♪雨雨ふれふれかあさんが、車でお迎えうれしいな・・♪
我が家はこの4月に新居に引っ越しをしましたが、それに伴い末娘の小学校も転校となりました。
いままでは学校の横に住んでいたので歩いて30秒で学校まで行けたのですが、新しい学校は歩いて30分かかります。
最初はちゃんと通えるか心配していたのですが、この半年間、集団登校できちんと歩いて通学しているようです。
それでも雨風の強いの日は大変なので、帰りは家内が車で迎えに行くことが多いのですが、それで冒頭のような歌になったわけです。
もともとは、雨が降るとお母さんがジャノメ傘でお迎えに来てくれて一緒に帰るのが幸せ、という歌詞なのですが、末娘にすればお母さんと一緒に帰ることよりも雨にぬれずに車で帰れることが幸せということでしょうか・・・。
時代が変わるとともに歌の歌詞も変わってしまうようです。
さて、今日はその「幸せ」=「幸福」について考えてみました。
私は3つセットで考えることが好きなのですが幸福の3原則はこんなところでしょうか?
1)幸福は主観的なものである
2)幸福は相対的なものである
3)幸福は生物が存在するために不可欠のものである
なんだか抽象的でピンときませんよね。
皆さんは、「貧しくて日々の暮らしもやっとなのに自分は幸福だと考えている人」と「裕福で何不自由なく暮らしているのに自分は不幸だと考えている人」、どちらの人生を選びますか?
「裕福なら自分は幸福だと思うから裕福な人生がいい」
そんな答えは「なし」です。
昔、楳図かずおさんの漫画でこんなお話がありました。
何もしていないのに警察に捕まり、あす死刑の執行を受ける予定の男のところに不思議な力を持った女がやってきました。そして、その男に一生分の夢を見させるのです。
優しい妻と結婚して、かわいい子供ができて、平凡だが楽しい暮らしをして、やがて子供は結婚し、孫に囲まれて一生を終える、そんな長年にわたる夢をほんの短い時間でみさせるのです。
そして、その男はそのままそこで息絶えました。
その死に顔は誠に安らかなものでした。
無実の罪で死刑にされることはとても不幸なことです。
しかしその人が幸福な一生を送ったことを実感できれば、その人にとっては幸福な人生なのではないでしょうか?
このように幸福とは「主観的」なもので、自分が「幸せ」と思えば誰がどう非難しようがその人は幸福なのです。
これは恋愛にも同じことが言えますよね。周りから見ると、
「なんであんな人と・・・」
と思うようなときもその人がいいと思えばそれでいいのです。
要するに「幸せだと思った者が勝ち」ということでしょうか。
さて、病気になった人は不幸ですよね。
受験に落ちた人も、失恋した人も不幸でしょう。
でも肺炎で入院した人の隣のベッドに肺癌の人が入院していたら・・・
自分はなんて幸せなんだろうと思うでしょう。
受験に失敗した人も、隣にいる人が「俺はこれで4年連続受験に失敗した」といえば、自分はまだ幸せだ、と思うでしょう。
失恋した人も、恋人が交通事故で突然死んでしまった過去を思い出せば、あの時に比べたらまだ今のほうがまし、と思うでしょう。
このように幸福とは相対的なものなのです。
「あの人に比べれば・・・」
「あの時に比べれば・・・」
そんなふうに考えれば不幸だという思いもやわらぎます。
どんなに不幸に見える状況でも自分が不幸だと思わなくなればしめたもの(幸福は主観的で相対的)。
自分が不幸だと思う時はもっと下を見ましょう。
右手が動かなくなったら・・・両手がない人もいる。自分にはまだ左手がある。
目が見えなくなったら・・・自分はまだ耳が聞こえる。ヘレンケラーは目も耳も不自由だった。
商売に失敗して自殺したくなったら・・・癌で明日死ななければならない人もいる。自分はまだ健康な体がある。
月曜の朝、仕事に行くのはつらいですよね。
「仕事に行かなくてもよければいいのに・・」
でも、もし病気をして仕事ができなくなったら・・・
ご飯を食べることもできないし、子供を学校に行かせることもできない。
自宅のローンも払えなくなる・・・。
今日仕事ができるということはなんて幸せなことなのでしょうか?
上を見たらきりがありませんよ。
なぜ自分はあの人みたいにきれいに生まれなかったのだろう?
あんなにお金持ちの家に生まれたらどんなに幸福な人生だろうか?
何かを持っているから幸福なのではないのです。
幸福とは「自分が持っているものを使って自分の力でつかむもの」なのだと思います。
きれいな人はきれいなルックスを使って努力をしてモデルや女優になって幸福をつかみます。
運動神経に恵まれた人は一生懸命練習して一流のアスリートになって幸福をつかみます。
お金持ちの家に生まれた人は勉強してそのお金を使って事業を行い、苦労しながら幸福をつかみます。
でも自分には何もない。金もないしルックスも才能もない。不公平じゃないか!
そう思いますか?
そうです。人生は不公平なのです。
だから? なんでしょう?
もともと人生というのは不公平で、いっぱいものを持っている人もいるし、なにも持っていない人もいます。人生ってそんなものなのですよ。
自分には本当に何もない。そんな自分は不幸だと思っているあなた・・・
あなたは本当に何も持っていませんか?
十分に動く手を持っていませんか?
どこへでも行ける足を持っていませんか?
なんでも見える目と、なんでも聞こえる耳を持っていませんか?
言葉しゃべれるでしょ?字、読めますよね?
少なくともあなた、虫けらじゃなくて人間に生まれていますよね?
自分は何も持っていないから幸福になれないと思っていれば幸福はやってきません。
自分が持っているものを使って必死に努力すれば誰にだって幸福はやってくるのではないでしょうか?
そして、もしもどんなに努力しても本当に幸福を感じる可能性がないとすれば・・・その生命にはもはや生きる意味はなくなってしまいます。
認知症になっても、寝たきりになっても、家族の言葉やぬくもりを感じることができれば幸福を感じることができます。
しかし脳死になって、何も幸福感を感じる可能性がなくなればその生命は生きている意味がなくなってしまうのです(家族など周囲の人にとっては意味があるかもしれません)。
日本の法律でも脳死は人の死として判断されるようになりました。
これはその人がもう幸福を感じることがないということが根拠になっているのでしょう。
人間に限らずどんな生物も栄養を摂取し、生殖し、危険から回避行動をとります。これはすべてその生物が幸福感を感じるための行動です。
生物が生きていくためには幸福を感じるということが必須なのでしょう。
1)幸福は主観的なものである
2)幸福は相対的なものである
3)幸福は生物が存在するために不可欠のものである
少し具体的なイメージになったでしょうか?
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