お金持ち」と「仕事ができる男」と「イケメン」のだれを選びますか?という質問になるでしょうか?)

2012年12月 1日 (土)

舟をこぐのは誰?

 いよいよ衆議院議員総選挙の日が迫ってきました。

新しい日本のリーダーが決まるわけですが、皆さんは日本の総理大臣にどんな願望をお持ちでしょうか?

 

 「指導力がありしっかりした人に首相になってほしい」

 「税金を安くしてほしい」

 「社会保障の充実を・・・」

 「原発をなくすと約束してほしい」

 「雇用を充実させてほしい」

 

 毎年変わる日本の首相にうんざりしているわれわれ国民としては、いろいろの願望がありますよね。ぜひ、しっかりとした人(政党)を選びたいものです。

 

 さて、我々国民が「日本のリーダー(の所属する政党)」を選ぶわけですが、ここで我々が確認しておかなくてはならない大切なことが一つあります。

 それは

 「誰がリーダーになったとしても汗を流さなくてはならないのは我々国民である」

ということです。

 「日本丸」という我々が乗っている船を目的地に到着させるためにはリーダーが正しい方向に舵をとり、我々国民全員がオールを漕がなくてはならないのです。

 政治家に「○○してほしい」というだけでは何も先に進まず、国民一人一人が辛いことを我慢して汗をかかなくては何も変わりはしないのです。

 お金持ちも貧しい人も、若者も老人も、生活保護の人も、身障者も例外はありません。すべての国民が自分のできる努力をしていかなくては「日本」=「我々の生活」は決して良くならないのです。

「我々は○○してほしい。そのためにはどんな努力が必要ですか?」と問いかけなくてはならないのです。

 

 どのリーダーも決してモーターボートを持っているわけではありません。

 「私を選べばモーターボートで引っ張って目的地に連れて行ってあげますよ」

 そんな幻想を信じてはいけませんし、そんな政治家には決して投票してはいけません(3年前にそんなことを言いながら何もできず、最近政治家を辞めた人もいました。もう懲りましたよね)

 リーダーはあくまでも舵を取るだけで決してオールを漕いではくれないのです。

 リーダーが正しい方向に舵を向けても国民が一生懸命オールを漕がなければ日本丸は流れに流され、ほかの船にぶつけられ、どんどん下流に向かってしまいます(逆に国民が一生懸命オールを漕いでもリーダーが間違った方向に舵を切れば船は決して目的地にはつきません)。

 理想ばかり掲げてそこに到達するために我々がどんな努力をしなくてはならないかを全く説明しようとしない政党もありますよね。

 減税結構。原発ゼロ結構。でもそれを達成するために我々はどんな努力をしなくてはならないのですか?消費税や所得税を上げない代わりに我々はどんな我慢をしなくてはならないのですか?原発ゼロにするために国民は一人当たり毎年いくら払えばいいのですか?電気代が上がって企業の利益が減ると我々の給料はどのくらい減るのですか?その他に何を我慢すればいいのですか?

あなたの選ぶ政党はそれをきちんと説明していますか?新しいリーダーがモーターボートで我々を運んでくれると思っていませんか?

 

 「私が正しい方向に舵を取ります。皆さんは一生懸命オールを漕いで一緒に目的地を目指しましょう」

 そんなことを言ってくれる政治家を投票日までに探せるでしょうか。

 

2012年11月 9日 (金)

幸福の三原則

♪雨雨ふれふれかあさんが、車でお迎えうれしいな・・♪

我が家はこの4月に新居に引っ越しをしましたが、それに伴い末娘の小学校も転校となりました。

いままでは学校の横に住んでいたので歩いて30秒で学校まで行けたのですが、新しい学校は歩いて30分かかります。

最初はちゃんと通えるか心配していたのですが、この半年間、集団登校できちんと歩いて通学しているようです。

それでも雨風の強いの日は大変なので、帰りは家内が車で迎えに行くことが多いのですが、それで冒頭のような歌になったわけです。

もともとは、雨が降るとお母さんがジャノメ傘でお迎えに来てくれて一緒に帰るのが幸せ、という歌詞なのですが、末娘にすればお母さんと一緒に帰ることよりも雨にぬれずに車で帰れることが幸せということでしょうか・・・。

時代が変わるとともに歌の歌詞も変わってしまうようです。

さて、今日はその「幸せ」=「幸福」について考えてみました。

私は3つセットで考えることが好きなのですが幸福の3原則はこんなところでしょうか?

 

1)幸福は主観的なものである

2)幸福は相対的なものである

3)幸福は生物が存在するために不可欠のものである

 

 なんだか抽象的でピンときませんよね。

 

 皆さんは、「貧しくて日々の暮らしもやっとなのに自分は幸福だと考えている人」と「裕福で何不自由なく暮らしているのに自分は不幸だと考えている人」、どちらの人生を選びますか?

 「裕福なら自分は幸福だと思うから裕福な人生がいい」

 そんな答えは「なし」です。

 

 昔、楳図かずおさんの漫画でこんなお話がありました。

 何もしていないのに警察に捕まり、あす死刑の執行を受ける予定の男のところに不思議な力を持った女がやってきました。そして、その男に一生分の夢を見させるのです。

 優しい妻と結婚して、かわいい子供ができて、平凡だが楽しい暮らしをして、やがて子供は結婚し、孫に囲まれて一生を終える、そんな長年にわたる夢をほんの短い時間でみさせるのです。

 そして、その男はそのままそこで息絶えました。

 その死に顔は誠に安らかなものでした。

 

 無実の罪で死刑にされることはとても不幸なことです。

 しかしその人が幸福な一生を送ったことを実感できれば、その人にとっては幸福な人生なのではないでしょうか?

 このように幸福とは「主観的」なもので、自分が「幸せ」と思えば誰がどう非難しようがその人は幸福なのです。

 これは恋愛にも同じことが言えますよね。周りから見ると、

 「なんであんな人と・・・」

 と思うようなときもその人がいいと思えばそれでいいのです。

 要するに「幸せだと思った者が勝ち」ということでしょうか。

 

 さて、病気になった人は不幸ですよね。

 受験に落ちた人も、失恋した人も不幸でしょう。

 でも肺炎で入院した人の隣のベッドに肺癌の人が入院していたら・・・

 自分はなんて幸せなんだろうと思うでしょう。

 受験に失敗した人も、隣にいる人が「俺はこれで4年連続受験に失敗した」といえば、自分はまだ幸せだ、と思うでしょう。

 失恋した人も、恋人が交通事故で突然死んでしまった過去を思い出せば、あの時に比べたらまだ今のほうがまし、と思うでしょう。

 このように幸福とは相対的なものなのです。

 「あの人に比べれば・・・」

 「あの時に比べれば・・・」

 そんなふうに考えれば不幸だという思いもやわらぎます。

 どんなに不幸に見える状況でも自分が不幸だと思わなくなればしめたもの(幸福は主観的で相対的)

 自分が不幸だと思う時はもっと下を見ましょう。

 右手が動かなくなったら・・・両手がない人もいる。自分にはまだ左手がある。

 目が見えなくなったら・・・自分はまだ耳が聞こえる。ヘレンケラーは目も耳も不自由だった。

 商売に失敗して自殺したくなったら・・・癌で明日死ななければならない人もいる。自分はまだ健康な体がある。

 

 

 月曜の朝、仕事に行くのはつらいですよね。

 「仕事に行かなくてもよければいいのに・・」

 でも、もし病気をして仕事ができなくなったら・・・

  ご飯を食べることもできないし、子供を学校に行かせることもできない。

 自宅のローンも払えなくなる・・・。

 今日仕事ができるということはなんて幸せなことなのでしょうか?

 上を見たらきりがありませんよ。

 

 なぜ自分はあの人みたいにきれいに生まれなかったのだろう?

 あんなにお金持ちの家に生まれたらどんなに幸福な人生だろうか?

 

 何かを持っているから幸福なのではないのです。

 幸福とは「自分が持っているものを使って自分の力でつかむもの」なのだと思います。

 きれいな人はきれいなルックスを使って努力をしてモデルや女優になって幸福をつかみます。

 運動神経に恵まれた人は一生懸命練習して一流のアスリートになって幸福をつかみます。

 お金持ちの家に生まれた人は勉強してそのお金を使って事業を行い、苦労しながら幸福をつかみます。

 でも自分には何もない。金もないしルックスも才能もない。不公平じゃないか!

 そう思いますか?

 そうです。人生は不公平なのです。

だから? なんでしょう?

 もともと人生というのは不公平で、いっぱいものを持っている人もいるし、なにも持っていない人もいます。人生ってそんなものなのですよ。

 自分には本当に何もない。そんな自分は不幸だと思っているあなた・・・

 あなたは本当に何も持っていませんか?

 十分に動く手を持っていませんか?

 どこへでも行ける足を持っていませんか?

 なんでも見える目と、なんでも聞こえる耳を持っていませんか? 

 言葉しゃべれるでしょ?字、読めますよね?

 少なくともあなた、虫けらじゃなくて人間に生まれていますよね?

 

 自分は何も持っていないから幸福になれないと思っていれば幸福はやってきません。

 自分が持っているものを使って必死に努力すれば誰にだって幸福はやってくるのではないでしょうか?

 そして、もしもどんなに努力しても本当に幸福を感じる可能性がないとすれば・・・その生命にはもはや生きる意味はなくなってしまいます。

 認知症になっても、寝たきりになっても、家族の言葉やぬくもりを感じることができれば幸福を感じることができます。

 しかし脳死になって、何も幸福感を感じる可能性がなくなればその生命は生きている意味がなくなってしまうのです(家族など周囲の人にとっては意味があるかもしれません)

 日本の法律でも脳死は人の死として判断されるようになりました。

 これはその人がもう幸福を感じることがないということが根拠になっているのでしょう。

 人間に限らずどんな生物も栄養を摂取し、生殖し、危険から回避行動をとります。これはすべてその生物が幸福感を感じるための行動です。

 生物が生きていくためには幸福を感じるということが必須なのでしょう。

 

1)幸福は主観的なものである

2)幸福は相対的なものである

3)幸福は生物が存在するために不可欠のものである

 

 少し具体的なイメージになったでしょうか?

 

 

2012年6月29日 (金)

またまた歯医者に行く

先日歯医者に行ってきました。

家内との会話ですが・・・・・

「今日歯医者に行ってくる」

「どうしたの?」

「歯が欠けたから治してもらいに行く」

「いつ欠けたの?」

「1年前。我慢してたけど治りそうにないから行ってくる」

「・・・歯は自然治癒しないのよ・・・」

あなたの夫も医者の端くれですからそんなことは分かっているつもりなんですけどね・・・

でも・・・なかなか行けないんですよ。歯医者っていうのは・・・。

欠けた部分を少し削って詰めてもらうだけだと思っていたのですが・・・

レントゲンを撮ったら結構大きな虫歯になっていたようです。

痛くもなくて普通に噛めるのでついついほっておいてしまったのですが・・・

高血圧や糖尿で症状がなくて病院に来ない患者さんの気持ちがよくわかります。

結局しっかりと削ってもらって型を取って詰め物を作ってもらいました。

それにしても・・・

最近の歯医者さんは削るときにも麻酔をしっかりしてくれるのでとても快適です。

針を刺すときは少々痛いのですが、細い針でゆっくり麻酔薬を注射していただくとそれほど苦痛を感じません。

削っているときももちろん痛みがなくて、子供のころ、あれほど苦しんだのはなんだったのでしょうか・・

これなら歯医者が嫌いな子供はきっと減っていることでしょう。

私の歯は小さいころから虫歯だらけで、治していないところはほとんどなくなってしまったのですが、うちの3人の娘たちは虫歯は一本もありません。

いずれ厳しい母親に感謝する日がやって来るでしょう。

私も、毎日の仕事や家事で疲れ果ててソファーで横になっている家内を見ながら、心で感謝してこのブログを書いています。

いつもありがとう・・・。

2012年5月 6日 (日)

女性が幸せな結婚をするための3条件

次女が大学入学のため名古屋に移って1か月。

最初は身の回りのことでいろいろ連絡してきたのですがここ最近は全く連絡がなくなりました。

連休も(新しい友達と遊ぶことに?)忙しいらしく帰ってきません。

「生きてる?」

とメールしたところ

「ほい」

とだけ返事が・・・

ついでに、やはり連休には帰ってこない長女にも

「生きてる?」

のメール。

返事は

「バイト」

まあ、元気ならいいでしょう。

 

ところで、正月に家族でテレビを見ていたらこんな場面に遭遇しました。

江戸時代が舞台で、美しい下町の娘さんが若殿様に見初められ、プロポーズを受けるのです。

しかしその娘さんには幼馴染の恋人がおり、悩んでいるという設定です。

男性も二人ともイケメンです。

私はこれを見て

「当然若殿様でしょ?」

とつぶやいたところ、次女が

「そんなわけないやろ」

とむきになって反発してきました。

結局その後の展開で若殿様がとんでもない「女たらし」であることが発覚し、次女から「それ見たことか」と白い目で見られることになったのですが・・・

 

私には3人の娘がいるのでいずれ結婚していくわけですが、女性の結婚相手の条件について考えてみました。

 

私は一般女性が幸せな結婚をするために相手に望む条件は3つあると思います。

条件1)そこそこ収入があること、または将来そこそこの収入がみこめること

条件2)そこそこ健康であること

条件3)そこそこの年齢まで自分を大切にしてくれること

 

「そこそこってなによ!」

と言う声が聞こえてきそうですが、「そこそこ」は「そこそこ」なのです。

 

収入は大切です。

「愛があればお金なんて・・・」

なんていまどき誰も信じませんよね。

「お金なんて何とかなるから・・・」

鳩山さんのそんな言葉を信じて民主党に投票したあなた・・・もうわかりましたよね。

 

以前このブログで紹介した「お金の3原則」

1)お金がないことは不幸である

2)お金があれば幸福になれるわけではないが少なくともお金がないことによる不幸は避けることが出来る

3)お金があるとお金がないときより不幸になることがある

 

ということなのです。

大金持ちである必要はありませんが、生活費も稼げない男は結婚の対象になりません。

くれぐれも

「私が養ってあげるから・・・」

なんて途方もないことを考えてはいけません。

 

健康も大切です。

夫が入院ばかりしていれば収入もなくなりますし、明るい家庭を築くのは困難でしょう。

タバコを吸ってメタボを改善しようともしない短命な男は願い下げです。

ただ健康と障害は違います。

歩けなくても目が見えなくても健康なら十分幸せになることが出来ます。

 

自分を大切にしてくれることはもちろん大切です。

「そこそこの年齢までじゃなく、一生大切に思って欲しい!」

ですって?

おやおや、そんな贅沢を言ってはいけません。

「一生君を大切にする」

そんな言葉を信じて結婚を決めてはいけませんね。

「そこそこの年齢まででいいから・・」

と丁重にお断りしましょう。

どっち道、そこそこの年齢になれば、あなたにとっても相手はそれほど大切じゃなくなってしまうんですから。

そこそこは何歳かって?

さあ・・・40歳かも50歳かも60歳かも70歳かもしれません。

私に聞かれても困るんですけどね・・・。

 

この3つの条件をクリアした相手を選んで一緒に頑張っていけば、女性はだいたい幸せな結婚をすることができるでしょう(あくまでも私見です)。

イケメンじゃなきゃいや?

次男がいい?

年収の最低ラインは1000万?

そんなことはこの3つよりずっと下です。

この3つのどれかを無視して他の条件を上にあげて男を選べば幸せな結婚は望めませんよ。

 

あんたの娘にはそう教えているのかって?

そんなこと教えるはずないじゃないですか。

だって、どうせ娘っていうものは父親の言うことなんて聞かないんですから・・・。

きっと3人とも、見てくれのいい中身のない男を連れてくるに決まってますよ。

 

2012年3月31日 (土)

ゆとり教育終了

ゆとり教育が終わろうとしています。

子供たちの学力が低下したため、あわてて詰め込み教育に戻るようです。

しかし、そもそも授業時間を減らすことを決めた時点で学力が低下することはわかっていたのではないでしょうか?

学力が低下しても自主性や感性を養うという目的でゆとり教育が始まったのでしょう?

ゆとり教育で失われたのは学力。それは最初から分かっていたこと。

では得られたものは何ですか?

失われた学力のことばかり前面に出て、どうして得られたものに関する議論がないのですか?

それを検証しないでどうして詰め込み教育に戻るのでしょうか?

 

今回の原発事故で我々は多くのことを学びました。

日本中で原発反対の声が上がっています。

「あんなリスクの高いものはすぐに廃止すべき。再稼働などとんでもない!」

原発反対派の方々は原発のリスクや原発政策の不備を掲げてそう主張しますが、「原発がないリスク」に関して本当に検証されているのでしょうか?

 

原発の電力なしで本当に夏を乗り切れるのですか?

公共機関や病院の電力が急に落ちることはないのですか?

節電で熱中症になる人が出る可能性はないのですか?

企業や家庭の電気料の負担はどのくらいになるのですか?

企業が海外に移転して雇用が減ることはないのですか?

それらは我々が許容できる範囲の負担なのですか?

太陽光発電や風力発電で満足な電力が供給されるまでどのくらいかかるのですか?

 

それらの「原発がないリスク」をしっかりと見つめて、「原発のリスク」と比較して政策を決定するのが「正しい検証」ではないのですか?

 

原発事故で我々が学んだこと、それは原発の危険性だけではありません。

「検証なしに政策を進めることの危険性」を我々は学んだはずなのです。

「検証せずに原発を廃止する」ということは「検証せずに政策を進める」という意味において原発を推進してきたこれまでの日本と同じことをしようとしているのではないでしょうか?

 

私は原発推進派ではありません。

あんなものはなくなってほしいと思っています。

しかし原発がなくなって我々の生活が成り立たなくなるならばリスクは覚悟してしばらく原発と共存しなければならないと思います。

その検証をしっかりしてから政策を決めてほしいと思うのです。

我々は同じ過ちを繰り返してはなりません。

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー

2024年8月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
無料ブログはココログ